三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

韓国江原道 での現地調査(1996年10月)

2006年03月30日 | 紀州鉱山
紀州鉱山に強制連行された人びとに会って話しをきかせていただくために、三重県
木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会の佐藤正人が、1996年10月」
に韓国江原道に行った。以下は、そのときの佐藤の報告の一部である。

「紀州鉱山1946年報告書」 による朝鮮人労働者の「退所事由」
「逃亡」    283人
「満期帰国」   35人
「終戦帰国」  302人
「帰国」     20人
「病気送還」   33人
「満期」     12人
「送還」     11人
「一時帰国」    8人
「応召」      1人
「入営帰国」    1人
「父死亡ノタメ帰国」1人
「家事都合」    3人
「業務上死亡」   1人
「公傷死」     2人
「病死」      3人
「解雇」      1人
「不明」「不詳」 13人
「四日市工場転出」 1人
記入なし     8人
計      738人

■なにを聞きとるのか
「紀州鉱山1946年報告書」に記載されている強制連行された朝鮮人729人のうち、
江原道を故郷とする人は、555人(76パーセント)である。そのおおくは、伊川郡
(62人)、鉄原郡(86人)、麟蹄郡(96人)、旌善郡(97人)、平昌郡(160人)の5郡の人であった(計501人。555人の90パーセント)。
今回は、もっともおおくの人が強制連行された江原道に行くことにした。伊川郡は、いまは軍事境界線の北側であり、鉄原は軍事境界線で南北に分断されており、いまはかんたんには行けない。それで、麟蹄、旌善、平昌の3郡にいくことにした(結果的には、麟蹄郡にしか行けなかった)。
江原道に向かう前、朴慶植先生にソウルで会い、聞きとりの方法や内容について、
相談した。それをもとにして、麟蹄で聞きとりをすすめる過程で、聞きとり項目を、次のように整理した。朴慶植先生によると、強制連行された朝鮮人の炭鉱からの「逃亡者」の比率は、平均35.5パーセントで、福岡では44パーセントだった(九州では80パーセントが「逃亡」した炭鉱もあった)という。

1.「徴用」の通知はどこからきたか。
「徴用」の通知から、出発までどのくらい時間があったか。その間なにをしたか。
2.麟蹄から紀州鉱山までの道程は? 具体的にだれがどのように「連行」したか。
途中の「処遇」は?
3.紀州鉱山でなにをやらされたか。労働条件は? 賃金はいくらだったか。その使い道は。故郷に送金できたか。
「労務係」の態度はどうであったか。暴力をふるわれたことはなかったか。
4.宿舎の名称、規模、状態は? 食事の質・内容は?
5.宿舎や労働現場での拘禁度は? 管理体制の実態は?
外出できたか。休日にはなにをしたか。
6.他の人びととの交流は。
麟蹄以外の地域から強制連行させられた朝鮮人と自由に接触できたか(朝鮮人が
何人くらい紀州鉱山にいるかわかったか……)。
イギリス人「捕虜」に会ったことがあるか。地域の日本人との接触は? 
日本人労働者との関係は?
7.事故は経験しなかったか。死者、負傷者は? 「逃亡」した人がいるという話
を聞いたことがあるか。つかまった逃亡者はいなかったか。
「逃亡」を考えたことはなかったか。
8.「八・一五」(解放)は、いつ知ったか。どのように知ったか。そのときの感想は。
9.いつ帰国したか。「八・一五」のあと帰国までなにをしたか。「八・一五」のあとの日本人の態度は。
10.帰国のさい、賃金、帰国手当、帰国費用(旅費、食費)……をうけとったか。
帰国の経路。11.故郷に帰って、まずなにをしたか。
  このほか、麟蹄地域での「創氏・改名」の実態について聞きました(名簿では、麟蹄郡から強制連行された96人のうち、11人が「創氏」していません)。
  こんかい、麟蹄郡から強制連行された人のうち、20人ちかいかたの消息がわかり、4人のかたに会って話しを聞かせていただくことができました。また、九州、
福島、岡山に強制連行された4人のかたからも話しを聞かせていただくことが
できました。
  麟蹄郡の行政単位は、麟蹄邑と瑞和面、北面、麒麟面、上南面、南面の5つの面からなっています。こんかいは、そのうち、麟蹄邑、瑞和面、北面、麒麟面に
いき、その事務所を訪問することができましたが、時間がたりず、上南面と南面に
はいくことができませんでした。

