三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

2005年9月 海南島現地調査

2006年06月25日 | 海南島
紀州鉱山の真実を明らかにする会で、9月5日から17日まで、海南島に行った。1998年6月いらい、9回目だった。
わたしは、5日から14日まで参加し、11日から14日までは、崔文子さん、海南島戦時性暴力被害訴訟の支援をしているハイナンNETの山田祥子さん(仮名)と鈴木良絵さん(仮名)が合流した.
今回の目的は、1、さらなる日本の侵略史調査、2、海南島の人たちとの共同調査・共同研究を具体的にすすめること、3、ドキュメンタリー『日本が占領した海南島で』の上映会をすること、4、「朝鮮村」の地権問題の現状を把握することなどであった。

1、海南島中央部の瓊中黎族苗族自治県に行った。抗日遊撃隊の根拠地であった山間部で、日本軍が空爆を繰りかえしたあと侵入し、村落を破壊した地域である。
烏石で、たくさんの人たちに話を聞かせていただいた。夫を殺された女性、父と兄を殺された女性……。陳さんは、1944年冬に日本兵に刀で刺された数箇所の傷跡を見せてくれた。
車が入らない道をオートバイで1時間くらい山中に入った。そこにも、日本軍の基地が築かれたという。その近くの黎族の村に日本軍の性奴隷にさせられた女性が4人おられると聞いた。
この地域でのわたしたちの「調査」は始まったばかりである。
2、海南広播電視台主任ニュースキャスター姜さん(中国東北部から来た朝鮮族)、海南師範大学の王さんら、海南大学の李琳さんや銭家英さんらと、今後の共同作業について話し合った。姜さんは、海口市内で旧日本軍司令部の建物を発見していた。11日から14日まで、李琳さんと銭家英さんがわたしたちの調査に参加した。3、村委員会の全面的協力によって、9月13日に、回新村で上映会を持つことができた。9月6日に、回新村委員会の人たちと上映会を村内で開く話し合いをしているとき、村委員会の人が、哈(ハ)さんをオートバイで連れてきてくれた。
哈さんは、わたしたちが何回もお会いして、回新村近くの日本軍飛行場建設をさせられていた「朝鮮報国隊」の労働の様子や殺された人の話、宿所の場所、日本軍司令部の場所などを教えていただいた人で、その証言の映像がドキュメンタリーのなかにある。
病気の治療のために午後に広州に行くのだと言う哈さんと、また会いましょうといって別れたが、16日に上映会のために回新村に行くと、村委員会の人が哈秉尭さんは14日に亡くなったと、話した。
回新村での上映は、雨上がりの午後8時から、村入り口の建物の壁に投射した大画面で、野外でおこなった。子どもから大人までさまざまな年齢の人たちが見てくれた。上映後、何人もの少女たちから、自分は今来たばかりで見ていない、今度はいつするのか、どこから来たのかと、尋ねられた。日本から来たが、日本人ではなく朝鮮人だ、来年の春また来て上映するから、その時はきっと見てね、と言って少女たちと別れた。
16日には海南師範大学で、王さんの協力で、上映会をおこなった。
4、「朝鮮村」の地権問題は、まだ不確かなことが多い。「朝鮮村」のすぐ近くに、大学の建物が建設中で、村を横切って、幅10メートル近い道路がつくられていた。


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2005年9月 海南島で

2006年06月18日 | 海南島
9回目の海南島「現地調査」の行程を簡単に報告します。

5日:夜、三亜着。
6日:回新村→万寧。
2002年春いらいの知人である前『万寧文史』編集委員蔡さんに案内されて朱進春さんに会う。
 日本軍は、1945年春、万寧県城から3キロ南の月塘村に侵入し、村人286人を殺した。このとき、朱さんは、日本刀で8か所傷つけられたが、生き残ることができた。「月塘村3・21惨案」の日本政府の責任を追及する訴訟を起こしたいと、朱さんは言った。
7日:六連嶺抗日根拠地跡→海口。
万寧北方の六連嶺地域には抗日軍の根拠地があった。日本軍はその近隣の村々を襲撃し、抗日軍を支援したとして村民を虐殺し、村を無人化していった。
 これから、いそいで、当時の日本軍の犯罪を、六連嶺地域の住民から聞きとっていかなければならない。

8日:海口。
『南国都市報』記者に会う。
海南師範大学の王さんと張さん、海南広播電視台の姜さん、海南大学の銭さんと
李さんらと今後の共同研究・調査について話し合う。李さんは、1997年に「日本占領海南及其対資源的開発和掠奪」を発表している。

