三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

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「苗族阿婆玉民摔倒入院」

2014年05月29日 | 海南島
 玉民さんが、おととい(5月27日)、保亭黎族苗族自治县医院に入院しました。
 以下は、そのことを伝えるおとといの「保亭新闻网」と、きょうの『南国都市报』10面に掲載された記事です。
 
                                   佐藤正人

「南海网」2014-05-28 11:10  来源:保亭新闻网 5月27日消息(特约记者黄青文摄影报道)
■保亭二战受害阿婆摔倒卧病不起 已送医院救治
  海南“慰安妇”事件受害者、状告日本政府原告之一的苗族阿婆邓玉民摔倒卧病不起,保亭黎族苗族自治县红十字会今天将老人接送到县医院住院治疗。
  邓玉民阿婆今年84岁,家住保亭县响水镇什齐村,育有一男三女。目前,老人和小女儿住在一起。但由于子女们家庭生活都较为贫困,给不了老人安逸的晚年生活;加上老人深受二战时期日本兵的侵害烙下了不少病痛。
  前几天,邓玉民阿婆不慎摔倒后卧病不起,而且已经有4天没有进食了。昨晚,保亭县红十字会获悉这一紧急情况后,第一时间联系了县医院,并于今天上午委派120救护车来到邓玉民老人家中,护送老人到县医院住院治疗。
  据介绍,这次邓阿婆住院的费用,将由县红十字会专项资金支付。同时,该会还号召社会爱心人士发扬人道主义精神,伸出援助之手,让老人安享晚年。
  2001年7月,邓玉民等八名“慰安妇”事件受害幸存者,正式向日本东京地方裁判所提出诉讼请求,状告日本政府,要求日本政府承认她们受到伤害的事实,向她们公开道歉,恢复她们的名誉。然而,东京地方法院和高院分别宣判原告败诉,但基本认定案件事实,却拒绝道歉和赔偿。
  据了解,状告日本政府的8位“慰安妇”原告中目前仅剩3人尚在人世,年龄都已在80岁以上,她们都生活在农村,已丧失劳动能力,身体健康状况不容乐观。
    图为医护人员给阿婆诊治。


http://ngdsb.hinews.cn/html/2014-05/29/content_10_2.htm
『南国都市报』2014年5月29日
■苗族阿婆邓玉民摔倒入院
 保亭红会表示将负责其治疗费用

  数日前,海南“慰安妇”事件受害者、状告日本政府原告之一的苗族阿婆邓玉民摔倒卧病不起,保亭黎族苗族自治县红十字会于27日将老人接送到县医院住院治疗,并全权负责邓玉民的治疗费用。
  记者了解到,邓阿婆今年84岁,家住保亭县响水镇什齐村,育有一男三女。目前,老人和小女儿住在一起。但由于子女们家庭生活都较为贫困,给不了老人安逸的晚年生活;加上老人深受二战时期日本兵的侵害烙下了不少病痛,身体状况一直以来不是很好。
  前几天,邓玉民阿婆不慎摔倒后卧病不起,而且已经有4天没有进食了。由于经济困难,受伤后阿婆一直没有前去医院接受治疗。5月26日晚,保亭县红十字会获悉这一紧急情况后,第一时间联系了县医院,并于27日上午委派120救护车来到邓玉民老人家中,护送老人到县医院住院治疗。
  保亭红十字会相关负责人告诉记者,这次邓阿婆住院的费用,将由该部门专项资金支付。同时,协会正在号召社会爱心人士伸出援助之手,捐助相应费用帮助老人改善生活,让其安享晚年。
  据了解,2001年7月,邓玉民等八名“慰安妇”事件受害幸存者,正式向日本东京地方裁判所提出诉讼请求,状告日本政府,要求日本政府承认她们受到伤害的事实,向她们公开道歉,恢复她们的名誉。然而,东京地方法院和高院分别宣判原告败诉,但基本认定案件事实,却拒绝道歉和赔偿。
  据了解,状告日本政府的8位“慰安妇”原告中目前仅剩3人尚在人世,年龄都已在80岁以上,她们都生活在农村,已丧失劳动能力,身体健康状况不容乐观。
               5月28日消息(记者 林方岱 通讯员 黄青文 文/图)
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坪井宣幸裁判長忌避申立理由書

