福田恆存は、かう言ふ。
「『現代かなづかい』においては、文字はかへつて音韻に不忠實になり、音聲學的にも必ずしも實際の音聲を寫してゐるものとは言へなくなつてしまつたのです。それは現象を寫すに急で、本質を寫しえてゐず、個々の音韻を寫さうとして、音韻體系を寫しえてゐないのです。が、音韻は音韻體系のうちにのみあるものなのです。」
「現象を寫すに急で、本質を寫しえてゐず」とあるのは、たとへば「躓く(つまづく)」を「つまずく」と表記する愚のことである。爪先(つまさき)を突(つ)くのであるから、「つまづく」が語の関連性を保ち、語意において本來的であるのに、それを[ZU]はすべて「ず」にするとひと括りにしてしまつたがゆゑに、さういふことが起きた。「突く」と「づく」との「音韻體系」内の關聯をまつたく無視した結果である。
日本語の音韻は、確かに不安定である。しかし、その不安定な日本語を表記するのに都合のよいのが、不安定な文字である「かな」である。それを音素に分解しても意味はない。
福田恆存は、かう言つてゐる。
「歴史的かなづかひを習つてきた私たちは、語中語尾の『は行』文字について少しも矛楯を漢字はしませんでした。文字と音とのずれなどと事々しく問題にする氣など起らなかつたのです。」
同書の別の所では、古代日本人は母音を語中語尾で使へなかつたと記してゐる。「思ふ」は「思う」とは言へなかつた。今でも母音は語頭意外では弱い音でしかないやうだ。たとへば地名を見ても、母音で終はる地名は少ない。東京を「とうきょう」と發音してゐる人は少なく、ほとんどの人は「とうきょー」と拗音(きょ)を長音化して發音してゐるはずである。
福井や仙臺にしてもそれぞれの末尾音を單獨で發音する時(「イ」)よりも、弱いのは頷けるところであらう。外來語にしても「イタリア」は「イタリヤ」に近づくし、「ロシア」は「ロシヤ」に近づいてゐる。
「本」といふ言葉にしても、「本も」「本の」「本が」の時の「本」では音がそれぞれ違ひ、m、n、ngと發音してゐるが、音聲學的には母音である。表記はいづれも「ん」であるのにたいして、音は三つもあり、それぞれ後の音に引つ張られて音を變へてゐる。母音が弱いとはさういふ意味である。
「『現代かなづかい』は個々の音韻に忠實であらうとして、國語の音韻體系そのものを破壞してしまつたのです。うはつらの表音を目ざして、かへつて表音的でなくなつたと言へませう。もし一字一音といふことが望ましいなら、歴史的かなづかひの方がさうだつたと言へる。」
かう記して、その後に続けて福田は、具體的に國語の音韻體系を示していく。