三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

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海南島戦時性暴力被害訴訟

2022年10月31日 | 国民国家日本の侵略犯罪
■海南島戦時性暴力被害訴訟■
 以下は、海南島戦時性暴力被害訴訟にかんする報告です。
 1は、海南島近現代史研究会『会報』創刊号(2008年2月10日発行)に掲載したもので、2は、2022年10月に書いたものです。
 日本政府は、いまも、戦時性暴力の被害者に真に謝罪しておらず、賠償もしていません。

                        海南島近現代史研究会 佐藤正人

海南島戦時性暴力被害訴訟 1 
■訴訟開始
 住んでいる村に突然侵入してきた日本軍によって、少女の時に日本軍隊性奴隷とされた黄玉鳳さん、陳金玉さん、鄧玉民さん、陳亜扁さんは、黄有良さん、林亜金さん、譚玉蓮さん、譚亜洞さんの8人は、2001年7月16日に、日本国を被告として、「名誉及び尊厳の回復のための謝罪」と「名誉及び尊厳の回復がなされてこなかったことに対する損害賠償」を求めて、訴状を東京地裁にだしました。
 この年11月に、黄有良さんが、東京地裁で開かれた第1回裁判(口頭弁論)で「意見」を述べました。
 その後、原告が出席しないまま裁判が続けられましたが、2005年3月の第9回裁判の場で、原告の林亜金さんと海南島史研究者である張応勇さんが、2006年3月の第14回裁判の場で、原告の陳亜扁さんが証言しました。

■一審判決
 2006年8月、5か月ぶりで再び来た原告の陳亜扁さんが見まもるなかで、東京地裁民事24部の裁判官(矢尾渉、梶智紀、亀村恵子)は、海南島における日本軍の性犯罪事実とその不法性を認定しながら日本政府を免罪し、「原告らの請求をいずれも棄却する」という不当判決をだしました。
 原告と海南島戦時性暴力被害賠償請求事件弁護団は直ちに控訴し、中国人戦争被害賠償請求事件弁護団は、海南島戦時性暴力被害賠償請求事件弁護団と共同抗議声明をだし、中華全国律師協会・中華全国婦女聨合会・中国人権発展基金会・中国法律援助基金会・中国抗日戦争史学会は共同抗議声明をだしました。

■『日軍侵陵暴行実録』
 2001年7月に黄有良さんらが日本の裁判に、日本人弁護士24人を代理人として訴状を出す6年半前、1995年2月に発行された『日軍侵陵暴行実録』(政協陵水黎族自治県委員会文史学習委員会編『陵水文史』第7輯)に掲載されている黄有良口述・胡月玲整理「一位“慰安婦”的血和泪」には、
  “黄有良さんの村(架馬村)から40メートルの地点に日本軍は軍営を作った。
   日本兵30人あまりが駐屯した。
   その軍営を拠点にして日本軍は、近くの黎族の村を襲撃し、多くの人を殺し、女性に暴行した……”
と書かれています。
 黄有良さんら8人の原告に危害を加えたのは、海南海軍第16警備隊加茂分遣隊、保亭派遣隊、藤橋派遣隊などに所属する日本兵たちでした。
 海南海軍第16警備隊に所属する日本兵は、1945年には「朝鮮村」でおおくの朝鮮人を虐殺していました(当時の第16警備隊司令は、海軍大佐能美実)。海南警備府第16警備隊が軍事支配しようとしていたのは、ほぼ現在の三亜市、保亭黎族苗族自治県、陵水黎族自治県に相当する地域でした。
 陳亜扁さんが最初に被害を受けた場所は、海南警備府第16警備隊所属祖関守備隊の兵舎(あるいはその周辺)だったと思われます。

■加害将兵の所属部隊と氏名
 日本政府は、アジア太平洋各地で侵略犯罪を直接実行した犯罪集団の部隊名・指揮官名・将兵名をほとんど明らかにしていません。海南島における侵略犯罪の場合も同じです。
 8人の原告を襲ったのは、日本海軍海南警備府第15警備隊の南林地域、保亭地域、加茂地域、祖関地域、田仔地域駐屯部隊の将兵の将兵でした。
 藤橋分遣隊などの構成員にかんして、これまでわたしたちが公開されている旧日本軍文書(『海南警備府戦時日誌』、『海南警備府戦闘詳報』など)のなかで発見できたのは、つぎのような、わずかなことだけです。

 1944年4月の藤橋分遣隊指揮官は、兵曹長横山壽。1944年5月の藤橋分遣隊指揮官は、少尉寺角八十一。当時の藤橋分遣隊部隊員数74人、准士官以上2人、下士官兵37人、巡査補35人。藤橋分遣隊警察隊員数8人、巡査6人、巡査補2人。
 1944年4月の保亭派遣隊指揮官は、少尉寺角八十一、同年5月の保亭派遣隊指揮官は兵曹長横山壽。
 1944年4月の加茂分遣隊指揮官は、二曹田中勝次郎、同年5月の加茂分遣隊指揮官は一曹野尻竹次郎。
 1944年4月、5月の什令分遣隊指揮官は、上曹東川七之助。
 1944年4月・5月の藤橋分遣隊指揮官と、保亭分遣隊指揮官は、入れかわっていますが、兵曹長横山壽や少尉寺角八十一が指揮官であった時期に、黄有良さんは、1944年4月、5月にも、藤橋の「慰安所」に監禁されていました。

■二審開始
 2007年5月15日に、東京高等裁判所で「海南島戦時性暴力被害訴訟」の二審の審理が開始され、9月25日に第2回裁判、10月18日に第3回裁判が開かれました。
 2008年1月15日午後2時から、東京高裁818法廷で、高裁4回目の裁判が開かれました。この日、黄有良さんが海南島から来て証言しました。

■証言する黄有良さん
 黄有良さんの証言を傍聴しようとして、この日東京高裁前には、100人以上の人が集まりました。50枚ほどの聴券が抽選で配られました。
 黄有良さんは黎族で、漢語を話しません。法廷では、黄有良さんの話す黎語を、海南島から同行してくれた胡月玲さんが漢語に通訳し、それを徳永淳子さんが日本語に通訳しました。
 胡月玲さんは、「一位“慰安婦”的血和泪」を書いた人です。
 黄有良さんは、低い声で、静かに、日本軍が何をやったのかを語りました。

■ハイナンNET
 2005年3月16日に林亜金さんと張応勇さんが東京地裁で証言する1か月ほど前、ハイナンNET(海南島戦時性暴力被害者への謝罪と賠償を求めるネットワーク)が組織されました。
 黄有良さんが高裁で証言した2008年1月15日の夕刻、ハイナンNETは報告集会を開きました。
 傍聴できなかった人もふくめ70人あまりが参加したこの集会に来てくれた黄有良さんは、
    「日本政府はきちんと謝罪し、わたしたちの‘潔白’を証明すべきだ。
     こんなに多くの人がわたしたちを支援しているのを知ってうれしい」、
と穏やかな表情で語りました。


海南島戦時性暴力被害訴訟 2
■原告林亜金さんと証人張応勇さん
 2005年3月15日の「海南島戦時性暴力被害訴訟」の東京地方裁判所での第9回裁判で原告林亜金さんと証人の張応勇さんが証言しました。
 証言の前々日、弁護団と支援者が集まった席で、マスメディアに写真取材を認めていいかどうかなどが議論になったとき、林亜金さんは、「ウェイダー」と言いました。「ウェイダー」は、「恐れることはなにもない」という意味の黎語です。
 林亜金さんと張応勇さんが、東京地方裁判所で証言した2日後、2005年3月18日に、東京高等裁判所で、中国人「慰安婦」裁判第2次訴訟の控訴審判決が出されました。この判決を、林亜金さんと張応勇さんは傍聴しました。郭喜翠さんと侯巧蓮さんは、1996年2月に、被害事実の認定と、日本政府の公式謝罪と賠償を求めて提訴していました。控訴審判決は、原告が1949年から中華人民共和国政府のもとに生活しているにもかかわらず、1952年に蒋介石政権との間に締結された「日華平和条約」にもとづいて、原告の損害賠償請求権の放棄を認定する不当判決でした。
 侯巧蓮さんは、1999年5月に亡くなられました。
 東京地方裁判所で証言してから9か月後の2005年12月28日朝5時に、張応勇さんが亡くなられました。

■陳金玉さん
 2004年9月に、原告の黄玉鳳さんが亡くなられました。
 2007年5月に、東京高等裁判所第21民事部(渡邊等裁判長)で二審の「海南島戦時性暴力被害訴訟」口頭弁論が開始されました。このときの「事件名」は、「日本軍によって「慰安婦」とされた中国海南島の被害者が日本政府に対して謝罪と名誉回復並びに損害賠償を求めた控訴請求事件(海南島戦時性暴力被害賠償請求事件)」でした。
 2007年9月に第2回口頭弁論、2007年10月に第3回口頭弁論、2008年9月に第6回口頭弁論が開かれました。
 2008年12月に第7回口頭弁論が開かれ。原告の陳金玉さんが証言しました。
 陳金玉さんの証言を傍聴しようとして、朝9時半までに、裁判所前に、100人以上の人が集まりました。しかし、証言がおこなわれる東京高等裁判所424号法廷の傍聴席には42人しか入ることができず、抽選からはずれた人たちは傍聴できませんでした。弁護団は、あらかじめ東京高等裁判所第21民事部渡辺等裁判長に大きな法廷を使うことを要請していましたが、裁判長は許可しませんでした。
 陳金玉さんは黎族で、漢語を話しません。法廷では、陳金玉さんの話す黎語を、海南島から同行した陳厚志さんが漢語に通訳し、それを徳永淳子さんが日本語に重訳しました。
 陳金玉さんは、静かに、日本兵から加えられて危害について語り、そのときこころとからだに受けた、いまも癒されることのない傷について話しました。
証言をはじめてからまもなく、陳金玉さんは、涙声になり、話しができなくなり、10分ほど休廷しました。
 証言のおわりに、陳金玉さんは、被告席に座っている3人の日本国の代理人の方を向いて、日本政府に歴史を直視し事実を認め謝罪し賠償することを求めました。
 その3年10か月足らずのちの2012年9月22日に陳金玉さんは亡くなられました。

■二審判決、そしてその後
 2009年3月26日に、東京高等裁判所第21民事部は控訴人らの請求を棄却するという判決をだしました。同日、直ちに、海南島戦時性暴力被害賠償請求事件弁護団と中国人戦争被害賠償請求事件弁護団が連名で、つぎのような声明をだしました。その要旨はつぎのとおりです。
     本件は,中国海南島において,旧日本軍(主として海軍)が中国人の少女を強制的に
    拉致・監禁し、継続的かつ組織的に戦時性奴隷とした事案である。
     本判決は、「本件被害女性らは,本件加害行為を受けた当時,14歳から19歳までの女性
    であったのであり、このような本件被害女性らに対し軍の力により威圧しあるいは脅迫
    して自己の性欲を満足させるために陵辱の限りを尽くした軍人らの本件加害行為は、極
    めて卑劣な行為であって、厳しい非難を受けるべきである。このような本件加害行為に
    より本件被害女性らが受けた被害は誠に深刻であって、これが既に癒されたとか,償われ
    たとかいうことができないことは本件の経緯から明らかである」(判決書28頁)と認定
    している。
     本件被害の質的側面においてもPTSDはもとより「破局的体験後の持続的人格変化」も
    認定している(判決書30頁)。
     以上の事実認定を踏まえ、国家無答責の法理を排斥したうえ民法715条1項を適用し控
    訴人らの損害   賠償請求権を認めた。
     アメリカ連邦下院における対日謝罪要求決議の外、カナダ,オランダ,EU議会、国連人権
    理事会、国連自由権規約委員会、ILO条約勧告適用専門家委員会等々で解決を求める決
    議がなされている。
     このように国際社会は,被害を受けた女性の尊厳と人権の回復のための真の措置をとるよ
    う日本政府に強く迫っている。
     国内においても宝塚市、清瀬市、札幌市に続いて福岡市議会において3月25日解決を求め
    る決議が賛成多数で可決された。
     このように解決を迫る世論は国内外を問わず高まっている。
     日本政府は,本判決で厳しく認定された加害の事実と深刻な被害の事実を真摯に受け止め、
    被害者一人一人が納得するように謝罪をし,その謝罪の証として適切な措置をとるべきで
    ある。
 2010年3月2日 最高裁判所第3小法廷(那須弘平裁判長)、「海南島戦時性暴力被害賠償請求事件」上告を棄却し上告受理申立を不受理とする決定。海南島戦時性暴力被害賠償請求事件弁護団と中国人戦争被害賠償請求事件弁護団、抗議声明。
 2010年9月8日 「海南島戦時性暴力被害訴訟」原告譚亜洞さんが亡くなられました。
 2012年9月22日 「海南島戦時性暴力被害訴訟」原告陳金玉さんが亡くなられました。
 2013年10月17日 「海南島戦時性暴力被害訴訟」原告林亜金さんが亡くなられました。
 2014年6月19日 「海南島戦時性暴力被害訴訟」原告鄧玉民さんが亡くなられました。
 2017年5月11日 「海南島戦時性暴力被害訴訟」原告陳亜扁さんが亡くなられました。
 2017年8月12日 「海南島戦時性暴力被害訴訟」最期の原告黄有良さんが亡くなられました。

