三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

曹靖『回顧長仙聯村“三・一”血泪史』 抄訳 10

2009年11月30日 | 海南島
■一 回顧“三・一”惨案
(八)老人と年少者と女性だけ残され、苦しみに耐えられない
 生き残ったのは、老人と年少者と女性の231人だった。
祖父母と孫だけで畑仕事をやらなければならない家が多かった。
 当時、わたしは、兄と2人で山にいって食べられる草を探し、なんとか飢えを凌いだ。わたしは、ズボンを一着しか持っていなかった。冬になっても、その一着のズボンで寒さを乗りきった。
 生き残った村人のなかには、帰る家がなくなった人も少なくなった。彼らは、村を離れた。
曹盛炎と曹盛経の兄弟は、中原市の伯父の家に身を寄せに行ったが、伯父は、2人を養えないと言って曹盛炎を追い出した。その後、曹盛炎は、こころ優しい陳頴美(曹家烈の妻)に紹介されて、黄哥村の母旧(曹家列の父)の介護者になった。母旧は1人暮らしで目が見えなかった。しかし、その家にいても、虐待されたため、逃げ出した。その後、上井園村の農家に紹介されて牛飼いの仕事をした。そこでも主人の虐待に耐えられず、牛路頭村、坡門村、上洋村へと移動したが、最後に行くところがなくなり、伯父の家に帰らざるを得なくなった。
 盧傳軒が両親も家も失った次の日、南牛村に住んでいた姑祖母(父の伯母)が彼を探しにきてくれた。南牛村は馬六坑抗日根拠地の近くにあったため、日本軍は南牛村の近くに望楼を建設していた。日本兵は、しばしば村の子どもたちに椰子の実をとらせた。9歳の盧傳根が登れなかったので、尻を銃剣で刺された。姑祖母は3人の孤児を迎え入れたが、貧しかったので突然増えた3人子どもたちを食べさせるのに苦労した。コメがないので木瓜で飢えをしのいだことが多かった。身体が弱く病気がちだった姑祖母は3年間患ったが治らなかった。盧傳軒は、外祖母(母方の祖母)の家や姨母(母方の伯母)の家を転々とした。
 曹盛桂・曹盛月兄妹、曹家成、曹盛良、曹炳、欧純文、欧育援、欧継亜、黄文業は、両親も家も失い、親戚の世話になった。
 あの日、多くの子どもたちが孤児になり、その後、苦しい生き方をしなければならなくなった。
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曹靖『回顧長仙聯村“三・一”血泪史』 抄訳 9

2009年11月29日 | 海南島
■一 回顧“三・一”惨案
(六)長仙聯村の女性を陽江軍営の“慰安婦”に
 “大和の精鋭”日本兵は、虐殺中にも“慰安婦”のことを忘れていなかった。村から、欧○○、黄○○、黄○○、何○○、陳○○、陳氏、王○○が連れ出されて、陽江の日本軍軍営の“慰安婦”にされた。そのうちの5人は、健在である。彼女たちは日本政府が否定していることに対して非常に怒っているが、農村の女性として、“慰安婦”にされたことを最大の侮辱だと思い、心に深い傷を負っている。
 日本侵略軍が“慰安所”をおいていたのは公然の秘密であり、解放後にも、陽江の“慰安所”の建物も石碌の“慰安所”の建物も残っていた。
 日本政府がもし恥を知ることができるなら、反省し、被害者に謝罪し、賠償すべきだ。そうしなければ、さらに恥を重ねることになるだろう。