9日:海口→烏石。
『南国都市報』に「日韓学者再次来瓊掲露日軍侵華暴行 本月13日将在三亜回新村放映日軍侵略海南島記録」掲載。
http://ngdsb.hinews.cn/php/20050909/88800.php

 海口からバスで、瓊中黎族苗族自治県烏石に。豪雨。烏石の近くにあった日本軍拠点の位置を探す。
10日:烏石→五指山市。
 烏石とその近くの山中の村で聞きとり。
11日:五指山市→三亜。

瓊州大学の林日挙さんと姜鳳雲さん(中国東北部からきた朝鮮族)と、五指山地域での今後の共同聞きとりについて話し合う。
 三亜で、この日の夜到着した崔文子さん、山田祥子さん(仮)、鈴木良絵さん(仮)、銭さん、李さんらと共に、8人で全員会議。

12日:「朝鮮村」→南林→保亭。
「朝鮮村」で、朝鮮人虐殺にかんするあらたな証言を聞く。
張さんとともに林亜金さんの自宅訪問。
 張さんに南林の旧日本軍兵営跡などを案内してもらう。林さんが監禁された「慰安所」があった什浪の位置確認。

 12日朝~13日夕、『海南日報』周元記者、同行取材。
13日:保亭→祖関→田仔郷→三亜。
陳さんの自宅訪問。
黄さんの自宅訪問。
回新村で、『日本が占領した海南島で』上映会。
14日:三亜飛行場跡→崖県→三亜。
『海南日報』に「日本有個“海南NET”」掲載。
http://www.xinhuanet.com/chinanews/2005-09/14/content_5121593.htm
旧日本軍三亜飛行場跡へ。
崖県の慰安所跡で聞きとり。
15日:三亜→文昌→東坡村→海口。
 三亜からバスに乗り継いで、文昌に。文昌で、現在の市販海南島地図にない東坡村の位置を知っている人を探すが、いない。旧日本軍の地図には、軍根拠地の一つとして記載されている。タクシーに乗り、運転手に探してもらうことにする。
 文昌市昌洒鎮に東坡村があった。
 わたしたちが東坡村を探したのは、東坡村に侵入していた海南島侵略日本軍第15警備隊所属の海軍警察官であった松島氏(1919年生)から証言を聞いたことがあったからである。
 わたしたちが、2004年8月に自宅に尋ねたとき、松島氏は、「東坡の市場で、豚肉などを徴発した。望楼は村人につくらせた。嫌がったら叩かなあかん。痛い目にあう。日当はない。食事もない。日本軍が東坡で人を殺したことはない。共産党員を探しに行った村で鶏を殺して食った……」と証言していた。
 東坡村の日本軍望楼は壊されていたが、敷石の一部が残されていた。わたしたちは、黄さん(1925年生)、黄さん(1931年生)らから、当時の話を聞かせていただいた。その内容の一端は次のとおりである。
“日本軍は、黄さんらの家を壊して、高さ約25メートル、幅約20メートルの望楼をつくった。東坡村には100人以上の日本兵がいた。共産ゲリラだといって、日本軍は連行してきた人たちをたくさん殺した。殺害場所は、死体は、いま東坡小学校が建っているところだ”。
16日:海口。
『海南日報』に「日韓学者結束尋訪日軍侵瓊罪証之行、他們表示:我們還会再来」掲載。
http://hnrb.hinews.cn/php/20050916/75644.php 
 中国新聞社(通信社)記者に会う。
今年1月はじめに『日本が占領した海南島で』の連続上映会を開いてくれた海南収蔵家協会のみなさんと話し合い。
海南師範大学で上映会。参加者約300人。
17日:海口→三亜。
中国新聞社、「通訊:日本学者十下天涯 追査日軍侵瓊真相」配信。
http://www.hi.chinanews.com.cn/hnnew/2005-09-17/28722.html  
 姜さんに案内され、銭さん、李さんらと旧日本海軍司令部跡などに。当時の建物が現存。
夜、三亜発→広州。
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軍事侵略

2006年06月11日 | 海南島
軍事侵略
海南島を5分割して軍事支配した海南警備府5司令部本部の建物のうち、瓊海の佐世保鎮守府第八特別陸戦隊司令部の建物が、ほぼそのままのかたちで残され、瓊海中学校の校舎として使われている。

