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三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

『会報』68号・23号合併号発行のおしらせ

2023年11月15日 | 『会報』
■『会報』68号・23号合併号発行のおしらせ■
 2023年10月10日に、三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・裵相度)の追悼碑を建立する会の『会報』68号と紀州鉱山の真実を明らかにする会の『会報』23号の合併号を発行しました。
 内容は、つぎのとおりです。

      三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・裵相度)の追悼碑を建立する会
            http://www5a.biglobe.ne.jp/~kinomoto/
      紀州鉱山の真実を明らかにする会
            http://www.kisyukouzansinjitu.org/index.html
表紙 
  【写真】:1994年11月20日、李基允氏と裵相度氏を追悼する碑の除幕。右側、裵相度氏の孫、裵哲庸氏
2頁:李基允氏と裵相度氏を追悼する集い、30回目をむかえて
   秋夕を迎えて(2023年10月1日)  裵哲庸   
3~8頁:李基允氏と裵相度氏を追悼する集い、30回目をむかえて
  30回目の追悼集会にあたって  嶋田実
  木本事件から  郭政義
  李基允氏と裵相度氏を追悼するつどい、30回目をむかえて  宇恵悟
  この時代を生きる私たちに今、何が問われているか  米持匡純、
  日本の植民地責任を学び、語り継ぐ場として  岩脇彰
  追悼碑が建設されてから30年  佐藤正人
9頁:2022年の追悼集会
  追悼集会に参加して思うこと  洪光子(在日本大韓民国民団三重県地方本部副団長)
10頁:「木本事件」の朝鮮人側弁護人、竹内金太郎  金靜美
11~14頁:関東大震災虐殺2年4か月後の朝鮮人虐殺  三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・裵相度)の追悼碑を建立する会
  【写真】①『朝鮮日報』1926年2月4日夕刊「放置された惨死体には「無心のからすが群がる」(「事件」を伝える記事)
      ②李基允氏と裵相度氏を追悼する碑 1994年11月20日、建立 
      ③2010年3月28日、紀州鉱山で亡くなった朝鮮人の名前が書かれた石たち 
      ④「日寇時期受迫害死亡工友紀念碑」。石原産業が経営していた田独鉱山にある碑。1948年4月、海南鉄礦田独礦区の労働者が建てる。周辺には人骨が大量にあったという。ここには、大勢の人海南島住民も強制連行され、“あそこに行けば戻ってこられない”といわれた。
15~17頁:「木本事件」と紀州鉱山への朝鮮人強制連行にかんする写真パネルと解説パネルについて  金靜美                                   
18頁:『熊野市史』と図書館巡り  大谷祐子
19頁:平和のための戦争展わかやまで  ―「木本事件」と紀州鉱山に強制連行された朝鮮人にかんするパネルを展示―   金靜美                              
20頁:本の紹介『일분군 ‘위안부’  피해자 김옥주 구술자료집 』한국정신대연구소 엮음 (『日本軍‘慰安婦’被害者 金玉珠 口述資料集』韓国挺身隊研究所編、韓国女性人権振興院刊、2022年12月)  金靜美
21頁:海南島近現代史研究会第14回総会・第26回定例研究会について  佐藤正人
23~24頁:板屋の「紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する碑の「追悼碑建立宣言取り付け台」入れ替え工事とその作業撮影  宇恵悟
  【写真】:①崩壊した「追悼碑建立宣言」台
       ②作り直された台(2021年3月)
       ③兪柄煥さん、首藤さん、秦さん
       ④仲曽根さん(2023年9月13日・14日)
       の名前が書かれた石たち

B5版 24頁。 定価 200円(送料140円)
     連絡先 和歌山県海南市日方1168 紀州鉱山の真実を明らかにする会
     郵便振替口座記号番号 00920-3-247174 
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■李基允氏と裵相度氏を追悼する集い、30回目をむかえて■

2023年11月14日 | 『会報』
■李基允氏と裵相度氏を追悼する集い、30回目をむかえて■
               
■30回目の追悼集会にあたって  嶋田実
 熊野の地に石碑となる石を運び込み、お二人の追悼碑を建立し、1994年11月に行なった除幕集会を行ってから30回目の追悼集会が開催されます。 この30年で変わったこと、変わらないことがあるように思います。 人が年を重ねるとともに世代も少しずつ変わる中で、日本の若者を中心に韓流ブームは盛り上がりを続けているが、彼らは過去の歴史的なことはおそらく知らないでしょう。 熊野市に住む韓流好きな若者たちも、木本事件のことは知らないのではないか。
 変わっていないことのひとつが熊野市の対応です。 熊野市は、朝鮮人虐殺を「素朴な愛町心の発露」とした『熊野市史』の抜本的な書き換えや見直しに関することを一切行おうとはせずに、この姿勢は全く変わっていません。 『熊野市史』の問題点を引き続き、広く知らしめる取り組みを変わらず行う必要があると思います。