(七)日本軍は引き続き残存者を包囲討伐、水牛、豚、稲を略奪
 災厄の3月1日が過ぎた。しかし、日本軍は、それで満足せず、休まなかった。中原と橋園の日本軍と偽軍は、翌日の3月2日からも引き続いて1945年7月中旬まで、村人を殺し、家を焼き、財産を奪い、牛や豚を捕らえ、作物を奪った。作物の略奪を繰り返した。
 欧純正,欧純三,曹欧氏(盛良の父の伯母),廖陳氏(流清の母)は、村を破壊されてから10日間あまり山に隠れて暮らしていたが、飢餓に耐えられず、食料を探しに山をでた時に、偽軍に捕まった。欧純三は、腕を切られ、血が流れて止まらず、死んだ。兄の欧純正が腹部を切られ、腸が流れ出した。
 呉克松は上昌村の親戚に身を寄せに行ったが、その村人に追い出され、中原に潜伏した。2日後に密告されたが、探しに来た日本兵に発見されなかった。しかし、彼の母と隣人の聶文煒は4月21日(農歴)に村に戻ったとき、日本兵に捕まって、礼照坡で体を4つに切られて、無残に殺された。
 欧継(宗の父)は、田坡村の女婿の家に避難したが、悪人に密告され、4月20日(農歴)に、橋園墟で殺された。
欧育発(継積の伯父)は、渓頭村に避難したが、その村の悪者に殴られて死んだ。
雅昌村の80歳の陳王氏(徳富の祖母)は村の豚小屋に隠れたが、日本兵に発見され叩きつけられて死んだ。
 長仙聯村の9個の村で276軒の家屋が破壊された。そのうち二つの村に人がいなくなった。700人あまりの村人が生命を奪われた。
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曹靖『回顧長仙聯村“三・一”血泪史』 抄訳 8

2009年11月28日 | 海南島
■一 回顧“三・一”惨案
(五)“験証”の名目で村民を誘導し中原燕嶺坡で虐殺
 日本軍は“良民証”を“験証”するといって村民を中原市に誘導し、燕嶺坡で虐殺した。
 「明日、中原で験証する」という通知が来たとき、多くの村民は、先月の“験証”から1か月しか経っていないのにおかしいと感じていた。
 曹家祝は「“験証”を終えたばかりなのに、今度行ったら、生きて帰られるのかどうかわからない」とため息をついた。
 曹陳氏(盛良の母)は昌尾村の実家から帰ってきたばかりだったが、「あちらの保甲長も拘禁された。われわれの運命は去勢された鶏のようなものだ」と落ち着かない様子で言った。彼女は“験証”に行く前に、曹王氏(盛民の母)に「もし、わたしと叔母が戻らなかったら、3度哭いてください」と言った。ここの風習では、人が死んだとき、親族が3度哭かないと、死者の魂はあの世に入ることができない。彼女は今回の“験証”には特に疑問を感じていたので、中原市へ行ってから、当時偽軍の巡査長だった曹家全を訪ねた。曹家全をはっきりしたことは答えないで、「早く行かないと、厄介なことになる」とだけ言った。曹陳氏はそれを聞いて緊張し、裸足で慌てて日本軍の軍営へ走って行って、虎口に入った。
 村民たちが、疑問を感じながらも行かざるを得なかった理由はなにか?
 ひとつは、逃げようとしても逃げられなかったからである。ある人は、「行かないで、どこに逃げたらいいのか」と言った。みんな家庭をもっている。家には父母や子どもがいる。そこで生きていかなければならない。家を離れてどうして生活できようか。
 もうひとつの理由は、逆境に従う性格であった。例えば、番瓜園村の黄文才は、黄世宣と黄世蕃の警告を無視し日本軍の軍営に向かった。軍営についた時、門がすでに閉まっていたにもかかわらず、黄文才は、塀をのり越えて入って、他の“死囚”とともに西天に逝ってしまった。
 運よく敵の虎口から逃れた人もいた。黄世宣と黄世蕃は、その日の“験証”の危険性に気付いていたので、隹文山の秘密の場所に麻雀をしに行って命を守ることができた。
 欧継導は、神経が鋭い人間だった。かれは、こんどの“験証”を疑わしく思ったので、ゆっくり行動することにした。彼は、中原市に着くと、まず陸文利の茶店に行って茶を飲みながら周囲のようすを観測した。茶を飲み終わってから、治安維持会に行って知り合いの偽兵に尋ねた。しかしその偽兵は何も答えなかった。かれは、あたりに注意しながらゆっくり歩いて日本軍の軍営に向かった。街中に入った時、北の方から銃声が聞こえ、人びとが慌てて逃げてきた。その人たちといっしょに欧継導も逃げて助かった。かれは、現在80歳あまりで、健康である。かれは、歴史の証人である。
 欧継端もゆっくり行動した。かれは朝早くに中原市に着いたが、すぐに軍営に入らないで、周囲を回って観察した。偽軍が朝、たくさんの縄を買ったということを聞き、市民たちの表情がいつもと違うことに気づいた。まもなく、軍営の門が開かれ、から大勢の村民が連れ出されてきた。ようすがおかしいことを知って、かれはすぐに避難した。
 呉広澤と息子の呉克松は中原市に住んでいたが、当日、墓前で燃やす紙の冥衣などをつくる作業をしていて、“験証”の時間を忘れていた。2人が気づいた時には時間が過ぎていたので難を逃れた。
 欧継義は中原市に行く途中、2人の鍛冶屋が鉄を打つのを見物していて、軍営に着いた時、門が既に閉められていたので、家に帰った。

