三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

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海南島の朝鮮人兵士 19

2010年10月31日 | 海南島からの朝鮮人帰還
 三亜にあった第16警備隊の櫻砲台にいたという朴大愚さんの証言を聞いたあと、わたしたちは、三亜の鹿回頭角の山頂付近で、旧日本軍砲台跡をみつけましたが、それが櫻砲台であるかどうかは、確認できませんでした。  
 鹿回頭角の西側は、三亜港、東側は、楡林港です。楡林港口の東側に安由(現、安遊)があります。
 安由にも日本海軍の砲台がありました。日本敗戦後、中国軍が接収した「海南島南部地区(海南警備府第16警備隊管内)」の施設目録(防衛研究所図書館蔵『海南海軍警備府引渡目録』)には、鹿廻頭(南辺嶺)、馬嶺、龍友嶺にあった海南警備府第16警備隊の砲台の諸施設が挙げられています。
 安由砲台にいた大立目喜男氏は、つぎのように述べています(大立目喜男「海南島第十六警備隊安由砲台戦記」〈『海軍砲術史』海軍砲術史刊行会、1975年1月〉)。

     「1944年末特設空母大鯨に乗船、台湾を経て海防艦で海南島楡林港着、安
    由砲台に着任したのが1945年2月の初旬であった」、
     「安由砲台は楡林港の正面に位置し30mの丘の上にあった。丘の下には25
    mm機銃5基に高射装置に連動した12.7cm高角砲4門があり、砲台長大立
    目少尉以下約50名、予備役兵と韓国志願兵、台湾警備兵の他兵曹長、兵長
    の現役兵若干名の混成隊である」、
     「6、7月頃と記憶するが安由楡林地区で、最大且最後の戦闘攻防があった。
    グラマンを混えたB25の20機の大爆撃機と波状攻撃が数時間つづいた。我は
    機銃と高角砲の集中攻撃を行った。
      …………数時間の戦闘で当砲台に重軽傷者多数を出した」、
     「8月15日終戦となり残弾1万発余を残し、砲台は中国第86軍に引渡し、
    1946年4月LSTに乗船、和歌山県田辺港に復員した」。

 これによると、安由砲台にも朝鮮人兵士がいたようです。旧日本軍の安由砲台があった地域は、いまは、中国海軍によって管理されています。
                                  佐藤正人
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海南島の朝鮮人兵士 18

2010年10月30日 | 海南島からの朝鮮人帰還
■鄭明出さんが海南島から持ち帰ったもの 2
 鄭明出さんは、朝鮮軍人自営隊の綱領、隊標語、隊歌が書かれた用紙を海南島から持ち帰っていました。綱領も隊標語も隊歌も、すべて金吉俊さんがつくったものだと、鄭明出さんは話しました。
 朝鮮軍人自営隊の綱領と隊歌は、日本語に直訳すると、次のようになります。隊標語は原文のままです。

  綱領
    一、われわれ隊員は誠心と明朗をもって本隊自営に邁進すること。
    二、われわれ隊員は役員に礼を尽くし信頼し、隊則に違反せざること。
    三、われわれ隊員は質素団結し忍苦鍛錬し、模範隊として輝かせること。

  隊標語
    団結 明朗 健康 敬愛 自粛

  隊歌
    一、ああ朝鮮男児よ 朝鮮青年である
      独立した故国を 仰ぎみつつ
      自営隊万歳を 高く叫び
      熱血を集中して団結せよ
    二、ああ朝鮮男児よ 朝鮮の志士だ
      光り輝く故国に 祝福をささげ
      自営隊万歳を 高く叫び
      敬愛し自粛し邁進せよ
    三、ああ朝鮮男児よ 朝鮮軍人である
      栄光の故国を 防衛するぞ
      ハナニム(天)が保護するわが自営隊
      健康で明朗な自営をしよう

 鄭明出さんが海南島から持ち帰った朝鮮語で書かれた日録「印象深い軍解放後のわれわれの形跡」には、1945年11月14日、北黎に集結して「自営団」を組織し、11月19日、「八所集結(八所人民会協力移転)」と書かれています。八所には、先に人民会がつくられていたようです。
 この日録の1946年2月5日の項には、「自営隊対人民会和平諒解成立」、2月6日の項には「台湾自営総隊大運動会参加」と書かれており、「自営隊」と「人民会」のあいだになんらかの問題が生じたが解決したこと、「台湾自営総隊」がつくられていて朝鮮人との交流があったことがわかります。

