三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

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海南島の朝鮮人兵士 14

2010年10月24日 | 海南島からの朝鮮人帰還
■金元植さんのこと 1
 連載中の「海南島の朝鮮人兵士」の7で、「ソウルで金永振さんと李西根さんに話を聞かせてもらっているとき、金元植さんを知らないかと尋ねました。すると、李西根さんは、ふたりと同じく日本海軍鎮海警備府の第1期特別志願兵となったあと海南島に行ったAさんなら知っているだろうと言って、さっそくその場でAさんに電話してくれました」と報告しましたが、そのときのAさんの証言の内容は、つぎのとおりです。
 この証言のなかで、Aさんは、「逃げたので、刑期が6か月増えた」と語っていますが、1946年3月16日の広東瓊山地方法院の金元植さんに対する判決文の記述と一致しています(「海南島の朝鮮人兵士」の7を見てください)。
 「朝鮮報国隊」に入れられて海南島に連行されて生き残った人たちは、日本敗戦後、朝鮮人民連合会・朝鮮人民会に参加しました。金元植さんは、その1人であったかもしれません。

 金元植とは解放後、海口ではじめて会った。
 美男だった。金元植は白い革靴を履いていた。中国人と結婚していた。
 報国隊で海南島に来たと言っていた。三亜、楡林の鉱山に1000人で来た、韓国で刑務所にいて、海南島の鉱山に来たと言っていた。やくざ出身だ。事務職で来たのか、労務職で来たのか、よく知らない。
 金元植は、海口で、日本軍の特務部の溝口を射殺した。食料を寄こせといったが、寄こさないので……。
 金元植の友人に「アオキ」という男がいた。韓国人だ。「アオキ」もやくざで、金元植の報国隊の友人だ。
 金元植が逮捕されたあと、「アオキ」は、金元植を助けるといって、帰国船に乗らなかった。
 金元植は10年の懲役だったが、復員船が出る直前に「アオキ」の助けで逃亡したが、金元植は足が悪かったので、また捕まって、再収監された。逃げたので、刑期が6か月増えた。
 その後は、ふたりともどうなったか知らない。
 「アオキ」は、団成社劇場と関係があった。
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