 農歴3月1日(公暦4月12日)、日本軍は村人を驚かせないようにするために、集合場所をいつもと同じように偽軍の軍営とした。朝8時ころ、村人たちは、続々と偽軍の軍営に来た。集まった村人を日本兵は、燕嶺坡の本軍の軍営に連行した。そこは、偽軍の軍営から半キロ(1華里)離れていた。
 日本軍の軍営は高さ2メートルの鉄条網で囲まれ、周辺に深さ4~5メートルの塹壕が作られていた。その500メートル西に、一辺が8メートルほどの4角の穴がふたつあった。この穴は燕嶺坡の村民が前日(あるいは数日前に)掘らされていたものであった。
 日本兵は村民を、保甲長、男性、女性の3グループに分け、それぞれ別個の兵舎に入れて、所持品を出させた。その後、服を脱がせ、日本兵は女性の胸や陰部に触った。
 ひどく虐待した後、日本兵は、3人~5人を縄でいっしょに縛り、切り殺し始めた。軍営の一角で日本兵が酒を飲んでいた。彼らはその日の首切り人だった。
 日本兵は、保甲長から男性、女性へと順番に首を切り落とした後、脚でその死体を穴へ蹴り入れた。
 疲れたためか、あるいは流れる血に耐えられなかったためか、その後、日本兵は、首を切るのをやめて、村民の心臓を突き刺して殺し始めた。
 死んだ村民も死んでいない村民も穴のなかにほうりこまれた。その日、そこで、夕方までに、“験証”に来た村民のうち600人の命が奪われた。
 日本兵の視野からはずれて、陳国輝、欧継坤、欧継枢は逃げ出すことができた。陳国輝は縛られた時、わざと両手を広げ、縄を緩めていた。彼は周辺の墳墓と竹林を観察してそこに逃げ込む機会をつかんだ。彼の逃走はいっしょに来ていた欧継坤に勇気を与えた。
 穴にほうりこまれた村人のうち黄明钦一人だけが穴から這い出すことができた。その時、日本軍は疲れ果てていたので黄明钦は混乱に乗じて逃げることができた。
 陳昭美と姪の林華梅はいっしょに縛られていたが、二人は「首を切られるよりも、銃殺されたほうがよい」と相談し、縄を切って逃げた。
 王瓊花は金の指輪をふたつ日本兵に渡した。その日本兵は緩めに縛ってくれた。その日本兵は台湾籍で、多少海南語が喋れた。彼女は軍営から脱走した。当時、脱走者が多かったため、日本兵は警察犬を使って、捜査したが、幸いに王瓊花は稲田に隠れ、発見されなかった。
 私の2番目の兄の家軒は、3月2日午前、年齢が若いため、偽軍の軍営から釈放された。
 欧王氏(坡村の欧継蘭の妻)は日本軍の軍営に入れられていたが、日本兵の隙をねらって厨房の薪の陰に2日間隠れた。民工が集団で仕事をしに軍営に入ってきたので、彼女は民工に偽装したが、日本兵に気づかれて捕まって殺された。
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曹靖『回顧長仙聯村“三・一”血泪史』 抄訳 7

