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三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

月塘村虐殺 ソンミ村虐殺 8

2007年09月29日 | 月塘村
 海南島近現代史研究会の会員は、今日午後、海南島に出発し、明日(9月30日)午前2時ころ月塘村に近い万寧市内に到着します。
 虐殺された月塘村の256人の犠牲者すべての名と年齢を明らかにした朱振華さんが、明日午前10時から時間をつくってくれているので、これから約1か月半の間に、どのように256人の生と死の軌跡をたどっていくのかを話し合います。
 こんど月塘村では、侵略犯罪の現場で生きてきた人たち、侵略犯罪集団の国民国家日本から来た者たち、その国家に住んできた朝鮮人たちが、共同で、国民国家日本の侵略犯罪の一部を徹底的に明らかにしようとしています。
 月塘村の256人の軌跡を明らかにすることは、日本侵略下の海南島で、日本軍や日本企業に殺害されたアジア民衆すべての軌跡を明らかにする道をさらにひらいていくと思います。
 証言は、隠されてきた史実を明るみにだす決定的な証拠です。月塘村の村人の証言と朱振華さんの綿密な調査がなければ、月塘村虐殺という日本の侵略犯罪は隠されつづけ、日本政府はこの事実をなかったことにしつづけることができるでしょう。
 「朝鮮報国隊」にかんする事実もそうです。「朝鮮報国隊」にいれられながらも海南島から生還できた人の証言なしには、「朝鮮報国隊」にかかわる日本の侵略犯罪を明らかにすることは難しかったでしょう。
 海南島の各地で民衆を虐殺した指揮官・兵士たちのおおくは、海南島で自分が行ったことを隠しつづけ、日本で自然死したと思われますが、侵略犯罪に時効はありません。 
                               佐藤正人
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月塘村虐殺 ソンミ村虐殺 7

2007年09月28日 | 月塘村
 「国際社会に公開で謝罪せよ」という月塘村全村民の要求に、日本政府は応答していません。
 日本のマスメディアは、朝鮮民主主義人民共和国国家機関による日本人「拉致」問題にかんしては、膨大な量の報道を重ねていますが、国民国家日本の侵略犯罪にかんしてはほとんど報道しようとしてきませんでした。
 月塘村虐殺にかんしても秀田村虐殺にかんしても「朝鮮村」虐殺にかんしても、総じて海南島における少なくても数千人の住民殺害にかんして、日本のマスメディアが報道したことはほとんどありません。
 「国際社会に公開で謝罪せよ」という月塘村全村民の日本政府にたいする要求を実現させるために、日本にすむ民衆が運動をすすめることがたいせつだと思います。
                                    佐藤正人
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月塘村虐殺 ソンミ村虐殺 6

2007年09月27日 | 月塘村
 1994年4月1日に、月塘村の全村民が、日本国政府に賠償を要求することをもとめて中華人民共和国外交部に提出した文書(「要求日本国政府賠償請願書」)の冒頭には、
    「1945年5月2日(中国農歴乙酉年3月21日)、万寧県万城の
   日本軍部隊は、理由なくわれわれの月塘村を襲った。罪のな
   い村民286人が殺傷された。そのうち、現場で死んだ者および
   そのときの傷が治らないで死亡した者は256人であり、傷つけ
   られながらも生き残った者のうち、いまも健在な者は18人で
   ある」
と書かれています。この256人という犠牲者の数は、村民のひとり、朱振華さんが獣医をしながら、尋ねあてたものです。一家全員が殺された家もあり、犠牲者の名と年齢を確認するのはかんたんではなかったといいます。
 じっさいの犠牲者は、256人であったにもかかわらず、「要求日本国政府賠償請願書」がだされた翌年発表された楊宏炳・陳業秀・陳亮儒・劉運錦「月塘村“三・二一”惨案」と蔡徳佳・林国齋「日軍占領万寧始末―-製造“四大惨案”紀実」では、犠牲者は286人であったとされています。これは、この文章の筆者すべてが、「罪のない村民286人が殺傷された」という「要求日本国政府賠償請願書」の記述を「罪のない村民286人が殺された」と誤読したためだと思われます。その後、この誤った「286人」という数字をこれまで、万寧県政協文史辧公室も海南省政協文史資料委員会も改めていません。
 犠牲者ひとりひとりの生と死を考えるなら、犠牲者の人数をまちがえることはないでしょう。
 犠牲者ひとりひとりの生と死を考えるなら、月塘村を訪れ、月塘村虐殺について記述した人が、いつまでも誤記を放置しておくことはないでしょう。

