三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

紀州鉱山で亡くなられた朝鮮人を追悼するはじめての集会をおこないます

2007年12月19日 | 紀州鉱山
と  き :2008年3月9日(日) 午後1時~4時
と こ ろ :紀州鉱山跡地(熊野市紀和町板屋)
主  催 :紀州鉱山の真実を明らかにする会

 紀州鉱山を経営していた石原産業が、1946年9月に三重県内務部に出した「名簿」によれば、紀州鉱山では、アジア太平洋戦争中に1000人を越える朝鮮人が強制連行され強制労働させられていました。
 この「名簿」や紀州鉱山で亡くなった労働者の名を記した石原産業の『従業物故者 忌辰録』、紀和町の寺に残された遺骨や記録によって、紀州鉱山で、30人余りが亡なくなっていることがわかりました。
 『紀和町史』には、紀州鉱山に朝鮮人が強制連行されていたことは、ひとことも書かれていません。また、紀和町にある鉱山資料館にも、朝鮮人についての「展示解説」はありません。
 紀州鉱山には、「泰緬鉄道」工事で生き残ったイギリス軍捕虜300人も強制連行され働かされていました。そのうち亡くなった16人の「墓」が、「外人墓地」と名づけられ、「紀和町指定文化財」とされています。これは、石原産業の社長石原宏一郎がA級戦犯容疑者として逮捕されてから、急遽つくられたものです。

 紀州鉱山の真実を明らかにする会は、1997年2月の会結成前から、韓国で、紀州鉱山に強制連行された人びとの故郷を訪ね歩き、存命の方たちからお話しを聞かせていただいていました。そして、紀州鉱山での朝鮮人強制連行・強制労働の事実をおおくのみなさんとともに明らかにしていくとともに、亡くなった朝鮮人を追悼するための何かをしたいと考えてきました。
 それから、10年以上が過ぎました。わたしたちの怠慢をお詫びするとともに、みなさんとともに、紀州鉱山で亡くなられた朝鮮人を追悼する集会をおこないたいと思います。
 ぜひご参加ください。

 追悼集会の前日、8日に、紀州鉱山の「現地調査」をおこないます。
 選鉱所跡、坑口、朝鮮人労働者の宿所跡、墓地、朝鮮人の遺骨が残されていた本龍寺、朝鮮人犠牲者の名が記されている「記録帳」がある慈雲寺などを回るとともに、当時のことを知るかたから証言を聞かせてもらいます。
 「現地調査」のあと、8日は、朝鮮人宿所があった湯の口に宿泊します。
                     連絡先 竹本 昇
                          電話090-8860-9961 
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「震洋」隊員の証言

2007年12月17日 | 海南島史研究
 アジア太平洋戦争末期、USA軍の「本土上陸」をすこしでも遅らせ、天皇制を維持するために、ヒロヒト・日本政府・日本軍中枢は、日本人青年や朝鮮人青年に「特攻」という自爆攻撃を行なわせました。
 海南島には、「震洋」というベニヤ板でつくられた自爆用モーターボートを「武器」とする部隊が3隊1945年2月に送られました。「震洋」格納用洞窟のいくつかは、いまも海南島に残されています(『海南島で日本は何をしたのか 虐殺・略奪・性奴隷化 抗日反日闘争』16頁、写真集『日本の海南島侵略と抗日反日闘争』64頁をみてください)。
 きょう(12月17日)、「第32震洋隊」の隊員だった関口俊輔さんに、群馬県の自宅の近くで話しを聞かせてもらいました。
 きょうの話しは、すべて名前をだして公表してもいいとのことでした。
 関口さんの話しの要点は、つぎのとおりです。
                                              佐藤正人