2009年11月27日 | 海南島
■一 回顧“三・一”惨案
(四)“幸運”の幸存者
 欧継霜、欧華英、欧金娘は、偽軍が「早く逃げろ。日本人が殺しにくる」と叫んで知らせてくれたのを聞いて逃げたので助かった。
 欧純文、欧育河、欧育蘭、欧継亜,欧継長は、牛に草を食べさせるために隹文園に行っていた。隹文園は日本軍が“治安区”と考えていた地域だったので、かれらは無事だった。しかし、牛飼いをおえて戻っているとき、いちばん前を歩いていた欧育蘭は礼楽婆(育開の母)が自宅の入り口で殺されたのを見て跳びあがるほど驚いた。そのとき数人の日本兵が欧育蘭を見つけてすぐに発砲してきた。欧育蘭はみんなといっしょに隹文園方向へ逃げ出して助かった。
 あの日、曹炳、曹盛良、曹家成、曹盛炎、曹盛経,曹盛鸞の6人は、朝早くから上園坡で牛飼いをしていた。10時ころ、かれらは、官園村の上空に煙が上がり、しだいに高くのぼっていくのを見た。それは、きれいに見えた。
ようやくの思いで坡村から逃げてきた欧妃宝は、かれらを見て、「いま日本鬼子があそこで人を殺し家に火をつけて焼いている。どうしてすぐに逃げないのか」と言った。
 みんなはあわてた。いくらか年長の曹盛鸞が先にたって、自分たちの牛を貢祠嶺の麓に隠してから、下寨坡の方に向かって逃げた。その夜、曹家成は曹盛鸞といっしょに昌尾村の外祖母の家に行った。
 わたしも幸運だった。あの日の朝、私と長兄は、2番目の兄を“験証”に見送った後、柴をかりに、上園山に行った。突然、銃を発射する音や子供の叫びが聞こえ、あわてて家に戻った。伯母(周氏)が家の前にいた。長兄はわたしに、「年寄りや子どもは怖がらなくてもいい」と言って、すぐに隠れた。わたしは伯母と呆然として家の前に座っていた。あか毛の子犬がそばにやってきた。悶々とした気持ちで南の方を見ると官園村の方までずうっと煙が広がっていた。そのとき、庵堂園村の欧周氏(育宏の母)がやってきて、「今年は稲の出来がいいので、収穫がたくさんありそうだ」とうれしそうに話した。突然、南のほうから銃声が響いてきた。欧周氏は身震いし意識が良くなくなり、「わたしのような年寄りは死んでもかまわないが、若い人はかわいそうだ」とつぶやいていってしまった。それが永遠の別れになった。自分の家に戻った欧周氏は、玄関の敷居のところで日本兵に殺されて、焼かれた。
 わたしが助かったのも、わたしの家が焼かれなかったのも、家の位置によるのではないかと思う。あの日の日本軍の暴行路線は、ふたつだった。ひとつは鳳嶺村から始まり、雅昌村、坡村、吉嶺村、下村(冯屋)に到る路線、もうひとつは嶺上村から南橋村、官園村、下排界村、庵堂園村、長仙曹、長仙何に到る路線である。私の家は、そのふたつの路線からちょうどはずれた位置にあった。佳文村にも無事な家があり、下行村の蔡家、曹家、廖家なども無事だった。
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「朝鮮人追悼碑建立へ準備」

2009年11月26日 | 紀州鉱山
 今日付け(2009年11月26日付け)で発行された『紀南新聞』の一面トップに掲載された記事です。  
  http://www.kinan-newspaper.co.jp/history/0911/26/01.html

 『紀南新聞』は、紀南新聞社(新宮市緑ヶ丘2丁目1番)から発行されている夕刊紙(日刊)で、主として、新宮市(熊野川町を含む)・熊野市(紀和町を含む)、御浜町、紀宝町、北山村、本宮町、那智勝浦町、大地町、古座川町などで配達されています。
 昨年の三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允さんと相度さん)を追悼する集会にかんする2008年11月29日付け『紀南新聞』の記事は、2008年11月30日に、このブログに掲載してあります。
       

 
    朝鮮人追悼碑建立へ準備
    紀州鉱山で強制労働の末死亡
    関係者「英国人との扱いの差は差別」

 熊野市紀和町で戦前、強制連行の末、同町で亡くなった朝鮮人の存在を知ってもらおうと、市民団体「紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する碑を建立する会」(竹本昇世話人、会員約300人)は、来年3月28日に除幕式を行う予定で同町板屋に石碑の建立を計画している。竹本世話人は「市の鉱山資料館の展示にも朝鮮人への言及はなく、英国人との扱いの差は差別」などと市の対応に不信感を示し、同等の扱いを求めている。
 同会によると、紀和町にあった紀州鉱山には1000人以上が強制連行され労働に従事。少なくとも32人が同所で亡くなっている。氏名が明らかになっていない人も存在する可能性が高いという。
 会では、募金を集めて7月にB&G海洋センター前に214・5平方メートルの土地を購入。
 メンバー12人が22日、建立予定地で、碑の周辺に置く大きな石を運び込む準備作業を行った。
 石碑の周りに、死亡が判明した朝鮮人の名前を彫った石を並べる計画で、石は当時飯場のあった地区から運んできた。石碑と説明板の文面は現在検討中。
 建立予定地から約1キロの場所には同鉱山で亡くなった英国人の追悼施設「英国人墓地」があり、同市の史跡になっている。
 このことから、同会では市や鉱山を所有する企業に対して土地の提供を求めてきたが、断られたため自費での建立に踏み切った。
 竹本世話人は「追悼碑建立は、日本が植民地支配を認めていないことを知ってもらう第一歩になる。熊野市も歴史を明らかにし、反省すべき」と話している。