 ソンミ村虐殺の犠牲者の名は、記録され、1992年に建設され2005年に改修された「記念館」内に、虐殺された504人の犠牲者すべての名が記されたプレートが掲げられています。
 月塘村には、まだ、「記念館」も犠牲者すべての名が刻まれた追悼碑も建てられていません。
 13年あまり前、「要求日本国政府賠償請願書」で、月塘村全村民は、つぎのように日本政府の責任を追及しています。
                            佐藤正人

      49年が過ぎたが、われわれ、罪のない被害者に誰も責任
     をとろうとしていないことに対して、われわれはこころか
     ら憤慨し、日本国政府に厳正につぎのことを要求する。
      1、われわれ月塘村村民に対し、国際社会に公開で謝罪
       せよ。
      2、受傷して生き残った幸存者と犠牲者家族に賠償せよ。
      3、月塘村に死者を追悼する記念館を建設し、追悼式を
       おこなえ。
      4、焼失した家屋、強奪した財産を弁償せよ。
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月塘村虐殺 ソンミ村虐殺 5

2007年09月26日 | 月塘村
 万寧県政協文史辧公室編『鉄蹄下的血泪仇(日軍侵万暴行史料専輯)』(1995年7月)には、月塘村虐殺にかんして、楊宏炳・陳業秀・陳亮儒・劉運錦「月塘村“三・二一”惨案」と蔡徳佳・林国齋「日軍占領万寧始末―-製造“四大惨案”紀実」が掲載されていますが、そこでは、ともに、犠牲者は286人であったとされています。
 海南省政協文史資料委員会編『鉄蹄下的腥風血雨――日軍侵瓊暴行実録(上)』(1995年8月)には、月塘村虐殺にかんして、楊宏炳・陳業秀「“人過刀、房過火”的月塘村“三・二一”惨案」と蔡徳佳・林国齋「万城月塘村的案」(「日軍侵占万寧県暴行述略」の五)が掲載されていますが、いずれも、万寧県政協文史辧公室編『鉄蹄下的血泪仇(日軍侵万暴行史料専輯)』に掲載された文章の表題を変えたもので、犠牲者は286人であったとされています。

 その10年後、月塘村虐殺60年後、『海南日報』2005年8月16日号に掲載された「万寧月塘村 256人惨死屠刀下」(楊勇・張譙星・陳興章記者)には、月塘村で虐殺された村民数を朱振華さんの調査にもとづいて、256人と書かれています。
 しかし、同じ年の2005年8月に、北京の人民日報出版社からだされた劉景山主編『侵華日軍大』には、海南島にかんする「海南島汀邁大惨案」、「文昌県文北大惨案」、「海南島瓊山、文昌大“掃蕩”」、「楽会大」、「三亜荔枝“朝鮮村”大」、「日軍海南大」という項目があり、「日軍海南大」のなかに「月塘村惨案」という小項目がありますが、その記述は、蔡徳佳・林国齋「万城月塘村的案」を要約したもので、犠牲者は286人であったとされています。
 また、同じ年、海口で発行されている日刊紙『南国都市報』2005年10月16日号に、特集記事「人過刀 房過火 血染万寧月塘村 60年前月塘村惨案追憶」が掲載されました。この記事は、『海南日報』2005年8月16日号の「万寧月塘村 256人惨死屠刀下」の2か月後に発表されたものであり、月塘村での取材にもとづいているにもかかわらず、犠牲者は286人であったと書かれています。
                              佐藤正人
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月塘村虐殺 ソンミ村虐殺 4

2007年09月25日 | 月塘村
 USA政府とUSA軍によって隠蔽されていたソンミ村虐殺の事実は、1年半後に、目撃したUSA兵士の証言や写真をもとにしたUSAの新聞記者による報道をきっかけにして、全世界に伝達されました。もちろん、この事実を、生き残った被害者は知っていました。しかし、ベトナムの外に住む民衆が知ることはほとんどありませんでした。
 もちろん、月塘村虐殺の事実は、生き残った被害者は知っていました。しかし、海南島の外に住む民衆が知ることはほとんどありませんでした。これまで、60年あまり、日本政府と旧日本軍関係者によって隠されつづけてきました。日本のマスメディアも追求してきませんでした。 
 国民国家日本がアジア太平洋戦争に敗北してから50年後、月塘村虐殺から50年後、1995年に海南島で、万寧県政協文史辧公室編『鉄蹄下的血泪仇(日軍侵万暴行史料専輯)』と海南省政協文史資料委員会編『鉄蹄下的腥風血雨――日軍侵瓊暴行実録(上)』が発行されました。この2冊の本のなかの月塘村虐殺にかんする記述が、活字による最初の月塘村虐殺にかんする「報道」ではないかと思います。
 月塘村の全村民が、殺された犠牲者256人の名と傷を負いながらも生き残ることができた30人の名を記して、日本国政府に賠償を要求することを中華人民共和国外交部に求める文書をだしたのは、その前年の1994年4月1日でした。
                        佐藤正人
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256人の生と死の軌跡をたずねて

