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三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

「日本の靖国神社集団参拝に…徐坰徳氏「世界のメディアに告発」」

2024年04月25日 | 国民国家日本の侵略犯罪
「中央日報日本語版」 2024.04.25 13:38
■日本の靖国神社集団参拝に…徐坰徳氏「世界のメディアに告発
 日本超党派の国会議員約90人が靖国神社を集団参拝して議論になっている中、誠信(ソンシン)女子大学の徐坰徳(ソ・ギョンドク)教授がこれを世界の主要言論に告発した。靖国神社には太平洋戦争A級戦犯が合祀されている。
 25日、徐教授は自身のインスタグラムに「AP通信、ロイター通信、CNN、BBC、ニューヨーク・タイムズ、新華社通信など世界主要20カ国約50のメディアに靖国神社および参拝についての問題点を一つひとつ指摘した」と明らかにした。
 これに先立ち、21日には岸田文雄首相が靖国神社に供物を奉納し、新藤義孝経済再生担当相は靖国神社を訪れて直接参拝した。
 徐教授は「告発メールで靖国神社を日本の政治家たちが持続的に参拝するのは自分たちの侵略戦争を『正当化』しようとする狙いで、歴史を否定する行為だと強調した」と伝えた。
 また「今後、北東アジアの平和と繁栄のために日本のこのような行為を全世界に広く知らしめて世界的な世論が形成されるように協力してほしいと呼びかけた」と説明した。
 靖国神社は明治維新戦後、日本で起きた内戦と日帝が起こした数多くの戦争で亡くなった246万6000人余りの英霊を追悼する施設だ。
 特に極東国際軍事裁判により処刑された東條英機元首相など太平洋戦争A級戦犯14人も合祀されている。徐教授は「世界的な世論を通じて日本の間違った部分を引き続き圧迫していく」と付け加えた。


「聯合ニュース」 2024.04.23 16:38
■韓国政府 超党派議連の靖国参拝に「反省を行動で」 
【ソウル聯合ニュース】韓国政府は23日、東京の靖国神社で始まった春季例大祭に合わせ、超党派の「みんなで靖国神社に参拝する国会議員の会」が同日午前に集団参拝したことについて、反省を行動で示すよう求めた。参拝には自民党や日本維新の会などの衆参両院議員約90人が参加した。

【写真】「みんなで靖国神社に参拝する国会議員の会」は23日午前、春季例大祭に合わせて東京の靖国神社を集団参拝した=(共同=聯合ニュース)

 韓国外交部の任洙ソク(イム・スソク)報道官はこの日の定例会見で、「政府は日本の責任ある人たちが歴史を直視し、過去に対する謙虚な省察と真の反省を行動で示すことを促す」と述べた。
 閣僚では高市早苗経済安全保障担当相が参拝した。
 例大祭初日の21日には岸田文雄首相が内閣総理大臣の名前で供え物の「真榊(まさかき)」を奉納したほか、新藤義孝経済再生担当相が参拝している。韓国外交部は当日、報道官論評で遺憾を表明した。


「中央日報日本語版」2024.04.23 09:54
■日本国会議員、戦犯合祀の靖国神社に集団参拝
 日本超党派の国会議員が太平洋戦争A級戦犯が合祀された靖国神社を集団参拝した。
 23日、時事通信によると、「みんなで靖国神社に参拝する国会議員の会」所属議員は靖国神社の春季例大祭を迎えて、この日午前、集団で靖国神社を訪れて参拝した。
 同会所属議員は毎年春季および秋季例大祭に靖国神社を訪れていて、昨年10月秋季例大祭期間にも集団参拝していた。
 これに先立ち、岸田文雄首相は21日、靖国神社に内閣総理大臣名義で「真榊(まさかき)」と呼ばれる供物を奉納した。真榊は神社の祭壇に捧げる榊の祭具を称する。
 同日、新藤義孝経済再生担当相は自ら靖国神社を訪れて参拝した。
 これに対して韓国政府は「深い失望と遺憾」を表わして抗議した。韓国外交部は同日論評を出して「政府は日本の責任ある指導者が歴史を直視して過去の歴史に対する謙虚な省察と真の反省を行動で示すよう求める」とし「これは未来志向の韓日関係発展の重要な土台であることをもう一度強調する」とした。
 東京千代田区にある靖国神社は明治維新以降、日本で起きた内戦と日本が起こした戦争で亡くなった246万6000人余りの英霊を賛える施設だ。
 このうち90%は太平洋戦争関連の人物で極東国際軍事裁判(東京裁判)により処刑された東條英機元首相ら太平洋戦争A級戦犯14人も合祀されている。