2014年05月26日 | 紀州鉱山
 きょう(5月26日)、紀州鉱山の真実を明らかにする会は、原告を申立人として、津地裁に「坪井宣幸裁判長忌避申立理由書」を出しました。
 その本文(全文)は、つぎのとおりです。


■坪井宣幸裁判長忌避申立理由書
 申立人は、2013年(行ウ)第13号 2012年度固定資産税賦課処分及び減免不承認処分取消請求事件の原告である。
 申立人は、2014年5月22日午前11時43分に、法廷内で坪井宣幸裁判長が、「証人申請は却下します」と言い、続けて「これで弁論を……」と言い出した瞬間に即座に、「裁判長を忌避する」と宣言し坪井宣幸裁判長を忌避した。
 以下に、民事訴訟規則にしたがって、その忌避理由をのべる。
 当該事件の原告である申立人が、坪井宣幸裁判長を忌避したのは、「これで弁論を……」と言い出した瞬間であり、2014年5月22日の口頭弁論法廷において、坪井宣幸裁判長は弁論を「終結」させることができなかったという事実を、ここに付記しておく。

         記
1、2014年2月20日の口頭弁論において
 坪井宣幸裁判官を裁判長とする本件訴訟のはじめての口頭弁論において、原告が短時間訴訟提起の理由を弁論したあと、坪井宣幸裁判長は、実質審理にはいることはなかった。
 被告が答弁書で、「知らない」と主張していることに対して、原告が被告に回答を求めたが、坪井宣幸裁判長は、原告に準備書面を出すように指示するだけあった。

2、2014年5月22日の口頭弁論において
 坪井宣幸裁判官を裁判長とする本件訴訟の2回目の口頭弁論の冒頭で、原告は、2014年5月9日の原告準備書面(2)と2014年5月21日の原告準備書面(3)の趣旨説明を短時間おこない、被告熊野市が「「紀州鉱山での朝鮮人強制労働と朝鮮人死者」は知らない」と「答弁」していることを弾劾し、紀州鉱山への朝鮮人強制連行、紀州鉱山での朝鮮人の労働の強制性を、法廷で審理することを求め、あらためて、とくに、紀州鉱山で亡くなった李白洛さんの遺児李炳植さんと千炳台さんの遺児千鳳基さんを証人とすることを要求するとともに、本件訴訟においては、強制連行と強制労働の事実を明らかにすることによって不当課税であることが明らかになるのだから、この事実について審理が尽くされなければならないということを、強く主張した。
 原告の弁論がいったん終わったのは、11時39分であった。
 すぐに、坪井宣幸裁判長は、「チョット、進行について合議をします」と言って、二人の陪席裁判官といっしょに法廷を出て行った。4分後に再び法廷に出てきた坪井宣幸裁判長は、「証人申請は却下します」と言い、続けて「これで弁論を……」と言い出し、実質審理をおこなうことなく、弁論を終結させようとした。
 まさに、これから本訴の根本問題の解明のための実質審理が開始されるべき時に、坪井宣幸裁判長は、本訴の審理を終わらせようとしたのである。

3、坪井宣幸裁判長は、実質審理を行わず、弁論の終結を図ろうとした
 坪井宣幸裁判長は、原告が訴状、準備書面、証人申請書などに詳細に示している本訴の根本問題の審理を避け、わずか2回の総計40分にも満たない口頭弁論で、弁論を終結させようとし、ものごとの本質を見極め、事実を明らかにするという裁判の使命を放棄した。
 三重地裁民事部の坪井宣幸裁判長は、人権意識、法意識、正義感を確立できておらず、恥を知ることできずに職権を乱用した。裁判所は人権の番人でなければならず、法の理念に基づいて人権が侵害されている事実を究明しなければならない。原告がその事実を明確に指摘しているにもかかわらず、実質審理を拒み、審理に必要な証人申請を却下したことのうちに、裁判長の人権意識、法意識、正義感の欠落が如実に表れている。