■木本事件から  郭政義            
 三重県熊野市木本町にある古びたトンネルの出口の片隅に慰霊碑が建てられたのは1990年代であったと覚えている。
 今では車もあまり通らない道路の土手に在日朝鮮人と日本人が歴史を掘り起こし協力して建てたものだという。 ムグンファも何気なく咲いている。
 単なる碑とは思えない。 当時の貴重な資料や証言をあつめて建てられた、振り返るべき歴史の一里塚のように思える。
 地域の住民たちとの些細な諍いから出稼ぎにきていた朝鮮人労働者が「鮮人が襲ってくる」というだけで地域の住民たちが集団で虐殺した事件であった。 遺体も放置されていた。 二度とあってはならない1926年の事件である。 けれどもよく聞く話である。
 大阪の第七劇場で「関東大震災 福田村事件」を見た。 加害者の視点から撮られたものだと聞いていたが、住民たちが群衆心理をもって、「四国から行商にきていた日本人」を朝鮮人と思い込み、棒や鳶口で9人を殺した事件である。 だれも止めなかった。 主人公役の行商人、「永山瑛太」は群衆にむかって叫んでいた。 「朝鮮人だったらいいのか」と。
 極度な精神状態になればパニックになれば、許されるのか。 それでも相手が朝鮮人であれば、中国人であれば、殺してもかまわなかったのか。 官憲もかかわり6000人もの大量殺人を犯した事件の全貌と責任の所在は明らかにされていない。
 混乱を利用して害虫として処理された1923年の事件である。
 1926年の木本事件は1923年の関東大震災の朝鮮人、中国人の大虐殺を教訓にされていないことがよくわかる。 徹底した調査と処罰、補償もせず、さらには教訓として歴史として教育の場で、報道を通じ、子どもたちにも住民にもしっかりと伝えていないからである。 隠された歴史、埋もれた歴史であり、忘れ去ろうとしている。
 今に始まったことではない。 何度でも形を変えて表出するのであろう。 歴史は繰り返す。 人は繰り返す。
 折しも偶然というか、私が見た映画、「福田村事件」についての勉強会に誘われた。
 参加者はほとんどが日本人の、ある政党に連なる熟年世代20人程度の集まりであった。 司会者がこの映画の感想を求めていたが反応はよろしくない。 沈黙は「金」の社会である。
 私のように誘われて参加した同胞の年配の方が日本の植民地支配とそれにつながる戦中戦後の朝鮮人差別についてひとくさり発言をされた。 それに対して質問があり、戦中の強制徴用に対する未払い賃金は円で支払うのか、帰った後、朝鮮銀行から支払いを受けるのかという質問がなされた。 思わず下を向いてしまった。
 次に大阪から来たという事で私に発言を求められた。
 防衛費が二倍になっても、それが消費税に跳ね返ってもこの国は騒ぎ一つおこらない社会であるなどとしゃべっていると、すーと発言時間の紙がきた。 まだ5分も経っていない。 しかしながら、この人たちは善良で甘いも酸っぱいも知っている年配で、聞き流すことが得意な方々。 差別や偏見を作り出しているこの社会のありようについて在日が時間を頂いて話をしてもと思い早々に話を閉じた。
 次に戦争体験をお持ちの91の御婦人が、司会に促され大阪の空襲の話をし始めた。 また移り住んだ広島での被ばくの話も出された。 まわりからは「大変な体験をされましたね」と話は続く。 たまらず「加害の歴史はないのですか」と言ってしまう。
 この人たちの戦争とは被害の歴史であり加害者としての認識はなく、あっても国が適当に収めてくれるものなのだろう。
 道端で片足と義足でアコーデオンを弾いていた「忘れられた皇軍」は関係のない事なのであろう。 ましてや幼少より朝鮮人は貧しくてやくざも多い怖い存在としてインプットされ、またややこしい政治には口出しするものではない、知らんふりするのが賢明な生き方と信じている人には何の意味も通じない。
 過去の竹やりをもって押し掛けた関東大震災や木本事件の群衆とここに鎮座している市民の集まりとは繋がりはない、と思っている。 群衆にむかって「朝鮮人は、どないなるねん」と叫んだ永山瑛太に答えはかえってこなかったように、この場で答える人はいない。
 この国の可笑しさ、集団はあるけれども個はない。 みんながいて自分がないと思ってしまう今日の社会では、歴史は繋がっていない。 私たちは関係ない。 加害は誰かがしょってくれて被害の歴史だけが頭をよぎり横たわっている。
 個から始まり、一人では不可能でも、つながれば何かしらできるとは到底心から信じることはできない市民のたまり場かもしれない。
 集会も早々と時間厳守でおわり、偶然にも空襲経験をお話しされたご婦人と同席した。 昼食をたべながら地方での戦争体験、防空壕のお話しをされていた。
私は「さぞ大変でしたねー」という言葉はでず、代わりにシオモニが五島列島で防空壕にはいろうとしたとき、「朝鮮人だから出て行け!」と周りの住民から言われ,入れなかったことを話した。
 78年後の今も在日が、ガイコクジンがヘイトと管理の対象になっている。
そのような日本社会の枠組みに対し次世代の朝鮮人と日本人が互いの背景と人権を尊ぶことができる教育、社会づくりに努力される事を心より望んでいる。 そのことの指標の一つが市民の共同作業であった木本に佇む慰霊碑ではないかと思う。


■李基允氏と裵相度氏を追悼するつどい、30回目をむかえて  宇惠悟         
 今年が関東大震災から100年と云う事で、その三年後に起こった木本事件から、70年近く放置されていた犠牲者の無念を追悼碑にあらわした人達には心から敬服しなければなりません。 私は虐殺された人に正面から向き合えない期間がありました。 思うにさえ残酷過ぎる仕業ゆえなのですが。 今年、東京の「関東大震災朝鮮人・中国人虐殺100年 犠牲者追悼大会」に参加してそこで配布された実行委員会編「これまでと これからの 各団体の とりくみ そして 今訴えたいこと」と題した冊子の中で「“軍卿・習志野の歴史を訪ねる”―関東大震災時の虐殺現場を歩いて」と云う「カトリック東京教区正義と平和委員会」が書いた記事があり、 大学教授で歴史家の姜徳相さんの「日本軍の朝鮮半島占領とそれに対する朝鮮人独立運動の歴史の流れの中で、この事件を捉えないと真実は見えてこない」と云う文の引用がありました。 日本軍は朝鮮半島で植民地統治に対して蜂起する人たちを圧倒的火器の下に弾圧しました。 そんな現地朝鮮人に対する残虐行為の日本版が関東大震災やその3年後に起こった木本事件等に反映されています。 私も遅ればせながらそんなことがようやくわかって来た感がします。 今年、木本の追悼碑の下を、語り部や語り部らしい人に導かれたグループが通り過ぎるのを3回ほど目にしました。 「トンネル工事の犠牲者」の碑だと言った語り部、只通過していったグループ、普通の挨拶をして過ぎて行った若い案内人に導かれたグループもありました。 木本事件で虐殺された方はお二人でしたが、その家族達も事件の影響でそう遠くない時期に亡くなり、家族の中で一人残された人もいました。 そんなことも後々に理解したことです。 東京は勿論、東京の周辺にもたくさんの虐殺事件があったそうで、関心を払っていきたいと思います。 映画の「福田村事件」も是非見たいと思っています。