1939年4月に、日本軍は海南島西北海岸の白馬井に侵入し、1941年に駐屯地に要塞を構築した。要塞では、「抗日嫌疑分子」に対する拷問がおこなわれたという。いま、日本軍駐屯地跡は、海洋漁業総公司職工子弟学校(小中学校)となっている。校内には旧日本軍の建物の土台などが残されていた。

強制連行
海南島占領直後から、日本軍は、飛行場、港湾、道路などを整備して、海南島の軍事基地化を進めた。同時に、日本軍は、海南島の資源を奪うために、日本企業とともに鉱山開発、電源開発、鉄道・道路・港湾建設などを進めた。
そのために、日本軍と日本企業は、海南島の住民(先住民族黎族・苗族、および漢族の人たち)だけでなく、中国大陸や香港や台湾や朝鮮の民衆、マラヤやシンガポールなどで「捕虜」としたオーストラリア軍兵士やイギリス軍兵士(当時イギリスの植民地とされていたインドの民衆がおおかった)なども、強制労働させた。1942年5月18日付けで、海南警備府司令長官砂川兼雄は、第16警備隊司令に、「印度人俘虜三〇〇名」の香港から三亜までの「護送警戒」を命令している。 
今回の共同調査の初日に、わたしたちは、「朝鮮村」から10キロほど北の紅花村で、陳さんに出会った。90歳をこえているという陳さんは、「日本人が来たときには、ここに住んでいた。2番目の弟が遊撃隊に入っていった。日本人が来て、共産党がどこにいるのかしきりに聞きくので、恐くて山に逃げた。日本軍は、娘を見れば、みんな捕まえていった。日本人が来ると、女は顔に土を塗った。
朝鮮人が道をつくったりする仕事をしているのを見た。人数は多かった。朝鮮人は、青い服を着ていた」と話した。
当時のことをよく知っている周さんが、「朝鮮村」で小学校教師をしている息子の
ところにいっている、と村人が教えてくれたので、訪ねた。
周さん(90歳)は、「黎族の人たちがおおぜい強制的に日本軍のもとで働かされた。わたしも働いた。一戸にひとり、連れていかれた。わたしが住んでいた紅花で朝鮮人は、紅花山で石を切り出して運んだり、道を作ったりしていた。南丁でも見た。三亜飛行場でも朝鮮人をおおぜい見た。わたしが見た朝鮮人は、みんな青い服を来ていた。朝鮮人といっしょに仕事はしなかった。朝鮮人は、とても辛い思いをしているようだった。日本兵が大きな木に朝鮮人をつるして殺したという話しを聞いたことがある」と話した。

1958年4月に、田独鉱山の山麓に、犠牲者を追悼する「日冦時期受迫害死亡工友紀念碑」が、海南鉄礦田独礦区の労働者によって建てられた。2001年(あるいは2002年)、そのそばに海南省人民政府と三亜市人民政府が、「田独万人坑死難砿工紀念碑」を建てた。その碑文には、「朝鮮、印度、台湾、香港、および海南省各市県から連行されてきた労働者がここで虐待され労働させられて死んだ」と書かれている。
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軍隊性奴隷