 本訴において、審理されるべき基本問題は、つぎのとおりである。
   ① 紀州鉱山への朝鮮人強制連行、紀州鉱山での朝鮮人強制労働にかかわる熊野市の行政責任。
   ② 紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する場(土地)の公共性・公益性。
   ③ 熊野市は、地方税法第6条1項及び熊野市条例第71条4号に基づき、紀州鉱山で亡くなった朝鮮人
    を追悼する碑の土地にたいする税を免除することが租税法律主義に合致する。
   ④ 朝鮮人を追悼する碑の敷地への課税は、社会正義に反し、憲法に違反している。
   ⑤ 熊野市は、自らの歴史的な行政責任を自覚し、紀州鉱山で犠牲になった朝鮮人を追悼しなければ
    ならなかった。
   ⑥ 熊野市は、紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する碑を建てるべきであったにもかかわらず、碑
    を建てようとせず、碑の敷地を提供しようともせず、紀州鉱山の真実を明らかにする会が会員を名
    義人として購入した敷地に課税した。
     熊野市は、日本の現行法に従って、免税することができるにもかかわらず、紀州鉱山で亡くなった
    朝鮮人を追悼する碑の敷地に課税した。
     それは、熊野市が、過去の行政犯罪を、現在おいてくりかえす行為であった。

 以上の基本問題について実質審理をしようとしない坪井宣幸裁判長には、裁判の公正を妨げる事情がある。
 申立人は、坪井宣幸裁判長に対する忌避は理由があるとの裁判を求める。
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遼源で 1

2014年05月24日 | 個人史・地域史・世界史
 4月24日朝8時半に、山邉悠喜子さん、李茂杰さんらといっしょにマイクロバスで長春から遼源に向かいました。
 高速道路で伊通満族自治県、金州を通って遼源に10時40分に着きました。
 午後、遼源鉱工墓陳列館、日軍遼源高級戦俘営旧址を訪ねました。遼源鉱工墓陳列館では、1993年から2006年まで館長をしていた劉玉林さんに、日軍遼源高級戦俘営旧址では、館長の魏東さんに案内してもらいました。
 翌25日朝8時半から、遼源に住む劉玉林さん、魏東さん、曲道独さん、遼源市人民政府办公室の李雅琴さんと、長春から来た李茂杰さん、山邉悠喜子さん、和田千代子さん、小林節子さん、金靜美さん、わたしの11人で話し合いました。長春から同行してくれた吉林省外事服務中心の庞志刚さんが通訳してくれました。
 その席で、劉玉林さんは、
   「遼源には、6か所の万人坑がある。1963年に、そこのひとつを、遼源市鉱物局の労働者
   1300人が掘った。
    半年間くらいかかった。発掘の記録、図面はは作らなかった。あとの5か所は掘ってい
   ない。
    火葬場も1か所、掘った。発掘すればするほど規模が大きくなり、3000くらいの墓も発
   掘した。
    発掘したときはそんなにきれいに並んでいなかった。長期的に保存するため、いまのよ
   うな形にした。
    社会科学院が保存について指導した。
    1979年~1985年には、管理する人はいなかった。わたしは、1993年に、人事異動でこ
   こに来た。
    来てみると骨は腐っているものもあった。手足の骨は腐って、ほとんど形がなくなって
   いた。
    いま遺骨がおかれているところの背骨の位置などはほとんど変わっていない。発掘され
   た当時のままだ。
    当時は経済条件がよくなかったので、それ以上のことはできなかった」。
と話しました。
                                      佐藤正人
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長春で

2014年05月23日 | 個人史・地域史・世界史
 4月22日朝10時30発の哈大高速鉄路(哈尔滨・大連間の新幹線)で、哈尔滨西駅から長春に向かいました。
 長春西駅に着いたのは11時40分でした。
 午後、伪满皇宫博物院と東北陥落史陳列館に行きました。
 夕刻、吉林省人民政府外事办公室の邓伟さん、何彦宏さんらと話し合いました。
 
 翌23日朝9時から、東北倫陥史総編室の李茂杰さん、吉林省社会科学院の王宜田さんと話し合いました。
 午後、南大営旧址陳列館(2011年9月18日開館。南大営の兵舎旧址。南大営には1931年9月18日の柳条湖事件当時東北辺防軍第10連隊、国民革命軍陸軍独立砲兵第19連隊、国民革命軍独立歩兵第671連隊などが駐屯していた。関東軍は柳条湖事件直後に瀋陽の北大営を攻撃し、つづいて长春の南大営を攻撃した)、旧大同学院の校舎(吉林大学南嶺校区内に現存)、「100部隊(関東軍軍馬防疫廠)」の跡地などに行きました。