 1927年に生まれた。中学5年のとき、奈良の予科練に入った。1943年12月1日、16歳だった。正確に言うと、三重海軍航空隊奈良分遣隊だ。飛行機にのりたくて入ったのだ。いまの天理市にあった。海軍が天理教信徒の宿所を全部接収して予科練の宿舎にしていた。70棟ほどあったと思う。
 1944年6月1日に海軍飛行兵長になった。そのころまでは、飛行機にのるという夢は消えていなかった。1944年春ころ、飛行機のように海を飛ぶ特殊兵器が発明されたと聞かされていた。あとで、その新兵器が「震洋」という名だということを知った。
 1944年8月に、「震洋」の乗組員になりたい者は志願せよというはじめての公示がだされた。そのときには、志願者は、①長男でないこと、②家庭に戦死者がいないこと、③ひとりっこでないこと、という条件がつけられていたが、9月からの2回目以後の志願のときからはそんな条件はなくなっていた。
 わたしは長男だったが志願し、10月1日に第5次掌震洋講習生になり、10月22日に海軍甲種飛行予科練習所に入隊した。第5次掌震洋講習生になったときは、口頭でそう言われただけで、発令にかんする文書はもらわなかった。「特別攻撃隊」ということばは、そのときは使われていなかったが、「震洋」が自爆兵器だということは、ウスウス気づいていた。そしてそのころ、飛行機にのるという夢を失っていた。
 11月末に奈良からの移動を命令され、夜、汽車に乗せられた。行き先は教えられなかった。夜が明けて左側に海が見えたので、瀬戸内海だと思った。その夜、川棚に着いた。
 川棚は、大村湾のオグシ港の近くで、急造された停車場があった。そこに横須賀鎮守府の水雷学校の分校があり魚雷艇訓練所があった。わたしは、川棚海軍臨時魚雷艇訓練所に入った。
 「震洋」に乗って、夜8時ころ出発し、大村湾を一周し、12時か1時ころ戻るという訓練を、1か月半ほど、ほとんど毎日やった。「震洋」は1型から8型まであったが、実際に使われたのは、1型と5型だった。1型は1人乗り、5型は2人乗りだ。わたしは1型に乗った。全長5メートル10センチほど、幅1メートル60センチほどで、トヨタの自動車のエンジンを、1型は1台、5型は2台積んでいた。船体はベニヤ板だった。
 12月末に部隊が編成された。わたしは第32震洋隊に入れられた。隊長の名は、辻田。一昨年死んだ。
 川棚に「殉国特攻の碑」がある。海南島にいった震洋隊は、特攻攻撃しなかったが、フィリピンなどではずいぶん死んだ。その碑だ。益田元第103震洋隊隊長が、その碑の保存会の会長をやっている。
 海南島に行ったのは、第32震洋隊、第33震洋隊、第103震洋隊の3隊だった。この3隊全員が、1945年1月29日に、聖川丸(キヨカワマル)という大きな船にのって佐世保を出た。聖川丸は特設水上機母艦だった。「震洋」約200隻もすべて積み込んでいた。
 佐世保を出て、下関港外の六連島沖に停泊したのち、済州島沖を通って黄海に出て、沿岸沿いに南下してアモイ東爪港に寄って海南島の楡林港に着いた。2月5日だった。
 日本を出るときも途中も、どこに行くかまったく知らされなかった。着いてはじめて海南島にきたことを知った。
 そのときにはまだ震洋格納庫の宿所もかったので、楡林港安由の石原桟橋近くにあった検疫所跡に入った。石原桟橋というのは、石原産業の田独鉱山の鉄鉱石を積み出す桟橋だ。
 4月上旬まで、楡林湾でほとんど毎晩、震洋の練習をした。震洋はベニヤ板でできているので、サンゴ礁にひっかかるとすぐ壊れるので苦労した。
 4月10日、13日、16日の3回に分けて、陵水の新村基地に移った。通信兵や整備兵や衛生兵は陸路で移動したが、搭乗員はすべて震洋で移動した。
 新村に行ってみると、格納庫も宿所もできていた。誰がつくったかわからなかった。
 「秘密基地なので、つくったクーリはみんな殺されて埋められたようだ」、という噂を当時聞いたことある。
 新村では、2日か3日おきに陵水に遊びに行った。遊びといっても市場で甘いものを買ったりビーフンを食べたりすることくらいだったが……。市場で、クイーンメリーというイギリスのタバコを買ったことがある。ベトナムからジャンクで密輸されたものだ。
 買い物はすべて軍票で支払った。1945年8月15日から、軍票はまったく使えなくなった。
 慰安所は新村にはなかったが、陵水や楡林にはあった。楡林の慰安所は高床式だった。
 新村から三亜の海南海軍警備府本部まで通信用の電線がひかれていたが、ときどきゲリラによって切りとられた。
 海南島の部隊の武器は少なかった。大本営は、全員を玉砕させることにしていたのだ。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

紀州・熊野地域における「素朴な愛町心」とのたたかい 4

2007年12月15日 | 木本事件
■6、金而敬さんと月淑さんと敬洪さん
 相度さんは、妻金而敬さん、3人の幼い子ども(月淑さん、敬洪さん、良淑さん)といっしょに木本に働きにきていました。相度さん一家はほかの朝鮮人労働者といっしょに、いまの木本高校近くの西郷川河川敷にあった飯場でくらしていました。夫が殺されたとき、金而敬さんは妊娠9か月でした。
 長女の月淑さんは、杉浦新吉さんの1916年生まれの妹さんより1歳年上で、木本小学校にかよっていました。学校には仲のよい友達がいました。
 そのひとり、橋谷ますえさんは、1988年11月8日に、こう話しました。
    「小学生のとき、朝鮮人の同級生がいた。姓は秋山。
   無口で、勉強はよくできた。かわいかったよ。いちば
 んの仲よしだった。
    いつもいっしょに遊んでいた。家が飯場に近かった。
    お父さんが殺されて、学校やめて大阪に行った。泣
   きもて別れた。
    船、見送ったよ。もう一度、会いたいわの」。