2006年06月07日 | 海南島
 日本軍が海南島に侵入を開始したのは、1939年2月だったが、はやくも翌3月に、海口の海軍情報部長は、台北の海軍武官室を通じて台湾拓殖会社本社に「慰安所」設置を依頼した。これは、日本外務省・日本海軍・日本陸軍の三省連絡会議の決定にもとづくものであった。台湾拓殖会社は、ただちにこれに応じ、5月に海口に「慰安所」を竣工させた。
 海南島に侵入した日本軍の主力は海軍であった。日本海軍は、海南警備府本部を海口におき、海南島全域を5つに区分し、第15警備隊、第16警備隊、佐世保鎮守府第八特別陸戦隊、舞鶴鎮守府第一特別陸戦隊、横須賀鎮守府第四特別陸戦隊の5部隊に軍事支配させた。第15警備隊の司令部は海口に、第16警備隊の司令部は三亜に、佐世保鎮守府第八特別陸戦隊の司令部は嘉積(現、瓊海)に、舞鶴鎮守府第一特別陸戦隊の司令部は那大(現、州)に、横須賀鎮守府第四特別陸戦隊の司令部は北黎におかれた。日本軍は、司令部をおいた嘉積、海口、那大、三亜、北黎以外の各地でも性的暴行をおこない、「慰安所」を設置した。
今回の共同調査では、わたしたちは、嘉積、海口、那大、三亜、新村、新盈、白馬井、石碌、保亭、加茂、陵水、后石の「慰安所」跡を訪れた。
 海口では、黄礼分さん(1922年生まれ)に、「慰安所」跡を案内してもらった。黄礼分さんは、日本侵略時に、"富乃屋"という「慰安所」を経営していた50歳くらいの日本人"みやざき"が同じく経営していた氷菓子屋で働いていたという。黄礼分さんは、"みやざき"がいつも"富乃屋"にいるので、売上金を持っていくときに、「慰安婦」にされていた女性たちも見たことがあるという。女性は十数人いて、朝鮮人か日本人かはわからないという。"富乃屋"、香港人が経営していた"双美楼"のあった場所を教えてもらったが、当時の建物は残っていなかった。海南警備府本部の場所は、これらの「慰安所」のすぐ近くだった。
 新盈では、朝鮮人女性も収容されていたという「慰安所」とされていた建物(『パトローネ』50号をみてください)のある紅民南街で聞きとりをした。その建物は、取り壊されかけていた。その2軒隣りに住んでいる陳偉さん(1926年生まれ)は、「ここの慰安所は日本人だけが利用した。経営していたのは60歳くらいの日本人だった」と話した。
 保亭では、張応勇さんを再訪し、日本軍隊性奴隷とされていた朝鮮人女性朴来順さんについて、くわしく話しを聞かせてもらった。張さんは、「日本の罪悪史を調査していて、朴さんのことを知った。なんども訪ね、病気になって入院したときも、ほとんど毎日、菓子や果物をもって見舞いに行ったのだが、わたしが毎日来る目的はわかっている、ほとんど死にゆく身だから、もう話してあげよう、とそのころからすこしずつ口を開きはじめた。故郷に帰りたかったら、領事館を通じて話してあげようといったが、ここで長い間暮らしたのだから、ここで死ぬといった」と話した。朴さんは、日本の軍艦にのせられて、1942年2月に海口につれてこられ、「慰安所」にいれられ、1943年1月に、三亜紅沙の「慰安所」に移された。そこには、田独鉱山の近くで、日本軍人だけでなく石原産業の関係者もきたという。
 張応勇さんに、朴来順さんが死ぬときまで住んでいたところ(保亭亭県公路局宿舎)に案内してもらった。また、生前の朴来順さんと親しくつきあい、いまは朴来順氏の墓の世話もしているという林玩香さん(1939年生まれ)を紹介してもらった。

 海南島に連行され、「慰安婦」をさせられた朝鮮人女性の数は、はっきりしない。これまでのわたしたちの調査と『文史史料』などの記述を総合すれば、海口、三亜、石碌、藤橋、陵水などの「慰安所」に収容されていた朝鮮人女性は70~80人となる。今後、調査をすすめれば、この数はさらに増えるかもしれない。1845年に「三亜航空隊」の第二中隊長であった楢原によれば、飛行場近くの"つばき荘"という名の「慰安所」には、朝鮮人女性15人が「収容」されていたという(楢原留次「海軍経歴と海南島勤務」、『三亜航空基地』三亜空戦友会事務所刊、1980年)。

 保亭黎族苗族自治県では、張さんに案内されて、少女時代に性奴隷とされた黎族の黄玉鳳さんと陳金玉さん、苗族の鄭玉民さんの自宅を訪ね、話しを聞かせていただくことができた。この人たちは、両親や姉妹兄弟たちといっしょに暮らしていた村に侵入してきた日本軍の将兵によって、12歳から14歳のとき自由を奪われ、継続的に性的暴行をうけていた。
 陵水黎族自治県では、黎族の陳亜扁さんに話しを聞かせていただいた。陳さんは、家にきた日本軍人に自分の家で強姦され、日本軍に連れて行かれるのを、両親はどうすることもできなかった、という。 
 黄玉鳳さん、陳金玉さん、鄭玉民さん、陳亜扁さんは、黄有良さん、林亜金さん、譚亜棟さん、譚玉蓮さんとともに、8人で、日本国を被告として、「名誉及び尊厳の回復のための謝罪」と「名誉及び尊厳の回復がなされてこなかったことに対する損害賠償」を求めて、2001年7月に訴状を東京地裁にだし、11月28日に第1回口頭弁論がひらかれた。
 2003年1月22日の第6回、3月19日の第7回口頭弁論のあと、5月中旬から原告証言、証拠調べが開始される予定である。
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海南島2002年10月

