三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

15回目の追悼集会

2008年11月30日 | 木本事件
 三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・相度)の追悼碑を建立する会が出発してから20年後、2008年11月22日に、おふたりを追悼する15回目の集会をひらきました。

 以下は、そのことを報道する、11月29日の『紀南新聞』(紀南新聞社、新宮)の記事です。


 「木本事件で虐殺」
 2人の朝鮮人を追悼

 1926年に木本町(現・熊野市)で発生した木本事件の2人の朝鮮人被害者を追悼する集会がこのほど、現場近くの木本トンネルそばの高台に建てられた追悼碑前であった。関係者など約20人が出席し、朝鮮の酒をささげるなどした。
 「三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・相度)の追悼碑を建立する会」が碑を建てた15年前から毎年この時期に行っている。
 同会の佐藤正人さんが、これまでの経緯を交えて「歴史的事実をはっきりさせる必要がある。碑建設で(朝鮮人への差別を検証する)根拠地が出来たとおもう。これからも皆さんと一緒に20年、30年と運動を続けていきたい」などあいさつした。献杯したあと、参加者1人ひとりが思いを述べあった。
 当時、同町では朝鮮人を含む約200人の労働者が、木本トンネル工事に従事していた。事件は、同年1月2日午後10時ころ、「木本明治座」で1人の朝鮮人が日本人に刀で切り付けられたのが発端となった。同会によると、現場では騒ぎが収まったが翌3日になり、日本人の集団が作業員宿舎を襲撃し、仲間を守ろうとした李さんと制止に向かったさんが虐殺されたという。
 1983年に刊行された旧熊野市の「市史」は中巻で「木本トンネル騒動」として取り上げて、2人の殺害を「素朴な愛町心の発露」と記載した。同会や遺族の申し入れを受け、同市教育委員会は1990年に削除と訂正の文書を購読者などに送ったが、同会の竹本昇さんは「市の関係機関の所蔵する市史にも訂正されていないものもある。単なる字句の削除、訂正でなく、事件のとらえ方そのものを見直すべき」と話している。
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11月23日の紀州鉱山「現地調査」 2

2008年11月27日 | 紀州鉱山
 日本の「南方」侵略とともに成長した企業である石原産業は、1934年7月に、日本三重県入鹿村に、紀州鉱山(銅鉱山)を開設し、1939年から、そこで1000人を越える朝鮮人を朝鮮から強制連行し働かせました。同じ時期に、石原産業は、海南島の田独鉱山で、海南島各地、上海、広州、厦門、汕頭などの中国本土と香港、朝鮮などから連行してきた人たちを酷使し、おおくの人の命を奪いました。
 1941年12月8日、日本軍は、マラヤのコタバル、フィリピンのマニラ、ハワイの「真珠湾」を同時に攻撃してアジア太平洋戦争を開始しました。フィリピンを占領した日本軍に従って、1942年1月から、石原産業は、フィリピンで、ルソン島のカランバヤンガン鉄山、ネグロス島のシパライ銅山、パナイ島のアンチケ銅山やピラカピス銅山などの「経営」を開始しました。
 熊野市紀和鉱山資料館には、紀州鉱山を経営していた石原産業が、アジア太平洋の各地でおこなった企業犯罪についての展示がまったくないだけでなく、1945年12月にA級戦犯容疑者として逮捕された創業者石原廣一郎を、「広く南方各地で地下資源の開発を進める一方、1934年から紀州鉱山の開発に着手し、これを全国屈指の大鉱山に成長させて紀和町の輝かしい近代鉱山史を築きあげました」(原文は「元号」使用)とする説明板が展示されています。

 以下は、11月24日『毎日新聞』三重版に掲載された記事です。

 朝鮮人強制連行
 紀州鉱山跡を調査

 【熊野】
 1940~45年まで朝鮮人延べ1300人が強制連行され約30人が亡くなったとされる熊野市紀和町の紀州鉱山跡の現地調査が23日あった。「紀州鉱山の真実を明らかにする会」が実施、会員ら8人が追悼碑建設のため、市と交渉中の建設予定地などを視察した。
 銅を採掘した紀州鉱山では第二次世界大戦中、東南アジアで捕虜となった英国人300人が送られ、うち16人が死亡したことが知られている。その一方で朝鮮人労働者のことは未解明な部分が多い。
 この日、参加者は市鉱山資料館のファイルに同会の会報をとじ、来場者が閲覧できるようにしたほか、英国人の展示コーナーで「朝鮮人の展示物も併設してほしい」と求めた。英国人を祭るとされる外国人墓地で会員らは、「朝鮮人も埋葬された可能性が高い」とし「発掘調査をしてもらいたい」と語った。  【汐信之】
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田独村で