   【写真】追悼碑周辺に置く石を建立現場に運ぶ会員
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曹靖『回顧長仙聯村“三・一”血泪史』 抄訳 6

2009年11月25日 | 海南島
■一 回顧“三・一”惨案
(三)日本兵は幸存者の生きる道を断つため、虐殺し略奪し放火した
 なぜ日本兵は虐殺を実行したとき、同時に、奪いつくし、焼きつくしたのか。
 日本兵は、人の生存条件は、衣食住であることを知っていた。日本兵は、人を殺しつくさなくても、生存条件を無くすれば、自然に消滅することができると考えていた。
 長仙聯村の人たちは、代を継いで、この土地で生活してきた。陽が登ると働き、陽が沈むと休んだ。井戸を掘って水をのみ、田を耕して食べてきた。平和で安定した生活をつづけていた。土地をよりどころにし、家をよりどころにしていた。家は、風や雨や暑さや寒さをさえぎり、財産を保存するところである。一軒の家を建てるのは易しいことではない。1代だけでなく何世代もの人の汗血が注がれる。例えば、黄文業の祖父は牛の糞を拾って、資金を貯め、家を建てた。黄仕松の父は大工の仕事をした収入で家を建てた。黄文球の祖父は田畑を売って家を建てた。
 長仙聯村は華僑の郷里である。華僑たちは家計を切り詰め、故郷へ仕送りをし、故郷の人たちが家を建てるのを助けた。
 しかし、日本兵が村を蹂躙し、何世代もの人たちの苦労をいちどに無にしてしまった。
 日本兵は村人を殺戮したあと、略奪し、放火した。かれらは村に侵入し路地にまで入り込み、門を壊し戸を破り、徹底的に探しまわり、牛や豚や鶏を捕まえ、コメや粟を人夫に担がせて盗んだ。日本兵は、略奪したあと、放火し、すべてを灰にして、去っていった。
 日本軍の犯行は、夜が明けるころ南橋村の王輝栄の家から開始された。日本兵は、家のなかの芝草、むしろなどに照明用の灯油をかけ火をつけた。南橋村につづいて、官園村、下排界村、庵堂園村、曹家村、何家村も襲われ、略奪され、放火された。
 統計によると、南橋村では全家屋の65%の11軒が焼かれ、官園村では全家屋15軒が焼かれ、下排界村では全家屋7軒が焼かれ、曹家村では全家屋の56%の5軒が焼かれ、何家村では全家屋10軒が焼かれ、冯家村では全家屋の75%の6軒が焼かれた。何家村は完全に破壊され、人が住めなくなり、いまは草や樹木が茂り、村の痕跡を探すことができなくなっている。
 坡村、雅昌村、鳳嶺村などで計215軒の家が、長仙村、嶺上村、南橋村、官園村、下排界村、庵堂園村、曹家村、何家村などで計276軒の家が日本軍に焼かれた。
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曹靖『回顧長仙聯村“三・一”血泪史』 抄訳 5

