三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

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李興成さんと孫光玉さん

2010年10月04日 | 海南島からの朝鮮人帰還
 きょう(2010年10月4日)、38度線の北の京畿道漣川郡に住む李元燮に話を聞かせてもらいました。
 李元燮さんの祖父、李興成さん(1911年9月14日生)の除籍簿には、1945年10月8日に「海南島陵水朝鮮報国隊作業所」で死亡したと書かれてありますが、陵水に連行された「朝鮮報国隊」の人たちは、海南島陵水の后石で日本軍用飛行場建設作業を強制されていましたが、この飛行場建設は1945年春以前に中止されているので、この日付は間違っています。
 李元燮さんは、"父は、祖父のことをほとんど語らなかったが、同郷の母は、祖父のことを知っていた。祖父は、故郷の天安からソウルに行き、当時としては珍しい車の運転手をしていて、看護婦をしていた祖母と結婚したと、母は話していた。父は、祖父は日本に連れていかれたと話していた。5年ほどまえに除籍簿をみて、海南島で亡くなったことを知った。はじめは海南島は日本の島だと思っていたが、あとで日本からとても遠い中国の島だということを知った。祖父が連れていかれたとき父は5、6歳だったようだ。父は1979年に亡くなった”と話しました。

 孫光玉さん(1916年5月6日生)の除籍簿には、1943年11月30日午前2時20分に「海南島石碌朝鮮報国隊」で死亡したと書かれています。
 「第1次朝鮮報国隊」に入れられた人たちが海南島に到着したのは1943年4月でした。 孫光玉さんが何次の「朝鮮報国隊」に入れられていたかはわかりませんが、海南島に連行されてから、わずか7か月以内に命を失わされていました。
 ソウルに住む孫舜玉さん(孫光玉さんの妹)は、電話で、"兄の遺骨は帰ってきた”と話しました。
                               佐藤正人
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