                                              佐藤正人
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実質審理ができない津地裁民事部坪井宣幸裁判長

2014年05月22日 | 紀州鉱山
 きょう(5月22日)、熊野市を被告とする第2次訴訟(「2012年度固定資産税賦課処分及び減免不承認処分取消請求事件」)の3回目の裁判(口頭弁論)が開かれました。
 午前11時28分、予定より2分早く坪井宣幸裁判長ら3人の裁判官が法廷に入ってきました。
 開廷後すぐに、原告のキㇺ チョンミ さんとわたしは、紀州鉱山の真実を明らかにする会の5月9日の準備書面(2)と5月21日の準備書面(3)説明しました。
 まず、キㇺ チョンミ さんが、「「紀州鉱山での朝鮮人強制労働と朝鮮人死者」は知らない」と被告熊野市が「答弁」していることを弾劾し、紀州鉱山への朝鮮人強制連行、紀州鉱山での朝鮮人の労働の強制性を、法廷で審理することを求め、あらためて、とくに、紀州鉱山で亡くなった李白洛(イ ペンナク)さんの遺児李炳植(イ ビョンシク)さんと千炳台(チョン ビョンテ)さんの遺児千鳳基(チョン ポンギ)さんを証人とすること要求しました。
 次に、わたしが、被告熊野市が紀州鉱山で亡くなった英国人については調査していて、朝鮮人については調査しないということは許されることではないと主張しました。さらに、租税法律主義や租税公平主義について、熊野市こそ地方税法の適用を誤っているため、租税法律主義に反していることや、土地の所有が行政だから非課税で個人だから課税するというのは、実質課税の原則を無視しているため、租税公平主義に反していると主張しました。また、準備書面(3)について、原告は「課税の算定額」が適正化どうかを争っているのではないのに、論点を変える被告の主張は、「民事訴訟法」第161条2項2号「相手方の請求及び攻撃又は防御の方法に対する陳述」に反するものであると述べました。そして、この裁判は、強制連行と強制労働の事実を明らかにすることによって不当課税であることが明らかになるのだから、この事実について審理されなければならないということを、強く主張しました。
 最後に、わたしは、紀州鉱山の真実を明らかにする会は「地方税法」第348条の非課税の範囲の適用をめぐって本訴訟を提起していないし、追悼碑の土地を墓地とは言っていない。言ってもいないことを論点にして主張するころは、「誠実に民事訴訟を追行しなければならない」に違反するということを主張しました。

 原告二人の弁論がいったん終わったのは、11時39分でした。
 すぐに、坪井宣幸裁判長は、「チョット、進行について合議をします」と言って、二人の陪席裁判官といっしょに法廷を出て行きました。

 4分後、11時43分に再び法廷に出てきた坪井宣幸裁判長は、「証人申請は却下します」と言い、続けて「これで弁論を……」と言い出しました。
 その瞬間、わたしたちは即座に、「裁判長を忌避する」と大声で宣言し、わたしは、ダメ押しにもう一度「裁判長を忌避する」と大きな声で言いました。
 坪井宣幸裁判長は、「忌避するのは、裁判長だけですか」と念を押してきたので、「裁判長だ」と言いました。
 3人の裁判官全員を忌避せず、坪井宣幸裁判長だけを忌避したのは、二人の陪席裁判官全員が坪井裁判長の悪質な決定に同意しなかったかもしれないと、一瞬考えたからです。
 忌避された裁判長は、それからは、裁判を指揮することができません。
 「これで弁論を……」と言いかけたときに忌避された坪井裁判長は、「これで弁論を終結」させることも、次回の裁判の日時(つまり判決日の日時)を指定することもできないまま、1分後の11時44分に二人の陪席裁判官とともに法廷をてて行きました。
 坪井裁判長は、わたしたちが訴状、準備書面、証人申請書などに詳細に示している本訴訟の根本問題の審理を避け、実質2回総計40分にも足りない裁判(口頭弁論)で、「弁論」を終結しさせようとし、真実を明らかにするという裁判の使命を放棄しました。
 きのう(5月21日)関西電力大飯原発の運転差し止めを命じる判決をだした福井地裁民事部の樋口英明裁判長や厚木基地の自衛隊機の飛行差し止めを国に命じる判決をだした横浜地裁民事部の佐村浩之裁判長のような人権意識、法意識、正義感を、三重地裁民事部の坪井宣幸裁判長は、確立できておらず、職権を乱用することを恥じる力をもつこともできていないようです。