2009年11月24日 | 海南島
■一 回顧“三・一”惨案
(二)長仙諸村落における日本ファシストの“三光”政策暴行
 陽江から嶺上村、南橋村、官園村、長仙村までは、やや離れていたので、陽江に駐屯していた日本軍かこれらの村に来たのは、坡村などいくらか遅かった。
 日本軍が来たときには、村人の多くが中原に行っていたので、これらの村で殺された人は相対的に少なかった。
 夜がすっかり明けたころ、日本軍が礼楽村を通って嶺上村に入ってきた。礼楽村と嶺上村は半里ほど離れていて、その中間に橋園と中原の境界線がとおっていた。
 嶺上村に侵入してきた日本兵が陳家暢の母に「おまえの家の者はみんなどこに行ったのか」と尋ねた。陳家暢の母が「若者はみんな中原へ“験証”に行った」と答えると、日本兵はその場で、陳家暢の母の首を切った。
 日本兵は南橋村の王輝栄の家に火を付けた。1歳にならない女の子が揺り籠に寝たまま焼かれた。母親の王冯氏は家の入り口で切り殺された。日本兵は欧系、蘆系の家へ移動していった。
 人が殺される瞬間の叫び声、豚や狗の鳴き声、家が燃やされた時の火炎の音が重なった。蘆伝軒、蘆伝蓮、欧先美などの何人かの子どもは、隠れてその様子を見ていた。家の中から台所の釜(当時、釜は家の重要財産だった)を持って出ようとした時、戸口で日本兵に遭った。捕まった蘆伝軒がとっさに日本兵に、「わたしたちは牛飼いの子です。あなたたちに牛路坡から牛を連れてきてあげます」と言った。日本兵は信じて3人を放した。3人は急いで牛路坡の方向へ歩き、曲がり角のところから走って逃げた。それを見て、日本兵は銃を掃射した。その銃声を聞いて盧家良が逃げた。3人は逃げる途中、盧家良の妾に会ったので速く逃げるように言った。しかし、盧家良の妾は衣服を取りに戻り、家に着いたとたん日本兵に殺された。
 その後、日本兵は官園村に侵入し、村人を殺戮した。欧王氏(育俊の妻),欧黄氏(育正の妻),欧王氏(育泮の妻)が自宅の入り口で殺された。日本兵の動きは速かった。下排界村に入った日本兵は、すぐに、美雅婆(黄文広の母),界頭婆(黄文彬の祖母),下坡婆(黄仕松の母)を殺した。庵堂園村に侵入した日本兵は、上洋の伯母(王育宏の母)、礼楽婆(王育開の母)、大昌婆(王純標の妻)の命を奪った。
 扒過村に侵入した日本兵は、曹屋で小坡の叔母(曹家桐の母)を殺した。何屋に行った日本兵は、住人がみんな中原に“験証”に行っていて誰もいなかったので、家を焼き、略奪して立ち去った。
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曹靖『回顧長仙聯村“三・一”血泪史』 抄訳 4

2009年11月23日 | 海南島
■一 回顧“三・一”惨案
(一)坡村諸村落における日本ファシストの“三光”政策暴行 3
 冯系の家のすぐ近くに聂系の家があった。日本軍は石で60歳の聂同江の頭を潰した。日本兵は1歳にもなっていない呉妃花を殺し、8歳の聂妃慶と聂文昭の身体を切って殺した。聂同則、聂妃姑、聂宏焕,聂谢氏、聂覃氏、聂妃蓉の遺体も聂系の家で発見された。遺体は傷つけられ、血だらけになっていた。
 竹林坡は牛飼い場所でもあり、子供の遊び場でもあった。その日、親は「験証」のため中原に行っていた。牛飼いの子供たちはいつもより沢山集まっていた。竹林坡に来た日本兵は「ここに来い、遊ぼう」と子供たちに声を掛けた。子供たちは迷いながら、日本兵に近づいた。日本兵は背の高さの順に子供を並ばせた。そして、日本兵はその列の正対面に立って、一対一で子供の心臓を突き刺した。その場で欧宗清,欧宗勇,欧继尊,欧宗贤,欧继炳,欧继焕,欧华子の命が奪われた。欧継清の大腸が流れ、夜、姉が背負って、山仙村へ助けを求めて行ったが、その途中で息が止まった。欧継豊は9カ所、欧継岳は7カ所刺されたが、生き残った。
 欧継波は、母と弟の欧継雲といっしょに雅昌園で種まきをしていたが、日本兵を発見した時、母と弟に早く逃げるように言った。しかし、母さんは子供たちに逃げる時間を与えるため、自分で日本兵に向かってお辞儀をしながら挨拶した。しかし、日本兵は、欧継波・欧継雲兄弟の母を叩き殺した。兄弟二人は懸命に逃げたが、なかなか隠れる場所を見つけることができず、ようやく墓地に隠れた。幸い、間近に追い付いた日本兵に発見されなかった。日本兵の目は牛の目と同じ、まっすぐの方向しか見られないと言われているが、その通りだった。
 その後、日本軍は坡村に侵入した。欧何氏が突き倒され胸、腹、陰部を刺された。
 謝式蓉は銃声を聞いて、息子の宗柳と宗蘭を連れて逃げようとした。玄関を出た瞬間、日本兵に襲われた。宗蘭が3か所刺され、その場で息がなくなった。式蓉は14か所刺され、宗柳は13か所刺されたが、奇跡的に生き残った。式蓉は今年80歳あまりで健在である。宗柳は解放後中国人民解放軍に加入し、退役後、工場労働者になり、現在、一時帰休者となって、農業を耕している。
 日本軍は礼照坡から吉嶺村に侵入してきた。その日本軍の中には、1939年に日本留学から帰国した韋経民がいた。韋経民は先頭に立って、一番小さい黄某某の心臓を突き刺した後、空中へ投げ、真っ二つに切り下した。その日、吉嶺村で黄開東,林華用,黄開朝,黄華可,林華新,林華東,林華虎,林華才,何子東,黄開生,何妃二,黄文英,盧修業,盧刘氏,何韋氏,肖妃南,林鴎氏(典章母),林鴎氏(典清母)の命も奪われた。当時、黄祝顔は下痢のため、後ろの山へ用を足しに行っていて命が助かった。
 吉嶺村から日本軍は長仙冯屋へ移った。何系の女性三人(何陳氏、何林氏、何龚氏)と田植えをしていた冯王氏、冯克仁が銃殺された。日本軍は、冯家村で人を見つけることができなかった日本軍は村を焼いて、引き上げた。そのため、下村蔡系、曾系、寥系は難を逃れた。
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曹靖『回顧長仙聯村“三・一”血泪史』 抄訳 3