 朝鮮に戻ったあと、月淑さんは、1928年12月31日に13歳8か月の生涯を終えました。金而敬さんもその3年後に亡くなりました。

 1994年11月20日、三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・相度)の追悼碑を建立する会は、韓国から相度さんの孫、哲庸さんら遺族3人を迎えて、追悼碑の除幕式をおこないました。 
 相度さんの子、敬洪さんは、体調がすぐれず、参加できませんでした。
 その7か月後、1995年6月14日に、キム チョンミは、釜山に行き敬洪さんと会うことにしていました。しかし、この日の朝4時半に、敬洪さんは急死しました。74歳でした。追悼碑が建ってから、半年あまりしか経っていませんでした。

■7、地域・国家・天皇(制)
 三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・相度)の追悼碑を建立する会は、1989年6月4日の創立大会の翌日、熊野市に、追悼碑建立、遺族への謝罪、『熊野市史』の書きかえを求めました。
 追悼碑建立にかんしては、熊野市はいったんその費用として市議会の議決を経て200万円を計上しながら、碑文案を検討の際に、わたしたちの会名から「虐殺」というコトバを削除してほしいなどといい、それをわたしたちが拒否すると、追悼碑建立を中断してしまいました。会は、独自に、おおくの人たちからの寄金をもとに、木本トンネル入り口の高台の土地を購入し、追悼碑を建立しました。
 熊野市長は、相度さんの子、敬洪さんが熊野市を訪れたさい、面会し謝罪しようとしませんでした。
 そして、熊野市と熊野市教育委員会は、木本虐殺(熊野虐殺)81年後のいまも、住民による朝鮮人襲撃・虐殺を「まことに素朴な愛町心の発露」とした『熊野市史』の記述を根本的に取り消そうとしていません。
 会は、1994年10月に追悼碑を建立してから、毎年晩秋に、追悼碑まえの広場で追悼集会を開き、参加者は、そのあと虐殺現場をとおって極楽寺墓地に行っています。また、1999年から、会は、同じ時期に、熊野市民会館で、「木本事件」にかんするパネル展示をおこない、「木本事件」の原因と歴史的意味熊野市民とともに考えようとしてきました。
 木本トンネル近くの海岸の崖(観光地となっている「鬼が城」の南側)に、2本の洞窟があります。それは、「本土決戦」時にUSA軍に対抗するために熊野海岸に配置された日本海軍の倉庫用洞窟で、それをつくるとき朝鮮人学徒兵も働かされたといいます。
 2005年年11月に、紀和町は熊野市に併合されました。旧紀和町にあった紀州鉱山では、1000名を越える朝鮮人が強制連行されており、そのうちの約20名が事故などで死亡しています。紀州鉱山を経営していた石原産業は、日本海軍とともに海南島の田独鉱山でもおおくの人びとを酷使し、いのちを奪っていました。

 李基允さんと相度さんを追悼する碑の碑文板に、わたしたちは、朝鮮語と日本語で、
    「李基允氏と相度氏が、朝鮮の故郷で生活でき
   ずに、日本に働きにこなければならなかったのも、
   異郷で殺されたのも、天皇(制)のもとにすすめら
   れた日本の植民地支配とそこからつくりだされた
   朝鮮人差別が原因でした」、
    「わたしたちは、ふたたび故郷にかえることので
   きなかった無念の心をわずかでもなぐさめ、二人の
   虐殺の歴史的原因と責任をあきらかにするための一
   歩として、この碑を建立しました」
と、書きました。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

紀州・熊野地域における「素朴な愛町心」とのたたかい 3

2007年12月14日 | 木本事件
■4、「素朴な愛町心の発露」
 1983年に熊野市が発行した『熊野市史』中巻に、町民が朝鮮人を襲撃・虐殺したことが、「木本町民としてはまことに素朴な愛町心の発露であった」と書かれています。
 1994年に熊野市は、熊野市教育委員会内におかれた熊野市年表編集委員会が編集した『熊野市年表』を発行しました。その1926年の欄に、
     「木本トンネル工事に従事していた朝鮮人労働者
    と町民との間で『木本事件』が起こり朝鮮人労働
    者2名の犠牲者が出る」
と書かれていますが、この短い文においても、熊野市と熊野市教育委員会は「事件」の本質をあいまいにしています。
  『熊野市史』中巻(近現代篇)の「総論」には、
     「我が日本は……惨敗をきっし、太平洋戦争だけ
    でも、六百万人(民間人を含む)という尊い犠牲のう
    えに、新しい戦後の時代を迎えた」
と書かれていますが、日本の侵略によって命を奪われた数千万人のアジア太平洋民衆の犠牲者については、なにも書かれていません。この「総論」では、木本虐殺を「朝鮮人騒動」と表現しています。
  『熊野市史』中巻の本文には、「南京占領の報道が伝わると国民は一入[ひとしお]感激し、町や村で祝賀会が続いた」と書かれていますが、南京大虐殺については、なにも書かれていません。
  『熊野市史』上巻(自然篇、古代・中世篇、近世篇)には、「熊野の古代史を見るとき、神武天皇を除いて考えることはできない」などと書かれています。
  「まことに素朴な愛町心の発露」という表現がなされている『熊野市史』は、天皇制を肯定し、他国他地域侵略を肯定する立場で書かれています。
 このような『熊野市史』は書きかえさせなければなりませんが、それは、熊野地域だけの問題ではありません。日本各地域の都道府県史、市町村史のおおくに、『熊野市史』問題とおなじ性質の問題があります。
 