2007年09月24日 | 月塘村
 海南島近現代史研究会は、9月29日から11月16日まで海南島で「現地調査」をおこないます。
 今回は、主として月塘村で生活させてもらい、村のみなさんのたすけをかりながら、1945年5月2日に月塘村に侵入してきた日本軍に虐殺された犠牲者256人の生と死の軌跡をたどり、村のみなさんと共同で、『海南島月塘村虐殺』とは別個の、新しいドキュメンタリーを制作することにしています。
 最近完成させたドキュメンタリー『海南島月塘村虐殺』は、ことし1月と5月に、月塘村虐殺の現場で撮影したビデオフィルムを日本に持ち帰って、日本で編集したものです。 

 こんど、わたしたちは、月塘村虐殺の犠牲者の軌跡をたどる撮影を、月塘村のみなさんとともに試み、月塘村のみなさんとともに話し合いながら編集し、共同で編集しながら、日本軍の月塘村虐殺にかかわる事実をさらに明らかにしていきたいと願っています。
 一家が皆殺しされた犠牲者をふくめ、虐殺された村人256人すべての名と年齢を明らかにした朱振華(ジュ・ジェンホァ)さんの力をおおきくかり、村人のみなさんに助けてもらいながら、256人ひとりひとりのあとをたずね、256人ひとりひとりが、1945年5月2日に突然侵入してきた犯罪者集団によって虐殺されるまでどのように生きてきていたのか、どのように殺害されたのかを追求し、映像で記録したいと思っています。

 また、こんどの1か月半の間には、月塘村虐殺の20日まえ、1945年4月12日に、月塘村を襲撃したのと同じ日本海軍佐世保鎮守府第8特別陸戦隊に所属する日本兵が多くの住民を虐殺した長仙村、および月塘村虐殺の3か月後、1945年7月30日に140人の村人を日本海軍第15警備隊に所属する日本兵が虐殺した秀田村などを再訪することにしています。
 秀田村には、140人の犠牲者それぞれの家の名と、その家の犠牲者の数が刻まれた墓碑がおおきな墓のまえに建てられています。
 こんど秀田村では、ドキュメンタリー『日本が占領した海南島で 60年まえは昨日のこと』(漢語版)を上映させてもらおうと思っています(このドキュメンタリーには、2003年春に証言を聞かせてもらったときの映像や日本軍に村人が押し込められ焼き殺された家の廃墟の映像などがおさめられています)。そして、「沖縄戦」のあと、日本敗戦のわずか半月前に日本軍がおこなった住民虐殺の実態をさらに村のみなさんから聞かせていただきたいと思っています。

 こんどの海南島近現代史研究会の1か月半の「現地調査」に、部分的にでも参加しようと思うかたは、連絡してください。
                                 佐藤正人  http://www.hainanshi.org/
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海南島月塘村追悼碑建立基金募金 第1期

2007年09月23日 | 月塘村追悼碑
■海南島月塘村追悼碑建立基金募金
 8月5日から9月30日までの第1期募金への協力ありがとうございました。
 目標金額の60万円(200口)に近づきました。
 9月30日までにみなさんから寄せられた基金は、10月始めに月塘村にとどけます。

   海南島近現代史研究会                  
   連絡先  大東市中垣内3-1 大阪産業大学経済学部 斉藤日出治研究室
   郵便振替:海南島近現代史研究会 00960-5-280485
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海南島近現代史研究会 入会案内

2007年09月22日 | 海南島近現代史研究会
■入会案内
 会則に記載してある海南島近現代史研究会の目的に賛成し、入会されようとするかたは、事務局に連絡してください。
 会費は、年3000円です。
 入会時、および毎年入会月に会費を納めてください。

 事務局は、大阪産業大学経済学部 斉藤日出治研究室内です。
               住所:大東市中垣内3-1
               Email:saito@eco.osaka-sandai.ac.jp
               電話:072-875-3001 内線2617
               郵便振替:海南島近現代史研究会 00960-5-280485