2009年11月22日 | 海南島
■一 回顧“三・一”惨案
(一)坡村諸村落における日本ファシストの“三光”政策暴行 2
 何時間たったのか分からなかったが、「出てきて! 日本兵がいなくなった」という女性の声が聞こえてきた。
 生き残った人たちが、「早く逃げよう」と思って、つぎつぎに外にでた。声の主は、蘇妃嬉だった。彼女は橋園村に嫁いでいたが、その日、西村で仕事を終えて戻るとき欧継積の家の戸口に子供が一人倒れているのを見つけ、さらに中に人がいるのを知って声を掛けたのだった。
 そこには、欧宗炎、欧先梅、欧宗美、謝漢光、陳昭花、黄厳氏、黄妃方、黄妃光、欧宗鑫の9人が生き残っていた。欧宗鑫はひどく火傷を負わされ意識不明になっていたがみんなの声で目が覚めて命が助かった。宗仁の母(欧王氏)、孫黄氏、欧宗貴、黄明開が焼き殺された。
 村民が焼き殺される前に村を出た人たちも災厄にみまわれた。
 厳興美、欧宗姫、欧継美、欧孫氏、黄明蓉、欧宗良の母、欧妃七、孫華民が、まだ暗いうちに村をでて三古路にさしかかったとき、欧宗姫が村のなかからボンボンという音が聞こえたので、「日本兵は村に入ってきたらしい。急いで逃げよう」と言った。しかし、ある人が「逃げなくていい。われわれは良民証を見てもらえばいいいんだ。日本兵はわれわれがそうすることを急がせているのだろう。逃げれば村に迷惑をかけることになるだろう」と言った。逃げ出さなかったかれらは、日本兵に弄昌嶺へ連れて行かれ、「ここで良民証を検証しよう」と言われた。日本兵は、服を脱げと命令し、「馬鹿野郎、脱がなければ殺す」と叫んだ。村民は服を脱いだ。日本兵は本当に人間ではない。女性の下部を覗き、笑った。ある偽軍は事前に準備した袋に村民の服を入れ、自分のものにした。