 また、鄭明出さんは、自分が鎭海を出発してから八所にいたるまでの軌跡と年月日を示す手書きの地図一枚をつくっていました。「遭難明白地図」と題されたこの地図には、鎮海を出発した日が1944年8月11日、台湾の高雄に到着した日が8月29日、バシー海峡で沈没した日が9月9日と書かれています。
                               佐藤正人
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海南島の朝鮮人兵士 17

2010年10月29日 | 海南島からの朝鮮人帰還
■鄭明出さんが海南島から持ち帰ったもの 1
 鄭明出さんは、1946年4月に帰国するとき、朝鮮軍人自営隊の名簿、日本敗戦後に三亜・楡林地域に集まった朝鮮人の名簿、帰国船がでる楡林港近くの宿所前で撮影された110人ほどの朝鮮人の写真などを持って船に乗ることができました。
 鄭明出さんによると、ここに写っている人のなかには、「朝鮮報国隊」の人たちもいたそうです。写真は、日帝強占下強制動員被害真相糾明委員会が2006年12月に発行した『強制動員寄贈資料集』に収録されています。
 2種類の名簿の原本は、いま、日帝強占下強制動員被害真相糾明委員会が保管しており、「海南島強制連行帰還者名簿」と名づけられて、日帝強占下強制動員被害真相糾明委員会が2009年12月に発行した『強制動員名簿解題集1』で紹介されています。
 横須賀鎮守府第4特別陸戦隊に所属させられていた朝鮮軍人が日本敗戦後に結成した朝鮮軍人自営隊の名簿は4枚で、51人の隊員の名前、生年月日、故郷の住所、戸主の名前、趣味、役職(隊長、総務長、警務長、医務長……)が、日本海軍の用紙に手書きされています。この名簿は、朝鮮軍人自営隊の隊長であった金吉俊さん(一九二四年一二月二七日生、咸鏡南道端川郡端川邑)の指示で、鄭明出さんが、八所で作成したものだとのことです。
 日本敗戦後に三亜・楡林地域に集まった朝鮮人の名簿(以下、帰還者名簿とします)は22枚で、名前、年齢、故郷の住所のほかに、「海軍水兵長」、「海軍主計兵長」、「海軍機関兵長」、「運転員」、「整備員」「機関員」「甲板員」などという「職種」が書かれています。
 「発序」という文字が記された帰還者名簿の表紙には、青と赤の色がつけられた太極旗の中心の円が画かれ、その下に「愛国歌」の歌詞が書かれ、その左横に
     「高麗の大地の陽光が宇宙に輝くとき、高麗人よ、雄大な理想をもって、独立
    の闘士として闘おう。海南島三亜田独にいて、新国家の暁鐘を鳴らした人びと
    を、懐かしい故郷を、訪ねあてても、心に暁鐘を、○○きみたちを、忘れないで
    おこう。○○韓国 民楽国○○」(○の部分は文字が消えています)
と記されています。
 鄭明出さん、金吉俊さんの名前は、帰還者名簿にはありません。帰還者名簿は、三亜・楡林地域に集結した朝鮮人全員の名簿ではありません。2種の名簿で重複している人はいません。

 鄭明出さんは、自分の名札を3個持ち帰っていました。
 ひとつは、左上に赤青黒の三色で太極旗が書かれ、その横に黒色で「海南島南区韓籍軍人 Korean」、その下に黒色で「鄭明出 MyengChul Jyeng」と書かれているもの、あとのふたつは、「朝鮮軍人自営隊 第二班長 鄭明出」、「朝鮮軍人自営隊 情報長 鄭明出」書かれているものです。このイングランド語は金吉俊さんが教えてくれたものだとのこことでした。
 鄭明出さんは、「辞令 鄭明出 右者情報長을命함 民国三五年二月四日 朝鮮軍人自営隊長 金吉俊」と日本海軍の用紙に書かれたものを持ち帰っており、「朝鮮軍人自営隊 情報長 鄭明出」という名札は、1946年2月4日ころつくられたものだと思われます。
 