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第4回紀州鉱山「現地調査」 1998年11月

2006年03月28日 | 紀州鉱山
11月16日、朝8時半に皆でそろって宿所をでてすぐ近くの熊野市役所にいき、熊野市・熊野市教育委員会に要望書をわたし、10時すこし前に、紀和町役場に着いた。
紀和町・教育長との話しあいのあと、昼食。午後から、選鉱場跡に。
選鉱場は、高さ100メートルほどの丘の頂上から、斜面に階段状につくられていた。いまは、コンクリートの骨格だけが残っている。 その斜面を、のぼった。
70歳を越している金源植氏も金鍾鎬氏もいっしょだ。お二人は草や潅木やいばらで覆われた急な斜面を、同行した30代の「青年」よりも元気に、のぼっていかれた。
半分ほどのぼった時に、雨が降ってきた。
見下ろすと左側に鉱山資料館がみえる。そこはかつて紀州鉱山事務所の建物があった所。正面すこし右寄りの丘に薄く霧がかかっていた。そこには共同墓地があり、朝鮮人も埋められている。60年ほどまえには朝鮮人と日本人が住んでいた飯場がその近くにあった。
雨に濡れながら、韓国から訪ねてこられた金源植氏や金鍾鎬氏と見ているこの風景のなかで、かつて故郷から強制連行された朝鮮人が働いていた。
その風景を眺めながら、金源植氏は、日本の植民地とされていた時期に日本人が朝鮮でつくった工場やダムの規模の大きさを語る。
 朝鮮でも日本でもカラフトでも太平洋の島々でも、おおくの朝鮮人が働かされた。日本の他地域・他国侵略の歴史を総体的に把握しようとしなければ、紀州鉱山の歴史をくわしく知ることはできないだろう。
紀州鉱山を「現地調査」し、紀州鉱山の真実を歴史的に明らかにすることは、思想的にも現実的にも、紀州鉱山のみにかかわることではないということを、4回目の今年の「現地調査」のとき、わたしは強く感じた。
選鉱場の高台をおりて、鉱山資料館にいった。そこでは、朝鮮人の痕跡は消しさられている。これまでの「現地調査」を基礎とするわたしたちの運動によって、1999年からは、朝鮮人労働者について、この資料館でも事実が事実として示されていくだろう。
鉱山資料館をでてから、1943年に石原産業が建てた「慰霊塔」を見たあと、紀和町教育委員会指定「史跡 外人墓地」・「イルカボーイズ墓参記念碑」・毒水処理場・板屋朝鮮人飯場跡へいき、そこで、解散した。
 毎年の「現地調査」の場は、出会いの場であり別れの場もであった。今年は、
その場に朴慶植先生の姿がなかった。
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第2回紀州鉱山「現地調査」 1996年11月

2006年03月26日 | 紀州鉱山
1996年11月17日、追悼集会の翌日、私たちは一昨年に続く2回目の
「現地調査」のため、紀和町にいきました。曇りの日で、ときどき
小雨が降りました。
はじめて参加した人たちが板屋にある紀和町鉱山資料館と「史跡 外人墓地」
(紀和町指定文化財)を訪れている間、2回目の参加者たちは2班に別れ、
板屋地域でそこに住んでいる方からの聞きとりをしました。
板屋地域では、朝鮮人が働かされていた当時のことを直接知っているかた
と出会うことができませんでしたが、1978年の閉山時まで20年ほど、石原産業
紀州鉱山労働組合の書記長をしていた北畑嘉信氏から、石原産業が40年ほど
前につくった『従業物故者忌辰録』という「会社創業以来の物故者」の名簿を
見せていただくことができました。

『忌辰録』

そこでは1955年10月10日までの石原産業の「従業物故者」は、1269人で、「殉職者」359人、「戦歿者」378人、「一般病没者その他」527人、「被社葬者」5人とされています。「殉職者」は、1924年、1925年、1928年、1931年、1934年の各年に1人、1935年に3人、1936年に1人、1937年に2人でしたが、1938年に13人、1939年に7人、1940年に15人、1941年に15人、1942年に19人、1943年に15人となり、1944年には33人に激増しています。