                                                   竹本昇
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明日22日の裁判(口頭弁論)を前にして

2014年05月21日 | 紀州鉱山
 明日(5月22日)午前11時30分から、三重県津地方裁判所302号法廷で、熊野市を被告とする対熊野市第2訴訟の3回目の裁判(口頭弁論)が開かれます。
 みなさんの傍聴(裁判監視)をお願いします。 
 5月9日に、紀州鉱山の真実を明らかにする会は、この訴訟にかかわる「原告準備書面(2)」を津地方裁判所民事部合議1係に出しました。その本文(全文)は、このブログの5月9日~5月15日の「今月22日の裁判(口頭弁論)を前にして」1~7をみてください。
 今日(5月21日)、紀州鉱山の真実を明らかにする会は、「原告準備書面(3)」を津地方裁判所民事部合議1係に出しました。その本文(全文)は、つぎのとおりです。


■原告準備書面(3)
                 記

 被告熊野市の訴訟代理人倉田厳圓弁護士が2013年6月16日付けで津地方裁判所民事部合議1係に提出した「準備書面」は、「1 固定資産税の算定について」、「2 本件土地は地方税法が固定資産税を課することができないと定める固定資産のいずれにも該当しないこと」と小節が付けられて提出されているが、この「準備書面」は本訴訟の根本問題の解明を回避し、本訴訟そのものの意味を失わせようとするものである。

「1 固定資産税の算定について」にたいして
 原告らは、紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する土地に熊野市が課税することが不当であるから、その取消しを求めているのであって、課税額の算定が法定された基準に合致していないという理由で取消しを求めているのではない。
 三重県紀和町(現、三重県熊野市)にあった紀州鉱山で死亡した犠牲者を追悼する碑の敷地に課税することは、社会正義に反することであり、熊野市は「地方税法」第6条・第367条および「熊野市税条例」第71条にもとづいて、紀州鉱山で死亡した犠牲者を追悼する碑の敷地への固定資産税の課税を撤回すべきであることを裁判所が明示することを求めて訴訟を提起した。
 この訴訟において、原告らが提起していない「固定資産税の算定」を被告がもちだしてくるのは、「民事訴訟法」第161条2項2号「相手方の請求及び攻撃又は防御の方法に対する陳述」に反する。
 また、このことによって、本来、審理されなければならない紀州鉱山への朝鮮人強制連行、紀州鉱山での朝鮮人強制労働にかかわる熊野市の行政責任の審理が妨げられることになるから、「民事訴訟法」第2条「当事者は、信義に従い誠実に民事訴訟を追行しなければならない」に違反する。

「2 本件土地は地方税法が固定資産税を課することができないと定める固定資産のいずれにも該当しないこと」にたいして
 「地方税法」第6条1項は、「課税をしないことができる」という課税の免除規定であり、同法第348条は、「固定資産税を課することができない」という固定資産の非課税の範囲を定めたものである。
 原告らは、被告が「地方税法」第6条・第367条、「熊野市税条例」第71条1項4号に従わずに、原告らに不当な課税をしたことに対して、課税の取消し・免除を求めているのであって、「地方税法」第348条の非課税の範囲の適用をめぐって本訴訟を提起していない。
 原告らは、紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する碑の土地が、「墓地、埋葬等に関する法律」第2条5項でいう「墓地」であるとも、また、「地方税法」第348条2項4号でいう「墓地」であるとも主張していない。
 原告らが提起していない「墓地」問題をもちだしてくることは、「民事訴訟法」第161条2項2号「相手方の請求及び攻撃又は防御の方法に対する陳述」に反する。
 また、このことによって、本来、審理されなければならない紀州鉱山への朝鮮人強制連行、紀州鉱山での朝鮮人強制労働にかかわる熊野市の行政責任の審理が妨げられることになるから、「民事訴訟法」第2条「当事者は、信義に従い誠実に民事訴訟を追行しなければならない」に違反する。
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集安で 4