 このブログに、2010年5月1日、6月25日、27日、7月9日、10日に連載した、「朝鮮軍人自営隊」1~5を参照してください。
                                 佐藤正人
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海南島の朝鮮人兵士 16

2010年10月28日 | 海南島からの朝鮮人帰還
 わたしたちが、日本軍の兵士として海南島に行った朝鮮人に、はじめて会うことができたのは、朴泰愚さん(1925年生)でした。
 朴泰愚さんは、2001年4月に、ソウル市の自宅で、
     「わたしは、日本海軍特別志願兵の第一期兵だった。鎮海から海南島に行く途
    中、船が沈没して、フィリピンに行った。
     海南島では、海南警備府第16警備隊の櫻砲台高射砲部隊の射撃手だった。
    櫻砲台は三亜市の飛行場の近くにあった。第16警備隊に朝鮮人兵士は2人い
    た。第16警備隊の司令官は能美実だった」
と話し、「能美実」という文字を毛筆で書いて示してくれました。
                                       佐藤正人
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「海南島の記」

2010年10月27日 | 海南島史研究
 1941年1月から2月にかけて、日本海軍省は、侵入して侵略犯罪をくりかえしている日本軍将兵を激励する「文芸慰問団」を、中国南部(厦門、汕頭、広東)、海南島に派遣した。その団長は、海軍大佐古田中博であり、団員は、長谷川時雨、尾崎一雄、宮尾しげお、円地文子、小山勝清、熱田優子ら10人だった。
 かれらは、1月19日に海南島の首都海口に着き、海南島侵略日本海軍特務部の建物に1週間宿泊して、周辺の日本軍部隊を「慰問」したあと、軍用車で三亜に行き、さらに軍用車で、「分遣隊」を「慰問」するために保亭に行った。その時のことを円地文子(1905年~1986年)は、『婦人公論』1941年4月号に発表した「海南島の記」に、つぎのように書いている。

    「この討伐に尊い汗を――否、血を流した国民が、或いはその子孫が今から何
   年かの後、この道路が見事にとりひろげられ、沿道に日本人の施設した文化が美
   しく華咲くのを見たなら、どのような感慨にうたれるであろう」、
    「私は何度も海南島の討伐道路を自動車で走りながら、軽井沢の高原を思い、
   伊豆の海岸を思い起した」、
    「こうした従順な、しかし極めて民度の低い民をいかに取扱ったものかについ
   てもこの地で沢山の課題を授けられたように思う」、
    「奥地の山岳地帯に蟠踞している匪賊の討伐に従事する将士の労苦は想像の
   外と思わねばならぬ」、
    「海軍の設営隊の手で敷設された討伐道路がある。…………沿道の一木、一
   草、一塊の土にも石にも私達の同胞の流した血と汗が凝っているのを感じない
   ではいられない」。

 日本軍が海南島の民衆の生活を破壊し、海南島民衆からおおくのものを奪い、「討伐」と称して、民衆虐殺をくりかえしているさなかに、円地文子は海南島に侵入し、日本軍に護衛されて「海南島の討伐道路」を通過した。そして、大地と海を占領しようとする侵略者と戦う海南島の抗日反日戦士たちを、「奥地の山岳地帯に蟠踞している匪賊」と、火野葦平と同じコトバで表現しつつ、「私達の同胞の流した血と汗」や「匪賊の討伐に従事する将士の労苦」を語り、海南島民衆殺戮を肯定・煽動していた。
 「海軍省の計畫による海軍の文芸慰問団」の団長として円地文子らと海南島に侵入した海軍大佐古田中博は、1941年4月に、海軍館での海軍協会主催の講演会で、
    「この島の敵匪討伐を一手に引受けて居る陸戦隊の苦心、労苦といふものには
   全く涙ぐましいものが多く、感謝に堪えない」、
    「陸戦隊は山の中の第一線に入つて見ても、、実によく道を造つて自動車が通つ
   て居ります」、
と語っており(古田中博「海南島見たまゝ」、『海之日本』202号、海軍協会、1941年5月)、『海を越えて』(1941年6月号。日本拓殖協会)に掲載された「海南島見聞記」に、
    「海南島の土人達は無学低級の農民で、而もなまけもの」、
    「海南島こそは神様が、その開拓を大和民族にのみ残されて居たものと堅く信ず
   ると共に、之れを開発することは天意に報ゆるものと叫ばざるをえない」
と書いている。