さらに、1945年には、毎月多くの人が「殉職」し、8月までに165人もの人が犠牲になっています。この年には、3月19日に10人、6月1日に12人、さらにその半月たらず後の 6月14日に24人もの人が犠牲になっています。これらの日には紀州鉱山(あるいは、紀州鉱山の銅鉱石を精練していた石原産業四日市工場)で大事故があったのではないかと思われます。しかし、これらの事故については、石原産業の社史にも、『紀和町史』にもなにも書かれておらず、紀和町が石原産業から土地を提供されて造った紀和町鉱山資料館(1996年4月開館)でもまったく触れられていません(紀和町鉱山資料館内の資料室には『従業物故者忌辰録』はおかれておらず、朝鮮人労働者にかんする資料もありません)。

また、この名簿の中には、イギリス軍の「捕虜」の名はありません。これは、『従業物故者忌辰録』と名付けられてはいても、「従業」した人のうちの死者すべての名を記録したものではないのです。
この名簿の「殉職者関係分」の部分には、梁四満氏(1938年6月27日「殉職」)、安
謹奉氏(1940年10月17日「殉職」)、崔俊石氏(1940年12月31日「殉職」)という3人の朝鮮人の名が記されており、「戦歿者関係分」の部分には趙龍凡氏(1942年11月16日「戦歿」)、曽春木氏(1942年11月24日「戦歿」)、(1942年11月24日「戦歿」)(1942年11月24日「戦歿」)(1942年11月24日「戦歿」)という2人の朝鮮人の名が記されており、「病没関係その他未詳分」の部分には、薜乗金氏(1936年5月15日「病没」)、梁煕生氏(1940年6月1日「病没」)、南而福氏(1945年5月3日「病没」)という3人の朝鮮人の名が記されています。また、その他に創氏改名させられたとおもわれる安田徳勲氏(1944年8月6日「殉職」)、玉川鐘連氏(1942年8月8日「病没」)ら10人ほどの人の名があります。

石原産業の報告書

石原産業紀州鉱山が三重県内務部に、1946年9月に提出した「報告書」のはじめの部分には、1942年以後の紀州鉱山での朝鮮人の「死亡者数」は10人となっていますが、そこに名が記されているのは、5人(「病死」2人、「死亡」3人)だけです。
その5人は、金本仁元氏(京畿道長湍郡郡内面。「公傷死」1945年6月1日)、南而福氏(京畿道長湍郡津西面。「病死」1945年5月3日)、金山鍾□氏(江原道麟蹄郡麒麟面。「病死」。死亡日記載なし)、海山応龍氏(江原道平昌郡平昌面。「病死」1945年2月20日)、玉川光相氏(江原道旌善郡旌善面。「業務上死亡」1944年3月7日)です。このうち、金本仁元氏、南而福氏、玉川光相氏の名は、『従業物故者忌辰録』にありますが、海山応龍氏と金山鍾□氏の名はありません。
紀州鉱山に強制連行された朝鮮人が、何人、どのようにして命を奪われたのか、いまはなにも明らかになっていません。石原産業四日市工場への朝鮮人強制連行にかんする事実も、ほとんど明らかにされていません。
イギユン氏とぺサンド氏を虐殺した在郷軍人などの行為を「素朴な愛町心の発露」とする意識をかえようとしない熊野市・熊野市教育委員会の姿勢は、紀州鉱山への朝鮮人強制連行・強制労働の事実をなかったことにしている紀和町・紀和町教育委員会や石原産業の姿勢とかさなりあっています。

惣房で

朝鮮人労働者の飯場があったのは、板屋、湯の口、惣房の3箇所でした。今回は前回に訪ねられなかった惣房にいきました。惣房では、そこで生まれ育った葛原三千代さんに出会い、朝鮮人の宿舎のあとなどを案内していただくことができました。
 朝鮮人の宿舎は、坑口のある怱房から1キロほど楊枝川ぞいの道をくだった筑後にあったといます。川辺に建てられた朝鮮人の宿舎の建物はすべて流されてなくなっていました。

