三亜にあった第16警備隊の櫻砲台にいたという朴大愚さんの証言を聞いたあと、わたしたちは、三亜の鹿回頭角の山頂付近で、旧日本軍砲台跡をみつけましたが、それが櫻砲台であるかどうかは、確認できませんでした。
鹿回頭角の西側は、三亜港、東側は、楡林港です。楡林港口の東側に安由(現、安遊)があります。
安由にも日本海軍の砲台がありました。日本敗戦後、中国軍が接収した「海南島南部地区(海南警備府第16警備隊管内)」の施設目録(防衛研究所図書館蔵『海南海軍警備府引渡目録』)には、鹿廻頭(南辺嶺)、馬嶺、龍友嶺にあった海南警備府第16警備隊の砲台の諸施設が挙げられています。
安由砲台にいた大立目喜男氏は、つぎのように述べています(大立目喜男「海南島第十六警備隊安由砲台戦記」〈『海軍砲術史』海軍砲術史刊行会、1975年1月〉)。
「1944年末特設空母大鯨に乗船、台湾を経て海防艦で海南島楡林港着、安
由砲台に着任したのが1945年2月の初旬であった」、
「安由砲台は楡林港の正面に位置し30mの丘の上にあった。丘の下には25
mm機銃5基に高射装置に連動した12.7cm高角砲4門があり、砲台長大立
目少尉以下約50名、予備役兵と韓国志願兵、台湾警備兵の他兵曹長、兵長
の現役兵若干名の混成隊である」、
「6、7月頃と記憶するが安由楡林地区で、最大且最後の戦闘攻防があった。
グラマンを混えたB25の20機の大爆撃機と波状攻撃が数時間つづいた。我は
機銃と高角砲の集中攻撃を行った。
…………数時間の戦闘で当砲台に重軽傷者多数を出した」、
「8月15日終戦となり残弾1万発余を残し、砲台は中国第86軍に引渡し、
1946年4月LSTに乗船、和歌山県田辺港に復員した」。
これによると、安由砲台にも朝鮮人兵士がいたようです。旧日本軍の安由砲台があった地域は、いまは、中国海軍によって管理されています。
佐藤正人
鹿回頭角の西側は、三亜港、東側は、楡林港です。楡林港口の東側に安由(現、安遊)があります。
安由にも日本海軍の砲台がありました。日本敗戦後、中国軍が接収した「海南島南部地区(海南警備府第16警備隊管内)」の施設目録(防衛研究所図書館蔵『海南海軍警備府引渡目録』)には、鹿廻頭(南辺嶺)、馬嶺、龍友嶺にあった海南警備府第16警備隊の砲台の諸施設が挙げられています。
安由砲台にいた大立目喜男氏は、つぎのように述べています(大立目喜男「海南島第十六警備隊安由砲台戦記」〈『海軍砲術史』海軍砲術史刊行会、1975年1月〉)。
「1944年末特設空母大鯨に乗船、台湾を経て海防艦で海南島楡林港着、安
由砲台に着任したのが1945年2月の初旬であった」、
「安由砲台は楡林港の正面に位置し30mの丘の上にあった。丘の下には25
mm機銃5基に高射装置に連動した12.7cm高角砲4門があり、砲台長大立
目少尉以下約50名、予備役兵と韓国志願兵、台湾警備兵の他兵曹長、兵長
の現役兵若干名の混成隊である」、
「6、7月頃と記憶するが安由楡林地区で、最大且最後の戦闘攻防があった。
グラマンを混えたB25の20機の大爆撃機と波状攻撃が数時間つづいた。我は
機銃と高角砲の集中攻撃を行った。
…………数時間の戦闘で当砲台に重軽傷者多数を出した」、
「8月15日終戦となり残弾1万発余を残し、砲台は中国第86軍に引渡し、
1946年4月LSTに乗船、和歌山県田辺港に復員した」。
これによると、安由砲台にも朝鮮人兵士がいたようです。旧日本軍の安由砲台があった地域は、いまは、中国海軍によって管理されています。
佐藤正人