 アジア太平洋戦争開始1年9か月後、1943年8月に東京で開かれた「大東亜文学者決戦会議」で円地文子は、
    「今日大東亜のこの決戦下に於いて日本の将兵が大君のため、御国のために
   生死を超越した見事な働きを戦線でなして居りますのも、過去三千年の輝かし
   い伝統を通して、平和の時には我々のうちに眠っているように見えます純潔な
   大和民族の血潮がこういう非常時の秋に蘇り、逞しく流れていると思われるの
   でございます」
とのべていた(櫻本富雄『日本文学報国会 大東亜戦争下の文学者たち』青木書店、1995年)。
 円地文子は1984年に『うそ・まこと七十余年』と題した自伝を出したが、そこには、1940年から「新体制運動」に積極的に参加していたときのこと、1941年1月~2月に「海軍省派遣の文芸慰問の旅行」をしたときのこと、「日本文学報国会」の女流文学者委員会の委員だったときのこと、1943年10月に「日本文学報国会」の「視察団」の一員として朝鮮に行ったときにおこなったことについては、具体的に何も書いていない。
 最悪の戦争犯罪者ヒロヒトは、1985年に、円地文子に、「文化勲章」を「授与」した。『うそ・まこと七十余年』出版の翌年だった。
 円地文子は、日本軍の「討伐」を全的に肯定・支持した過去を自伝から消し去り、海南島民衆にたいする「従順な、しかし極めて民度の低い民」というたぐいの発言を、死ぬときまで取り消すことがなかった。
                                    佐藤正人
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『海南島記』

