言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

言葉の救はれ――宿命の國語166

2007年06月07日 23時13分05秒 | 福田恆存

  表記といふことを始めて體驗した古代日本人は、それだけに「自分の發音に注意深くなる」はずで、「そこには音聲と文字とのずれは大してなかつた」と考へる方が、少なくとも私には自然である。石川九楊氏の主張と福田恆存のと、どちらが「人間」を捉へたものであるか、自明であらう。

  石川氏は、上代特殊假名遣ひを明らかにした國語學者の橋本進吉が、母音を八つとしたときの衝撃は、それは我々が「五母音をうっかり信じていた」からであるとし、それと同じことが古代においても言へるといふのだ。つまり、母音は當時の中國語の發音に當てはめて八つと理解されただけであつて、中國語の正確な音ではなく、「多くの発音上の微妙さや微細さが切り捨てられ」たと見るのである。しかし、それは本當だらうか。

  ひとつの傍證として、記紀萬葉假名には、「賀(ガ)・具(グ)・藏(ザ)・自(ジ)・受(ズ)・是(ゼ)・太(ダ)・遲(ヂ)・豆(ヅ)・提(デ)・婆(バ)・夫(ブ)・煩(ボ)」など濁音專用の文字があることを擧げておかう。古代日本語においては濁音は語頭に現れず、語中、語尾にのみ現れるので、平假名片假名には濁音專用の假名がなく、濁點があるだけである(ちなみに、今日の日本語は濁音は語頭、語中、語尾どこにも現れる。が、やはり濁點があるだけで、濁音專用の假名はない)。

  ところが、萬葉假名には濁音專用の文字がある。といふことは、當時の人々(記紀の編纂者)が聞き分けてゐたといふことであり、またそれに合ふ中國語の音や文字に通じてゐたといふことでもある(前掲『国語学概論』)。

  あるいはかうも言へようか。

  石川氏のやうに「多くの発音上の微妙さや微細さが切り捨てられた」とするならば、それほどの音韻把握力では、中國の漢字の原音を把握することもおぼつかなかつたはずである。しかしながら、記紀の編纂者は、橋本進吉が言ふやうに「き・け・こ・そ・と・の・ひ・へ・み・め・も・ろ・よ」の十三音を二通りに聞き分けてゐたのである。その微細な音分けを可能にした「耳」を信じれば、古代音韻をほぼ正確に書き留められたとして良いのではないだらうか。

  もちろん、石川氏の言ふやうに、「圧倒的な質量の中国語の流入によって形成を促進された日本語は、中国語の解読、翻訳を通して形成されていった言語」ではある。漢語なくして書記言語(話し言葉よりも書き言葉を重視する言語)としての日本語は成立しなかつた。そしてその事情は、今日も變はらない。いやそれどころか、漢字が入つて來てから、そのことは決定的な束縛となつてしまつた。

しかし、そのことは無文字時代の日本語が未熟なものであることも劣つてゐるものであることも意味してはゐない。中國語をつつみこみながら、語彙の數を増やしていつた日本語のメタ構造(構造を作り出す構造)は、なかなかしたたかで柔軟である。このことは、近代になつて、英語やその他の外國語を移入してゐる状況とも比することができる問題である。

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