■この時代を生きる私たちに今、何が問われているか  米持匡純 
 三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・裵相度)の追悼碑建立から30年を迎えるにあたり、これまで追悼碑の建立に関わり、また今日まで追悼碑を守り抜いてこられたすべての方々へ、心より敬意を表します。
 故郷を奪われ、異国の地でむごたらしい手段で虐殺されたイ・ギユンさんは当時25歳、ぺ・サンドさんは当時29歳でした。 若くして人生を奪われた両名のその無念さを想像すると、筆舌に尽くしがたい思いが募ります。
 翻って今年、いわゆる「戦後」の日本社会において、衝撃的な「隠蔽され続けた真実」が明るみに出ました。 日本人であれば誰もが知っている大手芸能事務所の元社長が、「所属タレント」である少年たちに、長年にわたって性暴力を振るい続けてきたというのです。 報道によれば、それは事務所設立以前から元社長が死去するその日まで、実に50年以上にわたって日常的・恒常的に繰り返され、被害者は少なくとも数百人にのぼるといいます。 そして昨年から今年にかけて、日系ブラジル人の両親を持つ1人の青年の告発が海外メディアを動かし、ひいては長年口を閉ざしてきた多くの被害者の被害者の心を動かしました。 そして彼らが立ち上がった時、ついに長年隠されてきた、いや、多くの人が「見て見ぬふり」をしてきた「史上最悪の児童性虐待事件」の真実が、ようやく明らかになったのです。
 被害者の中には、性被害を告発した青年のように、差別され、抑圧された少年期を過ごした人々が多数含まれていることでしょう。 過酷な環境を生きる中で、歌手や俳優となることに一縷の望みを託した人たち、あるいは貧困など社会の構造的な問題の中で、自らの意思に反して事務所に所属せざるを得なかった人たち、そういった若者たちの微かな希望に巧みに付け入り、おぞましい性暴力が繰り広げられてきたのです。
 また、彼ら「所属タレント」を広告塔として起用してきたメディアをはじめとする芸能関係者の間では、この性暴力の事実を知らぬ者はいませんでした。 にもかかわらず、誰も向き合おうとしないどころか自らの利益を守るために、隠蔽に加担し続けてきたのです。 そして真実が明らかになって、なお目を背けようとする人たち、あるいは告発した被害者に対して誹謗中傷を投げつける人たち、その姿は19世紀末から続く侵略と虐殺、性加害の歴史から目を背け、真実を捻じ曲げてきた日本という国家と、戦後の「日本人」の姿そのものではないでしょうか。
 2023年は、1923年関東地震(関東大震災)から100年の節目の年でもあります。 「朝鮮人が井戸に毒を入れている」「震災に乗じて暴動を起こそうとしている」そんなデマをマスコミが報じ、官憲が先兵となって、数千人もの朝鮮人を虐殺しました。 そして今年、小池百合子東京都知事は朝鮮人犠牲者追悼式典への追悼文を拒絶し、それどころか追悼式典が開かれているまさにその真横で、「朝鮮人虐殺は無かった」と主張する排外主義者集団による「ヘイト集会」の開催を「許可」しました。 そして政府・自民党は今年6月、難民認定を事実上「認めない」と宣言した入管法改悪案を強行成立させ、日本が再び侵略と植民地支配の歴史を今まさに繰り返そうとしています。
 この時代を生きる私たちに今、何が問われているのでしょうか。 97年前の1926年、壮絶な虐殺の現場であった木本トンネルの入り口に立つ追悼碑は、イ・ギユンさん、ぺ・サンドさんが差別に耐えながらこの地で歯を食いしばって生き抜いた証として、また、「屈しないこと」「声を上げ続けること」の尊さを伝え続ける道標として、生き続けています。
 日本の侵略と植民地支配の歴史と真実を明らかにすること、それは今の日本という国家の姿を明らかにし、それを通じて社会を根底から変革する民衆の新たなうねりを巻き起こす原点です。 私自身も短いながらもこの運動に携わった者として、天皇制と改憲・戦争国家化と対決していくために、会とともに歩んでいきたいと思います。 共に闘いましょう。