■張応勇さん
 1993年に張応勇さんは、海南島の保亭黎族苗族自治県の県道工事で働いていた朴来顺さんに出会いました。
 朴来順さん(1912年生)は、朝鮮人で、1941年に日本軍にだまされて中国につれてこられて「慰安妇」にされ、1942年に海南島に連行されていました。1945年8月に日本が投降したあと保亭に留まり、1994年に病死しました。
 1994年5月に張応勇さんは、南林郷羅葵村委会什号村に住む林亚金さんを始めて訪ねました。このころから張応勇さんは、保亭黎族苗族自治県とその周辺地域で日本軍の性奴隷とされていた人からの聞き取りと記録を熱心に始めました。
 保亭黎族苗族自治県の保亭の自宅を突然訪問し、保亭文史資料工作委員会主任であった張応勇さん(1940年生)にはじめて会ったのは、2002年3月でした。
 2002年10月に、金靜美さんとわたしは、朴来順さん(1912年生)について、くわしく話しを聞かせてもらいました。
 張応勇さんは、
   「日本の罪悪史を調査していて、朴来順さんのことを知った。
    国籍も中国に変えないでいるのに、なぜ故郷に帰らないのか、知りたいと思った。
    最初は、なにも話してくれなかった。なんども訪ねて、世間話だけして、帰ってきた。
    病気になって、“わたしはもう死にゆく身だから、みんな話してあげよう”といって、よう
   やく、1994年秋ころからすこしづつ話しを聞かせてもらうこができた。
    故郷に帰りたかったら、領事館を通じて話をしてあげようと言ったが、“ここで長い間暮
    らしたのだから、ここで死ぬ”といった」
と話しました。
 朴来順さんが保亭の病院で亡くなったのは、韓国と中国が国交を樹立してから3年後の1995年でした。
 2003年7月に、わたしたちは、張応勇さんに、朴来順さんが死ぬときまで住んでいたところ(保亭亭県公路局宿舎)に案内してもらいました。

■朴来順さんの墓
 2000年3月に、金靜美さんとわたしは、保亭に行き、朴来順さんの墓を訪ねました。
 保亭県公路局が建てた墓誌には、「生於一九一二年卒於一九九五年」、「祖妣韓国僑工来順朴氏墓」と刻まれていました。朴来順さんは、日本の軍艦にのせられて、1942年2月に海南島北部の海口につれてこられ、海口の「慰安所」にいれられ、1943年1月に、海南島南部の三亜紅沙の「慰安所」に移されました。日本敗戦後も故郷に戻らず、保亭県の公路局で働き、1995年に亡くなり、保亭郊外に埋葬されました。
 2004年2月に、わたしたちは、朴来順さんの故郷、慶尚南道咸安を訪問しました。朴来順さんの家のあった場所は空き地になっていました。

■海南島に連行され「慰安婦」とされた朝鮮人女性と台湾人女性
 朴來順口述・張應勇整理「我被騙逼當日軍“慰安婦”的經歴」〈『鐵蹄下的腥風血雨――日軍侵瓊暴行實錄――』下,海南省政治協商會議文史資料委員會編,1995年〉、牛泊「北黎日軍“慰安所”簡況」〈政協東方黎族自治県委員会文史組編『東方文史』8、1993年3月〉、戴沢運「日軍的慰安所」〈政協昌江黎族自治県委員会文史資料組編『昌江文史』6、1997年1月〉、戴沢運「日寇鉄蹄残踏昌感見聞」〈政協東方市文史委員会編『東方文史』10、1999年12月〉などの記述を総合すれば、海口、三亜、北黎、石碌、藤橋、陵水などの「慰安所」に収容されていた朝鮮人女性は70~80人となります。調査をすすめれば、この数はさらに多くなると思います。
 1945年に「三亜航空隊」の第二中隊長であった楢原留次によれば、飛行場近くにあった「つばき荘」という名の「慰安所」には、朝鮮人女性15人が「収容」されていたといいます(楢原留次「海軍経歴と海南島勤務」、『三亜航空基地』三亜空戦友会事務所刊、1980年)。
 2003年春に、わたしたちは、慶尚南道生まれの朴来順さんが2年7か月間入れられていた紅沙の「慰安所」跡を訪ねました。
 子どものころからその近くに住んでいた蘇殷貞さん(1931年生)は、
    「建物は三つあった。一般兵士は土日、将校は金曜日に来た。一般人はそこに入ることもで
   きなかった。朝鮮人の女性は、白い服を着ていた。長いスカートだった。(チマ・チョゴリ
   の絵を書いて見てもらうと)。これだ。こんな服を着ていた。朝鮮人の女性たちは髪が長かっ
   た。日本人は髪が短い。
    “アリラン”は聞いたことがある」
と、話しました。幼いときに蘇洪槙さんは、朴来順さんを見かけたことがあったかもしれません。
 朴来順さんは、故郷にもどることなく、1995年に海南島で病死しました。 
 おなじ「慰安所」に入れられていた台湾の盧満妹さん(1926年生)は、謝罪と賠償を求めて、日本国を被告とする裁判闘争を1999年にはじめました。
 2000年12月に東京で開催された女性国際戦犯法廷で盧満妹さんは、
    「看護婦にならないかと騙されて、高尾から軍艦で海南島に連れていかれ、紅沙の「慰安所」
   に入れられた。そこには30人あまりの女性が入れられており、30人が台湾人で、朝鮮人女性
   や日本人女性もいた」
と証言しました。
 盧満妹さんは2011年8月に亡くなられました。   
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海南島戦時性暴力被害訴訟史(年表)

2022年10月30日 | 海南島近現代史研究会
海南島戦時性暴力被害訴訟史(年表)

 1995年8月 張応勇「日軍“戦地服務隊”中的黎族婦女」、政協海南省保亭黎族苗族自治県委員会文史資料工作委員会編9(紀念抗日戦争勝利50周年)。
 2001年11月 小野寺利孝弁護士らが、初めて海南島を訪問し、日本軍に性暴力をうけた被害者から話を聞かせてもらう。
 2001年6月 小野寺利孝弁護士、中野比登志弁護士、坂口禎彦弁護士、杉浦ひとみ弁護士が海南島を訪問し、原告となる8 人の方たちに会い、2日間、話をきかせてもらう。
 2001年7月16日 日本軍隊性奴隷とされた黄玉鳳さん、陳金玉さん、鄧玉民さん、陳亜扁さん、黄有良さん、林亜金さん、譚玉蓮さん、譚亜洞さんら8人が、日本国を被告として、「名誉及び尊厳の回復のための謝罪」と「名誉及び尊厳の回復がなされてこなかったことに対する損害賠償」を求めて訴状を東京地方裁判所に弁護人を介して出す(「海南島戦時性暴力被害訴訟」開始)。
 海南島における日本軍性奴隷は、「慰安所」に入れられた女性もいたが、各地の村落に侵入した日本軍の小隊が、「駐屯所」に独自につくった監禁所に拘禁された女性もいた。裁判の原告の8人は、すべてそのような村の少女だった。張応勇さんは、海南島で少女たちは「戦地服務隊」(あるいは「戦地后勤服務隊」)に入れられたと言っていた。
 ◆参照:朴来順口述、張応勇整理「不堪回首的往事 一個“慰安婦”的自述」、政協海南省保亭黎族苗族自治県委員会文史資料工作委員会編『保亭文史』9、1995年8月。張応勇「日軍“戦地服務隊”中的黎族婦女」、『保亭文史』9、1995年8月。
 2001年11月28日 東京地方裁判所で第1回裁判(口頭弁論)。原告黄有良さんが証言。
 2002年3月13日 第2回裁判(弁護団、第2次準備書面をだす)。
 2002年5月21日~27日 弁護団、海南島訪問(原告の法廷での証言に代わるビデオ収録を目的)。
 2002年6月19日 第3回裁判(弁護団、第3次準備書面で、“国が戦後の回復措置を執るべき義務の根拠、戦後の回復措置を採らないままの放置が原告らにどのような被害を与えたか”を明確に示す)。
 2003年12月 原告の譚玉蓮さんが亡くなられた。
 2004年2月19日 原告の意思を受けて訴因を変更(戦後だけでなく、戦時中の日本軍の加害行為そのものの責任も追及するため)
 2004年9月 「海南島戦時性暴力被害訴訟」原告黄玉鳳さんが亡くなられた。
 2005年2月16日 ハイナンNET(海南島戦時性暴力被害者への謝罪と賠償を求めるネットワーク)創立。
 2005年3月16日 「海南島戦時性暴力被害訴訟」原告林亜金さんと証人張応勇さん、第9回裁判で証言。
 証言の前々日、弁護団と支援者が集まった席で、マスメディアに写真取材を認めていいかどうかなどが議論になったとき、林亜金さんは、「ウェイダー」と言った(「ウェイダー」は、「恐れることはなにもない」という意味の黎語。
 林亜金さんと張応勇さんが、東京地方裁判所で証言した2日後、2005年3月18日に、東京高等裁判所で、中国人「慰安婦」裁判第2次訴訟の控訴審判決が出された。この判決を、林亜金さんと張応勇さんは傍聴した。郭喜翠さんと侯巧蓮さんは、1996年2月に、被害事実の認定と、日本政府の公式謝罪と賠償を求めて提訴したが、侯巧蓮さんは、1999年5月にが亡くなられた。
 控訴審判決は、原告が1949年から中華人民共和国政府のもとに生活しているにもかかわらず、1952年に蒋介石政権との間に締結された「日華平和条約」にもとづいて、原告の損害賠償請求権の放棄を認定する不当判決だった。
 2005年4月 担当裁判官3人のうち裁判長ら2人の裁判官が突然交代。
 2005年6月15日 第10回裁判(裁判官交代後、初めての口頭弁論。新しい裁判官が、弁論中に居眠り)。
 2005年7月20日 第11回裁判  裁判官の意識を変える必要があるため、原告陳亜扁さんと、日本の海南島侵略の歴史を追究している在日朝鮮人金靜美さんを証人申請
2005年9月28日 第12回裁判  ドキュメンタリー『日本が占領した海南島で 60年まえは昨日のこと』(証拠用要約版、紀州鉱山の真実を明らかにする会制作)を、「海南島戦時性暴力事件、甲第33号証」として法廷で上映。
 2005年11月9日 第13回裁判  裁判官は、原告陳亜扁さんの証人申請を受理したが、金靜美さんの証人申請を却下
 2005年12月28日朝5時 張応勇さんが亡くなられた。
 2006年3月8日 第14回裁判(原告陳亜扁さんが証言)。
 2006年3月22日 第15回裁判(結審)。
 2006年8月30日 東京地方裁判所(裁判長矢尾渉、裁判官梶智紀・亀村恵子)不当判決(「主文 1原告らの請求をいずれも棄却する、 2訴訟費用は原告らの負担とする」)。
 一審判決を出した東京地方裁判所民事24部は、日本軍の犯罪事実を具体的に明確に認定ながら、原告の名誉回復と日本政府の謝罪と国家賠償請求を棄却した。矢尾渉裁判長は、海南島における日本軍の性犯罪事実とその不法性を明確に認定しながら、司法の正義を守ろうとしないで、日本政府を免罪し、原告の請求をすべて棄却した。原告・弁護団直ちに控訴。
 中国人戦争被害賠償請求事件弁護団・海南島戦時性暴力被害賠償請求事件弁護団共同抗議声明。中華全国律師協会・中華全国婦女聨合会・中国人権発展基金会・中国法律援助基金会・中国抗日戦争史学会共同抗議声明。
 2006年12月 この月発行された『軍縮問題資料』(軍縮市民の会・軍縮研究室発行)に、坂口禎彦弁護士の「中国人慰安婦訴訟・海南島事件」掲載。
 2004年9月 原告の黄玉鳳さんが亡くなられた。
 2007年5月 東京高等裁判所で「海南島戦時性暴力被害訴訟」口頭弁論開始。
 2007年9月 「海南島戦時性暴力被害訴訟」第2回口頭弁論。
 2007年10月 「海南島戦時性暴力被害訴訟」第3回口頭弁論。
 2008年5月 東京高等裁判所で、「海南島戦時性暴力被害訴訟」第5回口頭弁論。
 2008年9月 東京高等裁判所で、「海南島戦時性暴力被害訴訟」第6回口頭弁論。
 2008年12月 東京高等裁判所で、「海南島戦時性暴力被害訴訟」第7回口頭弁論。原告陳金玉さん証言。
 2009年3月 「海南島戦時性暴力被害訴訟」東京高等裁判所判決。控訴棄却。原告、上告。
 2010年3月2日 最高裁判所第3小法廷(那須弘平裁判長)、「海南島戦時性暴力被害賠償請求事件」上告を棄却し上告受理申立を不受理とする決定。海南島戦時性暴力被害賠償請求事件弁護団と中国人戦争被害賠償請求事件弁護団、抗議声明。
 2010年9月8日 「海南島戦時性暴力被害訴訟」原告譚亜洞さんが亡くなられた。
 2012年9月22日 「海南島戦時性暴力被害訴訟」原告陳金玉さんが亡くなられた。
 2013年10月17日 「海南島戦時性暴力被害訴訟」原告林亜金さんが亡くなられた。
 2014年6月19日 「海南島戦時性暴力被害訴訟」原告鄧玉民さんが亡くなられた。
 2017年5月11日 「海南島戦時性暴力被害訴訟」原告陳亜扁さんが亡くなられた。
 2017年8月12日 「海南島戦時性暴力被害訴訟」最期の原告黄有良さんが亡くなられた。