2008年11月26日 | 海南島
 2008年10月30日に、田独村に行きました。
 これまで、わたしは、はじめて海南島に来た1998年6月、2002年春、2003年夏、2006年5月(「朝鮮村試掘」中止後)、2008年4月の5回、田独鉱山に来ていましたが、田独村を訪ねるのは、初めてでした。
 はじめの2回、1998年6月と2002年春には、田独鉱山に行き、その周辺で話を聞かせてもらおうと思って、年寄りを探したのですが、当時のことを知っている人は誰もいないと言われて、あきらめていました(田独鉱山にかんしては、写真集『日本の海南島侵略と抗日反日闘争』72頁を見てください)。
 2003年夏には、追悼碑の近くに住んでいる王亜二さんから話をきかせてもらうことができました(『海南島で日本は何をしたのか 虐殺・略奪・性奴隷化、抗日反日闘争』32頁、ドキュメンタリー『日本が占領した海南島で』を見でください)。
 2006年5月には、「朝鮮村」から大型三輪車で田独市場の前を通って高速道路に続く道を進み、中学校のところで右折して田独鉱山に行ったのですが、きょうは田独市場から小型三輪車に乗り中学校までいかずに右折しました。
 すこし行くと、「田独村」と赤い字で書かれた高さ1メートルあまりの石碑が立っていました。そこを過ぎて80メートルほど行くと、雑貨店があり、そこに10人あまりの人が集まって、トランプなどをしていました。三輪車を降り、たまたまそこにいた林秀玉さん(1935年生)に話を聞かせてもらうことができました。
 林秀玉さんは、はじめは話すことはなにもない、と言っていましたが、つぎのように話してくれました。

  「以前、日本の石原公司がここに来て鉱山を開いた。日本軍は、近くの紅土坎にいた。
   この村に遊撃隊が来て日本軍と戦ったことがあった。
   日本軍は、たくさんの人を、台湾、福建、広州などから連れてきて働かせた。ここの村人も、鉱山で働いた。石原公司は、台湾人に労働者を管理させていた。
   当時15、16歳以上の村人は、日本軍によって、山を削らされたり土を掘らされたり、いろいろな仕事をさせられた。
   わたしの両親は、年とっていたので、日本工にはならなかった。
   姉(林亜論)は鉱山で車を押したり土を掘ったりして働いた。わたしは幼かったから働かされなかったが、日本人が労働者を見張っているのを見たことがある。
   日本軍は、まいにち、保長や甲長に村人を働きに行かせた。兄(林亜蛮)は、日本軍の青年団の正団長になった。
   村人は、朝早くから山に行って自分の農作業をし、夜おそく戻ってきた。朝早く出かけないと、村にやって来る保長や甲長に見つかって日本軍の仕事をさせられるからだ。
   日本が敗けた後、国民党は保長や甲長や団長などをみんな捕まえて監獄に入れた。
   国民党が台湾に逃げた後に、監獄に入れられていた保長らは戻ってきたが、新中国政府は、漢奸だった保長らや偽軍に入っていた者を再調査し、全員を捕らえ、監獄に入れて労働改造させた。ほとんどが監獄で死んだ。
   わたしの兄は、はじめ崖城の監獄で労働改造をおこなわされたが、モンゴルに送られ、そのあと広東省楽昌県の経碌鉱山で労働改造をおこなわされ、そこで死んだ。
   ここの鉱山では、台湾、福建、広州、香港などで捕まった人がたくさん働かされていた。たくさんの人が餓死した。逃げようとした人もいたが、日本軍に捕まって殴り殺された。トロッコに轢かれて死んだ人や病気で死んだ人もいた。
   死んだ人たちは、いっしょに働いていた人たちが、穴を掘って埋めた。浅く埋められた遺体が豚や狗に食べられたこともあった。
   インド人もいた。20人や30人ではない。40人か50人くらいいた。インド人はひげを生やし、ゆったりした服を着て、頭に布をまいていた。
   当時インド人は縦坑のそばの家に住んでいた。インド人の食べる飯のなかには、黄色や赤色のものが入っていた。インド人は小さな木の枝を折ってそれを使って歯を磨いていた」。

 1942年5月30日に海南警備府司令長官砂川兼雄の名で出された「印度人特別教育訓練実施要領」(機密海南部隊命令第23号別紙)には、6月はじめから約1か月間、「印度人(元俘虜)」300人を、「楡林海軍検疫所(仮称)」に「起臥」させて、「巡査代用員」とするための訓練をおこなう、と書かれています。
 海南島で日本海軍は、インド人捕虜を、労働者としてではなく、労働者を「監督」する「巡査代用員」として働かせたようです。『海南島近現代史研究』創刊号118頁を参照してください。