2014年05月20日 | 個人史・地域史・世界史
 朱蒙が高句麗を建国したとき、その中心は現在の遼寧省本渓市桓仁満族自治県の五女山におかれたとされ、その山城跡が現存しています。第2代の瑠璃明王は、高句麗の本拠地を現在の丸都に移したとされ、その山城跡が集安市近郊に現存しています。
 4月29日朝10時50分に、集安中心部から2キロあまり北の丸都山城跡を訪ねました。午後4時まで、丸都山城跡の域内を歩いたあと、隣接している古墳群のなかを歩きました。

 4月30日朝7時から1時間ほど、宿所の近くの国内城の南部城壁の外側の広場で毎朝8時まで開かれている朝市を歩きました。
 この日11時に、集安市街地の鴨緑江岸から9キロほど上流にかけられている「鴨緑江国境鉄路大橋」のたもとに行きました。この鉄橋は、日本侵略期、1937年に建設が開始され1939年に完成したもので、「満洲国」の梅輯線と朝鮮の満浦線をつなぐものでした。朝鮮戦争時には、60万人の抗米援朝志願軍の兵士と随軍担架隊員が、この橋および付近の水域から朝鮮に入ったといいます。
 わたしが眺めているとき、朝鮮からの貨物列車が集安通っていきました。2005年に吉林文史出版社からだされた集安市档案局編著『集安旅游』には、集安・朝鮮満浦間に1日1往復の火車が運行されていると書かれていますが、これは数年前から運行が中止されているとのことでした。
 「鴨緑江国境鉄路大橋」から500メートルほど上流に橋がみえました。
 鴨緑江の右岸の土手の砂利道を歩いて、その橋に近づきました。対岸の朝鮮の山やま、道路、家並み、人びと……がまぢかに見えました。
 その橋は、コンクリートの橋で、車両と通行人用のようでした。
 橋の近くに、右腕に「武警」という徽章をつけた青年がいたので、軽く目であいさつしました。このとき、かれが「どこから来たのか」と聞くので「日本からだ」と答えました。
 そこからさらに20メートルほど進むと、「軍事管理区」と書かれた看板が建てられており、鉄条網がはられていました。「軍事管理区」という看板のすぐ上に2012年5月14日付けの集安市人民政府の「公告」が黄色の文字で書かれた看板がおかれていました。この「公告」によると、この橋は集安市では「集安・満浦界河公路大橋」と名づけられているようです。
 この看板の下に、韓国人や中国人の観光客が20人あまりいました。かれらと話しをしていると、突然、すこし前にあいさつした「武警」が近づいてきて、パスポートを見せろといい、軟禁されました。正午ころでした。かれは、携帯電話で公安に通報しました。
 10分ほどして、パトカー2台に分乗してやってきた公安に市内の太王村派出所につれていかれ、2時間近く留められ、さらに入管につれていかれ、ここでも30分あまり留められました。
 同じ場所にいた韓国の「旅行者」は、「拘束」されず、わたし1人だけが「拘束」されたので、理由を聞くと、「あなたが日本人だからだ」と言われました。なぜか、その答えに納得してしまいました。
 「武警」に軟禁され公安に通報された瞬間、考えたことは、最悪の場合でも、①所持品を徹底的に検査されメモ類を押収され、②ビデオカメラで撮影した動画と静止画を削除されて済み、逮捕拘留されることはないだろうということでした。
 撮影した動画には、鴨緑江対岸の朝鮮の道を移動している車両や川辺で水遊びしている人たちが映っており、静止画にはさまざまな角度からの鴨緑江にかかる二つの橋とその周辺の写真が含まれていました。「軍事管理区」とかかれた看板の写真もありました。
 しかし、撮影した動画は隠しとおし、見つかった静止画も消去されず、所持品検査もかんたんに済み、なにも押収されませんでした。
 公安(警察)での「尋問」は漢語でしたが、入管では「尋問」は朝鮮語でした。入管の担当官に「あんたは、朝鮮族か」と訊ねると、「漢族だが、ここでは朝鮮語をつかうことが多いので、朝鮮語を覚えた」と言いました。
 結果として、このときの「拘束」での、わたしの「損害」は、2時間半ほどの時間の「浪費」で済みました。
 まあ、「浪費」といっても、この2時間半に、この国境地帯の官憲の動きをほんの僅かでしたが知ることができたので、まったくムダな時間を過ごしてのではなかった、と考えることにしています。
 「拘束」されたのは、鴨緑江の集安市街地の上流でしたが、「釈放」されてから、バスで鴨緑江の集安市街地の4キロほど下流に行きました。そこは麻线というところで、千秋墓という4世紀末の高句麗王陵の近くです。千秋墓は、集安で最大の王陵で、大量の葺石で覆われていました。鴨緑江は、そこから500メートルほどのところを流れていました。そこの川幅は狭く、30メートルほどでした。渇水期のようで、広い河原が手前の岸に広がっていました。小さな石を10個ほど拾いました。対岸は切り立った崖になっており、その中腹に道路が通っていました。その道を、自動車やオートバイが何台も行き来していました。人の声も聞こえました。
 水温はあまり低くなく、泳げるほどでした。
 麻线の中心部から集安行きのバスに乗ると、すぐに乗客の一人が、「どこから来たのか、韓国人か……」と聞くので、日本人だと答えると、「日本が中国を侵略したことを知っているか」と聞かれました。
 「知っている。日本政府は侵略した責任をとらなければならない……」と答えると、握手を求められました。日本人の戦争責任・侵略責任・植民地支配責任について話さなければならないと思ったのですが、バスのなかではうまく話せないので、やめました。
 隣に座っていた人が、「わたしは朝鮮族だ。あなたは日本で何をしているのか」と話しかけてくれたので、その人に、集安に着くまでの約30分間、話を聞かせてもらうことができました。
 集安には朝鮮族が多いそうです。あえて名前を聞かなかったのですが、その人の祖父は集安に生まれ、祖父の父は朝鮮から来たらしい、とのことでした。いま、家で使っているのはほとんど漢語だが、子どもたちはみんな朝鮮語が話せる、とのことでした。