            2022年10月作成  海南島近現代史研究会 佐藤正人
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【報告】民衆運動の深化をさまたげる「改組三会」の崩壊 註記

2022年10月29日 | 海南島近現代史研究会
【報告】民衆運動の深化をさまたげる「改組三会」の崩壊 註記

◆注記① 2021年5月1日付けで発行された『総称改組三会 会報第1号』の4頁に、「改組三会の運営規約」なるものが掲載されていた。その「第1条」の全文はつぎのとおりである。
     本団体の名称は、「三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・裵相度)を追悼す
    る会」(「三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・裵相度)の追悼碑を建立する
    会」を右記のように改称する)、「紀州鉱山の真実を明らかにする会」、「海南島近現
    代史研究会」であり、三つの会を改組して本会(「改組三会」と称する。
 「改組三会の運営規約」なるものは、全体(全9条。なぜか「第4条」が無い」)として文意が不鮮明であやふやな個所の多いものだ。
 『総称改組三会 会報第1号』の4頁冒頭には、「2020年11月7日、わたしたちは追悼集会の後、熊野の湯ノ口温泉に宿泊し、総会を開いて、会としてはじめての運営規約を採択しました。以下のその全文を掲載します」という「説明」が書かれている。
 このあいまいな「説明」と「改組三会の運営規約」の「第Ⅰ条」を合わせると、「わたしたち」(斉藤日出治・竹本昇らのことだろう)は、偽りの「追悼集会」の夜に宿泊した場所で、三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・裵相度)を追悼する会・紀州鉱山の真実を明らかにする会の名に似せて「三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・裵相度)を追悼する会」を創作し、その後直ちに「三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・裵相度)を追悼する会」、「紀州鉱山の真実を明らかにする会」、「海南島近現代史研究会」を「改組」して「改組三会」と称する「会」を作成したことになる。
 2021年11月27日に、「改組三会」は、「熊野の朝鮮人追悼集会」を開催した。その「ご案内」に「改組三会」は、
     ●わたしたち「改組三会(三重県木本で虐殺された朝鮮人労働物(李基允・裵相度)を追悼す
    る会・紀州鉱山の真実を明らかにする会・海南島近現代史研究会)」は昨年2020年11月7日に
    熊野で追悼集会を開催し、翌8日には現地で総会を開いて、会の規約を決めました。
と書いていた。
 ここでも「改組三会」という偽会は、紀州鉱山の真実を明らかにする会と海南島近現代史研究会を詐称している。
 ここで「改組三会」は、「会の規約」を決めたのは2020年11月8日であったことにしているが、これは事実ではない。2020年11月11日に、わたしに件名を「 「三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・裵相度)を追悼する会」、「紀州鉱山の真実を明らかにする会」、「海南島近現代史研究会」会則 (改組本会会則)」とするメールが送信されているが、そこに書かれている「改組本会会則」は『総称改組三会 会報第1号』の「改組三会の運営規約」と同文ではない。「改組三会」は、「会の規約」を2020年11月8日に決めていない。
 また、「改組三会」は、「李基允氏と裵相度氏の27回目の追悼集会」・「紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する追悼集会」という名の「追悼集会」を2020年11月7日に開催したのは「改組三会」であったことにしているが、斉藤日出治と竹本昇が三重 県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・裵相度)の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会の封筒を盗用して2020年10月に『会報』の読者に郵送した偽りの「追悼集会」の案内にはそのようなことは書かれていなかった。
                                                                                                       
◆注記② 三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・裵相度)の追悼碑を建立する会、紀州鉱山の真実を明らかにする会、海南島近現代史研究会の展示用パネルは、国民国家日本の侵略犯罪の実体を伝達するために、会員が綿密な文書記録探索・分析をおこない、犠牲者本人・家族・遺族・関係者から証言を聞かせてもらい、写真を収集・撮影し、地図・年表を作成し、実証的な歴史叙述を書いて、一枚いちまい完成させたものである。
 展示用パネルの多くは、1999年7月6日~8月29日にリバティ大阪(大阪人権博物館)で開催された「(企画展)“木本事件” 熊野から朝鮮人虐殺を問う」で展示された。
 展示用パネルは、国民国家日本の侵略犯罪の実体を伝達し、犯罪者に歴史的責任をとらせるためのものである。

◆注記③ 1999年7月6日~8月29日に、リバティ大阪(大阪人権博物館)で、「(企画展)“木本事件” 熊野から朝鮮人虐殺を問う」が開催された。
 その企画展に、金靜美の原稿がリバティ大阪によってパネル化されて、展示された。
 企画展後、そのパネルはすべて三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・裵相度)の追悼碑を建立する会に寄贈された。
 その後、紀州鉱山の真実を明らかにする会の関係パネル、「大逆事件」にかんするパネル、海南島近現代史研究会の関係パネルを追加していった。
 竹本昇が横領・盗奪したパネルは、三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・裵相度)の追悼碑を建立する会、紀州鉱山の真実を明らかにする会、海南島近現代史研究会のものであるが、そのおおくは在日朝鮮人金靜美の原稿に基づくものである。
 竹本昇も斉藤日出治も、三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・裵相度)の追悼碑を建立する会、紀州鉱山の真実を明らかにする会、海南島近現代史研究会の展示用パネルの作成作業にまったく参加していない。

◆注記④ 『総称改組三会 会報第1号』には「木本事件とは」という短い「説明記事」が掲載されているが、そこには、何か所も、事実と異なる虚偽の歴史が書かれている。
 その「冊子」の13頁には、花のカラー写真と説明文が掲載されている。その説明文の全文はつぎのとおりだ。
 木本の追悼碑前には姫リンゴの花が咲き、やがて可愛いリンゴがたくさん実る。杉浦新吉さん(飯場襲撃に対して、朝鮮人と共に闘った三人の日本人労働者の一人)の孫娘さんに贈られた苗木が気丈に育っている。
 この短い説明文と写真に、「改組三会」という「会」の実体と虚偽に満ちた本質が明瞭に示されている。
 この説明文によると写真は、「木本の追悼碑前」の「姫リンゴの花」であるようである。
 しかし、三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・裵相度)の追悼碑の場には、「姫リンゴ」の樹はない。杉浦新吉さんには孫はいない。『総称改組三会 会報第1号』には、どこからかとってきた「木本の追悼碑」と無関係の花の写真が虚偽の説明文とともに掲載されている。
 『総称改組三会 会報第1号』(8頁、10頁)に竹本昇は、三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・裵相度)の追悼碑を建立する会、紀州鉱山の真実を明らかにする会、海南島近現代史研究会が、「「アジアから問われる日本の戦争」展を阻止しようとした」とくり返し書いているが、偽りである。
 「アジアから見た日本の戦争」展」→「アジアから問われる日本の戦争」展」の実行委員会には、三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・裵相度)の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会を代表して竹本昇が、海南島近現代史研究会を代表して斉藤日出治が参加していた。
 三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・裵相度)の追悼碑を建立する会、紀州鉱山の真実を明らかにする会、海南島近現代史研究会は、「アジアから見た日本の戦争」展」→「アジアから問われる日本の戦争」展」の名称と案内チラシ案の撤回を強く求め続けたが、「「アジアから問われる日本の戦争」展を阻止しようとした」ことはない。
 この問題にかかわって、わたしは、三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・裵相度)の追悼碑を建立する会『会報』65号・紀州鉱山の真実を明らかにする会『会報』20号(2020年11月1日発行)に、「「アジアから問われる日本の戦争」展で現れた日本の民衆運動の危機」および「「アジアから見た日本の戦争」という名の展示会批判」を掲載している。
 「改組三会」という「会」の「運営委員」全員(2020年11月7日から約1年3か月間「運営委員」であった久保井規夫を含む)は、『総称改組三会 会報第1号』に示されている虚偽の発生の経過を明らかにし、虚偽を伝播し続けている責任をとるべきだ。
 斉藤日出治は、虚偽の「歴史叙述」や剽窃文をこれまで長い間放置し続けてきたことを謝罪すべきだ。

◆注記⑤ 「パネルは、改組三会のものであることは、改組三会の会議で決めたことです」という2021年9月19日の竹本昇の空言・虚言も、「竹本昇も共有者の一人であるので、5分の1は、竹本昇の土地である」という「竹本昇」の2021年9月22日・23日のひれつな空言・虚言も、「改組三会」の「運営委員」は、放置=追認し続けている。
 
◆注記⑥ 竹本昇という日本人が、展示用パネル横領・盗奪という犯罪行為を前提にし、展示用パネルを横領・盗奪したまま、在日朝鮮人金靜美さんに、無恥の「提案」をしたのは2022年7月11日だったが、現在まで、竹本昇は斉藤日出治とともに展示用パネルを横領・盗奪し続けている。
 竹本昇は、剽窃行為と虚偽の歴史叙述をくり返している斉藤日出治とともに2020年11月7日に偽りの「李基允氏と裵相度氏の26回目の追悼集会」と「12回目となる紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する追悼集会」を開催し、その後「改組三会」という偽会を作成していた。

◆註記⑦ 斉藤日出治は、「佐藤のブログ」という件名のメールを佐藤正人に送信せず、自分自身、竹本昇などに送信していた。
 そのメールに、斉藤日出治は、つぎのような虚偽を書いていた。
     わたしはあらためて佐藤さんが単独で20年近くのあいだ毎日発信し続けているブログのことを
    思います。これは「三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の
    真実を明らかにする会明らかにする会」のブログという名前を付けていますが、まちがいなく
    佐藤さんの個人ブログで    す。
     佐藤さんは自分の個人ブログに2つの会の名前を付けて、このブログが市民団体の公的なブ
    ログであるかのように装っていますが、会のだれもこのブログに介入することはできません。
    このブログにどのような情報を掲載するのか、だれに原稿を頼むのか、そして書いた原稿の内容を点検
    し掲載の可否を決定するか、そういった判断をするのはすべて佐藤正人という個人に委ねら
    れています。
 実際には、剽窃者であり虚言者であり歴史偽造者である斉藤日出治が「佐藤のブログ」というコトバで言っているブログは、三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・裵相度)の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会の創立時からの会員のひとりが、創設作業を担当してくれたものである。
 紀州鉱山の真実を明らかにする会が韓国の日帝強占下強制動員被害真相究明委員会に真相究明を申請したあと、ブログ設営が三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・裵相度)の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会の会議で話し合われた。
 ブログの最初の記事は2006年2月15日に掲載された。筆者はブログの創設作者だった。ブログ創作時から現在まで、冒頭部に「自己紹介  紀州鉱山及び海南島における朝鮮人強制連行・強制労働・虐殺の真実を明らかにする当会の活動内容、現地調査等を紹介しています」と書かれているが、この筆者もブログの創設者である。ブログ創設12日後の2006年2月26日に掲載された記事は、「戦場における死」映画上映とディスカッション『日本が占領した海南島で―60年前は昨日のこと―』、だった。
 ブログ創設を担当した会員は、三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・裵相度)の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会の会議で、ブログに原稿を入力する方法をくわしく説明してくれた。その会議には、斉藤日出治も竹本昇も出席していた。
 斉藤日出治は、「会のだれもこのブログに介入することはできません。このブログにどのような情報を掲載するのか、だれに原稿を頼むのか、そして書いた原稿の内容を点検し掲載の可否を決定するか、そういった判断をするのはすべて佐藤正人という個人に委ねられています」と2022年7月25日に言っているが、それがウソだということは、悪質極まりない「証言から学ぶ海南島の抗日闘争」といタイトルの斉藤日出治の原稿が最終原稿のまま、2019年8月27日のブログに現在も掲載されていることを知っている斉藤日出治本人が自覚しているのではないのか。
 そのブログのアドレス(URL)はつぎのとおりである。   
 https://blog.goo.ne.jp/kisyuhankukhainan/e/0c9aa002560594ff6ec925da6b355a22