 会員はすべて事務局会議に参加できます。
 毎年冬と夏に、定例研究会を開催します。
 会員はすべて定例研究会で報告することができます。


 会員の住所が広範囲なので、ひんぱんに事務局会議をもつことは難しいのですが、第一回事務局会議を、2007年12月9日(日)午後1時半から(開場午後1時)、大阪産業大学梅田サテライト「セミナーA」(大阪駅前第三ビル19階)で開きます。
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ドキュメンタリー『海南島月塘村虐殺』

2007年09月21日 | ドキュメンタリー『海南島月塘村虐殺』
■ドキュメンタリー『海南島月塘村虐殺』 企画・制作  海南島近現代史研究会  2007年
構成・シナリオ 佐藤正人 編集 小谷英治  金靜美 佐藤正人
価格 個人購入2000円 上映権つき12000円 (送料別)  DVD30分
連絡先 海南島近現代史研究会(大阪府大東市中垣内3 大阪産業大学経済学部 斉藤日出治
    研究室)
     http://www.hainanshi.org

 沖縄戦のさなか、1945年5月2日の明け方、海南海軍佐世保鎮守府第8特別陸戦隊の日本兵は海南島万寧市万城鎮月塘村を襲い、4時間の間に、村人256人を殺害しました。
 1994年4月1日、月塘村の全村民は、犠牲者256人の名と傷を負いながらも生き残ることができた30人の名を記した「月塘惨案受害者登記表」を添付して、「要求日本国政府賠償請願書」を中華人民共和国外交部にだしました。
 この文書で、全村民は、「月塘村村民に国際社会に公開で謝罪すること、幸存者と犠牲者家族に賠償すること、月塘村に死者を追悼する記念館を建設し追悼式をおこうこと、焼失した家屋や強奪した財産を弁償すること」を日本政府に要求しています。
 月塘村の人びとは、いま、犠牲者すべての名を刻んだ追悼碑を建立しようとしています。
 月塘村虐殺をふくむ、日本占領下の海南島に住民虐殺の事実は隠され続けており、みどり児や幼児や妊婦をふくむ村人を殺傷した日本軍司令官の名も日本兵の名も明らかにされていません。
 このドキュメンタリーは、月塘村虐殺62年後、生き残った人びとの証言を、村人のみなさんの助けをかり現場で記録したものです。

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ドキュメンタリー『“朝鮮報国隊”』

2007年09月20日 | ドキュメンタリー『“朝鮮報国隊”』
■ドキュメンタリー『“朝鮮報国隊”』
企画・製作 紀州鉱山の真実を明らかにする会  1998年~2007年
構成・シナリオ 金靜美 佐藤正人  
編集 佐藤正人 小谷英治 金靜美 崔文子 斎藤日出治 竹本昇 嶋田実 日置真理子 久
  保雅和
協力 鐘翠雅 烏蘭汗 姜美蘭 鄭賛弼 朴南濬 足立正生 山田貞夫
価格 個人購入3500円 上映権つき20000円 (送料別)  DVD65分 日本語版(朝鮮語版
  準備中)
連絡先 紀州鉱山の真実を明らかにする会 和歌山県海南市日方1168
     http://members.at.infoseek.co.jp/kisyukouzan/

 朝鮮人獄中者を海南島で強制労働させようとする日本海軍の要請に応じた朝鮮総督府は、朝鮮各地の刑務所から獄中者をあつめ、「朝鮮報国隊」を組織し、1943年春から海南島に送り出しました。これは、日本政府の閣議決定にもとづくものであり、当時の内閣総理大臣は東条英機でした。「朝鮮報国隊」にかんする日本政府・日本軍文書はほとんど公開されていません。
 約2000人の獄中者が海南島に連行されましたが、生きて故郷に戻ることのできた人は、わずかでした。
 海南島南部の「朝鮮村」と名づけられた黎族の村の人たちは、朝鮮人が虐殺されるのを目撃したと証言しています。「朝鮮村」には、いまも、多くの朝鮮人の遺骨が埋められています。
 紀州鉱山の真実を明らかにする会は、1998年~2007年に、海南島、韓国、日本の各地で、「調査」をおこないました。
 このドキュメンタリーでは、目撃者の証言・虐殺現場・強制労働現場(飛行場、鉱山、鉄道、鉄橋、軍用道路、軍用洞窟、特攻艇格納庫)、生還者の証言、旧日本兵の証言などを記録するとともに、2006年5月に紀州鉱山の真実を明らかにする会が試みた始めての科学的な「朝鮮村発掘」にいたる過程を報告しています。
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