惣房から歩いて20分ほどの地点に石原産業が、1930年代後半に小学校を建てました。葛原さんが通学していたころ(1940年前後)、朝鮮人の生徒が10人ほど、惣房から通学していたそうです。その三和小学校の校舎はあとかたもなくなって
いました。


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第1回熊野・紀州鉱山「現地調査」 1995年11月

2006年03月25日 | 紀州鉱山
1995年11月18日、追悼集会のあと、参加者全員が歩いて、熊野市の漁港まで行きました。そこは観光地となっている鬼が城の裏側で、崖にトンネルが掘られていました。そのトンネルは日本海軍の倉庫で、それをつくるとき朝鮮人学徒兵も働かされたといわれています。
つぎの日、11月19日にはみんなで熊野市民俗資料館を訪ね、館長に「木本事件」にかんする資料を展示するように求めました。そのあと、紀州鉱山に向かいました。晩秋のあたたかい晴れた日でした。
熊野市から紀州鉱山までは、かつては風伝峠をこえて歩いて7~8時間かかったといいますが、いまは峠の下にトンネルが掘られ、自動車で1時間たらずです。

紀和町鉱山資料館
紀州鉱山の中心部は紀和町の町役場のすぐ近くにあります。わたしたちは、まず、紀州鉱山事務所の跡地に建てられた紀和町鉱山資料館にいきました。これは、この年4月に開館したばかりで、紀和町が石原産業から土地を提供されてつくったものでした。そこでは、イギリス軍捕虜にかんする資料はいくつも展示されていましたが、朝鮮人労働者にかんする資料はありませんでした。
石原産業の社長石原広一郎は、日本軍のアジア侵略に密着して中国や東南アジアから鉱物資源を日本に運びこみ、敗戦後にA級戦犯容疑者として3年間拘禁された人物ですが、この資料館の掲示では、「広く南方各地で地下資源の開発を進める一方、1934年から紀州鉱山の開発に着手し……紀和町の輝かしい近代鉱山史を築きあげました」と説明されていました。
紀州鉱山の鉱毒被害の実態はいまも隠されたままです。地元の人は、紀州鉱山は有毒なヘドロを近くの川(北山川の支流)の河川敷に流し込んでいたといっていました。鉱山で長い間はたらき重症の珪肺病で苦しんだ人びとは、1978年の閉山のときまで、石原産業に賠償をもとめる訴訟をおこすことができなかったそうです。石原産業が、紀州鉱山の鉱石を精練するためにつくった四日市の工場は、1980年に公害企業として有罪判決を受けています。

選鉱場、板屋坑口
鉱山資料館から200メートルほどの高台に、選鉱場跡と、坑口跡がありました。階段状の選鉱場の骨格が残っていました。板屋地区のこの坑口から、電動トロッコで、労働者が出入りしていたといいます。その線路も残っていました。
「八・一五」以前に自分が経営していた食堂に朝鮮人労働者が「監視員」につきそわれてキムチなどを食べにきていた、と5年前にキム チョンミさんに話してくれた女性(朝鮮人。選鉱場のすぐ近くに住んでいた)は、数年まえに亡くなられていました。

「史跡 外人墓地」
板屋坑口からひと山越えたところに、「史跡 外人墓地」(紀和町指定文化財)という紀和町教育委員会の説明板のつけられたところがありました。ここは、イギリス人が収容されていた「捕虜収容所」の跡地だということです。
アジア太平洋戦争をマラヤのコタバル奇襲で始めた日本軍は、マラヤやシンガポールで多くのイギリス軍兵士を「捕虜」にしました。かれらは、「泰緬鉄道」などで酷使されました。
生き残った「捕虜」のうち300人が紀州鉱山で働かされ、「八・一五」までに16人が死にました。
石原産業は、社長がA級戦犯容疑で逮捕拘禁されていたとき、12人の「墓」をつくりました(石原産業は死者の数を4人少なくしていたのです)。
 それがくずれかかったので、紀和町教育委員会は、1987年に16人の「墓」につくりかえ、その区域を「外人墓地」と名づけ、紀和町は「史跡」に指定しました。
この「墓」のそばに「イルカボーイズ墓参記念碑」がありました。これは、1993年10月9日付で「イルカボーイズ来日墓参実行委員会ジャパン」が建てたもので、「イルカボーイズ」とは、かつての入鹿村(紀和町の旧名)のイギリス軍「捕虜」たちのことです。
わたしたちが行く2週間まえ11月4日に、「イルカボーイズ」21人がきて、紀和町長も出席して追悼式がおこなわれていました。
「外人墓地」の隣に、紀州鉱山の廃坑からいまも湧きだし続けている毒水の処理場がありました。そのため池のいくつかは空になっており、底には茶褐色のヘドロがたまっていました。