◆注記⑧ 2019昨年8月24日に開催した海南島近現代史研究会第13回総会・第24回定例研究会(主題:侵略戦争⇔抗日戦争、植民地支配⇔抗日反日闘争)での斉藤日出治の主題報告(証言から学ぶ海南島の抗日闘争)の要旨がはじめて三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会のブログに掲載されたのは2019年8月27日だった。
 その後、その内容にいくつも問題点があり、それをひとつひとつ「解決」していく過程で、斉藤日出治の剽窃問題が現われてきた。
 その問題を、わたしと金靜美が丁寧に斉藤日出治に示したのは、10月はじめころだった。
 それから今まで(2022年10月)3年間あまりの間、斉藤日出治はわたしと金靜美の指摘にみずから具体的に対処せず、剽窃問題を内包している斉藤日出治の文章はそのままブログに掲載され続けている。
 斉藤日出治は、近畿大学日本文化研究所編『日本文化の明と暗』(2014年3月20日風媒社発行)に発表した「「戦後」という日本社会の歴史認識 海南島の住民虐殺と沖縄の強制集団死との結び目から見えてくるもの」で、史・資料をまったく示さずに数多くの虚偽の「歴史叙述」と数多くの意味不明のデタラメな叙述をしていた。以下に、その数例だけを示しておく。
 ●日本軍は海南島で住民を無差別に虐殺する一方で、敗戦の末期にサイパン島、グアム島、テニアン島、フィリピン、沖縄、「満州」で、今度は自国の住民を大量に死に追いやった。非戦闘員を戦闘に巻き込み、足手まといになると住民を見捨て、生きながらえるよりもみずから死を選ぶよう指示した。「集団自決」という強制集団死が、これらの地上戦が行われた各地で発生した。
 ●沖縄で起きた「集団自決」という日本の非戦闘員の自死行為が海南島の住民虐殺と同じ質のものであり、後者の住民虐殺が前者の「集団自決」をもたらしたのだ……。
 ●「戦後」とは、日本の社会が敗戦の経験によってみずからの手で歴史を検証する回路を封じ込め、二つの住民虐殺を容認、あるいはかたちをかえて再生産してきた体制である。
 ●現在のわれわれに求められているのは、住民虐殺を抹殺、あるいは変造するこの「戦後」という集合的記憶と対決するもうひとつの歴史認識を構築することであり、もう一つの歴史認識の可能性を提示することである。
 ●沖縄の「集団自決」は、日本のアジアにおける住民虐殺という植民地支配と侵略のコンテクストがもたらした帰結としてとらえられるべき。
 ● 海南島の住民虐殺の事実を抹消し沖縄の強制集団死を変造することによって成り立つ戦後日本の歴史認識。

 2019年11月に、原井一郎さんの『国境27度線』(海風社)が出版された。その本に「あとがき」として2019年10月という日付のある斉藤日出治の文章と斉藤日出治の「〈国境線の政治〉をこえて――琉球弧民衆の闘い」と題する文章が掲載されていた。
 「〈国境線の政治〉をこえて」には、「〈国境線の政治〉を継承する戦後体制――奄美・沖縄民衆の苦悩」という題名の節があり、そこにも事実とことなる記述が何個所もあり、わざわざ「「大東亜戦争」」というコトバを使った「「大東亜戦争」と海南島の民衆虐殺」という節があり、意味不明の文章も少なくないものである。
 ヤマトンチュウである斉藤日出治は、「〈国境線の政治〉をこえて」で、「簒奪」、「捨て石」、「抽象空間」、「表裏一体」、「犯罪を投影した自画像」、「解体」、「無責任にあぐらをかいて」、「国民の目をそらすために」、「戦後の経過」、「暮らしの裁断」、「〈国境線の政治〉のまなざし」、「利用すべき空間」、「利用すべき「材料」」、「軍事戦略」、「〈国境線の政治〉を行使」、「倒錯した集合的な歴史記憶」、「隠匿」、「ふりまわされる」、「共同体」、「国家犯罪は……行使され」、「運命に遭遇」などというコトバを安易に使いつつ、
 ●帝国日本は、沖縄戦で、沖縄民衆を「本土決戦」の時間稼ぎのための捨て石として利用した。
 ●国境線による地域の暮らしの裁断にもかかわらず、その裁断の間隙から国家を超える広がりと深みをもった琉球弧民衆の生命の息吹が噴出する。
 ●海南島のひとびとの暮らしと産業と自然を奪いつくそうとする帝国日本の〈国境線の政治〉。
 ●沖縄の民衆は……海南島の民衆と同じ運命に遭遇する。
 ●「鬼畜」とは、日本軍がアジア諸地域でみずからおこなった犯罪を米軍に投影した自画像だった。
 ●国家間妥協による琉球弧の統治によって、戦後の琉球弧の住民はみずからの暮らしをふりまわされることになった。
という空疎な文章を並べている。
 「ひとびとの暮らし」を「奪いつくそうとする」とは具体的にはどうする
ることなのか? 暮らしを奪うことはできるのか。
 「自然」を「奪いつくそうとする」とは具体的にはどうすることなのか? 
 「〈国境線の政治〉をこえて」には、デタラメな「解説」がいくつも書かれている。その数例を以下に示しておく。
 ●帝国日本が〈国境線の政治〉をアジア全域へと拡大し、その統治を基盤にして欧米諸国との帝国主義戦争に突入したのが「大東亜戦争」であった。
 ●帝国日本にとって島〔海南島〕の人々の暮らしは、軍事戦略のために「利用すべき「材料」」であるか、さもなければ、軍事戦略にとっての「障害物」でしかなかった。
 ●戦後日本の倒錯した集合的な歴史記憶のうちに、〈国境線の政治〉が深く刻印されている。

 2015年2月10日に、斉藤日出治は、「わたし自身もそのメンバーである紀州鉱山の真実を明らかにする会と海南島近現代史研究会という民衆運動団体が10数年にわたって蓄積してきた活動を基盤にしており,その蓄積を踏まえて斉藤が科学研究費を申請し採択された調査活動の成果報告」を「斉藤個人の名前で公表」したことについての空疎で虚偽に満ちた「説明」・「お願い」をしていた。
 「調査報告のデータ非公開の措置について」という「説明」・「お願い」をした事実を、斉藤日出治は、紀州鉱山の真実を明らかにする会と海南島近現代史研究会に、2015年2月10日以後これまでまで、報告していない。わたしは、この斉藤日出治の「説明」・「お願い」を2020年3月1日に偶然発見した。
 元・大阪産業大学経済学部教授斉藤日出治の2015年2月10日の「調査報告のデータ非公開の措置について」にはつぎのように書かれていた。
     「日本軍による海南島の侵略犯罪に関する調査報告―2011年2月25日―3月4日」『大阪産業大
    学論集』第14巻第1号,2013年 「日本軍統治下の海南島における侵略犯罪の調査報告」『大阪産
    業大学経 済論集』第15巻第1号,2014年
     上記の二編の調査報告は,わたし自身もそのメンバーである紀州鉱山の真実を明らかにする会
    と海南島近現代史研究会という民衆運動団体が10数年にわたって蓄積してきた活動を基盤にして
    おり,その蓄積を踏まえて斉藤が科学研究費を申請し採択された調査活動の成果報告です。
    日本が軍事占領下で海南島の現地住民にもたらしたおびただしい被害の実態を被害者か ら直接に聞
    き取るという貴重な報告です。 
     ただし,掲載に当たって,聞き取りをした方々の実名を掲載しており,大学の論集に掲載するに
    際してはそれでよいと判断したのですが,データベースで不特定多数に公開された場合,不測の事
    態が生ずるのではないかという懸念を刊行後に抱くようになりました。 
     さらに,この調査報告は斉藤個人の名前で公表されているため,この調査活動が広範な 民衆運
    動のネットワークに支えられているにもかかわらず,科学研究費の成果活動として公表すること
    で,それが斉藤個人の研究活動であるかのような誤解をあたえる恐れがあることに気づきました。
     データの不特定多数に対する公開によって,そのような誤解が広がることは避けたいと考えま
    す。 
     以上の理由から本学会の編集委員会に,CINIIのデータベースでこの二編の調査報告を 非公開に
    する旨のお願いをして,このたび承認されましたので,ここに報告をさせていた だきます。  
 斉藤日出治は、自分が主体的に「斉藤個人の名前で公表」した事実を「斉藤個人の名前で公表された」と、受動態で書き、あたかも第三者が「公表したかのように細工している。

 研究題目名 海南島における日本の植民地責任と戦後日本の歴史認識、研究代表者 斉藤日出治、研究番号10186950 の科学研究費助成事業研究成果報告書のファイルに、剽窃常習者・歴史偽造者・盗奪者斉藤日出治が書いた「海南島近現代史研究会が海南島で確認した日本軍による住民虐殺は4000名を超えている」という虚偽文が掲載されている。
 しかし、海南島近現代史研究会が、「日本軍による住民虐殺は4000名を超えている」と「海南島で確認」したことはない。海南島以外においでも「確認」したことはない。
 世界近現代史研究において、日本軍が虐殺した民衆の人数を明確にすることは、極めて重大な課題だが、これまで実現されていない。
 海南島近現代史研究会は、日本政府・日本軍・日本企業・日本人の海南島における侵略犯罪の実体を追究してきたが、道は遠い。

 「海南島近現代史研究会が海南島で確認した日本軍による住民虐殺は4000名を超えている」という斉藤日出治の「コトバ」は、斉藤日出治の「研究」の方法・内容がデタラメであることをはっきり示している。
 ひとつの地域の犠牲者の正確な人数を確認することは、死者一人ひとりの尊厳にかかわる作業だ。
 海南島近現代史研究会は、海南島で日本政府・日本軍・日本企業・日本人が命を奪った民衆の人数は、「4000名」の10倍をはるかに超えていると判断している。そのことを伝える三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会のブログのアドレス(URL)はつぎのとおりである。 
 https://blog.goo.ne.jp/kisyuhankukhainan/e/4199c7f61003efecfc1480641c2db482
 https://blog.goo.ne.jp/kisyuhankukhainan/e/b3f06899c18f052f0deff041d9835554

 中共海南島省党史研究室編『海南省抗日戦争時期人口傷亡和財産損失』(中共党史出版社発行)には、2011年版でも2015年版でも、
    对于搜集到的各种资料和市县报送的统计数字,调研小组都认真加以甄别、核实,反复进行汇总
   统计,力求准确无误。譬如,关于抗战时期海南人口伤亡数字,在有关的研究著作中有20多万、40
   多万、50万等多种说法。经调研小组缜密调查,纵横对比,细心考证,最后得出可信的数据。
    【日本語訳:各種の資料、市や県が報告している統計数字を探し集めるについて、調査研究グル
   ープは、すべて真剣に審査弁別し、事実を確認し、繰り返し統計をまとめ、誤りのないようにでき
   るだけ努めた。たとえば、抗日戦争の時期の海南の死傷者の数字に関して、関係する研究著作では、
   20万あまり、40万あまり、50万などとさまざまに述べられている。調査研究グループは緻密に調
   査をおこない、縦横に対比し、綿密に考証して、最後に信用できるデータを得た。】
と書かれており、そのうえで、「抗战时期海南人口伤亡数字」として、2011年版では「总计海南抗战时期人口伤亡565177人」、2015年版では「总计海南抗战时期人口伤亡566174人」という数字が示されている。
 しかし、その根拠は具体的には示されていない。海南省抗战损失调研课题组は、資料名を具体的に明示せず、資料を実際にどのように「調査」・「対比」・「考証」したのかを述べていない。
 このことを伝える三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会のブログのアドレス(URL)はつぎのとおりである。 
 https://blog.goo.ne.jp/kisyuhankukhainan/e/85ee09df466359a89be68bbc78a1cff3