「The Hankyoreh」 2024-04-17 07:49
■[社説]米日同盟が重要になるほど、日本は明確な歴史認識を
 日本は今年の外交青書でも、韓国の領土である独島(トクト)を自分たちの「固有の領土」だとする誤った主張を繰り返した。また、韓国人強制動員被害者に対する賠償判決についても「極めて遺憾であり、断じて受け入れられない」との立場を維持した。中国を含む東アジア全体の平和と安定のためにも、日本は過去の歴史の過ちを謙虚に振り返り、謝罪、反省する態度を維持すべきである。
 日本の外務省が16日に公開した2024年版外交青書を見ると、今年も韓国の領土である独島について「日本固有の領土」だとしつつ、韓国が「不法占拠し続けてきている」という無理な主張を繰り返した。韓日の最大懸案として残っている強制動員被害者に対する賠償判決についても、受け入れられないとの主張を繰り返した。
 日本の外交青書をめぐって例年のように繰り返される攻防よりも懸念されるのは、「忘却の談話」である2015年の安倍談話以降、はっきりと後退した日本の歴史認識だ。日本政府はその後、先の植民地支配と侵略について明確な謝罪と反省(1995年村山談話)の意思を明らかにするのではなく、「歴史認識に関する歴代内閣の立場を全体として引き継いでいる」という曖昧な表現を使っている。加害責任を直視しようとしない卑怯(ひきょう)な態度だ。
 退行する日本の歴史認識がさらに懸念されるのは、このところ米日同盟が名実共に「グローバル同盟」へと成長し、日本の軍事的役割が大きく拡大しているからだ。米日は今月10日の首脳会談で「未来のためのグローバル・パートナー」と述べつつ、「自衛隊と米軍との間の相互運用性及び計画策定の強化を可能にするため、二国間でそれぞれの指揮・統制の枠組みを向上させる」と宣言した。より強められ、一体化する米日同盟は、インド太平洋地域において中国に強い軍事的圧力をかけるものになるとみられる。日本が今のように歴史を反省しないなら、「法と規則の重要性」を強調していくら正しいことを言ったとしても、中国は受け入れようとはしないだろう。
 自衛隊はこのところ、侵略戦争の象徴である靖国神社を集団参拝したり、SNSでアジア侵略を正当化する「大東亜戦争」との表現を使うなど、極めて憂慮すべき姿を見せている。日本のメディアからでさえ「アジアへの植民地支配と侵略、国民を存亡の危機に陥れた敗戦という歴史への反省の風化を強く懸念する」(13日、朝日新聞)などの声があがっている。岸田文雄首相は、弛緩した日本政府の歴史認識が自衛隊に影響を及ぼしたのではないかということを、真剣に反省すべきだ。尹錫悦(ユン・ソクヨル)政権も、韓日関係の持続的な発展のためにも、日本の過ちははっきりと指摘する断固たる姿勢を示すべきだ。
(お問い合わせ japan@hani.co.kr )
韓国語原文入力:2024-04-16 18:05


「The Hankyoreh」 2024-04-17 06:40
■韓国政府「日本外交青書」に立場表明…独島には抗議、歴史問題には沈黙
 日本の外交青書2024に対し 
 韓国政府、論評と会見で立場表明

