三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

白蓮鎮で 5

2007年06月28日 | 白蓮鎮
 12、13歳だったころ、この大きな樹の附近で牛を放牧していたとき、10人ほどの日本兵が一人の女性を強姦したのを見たと、李学三さんは言いました。

 羅驛村の村人にケシを植えさせたのは、台湾人で、日本人はほとんど姿を見せなかったそうです。
 かつてケシが植えられたことがある広い畑の脇の道を、南に200メートルあまり歩くと、羅驛村の中心部に着きました。その手前に1000平方メートルほどの空き地がありました。李愛連さんと李学三さんは、ここにケシ栽培の実験場があった、ここで苗を育てた、と話しました。
 そこから100メートルほどのところの家がたてこんでいる場所に、廃墟がありました。家の一部だったと思われる石がころがっており、大きな土台石もありました。そこは、日本軍の飛行機が爆弾を落し、少年の命を奪った場所でした。
 李愛連さんと李学三さんは、そこから100メートルほど離れた空家にわたしたちを案内し、ここにも同じ日に、日本軍が爆弾を落したと言い、さらに、そこから70メートルほど離れた場所に行き、ここで老人が日本軍の爆弾で殺された、と言いました。

 李学三さんと自宅の前で別れ、わたしたちは、李愛連さんと白蓮にもどりました。
 白蓮の中心部に入ってから、李愛連さんに旧日本軍の「慰安所」跡に案内してもらいました。
 改築されていましたが、当時の家が残っていました。日本軍がいたころ、李愛連さんはこの近くにしばしば用事があって来たので、よく知っているとのことでした。
   「1週間に一度、女性が5、6人来た。近くに日本軍の兵舎があった。白蓮小学校のある場
  所だ。日本兵は20人あまりいた。慰安所に来たのは日本兵だけだった。女性はみんな海南島
  人だったように思う」
と李愛連さんは話しました。
                                   佐藤正人
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白蓮鎮で 4

2007年06月27日 | 白蓮鎮
 6月1日、約束していた朝10時のすこし前に待ち合わせの場所、白蓮の茶店にいくと、すでに李愛連さんが李学三さんと待っていてくれました。
 李学三さん(1929年生)は、羅驛村の人で、この日、わざわざ白蓮まで来てくれたのでした。
 李学三さんは、こう話しました。
   「1939年農暦12月22日朝9時ころ、日本軍の飛行機が羅驛村の上空に来て、爆弾を5会落し
  た。家が3軒壊され、子ども一人と老人一人が死んだ。子どもの身体が吹き飛ばされ、内
  臓が樹の枝にぶらさがった。この日、日本軍は、近くの潭池村に共産党員が隠れていると
  いって、かくまったと疑った家の人を全部殺した。
   それからまもなく、日本軍は共産党員が隠れていると聞いたといって、羅驛村に入ってき
  て、村人を一か所に集めた。そのとき村に李忠培という日本語がすこしわかる人が来た。李
  忠培は澄邁県の治安維持会会長で、ふだんから日本軍に接触しており、日本軍の司令官とも
  交流していた。李忠培が、この村には共産党員はいない、と説明すると、そのときは、日
  本軍はなにもしないで村からでていった。
   その後、日本軍は、はじめ村の畑地に砂糖キビを植えさせた。その2、3年後、日本軍とい
  っしょに来た日本人が、村人に大規模にアヘン用のケシを植えさせた。しかし、大雨が降っ
  て、ケシの苗が水浸しになって全部枯れてしまった。それからは、ここではケシは植えられ
  なかった」。

 白蓮で李学三さんから話を聞かせてもらったあと、わたしたちは、李愛連さんと李学三さんに案内されて、羅驛村に行きました。乗客が二人のれる三輪オートバイで、白蓮から20分ほどのところでした。
 オートバイを降りたところは、羅驛小学校の前で、その横に祠堂がありました。石の高い塀で囲まれた100平方メートルあまりもある敷地の中央にある祠堂には、広い部屋がいくつもありました。むかしここは学校としても使われており、李愛連さんも李学三さんもここで勉強したといいます。日本軍が来て、ここに村人を集めて、共産党員を隠していないか人尋問したのもこの祠堂だったそうです。
 祠堂の建物は壊れかけ廃墟となっていましたが、天井下の太い梁には蓮の花の彫刻が残っていました。まもなくこの祠堂は、羅驛村出身の華僑の協力によって建てかえられることになっているとのことでした。
 祠堂正面を背にして左側の道をいくと紅い小さな花が真っ盛りの10メートルあまりの大きな樹があり、あたりに黒い牛が10数頭、放牧されていました。
 その樹の前面の広い畑を指さして、李愛連さんは、ここにアヘン用のケシが、一回だけだったが、いちめんに植えられた。わたしもここで働いた、と言いました。
                                  佐藤正人
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白蓮鎮で 3