2010年10月26日 | 海南島史研究
 一九三九年二月一〇日未明、海南島北部の天尾海岸に奇襲上陸した日本軍は、その日の真昼に、首都海口に侵入した。
 この日本軍に、日本陸軍軍曹火野葦平(一九〇七年~一九六〇年)は、「軍報道員」として加わっていた。
 火野は、「今度の海南島攻略は、銃火を以ってする戦闘とともに、重大なる文化の闘いであるとの意気込みを持った」、「軍報道員として、此の度の光輝ある海南島攻略に参加致しました」と言っている(火野葦平『海南島記』改造社、一九三九年)。
 火野は、二月一〇日未明に日本軍と共に天尾海岸に上陸し、途中戦車に乗って、その日のうちに海口に侵入した。侵入直後の海口で、火野は、中野実(一九〇一年~一九七三年。日本の「文学者」。当時日本陸軍伍長)らとともに、日本軍の宣伝ポスターやチラシを街頭で張って回ったり、紙に赤鉛筆で「ヒノマル」を書いて「部落の主だったところに貼るように指示」したりして、「重大なる文化の闘い」をおこなった。
 火野葦平と中野実は、海南書局と出版社のカギを壊して建物を占拠し、「軍報道部」の「看板」をかけた。火野は、そのことを恥じることなく、
     「竈には火が残り、茶碗や箸が散乱し、鍋には暖い飯が残っているのは、我々
    が入る直前まで誰か居たことが歴然としていた」
と『海南島記』に書いている。その建物の中の壁には、白墨で、「打倒日本」、「打破日本帝国主義」、「中国努力打日本鬼子死了」……と書かれてあったという。
 日本のマスメディアや火野のような日本軍宣伝員が、全面的に肯定的に報道しているとき、海南島侵略に怒りを感じた日本民衆、あるいは疑問を感じた日本民衆は、どのくらいいのだろうか。
 火野は、二月一〇日夕方、市場に行き、日本軍票をつかって豚肉や野菜や豆腐を買った。
 そのときのことを、火野は、
     「私達は市場に入りこんで買い物をしたが、その物価の低廉なのに先ず驚き、
    私達がどうであろうかと思って出した軍票を、支那商人が平気な顔ですぐに取
    ったのに更に意外の感を抱いたのである」
と書いている。
 このとき、市場の人は、突然侵入してきた日本軍の兵士がつきだしてくる、見たことのない紙切れを、紙幣として受けとらざるを得なかったのではないか。
 その後も、火野は、軍票を使っている。あるレストランの店主は、火野や中野らが集団で飲み食いしたあと、軍票で支払おうとしたとき、「なんぼでもよい、どうでもいいようにしてえ下さい」と言ったという。
 軍の暴力なしには、金額が印刷された紙切れである軍票を紙幣として流通させることはできない。
 火野葦平がこのとき海南島にもちこんで使用した日本軍票は、日本軍が、一九三七年一一月から使い始めた「甲号軍用手票」であった。一九三七年七月七日の「盧溝橋事件」の後、日本軍は八月に上海に大規模に侵入した。つづいて、さらに一一月五日に杭州湾北岸の金山衛に大量の日本軍が奇襲上陸した。その二週間前の一〇月二二日に日本政府は、軍票発行を閣議決定していた。
 一九三七年一一月五日に金山衛に上陸し南京に向かった日本軍が使用した「甲号軍用手票」の裏面には、漢語で「此票一到即換正面所開日本通貨」と印刷されていた。だが、それは、偽りであった。一〇月二二日閣議で決定された「軍用手票発行要領」では、「軍票と日本通貨との引換えは当分の間行なわないものとする」とされていた(『図録 日本の貨幣 一〇』東洋経済新報社、一九七四年)。
 火野葦平は、一九三九年二月一〇日に海南島に侵入する一年三か月前、一九三七年一一月五日に日本陸軍一八師団一一四聯隊の兵士(伍長)として金山衛に上陸し、一二月一四日に南京に侵入していた。日本軍が南京で大規模な民衆虐殺を開始したのは、一二月一三日(あるいは一四日)であった。
 『海南島記』や「海南島記(十日間の報告書)」(『文芸春秋』一九三九年四月号)のなかで、火野は、海南島民衆を、「土民」、「土民達」、「五指山中に居る蕃族」と呼び、「南洋の土人に近い表情を湛えていた」と表現し、日本の侵略を阻止しようとして戦う抗日反日戦士たちを、「奥地に蟠居して居た共匪」と言っていた。
                                    佐藤正人
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海南島の朝鮮人兵士 15

2010年10月25日 | 海南島からの朝鮮人帰還
■金元植さんのこと 2
 日本が海南島を占領していた時、海南島東南部の陵水黎族自治県新村の「治安維持会」副会長兼秘書長であった趙向盈さん(1918年~2005年)は、日本敗戦後、中国軍に逮捕されました。
 わたしたちは、2000年3月に、趙向盈さんに話を聞くことができました。
 そのとき、趙向盈さんは、新村海岸の日本海軍特攻艇(震洋)基地跡の近くで、つぎのように話しました。

 新村には、日本軍人30人、工兵200人、特攻隊員100人ほどがいた。工兵は、労働者とは違う。特攻隊長の名は、辻。課長は、高橋。特攻艇を格納するトンネルは、日本から特攻隊員が来る前に、田独から来た朝鮮人が掘った。
 新村に慰安婦がいた。10人くらいだったが、4、5人が朝鮮人だった。三亜から連れてこられていた。慰安所の主人は、日本人で、日本軍が管理していた。
 わたしは治安維持会副会長だったので、日本が投降したあと、国民党の裁判を受け、海口の刑務所に入れられた。
 海南海軍特務部総監を殺した朝鮮人金元植とそこで会った。
 かれは、朝鮮同郷会会長で、年は35歳くらいだった。わたしに、“判詞”(判決文)を見せてくれた。上訴するのに、いっしょに相談もした。金元植は監獄から脱走した。わたしはその一週間後、出された。
 海口の刑務所には、1000人入れられていた。徐龍燮、金龍成という朝鮮人もいっしょだった。その後、偶然、海口で飲み屋をしていた友人の店で、ふたり会った。ふたりは歌が上手で手品もうまく、演技団に入って、日本占領時代に海南島に来たといっていた。
 海口に“大韓民国同郷会”があった。そこで、わたしは、朝鮮人の数を調べたり、帰国の仕事、整理、記録などを少し手伝ったことがある。
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海南島の朝鮮人兵士 14