■日本の植民地責任を学び、語り継ぐ場として  岩脇彰(三重県歴史教育者協議会) 
 私は三重県の戦争遺跡を調査し、それを通して小中学生の出前授業や市民の学習会で戦争の悲惨さや平和の大切さを伝えています。 戦争を伝える場は三重県各地にありますが、日帝強占期の事実を伝える場は、私が知る限り県内に四ヶ所しかなく、身近に感じるほど多くはありません。 その中の貴重な二つが、木本トンネルの追悼碑と、紀州鉱山の追悼碑です。 二つの追悼碑を建てられ、これまで維持してこられた会の皆さまに敬意を表します。
 1945年8月15日は「戦争が終わった日」であると同時に「日本の植民地支配が破綻した日」です。 ところが、お盆前のマスコミ報道を見ても、戦争について検証する番組はありますが、植民地支配を反省するものはほとんどありません。 これは政府の姿勢が反映していると思います。 日本は国として、不十分ながらも戦争責任については取り組んできた反面、植民地支配についてはその責任を放棄していることが元凶です。 少女像問題や徴用工問題、軍艦島など近代化遺産の捉え方などのギクシャクは、すべて植民地責任を「なかったもの」にしようと強弁していることから生まれています。 都合の悪いことを黙殺する歴史修正主義や歴史的虚無主義は、歴史学的にも倫理的にも破綻しつつあります。 ウソをつけばバチも当たります。
 日帝強占期には朝鮮半島に「在朝日本人」がたくさんいました。 多くの日本人や企業が朝鮮で裕福な暮らしを享受できたのは、朝鮮民衆の家や土地・財産を在朝日本人が奪ったからです。 生活基盤を奪われた多くの朝鮮の人たちが日本本土に職を求め、強制労働と言える過酷な環境での労働を強いられました。 現在私たちが使っている電力を生むダムや発電施設、道路や鉄道、トンネルや橋、港などは戦前から使っているものが多く、それらの多くは朝鮮の人たちが作ったものです。 私たちが恩恵を受けているインフラの多くは朝鮮の人たちが作ったことを忘れてはいけないと、子どもたちや市民に伝えています。
 23年9月に横須賀市で、第26回戦争遺跡保存全国シンポジウムが開催されました。 その第1分科会「保存運動の現状と課題」の中で、戦争遺跡調査・発信の視点の一つとして朝鮮人強制労働や植民地責任のことをさらに位置づけようという報告が出され、全体討議でも時間をかけて各地の交流や討議がおこなわれました。 会の皆さまが30年も前から意識され取り組まれてきたことが、ようやく日本人の課題として認識されるようになってきたと実感できました。 「植民地責任をどう語り継ぐか」が、これからの大きな課題です。
 県内にも強制労働がおこなわれた多くの朝鮮人飯場が作られています。 また石原産業を初めとする6事業所には強制連行された朝鮮人労働者が動員されています。 その場所ごとで事実を掘り起こし、発信する碑や施設を作り、反省・謝罪・交流をしていくことが、植民地責任を考える最も重要なことです。 少女像も日本各地に作るべきだと思っています。
 各地域で植民地支配を反省し伝えるものとして、木本トンネルの追悼碑と、紀州鉱山の追悼碑は、その典型です。 また、伊賀市の青山トンネルの追悼碑は、犠牲者16人のうち8人が朝鮮人労働者だったと地元の中学生が碑文から解明し発信したことで、その翌年から追悼集会が始まっていて、若い世代による語り継ぎの好例になっています。 さらに地域から調査や発信が進むように、このような事実を子どもたちや市民に伝えていきます。
 今年は関東大震災100年。 つまり、あと2年余りで木本事件も100年の節目を迎えます。 来年は石原産業による紀州鉱山操業から90年です。 今年の追悼集会も、浜松市で開催される歴史教育者協議会の行事と重なって残念ながら参加できませんが、これからも追悼集会に参加しながら意識を高め、植民地支配について学習し、学んだことをいろいろな場で伝えていきたいと思います。


■追悼碑が建設されてから30年     佐藤正人
 この30年の歳月のなかで、これまで、松島繁治さん(1994年11月1日)、裵敬洪さん(1995年6月14日)、朴慶植さん(1998年2月13日)、竹本雄大さん(1998年9月7日)、朴東洛さん(1999年1月)、丁榮鈺さん(1999年5月12日)、 裵相度さんの一女裵月淑さん(1915年4月生まれ)が通学していた木本小学校の親友だったⅯさん(2000年はじめころ)、朴仁祚さん(2009年10月9日)、丁炳碩さん(2011年6月8日)、金唱律さん(2011年8月11日)、金蓬洙さん(2014年12月26日)、杉浦哲栄さん(2017年ころ)に死別した。
 三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・裵相度)の追悼碑を建立する会は、追悼碑の碑文に、「李基允氏と裵相度氏が、朝鮮の故郷で生活できずに、日本に働きにこなければならなかったのも、異郷で殺されたのも、天皇(制)のもとにすすめられた日本の植民地支配とそこからつくりだされた朝鮮人差別が原因でした」、「 朝鮮人労働者と木本住民のあいだには、親しい交流もうまれていました、裵相度氏の長女、月淑さんは、当時木本小学校の四年生で、仲のよい友だちもできていました。 襲撃をうけたとき、同じ飯場の日本人労働者のなかには、朝鮮人労働者とともに立ち向かったひともいました」と記した。
 国民国家の発展、資本主義体制・帝国主義体制の強化の精神は、他地域・他国の民衆を殺戮し、他地域・他国の資源を略奪することを肯定する精神・思想である。 この精神・思想を国民的に形成することなしに、国民国家は他地域・他国侵略を継続することはできない。 国民国家日本においてはこの精神・思想の根幹は、天皇制であった。
 現在も天皇制は、廃絶されていない。
 三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・裵相度)の追悼碑を建立する会の運動は、日本ナショナリズムの強化とのたたかいであり、天皇制を維持しつづける社会・文化・思想とのたたかいである。 

補記
 ㈠三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・裵相度)の追悼碑を建立する会『紀伊半島・海南島の朝鮮人 木本トンネル・紀州鉱山・「朝鮮村」』(2002年11月1日発行)の「いちばんの仲よしの明子ちゃんのお父さんが殺された Ⅿさん」(1989年5月 キㇺチョンミ記)をみてください。
 ㈡『会報』第55号・第10号合併号(2011年2月25日発行)の佐藤正人「丁榮鈺さんと丁炳碩さん」をみてください。
 ㈢『会報』66号・21号合併号(2021年11月1日発行)の金靜美「杉浦哲栄さんのこと 2021年7月26日」をみてください。
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『会報』67号・22号合併号発行のおしらせ

2022年11月10日 | 『会報』
■『会報』67号・22号合併号発行のおしらせ■
 今日(2022年11月10日)、三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・裵相度)の追悼碑を建立する会の『会報』67号と紀州鉱山の真実を明らかにする会の『会報』22号の合併号を発行しました。
 内容は、つぎのとおりです。

      三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・裵相度)の追悼碑を建立する会
            http://www5a.biglobe.ne.jp/~kinomoto/
      紀州鉱山の真実を明らかにする会
            http://www.kisyukouzansinjitu.org/index.html