■5、ともにたたかった人たち
 木本トンネルは、地域住民の生活を便利にするためのものでした。そのトンネルを遠い朝鮮から来て掘っていた朝鮮人労働者を、その地域の住民が集団で襲撃し、2人を虐殺しました。その後、木本警察は、虐殺者を逮捕しようとしないで、逆に、虐殺者集団である在郷軍人会、消防組などとともに、襲撃を逃れようとしたすべての朝鮮人を逮捕しようとし、徹夜で山狩りをおこないました。その山狩りには、女性や子ども、高齢者を除く地域の住民のほとんどが参加しました。虐殺した者たちが特定されることも、木本町長や木本警察署長らの責任が問われることもありませんでした。

 虐殺203日後、1926年7月26日に、木本トンネルの竣工式が行なわれ、町民は、「旗行列」をしてトンネル開通を祝いました。その1週間後、8月2日に、安濃津地方裁判所で、「木本事件」の第1回公判が開かれました。
 被告は朝鮮人側15人、日本人側17人でした。朝鮮人側被告には、林林一さん、高橋萬次郎さん、杉浦新吉さんの3人の日本人がいました。この3人は、朝鮮人労働者とともに、襲撃してくる日本人集団に対抗してたたかった人たちでした。 
 朝鮮人が在郷軍人や消防組員らに襲撃されたとき、金明九さんら朝鮮人とともにダイナマイトを投げて反撃した林林一さんは騒擾罪と爆発物取締罰則で、高橋萬次郎さんと杉浦新吉さんは騒擾罪で起訴されました。
 わたしたちは、3人の行方をたずね、ようやく、1990年10月5日に、和歌山県東牟婁郡小口で、杉浦新吉さんの娘さんと妹さんに会うことができました。
 杉浦新吉さんは、1932年10月1日に病死していました。娘さんが2歳のときでした。
 在日本朝鮮労働総連盟、在東京朝鮮無産青年同盟会、三月会、一月会が、1926年2月10日に連名で出した檄文「三重県撲殺事件に際して全日本無産階級に訴ふ」に、「我々朝鮮人労働者が今に生命を失はんとする刹那林林一、高橋萬次郎等日本労働者は勇敢にも我々に味方してタイナマイトを取った……」と書かれています。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

紀州・熊野地域における「素朴な愛町心」とのたたかい 2

2007年12月13日 | 木本事件
■2、「墓石」
 李基允さんと相度さんは、虐殺されたあと、現場近くの極楽寺の墓地に放置されました。
 1926年2月4日の『朝鮮日報』は、ふたりの「惨死体」に烏が「雲集」していたと報道しています。
 のちに、1926年2月の日付で、ふたりを「雇用」していた田中孫右衛門が極楽寺墓地北側のすみに「墓石」を建てました。それには、「春雪信士」「鮮人 春山清吉」「秋相信士」「鮮人 秋山正吉」という文字が刻まれていました。差別戒名と差別語が刻まれ、本名ではなく「日本人名」が刻まれている「墓石」でした。
 この「墓石」は、50年ほどまえ、極楽寺の広い無縁墓地に移されました。こころない当時の住職は、ふたりの「墓石」を離ればなれに置きました。
 1989年4月24日、相度さんの二男敬洪さんが、アボヂが虐殺され家族で木本を離れたあとはじめて熊野市を訪れました。このとき、ふたりの「墓石」は階段状の無縁墓地から地上に降ろされ、並べられました。敬洪さんは、「アボヂはともだちといっしょにおられるのか」と、つぶやくように言いました。
 1996年12月に、足立知典さんが極楽寺の新しい住職になりました。
 1999年11月21日に、わたしたちは、6回目の追悼集会のあと、極楽寺墓地に行き、さらに本堂で記念集会をもち、ふたつの「墓石」に刻まれている民族差別について話し合いました。
 その後、足立知典さんは、朝鮮人差別を象徴するこの「墓石」に代わるものを作りたいと考えました。2000年11月18日、7回目の追悼集会のあと、参加者が極楽寺墓地に行くと、そこには、李基允さんと相度さんの墓碑が建てられてありました。足立知典さんが建てたものでした。韓国から運ばれた石でつくられた墓碑には、李基允さんと相度さんの本名が刻まれていました。