付記 
 わたしは、2021年10月26日、10月27日に、このブログに、「【報告】2020年秋に、なぜ民衆運動の深化をさまたげる「会」が現われたのか」を掲載し、同年11月1日に発行した三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・裵相度)の追悼碑を建立する会『会報』66号・紀州鉱山の真実を明らかにする会『会報』21号(2021年11月1日)に掲載しました。そのブログのアドレス(URL)はつぎのとおりです。 
 https://blog.goo.ne.jp/kisyuhankukhainan/e/3bf0d57585c609320ccd503d84d78335
 「【報告】民衆運動の深化をさまたげる「改組三会」の崩壊」は、一年前の「【報告】2020年秋に、なぜ民衆運動の深化をさまたげる「会」が現われたのか」に続く報告です。
 この報告も、ブログに掲載するとともに三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・裵相度)の追悼碑を建立する会『会報』67号・紀州鉱山の真実を明らかにする会『会報』22号(2022年11月1日発行)に掲載します。ただし、『会報』掲載するのは、報告の本文全文と註記の要約です。註記全文は長文のため掲載できませんでした。
                             2022年10月20日記                         
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【報告】民衆運動の深化をさまたげる「改組三会」の崩壊

2022年10月28日 | 海南島近現代史研究会
【報告】民衆運動の深化をさまたげる「改組三会」の崩壊
                             佐藤正人

 この報告は、一年前の2021年10月26日、10月27日にこのブログに掲載した「【報告】2020年秋に、なぜ民衆運動の深化をさまたげる「会」が現われたのか」に続くものです。
 「改組三会」は、発生時から崩壊を始めていました。
 
■(一)2019年10月から2021年5月まで
【1】海南島近現代史研究会会員の一人が剽窃行為を重ねていた
 2019年10月12日に、わたしは、当時海南島近現代史研究会の事務局長であった斉藤日出治さんに、「海南島近現代史研究会の研究の本質にかかわる悪質な発言、および実質的な剽窃問題について」を送信し、斉藤日出治さんが剽窃をおこなっていた事実を本人に指摘し、この問題について質問を始めました。
 しかし、斉藤日出治さんは、いつまでたっても自分が実質的剽窃作業をおこなっていた問題にかんする重要な質問にまともに応えるように誠実に努力することができずに、4か月あまり後の2020年2月18日に「脱会の通知」を送信しました。斉藤日出治さんが「脱会」した理由のひとつは、斉藤日出治さんの剽窃行為です。
 「脱会の通知」以後、斉藤日出治さんは、会と会員にかんする悪辣な暴言・虚言をくり返しました。
 2020年2月29日に、斉藤日出治さんは、
    「佐藤さんがぼくを「剽窃」呼ばわりしたことは個人攻撃ではないのでしょうか」、
    「「剽窃」というのは、その言葉を発した本人の意図とは関係なしに、私的所有権の侵害と言う
   意味を不可避的にともないます。私的所有権の侵害とは、他人の私的所有物を対価なしに自分の
   私的所有物とすることです」、
    「ぼくは、今回のぼく自身の行為について、「剽窃」と盗人呼ばわりされるものではなく、研
   究会の共同の成果の引用や模倣と考えています」、
    「引用や模倣は他者とかかわるあり方であって、道義的に非難されるべきものではないのです。
     ひとはつねに他者との関係において存在する。たがいに他者を模倣し引用することによって
   自己のパーソナリティをつくりあげていくのが人間です。模倣や引用なしに創造的な活動は生ま
   れません。模倣や引用はおおいにやるべきなのです」
と自分の剽窃行為を「引用や模倣」に置き換えて滑稽で無残な弁明・「解説」をはじめました。
 2020年3月10日に斉藤日出治さんは、「ぼくは自分の事実誤認も、物書きとしてのモラルの逸脱も認めています」というメールを送信しました。このメールで斉藤日出治さんは、剽窃を「事実誤認」と言い換えていました
 その後斉藤日出治さんは、長年の偽りの「歴史叙述」も剽窃文も、現在(2022年10月)まで放置し続け、取消していません。斉藤日出治さんは、用語を正確に使わず、数多くの意味不明の非科学的な「解説」なども書いていました、
 2020年9月26日に斉藤日出治さんは、「佐藤正人さんと金靜美さんによる会の私物化を廃して、みんなで会の民主的な運営を進めましょう」という表題の虚偽に満ちた「作文」を送信しました。
 そこには、「斉藤の歴史叙述を「剽窃」だと認定することも、「社会問題化する」と言うことも、ほかの会員の了解を得ているわけでも、会の公式見解であるわけでもありません。そのすべてが佐藤さんの独断で行われています」という奇妙な「説明」と、「(「斉藤の歴史叙述を」)「剽窃」と判断する根拠も説明が不明確なままです」という偽りが書かれていました。
 斉藤日出治さんが剽窃行為を重ねてきているという事実を、「佐藤正人さんと金靜美さんによる会の私物化」という虚偽のコトバによって消し去ろうとするこの「作文」の末部には、「2020年9月21日 提案者 「わたしたちの会のありかたについて意見交換会」参加一同」と書かれており、その「一同」の氏名(斉藤日出治、竹本昇ら9人)も書かれていました。
 2019年10月12日に、斉藤日出治さんの剽窃行為を指摘し批判し質問するとき、わたしは、はじめは、「剽窃」と書かないで「実質的な剽窃」と書きました。金靜美さんは、斉藤日出治さんの剽窃行為を指摘するとき、「実質的な」という修飾語は使わず、「ひょうせつ」と書きました。斉藤日出治さんがひょうせつをおこなっているとはじめて指摘したのは金靜美さんでした。斉藤日出治は、これまで金靜美さんの指摘にたいしても、これまでまともに答えていません。
 2022年9月19日に、金靜美さんは、斉藤日出治さんや竹本昇さんらにつぎのようなメールを送信しています。 
    わたしは以前、斎藤日出治さんが書いた海南島「現地調査」にかんする文章などを分析して、斎藤
   日出治さんが侵略者の思想を克服できていない、と斎藤日出治さんに書き送ったことがありまし
   た。
    それだけでなく、斎藤日出治さんは、ひょうせつをしているとも書きました。
    斎藤日出治さんのひょうせつは、佐藤正人さんだけが指摘しているのではありません。
     1、自分の文章が、はじめて、その問題に言及したものであるかのように書く。ひょうせつ
     です。
     2、筆者が自分の文章が依拠したとして注記した資料の当該頁を、第三者があたっても、そ
     のような内容はない。 ひょうせつです。
     3、自分がじっさい見てはいない資料を、見たとして、注記資料に挙げている。ひょうせつ
     です。
    ここでは具体的に、斎藤日出治さんのどの文章にかんするどの部文かは書きませんが、すべて、
   以前、斎藤日出治さんに具体的に指摘しました。またここでは、象徴的な3点だけ、書きました。
    斎藤日出治さんは、ひょうせつだけでなく、証言の「創作」など、歴史偽造をしていることも、
   斎藤日出治さんに指摘しました。
    そして、佐藤正人さんもわたしも、斎藤日出治さんが自力で訂正するように提案をしました。
    斎藤日出治さんからは、きちんとした返信はありません。
    ひょうせつしたかどうかは、斎藤日出治さんが一番自覚していると思います。

【2】盗奪と盗用という犯罪
 2020年10月16日に、斉藤日出治さんは、件名のないメールに、「会のありかたについてみんなが集まって議論しようと決めて,追悼集会を予定し、その案内を発送するために封筒を使わせていただきます。これは斉藤個人の判断ではなく、みなさんの総意です」と書いて送信してきました。このとき斉藤日出治さんは「みなさん」の実体を示していません。
 2020年10月18日に、三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・裵相度)の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会の『会報』編集・印刷・郵送を担当している金靜美さんが、斉藤日出治さんに『会報』65号・20号郵送用の封筒返却を求めました。
 2020年10月23日に、斉藤日出治さんは、「集会案内を発送するために、会の活動のために、封筒を使いました。会報は昨年に引き続いて今年も発送することができません」と書いたメール(件名: Re: 斉藤日出治さんの封筒流用(正確には盗用)、および剽窃について)を送信してきました。このとき、三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・裵相度)の追悼碑を建立する会の『会報』65号と紀州鉱山の真実を明らかにする会の『会報』20号の発送日が切迫していました。
 その後まもなく、斉藤日出治さんは、竹本昇さんと共謀して、その封筒を盗用して、「李基允氏と裵相度氏の27回目の追悼集会のご案内」・「紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する追悼集会」という名の偽りの「追悼集会」を2020年11月7日に開催するという「ご案内」を、差出人を「竹本昇」として『会報』65号・20号の読者に郵送しました。封筒盗用は、同時に住所録・会員名簿の盗奪でした。
 その「ご案内」で、斉藤日出治さんと竹本昇さんは、三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・裵相度)の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会が2019年秋に作成して郵送した「李基允氏と裵相度氏の26回目の追悼集会のご案内」と「12回目となる紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する追悼集会」の案内の数字を26から27に、12から13に変え、構成・文章をそのまま使い、あたかも2019年の追悼集会に続く集会の案内であるかのように細工し、偽りの「追悼集会」(「李基允氏と裵相度氏の27回目の追悼集会」と「12回目となる紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する追悼集会」)の主催者が三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・裵相度)の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会であるかのように読者を欺こうとしていました。

【3】偽りの「追悼集会」開催という犯罪と「改組三会」という「会」の発生
 2020年11月7日昼に、斉藤日出治さんと竹本昇さんらは、偽りの「李基允氏と裵相度氏の26回目の追悼集会」と「12回目となる紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する追悼集会」を開催しました。
 その偽りの「追悼集会」のあと、剽窃者・盗奪者斉藤日出治さんと盗奪者竹本昇さんをふくむ何人かが、三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・裵相度)の追悼碑を建立する会に似せた名称の「三重県木本で虐殺された朝鮮人労働物(李基允・裵相度)を追悼する会」を新作し、紀州鉱山の真実を明らかにする会と海南島近現代史研究会を詐称して「総称改組三会」を作成しました。◆注記①
 剽窃者はしばしば剽窃するときに原文の一部を変えます。
 2021年4月30日に、三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・裵相度)の追悼碑を建立する会代表であり紀州鉱山の真実を明らかにする会事務局長である金靜美さんが、竹本昇さんが一時的にあずかっている三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・裵相度)の追悼碑を建立する会、紀州鉱山の真実を明らかにする会の展示用パネルを受けとりに行くと発信しました。◆注記②
 2021年4月30日に、竹本昇さんは、「金静美さんのこの申し出をお断りします」と返信しました。
 このとき竹本昇さんが横領・盗奪した展示用パネルは、三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・裵相度)の追悼碑を建立する会、紀州鉱山の真実を明らかにする会、海南島近現代史研究会のものですが、そのおおくは在日朝鮮人金靜美さんの原稿に基づいてつくられたものです。◆注記③
 2021年5月1日付けで『三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・裵相度)を追悼する会 紀州鉱山の真実を明らかにする会 海南島近現代史研究会 総称改組三会 会報第1号』と題する「冊子」(総18頁)が出されました。
 この「冊子」で、「三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・裵相度)を追悼する会」という名の「会」が紀州鉱山の真実を明らかにする会および海南島近現代史研究会と共に「改組三会」を名のったことが明らかになりました。
 「改組三会」という「会」は、紀州鉱山の真実を明らかにする会と海南島近現代史研究会を詐称する「会」でした。民衆運動を実践している会の名を詐称する行為は、その会の運動の内実を奪おうとする空疎な行為です。
 在日朝鮮人金靜美さんは、緻密な調査、丹念な史・資料探索と綿密な分析、数10回の聞きとりなど、徹底的な実証研究をおこない、1988年10月に、「三重県木本における朝鮮人襲撃・虐殺について(一九二六年一月)」を発表しました(『在日朝鮮人史研究』第18号、1988年10月30日発行)。
 この原稿執筆中に、金靜美さんは、三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・裵相度)の追悼碑を建立する会の創立準備をすすめていました。三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・裵相度)の追悼碑を建立する会は、在日朝鮮人金靜美さんの行動なしには1989年に創立されなかったと思います。
 1994年10月に三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・裵相度)の追悼碑を建立する会は、追悼碑を建立しました、その碑文に三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・裵相度)の追悼碑を建立する会は、
     わたしたちは、ふたたび故郷にかえることのできなかった無念の心をわずかでもなぐさめ、
              二人の虐殺の歴史的原因と責任をあきらかにするための一歩として、この碑を建立しました。
と刻みました。
 追悼碑建立後の三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・裵相度)の追悼碑を建立する会の歩みの途上で、民衆運動の深化をさまたげる「会」が現われました。
 木本の日本人集団によって命を奪われ故郷にかえることができなかった李基允さんと裵相度さんの無念の心をわずかでもなぐさめ、お二人の虐殺の歴史的原因と責任をあきらかにするための一歩として追悼碑を建立した三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・裵相度)の追悼碑を建立する会の運動思想をみずからのものとしようとしている一人であるわたしは、剽窃者斉藤日出治さんをふくむグループが「新造」した「三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・裵相度)を追悼する会」の空疎で悪質な「思想」を、怒りをもって軽蔑します。
 『総称改組三会 会報第1号』の5頁に、「総会で選出された運営委員」は、「下記の9人」(竹本昇、久保井規夫、斉藤日出治……」)と書かれていました。「改組三会」の「運営委員」になった時に、久保井規夫さんは、海南島近現代史研究会の会員でなくなりました。
 久保井規夫さんは、かつて、海南島近現代史研究会創立時からの副会長であり、斉藤日出治さんは、かつて、海南島近現代史研究会創立時からの事務局長でした。斉藤日出治さんと竹本昇さんは、かつて、三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・裵相度)の追悼碑を建立する会、紀州鉱山の真実を明らかにする会、海南島近現代史研究会の創立期からの会員でした。