表紙 11月20日の李基允氏と裵相度氏を追悼する29回目の集いと紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する15回目の集いのお知らせ
【写真】紀和町の「追悼の場」 卯の花 (2022年5月撮影)
金靜美「李基允氏と裵相度氏を追悼する28回目の追悼集会」
金靜美「紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する集い」
宇恵悟「木本・板屋の追悼碑」
【写真】2022年5月 追悼碑建立宣言とはなみづき
新聞記事「朝鮮人犠牲者へ花たむけて献杯 三重・熊野で追悼集会」(『朝日新聞』朝刊、和歌山版、2021年11月16日)
岩脇彰(三重県歴史教育者協議会)「追悼集会に参加して」    
大西孝明(三重県歴史教育者協議会)「追悼集会に出席して」     
麻生瑞樹(三重県歴史教育者協議会)「紀州鉱山・朝鮮人虐殺慰霊集会に参加して」                   
佐藤正人【報告】民衆運動の深化をさまたげる「改組三会」の崩壊
金靜美「「木本事件」と紀州鉱山への朝鮮人強制連行にかんする写真パネルと解説パネル その後」
中川清子「金靜美さんたちとの出会い」
【写真】2015年2月11日の海南島近現代史研究会定例研究会で報告する中川清子さん
조성봉「추석날 단상또다른 삶」
趙成鳳「秋夕断想 もうひとつの生」 金靜美訳
【写真】「曹渓庵がかつてあった場所(趙成鳳さん撮影)」
【写真】智異山で(2016年6月30日 金靜美撮影)
海南島戦時性暴力被害訴訟史(年表)
佐藤正人「海南島戦時性暴力被害訴訟」
【写真】2005年3月16日の第9回裁判のために来日した林亜金さんと張応勇さん。裁判の前日、弁護士との話し合いの席で
編集後記

B5版 24頁。 定価 200円(送料140円)
     連絡先 和歌山県海南市日方1168 紀州鉱山の真実を明らかにする会
     郵便振替口座記号番号 00920-3-247174 
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『会報』66号・21号合併号発行のおしらせ

2021年10月24日 | 『会報』
■『会報』66号・21号合併号発行のおしらせ■
 11月1日に、三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・裵相度)の追悼碑を建立する会の『会報』66号と紀州鉱山の真実を明らかにする会の『会報』21号の合併号を発行します。
 内容は、つぎのとおりです。

      三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・裵相度)の追悼碑を建立する会
            http://www5a.biglobe.ne.jp/~kinomoto/
      紀州鉱山の真実を明らかにする会
            http://www.kisyukouzansinjitu.org/index.html

今年の追悼集会の案内
写真:李基允さんと裵相度さんを追悼する場の案内板(2021.10.5.)
金靜美 「李基允氏と裵相度氏を追悼する27回目の追悼集会」
嶋田実 「紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する13回目の追悼集会に参加して」
金靜美 「李基允氏と裵相度氏を追悼する「追悼の場」に案内板を設置しました」
【新聞記事】 「つながる道 歴史知ること 強制連行・労働犠牲者刻む2つの碑に」(『朝日新聞』朝刊 2020年11月28日 和歌山版)
【新聞記事】 「現場へ! 強制労働の足跡をたどる3 アジア人への冷たさ 根深く」(『朝日新聞』夕刊 2020年12月9日)
金靜美 「杉浦哲栄さんのこと 2021年7月26日」
宇恵悟 「追悼場2021」
写真:壊れた「追悼碑建立宣言」台(2021.3.22.)
写真:作り替えた「追悼碑建立宣言」台と碑(2021.10.7.)
金靜美 「円通院から本龍寺へ 紀州鉱山で亡くなった朝鮮人の遺骨」 
写真:円通院あとの説明板
写真:真ん中の「墓石」には「鑛」という文字
金靜美 「「木本事件」と紀州鉱山への朝鮮人強制連行にかんする写真パネルと解説パネルについて」
三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・裵相度)の追悼碑を建立する会・紀州鉱山の真実を明らかにする会 「解放同盟全国連合会機関紙『解放新聞』の虚偽記事について」
佐藤正人 「【報告】2020年秋に、なぜ民衆運動の深化をさまたげる「会」が現われたのか」
金靜美 「わたしたちの立場」
金靜美  「改組三会」の『会報』1号における虚偽記述について
金靜美 紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する碑 建立基金について

別刷り
■2021年11月14日の追悼集会のご案内

     B5版 24頁。 定価 200円(送料140円)
     連絡先 和歌山県海南市日方1168 紀州鉱山の真実を明らかにする会
     郵便振替口座記号番号 00920-3-247174 
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『会報』65号・20号合併号発行のおしらせ

2020年11月01日 | 『会報』
■『会報』65号・20号合併号発行のおしらせ

 きょう(11月1日)、三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・裵相度)の追悼碑を建立する会『会報』65号と紀州鉱山の真実を明らかにする会『会報』20号の合併号を発行しました。
 内容は、つぎのとおりです。

      三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・裵相度)の追悼碑を建立する会
            http://www5a.biglobe.ne.jp/~kinomoto/
      紀州鉱山の真実を明らかにする会
            http://www.kisyukouzansinjitu.org/index.html
                 
金靜美 「2018年、2019年の追悼集会報告」
【写真】「哀号(アイゴ)」と書かれた石
 2007年12月、尾鷲の小学校の6年生たち100人が一人10個づつ、七里御浜海岸で拾った石に、それぞれ思うことばを書いて、李基允氏と裵相度氏の墓に敷き詰めた。2019年11月、いくつかの石は、書かれた文字が読めた(2019年11月9日撮影)。
【写真】墨入れをおえて
 金靜美 「関西地域 民族教育関係者 研修会」報告
【写真】木本隧道鬼が城出口で
金靜美 「本龍寺の朝鮮人遺骨はいまどこに?」 
【新聞記事】「17、18日朝鮮人追悼集会=写真パネル展も=」(『吉野熊野新聞』2018年11月18日) 
【新聞記事】「現場から考える日韓の歴史 追悼碑に刻む無念の思い 三重・紀州鉱山 1300人が強制労働」(『しんぶん赤旗』2019年11月27日)
【新聞記事】「広がったデマ 奪われた命 三重で94年前 トンネル工事従事者の朝鮮人2人殺害 「木本事件 コロナ広がる今、教訓に」」(『朝日新聞』2020年7月21日、東海版)
【新聞記事】「加害の歴史問い続ける 「「中国侵略の反省」平和の塔裏に 8月15日在日朝鮮人には解放記念日」(新聞記事『朝日新聞』2020年8月22日朝刊、和歌山版)               
宇恵悟 「紀州鉱山の坑口があった惣房と上川で暮らして」 
安西玲子 「12回目紀州鉱山、26回目李基允さん裵相度さんの追悼集会に参加して」
金靜美 「もくれんの会のひとたちとともにー2019年4月29日」
【写真】金禮坤さん 李基允氏と裵相度氏の碑の前で(2019年4月29日)
【写真】2019年4月29日の追悼碑 白いもっこうばらにおおわれていた 
佐藤正人 「アジアから問われる日本の戦争」展で現れた日本の民衆運動の危機」
佐藤正人 「「アジアから見た日本の戦争」という名の展示会批判」 
三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・裵相度)の追悼碑を建立する会・紀州鉱山の真実を明らかにする会・海南島近現代史研究会 「展示会の名称を変更するとともに案内チラシの第2案を撤回してください」 
佐藤正人 「海南島近現代史研究会集会報告(第23回定例研究会 2019年2月9日、第13回総会・第24回定例研究会 2019年8月24日、第25回定例研究会 2020年2月8日、第14回総会・第26回定例研究会 2019年8月24日)」
金靜美 「追悼 李陽雨」
【写真】2012年12月1日、李基允氏と裵相度氏の追悼碑の前でうたう李陽雨さん