板屋の「八紘寮」
紀州鉱山では、1940年ころから多くの朝鮮人が働きはじめ、1944年には約700人が働いていました。
ここで朝鮮人労働者は、「日本臣民にして産業戦士」として「皇国臣民の誓詞」を「奉誦」させられました。
この日わたしたちは、板屋にあった朝鮮人労働者の住んでいた「八紘寮」の跡を尋ねましたが、わかりませんでした。
日本のアジア太平洋侵略のスローガン「八紘一宇」にちなんだ名の「寮」で、日本の敗戦1年まえの7月に朝鮮人労働者は、怒りを行動で示しました。そのとき逮捕された8人は、全員が木本区裁判所で有罪判決をうけています(『特高月報』1944年8月)。石原産業も紀和町も紀和町教育委員会も紀和町民がつくった紀南国際交流会も、イギリス軍「捕虜」のことは問題にしても、紀州鉱山での朝鮮人労働者の労働実態や朝鮮人労働者の死者の問題にはふれようとしていません。

湯ノ口抗口跡
つぎに、朝鮮人労働者の飯場のあとを探しに湯ノ口に向かいました。その途中の小川口にある温泉から湯ノ口にある温泉まで約1000メートルのトンネルをトロッコがはしっていました。このトロッコはかつて労働者や鉱石を運ぶために使われていたもので、1990年から観光客用に運転を始めたそうです。
湯ノ口には坑口は、残っていましたが、朝鮮人労働者の飯場があったという場所は、はっきりしませんでした。

現地調査のおわりに、湯ノ口坑口のそばにあった食堂で、意見交換会をしました。この食堂の敷地かそのふきんに朝鮮人労働者の飯場があったかも知れません。
東京から参加された朴慶植先生は、これまで数多く現地調査や聞きとりをしてこられたかたですが、紀州鉱山の規模は意外に大きいかったといわれ、この鉱山での朝鮮人労働者のことについて、聞きとり調査を急いですべきだと強調されました。
そのあと、北山川(熊野川の上流)の左岸ぞいに南の新宮方向にむかい、途中の薬師寺で解散しました。
この薬師寺からすこし南の和気村の本龍寺(現在、無住)に、朝鮮人の遺骨5体が安置されていますが、この日は時間がなく、訪れることができませんでした。

紀和町の南隣の御浜町が1982年に発行した『御浜町史』には、熊野とは朝鮮語で、熊の住む神聖な地の義を示すものとされている。熊野の代りに室(牟婁)とも呼ばれたがこのムロも朝鮮語で山の義を示すものとされている」
と、書かれています。『御浜町史』で朝鮮人のことが書かれているのはこの部分だけです。かつて、紀州鉱山から御浜町の阿田和まで索道がつくられ、鉱石が運ばれていました。