■(二)2021年5月から2022年10月まで
 2021年5月1日付けで、事実と異なる虚偽の「歴史記述」、非論理的で悪質な虚論・空論で満たされている『総称改組三会 会報第1号』と題する「冊子」が発行されました。
 2021年9月19日に、同年4月30日から展示用パネルを盗み続けている竹本昇さんが、「パネルは、改組三会のものであることは、改組三会の会議で決めたことです」というメール発信しました。このメールに「改組三会」の「運営委員」全員は誰一人反対せず、パネル盗奪を黙認・追認しました。◆注記⑤
 2021年9月22日・23日に、竹本昇さんは、「紀州鉱山の追悼碑の土地は、5人の共有になっており、竹本昇も共有者の一人であるので、5分の1は、竹本昇の土地である」という意味の主張を発信しました。
 2021年11月27日に、「改組三会」という「会」は、「熊野の朝鮮人追悼集会」という名の「追悼集会」を開催しました。斉藤日出治さんと竹本昇さんらは、2020年11月7日に、偽りの「李基允氏と裵相度氏の26回目の追悼集会」と偽りの「12回目となる紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する追悼集会」を開催しましたが、2021年にはそれに続く「追悼集会」を開催できませんでした。
 2020年11月に斉藤日出治さんと竹本昇さんらが、「改組三会」という「会」を作成してから2021年11月までの1年の間に、「改組三会」という「会」が実行した「社会的行為」は、①『総称改組三会 会報第1号』(16頁)の2020年5月1日付け発行と、②2021年9月の三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・裵相度)の追悼碑を建立する会・紀州鉱山の真実を明らかにする会・海南島近現代史研究会の展示用パネルの盗奪と、③活動報告皆無の『総称:改組三会 会報第2号』(8頁)の2021年11月10日付け発行と、④「熊野の朝鮮人追悼集会」という名の「追悼集会」の開催でした。
 2022年2月2日に、久保井規夫さんが、「改組三会」の「運営委員を辞退」しました。
 同年5月7日に、竹本昇さんは、「改組三会をやめました」という件名のメールを金靜美さんに送信しました。
 「改組三会」脱会後も、竹本昇さんは、斉藤日出治さんとともに展示用パネルを横領・盗奪し続けました。
 同年7月11日に、竹本昇さんは、展示用パネル横領・盗奪という犯罪を続けつつ、金靜美さんに、「追悼集会だけは旧三会と改組三会が合同で開催されてはどうでしょうか」と「提案」し、続いて7月28日に、「私が言うのもなんですが、旧三会と改組三会は、もう一度、一緒にやっていくことについてご検討いだだけませんか」と「お願い」しました。◆注記⑥
 2022年7月25日に斉藤日出治さんは、「佐藤ブログについて」という件名のメールを発信しました。
 それは、三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会のブログを「佐藤のブログ」と呼び、ブログにかんする虚偽および佐藤正人についての虚偽を語っているものでした。◆注記⑦

■(三)竹本昇さんと斉藤日出治さんは、日々、盗奪者として生きている
 竹本昇さんと斉藤日出治さんが盗奪、盗用という犯罪を開始したのは、2020年10月後半でした。
 竹本昇さんと斉藤日出治さんは、三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・裵相度)の追悼碑を建立する会、紀州鉱山の真実を明らかにする会、海南島近現代史研究会の展示用パネルを盗奪し、三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・裵相度)の追悼碑を建立する会の代表である金靜美さんの返還要求を拒否し続け、いまも返却していません。
 斉藤日出治さんと竹本昇さんは、三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・裵相度)の追悼碑を建立する会の『会報』65号および紀州鉱山の真実を明らかにする会の『会報』20号を郵送するための封筒盗用を、いまだに、謝罪しておらず、封筒を返済していません。
 竹本昇さんと斉藤日出治さんは、盗奪を反省し謝罪することができず、毎日まいにち、盗奪者として生きています。
 斉藤日出治さんは、公表している虚偽の「歴史叙述」や剽窃作文を放置し続けています。
 斉藤日出治さんは、歴史叙述における剽窃問題、虚偽記述、封筒盗用などについての質問に、いまだに、まともに答えていません。
 「改組三会」が発生したのは、海南島近現代史研究会の事務局長であった斉藤日出治さんが剽窃と歴史偽造(虚偽の「歴史叙述」)を重ねていた事実が明らかになってからでした。
 斉藤日出治さんは、史・資料に基づかず、自分が読んでいない資料名をあいまいなかたちで示して、史実ではないことを(すなわち、虚偽を)書いて2014年春から(あるいは、それ以前から)剽窃と歴史偽造始めていました。◆注記⑧
 その事実にわたしがはっきり気づいたのは、あまりに遅く、2019年8月24日の海南島近現代史研究会第13回総会・第24回定例研究会の後でした。

■(四)斉藤日出治問題・竹本昇問題発生の社会的・思想的原因。
 斉藤日出治さんと竹本昇さんの盗奪犯罪、斉藤日出治さんの剽窃犯罪と歴史偽造犯罪は、国家犯罪より小さな問題ですが、その質は同じです。
 「改組三会」という偽会は、斉藤日出治さんと竹本昇さんだけでは、発生させることができなかったでしょう。民衆運動の深化をさまたげる「改組三会」の発生を支持し、その偽会に参加する者がいなければ、「改組三会」という偽会は発生しなかったでしょう。
 このことは、ヒトラー、ヒムラー、ゲ―リングらだけではドイツ帝国のポーランド、フランス、チェコ……侵略が不可能だったこと、ヒロヒトらだけではモンゴル、中国、ベトナム、フィリピン侵略が不可能だったこと、プーチンだけではチェチェン、ウクライナ侵略が不可能であったこととつながっています。
 日本国民のおおくが支持・参加しなければ、国民国家日本が朝鮮を植民地化することは不可能でした。
 李基允さんと裵相度さんを追悼する碑が除幕されたのは1994年11月20日、紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する碑が除幕されたのは2010年3月28日でした。
 斉藤日出治問題と竹本昇問題は、三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・裵相度)の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会と海南島近現代史研究会という民衆組織が結成される以前から生まれていたと考えられます。
 この問題は、三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・裵相度)の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会と海南島近現代史研究会という民衆組織の結成後に大きくなってき、顕在化してきました。
 この問題の根は、斉藤日出治さん個人と竹本昇さん個人の思想性、感性、人間性、正義感の欠如だけにあるのではないと思います。
 「改組三会」発生後、これまで2年間、わたしは、三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・裵相度)の追悼碑を建立する会の会員、紀州鉱山の真実を明らかにする会の会員、海南島近現代史研究会の会員の一人として、「改組三会」という「会」の出現を許してしまった原因を考えてきました。
 「改組三会」問題は、現在の日本社会が生み出した問題だと思いますが、この問題が出てくる前にわたしができること、やるべきことがあったと思います。
 8年前、2014年10月に、わたしは、三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会のブログに「木本トンネルの道」を連載しました。そのおわりに、わたしは、
    木本虐殺(熊野虐殺)から80年が過ぎた。
    木本トンネルの道をたどり、国民国家日本の他国他地域侵略の歴史を総体的に追及し、国民
   国家日本の侵略責任(植民地支配責任・戦争責任・戦後責任)のありかを具体的に把握し、責任
   をとらせていく(責任をとっていく)努力を、おおくの人たちとともに、さらに続けていきたい。
と書いていました。
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「安重根義士の遺体、松の棺に安置…旅順刑務所内の共同墓地に埋葬」

2022年10月27日 | 朝鮮史
「The Hankyoreh」 2022-10-27 07:56
■「安重根義士の遺体、松の棺に安置…旅順刑務所内の共同墓地に埋葬」
 殉国4日後の現地の新聞記事を発掘…仮説を裏付け 
 遺族の韓国埋葬要請が拒否されたという内容も

【写真】国家報勲処は26日、安重根義士の遺体の行方と母親のチョ・マリア女史の社会葬挙行を扱った満州の地域新聞『聖経時報』の1910年3月30日付の記事を公開した。この記事は当時の中国の刊行物を分析する過程で最近発掘されたもの=国家報勲処提供//ハンギョレ新聞社

 安重根(アン・ジュングン)義士の遺体がハルビン産の松で作られた棺に納められ、旅順刑務所の共同墓地に埋葬された可能性を示す中国現地の新聞記事が初めて発掘され、公開された。
 国家報勲処は、安重根の義挙113周年を迎えた26日、安重根が旅順刑務所で殉国した後の状況を記した中国現地の新聞記事を公開した。報勲処が公開した記事は、安重根殉国4日後の1910年3月30日付の満州地域の新聞『聖経時報』のもので、安重根の2番目の弟である安定根(アン・ジョングン)が安重根の遺体を韓国に埋葬したいと要請したが、日本の当局に拒否されたとも記されている。
 報勲処は、弟の要請に対して日本当局が「遺骨は他の死刑囚と同様に刑務所が管理する死刑囚共同墓地に埋葬される」と答えたことをあげ、安重根の遺体は当時の旅順刑務所内の共同墓地に埋葬されたとする有力な仮説を再度裏付けるものだと説明した。報勲処はまた「安重根義士の遺体がハルビンの松で製作された棺に納められたという内容はもちろん、これまで安重根義士の遺体の行方を刑務所関係者の回顧録、日本の情報報告書にもとづいて推定してきたが、今回初めて旅順刑務所の位置する中国満州現地で当時これを報道した記事を発見したという点で、意義深い」と評価した。
 安重根の遺体が埋葬されたと推定される地としては、これまで中国大連の旅順刑務所墓地、それに隣接する元宝山地域、そして同地域近くの中国の単独発掘地域の3カ所があがっていた。旅順刑務所墓地は東山坡とも呼ばれ、当時の旅順刑務所の医務官や現地の中国史研究家などが埋葬推定地としていた。中国は2001年1月に同所を「全国重点文物保護単位」区域に指定している。元宝山地域は旅順刑務所の所長の娘である今井房子氏の証言にもとづき、2006年6月に南北共同調査団などが埋葬推定地とし、2008年3~4月に発掘を実施したものの、安重根の遺体は見つからなかった。現在、同地にはマンションが建てられている。中国は旅順刑務所博物館の駐車場の経営者の証言をもとに、2008年10月に元宝山近隣地域で単独の発掘作業を行ったが、やはり安重根の遺体は見つからなかった。
 安重根の遺体埋葬地が推定できるこの新聞記事は、報勲処と駐上海総領事館が独立有功者の発掘と褒賞に必要な立証資料の収集のために、昨年5月から今年8月までの1年あまりにわたって共同で「日帝強占期に中国で発行された新聞および刊行物88種」から独立運動の関連記事3万3000枚あまりを抜粋し、分析する過程で発掘された。報勲処はこの資料をもとに、独立運動に参加したと推測される2000人あまりの人物を確認し、未褒賞の独立運動家に対する褒賞を進める計画だ。
シン・ヒョンチョル記者 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )
https://www.hani.co.kr/arti/politics/defense/1064367.html
韓国語原文入力:2022-10-26 17:10


https://japanese.joins.com/JArticle/297052?servcode=A00&sectcode=A40
「中央日報日本語版」 2022.10.27 07:49
■北朝鮮メディア、安重根義士の業績を集中報道「反日闘争への意志を鼓舞」