 林秀玉さんと別れたあと、近くの広場の大きな樹の下で休んでいた、李亜興さん(生年も年齢も知らないという。話の内容からすると85、86歳か)と蒲石春さん(90歳)から話を聞かせてもらいました。

 李亜興さんは、こう話しました。
   「日本軍が来た時、わたしは17歳だった。当時、ここの近くの酸豆村に住んでいた。日本人の鉱山でトロッコ押しや土掘りをやらされた。夫も鉱石を掘ったり土を掘ったりした。5、6年間ほど働かされた。
    わたしは殴られるのがこわかったので一生懸命に働いた。日本軍は、怠けるとか仕事が遅いといって、殴ったり、“四脚牛”をさせた。
    食べるものがもらえなかったので、家から持っていった。一日働いて、3角銭もらった。それでコメやものを買った。
    村に来た日本兵が、働きに行かないで家にいる人を見つけると、殴った。働きに行かない人の家を焼いたこともあった。
    インド人もいた。インド人は、いまのダムの上のほうに住んでいた。インド人の髪は黒くて長く鼻が高かった。インド人は、監督をしており、よく人を殴った。
    わたしが鉱山で働いているとき、たくさんの労働者が餓死するのを見た。餓死した人は、埋められた。
    わたしの兄(李亜全)も鉱山で働かされていたが、あるとき機械が壊れて、兄の首に当って、重傷を負った。死ぬところだった。しかし日本軍は治療費を出さなかった。
日本軍がいるときには、農業をする時間があまりなく、食べ物がなくて、いつもひもじかった」。

 蒲石春さんは、こう話しました
   「日本軍が来る前は、このあたりは樹木に覆われており、家はあまり多くなかった。日本軍と日本の会社きて、住民に樹を切らせ、山林に火をつけた。そして、住民や外から連れてきた人たちに鉱石を掘らせはじめた。
    そのとき、わたしは17歳か18歳だったが、そこで働かされた。1日に2角もらったが、食べるものは自分で家から持っていった。
    仕事をうまくやらないといって日本兵はまず殴って、そのあと、どうしてうまくやらないのかと言った。
    鉱石を掘りはじめてからまもなく、日本軍は、その鉱石を港まで運ぶ鉄道をつくり始めた。その工事も、住民や外からきた人がやらされた。
    インド人がいた。インド人は、日本軍の看守の代わりに道路などに立っていた。わたしたちは、インド人を見ると頭をさげてお辞儀しなければならなかった。そうしなければ、日本人やインド人に殴られた。台湾人も監督していた。
    わたしは、雑工、トロッコ押し、穴掘り、鉱石掘りなどをさせられた。当時、わたしの両親は年をとっていたので、あまり働かされなかった。
    わたしは、外から来て鉱石を掘らされていた人が、たくさん餓死するのを見た。食べるものがないので逃亡する人もおおかったが、日本兵に殴り殺された。
    香港から連れてこられた人も多かった。香港工人は、たくさん餓死した。遺体は焼かれた。まいにち4、5人死んだ。
    南丁に親戚がいるので、なんども行ったが、そこでは朝鮮人が働かされていた。何10人もの朝鮮人がかたまって住んでいる家があったが、その周りはとげの生えた樹で囲まれていた。朝鮮人はぼろぼろの青い服を着ていた。
    日本人はとても凶悪だった。わたしは、日本軍が、労工に“四脚牛”をやらせ、そのあと棍棒で尻を殴るのをなんども見た。わたしは、かれらが早くいなくなればいいと思っていた。
    日本軍が来る前は、コメを植えて平和に暮らしていた。飢えることはなかった。日本軍が来てからは、日本軍のために働く人を家ごとにださなくてはならなくなり、農業をしっかりやることができなくなった」。

 蒲石春さんから話を聞いたあと、王亜二さんの家を訪ねましたが、昨年亡くなられていました。いま田独村で日本軍や石原公司がいた時のことを知っているのは、林秀玉さん、李亜興さん、蒲石春さんの3人だけのようです。

 夕方、田独万人坑の新追悼碑(「田独万人坑死難砿工紀念碑」。2002年に海南省人民政府と三亜市人民政府が建てた)の前で、女の人が稲を干し、もみを選別していました。
 旧追悼碑(「日冦時期受迫害死亡工友紀念碑」。1958年4月に海南鉄礦田独礦区の労働者によって建てられた)は、大雨が続いたためか、水に浸っていました。1998年6月にはじめて来た時には草が生い茂っていました(『海南島で日本は何をしたのか 虐殺・略奪・性奴隷化、抗日反日闘争』4頁にそのときの写真が掲載されています)。
 碑から20メートルほど離れたところにある斜面の高さ20メートルほどの貯水池の土手を登ると、満水でした。
 土手の上で牛が5頭、草をたべており、遠くに田独鉱山が見えました。
                                   佐藤正人
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雷鳴で

