三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

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海南島の朝鮮人兵士 12

2010年10月22日 | 海南島からの朝鮮人帰還
■李西根さんの証言 2
 東山にいるとき、日本が敗けた。東山の軍事施設を中国軍に引き渡して、そこにいた人たちがそのまま、加来に行った。加来には2か月いた。加来には飛行場があった。
 日本が敗けたあと、日本軍は、海口、瓊山、三亜の3か所に集まった。瓊山と海口には舞鶴特別陸戦隊と15警備隊が集まった。
 わたしは瓊山に行った。瓊山では、中国軍が瓊山師範学校を接収して、収容所にしていた。
 収容所は、朝鮮人、日本人はいっしょだったが、朝鮮人の区域と日本人の区域は別で、鉄条網で仕切られていた。日本人が入れないようにだ。日本人は外出できなかったが、朝鮮人は自由だった。
 外出したかったら、外出願いを出した。わたしがそれを持って中国人の大尉に出し、サインをもらった。
 わたしは朝鮮人の責任者だった。
 日本軍の司令部も瓊山に収容されていた。そこに行き、伍賀中将に会った。1946年の1月か2月はじめだ。
 わたしは、伍賀に、日本軍は3月に戻るのに、なぜわれわれはすぐに韓国に帰国できないのか、早く帰国できるようにしろ、と言った。伍賀は、復員計画にしたがって帰ることになっている、朝鮮人も1か月後には戻るから待て、と答えた。
 不安だし、信じることもできず、わたしは、すぐに帰国できないなら半年分の食料を渡せ、と言った。食料は、よこした。日本軍は、食料を持っていたから。
 韓国に戻るとき、瓊山に終結した人たちもいったん海口に行き、海口に終結した人たちといっしょに船に乗った。中国の検疫を受けなくてはならないから、1か所にあつまった。
 中国軍人が両側を見守るなかで、荷物を降ろし、上着1枚、ズボン1枚、パンツ2枚、決められた枚数、種類だけ持ち、船に乗った。
 日本の軍人は1か月前に帰っていた。
 船は、リバティ号だった。
 4月のはじめに乗船した。南下して三亜に行った。
 (この船でいっしょに戻ったのは)軍人、一般人、徴用された人たちだった。舞鶴鎮守府第1特別陸戦隊の軍人は44人だった。鎮海から海南島に向った海軍志願兵は多かったが、帰る船に乗っていたのは、150人ほどだった。
 海南島から乗った女性は28人か30人で、慰安婦ではない女性たちだった。仲居、日本人と結婚した朝鮮人の女性。大部分が日本から海南島に行った女性。復員計画にしたがって、日本に住んでいた人でも、朝鮮人は、朝鮮に戻ることになった。
 日本人は、軍人ではない軍属の民間人女性4人がいっしょに乗船した。暗号解読の女性たちだった。
 三亜から広州に寄った。そこでも韓国人が乗った。1000人くらい、乗った。広州からは慰安婦の女性たちも乗った。
 広州から乗った朝鮮人の総責任者は、崔徳新。「朝鮮士兵集訓総隊」と書いたのぼりを持って乗ってきた。
 広州から乗船する前に、崔徳新とは何回も会議をした。それで、「朝鮮士兵集訓総隊」のことを知った。
 釜山でコレラが発生し、収まるまで上陸できず、1か月、船に乗って海上で待っていた。上陸したのは、4月24日。
 平安南道安州の故郷に戻ったが、ここでは生きておられないと思って、逃亡した。わたしは6人兄弟の長男だ。
 最初1人で南に来たが、あとから3人の弟が来た。両親、ふたりの兄弟は、故郷に残った。それからずっといままで会っていない。
 南にきてから、韓国軍にはいった。
コメント
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