 ここまで書いた時、私は魯迅先生が書かれた『呐喊』を思い出した。魯迅先生が日本で細菌の講義を聞いた後、時事ドキュメンタリーの放映を見た。ロシアのスパイになった中国人が刑場で日本兵に首を切られて見せしめにされており、周りに立っている中国人が無表情でその場を見ていた。その場面は魯迅先生の心を刺激した。いくら医術が進んでいっても、人間の思想を変えられない。いくら体格が丈夫な人でも、見せしめや観賞の人物になってしまうと覚悟した。
 40年経っても、中国人は相変わらず無感覚・無関心であった。日本軍が村民の服を脱がせた時、偽軍がその服を自分のものにしたというのは、虐殺の共犯ではないのか。
 田力婆は日本軍の歓心を買おうとして、日本兵に「殺さないで、お金を全部あげる」と言いながら、財布から日本円を取りだした。彼女は僑戸で、すこし貯金があった。日本兵は、金を受け取った。その後、田力婆の胸を刺した。そして、日本兵は「みんな土下座しろ」と叫びながら、銃床を明宇二兄に投げた。明宇二兄が傾き倒れた瞬間、日本兵は彼の背中を突き刺した。
 一人、二人、三人……。みんな、同じように突き殺された。
 孫華民はその日、母からと離れようとしなかった。日本兵が母を突き刺した時、孫華民「お母さん」と叫んで母にしがみついた。日本兵は孫華民を投げ殺した。
 厳興美は日本兵の不注意に乗じて、逃げ出した。九死に一生を得た厳興美は今年、80歳になって、娘の先梅によく昔のことを話す。
 あの日9時に、冯克新ら7人は上園坡で牛飼いをしていた。彼らが三古村に帰った時、家のなかが荒らされているのを見て、慌てて逃げようとした。しかし、欧育鸾、欧妃和、陳妃二は追いかけてきた日本兵に突き殺された。
 日本軍は冯妃鸾の家に侵入し、母親の冯王氏を強姦した後、陰部と腹を突き刺して殺した。日本兵は、冯運盛の家に入り、6カ月の娘を投げ殺した。陳妃二は、叔母の家に遊びに来ていて、12歳の命を落とした。
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曹靖『回顧長仙聯村“三・一”血泪史』 抄訳 2

2009年11月21日 | 海南島
■一 回顧“三・一”惨案
(一)坡村諸村落における日本ファシストの“三光”政策暴行 1
 農暦1945年3月1日(公暦1945年4月12日)のある日だった。空は雲におおわれ、風が涼しかった。鶏の鳴き声が聞こえた。
 夜が明けはじめた頃、橋園に駐屯していた日本軍が、密かに南側から雅昌村と鳳嶺村に近づいてきた。日本兵は、分散して村を包囲したあと、村に入ってきて、家から村人をおいだして、一か所に集めた。
 日本兵は、欧黄氏の足を蹴って倒し、心臓を狙って突き刺した。それから、欧宗林の母を殺した。欧宗炎の母は息子の欧宗炎の手をしっかりと握っていたが、日本兵に引き離された。母親が「炎児、炎児……」と叫ぶ声がしだいに弱くなっていった。もともと足が弱い80歳に近い欧継年は、狗のように竹林に引きずられて数回のどを刺されて殺された。
 欧宗雅の腹は腸が流れてくるほど突き通され、三日後に死んでしまった。
 欧陳氏、陳黄氏、覃鴻美は、脱走した。
 しかし、欧陳氏は途中、日本軍の銃弾に当たって死んだ。
 この脱走は日本軍にとって、思いがけないことであった。
 このまま、発砲したら、村人を騒がせてしまうので、日本兵は残りの14人を欧継積の家に追い込み、戸と窓をしっかりと閉め、窯木と蓆に火をつけ、その家を焼いた。
 日本兵は右側の部屋を燃やした。なかにいた村民たちは、煙に耐えられず、「弓の音に怯える鳥」のように、右から真ん中、左へと走り回って、極度に混乱してしまった。
 宗仁の母親(欧王氏)が水がめを命救いの場所と思い、一気に中に飛び込んで蓋をした。その後、彼女は「木炭人」のように座ったまま、亡くなった。
 上山叔母(孫黄氏)は刀で必死に窓をたたき壊した。日本軍は窓に発砲した。その銃弾が孫黄氏の胸を通り抜け、欧宗鑫の肩に当たった。その部屋では、倒れた人もいたり、焼き殺された人もいたり、重度のやけどを負った人もいた。
 突然、右側の部屋が崩れ、生き残った人が左側の部屋になだれこんだ。13歳の欧宗貴は戸口が開いているのを見て、外に脱出しようとした。そのとき、外で拳銃を構えた日本兵に突き殺された。中の人は怖くて死を待つしかできなかった。
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