別刷り
■2020年11月22日の追悼集会のご案内
■三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・裵相度)の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会の『会報』の読者のみなさんへ

     B5版 28頁。 定価 200円(送料140円)
     連絡先 和歌山県海南市日方1168 紀州鉱山の真実を明らかにする会
     郵便振替口座記号番号 00920-3-247174 
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戦争法と経済的徴兵制

2018年11月01日 | 『会報』
■経済的徴兵制とは
 志願兵制である米国で、貧困層の若者が大学進学や医療保険を手に入れるためなど、「経済的理由でやむなく軍の仕事を選ばざるを得ない状況」をあらわす言葉として日本でも知られるようになってきたのが、経済的徴兵制である。
 経済的徴兵制が機能する仕組みはこうだ。
 まず、戦死、PTSDや隊内のいじめ等過酷な 軍隊ゆえの「労働」条件がある。給与水準が高くないこともあり、わざわざ軍隊に就職するメリットは少ない。いきおい、軍は求人難に陥ることとなり、打開策として、わずかな経済的利益を「アメ」に貧困や社会的劣位に置かれた層をターゲットにするのである。
 志願兵制にもかかわらず、あたかも貧困層に対しては「徴兵制」が実施されているような状況が生じるのは、このためである。
 実際、日本においても自衛官の出身地と貧富とは相関関係が見られ、例えば2007年度における高校新卒者の陸自二士入隊率上位15道県のうち13道県が県民所得下位15位内である。

■軍隊という「職場」
 米国では、退役軍人自殺防止法が2015年に可決した。これは、PTSD等により退役軍人の自殺者が一日平均22人、年8000人以上という状況への対策法 だという。戦死者もさることながら、なんとか無事生き延びても過酷な状況に晒されているのである。
 一方、自衛隊においても、在職中の自殺者が、2001年からのインド洋派遣参加者で27人、2003~09年のイラク派遣参加者で29人 にも上ることが明らかになっている。
 また、平時においても、いじめによる自殺者を出した1999年の護衛艦さわぎり事件(2008年福岡高裁で国の賠償を命じる判決が出され国側が上告を断念し確定)をきっかけに、自衛隊内でのいじめや自殺の多さが明るみになってきた。また、苛烈な訓練によって死亡するリスクや、若年定年制(2・3曹で53才)ゆえに退職後の不安もつきまとう。
 軍隊という「職場」は、まさに国営劣悪企業たる様相を呈しているのである。

■戦争法で高まる戦死のリスク
 海外派兵が実施される以前は、戦死の可能性は皆無に近く、その意味においては「安全・安心」であった。
 しかし、1991年のペルシャ湾派兵を皮切りに、92年にPKO協力法、99年に周辺事態法、21世紀に入ってからは「特措法」でインド洋やイラクに派兵、2015年には戦争法を成立させて集団的自衛権行使をも可能とした。
 派兵の対象・地域は拡大・恒常化し、後方から前線へと危険性も一層高まり、駆け付け警護任務が初めて付与された南スーダンPKOでは自衛隊が駐屯する首都ジュバで大規模戦闘が行われ、宿営地からわずか200mのビルが戦車で攻撃される などした。これまで戦死者こそ出ていないものの、常時緊張を強いられた自衛官のPTSDや自殺が多発する事態となっている。

■戦争法と経済的徴兵制に対決する運動
 戦争法制定後、戦死等のリスクが高い自衛隊の志願者は減少傾向となり、防衛省・自衛隊は、奨学生の拡充や高校へのリクルート活動強化、「インターンシップ」などの対策案を打ち出している。
 また、教育基本法の改悪によって始まった愛国心教育(教科化された道徳等)や、9条改憲による自衛隊明記などによって、入隊への心理的障壁の軽減も狙っている。
 日本政府と日本軍が国内・国外で人びとを殺害し資源を奪ってきた歴史をくりかえさせない日本の民衆運動のありかたが、いま、憲法1~8条を前提とした憲法9条をふくむ護憲運動のなかでも問われている。
                                   小田伸也
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黄尚徳さん

2018年10月31日 | 『会報』
 2017年11月17日、18日の熊野での追悼集会に参加された黄尚徳さん(1931年8月13日生まれ)に、ごく短い時間だったが、宿所で話を聞かせていただいた。
 広島→呉→朝鮮に帰郷。朝鮮戦争がはじまり志願。ことばがわからず除隊。日本に密航して四日市へ。
 この道程で、黄尚徳さんはどれほどのことを体験しただろうか。黄尚徳さんの体験は、黄尚徳さん個人の体験であるが、黄尚徳さんひとりのものではない。
 朝鮮人が生きてきた過程に近現代史が反映されている。朝鮮人ひとりひとりの歴史の集積が、朝鮮史であるが、その民衆個人の歴史はほとんど無視されてしまうことが多い。
 あらためて、時間を作って話を聞かせていただきたいと考えている。ここでは、かんたんに黄尚徳さんの話を紹介したい。