 鴨緑江が国境線となったのは、14世紀末のようです。

                                           
                                               佐藤正人
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集安で 3

2014年05月19日 | 個人史・地域史・世界史
 4月27日午後3時40分に「集安博物館」をでて、地図を見ながらゆっくり歩いて市外バスターミナルに行きました。そこで、朝5時30分集安発長春行の直行バスがあるのを知りました。
 そのあと、近くの宿所を探し、荷物を置いて、鴨緑江の河岸に歩いて行きました。鴨緑江の川幅は、思っていたよりははるかに狭く、川床を入れて70~80メートルほどで、朝鮮の山がすぐ目の前にありました。対岸の道路を荷台に10人ほど立って乗っているトラックが通り過ぎて行きました。
 4月28日朝、宿所近くの高句麗国内城跡内外の市場を巡り、「朝鮮族冷麺」という名の食堂で冷麺を食べた後、11時に「太王」行きの市内バスに乗りました。
 バスは集安駅前を通って、1キロあまり進んだところの踏切で停車し、車掌が、「これから火車が通るので、みんな降りてください。バスはここから市内にもどります」と告げました。車掌に「好太王碑は、ここから近いのか」と尋ねると、踏切の向こう側を指さし、「あの角を右に曲がったらすぐです」との答え。
 バスが去ってからすこしたって来た貨物列車が通り過ぎてから踏切をわたり、「好太王碑」に向かって歩きました。
 「好太王碑」と「太王陵」は、塀に囲まれていました。
 入場券を買って中に入りました。「好太王碑」から150メートルほど離れたところに「太王陵」がありました。陵の中腹まで階段が作られており、登ることができました。1キロほど南に、鴨緑江の向こうの朝鮮の山が見えました。
 午後1時半に「好太王碑」と「太王陵」のある広場を離れ、2キロほど歩いて「将軍墳(長寿王陵?)」に行きました。