■3、松島繁治さん
 1988年初夏にはじめてキム チョンミが熊野市を訪れたとき、極楽寺の無縁墓地にふたりの「墓石」があるはずだといい、その場所を教えてくれたのは、近くに住む松島繁治さんでした。
 そのとき、松島繁治さんは、キム チョンミに、
     「ふたりのことをちゃんとしてくれる朝鮮人が、かな
    らず、いつか来ると思って待っていた。
     あのころ、わたしは、極楽寺墓地の前の家に住んでい
    た。部屋の窓からふたりの遺体を見たことがある。むし
    ろが、かぶされていた。事件の夜は、こわくて家にかく
    れていた。
     2年半ほどまえの大地震のときには、東京で丁稚奉公
    をしていた」
と話しました。松島さんは、極楽寺墓地山側の30段ほどの石の階段にぎっしり積み上げられている1000個ほどの「無縁」の墓石のなかにあったふたりの「墓石」のありかを教えてくれました。
 松島繁治さんと在日朝鮮人キム チョンミとの出会いがなかったら、ふたりの「墓石」は、極楽寺の無縁墓地にいつまでも放置されたままだったでしょう。
 追悼碑を建立する会が結成されると、松島さんは、たいへん喜び、じぶんができることはなんでもやる、と言い、事実調査のために、さまざまなかたちで協力してくれました。
 あるとき、松島さんは、町の人に、「あんたは朝鮮人か」と言われたといいます。
 1994年5月1日に起工式をおこなった追悼碑は、10月23日に建ちあがりました。
 その日、家で高齢のため臥せていた松島さんは、追悼碑をぜひ見たいと言いました。
 会員の斎藤日出治が松島さんを背負い、キム チョンミが後ろから支えて細い石段をのぼって、追悼碑の前に行きました。
 11月20日、追悼碑の除幕式の直前、11月1日、松島繁治さんは、85歳で急死しました。
 木本虐殺2か月まえ、1925年10月に、李基允さんと相度さんが傷害罪容疑で不当に裁判にかけられたとき、松島繁治さんは、その裁判を傍聴し、ふたりを見ています(判決は、無罪)。松島繁治さんが亡くなり、ふたりの顔を覚えている人がいなくなりました。李基允さんと相度さんの写真は残されていません。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

紀州・熊野地域における「素朴な愛町心」とのたたかい 1

2007年12月12日 | 木本事件
             軍縮市民の会編『軍縮問題資料』2007年12月
             号(軍縮研究会発行)に掲載された文章を4回
             にわけて連載します。
                 三重県木本で虐殺された朝鮮人労
                 働者(李基允、相度)の追悼碑
                 を建立する会


■1、追悼碑
 1926年1月3日、三重県木本町(現、熊野市)で、在郷軍人、消防組員、自警団員などが、朝鮮人を襲撃し、李基允さんと相度さんを、とび口や日本刀で虐殺しました。
 その2年4か月まえ、1923年9月に、関東各地で、日本兵や警察官や消防組員や青年団員や自警団員などが、多くの朝鮮人と中国人を虐殺していました。
 1988年9月11日に、朝鮮人労働者(李基允・相度)の追悼碑を建立する会(準備会)が発足しました。金静美「三重県木本における朝鮮人襲撃・虐殺について」(『在日朝鮮人史研究』18号、在日朝鮮人運動史研究会、1988年10月)が公表されるすこしまえでした。
 その6年あまりのちの1994年11月20日に、木本トンネル南側(木本町側)の高台に追悼碑が建てられました。

 その追悼碑の横に建てられた碑文板には、木本虐殺の事実経過が、つぎのように記されています。
    「1925年1月、三重県が発注した木本トンネルの工事がはじ
   められました。
    この工事には、遠く朝鮮から、もっとも多いときで200人の
   朝鮮人が働きに来ていました。
    工事が終わりに近づいた1926年1月2日、朝鮮人労働者の
   ひとりが、ささいなけんかから日本人に日本刀で切りつけ
   られました。
    翌1月3日、朝鮮人労働者がそれに抗議したところ、木本
   の住民が労働者の飯場をおそい、立ち向かった李基允氏が
   殺されました。
    さらに木本警察署長の要請をうけて木本町長が召集した
   在郷軍人らの手によって、相度氏が路上で殺されました。
    その時から3日間、旧木本町や近隣の村々(現熊野市)
   の在郷軍人会、消防組、自警団、青年団を中心とする住民
   は、竹槍、とび口、銃剣、日本刀、猟銃などをもって、警
   察官といっしょになって、山やトンネルに避難した朝鮮人
   を追跡し、とらえました」。

 李基允さんと相度さんが虐殺されたのは、大韓帝国が日本帝国に「併合」されてから16年後でした。「韓国併合」の3か月まえ、1910年6月1日には、幸徳秋水さんが逮捕され、大規模フレームアップ弾圧(“大逆事件”)が開始されていました。
 熊野市南方約20キロの新宮市で、2001年8月25日に、紀州(新宮)に関係が深い“大逆事件”犠牲者、大石誠之助さん、成石平四郎さん、成石勘三郎さん、高木顕明さん、峯尾節堂さん、久保誓一さんら6人の「名誉回復」を実現しようとする「“大逆事件”の犠牲者を顕彰する会」が設立されました。1か月後の9月21日、新宮市議会は、市が提案した「名誉回復・顕彰宣言」を、全会一致で可決し、2003年7月20日、新宮市内に、6人の「顕彰碑」が建てられました。碑には、「志を継ぐ」と刻まれています。
 李基允さんと相度さんを追悼する碑から20キロほど離れた新宮市南谷墓地には、1997年9月25日に「高木顕明師顕彰碑」が建てられました。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