2010年10月24日 | 海南島からの朝鮮人帰還
■金元植さんのこと 1
 連載中の「海南島の朝鮮人兵士」の7で、「ソウルで金永振さんと李西根さんに話を聞かせてもらっているとき、金元植さんを知らないかと尋ねました。すると、李西根さんは、ふたりと同じく日本海軍鎮海警備府の第1期特別志願兵となったあと海南島に行ったAさんなら知っているだろうと言って、さっそくその場でAさんに電話してくれました」と報告しましたが、そのときのAさんの証言の内容は、つぎのとおりです。
 この証言のなかで、Aさんは、「逃げたので、刑期が6か月増えた」と語っていますが、1946年3月16日の広東瓊山地方法院の金元植さんに対する判決文の記述と一致しています(「海南島の朝鮮人兵士」の7を見てください)。
 「朝鮮報国隊」に入れられて海南島に連行されて生き残った人たちは、日本敗戦後、朝鮮人民連合会・朝鮮人民会に参加しました。金元植さんは、その1人であったかもしれません。

 金元植とは解放後、海口ではじめて会った。
 美男だった。金元植は白い革靴を履いていた。中国人と結婚していた。
 報国隊で海南島に来たと言っていた。三亜、楡林の鉱山に1000人で来た、韓国で刑務所にいて、海南島の鉱山に来たと言っていた。やくざ出身だ。事務職で来たのか、労務職で来たのか、よく知らない。
 金元植は、海口で、日本軍の特務部の溝口を射殺した。食料を寄こせといったが、寄こさないので……。
 金元植の友人に「アオキ」という男がいた。韓国人だ。「アオキ」もやくざで、金元植の報国隊の友人だ。
 金元植が逮捕されたあと、「アオキ」は、金元植を助けるといって、帰国船に乗らなかった。
 金元植は10年の懲役だったが、復員船が出る直前に「アオキ」の助けで逃亡したが、金元植は足が悪かったので、また捕まって、再収監された。逃げたので、刑期が6か月増えた。
 その後は、ふたりともどうなったか知らない。
 「アオキ」は、団成社劇場と関係があった。
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海南島の朝鮮人兵士 13

2010年10月23日 | 海南島からの朝鮮人帰還
■金永振さんの証言
 2010年10月5日に、ソウルで、金永振さんと李西根さんから聞かせていただいた話の概要は、同じに日このブログで報告しましたが、以下に、そのときの金永振さん(1924年11月15日生)の証言内容をよりくわしく報告します。

 18歳のとき海軍特別志願兵に志願した。19歳になったら陸軍に連れていかれる。陸軍はきつい。だったら海軍に行ったほうがましだと考えていた。試験に合格して、鎮海にあった日本海軍の海兵団の1期生になった。  
 6か月の「訓練」のあと卒業し、卒業のときに「所属」が決められ、日本海軍佐世保鎮守府第8陸戦隊に「配属」された。
 1943年夏に、鎮海から海南島に向かったが、船がバシー海峡で沈没した。生き残って、マニラからサイゴンに行った。
 サイゴンからジャンクで海南島に行った。ジャンクは、4~5人乗りの小さな船だった。
 三亜に上陸し、三亜からトラックで日本海軍海南警備府佐世保鎮守府第8陸戦隊の司令部のある嘉積に行った。
 いっしょに行ったのは16人で、全員韓国人だった。
 それからずっと嘉積にいた。警備班にいた。
 嘉積の軍人は、毎日「討伐」に行った。討伐に行くときは、日本軍人だけ行った。
 わたしは行かなかった。討伐は、毎日行く。卒兵だから、経験がないから連れて行かないのだろうと思っていた。
 日曜日は外出して、酒を飲んだりした。酒は焼酎に似たもの。食べ物は、ビーフン、魚、牛肉など。パイナップルもあった。ことばが通じないから、じぶんたちで、食べるだけだ。お金は軍票で払った。
 物価は、サイゴンが少し高かった。
 嘉積には兵隊は200人くらいいた。朝鮮人は16人。みな鎮海の1期生だった。
 海南島から故郷に給料を送った。受けとったのかは知らない。
 1年くらいたって、日本が降伏したと聞いた。上官から正式に聞いたのではなく、うわさのように伝わってきた。
 翌年の4月に帰国した。家族は、わたしは死んだと思っていた。
 韓国軍に、はいった。そこで、李西根に再会した。
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海南島の朝鮮人兵士 12

