三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

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「海南島の記」

2010年10月27日 | 海南島史研究
 1941年1月から2月にかけて、日本海軍省は、侵入して侵略犯罪をくりかえしている日本軍将兵を激励する「文芸慰問団」を、中国南部(厦門、汕頭、広東)、海南島に派遣した。その団長は、海軍大佐古田中博であり、団員は、長谷川時雨、尾崎一雄、宮尾しげお、円地文子、小山勝清、熱田優子ら10人だった。
 かれらは、1月19日に海南島の首都海口に着き、海南島侵略日本海軍特務部の建物に1週間宿泊して、周辺の日本軍部隊を「慰問」したあと、軍用車で三亜に行き、さらに軍用車で、「分遣隊」を「慰問」するために保亭に行った。その時のことを円地文子(1905年~1986年)は、『婦人公論』1941年4月号に発表した「海南島の記」に、つぎのように書いている。

    「この討伐に尊い汗を――否、血を流した国民が、或いはその子孫が今から何
   年かの後、この道路が見事にとりひろげられ、沿道に日本人の施設した文化が美
   しく華咲くのを見たなら、どのような感慨にうたれるであろう」、
    「私は何度も海南島の討伐道路を自動車で走りながら、軽井沢の高原を思い、
   伊豆の海岸を思い起した」、
    「こうした従順な、しかし極めて民度の低い民をいかに取扱ったものかについ
   てもこの地で沢山の課題を授けられたように思う」、
    「奥地の山岳地帯に蟠踞している匪賊の討伐に従事する将士の労苦は想像の
   外と思わねばならぬ」、
    「海軍の設営隊の手で敷設された討伐道路がある。…………沿道の一木、一
   草、一塊の土にも石にも私達の同胞の流した血と汗が凝っているのを感じない
   ではいられない」。

 日本軍が海南島の民衆の生活を破壊し、海南島民衆からおおくのものを奪い、「討伐」と称して、民衆虐殺をくりかえしているさなかに、円地文子は海南島に侵入し、日本軍に護衛されて「海南島の討伐道路」を通過した。そして、大地と海を占領しようとする侵略者と戦う海南島の抗日反日戦士たちを、「奥地の山岳地帯に蟠踞している匪賊」と、火野葦平と同じコトバで表現しつつ、「私達の同胞の流した血と汗」や「匪賊の討伐に従事する将士の労苦」を語り、海南島民衆殺戮を肯定・煽動していた。
 「海軍省の計畫による海軍の文芸慰問団」の団長として円地文子らと海南島に侵入した海軍大佐古田中博は、1941年4月に、海軍館での海軍協会主催の講演会で、
    「この島の敵匪討伐を一手に引受けて居る陸戦隊の苦心、労苦といふものには
   全く涙ぐましいものが多く、感謝に堪えない」、
    「陸戦隊は山の中の第一線に入つて見ても、、実によく道を造つて自動車が通つ
   て居ります」、
と語っており(古田中博「海南島見たまゝ」、『海之日本』202号、海軍協会、1941年5月)、『海を越えて』(1941年6月号。日本拓殖協会)に掲載された「海南島見聞記」に、
    「海南島の土人達は無学低級の農民で、而もなまけもの」、
    「海南島こそは神様が、その開拓を大和民族にのみ残されて居たものと堅く信ず
   ると共に、之れを開発することは天意に報ゆるものと叫ばざるをえない」
と書いている。

 アジア太平洋戦争開始1年9か月後、1943年8月に東京で開かれた「大東亜文学者決戦会議」で円地文子は、
    「今日大東亜のこの決戦下に於いて日本の将兵が大君のため、御国のために
   生死を超越した見事な働きを戦線でなして居りますのも、過去三千年の輝かし
   い伝統を通して、平和の時には我々のうちに眠っているように見えます純潔な
   大和民族の血潮がこういう非常時の秋に蘇り、逞しく流れていると思われるの
   でございます」
とのべていた(櫻本富雄『日本文学報国会 大東亜戦争下の文学者たち』青木書店、1995年)。
 円地文子は1984年に『うそ・まこと七十余年』と題した自伝を出したが、そこには、1940年から「新体制運動」に積極的に参加していたときのこと、1941年1月~2月に「海軍省派遣の文芸慰問の旅行」をしたときのこと、「日本文学報国会」の女流文学者委員会の委員だったときのこと、1943年10月に「日本文学報国会」の「視察団」の一員として朝鮮に行ったときにおこなったことについては、具体的に何も書いていない。
 最悪の戦争犯罪者ヒロヒトは、1985年に、円地文子に、「文化勲章」を「授与」した。『うそ・まこと七十余年』出版の翌年だった。
 円地文子は、日本軍の「討伐」を全的に肯定・支持した過去を自伝から消し去り、海南島民衆にたいする「従順な、しかし極めて民度の低い民」というたぐいの発言を、死ぬときまで取り消すことがなかった。
                                    佐藤正人
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