月塘村で 13

2007年12月05日 | 月塘村
 10月29日に、朱開周さん(80歳)は、自宅の前で、つぎのように話しました。
 朱開周さんの家は、朱学平さんのむかしの家のすぐ近くです。朱学平さんのむかしの家は、日本兵に焼かれたあと土台石だけが残っています。その向かいにあった朱開琨さんのむかしの家も、日本兵に焼かれ、土台石だけが残っています。

    「わたしの前母、わたしの母、父の従弟の母、叔父の妻、父の
   従弟の妻、父のもうひとりの従弟の妻、その弟の7人が日本兵
   に殺された。父はそのまえに死んでいた。
    家にはいってきた日本兵は、7人をひざまずかせ、銃剣で刺し
   た。
    わたしは、台所の入り口のかげに立っていたので見つからな
   かった。
    父の従弟の母は台所の前で死んだ。
    そのあと、日本兵は、家に火をつけた。
    日本兵がいなくなってすぐに一人の順民軍の兵士が来て、わ
   たしを家のうしろにつれていって隠してくれた。順民軍は、
   日本軍といっしょに来ていた」。

 話の途中で、朱開周さんは、わたしたちを家の中に案内してくれました。当時の家は日本軍に焼かれてしまい、再建したそうです。朱開周さんは、7人が殺された場所、じぶんが隠れた台所のあった場所を示してくれました。むかしと同じ場所に、いまの台所もつくったとのことでした。
 朱開周さんの家をでたあと、朱学平さんのむかしの家のあった場所にいた朱学山さん(年齢は、はっきり知らないが77歳くらいだとのことです)に話を聞かせてもらいました。朱学山さんは、つぎのように話しました。

     「父(朱開吉)は、日本軍が万寧に侵入してきたころ病死し
    た。
     日本兵は、わたしの家で、母(呉氏)、兄(朱学勤。子ども
    のときの名前は、東福)、弟(朱学。子どものときの名前は、
    三儂)、妹(朱鳳蓮)、叔父の妻(卓氏)、叔父の子(朱亜路)
    の6人を殺した。朱鳳蓮は8歳、朱亜路は4歳だった。
     叔父と叔母が遺体を月塘の近くに埋めた。その遺体を豚や
    犬がほじくりかえして食べたという。
     当時、わたしは、生活が苦しく食べるものがなかったので、
    親戚の家で牛飼いなどをして働いていた。
     日本軍に家族が殺されたあと、叔父は家にもどらなくても
    いいと言った。
     半月後、村に戻ってみると、いたるところに草が高く生い
    茂っていた。
     あれから何十年も過ぎてしまった。もうどうしようもなく
    なった。当時の日本軍を見つけて殺してやれないのがもどか
    しい」。
                                    佐藤正人
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

月塘村で 12

2007年12月04日 | 月塘村
 10月31日に、卓飛さん(1915年生)から話しを聞かせてもらいました。92歳ですが、杖もつかずにしっかりした足取りで歩き、声にも力があります。耳はすこし聞こえにくいようですが、大声ではなすとわかってくれます。籌建月塘“三・廿一”惨案紀念碑領導小組の成員の一人です。
 卓飛さんは、つぎのように話しました。

    「抗日戦争の前、1932年に、わたしは共産党にはいり革命に
   参加した。
    わたしが革命に参加したことは、村のだれも知らなかった。
   母も知らなかったと思う。
    日本軍が海南島に入ってきたあと、日本軍と、なんども戦っ
   た。200回以上戦った。共産党員は100人以上、犠牲になった。
   わたしは4回負傷したが、死ななかった。文昌地域で戦った。
   白兵戦になったこともある。
    わたしは武術を鍛え、日本軍と戦いつづけた。伏撃戦をな
   んどもやった。
    1942年に、わたしは小隊長になった。部隊には女性もいた。
   医務や炊事を担当していた。
    戦闘地域は固定していなかった。部隊の根拠地は、楽東や
   白沙にあった。
    日本軍が月塘村を襲撃したとき、わたしは村にいなかった。
   共産党にはいってからは、いちども村に戻らなかった。
    解放のときは海口にいたが、すぐに那大に行った。那大で
   日本軍を包囲し、武装解除させた。
    そのあと故郷にもどり、はじめて日本軍が村を襲撃し、村
   人を殺したことを知った。
    わたしの家では、母(蔡氏)、従弟二人(興吉大と興吉二)、
   伯母(卓春蘭)、二番目の叔父の妻(符氏)、三番目の叔父の妻
   の父と母、8人が殺されていた。
    日本軍をこころから憎む」。