 故郷は金海。
 広島で生まれ、呉に行った。呉の港町国民高等小学校に通っていた。
 原爆が落ちたあと、1945年8月8日、呉から広島まで、15、6キロはあると思うが、線路沿いに歩いた。広島にいた兄を探すために。
 兄はぶじだった。兄は、5日の夜、麦を持って、せっけん、砂糖と交換するために、出かけていた。8日の夜、戻ってきた。
 当時は、学徒兵で、金子鉄工所呉本社で、銃弾を作る工場で働いていた.第11海軍航空廠所属。15歳のときで。給料は30円だった。
 1945年9月22日、台風が来て、土石流で家もみんな流されてしまった。何もなくなって、11月、一家で貨物車に乗って下関まで行き、木造船をチャーターして帰国した。
 朝鮮戦争がはじまり、北の軍が南下してきて、避難して釜山にいたとき、志願した。21歳だった。26歳のとき伍長で除隊した。束草(江原道)の第5管区司令部にいたとき。済州島にあった下士官学校に行くことも考えたが、ことばがわからず、命令も聞けない。それで除隊した。
 その後、からだ一つで日本に密航。さいしょ四日市に住んだ。

                                         金靜美 記
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熊野市立図書館と「木本事件」・紀州鉱山にかんする資料

2018年10月30日 | 『会報』
 2017年11月26日、追悼集会の1週間後、熊野市立図書館に行った。
 図書の検索では、『63年後からの出発』、同増補版、『紀伊半島・海南島の朝鮮人――木本トンネル・紀州鉱山・「朝鮮村」――』はかかり、郷土史コーナーに開架されていた。
 三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・裵相度)の追悼碑を建立する会・紀州鉱山の真実を明らかにする会『会報』は、検索にかからず、受付で尋ねた。職員は、郷土史コーナーなどを探したが、受付の後ろの棚からファイルケースに綴じられた『会報』を探し出した。
 このファイルには、李基允氏と裵相度氏を追悼する碑の除幕集会資料集、新聞の折り込みチラシなども綴じられていた。
 記録し忘れたが、『会報』は17号か18号までしかなかったように思う。
 2009年8月まで熊野市立図書館は熊野市民文化会館の中にあり、そこでパネル展示をしていたころ、毎号の『会報』や資料を購入してもらっていたので、なぜ『会報』がこれだけなのかを尋ねた。
 職員のYさんの話によれば、『会報』は館長や図書館の職員が個人的に購入し、図書館に置いていた、という説明だった。
 持っていっていた資料、『会報』51号・6号(2009年8月25日)~『会報』63号・18号(2017年11月10日)、2010年3月28日の紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する集会の資料集『紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する碑 除幕集会 報告と記録』(2011年7月10日)の購入をお願いしたところ、すぐには決められない、上司と相談しなくてはならない、のちに連絡をするということで、資料は置いてきた。
 11月29日午後、Yさんから電話があった。
 Y「資料は購入しない」
 キム「地域史にかんする資料で、以前は購入した。なのに、なぜか?」
 Y「上からの指示」
 キム「上とは?」
 Y「教育委員会の社会教育課長」、「資料を送り返す」
 以上が電話でのやり取りだ。
 12月1日、熊野市立図書館から資料が送り返されてきた。

 熊野市立図書館は、「木本事件」、紀州鉱山への朝鮮人強制連行にかんする資料の購入を拒否した。熊野市民図書館は、熊野市民が郷土にかんする歴史を知る権利を妨害している。

                                   金靜美 記
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小川茂子さんのこと

2018年10月29日 | 『会報』
 昨年のパネル展示に来てくれた小川茂子さんに話を聞かせていただくために、追悼集会の1週間後の11月26日、熊野に行った。
 小川茂子さんは1928年生まれ、教師をしていた夫の小川文雄さんは1920年、尾鷲生まれ。小川文雄さんの父は平壌師範学校の教師で、文雄さんも平壌中学卒業で、日本敗戦後に日本に戻ったという。
 小川文雄さんは、1959年に吉野熊野新聞社を創設した谷川義一さん(1904年生まれ)、岡本実さん(1917年生まれ)とも親交があったそうだ。
 谷川義一さんは、「木本事件」当時、木本小学校教師であり在郷軍人分会の副会長で、「木本事件」に深くかかわっていた。1973年には「木本事件」について、『木本小学校百年誌』(創立百年祭実行委員会広報部編著)に、「鮮人騒動の記」を書いている。
 岡本実さんも「木本事件」を直接体験したひとりで、1983年に出された『熊野市史』中巻に、「木本トンネル騒動」という文を発表し、そこで朝鮮人虐殺について、「木本町民としては誠に素朴な愛町心の発露であった」と書いている。
ふたりとも亡くなったが、わたしたちは、生前の谷川義一さん、岡本実さんとも数回会って「木本事件」当時の話を聞いた。
 小川文雄さんは9年前に亡くなった。生前に会うことができていたら、「木本事件」について、いろいろ聞けただろうに残念でならない。
 小川茂子さんは、これまで、何回かパネル展を見に来たそうだ。保健師として、入鹿小学校、木本小学校、新鹿小学校に勤務し、入鹿小学校に勤務していたとき、紀和町所山の炭鉱住宅まえの「墓地」も見たという。
 小川茂子さんは、「墓地」には、朝鮮人が埋まっていると思っていた、と話していた。
 その「墓地」には、「外人墓地」と題された碑が建てられていて、近くの人も、「外人墓地」だから、朝鮮人も埋まっていると思っていたと話していた。さいしょの場所からいまの場所への移転に立ち会った慈雲寺の住職も、同じようなことを話していた。
 熊野市文化財専門委員会は、2005年11月に名称を「外人墓地」から「英国兵士墓地」に変更し、熊野市はその「墓地」を熊野市指定文化財とした。
 紀州鉱山で命を失わされた「英国兵士墓地」とされているそこには、おおきな虚偽が隠されているようだ。
                                       金靜美 記
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朝鮮学校への差別に反対