2008年11月25日 | 海南島
 海南省政協文史資料委員会編『鉄蹄下的腥風血雨――日軍侵瓊暴行実録』(1995年)下巻末年表(黄纘文「日軍侵瓊紀事」)の1940年10月28日の箇所に、
   「定安県城日軍数百人進攻雷鳴、賓文両郷、焼毀民房数百間、民衆傷亡数千人、日軍占領雷鳴后構築工事、設立据点(定安県城の日本軍数百人が雷鳴、賓文両郷に侵攻し、民家数百軒を焼きはらい、民衆数千人を死傷させた。日本軍は、雷鳴占領後、軍事施設をつくり拠点を築いた)」、
と書かれています。ただし、『鉄蹄下的腥風血雨』の本文には、このようなことは書かれておらず、『鉄蹄下的腥風血雨――日軍侵瓊暴行実録』上巻に、「国民党定安県党部調査統計数字」として、「雷鳴郷 殺害人数 152」と書かれています(233頁)。

 1940年10月28日の68年後、2008年10月24日に、雷鳴に行きました。海口から真南に向かい、南渡河をこえると定安に着きます。海口から定安までは、高速バス路線で40キロほどです。定安からさらに20キロちかく南に行くと雷鳴です。
 雷鳴には、日本軍が侵入する前に国民党軍が建てた望楼の骨格が残っていました。
 その望楼跡の隣に住む楊秀英さん(1919年生)は、つぎのように話しました。
   「わたしは居丁で生まれた。15歳のとき雷鳴に働きに来た。国民党がここに望楼を建てから3年後に結婚してこの家に住んだ。
    日本軍が来て、国民党は敗けていなくなった。日本軍が来たので女性はみんな村に逃げた。日本兵は、女性を見つけると、すぐに強奸した。
    日本軍は住民に兵営を建てさせた。仕事が遅いといって日本兵は住民を棒で殴った。
    日本軍は、住んでいる人がいなくなった家に火をつけて燃やした。わたしたちの家の前の家も隣の家も火をつけられたが、わたしの家は残ったので日本人教師が住んだ。
    日本軍は、兵営をつくったあと、祠堂や公廟を壊し、それを材料にして学校を建てた。わたしたちが逃げたあと、この家に住んだのは、その学校の日本人教師だった。
    日本軍が来たとき、わたしの夫(王啓富。1916年生)は、すぐに近くの村(奇坡)に逃げた。雷鳴の住民の多くが、1か月以上、逃げた。
    そのあと、戻って、“順民”となった。わたしの夫は、“順民”になってから、小さな商売をはじめた。奇坡から軽食を雷鳴に運んで売った。
    夫は、日本軍に豪やトンネルを掘らされたこともあった。夫は、1981年に死んだが、日本軍が雷鳴市内である日32人の人を殺したのを見たと言っていた。
    日本軍が来たとき、わたしは最初の子どもを妊娠していたが、兵営で水汲みをさせられた。そうしなければ殴られた。
    日本軍は兵営の裏側に井戸を掘り浴場をつくった。日本軍は、住民に浴槽に水を入れさせた。日本兵は、日本から連れてきた女性といっしょに身体を洗った。
    日本軍は、しばしば、人をつかまえて兵営に連れていって殺した。
    当時、住民は、日本兵に会うと必ず頭をさげてお辞儀しなければならなかった。お辞儀しなければすぐに殴られた。
    日本軍が敗けたときには、みんな喜んだ」。

 楊秀英さんから話を聞かせてもらったあと、その息子の王賢聴さんに案内してもらって近くに住む許声誉さん(1931年生)の家に行きました。
    とつぜん訪ねたわたしたちを許声誉さんは自室に迎え入れて、つぎのように話してくれました。