 11月4日に、朱学基さんに案内してもらって、万寧市内に住む卓雲さん(1936年生)さんを訪問しました。卓雲さんは卓飛さんの弟です。卓雲さんはつぎのように話しました。

    「日本軍が月塘村を襲ってくる前の日、3月20日の夜、わ
   たしは、両親と畑の小屋に泊まってさつまいもを見張って
   いた。
    あの21日の朝、母は食事をつくりに家に戻って、日本兵
   に殺された。
    わたしがあの日の午後、家に戻ってみると、庭や部屋に
   みんなが殺されていた。
    母は、台所で炊事の仕度をしているときに日本兵に刺さ
   れ、庭に這っていってそこで死んだ。そのとき家のうしろ
   の草むらに隠れていた3番目の兄が、母の叫ぶ声を聞いた。
   しかし、日本兵に見つかって殺されるのを恐れて母のとこ
   ろに行くことができなかった。母は、日本兵に腹を切られ
   ていた。腸が流れ出していた。
    母は、50歳ころだった。母は、とてもひとのいい、よく
   働く、農村の女性だった。家が貧しかったので、母は地主
   のところに働きに行き、いくらかの米をもちかえって家族
   に食べさせたこともあった。
    2番目の叔母は40歳あまりだった。叔母の子どもは、上
   の子(興吉大)が9歳ころ、下の子(興吉二)が7、8歳だった。
   祖母は60歳あまりだった。伯母(卓春蘭)は30歳あまりだっ
   た。祖叔(卓金鐘)は40歳あまりだった。
    あの日殺されなかった人たちは、村にもどって、草のむ
   しろで遺体を包んで埋めた。そのあと、また畑に逃げてそ
   こで暮らした。村にはだれも住まなかった。村のなかには
   高い草が生い茂った。
    日本軍は、非常に乱暴だった。
    日本が負けてとてもうれしかった。みんな喜こんだ。
    解放後、兄が戻ってきた。それまでまったく便りがなか
   ったので、みんな兄は死んだと思っていた。
    戻ってきたとき、兄は解放軍の服を着ていた。すぐには
   兄だとわからなかった。兄を見てとてもうれしかった。
    日本軍がいなくなってから国民党が来て、共産党との矛
   盾が生まれたが、それは大きな問題ではないと思った。国
   民党も中国人だ。日本軍とは違う」。
                                    佐藤正人
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

月塘村で 11

2007年12月03日 | 月塘村
 10月11日、雨の日、月塘村の集会所で、朱開琨さんと朱秀花さんから話を聞かせてもらいました。
 朱開琨さんも朱秀花さんも、いまは、月塘村から離れた所に住んでいるのですが、月塘村委員会の朱福来さんと曾菊さんが、連絡してくれたので、話しを聞かせてもらうことができました。朱福来さんは籌建月塘“三・廿一”惨案紀念碑領導小組の成員の1人です。

 朱開琨さん(1935年生)は、つぎのように話しました。
    「日本兵が来たのは、朝の7時か8時ころだったと思う。
    わたしは、庭で遊んでいた。従兄、伯母、従弟、祖母
   の4人は、みんな家のなかにいた。
    日本兵はわたしを刺したあと、4人を殺した。祖母は70歳くら
   いだった。従姉はその日家にいなかったが、村のなかの畑で殺
   された。
    わたしは、日本兵に1回刺されたが、台所の小さなとびらの
   かげに隠れ、日本兵がいなくなってから丘のほうに逃げた。
    日本兵は、みんなを殺したあと、家に火をつけてぜんぶ焼い
   てしまった。
    あの日、10時か11時ころ、大雨が降った。
    日本軍が村を襲ったとき、父は、丘の畑で芋の見張りをして
   いた。当時、村では多くの家が、丘に草の小屋をつくって、芋
   の見張りのときに使っていた。
    母は、日本軍がくる前に病死していた。
    日本軍が去ったあと、生き残った村人は、家族の遺体を埋め
   てから、親戚の家に行った。
    当時、村では死んだ人はみんな草のむしろにつつんで埋め
   た。
    わたしの家は朱学平の家とは、細い道を隔てて隣同士だっ
   た。
    わたしは、朱学平より1つか2つ年上で、よくいっしょに
   遊んだ。
    日本軍を非常に恨んでいる(非常悩恨)。
    思い出したり、テレビで日本軍がやったことを見ると、いつ
   も恨みがつのる」。