2018年10月28日 | 『会報』
 千葉県には、たった1つ、朝鮮学校があります。千葉市花見川区にある千葉朝鮮初中級学校です。幼稚班もあり、幼い子から、15歳ぐらいまでの生徒たちが通っています。2年生のクラスは5~6人ほどでした。県南から通うのは困難でしょう。さまざまな理由で、生徒が減っているそうです。

歴史――――――――――――――――――――――――――― 
 1945年、日本の敗戦後、日本にいた朝鮮人たちは、子どもたちに朝鮮語を教える「国語講習所」を各地に開きました。翌年4月から「初等学院」に改編し、千葉県では、千葉、船橋、柏、木更津、茂原、横芝、館山の7校ができました。
 しかし48年に入り、GHQと日本政府は、朝鮮人が作った学校を弾圧しました(文部省通達「朝鮮人学校設立の取扱について」第一次学校閉鎖令)。大阪では、府庁をとりまく反対を訴えるひとびとに対し、警察隊が無差別発砲し、16歳の金太一氏が殺されました。
 49年、文部省と法務省共同の通達(「朝鮮人学校に対する措置について」)が出され、二度目の閉鎖が命じられます(第二次学校閉鎖令)。千葉県では7校の初等学院は全て閉鎖され、子どもたちは日本学校に強制編入されました。それでも曽我小学校と船橋小学校の放課後、子どもたちを集めて、「民族学級」という形で続けられました。各地でも民族学級という形で続けられていきます。
 千葉朝鮮初中級学校は、51年9月、自分たちで校舎を建て直し、自主学校として再出発しました。
 68年に、朝鮮大学校(東京都小平市)が認可を取得し、75年までには、全ての朝鮮学校が各種学校としての学校法人認可を得ました。

朝鮮学校への差別――――――――――――――――――――― 
 高野連、高体連に参加させない、JR定期券の学割を認めない、国立大学の受験資格を認めないなど、さまざまな差別があり、粘り強い反対運動が続けられ、権利を獲得したものもあります。
 国立大学の受験資格については、各大学が審査するとなっていて、いまだに文科省としては認めていません。各自治体から出されていた補助金も、いろいろな理由を付けて、削減・不支給にしてきています。
 千葉市は、これまで、「地域交流事業」補助金として、千葉朝鮮初中級学校に約50万出していたのを、2017年度は不支給を決定しました。美術展への補助金だったのですが、そこに生徒が描いた日本軍による性奴隷制度被害者の絵があり、「解説で日韓合意を否定する等、目的に反すると判断」(千葉市長のTwitter)したからだというのです。
 2010年、高校無償化法ができ、インターナショナルスクールはこの法律の適用となりました。同じ各種学校の外国人学校でも朝鮮学校だけが適用除外とされ、各地で反対運動、裁判闘争が続けられています。
 ことし6月、神戸朝鮮高級学校の修学旅行で朝鮮民主主義人民共和国から帰国した生徒たちのお土産を、関空の税関職員が「上の指示で輸入が禁止されているから」と、「任意放棄書」を生徒たちに強制的に書かせ没収しました。

日本政府は在日朝鮮人の民族教育を保障すべき――――――――
 在日朝鮮人の大半は、日本の植民地支配により、朝鮮から来日せざるを得なかった、強制連行されたひとびとの子孫です。日本政府は、植民地支配の反省、戦後補償の立場に立てば、在日朝鮮人の民族教育を謝罪とともに、保障すべきです。
 千葉市の補助金不交付の理由については、朝鮮人の子どもたちに、民族が受けた被害を表現するなと、加害者の日本人が強制しているのと同じことです。
 神戸朝鮮高級学校生のお土産没収も、むごい、恥ずかしい行為だと思います。

日本学校の教育はどうか――――――――――――――――――
 いま、在日朝鮮人の子どもたちのおおくは、日本学校に通っています。
 いろいろな国籍、民族の子どもたちがいる日本学校で、「ヒノマル」を体育館に常に掲げ、式となると「キミガヨ」を流し、愛郷心だとか、愛国心を道徳の教科書で押し付ける教育は、支配的で、暴力的です。Jアラートの避難訓練のとき、在日朝鮮人の子どもたちはどんな気持ちでいるのでしょうか。
 日本政府は、日本学校の支配的な、暴力的な教育を改め、朝鮮人、いろいろな国籍、民族の子どもたちの民族教育が保障される教育を行わなければなりません。


千葉朝鮮初中級学校に関わらせてもらって――――――――――  
 千葉朝鮮初中級学校の校舎に入ると、1階には、生徒たちの集合写真が貼ってあります。写真は白黒から色付きへ、校舎も新しくなっていき、人数も減っていっているのが分かります。
 教室にある時間割を見ると、日本学校よりもたくさん詰まっています。科目数が多いからです。
 千葉朝鮮初中級学校関係の催し物があると、校長先生がお誘いを送ってくれます。集会もありますが、バザー、フェスタという名の催しは、おいしい食べもの、楽しい出店がたくさん出ます。うちの地域の小学校の半分ぐらいの広さの校庭に、いす、机を並べ、舞台が設置され、出し物もにぎやかです。家族でとても楽しみにして、参加させてもらっています。
 校庭の4分の1ほどのところでは、たくさんの七輪を囲み、いい匂いをぷんぷんさせて、大人たちが楽しんでいます。
 生徒たち、親、関係者たちが、朝鮮語、日本語が混ざり合ったことばであちこちで話しているのを聞くと、共同体だなと感じ、日本人のわたしがお邪魔をしている気もします。
 千葉朝鮮初中級学校は、うちの地域の小学校よりも催し物の回数が多く、大々的で、参加する大人が多いです。準備、片づけをする先生たちは大変でしょう。
 生徒たち、親、関係者、地域の日本人、おそらく考え方はさまざまかもしれないけれども、支援する日本人が集まってくる場となっています。
 朝鮮学校は在日朝鮮人のものだと実感します。千葉県に住む日本人であるわたしは、千葉朝鮮学校への差別に反対し、ささやかですが、ともに行動を続けたいと思います。

                                          日置真理子
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