  「日本軍が1939年に海南島に侵入してからすぐに、日本軍の飛行機が雷鳴に何回も爆弾を落とした。爆弾で何人もの人が死んだが、女性の腕が市内の家にとんできたのを見たことがある。
   雷鳴に入ってきた日本軍は望楼を建てた。望楼入り口の棒の先に日本国旗があった。望楼は鉄条網で囲まれていた。
   望楼ができてからまもなく、日本軍は3人の人を捉まえて望楼の近くに掘った穴のそばに座らせ、頭を下げさせ首を切り落とした。首は穴のなかに落ちた。日本軍は、人を殺すとき、住民に見せた。
   日本軍は、おおくの人を連れてきて10個ほどの穴を掘らせたあと、その人たちをひとりずつ銃剣で刺し殺したこともあった。
   日本軍は、雷鳴に学校を建てた。日本軍は、ひとつの村から必ず1人が学校に行くように命令した。当時、わたしは両親といっしょに、雷鳴から逃げて三郷村にいた。わたしは13、14歳ころ、日本軍が敗けるまで、1、2年間ほど、日本軍がつくった学校に行った。生徒は100人ほどで、女生徒も20人ほどいた。
   校長は日本人で、教師4,5人で、海南人教師のほかに日本人教師が1人いた。校長も日本人教師も軍刀はさげていなかった。学校には中国の国旗はなく、日本国旗だけがあった。
   海南人教師は数学などを教え、日本人教師は日本の唱歌と日本語を教えた。日本人教師はときどき生徒を殴った。わたしも、遅刻したときに殴られたことがある。その日本人教師は、1993年に、雷鳴に来た。
   わたしは、日本軍に働かされたことがある。まだ小さかったので、石や土を運んだ。
   日本人は凶悪だった。女性を強奸した。
   日本が敗けた時はほんとうに嬉しかった。日本が敗けるのは早ければ早いほどよかった。そうでなけでは、もっともっとおおくの人が殺されただろう」。

 話し終わった許声誉さんが街に行くというのでいっしょに行きました。すると、許声誉さんといっしょに日本軍の学校にかよっていたという謝世裕さん(80歳)に出会いました。謝世裕さんは近くの白鳥村に住んでいるのですが、たまたま雷鳴市内に来たのだと言いました。
 謝世裕さんは、つぎのように話しました。
   「日本軍は、何度も雷鳴を爆撃した。爆弾で人がたくさん殺され、家がたくさん壊された。爆弾で大きな穴がいくつもできた。
    雷鳴で日本兵はたくさん人を殺した。
    日本兵を見るとかならずお辞儀しなければならなかった。
    日本軍が来た時。わたしの父(謝開聡)は村長をしていた。
    わたしは、日本軍の学校に2年間いった。教師は、海南人と広東人のほかに日本人教師が1人いた」。

 黄纘文さんは「日軍侵瓊紀事」のなかで、“1940年10月28日に数百人の日本兵が雷鳴と賓文で数千人を殺傷した”と書いていますが、そのような事実はなかったようです。
                                   佐藤正人
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11月23日の紀州鉱山「現地調査」 1

2008年11月24日 | 紀州鉱山
 きのう(11月23日)、紀州鉱山「現地調査」をおこないました。
 石原産業紀州鉱業所本部のあった敷地に建てられている熊野市紀和鉱山資料館、紀州鉱山板屋坑口、朝鮮人の遺骨が埋められているといわれている板屋共同墓地(石原産業が1964年に建てた無縁塔があります)、選鉱所あと、石原産業が1943年に建てた「慰霊塔」、指定文化財とされている「外人墓地」、紀州鉱山大嶝坑口、「紀州礦業所物故者諸精霊」と題された死者の名簿(そのなかに朝鮮人と思われる20人ほどの人の名も書かれています)がある慈雲寺などへ行きました。
 紀和町が熊野市に併合される前は、紀和町鉱山資料館という名であった熊野市紀和鉱山資料館には、紀州鉱山にイギリス人捕虜が300人連行され、そのうち16人が紀州鉱山で死んだということにかかわる展示はありますが、紀州鉱山に朝鮮人が強制連行され働かされていたことにかんする展示はまったくありません。
 以下は、きょうの『中日新聞』三重版に掲載された記事です。


 「強制労働の実態調査 熊野で鉱山跡や寺など視察」

 太平洋戦争中に熊野市紀和町の紀州鉱山で、強制労働に従事した朝鮮人の実態を調査している八人が二十三日、同町の鉱山選鉱所跡や外国人共同墓地、遺骨が残されている寺などを視察した。

 参加した金静美(キム・チョンミ)さん(59)らによると、紀州鉱山では強制連行された千三百人以上の朝鮮人が働き、遺骨の調査などから少なくとも三十二人が事故や病気で死亡したことが分かった。しかし、紀和町史や同町の鉱山資料館は朝鮮人労働者について触れていない。

 金さんは「歴史的事実を隠してはならない。ありのままを市民に知ってもらいたい」と町史の書き換えや資料の展示を求めている。

 また、八月には在日本朝鮮人総連合会県本部など三団体と協力して、「紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する碑を建立する会」を結成。亡くなった人の名前を刻んだ追悼碑の建立に向けて、熊野市と協議を進めている。 (鈴村隆一)
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会が出発してから、20年