【写真】16日、ソウル外交部庁舎に来訪した在韓日本大使館の實生泰介総括公使。韓国政府は16日、日本が外交青書で「竹島は日本の領土」という不当な主張を繰り返したことに対し、直ちに撤回を求め、在韓日本大使館の實生総括公使を呼んで抗議した/聯合ニュース

 韓国政府は16日、日本が外交青書で「竹島は日本の領土」という不当な主張を繰り返したことに対して抗議するという立場を示したが、日帝強占期(日本の植民地時代)の強制動員など韓日の歴史問題に関する部分については、これといった意見表明もなく、沈黙を守った。
 外交部は同日午前、報道官論評を発表し、「日本政府がこの日発表した外交青書を通じて歴史的にも地理的にも国際法的にも明らかに韓国固有の領土である独島に対する不当な領有権主張を繰り返したことに対し、強く抗議する」とし、直ちに撤回するよう求めた。外交部は「韓国政府は、大韓民国固有の領土である独島に対する日本政府のいかなる主張も韓国主権に何の影響も及ぼさないことをもう一度明確にする」としたうえで、「今後も断固として対応していくことを明確に示す」と強調した。
 外交部のイム・スソク報道官は同日の定例会見でも「独島は歴史的にも地理的にも国際法的にも明白な韓国固有の領土であり、独島に対する領有権紛争は存在しない」としたうえで、「韓国政府は独島に対する確固たる領土主権を行使しており、独島に対するいかなる不当な主張にも断固として厳重に対応する」と再度強調した。
 外交部は同日午前、ソウル鍾路区(チョンノグ)の外交部庁舎に在韓日本大使館の實生泰介総括公使を呼んで抗議した。この場で、外交青書内の独島領有権主張などに対する韓国政府の立場を重ねて伝えたものとみられる。
 今回発表された日本の外交青書は、韓国最高裁が2023~2024年に日帝強占期の強制動員被害訴訟で、日本の被告企業に賠償を命じた判決についても、「これらの判決及び、2024年2月に日本企業が韓国裁判所に納付していた供託金が原告側に引き渡された事案については、日本政府として、極めて遺憾であり、断じて受け入れられないとして抗議を行った」と記述した。政府は外交部の論評で、これに対しては韓国側の立場を明示せず、歴史問題をめぐる日本の立場の変化も求めなかった。
 イム報道官は定例会見で、「政府は今後も日本側がこれまで示してきた歴代内閣の歴史認識を揺らぐことなく引き継いでいく中で、未来指向的な両国関係の発展に向けて取り組んでいくことを望んでいる」としたうえで、「韓国政府は強制徴用解決策の趣旨に従って円滑な被害回復のために引き続き努力していく」と述べた。
 イム報道官は「今回の日本の外交青書には、韓国政府の(強制動員関連の)解決策が難しい状態だった韓日関係を健全な関係に戻すことだったという日本政府の評価と、金大中(キム・デジュン)-小渕共同宣言(韓日共同宣言)を含め、歴史認識に対する歴代内閣の立場を引き継いでいるという内容が含まれている」として注目した。さらに「韓国との関係を規定するにあたって、『パートナー』という表現を新たに加えるなど、前年に比べて韓国関連記述が一部改善されたとみている」とし、「来年の国交樹立60周年を控え、未来指向的な韓日関係を構築していくうえで、両国が緊密に協力していくことを望んでいる」と述べた。日本と歴史問題をめぐる隔たりを埋め、韓日協力に重点を置く姿だ。
 日本は外交青書で、韓国が独島を「不法占拠」しているという表現を2018年以来7年連続で使っている。尹錫悦(ユン・ソクヨル)政権は韓日関係を改善したという成果を掲げているが、日本の独島領有権主張は全く変わっていない。日本の外交青書に対する外交部報道官論評を発表し、在韓日本大使館総括公使を呼んで抗議するなど、韓国政府の対応は例年と同じレベルだ。
パク・ミンヒ先任記者 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )
韓国語原文入力:2024-04-16 16:01