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集安で 2

2014年05月18日 | 個人史・地域史・世界史
 4月27日朝10時半に集安駅に降りたとき、集安の市街地図をもっていなかったので、自分の現位置を確認できず、まず集安地図を入手しなければなりませんでした。
 朝食後、駅から市街の中心部らしき方向に向かって歩き出したのですが、1キロあまり歩いても行きつかなかったので、とおりがかったバスに乗りました。途中、市街地を通ったのですが、書店が見つからず、そのまま終点までいきました。終点付近でも書店が見つからないので、タクシーにのり、「集安の地図を買いたいのだが……」というと、書店に案内してくれました。そこで、ようやく集安の2013年版の地図を入手できました。
 12時20分に、「高句丽文物展示中心(集安博物馆)」に入館しました。「高句丽文物展示中心(集安博物馆)」の建物の前には、「集安博物馆」と刻まれた大きな石碑がおかれていましたが、入場券には、「集安博物馆」という文字はなく、「高句丽文物展示中心」とだけ書かれていました。
 展示の形式、内容は、中国社会科学院辺疆史之研究中心などが2002年に本格的に開始した「高句麗は中国の古代少数民族の地方政権であり、高句麗史は中国史に属する」とする「東北辺疆歴史与党現状系列研究工程」(「東北工程」)という事業内容に基づいているものでした。
 館内は撮影が全面禁止とされており、文書パネルも撮影できませんでした。これは、「東北工程」に基ずく展示が行われていることが広く知られることを警戒してのことではないかと、わたしは判断しました。
 2004年7月に、通化市集安市や近くの桓仁満族自治県に現存する高句麗前期の都城と古墳など(広開土王碑、将軍塚を含む)が、朝鮮の平壌や南浦などに現存する高句麗後期の古墳群とともにユネスコの世界遺産に登録されています。
 「世界遺産叢書」の一冊として2008年7月にだされた吉林省集安市文物局(王云刚编写)『高句丽王城王陵及貴族墓葬』(上海兴界图书出版公司)には、「高句麗民族」は「中国古代東北民族」であったと書かれています。

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集安で 1

2014年05月17日 | 個人史・地域史・世界史
 4月27日朝7時32分通化発の火車に飛び乗っで集安に向かいました。乗車券(硬座。8元5角)は前夜購入してありました。
 途中、东通化,水洞,鸭园,铁厂,果松,黄柏,阳岔の7つの駅に停車し、10時24分に集安駅に着きました。
 通化を出発したときは、乗客は8割りほどでしたが、铁厂駅と果松駅で多くの人が降りました。铁厂駅の近くには、5階建ての30棟ほどの新しいアパート群が建てられていました。果松は、花の多い村でした。2014年1月に北京の人民交通出版社が発行した吉林省の地図には、果松駅の次に东明駅が、东明から4~5キロほど東南に七道沟が記載されていました。东明で下車して七道沟を訪ねようかと思案している間に、火車は廃舎になっている东明駅を通過してしまいました。
 2009年10月30日の『通化党史綱』の「七道沟铁矿死难矿工纪念碑」には、
   「1939年至1945年,日寇为开采七道沟铁矿,残害我劳工17000余人,制造了曹家坟、板房沟、铁道西3座“万人坑”,其中铁道
   西“万人坑”最大。
    1964年5月1日,通化县人民委员会(即县政府)为了纪念死难的矿工,在铁道西“万人坑”建立纪念碑。纪念碑座底高0.6米、
   长宽为6米,碑高7米、宽2米、厚0.65米,水泥结构,正面阴刻:“日伪统治时期七道沟铁矿死难矿工纪念碑”。
    碑背面刻有当年党领导矿工斗争运动的罗衡同志题写的碑文:“纪念在斗争中死难的阶级兄弟,不忘旧社会的苦难,发扬我们
   工人阶级的革命传统,坚决朝着党和毛主席指示的道路前进,将革命进行到底”」
と書かれています。 http://www.thdsw.cn/Article/ShowArticle.asp?ArticleID=217

 9時50分に黄柏駅に着きました。このあたりから火車は、鴨緑江にそそぐ通沟河に沿って進みます。満開の白い花の樹が、岩の多い通沟河の川岸にたくさん根をはっていました。
 集安に着く10分ほど前から、車窓の左右に古墳が見え始め、集安に着くまでに数えたら100基あまりでした。そのなかには、周囲ギリギリまで耕作されていおる一辺10メートルあまりの石積みの方形古墳もありました。あとで調べたら、集安には8000基あまりの古墳が現存しているようです。
 集安の駅舎の向かって左側の壁に、「集安站站名简介」が掲げられており、そこには、
   「1931年,9・18事件日本侵占东北后,建立"满洲国”,将辑安先属按东省,后属奉天省; 1949年辑安属辽东省通行署,1965年3月、
   根据周总理指示,凡帯有侵略、侮辱人民感情的地名必須进行改动,故辑安改为集安、站而名由此而来」
と書かれてありました。
                                                 佐藤正人
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