【写真】東平壌(トンピョンヤン)野外撮影場で芸術映画『安重根、伊藤博文を撃つ』の撮影事業を指導する金正日総書記

 安重根(アン・ジュングン)義士義挙113周年を迎え、北朝鮮の宣伝メディアが安義士の業績を集中的に報じた。
 対外宣伝メディア「リュギョン」は26日「熱血愛国青年安重根烈士」という見出しの記事で「彼の愛国精神と不屈の気概は日帝侵略者に甚大な打撃を与え、韓国人民の愛国心と反日闘争への意志を鼓舞することに貢献した」と評価した。
 また「安重根氏の伊藤処断は単に個人に対する復しゅうではなく、日帝の朝鮮侵略に反対し、国権を回復しようとする朝鮮民族の強い意志と信念を満天下に誇示し、アジアの平和を志向した正義の愛国闘争だった」と述べた。
 宣伝メディア「統一のこだま放送」も「安重根烈士の義挙が踏み切られた時から、日帝の植民地統治が終わった時から多くの歳月が流れ、時代も変わったが、日本が過去に犯した罪悪は永遠に消すことのできない歴史的事実として厳然と残っている」と強調した。
 また「歳月が経つにつれ、一層強くなるのが日帝の過去犯罪を最後まで決算するわが民族の鉄石のような意志」と力説した。
 北朝鮮は、金日成(キム・イルソン)主席が1928年に『安重根、伊藤博文を撃つ』という革命演劇を直接作って公演したと宣伝するなど、安義士を高く評価している。
 北朝鮮は1979年、この演劇を同じタイトルの映画としても作ったが、制作過程で金正日(キム・ジョンイル)総書記が直接関与した。
 安義士は1909年10月26日、中国ハルビン駅で初代朝鮮統監の伊藤博文元首相を射殺し、その後逮捕され死刑を言い渡され、同年3月26日に殉国した。
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「「北に送還要求を」拉致被害者家族が政府に訴え 大韓航空機ハイジャック事件」

2022年10月26日 | 北部朝鮮
「聯合ニュース」 2022.10.26 14:26
■「北に送還要求を」拉致被害者家族が政府に訴え 大韓航空機ハイジャック事件
【ソウル聯合ニュース】韓国で1969年に大韓航空機が北朝鮮工作員にハイジャックされた事件の被害者家族でつくる「拉致被害者家族会」の黄仁哲(ファン・インチョル)代表は26日、政府ソウル庁舎前で1人デモを行い、韓国政府に対し被害者の送還を求めるよう促した。

【写真】1人デモを行う黄氏=26日、ソウル(聯合ニュース)

 黄氏はこの日のデモで「(韓国)統一部は北に拉致被害者の送還を要求していない」と批判し、毎週水曜日に他の被害者家族と統一部前で集会を開く考えを示した。
 69年12月11日、韓国北東部の江原道・江陵を出発してソウルの金浦空港に向かっていた大韓航空機が北朝鮮の工作員にハイジャックされた。北朝鮮は翌年2月、拉致した乗員・乗客50人のうち39人を送還したが、黄氏の父を含む乗客7人と乗員4人は今も韓国に帰還できていない。
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ミャンマー軍が武装勢力空爆 約50人死亡、民間人も被害か

2022年10月25日 | 国家・社会
「AFP」 2022年10月25日 0:45 発信地:バンコク/タイ
■ミャンマー軍が武装勢力空爆 約50人死亡、民間人も被害か

【地図】ミャンマーの少数民族武装勢力「カチン独立軍(KIA)」に対する空爆があった北部カチン州パカンの位置。(c)STAFF / AFP

【10月25日 AFP】ミャンマーの少数民族武装勢力「カチン独立軍(KIA)」は24日、同勢力が前日開いた記念式典が国軍の空爆を受け、約50人が死亡、70人が負傷したことを明らかにした。
 KIAのスポークスマンはAFPに対し、23日午後8時40分ごろ、ミャンマー国軍機2機が式典を攻撃したと説明。死者にはKIA構成員のほか、民間人も含まれると述べた。
 空爆は、北部カチン(Kachin)州パカン(Hpakant)で行われた。地元メディアは、戦闘員や民間人を含む最大60人が死亡したと報道。死者には式典で演奏していた歌手も含まれると伝えた。
 国連(UN)のミャンマー事務所は、パカンで空爆があったとの報告を「深く懸念し、悲しんでいる」と表明。100人以上の民間人が被害を受けた可能性があるほか、多数の死者も報告されていると指摘した。
 軍事政権報道官はコメントの要請に応じなかった。
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「韓国で「元従軍慰安婦の家」を守る日本人写真家の戦いに米紙が迫る」

2022年10月24日 | 日本軍隊性奴隷
https://courrier.jp/news/archives/298719/
「クーリエ・ジャポン」2022年10月9日
■韓国で「元従軍慰安婦の家」を守る日本人写真家の戦いに米紙が迫る
 最高のケアを受けるはずが…
 
 元従軍慰安婦の女性たちが住む「ナヌムの家」で働く矢嶋宰(やじまつかさ)は、施設の運営団体を内部告発して称賛を浴びた。だが、その一方で激しい非難にも晒されているという。現地取材をした米「ニューヨーク・タイムズ」紙はその現状をどのように報じたのか──。記事の全訳をお届けする。

◆”消えた寄付金”
 早稲田大学で歴史を学んだ矢嶋は、フェミニズムや日本の植民地時代に関心を持つようになった。初めてナヌムの家を訪れたのは2000年。2003年に同施設で働きはじめ、2006年まで翻訳と写真撮影の仕事に従事した。
 「自分の写真を通じて、彼女たちを『戦争被害者』という集合的イメージにとどめず、それぞれが人格を持った女性であることを強調しようと努めています」と矢嶋は語る。
 「私のように彼女たちと生活を共にすれば、自然とおばあさんと孫のような関係になります。ときどき訪問してくる人にはわからない側面も見えてくる。彼女たちは、勇猛果敢な戦士のごとく見られています。けれど寄付された品物を分配するときに『飴玉を1つ余分に受け取った人がいる』とかなんとかやり合うことだってあるんです。幼稚園児のようにね」。
 矢嶋は2006年にドイツへ渡り、従軍慰安婦の啓蒙活動を続けた。ドイツでは講演会や写真展の開催を支援して、元慰安婦で生き残った女性を語り部として招いた。しかし2019年にナヌムの家に戻ると、そこで目にしたものに深い憂慮を覚えた。
 ある女性が壊れたベッドから転落したとき、運営側は彼女を病院に連れて行くことも、ベッドを新調することも拒絶したという。女性らの居住区画が改装された際は、雨季に入ったというのに個人の所有物はすべて戸外に積み上げられて雨にさらされた。
 また告発者らは、管理者の机の引き出しで見つけた海外からの寄付金について、適切に帳簿処理されていなかったことを指摘している。
 官民合同の調査委員会は、ほとんどのケースで内部告発の主張の正確さを認めたが、それ以上の事実も明るみにされた。
 「ニューヨーク・タイムズ」紙は、366ページの調査報告書を閲覧した。それによるとナヌムの家側は、入所女性が個人で外出することを認めない一方、資金集めイベントには「動員」していた。さらに施設職員は女性らに精神的な虐待を加えて、「路上に放り出すぞ」と脅した。
 また、ナヌムの家は2015~2019年に680万ドル(約9億3000万円)の現金を集めたが、居住区画の維持管理に15万4000ドル(約2000万円)しか使わず、「入所者は平均水準以下の介護施設に暮らしていた」。
 そして同報告書は、「元慰安婦女性、および当人の福利厚生と活動のために使うと約束して寄付を集めておきながら、そのために寄付金を使用しなかったのは、国民を欺く行為である」と糾弾している。
 5月にナヌムの家の理事長に任じられた曹渓宗僧侶のソンファ師は、ナヌムの家は「間違い」を犯し、寄付に関する法律に「違反」したと認める。
 だがソンファ師は、入所女性は経済的支援を充分に受けているとも反論する。韓国政府から月額2600ドル(約35万円)、それに加えて年間1万810ドル(約148万円)の医療費を支給されており、一般市民からの寄付金はほとんど使う機会がなかったというのだ。
 ナヌムの家を高級老人ホームに変える計画については、「韓国は急激に進行する人口の高齢化に直面しており、選択肢の一つとして議論されたもの」と言う。しかしソンファ師は、「変更計画が正式決定されたことはない」と否定。そして、ナヌムの家の今後は政府との協議によって決定されることを強調する。
 「私どもは発見された問題点の改善に取り組みつつ、慰安婦だった女性入所者の皆さんに対し、最後のお一人が亡くなるまで、最高のケアを提供するために最善を尽くしてまいります」。

 矢嶋宰(51)は2000年から、第二次世界大戦中に日本軍に徴用された元従軍慰安婦のポートレート写真を撮影し、その痛ましい過去を世界に発信するようになった。どれも赤裸々で、見る者に強烈な印象を植え付ける写真ばかりだ。
 その彼は戦後77年が経過した今、元従軍慰安婦の扱いを巡るスキャンダルの渦に巻き込まれている。
 「ナヌム(わかち合い)の家」は、1992年に広州(クァンジュ)市に設立された。それ以降、ナヌムの家は、従軍慰安婦だった女性を訪ねてくる政治家や学生にとって、聖地のような場所になっている。現在、この施設には4人が入所している。
 ナヌムの家の国際室長を務める矢嶋はこの2年間、同施設で働く6人の韓国人職員とともに、施設の運営団体を告発する運動に関わってきた。彼らは、運営側が現在90代に達した元慰安婦女性らを水準以下の施設に収容し、しかも数百万ドルの寄付を集めながら、韓国最大で最も影響力のある仏教宗派の曹渓宗へと横流ししたと訴えている。
 内部告発をした矢嶋を含む同施設の職員らは、「寄付金は入所している女性たちの福利厚生のために集められたのに、ほとんどがその目的に充てられていない」と話す。
 「その代わりに運営側は、集めた寄付金をプールしていました。最後の入所者が死亡して無人になったときに、彼らの親団体である曹渓宗が富裕層向けの豪華な老人ホームに改装できるようにするためです。
 戦時下における女性への性暴力は、今なおウクライナなどで起きています。ナヌムの家を保存し、歴史の生き証人として教育に活用するのはとても重要なことです。通常の老人ホームへ改装しようと目論む彼らの計画は、歴史を葬り去ろうとする行為です」。

◆矢嶋らの内部告発は刑事訴訟事件 
 矢嶋らの内部告発は刑事訴訟事件に発展した。前所長と前事務局長の2人が詐欺や横領などの罪で起訴された。ナヌムの家を運営する福祉法人の理事会には、韓国で最も著名な仏教僧も含まれ、過失責任を問われて解雇された。怒った寄付者らはナヌムの家を訴え、寄付金の返還を要求している。2019年に190万ドル(約2億6000万円)だった同施設への寄付金も、今年前半の6ヵ月は3万5300ドル(約480万円)に急減した。
 矢嶋を含むナヌムの家の職員が起こした内部告発は称賛されたものの、代償もついてまわった。
 矢嶋らは、ナヌムの家の前所長と新任の所長および彼らに近い者から、デマを言いふらしたと訴えられ、名誉毀損を含む複数の訴訟を起こされているのだ。
 こうした攻撃のほとんどが、日本人の矢嶋に向けられた。従軍慰安婦の問題は、韓国と日本の関係を何度となく緊張させてきた、数ある歴史的論争のなかで最もセンシティブな問題だ。そして両国は、東アジアで最も重要なアメリカの同盟国なのだ。
 「日本軍慰安婦被害者がいる場所に日本人職員とは何事か」という横断幕が、矢嶋が働くナヌムの家の外壁に掲げられた。人権センターの調査によると、矢嶋は経営者に近い者から、民族差別的な発言を浴びせられたという。
 内部告発者7人のうち4人は7月、ハラスメント被害を訴えて辞めた。それでも矢嶋は、あくまでもここに残るという。
 高麗大学校教授のイム・ミリは、矢嶋が活動を通じて韓国に重要な問題提起をしたと話す。彼女によれば、ナヌムの家の女性らは会議場や抗議集会に連れ出され、「日本の植民地支配に苦しめられた韓国の絶対的象徴」「歴史的正義を求める戦士」と称えられた。
 しかし、こうした女性が今現在、実際はどのような生活を送っているかを問う者はほとんどいなかったと言う。
 「矢嶋は、慰安婦だった女性を一人の人間として捉えています。私が知る限り、このような活動家は稀です。彼以外は、元慰安婦たちを戦争被害者として一般化し、政治問題や資金集めに利用しがちでしたから」。

【写真】矢嶋宰は元慰安婦の女性たちのポートレイトを撮り続けてきた
   ニューヨーク・タイムズ(米国) Text by Choe Sang-Hun Photographs by Woohae Cho