2008年11月20日 | 木本事件
 三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・相度)の追悼碑を建立する会は、1988年9月11日に第1回準備会をもちました。
 その2か月後の11月3日、ふたりの遺族を探していたわたしたちの元に、プサンに住む相度氏の孫、哲潤氏から手紙が来て、「事件」当時数え4歳で、アボジ相度氏、オモニ、妹たちとともに木本町にいた敬洪氏が存命だということがわかりました。
 準備会のあと、毎月の会議で準備をかさね、1989年4月23日に津で、6月4日に大阪で、敬洪氏、哲潤氏の弟、哲庸氏たちに来ていただいて、結成集会をもちました。津と大阪で2回結成集会を開いたのは、会の結成のための集まった人たちや関心をもってくれた人たちが、三重だけでなく関西にも多かったため、今後の運動の広がりのために別々に開催したほうがいいと考えたからでした。
 大阪での結成集会で採択された熊野市長と教育長への要望書は、次の4点でした。
 1、「事件」の再検証と、朝鮮人ふたりの虐殺を「愛町心の発露」とし、李基允氏と相度氏の名前を誤記している『熊野市史』(1983年3月)の書き換え。
 2、熊野市民に「事件」の真相を伝えてもらいたい。
 3、遺族、熊野市、建立する会の3者で、追悼碑を建立する。
 4、1990年1月3日あるいはその近い日に、三者で追悼行事を行う。

 わたしたちは、追悼碑を、熊野市とともに建立することは断念しました。それは、1992年10月、それまでいっしょに検討してきた碑文案とは別個に、熊野市が提示してきた碑文案が、わたしたちに「謝意」を要求し、わたしたちの会名から「虐殺」という言葉を削除することをもとめ、李基允氏と相度氏殺害の事実関係をあいまいにし追悼碑建立の日を「吉日」とし、朝鮮人差別をかくし人権問題に一般化し、行政の責任を回避し謝罪を拒否したものだったからです。
 敬洪氏は電話で、謝罪の意思のない追悼碑になんの意味があろうか、といいました。
 わたしたちは、敬洪氏の病状が悪化していること、熊野市といっしょに追悼碑を建立するにはまだ時間がかかることを考え、1993年5月ころ、熊野市との話し合いを継続しつつ、独自に追悼碑を建立することを決めました(この間の経緯は、1993年2月25日の『会報』17号、同年7月20日の『会報』18号、1994年4月2日付の『会報』19号を読んでください)。
 そして、相度氏の遺族や、多くの方たちの支持と協力をえて、1994年11月20日、木本トンネル熊野側入り口の高台で、除幕式を迎えることができました。
 それから毎年秋、追悼碑前で追悼集会をおこなっています。

 李基允氏と相度氏を虐殺したことを、「愛町心の発露」としている『熊野市史』の書き換えは、いまも熊野市が応じていません。また熊野市は、熊野市民に「木本事件」の真相を伝える努力はいっさいしてきませんでした。朝鮮人を虐殺したことを「愛町心の発露」として肯定する思想は、「国のために」として他地域他国を侵略し、略奪、破壊、異民族を殺すことを「愛国心の発露」として肯定する思想と同じです。この『熊野市史』は、1983年に出されています。
 『熊野市史』を書きかえさせる運動は、日本人に侵略責任(植民地支配責任・戦争責任・戦後責任)をとらせる運動です。
 『熊野市史』の問題は、けして熊野だけのことではありません。

 この20年のあいだに、わたしたちの会をひたすら信頼し、支えてくださった敬洪氏、朴慶植氏、熊野の松島繁治氏は亡くなりました。
                                 キム チョンミ


 ■ことしの追悼集会は、11月22日午後3時からです(このブログで、9月24日に追悼集会の案内を、9月25日に紀州鉱山「現地調査」の案内をしています)。
  みなさんの参加をお待ちしています。

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海南島とベトナム 4

2008年11月05日 | 海南島史研究
■日本の海南島侵略・ベトナム侵略
 1939年1月17日に天皇ヒロヒトが海南島軍事侵略を「裁可」し、2月10日に日本軍が海南島に奇襲上陸しました。
 1940年6月14日に、ドイツ軍がパリを占領し、6月16日に、フランスはドイツに降伏しました。
 その3か月あまり後、9月23日に、日本軍は、フランスが植民地としていたベトナム北部に侵入しました。
 1941年7月28日に、日本陸軍第25軍約4万人が海南島三亜からベトナム・カンボジア・ラオスに侵入しました。
 11月15日に、日本政府・大本営陸軍部は、上海に侵入していた第5師団の部隊を、海南島三亜に向かわせ、11月26日に、大本営海軍部は、「ハワイ作戦機動部隊」をエトロフ島ヒトカップ湾からパールハーバーに出港させました。
 12月4日、日本陸軍第5師団と第18師団の将兵をのせた船団が、海南島三亜港からイギリスの植民地マラヤのコタバルに出港しました。
 1941年12月8日未明、日本陸軍がコタバルに奇襲上陸しました。その1時間後、日本海軍が、USAの植民地ハワイのオアフ島パールハーバーを爆撃しました。
 日本の海南島侵略とベトナム・カンボジア・ラオス侵略とは直結していました。
 1944年から1945年にかけて、日本侵略下の海南島東部やベトナム中部・北部で、おおくの民衆が餓死しました。
 1945年9月2日の「ベトナム民主共和国独立宣言」では、「1940年から、わが人民はフランスと日本の2重のくびきのもとに置かれた。……昨年末から今年はじめにかけて……200万人以上の同胞が餓死した」と述べられています。