2006年06月04日 | 海南島
海南島2002年10月 海南島における日本の国家犯罪の共同調査

韓国挺身隊研究所とともに
 2002年10月、紀州鉱山の真実を明らかにする会は、韓国挺身隊研究所と共同で、海南島における日本の侵略犯罪の「現地調査」をおこなった。
 これは、紀州鉱山の真実を明らかにする会にとっては、5回目の「現地調査」だった。
 紀州鉱山の真実を明らかにする会は、1998年に石原産業が海南島で経営していた田独鉱山における強制労働の調査をはじめ、それ以後、日本の海南島侵略の実体をできるだけ具体的に、全体的に知ろうとしてきた。
 今回、韓国挺身隊研究所は、海南島における日本軍隊性奴隷制度の「調査」を主目的とし、とくに「日軍朝鮮人慰安婦」との出会いを願っていた。10日間の共同調査の過程で、参加者全員は、日本軍隊性奴隷制度もまた、日本の侵略史総体の中で追求しなければならないことを再確認した。

住民虐殺
 1939年2月から1945年8月までの6年半の間に、占領下の海南島で、日本軍と日本企業によっていのちを奪われた犠牲者の数も、名前も、ほとんどが明らかになっていない。
 日本の防衛研究所図書館が所蔵している『海南警備府戦時日誌』(月刊)や『海南警備府戦闘詳報』には、海南島で日本軍が殺害した「敵」の数が毎月数百人と記述されている。占領下の台湾で日本軍警が殺害した人の数は、10万人に近い(あるいはそれ以上)と考えられるが、海南島での犠牲者の数もそれに近いと思われる。
 共同調査前の一週間、紀州鉱山の真実を明らかにする会は、日本軍が住民虐殺をおこなった海南島の村のいくつかを訪ねた。日本のマスメディアが、国民日本の歴史的国家犯罪を問うことなく、北朝鮮への日本人誘拐問題にかんして連日膨大な「情報」を流しているさなかだった。
 
 1941年農暦3月18日、朝日がのぼってまもなく、軍用車にのって40人ほどの日本兵が、海南島東北部の文昌県重光鎮昌文村を包囲した。その数日前、日本軍の車両が村の近くで襲撃されていた。日本兵は、村人を銃でおどして「祠堂」にあつめ、まわりを焚き木で囲み、積んできた石油をまいて、火をつけた。このとき、人口130人あまりの村の106人が殺された。3年半後、日本軍がいなくなってから、生き残った村人が遺骨を拾い、近くに墓をつくった。

 李さんから、わたしたちは話しを聞かせていただくことができた。当時10歳だった李さんは、日本軍の姿をみるとすぐに逃げて助かったが、病気でねていた老人や赤ん坊までが焼き殺された「祠堂」の跡に近づくのがいまでもつらい、という。

 1941年3月17日、日本軍は、昌文村のとなりの白石嶺村を襲い、40人の村人を殺した。わたしたちは、祖父母を殺された林さんに案内されて虐殺現場にいった。

 文昌県重光鎮の北西20キロほどに定安県黄竹鎮がある。1941年8月25日(農暦7月3日)早朝、日本軍は黄竹の大河、后田、牛耕坡、周公の四村を襲撃した。この日、日本軍によって、109人(大河村で79人、后田村で23人、牛耕坡村で3人、周公村で4人)が殺された。あの日、符さんと符さんは、遠くまで牛追いに行っていて、生き残ることができたという。

 定安県黄竹鎮の70キロ南に、瓊海市北岸郷がある。1941年6月24日(農暦5月30日)、日本軍は北岸郷の北岸村と大洋村を襲撃した。数日間に、499人の村人や通行人が惨殺されたという。

 瓊海市北岸郷の西隣りの九曲江郷でも、多くの人々が日本軍に殺された。大虐殺がおこなわれたのは、日本の敗戦4か月まえ、1945年4月12日(農暦3月1日)だった。

1941年5月13日未明、日本軍は、瓊海市九曲江郷北方の波鰲村、上嶺園村、上辺嶺村を襲って、住民を殺害した。わたしたちは、波鰲村で、生き残った王京海さんと林さんから話しを聞かせてもらった。日本兵は、村人を殺したあと、家を燃やしたという。

 日本政府は、海南島で日本軍がいのちを奪った人びとすべての、名前、殺害場所、殺害状況、殺害方法、遺骨のありかを明らかにし、責任者を処罰し、謝罪し、賠償しなければならない。
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