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抗日闘争期海南島現代史年表

2006年03月19日 | 海南島近現代史文献・年表
1869年 アイヌモシリを日本領土とし「北海道」と名づける
1879年 琉球王国を日本領土とし「沖縄県」と名づける
1895年 八重山諸島、台湾を日本領土とする
1905年 大韓帝国を植民地とする
    独島、カラフト南部、遼東半島南部、「満鉄附属地」を日本の領土とする
1910年 大韓帝国を日本領土とする
1915年 「南洋群島」を植民地とする
1932年 「満洲国」偽造(中国東北部植民地化)
1937年 中国への全面的侵略開始
1939年1月17日 天皇ヒロヒト、海南島軍事侵略「裁可」
1939年2月10日 日本軍海南島に奇襲上陸
1939年2月~11月 海南島「Y一作戦」(地域住民虐殺)
1939年4月 后石村住民虐殺
1939年11月 海南島根拠地隊編成。2月以来、海南島軍政を担当していた
日本海軍 第5艦隊情報部、海南島海軍特務部と改称(規模拡大)
1940年2月~4月 「Y二作戦」(地域住民虐殺)
1940年4月 海南島根拠地隊、海南警備府に「昇格」。海南警備府司令部、三亜に
1940年7月 石原産業、田独の鉄鉱石を八幡製鉄所に輸送開始
1940年9月 日本軍、海南島対岸ベトナム北部に侵入
1941年1月 日本窒素事業所開設(日本軍駐屯地北黎に)
1941年2月~3月 「Y三作戦」(地域住民虐殺)1941年4月(農暦3月)
 重興鎮四か村の住民虐殺
1941年4月~10月 日本軍南機関、アウンサンらを、海南島で軍事訓練
(1941年12月、アウンサンら、バンコクでビルマ独立義勇軍結成)
1941年6月 大本営陸海軍部「対南方施策要綱」決定
1941年6月 北岸郷住民虐殺(「五百人碑」)
1941年7月 日本陸軍第25軍約4万人、三亜港からベトナム南部・カンボジアに
侵入・占領
1941年8月 「Y四作戦」(地域住民虐殺)。黄竹鎮住民虐殺
1941年11月 日本軍、三亜港周辺に機雷敷設
1941年11月~42年1月 「Y五作戦」(「南方」侵略の基地海南島の「治安」確保
のため)
1941年12月2日 日本軍、三亜港からコタバルへ→8日、アジア太平洋戦争開始。 
   18日、日本軍、香港を占領1942年6月 「Y六作戦」(地域住民虐殺)
1942年秋 抗日軍のたたかい活発化(日本軍基地、軍用車両など攻撃)
1942年11月~43年4月 「Y七作戦 1期」(海南島東北部住民虐殺)
1943年3月 第1次「朝鮮報国隊」、ソウル出発
1943年3月 「朝鮮総督府受刑者海南島出役に伴う監督職員等増員に関する件」日本政府閣議決定
1943年4月~5月 「Y七作戦 2期」(海南島東部の住民虐殺)
1943年5月 USA軍、三亜・楡林地域爆撃。住民死傷
1943年6月 USA軍、海口地域爆撃。住民死傷。
1943年6月 「Y七作戦 3期」(海南島西北部の住民虐殺)
1943年8月 「海南島人労務者管理規定」
1943年12月から1年間断続的に「Y八作戦」(地域住民虐殺)
1944年1月 第8次「朝鮮報国隊」、ソウル出発
1944年3月 石碌鉱山鉱石積み出し第一船、八所出港
1944年12月 「Y九作戦」(地域住民虐殺)
1945年1月 石碌鉱山全面操業停止
1945年1月 USA軍の海南島上陸を予想し、日本陸軍独立混成第23旅団、
        雷州半島から海南島に→5月に、海南島から広東方面に
1945年2月 日本海軍特攻部隊震洋隊、海南島に「配備」
1945年4月 九曲江郷住民虐殺
1945年7月30日 秀田村住民虐殺
1945年8月14日 日本敗戦1945年夏 「朝鮮報国隊」の朝鮮人大虐殺
1945年12月 海南島韓国人民聯合会の金元植会長、元日本海軍特務部政務局長溝口大佐を射殺
1946年4月中旬までに 海南島の日本人(軍人、官吏、民間人)ほぼ「帰還」
1947年7月 元海南警備府第15警備隊文昌中隊長兼石績、元文昌中隊長冨田堯人、
        元文昌中隊小隊長望月為吉、住民虐殺したとして広東で処刑
1948年6月 香港のオーストラリア軍法廷で、元海南警備府横須賀鎮守府第四
特別陸戦隊司令と軍医長に絞首刑判決
2001年7月 日本軍隊性奴隷とされた林亜金さんら8人、日本国に謝罪と賠償を
求める「海南島戦時性暴力被害裁判」をおこす
2001年11月 原告黄有良さん、東京地方裁判所第1回裁判で証言
2005年3月 原告林亜金さんと証人張応勇さん、第13回裁判で証言 

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海南島「朝鮮村」遺骨「発掘」に資金協力をお願いします!