◆”ナヌムの家を訪ねて”
 先日、ナヌムの家を訪れた。約1万4000平方メートルの広大な敷地は、いたって平穏だった。訪問者を迎えるのは、入り口前に設置された元従軍慰安婦の女性らのブロンズ胸像。歴史館には、旧日本軍が運営した、いわゆる慰安所と呼ばれる売春宿が再現されている。慰安所で女性らは毎日、数十人の日本兵とセックスを強要された。
 元入所者で、敷地内の霊園に眠る8人の一人、イ・ヨンニョの墓碑銘にはこう刻まれている。
 「日本の戦争犯罪を決して忘れない」
 施設の中央に2階建ての建物があり、韓国で存命の11人の慰安婦のうち4人が最後の日々を過ごしていた。年齢は92~98歳に達している。施設の介助者は以前の倍の10人で、24時間サービスが可能になった。内部告発を受けた運営側が実施した改善策の1つだ。
 元職員で、矢嶋と共に内部告発をしたホ・ジョンアは、入所女性らの能力は著しく衰えて、自力でケアの改善を訴えることもできないと話す。
 程度の差はあるが認知症を患い、身体機能が衰えている4人の入所女性は、自分たちの住む家を取り巻く世間の騒動にほとんど気づいていないようだった。最近ここを訪問した別の本紙記者は、居住区画の立ち入りを認められ、比較的認知能力が高いと思われる数人の女性から話を聞くことができた。
 イ・オクソン(95)は「ここには食べ物も服も住む家もあるから」と話した。彼女は、15歳のときに中国に連行されて慰安所で奉仕させられたあとも中国大陸に留まっていたが、2001年にナヌムの家に落ち着いた。
 「ここにいれば冬は暖かいし、夏は涼しい」
 矢嶋にとって、これは驚くに当たらない答えだった。
 「ここにいるおばあさんたちは皆、中国やほかの地域で本当にひどい生活を耐え忍んできた人たちです。ですから、今の環境がどうであれ、平気だと答えます。彼女たちは可能な限り最高のケアを受ける権利があった。しかし、私たちはそれをしてあげられなかったのです」。
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「ヤン・ヨンヒ監督「記憶を失っていく母…日本人婿に打ち明けた済州4・3」」

2022年10月23日 | 個人史・地域史・世界史
http://japan.hani.co.kr/arti/culture/44898.html
「The Hankyoreh」 2022-10-22 10:43
■ヤン・ヨンヒ監督「記憶を失っていく母…日本人婿に打ち明けた済州4・3」
 [インタビュー]ドキュメンタリー『スープとイデオロギー』ヤン・ヨンヒ監督
ドキュメンタリー映画『スープとイデオロギー』のワンシーン=アットナインフィルム提供//ハンギョレ新聞社

 日本で生まれ育ち北朝鮮に渡った兄たちと残った家族の話を撮ったドキュメンタリー『ディア・ピョンヤン』(2006)と『愛しきソナ』(2011)のヤン・ヨンヒ監督が、10年ぶりとなる新作『スープとイデオロギー』(20日韓国公開)で帰ってきた。スープはヤン監督の「新郎」に母が作ってあげた鶏のスープを指しており、イデオロギーは母が胸の中に埋めていた済州(チェジュ)4・3事件に触れている。亡くなった家族(父)の空白を埋めた新しい家族と、消されていた母の時間を、家族3部作の完結編に込めた。12日、ソウル銅雀区(ドンジャクグ)の映画館アートナインでヤン監督をインタビューした。
 「母は『韓国(南)は残忍だ』という言葉を若い頃からよく口にしていました。その時は母が偏狭なだけだとばかり思っていました。ところが、母の話が少しずつ長くなり、つながっていき、なぜそう言わざるを得なかったのか、なぜ北朝鮮を希望と考えるようになったのかを理解するようになりました」。

【写真】ドキュメンタリー映画 『スープとイデオロギー』を演出したヤン・ヨンヒ監督=アットナインフィルム提供//ハンギョレ新聞社

 ヤン監督は2009年に父が亡くなった後、東京と大阪を行き来しながら、入退院を繰り返す母の世話をしていた。初めから母の証言をカメラに撮ろうとしていたのではない。「当初は、ぽつりぽつりと出てくる話が短すぎるので長編映画にする考えはありませんでした。家族の記録用か短編作品程度に使えると思っていたんです。自分の治療費まで節約して(息子がいる)北朝鮮に送金を続ける母とは、お金の問題で喧嘩した時間のほうがずっと長かった」。
 遅々として進まなかった撮影が転換点を迎えたのは、「日本人婿」(生前父が絶対に許さなかった)が結婚を許してもらうために母に挨拶を来たときだ。母は長時間煮こんだ鶏のスープを婿にごちそうした。それ以降、家に出入りして済州4・3事件に関心を持ち質問を始めた婿に、15歳の時に幼い2人の弟の手を引いて密航船に乗ることになった故郷の済州について長い話を語り始めた。
 「母には済州島に婚約者がいたという事実、彼のために命がけでガソリンまで運んだ記憶、残忍な形で亡くなった婚約者と家族と隣人の話、すべて初めて知りました」。実はヤン監督は、1990年代後半の米国留学時代、歴史学者だった恩師の夫から、解放後に済州で起きた虐殺事件について聞いたことがあると語った。「その時は、間違って理解されているようだ、おそらく1980年の光州(クァンジュ)と混同されているようだと答えたのですが、20年近くたってから、実際にそのような事件があり、母が生存者だということを知ることになりました」。

【写真】ドキュメンタリー映画『スープとイデオロギー』のワンシーン=アットナインフィルム提供//ハンギョレ新聞社

 映画には、2018年に母を連れて4・3事件70周年の犠牲者追悼式に参加するために済州を訪れたエピソードも入れた。母の初めての帰郷だった。「母は韓国に行くことを怖がっていました。もう民主化されて、4・3事件も政府が認めて、平和公園もできたのだと言っても信じませんでした」。若い頃は、北朝鮮を強く信じる母は何も知らないのだと思っていたが、韓国では銃刀で脅され追い出されるように日本に渡り、日本では数十年間差別されたことで、「心の故郷、祖国が本当に欲しかった人なんだな。つらいことがあった人ほど信じるものがなければ生きていけないけれど、母には北朝鮮が信じるものだったんだな」ということを理解した。
 とうとう帰ってきた済州で、母は言葉を失った。徐々に進行していたアルツハイマー病が急速に悪化したためだ。その姿が「『すべてを伝えたから、もうあなたたちに託した。私は忘れる』という誓いのように感じられた」とヤン監督は語った。母のカン・ジョンヒさんは1月に亡くなった。

【写真】ドキュメンタリー映画『スープとイデオロギー』のワンシーン=アットナインフィルム提供//ハンギョレ新聞社

 今回の韓国訪問に同行した夫の荒井カオルさんに出演の感想を質問したところ、「ドキュメンタリー監督と結婚する時から覚悟していた」と笑って答えた。彼は「4・3事件は日本の植民地支配の責任とも結びつく歴史だ。日本人が、外国の歴史ではなく自分の祖母や祖父につながる過去だということを映画を通じて知ってくれれば」と語った。
 映画の公開に合わせ、スクリーンで見せることができなかった撮影後の話を書いたヤン監督のエッセイ集『カメラを消して書きます』(マウムサンチェク刊、韓国で出版)も出版された。

キム・ウンヒョン記者 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )
https://www.hani.co.kr/arti/culture/culture_general/1063651.html
韓国語原文入力:2022-10-21 08:30
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「オランダ人女性が母国に慰安婦像「被害国が連帯すれば日本は謝罪する」=韓国ネット「ありがとう」」

2022年10月22日 | 日本軍隊性奴隷
「Record Korea」    2022年10月19日(水) 17時0分
■オランダ人女性が母国に慰安婦像「被害国が連帯すれば日本は謝罪する」=韓国ネット「ありがとう」

【写真】19日、韓国・YTNは「韓国と何の関連もない外国人女性が母国のオランダに慰安婦像を設置する許可を得たことが話題となっている」と伝えた。写真は韓国の慰安婦像。

 2022年10月19日、韓国・YTNは「韓国と何の関連もない外国人女性が母国のオランダに慰安婦像を設置する許可を得たことが話題となっている」とし、「これまで慰安婦像の設置は韓国に関連する団体が主導してきたため、外国人が自分だけの力で慰安婦像を設置するケースは今回が初めてだ」と伝えた。
 記事によると、今回アムステルダムへの慰安婦像設置の許可を得たオランダ人女性は元調査報道記者のグリゼルダさんで、19年2月にオランダ政府に申請書を提出していた。
 慰安婦像を設置する理由について、グリゼルダさんは「35もの国の女性が強制動員されたが、人々はその事実を知らない。世界各国の公共の場に慰安婦像があれば、50万人を超える被害者らが忘れ去られない」と説明した。
 グリゼルダさんはさまざまな人種の7人の女性をモチーフに慰安婦像をつくる考えで、今後慰安婦問題をさらに深く研究していく計画も進めているという。
グリゼルダさんは「慰安婦問題が1日も早く解決されることを心から願っている」と話した。また、解決のためには「国際社会の連帯」が必要だと強調し、「驚くことに欧州連合(EU)の8カ国にも慰安婦被害者がいる。被害国が協力すれば日本に謝罪させることができる」と主張したという。
 この記事を見た韓国のネットユーザーからは「ありがとうございます」「韓国政府すら目を背ける問題なのに。本当にありがたいことだ」「慰安婦は単に日韓感情の問題ではなく、人間が人間に対してしてはならない戦争犯罪」「韓国国民ももっと積極的にならないと!」「慰安婦像を世界の主要都市に設置しよう」「韓国の親日議員らは恥ずかしくないの?」「いっそこの女性に韓国の国会議員になってもらいたい」などの声が寄せられている。(翻訳・編集/堂本)

※記事中の中国をはじめとする海外メディアの報道部分、およびネットユーザーの投稿部分は、各現地メディアあるいは投稿者個人の見解であり、RecordChinaの立場を代表するものではありません。


https://jp.yna.co.kr/view/AJP20221019004900882?section=news
「聯合ニュース」 2022.10.19 21:25
■慰安婦被害者象徴の「少女像」 アルゼンチン・オランダに設置へ
【ソウル聯合ニュース】旧日本軍の慰安婦被害者を象徴する「平和の少女像」がアルゼンチンやオランダに設置されることが19日、分かった。

【写真】第1566回水曜集会の様子=19日、ソウル(聯合ニュース)

 慰安婦被害者を支援する韓国の市民団体「日本軍性奴隷制問題解決のための正義記憶連帯(正義連)」の李娜栄(イ・ナヨン)理事長がこの日、ソウルの日本大使館付近で開かれた慰安婦問題の解決を求める「回水曜集会」で明らかにした。
 新たに設置が確定したのは米東部ペンシルベニア州フィラデルフィア、アルゼンチンの首都ブエノスアイレス、オランダの首都アムステルダムで、オランダでは韓国人団体ではなく現地人主導で設置が推進されるという。
 集会に参加したオランダ出身のフリーランスの記者は「少女像の設置を通じてアムステルダム市民も歴史を記憶し、正義の実現に向けともに歩む」と話した。
 ブエノスアイレスの少女像」は同国が軍事独裁政権下にあった当時に多くの市民が拷問を受け虐殺された旧海軍士官学校の敷地に設置される。同地は現在、人権保障を象徴する場所になっているという。
 アムステルダムの少女像は当局の承認を受けた後に設置される予定で、具体的な場所は決まっていない。
 先ごろ当局の承認を受けたフィラデルフィアの少女像は新たに建てられる慰安婦被害者を追悼する公園に設置される。


「The Hankyoreh」 2022-10-17 07:50
■米フィラデルフィア、慰安婦追悼公園造成し「平和の少女像」設置へ

【写真】平和の少女像=資料写真//ハンギョレ新聞社

 米国ペンシルベニア州フィラデルフィアに日本軍「慰安婦」被害者を追悼する公園が造成され、平和の少女像が設置される予定だ。
 同地域最大の日刊紙「フィラデルフィア・インクワイアラー」は14日(現地時間)、「フィラデルフィア市当局は、第2次世界大戦時に日本軍『慰安婦』として動員された韓国人女性を追悼するための銅像の設置を承認した」と報じた。
 報道によれば、フィラデルフィア都市計画開発局芸術委員会は12日に開かれた定例会議で、「平和の少女像」設置の承認を決定した。9人の委員中、出席者は8人で、全員が賛成票を投じたと同紙は伝えた。
 平和の少女像は、フィラデルフィア南東部のデラウェア川沿いの「クイーンビレッジ」に造成される日本軍慰安婦追悼公園「フィラデルフィア平和の広場(Philadelphia Peace Plaza)」に設置される。少女像は椅子に座った慰安婦の少女の肩に1羽の鳥がとまり、隣には誰も座っていない椅子が置かれたかたちで、旧在韓日本大使館前にある少女像と同じものとなる見通しだ。
 フィラデルフィア大都市圏韓人会(KAAGP)は2017年に「フィラデルフィア平和の広場委員会」を立ち上げ、少女像設置を進めてきた。しかしフィラデルフィア日系アメリカ人連合が設置に反対。このような反対にもかかわらず設置を承認したフィラデルフィア芸術委員会のカルメン・フェボ・サン・ミゲル委員は「日本軍慰安婦問題は日本帝国軍の、あるいは韓国のみの問題ではないということを知ってもらわなければならない」と語った。

ソン・ヒョンス記者 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )
https://www.hani.co.kr/arti/international/international_general/1062779.html
韓国語原文入力:2022-10-15 11:32
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