2010年10月22日 | 海南島からの朝鮮人帰還
■李西根さんの証言 2
 東山にいるとき、日本が敗けた。東山の軍事施設を中国軍に引き渡して、そこにいた人たちがそのまま、加来に行った。加来には2か月いた。加来には飛行場があった。
 日本が敗けたあと、日本軍は、海口、瓊山、三亜の3か所に集まった。瓊山と海口には舞鶴特別陸戦隊と15警備隊が集まった。
 わたしは瓊山に行った。瓊山では、中国軍が瓊山師範学校を接収して、収容所にしていた。
 収容所は、朝鮮人、日本人はいっしょだったが、朝鮮人の区域と日本人の区域は別で、鉄条網で仕切られていた。日本人が入れないようにだ。日本人は外出できなかったが、朝鮮人は自由だった。
 外出したかったら、外出願いを出した。わたしがそれを持って中国人の大尉に出し、サインをもらった。
 わたしは朝鮮人の責任者だった。
 日本軍の司令部も瓊山に収容されていた。そこに行き、伍賀中将に会った。1946年の1月か2月はじめだ。
 わたしは、伍賀に、日本軍は3月に戻るのに、なぜわれわれはすぐに韓国に帰国できないのか、早く帰国できるようにしろ、と言った。伍賀は、復員計画にしたがって帰ることになっている、朝鮮人も1か月後には戻るから待て、と答えた。
 不安だし、信じることもできず、わたしは、すぐに帰国できないなら半年分の食料を渡せ、と言った。食料は、よこした。日本軍は、食料を持っていたから。
 韓国に戻るとき、瓊山に終結した人たちもいったん海口に行き、海口に終結した人たちといっしょに船に乗った。中国の検疫を受けなくてはならないから、1か所にあつまった。
 中国軍人が両側を見守るなかで、荷物を降ろし、上着1枚、ズボン1枚、パンツ2枚、決められた枚数、種類だけ持ち、船に乗った。
 日本の軍人は1か月前に帰っていた。
 船は、リバティ号だった。
 4月のはじめに乗船した。南下して三亜に行った。
 (この船でいっしょに戻ったのは)軍人、一般人、徴用された人たちだった。舞鶴鎮守府第1特別陸戦隊の軍人は44人だった。鎮海から海南島に向った海軍志願兵は多かったが、帰る船に乗っていたのは、150人ほどだった。
 海南島から乗った女性は28人か30人で、慰安婦ではない女性たちだった。仲居、日本人と結婚した朝鮮人の女性。大部分が日本から海南島に行った女性。復員計画にしたがって、日本に住んでいた人でも、朝鮮人は、朝鮮に戻ることになった。
 日本人は、軍人ではない軍属の民間人女性4人がいっしょに乗船した。暗号解読の女性たちだった。
 三亜から広州に寄った。そこでも韓国人が乗った。1000人くらい、乗った。広州からは慰安婦の女性たちも乗った。
 広州から乗った朝鮮人の総責任者は、崔徳新。「朝鮮士兵集訓総隊」と書いたのぼりを持って乗ってきた。
 広州から乗船する前に、崔徳新とは何回も会議をした。それで、「朝鮮士兵集訓総隊」のことを知った。
 釜山でコレラが発生し、収まるまで上陸できず、1か月、船に乗って海上で待っていた。上陸したのは、4月24日。
 平安南道安州の故郷に戻ったが、ここでは生きておられないと思って、逃亡した。わたしは6人兄弟の長男だ。
 最初1人で南に来たが、あとから3人の弟が来た。両親、ふたりの兄弟は、故郷に残った。それからずっといままで会っていない。
 南にきてから、韓国軍にはいった。
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