「The Hankyoreh」 2024-04-17 08:03
■日本、外交青書で「強制動員判決、韓国の責任」強調
 外交青書で一連の強制動員判決は韓国の責任だと明記 
 謝罪・反省はなく「歴代内閣の立場」の継承だけ言及

 日本が16日に公開した今年の外交青書で、日本企業が強制動員被害者に賠償するよう命じた韓国最高裁の一連の判決について、韓国の責任だと強調する記述をした。日本政府の「謝罪と反省」は一言も明記せず、独島(トクト)は日本固有の領土だとする強引な主張が続いた。
 日本の上川陽子外相はこの日開かれた閣議で「2024年版外交青書」を報告した。日本外務省は毎年、直近の国際情勢と日本の外交活動を説明する外交青書を発表する。
 今年の青書には、韓日関係の最大の争点である強制動員被害者に関する内容が新たに追加された。2018年に続き、昨年12月と今年1月に韓国最高裁が被告の日本企業に対して賠償金を支払うよう相次いで判決を出したことなどを説明し、「(日本政府としては)極めて遺憾であり、断じて受け入れることはできない」と明言した。さらに「韓国政府は、2023年3月6日に行われた措置の発表の中で、旧朝鮮半島出身労働者に関して現在(注:発表当時)係属中であるほかの訴訟が原告勝訴として確定する場合の判決金及び遅延利息は、韓国の財団が支給する予定であると表明している」と明記した。最近になり韓国で新たな最高裁判決が下されているが、強制動員被害者への賠償は尹政権の譲歩によって日本の手を離れたという認識を、公式文書に明確に表現しているのだ。
 尹政権は昨年3月6日、強制動員被害者への賠償について、被告の日本企業ではなく韓国の日帝強制動員被害者支援財団が原告である被害者に賠償金を代わりに支給する「第三者弁済」方式を発表した後、これを強行している。
 外交青書には、過去の歴史に対する「謝罪と反省」という言葉がまったく出てこなかった。尹政権の譲歩案の発表後、岸田文雄政権から出た「過去の談話の継承」を説明し、「日本政府は1998年10月に発表された『日韓共同宣言』を含め歴史認識に関する歴代内閣の立場を全体として引き継いでいる」と言及するにとどまった。日韓共同宣言や村山談話(1995年)などにはあった「謝罪と反省」を直接明示せず、あいまいに表現したのだ。これは、米国を国賓訪問した岸田首相が、11日(現地時間)の米国上下両院合同会議での演説で、「謝罪と反省」どころか過去の侵略戦争と植民地支配の内容には最初から言及しないなどの退行的な姿勢を示したことと軌を一にしている。

【写真】日本政府が16日公開した「2024年版外交青書」での韓日関係の部分=外交青書よりキャプチャー//ハンギョレ新聞社

 独島についても強引な主張が続いた。青書に「竹島(日本が主張する独島の名称)は歴史的事実に照らしても国際法上も明らかに日本固有の領土」であり、「(韓国は)警備隊を常駐させるなど、国際法上何ら根拠がないまま、竹島を不法占拠し続けてきている」と主張した。韓国が独島を「不法占拠」しているという表現は、2018年の青書で初めて登場してから7年間続いている。
 韓日関係に対しては改善された表現が登場した。韓国について「国際社会における様々な課題への対応にパートナーとして協力していくべき重要な隣国である」と言及した。2010年の青書以来14年ぶりに韓国を「パートナー」と明記した。「日米韓」は独立した項目が新たに設けられた。青書には「日米韓3か国の連携は北朝鮮への対応を超えて地域の平和と安定にとっても不可欠である」としたうえで、「FOIP(自由で開かれたインド太平洋)の実現に向けても、3か国間の連携を確認してきている」と強調した。