2006年03月17日 | 「朝鮮報国隊」
海南島の「朝鮮村」には日本軍に殺されたと思われる多数の朝鮮人の遺骨が埋められたままになっています。日本軍による犯罪行為をはっきりとさせるため、「発掘」、遺骨鑑定、死因調査、身元調査にご協力をおねがいします!遺族も高齢化し、海南島の暑い気候は遺骨の崩壊を早めるため、早急に調査しなければなりません。私たちは2004年2月に「発掘」を予定しています。しかし、「発掘」、遺骨鑑定だけでさしあたり、150万円くらい必要です。とても私たちの市民団体ではまかなえる費用ではありません。
ぜひ、資金・技術協力をおねがいします。

海南島
海南島は中華人民共和国とベトナムの境、トンキン湾の東にあります。1939年2月、日本軍は海南島を攻撃し、次々と島の要所を占領していきました。海南島はアジア・太平洋地域に侵略をすすめる日本軍の前線基地とされ、また資源獲得をめざすという国策のもと、多数の日本企業が海南島に進出しました。
軍事施設の建設、鉱山労働、道路などの建設工事には海南島住民をはじめ、広州・潮州・上海の人たち、朝鮮、台湾の人たちなどが苛酷な労働を強いられました。日本軍は植民地朝鮮・台湾の刑務所に服役していた人を「朝鮮報国隊」・「台湾報国隊」として海南島に連行し、労働を強制しました。「朝鮮報国隊」とされた人たちは海南島各地の飛行場建設、石碌鉱山(日本窒素)、鉄道・土木工事(西松組)、田独鉱山(石原産業)、港湾工事などで働かされていました。日本の敗戦前後、日本軍はこの1000人にのぼる「朝鮮報国隊」の人々を、三亜市郊外の「朝鮮村」(南丁村)で虐殺しました。

「朝鮮村」
「朝鮮村」の名前は近くに暮らす黎族の住民が日本軍に殺された朝鮮人を弔う意味でつけたそうです。朝鮮人と一緒に道路建設作業を日本軍に強制された、「朝鮮村」近くに住む符亜輪さん(87)は、こう証言しています。「朝鮮人は竹で作ったかごを背負って土を運んだ。…道路ができたあと、何の理由もなく、朝鮮人を
二人ずつ木に吊るして殴った。…死ぬまで殴って、死んだあと2、3人ずつ穴に埋めた。…(朝鮮人は)みんな同じ服を着ていた。上着もズボンも青色で、ボタンは白かった…」。これまでの調査で「朝鮮村」では、100体を越える遺骨と軍隊手帳、薬きょう、白いボタン、青い布切れ、針金、銃剣などが見つかっています。遺骨のなかには、頭蓋骨に撃ち抜かれたような穴のあいたもの、腕の骨が異常に変形したものなど、明らかに外的な力を加えられたものもあります。わたしたちは各地で聞かれた、「『朝鮮報国隊』は青い服を着、そのボタンは白い色だった」という証言などから、「朝鮮村」に埋められている遺骨は「朝鮮報国隊」の人たちであると考えています。

今、事実を明らかに―
「朝鮮村」の遺骨は、わたしたちに残された虐殺の一つの「証拠」でもあります。これまで遺骨の身元は一人も明らかになっていません。今回、「発掘」作業と埋められた年代の測定、年齢・性別などを調べる遺骨鑑定、死因などの法医学的な調査などをしたいのです。

みなさん、日本政府と侵略企業の責任を明らかにするため、発掘作業をともに進めませんか!

振込先
郵便口座番号 00920-3-247174
名 義 紀州鉱山の真実を明らかにする会
口 数  一口 3,000円
kisyuhankukhainan@mail.goo.ne.jp
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海南島三亜市郊外の田独鉱山での強制労働について

2006年03月16日 | 海南島
紀州鉱山を経営していた石原産業が、海南島で鉄鉱石の掠奪をした鉱山。石原産業は、1939年2月10日、日本軍の海南島占領直後から、軍の支援を受けて田独鉱山の採掘をはじめ、翌1940年7月から、鉄鉱石を日本の八幡製鉄所に送りはじめた。
田独鉱山での採鉱と鉱山から積み出し港の楡林港までの鉄道建設のために、海南島の民衆だけでなく、上海、広州、厦門、汕頭などの中国本土と香港、台湾、朝鮮から連行された人びとが酷使されたという。田独鉱山で働かされていた吉亜黒と・必義は、田独鉱山では、病気や栄養失調や強制労働や暴行によって毎日労働者が死亡し、その遺体は鉱山の近くで石油をかけて焼かれたと、1995年ころ証言している。その場所は田独村の東にあり、いまは、ダムがつくられて水没しているが、1958年4月に、ダムの前方に犠牲者を追悼する「日冦時期受迫害死亡工友紀念碑」が、海南鉄礦田独礦区の労働者によって建てられた。