2007年06月26日 | 白蓮鎮
 李愛連さんのつれあいの李秀蓉さん(1932年生)は、こう話しました。
   「日本軍が村に来たとき、わたしは10歳になっていなかったが、道路工事をやらされた。
  日本兵は、大人をよく殴っていた。わたしのような子どもは殴られなかった。
   共産党の人がいると疑って日本軍がわたしたちの村を襲ってきたとき、わたしの家が焼か
  れた。家族はみんな山に逃げた。薯を掘ってようやく暮らした。稲刈りの時期になって、や
  っとご飯をたべることができた」。

 李秀蓉さんが稲刈りの話をしているとき、そばで聞いていた李愛連さんが、とつぜん、
   「日本軍は村を占領して、土地を奪い、村人に、稲やアヘンや砂糖キビを植えさせた。村
  はずれに精糖工場をつくって砂糖キビから砂糖をつくった」
と話しだしました。
 これまで、わたしたちは、アヘン栽培の跡を探していましたが、見つけ出せていませんでした。
 李愛連さんにアヘン栽培についてさらに訊ねると、驚いたことには、李愛連さんは、アヘン農場で働かされたことがある、と言いました。
 水田で働いても金をもらうことはなかったが、アヘン農場で働いたときには金をもらった、と言いました。
 この日は、もう午後5時をすぎていたので、翌日(6月1日)にアヘン農場跡に案内してもらう約束をして別れました。別れぎわに、李愛連さんと李秀蓉さんは、家によって晩御飯をたべていけ、と言ってくれました。
                                    佐藤正人
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白蓮鎮で 2

2007年06月25日 | 白蓮鎮
 白蓮小学校の近くで、李愛連さん(1925年生)は、こう話しました。
    「日本軍が来たとき、ここから3キロほど離れた羅驛村に住んでいた。
    日本軍は、樹を切り倒し、その樹やレンガをつかって戦壕をつくった。
    日本兵が自分で樹を切ったのではない。むりやり村人に切り倒させた。戦壕も村人がつ
  くらされた。わたしも働かされた。三人一組になって働かされた。
    大きな樹を何本も切り倒させられた。村でいちばん大きな松の樹を切り倒せといわれて
  もいやだとは言えなかった。
    戦壕をつくらされたあと、水溝を掘らされた。はばの広い水溝だった。仕事のやりかた
  がよくないといって、日本兵は村人をよく殴っていた。
    当時の羅驛村は、いまより大きくて、村人の数も多かった。はっきりしないが3000人ほ
  どだったと思う。
    日本軍は、村人に道路もつくらせた。
    村が大きく人も多いのに、道路工事のすすみかたが遅いといって、日本兵が村人を集め
  て並ばせ、一人ひとりを激しく殴ったこともあった。
    わたしの村から共産党の軍隊に参加した人が二人いた。ある日、日本兵は、村に共産党
  の人が隠れているといって、村中を捜索した。
    男も女も、年よりも子どもも、みんな家から追い出されて、学校に集められた。学校は
  大きな祠堂のなかにあった。日本兵は機関銃をもっていた。
    日本兵は、村人を家から追い出し学校に集めるとき、おとな一人ひとりに“良民証”を
  もっているかどうか訊ねた。もっていないと言うと、すぐに殺した。あの日、日本兵は、共
  産党の人を見つけることができなかった。
    日本軍は、村の女性二人を“慰安婦”にした。その一人は、日本軍がいなくなってから
  タイに行ってしまった。いまも元気でいるらしい」。
                                  佐藤正人
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白蓮鎮で 1

2007年06月24日 | 白蓮鎮
 1947年に出された大蔵省管理局『日本人の海外活動に関する歴史的調査 海南島篇』には、海南島の日本企業のひとつとして厚生公司の名があります(112頁)。そこでは、厚生公司は、農場経営と精米事業をやっており、コメ、野菜、黄麻をつくっていたことになっています。
 しかし、厚生公司にいた山田行夫氏は、厚生公司がコメや野菜をつくっていたことはないし、精米事業をやっていたこともなかったと証言しています。
 実際には、厚生公司は、海南島で、アヘンを生産していました。
 『日本人の海外活動に関する歴史的調査 海南島篇』には、厚生公司の農場は、瓊山県の烈楼、澄邁県の豊盈、瑞渓、澄邁、儋県の那大、洛基、南豊の7か所にあったとされています。
 だが、厚生公司の農場は、老城、白蓮、土艶などにもありました(江口圭一編、及川勝三・丹羽郁也『証言 日中アヘン戦争』岩波書店、1991年8月。江口圭一「日中戦争期海南島のアヘン生産」、『愛知大学国際問題研究所紀要』97、1992年9月、参照)。
 ことし5月31日に、わたしたちは、澄邁県の白蓮鎮に行きました。
                                 佐藤正人
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