東京/キム・ソヨン特派員 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )
韓国語原文入力:2024-04-16 20:39
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「現実味を帯びた北朝鮮の核の脅威、南北対話が切に求められる」

2024年04月24日 | 北部朝鮮
「The Hankyoreh」 2024-04-24 06:04
■[社説]現実味を帯びた北朝鮮の核の脅威、南北対話が切に求められる

【写真】北朝鮮の労働新聞は23日付で、金正恩国務委員長の指導のもと、事前に決められていた国家核兵器総合管理体系「核の引き金」の手続きに従い、600ミリ超大型放射砲に模擬の核弾頭を積んで反撃する訓練を初めて実施したと報じた/聯合ニュース

 北朝鮮の「労働新聞」が国家核兵器総合管理体系の「核の引き金」に従い、600ミリ超大型放射砲に模擬の核弾頭を載せ反撃する訓練を初めて実施したと報じた。韓米が「斬首作戦」を想起させる合同空中浸透訓練を行ったことを受け、北朝鮮が露骨に核の使用をちらつかせることで対抗した形だ。南北が今のような極限の対決を続けると、「小さなミス」一つで惨劇が起きかねない。両者は急いで緊張緩和に向けた対話を再開すべきだ。
 「労働新聞」は23日付で、金正恩(キム・ジョンウン)朝鮮労働党総書記兼国務委員長が前日、「600ミリ超大型放射砲兵区分隊が参加した初の核反撃仮想総合戦術訓練」を指導したと報じた。この報道には、北朝鮮の「核教理(ドクトリン)」と関連し、これまで知られなかった「火山警報」や「核の引き金」などの概念が初めて登場する。これによると、22日に実施された北朝鮮の「核反撃仮想総合戦術訓練」は「国家最大の核危機警報である『火山警報』体系が発令された場合、部隊を核反撃態勢に履行させる手続きや工程」などを訓練するためのもので、「国家核兵器総合管理体系である『核引き金』の枠組みの中で」は初めて実施されたものと言える。
 北朝鮮は2022年9月、自国の核教理を明文化した法律「朝鮮民主主義人民共和国の核武力政策について」を通じて、北朝鮮に対する核兵器または大量殺戮兵器の攻撃が敢行された場合や差し迫った場合▽国家指導部などに対する核および非核攻撃が敢行された場合や差し迫った場合などには核を使用できるように定めた。同条項をこの日の訓練と結びつけると、韓米の特殊部隊が18日に施行した「北朝鮮の首脳部」を殺害するための合同空中浸透訓練などが「火山警報」発令要件に当たるとみて、あらかじめ定められた「核の引き金」の枠組みのもと、「核模擬戦闘部を搭載した超大型放射砲弾」を発射したことになる。核使用の手続きなどが具体的に決まり、これまで概念上だけで存在していた北朝鮮の核の脅威が一層現実味を帯びたわけだ。
 2回目の朝米首脳会談が物別れに終わった2019年以降、南北、朝米対話は5年近く中断されている。同期間に北朝鮮の核能力が飛躍的に発展したことは否定できない。しかし、尹錫悦(ユン・ソクヨル)政権は米国の「拡大抑止」にしがみつこうとするだけで、南北対話には全く関心を持っていない。その間、朝鮮半島で戦争勃発するかもしれないという懸念の声が高まっている。今のような一方的な対北朝鮮政策では、朝鮮半島の平和を守ることはできない。北朝鮮政策を全面的に見直しが必要だ。
(お問い合わせ japan@hani.co.kr )
韓国語原文入力: 2024-04-23 20:14


