言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

中村晋也の彫刻――祈り

2007年06月12日 19時49分54秒 | 日記・エッセイ・コラム

  前前から行かうと思つてゐた、中村晉也彫刻展にやうやく行くことができた。京都の京セラ美術館である。中村晉也美術館は鹿兒島にあるが、不覺にも九州にゐた頃は知らずに、行くことができなかつた。

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開催者の趣旨説明にかうある。

「『ミゼレーレ』に凝縮されるキリスト教的な無私の愛と献身、『シャカ十大弟子』に象徴される仏教の慈悲と調和の精神、東洋と西洋それぞれに祈りの形は違っても、その根底にある、人間を超越する偉大なものの存在を認め、その存在の前に謙虚になり、自らの弱さや至らなさを理解した上で、ひたむきによりよく生きようとする人間の姿には変わりない。」

  大正15年生まれの中村氏は、すでに80歳を越えてゐるが、今も制作をやめない。粘土を持つと手が動いてしまふといふのだ。藥師寺には、今年になつて二體の像が納められた。大東亞戰爭で友人達を失ひ、その鎭魂の思ひもあり、祈りはそのライフワークになつた。しかし、阪神大震災の慘状を見て、自分の「祈り」は甘いものだと知り、ミゼレーレの連作を始めた。またそのかたわら各地のキリスト教寺院に巡禮の旅を續け、佛教の世界に釋迦の弟子の名を冠した寺院がないことに氣附く。そこから、佛教の救ひに導く、弟子の姿を作らうと思ひ立ち、アーリア人の姿、形を求めてインドやネパールを巡り歩いた。その結晶が、「シャカ十大弟子像」である。

  像の印象は、どれも生命を感じるものであつた。私は今年三月に大阪で開かれた伊藤眞乘のことを書き、現代の佛像は顏が惡いと書いた。しかし、そのことを訂正したい。この彫刻家は佛像は彫つてゐないから、正確には言ひ切れないが、釋迦の弟子達の立像には心を打たれた。素晴しかつた。

  殘念ながら、6月15日で終了である。無料。

薬師寺 釈迦十大弟子
価格:¥ 6,300(税込)
発売日:2003-02

薬師寺 釈迦十大弟子

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