その側に、2001年(あるいは2002年)、海南省人民政府と三亜市人民政府が、「田獨万人坑死難礦工紀念碑」を建てた。その碑文には、「朝鮮、印度、台湾、香港、および海南省各市県から連行されてきた労働者がここで虐待され労働させられて死んだ」と彫られている。

次は、その碑文の全文である(資料:「"田獨万人坑"遺址」)。
「"田独万人坑"是一九三九年至一九四五年日寇奴役和殺害近万名礦工的罪悪遺址。
在日寇掠奪田独鉄礦的六年中、一大批抓被自朝鮮、印度、台湾、香港等地和我省各
市県的労工先后在這里被析磨和労役至死。現頌和水庫範囲就是当年掩埋死難工的地
方。一九九〇年三亜市人民政府公布為市級文物保護単位、一九九四年海南省人民
政府定為省級文物保護単位」
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熊野木本トンネルから、紀州鉱山、海南島、パナイ島、ルソン島、ネグロス島へ

2006年03月15日 | 紀州鉱山
 イギユン氏とペサンド氏が三重県木本町で地域住民に虐殺されてから、ほぼ10年後、「木本トンネル」から60キロメートルほどのところにある紀州鉱山(石原産業が経営)で、朝鮮人が働きはじめた。
1939年に日本軍が、北ベトナム対岸にある中国の海南島を占領すると、石原産業は、この島南部の田独鉱山で中国人や朝鮮人を強制労働させ、日本の敗戦までに多くの人のいのちを奪った。同じころ、紀州鉱山でも朝鮮から強制連行された人びとが強制労働させられた。

 日本がアジア太平洋侵略戦争を始め、フィリピンを占領すると、石原産業はフィリピンのルソン島、パナイ島、ネグロス島の鉱山でもフィリピン人を強制労働させ資源を奪った。
 「木本トンネル」でも、紀州鉱山の坑道でも、海南島やルソン島やパナイ島などの鉱山でも、日本に占領された国の民衆が、日本の利益のために働かされていた。
 フィリピンや海南島などで民衆を強制労働させ資源を強奪していた石原産業を、抗日部隊がなんども攻撃した。紀州鉱山でも、朝鮮人が待遇改善を要求してたたかった。1944年秋、紀州鉱山の坑道の入口に、「朝鮮民族は日本民族たるを喜ばず。将来の朝鮮民族の発展を見よ」と、カンテラの火で焼きつけられていたという(許圭氏の証言)。

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「紀州鉱山の真実を明らかにする会」について

2006年03月13日 | 紀州鉱山
私たちの会は、朝鮮人と日本人との共同作業で紀州鉱山における朝鮮人に対する
強制連行・強制労働の真実を明らかにし、その責任の所在を明確にすることを
目的として、活動を行っています。


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(3)四日市工場への強制連行の事実の究明。

2006年03月12日 | 紀州鉱山
石原産業四日市工場への朝鮮人強制連行にかんする事実は、ほとんど明らかにされていない。
アジア太平洋戦争開始後まもなく、1942年に、紀州鉱山から掘り出された銅鉱石を
精練する四日市工場が、操業を開始した。都市部で有毒ガスを大量に排出する銅鉱石の精練をおこなうのは異例のことだという。四日市工場は、1943年4月に、軍需工場に指定された。
日本軍の「捕虜」とされたイギリス軍兵士は、紀州鉱山と四日市工場で働かされた。四日市工場で働かされ朝鮮人も多かった。紀州鉱山の名簿では、一人の朝鮮人労働者が紀州鉱山から四日市工場に「転出」させられている。
石原産業の社史では、1944年に四日市工場内に「協和寮」を新築し、1944年7月
から1945年3月にかけて約300人の朝鮮人を「雇い入れた」としている(江原道から
196人、咸鏡南道から100人)。


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