■ソンミ村虐殺・月塘村虐殺
 ベトナムは、1880年代にフランスの植民地とされました。
 それ以後、ベトナム民衆は、フランス、日本、再びフランス、USAの侵略と戦い続けました。
 フランス軍も日本軍もおおくのベトナム民衆を殺しましたが、USA軍は、大量の現代兵器と爆弾とダイオキシンなどの毒薬を使い、200万人近いベトナム民衆を殺しました。USAのベトナム侵略に加担した韓国の軍隊もおおくのベトナム民衆を虐殺しました。
 1968年3月16日、ベトナム中部のソンミ村で、USA陸軍第23歩兵師団第11軽歩兵旅団第20歩兵連隊第1大隊C中隊(隊長ウィリアム・カリー中尉)の兵士が、4時間の間に、幼児をふくむ村人504人を虐殺しました。そのうち、10歳までの子どもは145人でした。
 ソンミ村虐殺は、その21月か月後に「ニューヨーカー」が報道し、事実が明るみにだされました。
 1945年、海南島で、日本海軍佐世保鎮守府第8特別陸戦隊の日本兵が、4月12日に長仙村など9か村の住民を虐殺し、5月2日に月塘村の住民を虐殺し、日本海軍第15警備隊の日本兵が、7月30日に秀田村の住民を虐殺しました。この年夏には、「朝鮮村」で多くの朝鮮人が殺害されました。
 1945年5月2日に、ソンミ村北東300キロメートルあまりの月塘村で日本軍に虐殺された村民190人のなかには、1歳に満たない陳亜依ちゃんがいました。生後8か月の朱建さんも、生後3か月の朱学超さんも刺されました。妊娠していた女性が2人殺されました(1屍2命)。
 長仙村など9か村での虐殺、月塘村虐殺、秀田村虐殺、海南島南部の「朝鮮村」虐殺をふくむ海南島各地での日本軍による民衆虐殺の事実は、いまなお世界にはほとんど知られておらず、虐殺部隊名も虐殺者の名も明らかにされておらず、責任者処罰もされていません。

■ソンミ村で
 ことし秋、わたしはベトナムから陸路と海路で海南島に行きました。
 10月2日に、ソンミ虐殺記念館を訪ねました。強い雨が降っていました。
 館内に504人の名前と年齢を記した大きな碑がおかれていました。館長のファム・タイン・コンさんと2時間近く話し合うことができました。
 コンさんの左の額に傷がありました。あのときの傷だとのことでした。母、姉、妹、弟らコンさん以外の家族5人がすべて殺されたそうです。表情がほんとうに穏やかで、話し方も静かな人でした。あのとき生き残ったのは、20人だけだったそうです。

■月塘村で
 10月20日に、月塘村全体村民の「至日本国政府要求書」に対して、日本法務省大臣官房秘書課から、「事実関係を承知していないため、対応いたしかねますことをご理解ください」と「回答」がありました。
 10月27日に、わたしは、海南島近現代史研究会の一員として、月塘村民委員会の会議室で村民のみなさんと、こんごの方針について話しあいました。
 朱振華さんが、これまでの経過を話し、国際司法裁判所への提訴、日本の裁判所への提訴なども行いたいと提案し、「日本政府が事実を隠そうとし続けているのだから、事実を世界に知らせる必要がある。そのためには裁判提訴も必要だ。事実を世界に伝え、殺された190人の先立ちへの責任を果たしたい」と語りました。
 2時間あまりの討論を経て、裁判提訴を前提にして、日本政府への要求を再度行うことになりました。
 提訴した場合に、「幸存者」や遺族がが法廷で証言するために日本に行くことになる、という話のときに、朱振華さんは、証人の安全が心配だ、と言いました。ほかの人たちも心配だと言って、わたしにどうなのか、と問いかけました。わたしは、その疑問を聞いて、月塘村のひとたちの日本にたいする「感情」を、自分はまだまだ知っていなかったのだと感じました。
 日本兵に8か所傷つけられ「八刀」と呼ばれていた朱進春さんは、敗北して万寧を去る日本軍に石を投げつけた、と話していました。
 