 朱秀花さん(1939年生)は、つぎのように話しました。
    「わたしの家には3家族がいっしょに住んでいた。日本兵が
   来たとき、母(李山蘭)はわたしを抱いて台所で食事してい
   た。そのとき家にいたのは、祖伯母、伯母、2人の祖叔母、母
   とわたしの6人だった。母とわたし以外の4人はせんぶ殺され
   た。
    はじめに来た日本兵が、わたしの家を焼こうとした。母と
   祖伯母がひざまずいて、焼かないでくれと頼んだ。日本兵は
   母と祖伯母を蹴飛ばし、頭を銃剣で刺した。しかし、2人は
   帽子をかぶっていたので無事だった。日本兵は、家を焼
   かないで行った。
    その日本兵がいなくなったあと、また、別の日本兵が来て、
   家にいた6人を刺した。4人が殺された。母は、胸を2回刺さ
   れた。わたしは4か所刺された。母は、倒れた。わたしは、
   大声で泣いた。
    2人の祖叔母は、心臓を刺され、2、3回悲鳴をあげて、
   死んでしまった。
    日本兵は、はじめ4人を殺し、それから母とわたしを刺し
   た。わたしは、すべてを見た。
    6人を刺した日本兵は、血のついた銃剣をタオルで拭いて、
   そのタオルを捨てていなくなった。
    母は死んだふりをした。すぐに眼を開けて、泣いてはだめ、
   泣けば泣くほど血がたくさんでてくるから、と言った。
    刺されると、はじめは血だけがでてくるが、そのあと水の
   ようなものがでてくるようになる。
    日本軍がいなくなってから、別の村にいた母の弟が、駕
   籠にわたしと母をのせて親戚の家に運んでくれた。
    父(朱開朝)は、日本軍が襲ってきたとき、魚の売上金
   を受けとりに別の村に行っていたので無事だった。
    堂叔(祖祖父の弟の子)は、その母が芋のつるで覆った
   ので、日本兵に見つからず、助かった。
    家を焼こうとした日本兵は、帽子をかぶっていた。6人
   を刺した日本兵はかぶっていなかった。2人とも30歳まえ
   のようだった。
    わたしの傷は、傷口がふさがるまでに1か月半以上かか
   った。いまも傷跡が残っている。とくに胸の傷が大きい。
   日本兵は、わたしのような小さな子どもまで、心臓をねら
   って殺そうとしたのだ。
    日本軍はとても悪く、人をたくさん殺した。村の人たち
   は、そんな悪いことはしない。日本軍とわたしたちの間に
   は恨みはない。それなのになぜ殺したのか。
    日本軍は、あのとき、あんなにたくさんの人を殺したの
   だから、日本は賠償しなければならない」。

 話しを聞きおわってから、「こまかなことをよく覚えていますね」と言うと、「わたしは記憶力がいいと言われている。4歳のときにどんなことをして遊んでいたかも覚えている」と朱秀花さんは答え、はじめて、ほほえみました。
                               佐藤正人
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

海南島近現代史研究会第1回事務局会議

2007年12月02日 | 海南島近現代史研究会
 海南島近現代史研究会の最初の事務局会議を開きます。
 会員および会員になろうとされる方の参加をお待ちしています。

 と き:2007年12月9日(日)午後1時半(開場午後1時)から
 ところ:大阪産業大学梅田サテライト・セミナー B室
              (大阪駅前第三ビル19階)

 議題
 ■8月5日の創立集会以後これまでの活動について
 ■2007年12月以後の年間計画
 ■『会報』編集・発行体制
     創刊号(2008年1月30日発行)
         創立集会報告
         目的 会則 メッセージ
         第1回海南島近現代史研究会定例研究会の報告要旨
         寄稿:王鎮寧、符和積、王中山、金山……
         HP紹介
         2007年秋の海南島「現地調査」の報告
         年間計画
     第2号(2008年7月30日発行)
 ■海南島近現代史研究会定例研究会
     第1回 2008年2月10日(日)午後1時~5時
          共同研究・記録をすすめていく具体的計画をたてる。
          研究報告
     第2回 2008年8月
 ■会誌『海南島近現代史研究』創刊(2008年8月)
     報告、研究、記録
 ■海南島近現代史研究会総会(第1回)  2008年8月 
 ■海南島「現地調査」 2008年3月下旬~5月下旬
 ■海南島「朝鮮村」虐殺真相究明(←「朝鮮村」発掘)
 ■月塘村追悼碑建設基金募金
             追悼碑除幕 2008年4月26日(農暦3月21日)
    第1期 2007年8月5日~9月30日  51万円
          籌建月塘“三・廿一”惨案紀念碑領導小組に寄金
                     (10月10日に月塘村で)
     「籌建月塘“三・廿一”惨案紀念碑公告」 2007年10月6日
    第2期 2007年10月1日~12月31日 16万円+__円
    第3期 2008年1月1日~3月31日  __円
 ■「海南島戦時性暴力被害訴訟」支援
       2008年1月15日に、東京高等裁判所で原告証言
 ■ドキュメンタリー『海南島月塘村虐殺』、『“朝鮮報国隊”』、
            『日本が占領した海南島で』上映運動
 ■ドキュメンタリー『海南島月塘村惨案』
              海南語版・漢語版・日本語版制作 
                  2008年3月下旬~5月下旬
 ■財政
    
     海南島近現代史研究会  http://hainanshi.org/
       連絡先:大阪産業大学経済学部 斉藤日出治研究室
                  大阪府大東市中垣内3-1
                saito@eco.osaka-sandai.ac.jp
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする