言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

岡山に遊ぶ

2024年03月30日 09時08分16秒 | 評論・評伝
 先日、春休みを使つて岡山に遊んできた。


 初めて訪れた岡山は晴天に恵まれ、楽しい旅となつた。
 一日目は、岡山城と後楽園とを歩く。外国人の多さに驚いた。地方都市もすでに世界的な観光地になつてゐたといふことだ。平日に訪れるのはむしろ外国人の方が多いのかもしれない。
 ここの城主は宇喜多秀家、小早川秀家、池田光政と変はつたが、いづれも著名な大名たちである。西国に睨みを利かすそれなりの人物でなければ治められなかつたといふことだらう。戦国の山城から、平野に城を構えた先駆けであつたといふことも、時代の変化を鋭敏に捉へた証である。ただそれだけに目の前に流れる旭川の氾濫を受け、治水には苦労もしてゐたやうだ。現在の城は近代建築になつてゐるが、外形は当時のもの。形状の異形は旭川の蛇行によるらしい。かつては相当の暴れ川だつたといふことだらう。
 池田家は、途中から養子を迎へて家を守つてきたことにも驚いた。島津家や徳川慶喜からも養子を迎へてをり、岡山といふ地理が近代日本にとつて要所であることがうかがはれた。無知を承知で言へば、熊沢蕃山が当地で仕へてゐたこと。しかし、陽明学者の彼が幕府の公式学問である朱子学とは相容れないために当地を追はれたこと(家に戻つて調べると、娘の載は藩士池田武憲の妻に迎へられてゐた)、などを知つた。
 また、以前から岡山大学医学部の臨床医療の高さを聞いてゐたし、中四国では唯一私立医科大学(川崎医科大学)がある岡山の医療の質については、この池田家の治世による藩医の充実が背景にあるといふことも気づかされた。現代が歴史に支へられてゐる、そんな感慨を抱いた。




 翌日は、倉敷の大原美術館を訪ねた。美観地区まで歩いて行けるといふことも知らずにバスに乗らうとしたが、歩いて十分に行けるところだつた。ウェブサイトで調べた大原美術館にはさして惹かれるものはないと高をくくつてゐたが、それは気持ちよいほど裏切られる結果となつた。今、大阪で開かれるてゐるモネ展だが、ここにあるのはわざわざ大原美術館に収めるために描かれた睡蓮であると言ふ。モネ自身が影響を受けた日本に収める絵には格別の思ひがあつたやうで、時間をかけて入念に描かれた一枚である。これを見るだけでも価値はある。それ以外にもエル・グレコの「受胎告知」もゴーギャンの「かぐはしき大地」もルオーの「道化師」もポロックの「カットアウト」もあり、それらはどれも超一級品である。が、私にはそれらよりも児島虎次郎の「里の水車」がいちばんだつた。水車小屋で上半身がはだけ、乳を飲ませ終はつた母親とその胸の前ですやすやと眠る赤子、その斜め前には少し年の離れた娘が何かを見つめてゐる。薄暗い部屋に入口から光が差し込んでゐる。1906年の作品だと言ふ。しかし、その光は今見てゐるやうであつた。この一枚に出会つて幸福感に満たされた。一枚の絵の力に魅了された。
 そして、思ひもよらぬ出会ひがもう一つ。それは東洋館に甲骨文字が展示されてゐたこと。骨に象形文字が刻み込まれ、ひび割れを基に占ひをしたあとが残されてゐるのを初めて見た。このこともウェブサイトには全く書かれてゐなかつた。下から字を読むといふのはこれまで知つてゐたことと異なつてゐたが、それも気になり調べてみようと思ふ。東洋の文字の表記法が縦書きであるのはここから来てゐるだけに、気になつた。
 満喫の大原美術館であつた。

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