言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

江戸は二度死んだ。

2007年06月11日 07時08分23秒 | 日記・エッセイ・コラム

春信の春、江戸の春 春信の春、江戸の春
価格:¥ 840(税込)
発売日:2002-10
 昨日、国際日本文化研究センターの早川聞多教授とお話する機会があつた。国語問題協議会の評議員をされてをり、関西での今後の取り組みについて意見を頂戴するためである。話は、自然、どうして歴史的仮名遣ひを使ふやうになつたのかをお互ひに話すことになり、福田恆存の『私の国語教室』について触れることになつた。早川氏は、愛読者どころか、御尊父が歌人、画家であつたがゆゑに、福田先生が何度も御自宅を訪ねたと言ふ。そして、三百人劇場の経営を助けるために、絵画展をそこで開き、その売上はすべて寄付したとのことであつた。小林秀雄も、さうして訪ねて来られたし、白洲正子もいらしたといふ。

 日本の賢人が、足繁く通ふ家に育つた氏は、今は浮世絵を研究していらした。春画がその中心であるが、その展覧会は日本ではできないといふ。東欧では、すでに開いたが、日本では未だポルノとしてしか見られないのではないか、さう危惧してをられた。春画が持つ意味をどうにかして、照れることなく日本語で表現したい。さう語つてをられた。

 江戸といふ時代に対する評価をうかがつた。そこで出てきたのが、タイトルの「江戸は二度死んだ」である。一度は明治維新によつて、そしてもう一度は敗戦によつてである。福田恆存なら、関東大震災をあげるだらうが、いづれにせよ、江戸とは断絶されてしまつた。春画も仮名遣ひもさうである。

 私は、江戸礼讃に與するものではないが、興味深いお話は続いた。

 帰宅後、白洲正子の本を手にしたら、早川幾忠について書かれてゐた。新潮文庫の『遊鬼』の表紙絵は、その御尊父の描かれたものであつた。

遊鬼―わが師わが友
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遊鬼―わが師わが友

コメント (1)
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