■過去と現在の民衆虐殺
 ソンミ村虐殺、月塘村虐殺とおなじ民衆虐殺を、USA軍や日本軍はくりかえしてきました。いまもUSA軍、イスラエル軍……は、イラク、アフガニスタン、パレスチナ……で民衆虐殺をおこない、日本軍はそれに加担しています。
 海南島に限っても、日本軍がおこなった住民虐殺については、おおくが隠されたままです。
 わたしは、海南島を16回訪ね、のべ400日間ほど、日本政府・日本軍・日本企業の侵略犯罪を調査してきましたが、知りえたことはわずかです。
 
■沙土虐殺
 10月12日に、海南島澄邁県橋頭鎮沙土に行きました。
 沙土の聖眼村の入り口に、高さ12メートルほどの「史証碑」が建てられていました。橋頭鎮の人民政府が、3年まえの8月15日に建てたものでした。
 その碑文には、「1941年閏6月12日明け方、日本軍200人あまりが、沙土に侵入し、昌堂、美梅、那南、北山、昌表、上帝、聖眼、文旭、福留、欽帝等の村を包囲した。……わずか2時間ほどの間に、男女老幼1119人が殺された。その後日本軍は再び来て、無辜の200人あまりを殺した」と書かれていました。
 聖眼村で「幸存者」の温国興さん(81歳)、温国照さん(78歳)、温国武さん(82歳)から話しを聞かせてもらいました。 碑文には、1119人と200人あまりが殺されたと書かれていますが、その人たちの名は記録されていないそうです。温国興さんは、これから聖眼村だけでも、犠牲者全員の名を書きとめていきたい、と話していました。
 10月20日に、沙土を再訪しました。
 福留村で、「幸存者」の温天元さん(74歳)、温陳東さん(73歳)、温天養さん(80歳)、温龍其さん(84歳)、温際貴さん(79歳)に、あの日のことを話してもらうことができました。
 橋頭鎮人民政府は、虐殺64年後に、「史証碑」を建てましたが、犠牲者の名前も「幸存者」の証言もほとんど記録しようとしていません。沙土虐殺にかんしては、澄邁県政協文史資料委員会が1995年ころ発行した『日軍侵澄暴行実録』に掲載されている、温家明・温明光口述「血海深仇 永不忘懐(侵瓊日軍制造“沙土惨案”実況)」があるだけです。
                                     佐藤正人

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『会報』を発行しました

2008年11月03日 | 『会報』
 11月22日の李基允さんと相度さんを追悼する集会と23日の紀州鉱山「現地調査」の日が近づいてきました。
 三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允、相度)の追悼碑を建立する会『会報』50号と紀州鉱山の真実を明らかにする会『会報』5号との合併号を発行しました。
 内容は、つぎのとおりです。

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キムチョンミ「会が出発してから、20年」
碑文
「紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する碑を建立する会発会式にいたるまで」
発会式新聞記事
   『伊勢新聞』2008年9月1日
   『毎日新聞』2008年9月1日
   『朝日新聞』2008年9月1日
   『読売新聞』2008年9月1日
山本柚「紀州鉱山に強制連行の朝鮮人追悼碑建立計画を」(『週刊金曜日』2008年9月12日号)
斉藤日出治「石原産業との話し合い報告」
竹本昇「熊野市との話し合い報告」
日置まりこ・久保雅和「聖公会平和学習委員会の方々と木本、紀州鉱山に行きました」
佐藤正人「海南島とベトナム」
斉藤日出治「海南島近現代史研究会第2回総会報告」
「月塘村村民の対日本政府要求」
「会の20年。わたしの20年」
   佐山和子「戦争を知る世代の一人として」
   斉藤日出治「熊野の追悼碑と月塘村の追悼碑の出会い」
   鐘翠雅「海南島から「木本トンネル」への旅」
   日置真理子「開き直りつづける熊野市は許されない」
   嶋田実「継続する力」
   林彩虹「正視することを希望する(海南島で)」  
   久保雅和「少しづつでも」
   崔ムンジャ「故郷の山河を恋しく思っただろうか」
   竹本昇「20年の活動を振り返って思うこと」
   佐藤正人「民衆運動の基盤」
   キムチョンミ「李基允氏と相度氏の追悼碑の前で」


2008年11月1日発行  B5版16頁  
定価100円

発行者
三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・相度)の追悼碑を建立する会
http://www5a.biglobe.ne.jp/~kinomoto/
       大阪府大東市中垣内3 大阪産業大学 斉藤日出治研究室                      
紀州鉱山の真実を明らかにする会
http://members.at.infoseek.co.jp/kisyukouzan/
       和歌山県海南市日方1168
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