言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

言葉の救はれ・宿命の國語165

2007年06月04日 23時46分34秒 | 福田恆存

「私が『現代かなづかい』について最も不可解と思ふことは、『かかう(書)』『……ませう』『うつくしう(美)』などにおいて、それらの『か』『せ』『し』を『こ』『しょ』『しゅ』にしなければ表音的でないと考へた論者の音韻意識であります。また『こうり(公理)』『えいり(營利)』の『う』『い』をそのままにしておき、それを『お』『え』にしてはならぬと言ひながら、他方『こおり(氷)』『ねえさん』と書けといふ彼等の音韻意識であります。いづれも、いはゆる長音に關する問題ですが、まず後者について考へてみませう。『あ列』『い列』『う列』の長音の場合は、該當文字の下にそれぞれ『あ』『い』『う』を添へて書けばよいのに、なぜ『お列』『え列』の長音だけは『お』『え』でなく『う』『い』としなければならないのか。何物にも替へがたい表音といふ原則を破る以上、そこには必ず原則に隨ふとまづいことがあるに違ひないといふことになります。」

  具體的に言へばかういふことである。

「遊ぼう」は「遊ぼお」に發音され、「赤穗(あこう)」は「あこお」に發音され、「水泳(すいえい)」は「すいええ」に發音されるのに、發音どほりには書かない。表音式假名遣ひであるはずの「現代かなづかい」が、原則を破つてゐるわけで、「そこには必ず原則に隨ふとまづいことがあるに違ひないといふことになります」といふ言もうなづけよう。

  これらの言葉を歴史的かなづかひで書けば、「遊ばう」「あかほ」「すいえい」であり、表記と發音との關係は一定に保たれてゐる。

  國語には國語の音韻體系があるといふことに、なかなか納得がいかない人は現在もゐるやうで、書家の石川九楊氏などは、次のやうに記してゐる。

「『万葉集』や『古事記』によって書きとどめられたと言われる倭語なるものも、どこまでいっても漢字を借りた万葉仮名という枠組みで採用され、多くの発音上の微妙さや微細さが切り捨てられた上でのそれにすぎないのである。」

『二重言語国家・日本』

 日本の音韻など、中國語の發音を借りたものであつて、そもそもオリジナルなものではない。ましてや萬葉假名の時代と現代とでは發音自體が異なつてをり、かつての表記に縛られる必要などさらさらないといふのである。またぞろ中華册封體制下の言語理解であり、薄つぺらで稚拙なものであるが、これでも多くの日本人は、なるほどさうかと思つてしまふかもしれないので、訂正をしておく。

  福田恆存は、かう記してゐる。

「奈良朝を含めてそれまでの音韻の在り方は、當時用ゐられた萬葉假名といふものによつて解ります。それまでの日本には文字がなく、漢字の一つ一つをほとんどその意味と關係なしに音だけを借りながら始めて表記してゆくとなれば、當然自分の發音に注意深くなるでせうから、そこには音聲と文字とのずれは大してなかつたものと考へてよく、そのことは記紀萬葉に用ゐられた數萬の漢字を檢討しても推測しうるのであります。」

コメント
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