「The Hankyoreh」 2024-04-23 21:24
■北朝鮮ハッカー組織、韓国の防衛産業技術「全方位流出」…韓国警察「氷山の一角」
 北朝鮮のハッカー組織、ラザルス、アンダリエル、キムスキーの3組織が韓国の防衛産業技術を奪取するために韓国国内の防衛産業企業を全方位的に攻撃した情況が警察に捉えられた。複数のハッカー組織が動員されたうえに、防衛産業企業とその協力・外注業者までを標的にするなど、攻撃方式も多様だったと韓国警察は明らかにした。
 警察庁国家捜査本部は、北朝鮮のハッカー組織として知られるラザルス、アンダリエル、キムスキーが韓国の防衛産業企業10社余りを攻撃し、防衛産業技術を奪取した事実を確認したと22日明らかにした。北朝鮮のハッカー組織は、防衛産業企業に直接浸透したり相対的にセキュリティが脆弱な協力・外注業者をハッキングするかたちで、防衛産業企業の主要サーバーに無断で浸透し、悪性コードを植え付けたことが把握された。警察は、IPアドレス▽経由地の構築方法▽悪性コードの種類を根拠に、今回の攻撃が北朝鮮のハッカー組織の仕業だと判断した。
 一部の業者は特別点検が始まった1月時点でもハッキングされた被害の事実さえ知らずにいたことから、北朝鮮の技術奪取が相当期間にわたり続いていた可能性も提起されている。警察が捉えた北朝鮮の技術奪取時点は、2022年10月、11月、2023年4~7月だ。警察はどの時点で資料が奪取されたかを推測するだけであり、攻撃期間を特定することは難しいと明らかにした。ただし、警察関係者は「捜査開始時点まで悪性コードは生きていた」とし「我々が把握したのは氷山の一角に過ぎない可能性がある」と話した。
 韓国の防衛産業技術を盗むための北朝鮮の攻撃は、防衛産業企業のみならず協力・外注業者まで標的にするなど、方法も様々だった。ラザルスは被害企業の外部インターネットサーバーをハッキングして悪性コードを植え付けた後、企業の内部ネットワークに侵入する方式を使った。こうしたやり方で開発チームの職員のパソコンなど6台から重要資料を海外クラウドに流出させたことが分かった。
 軍事技術を主に奪取してきたアンダリエルは、防衛産業協力企業のサーバーをメンテナンスする外注業者の職員のネイバーやカカオなど一般電子メールアカウントを奪取し接近した。一部の職員が一般電子メールアカウントと社内業務用アカウントで同じIDとパスワードを使用しているという弱点を悪用したのだ。北朝鮮のハッカー組織の中で最も有名なグループであるキムスキーは、防衛産業協力会社の社内グループウェアの電子メールサーバーの弱点を悪用し資料を奪取した。
 韓国警察の関係者は「これまで役割分担がされていると知られた北朝鮮のハッカー組織が、防衛産業技術奪取という共同の目標を設定し、一斉に総力戦を繰り広げているという情況を初めて確認した事件」だと明らかにした。これまでキムスキーは政府機関や政治家、ラザルスは金融機関、アンダリエルは国防機関を主に狙うハッカー組織として知られていた。ラザルスは最近確認された司法府の電算網への侵入も主導したと警察は明らかにした。

イ・ジヘ記者 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )
韓国語原文入力:2024-04-23 13:45
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「彼らが李承晩を「建国の父」に祭り上げようとする本当の理由=韓国」

2024年04月23日 | 韓国で
「The Hankyoreh」 2024-04-23 08:39
■[寄稿]彼らが李承晩を「建国の父」に祭り上げようとする本当の理由=韓国
 「李承晩と4・19革命」連続寄稿(1) 
 イ・ジュンシク|元独立記念館館長

【写真】1948年8月15日、中央庁広場で大韓民国政府の樹立を宣言する李承晩大統領。李大統領はこの日、「大韓民国30年」という年号を用いた=出典:李承晩建国大統領記念事業会//ハンギョレ新聞社

 李承晩(イ・スンマン)といえば、多くの人が独裁者を思い浮かべる。だが少し前から、ニューライトを中心に、大韓民国の基礎を築いた「建国の父」李承晩を強調する動きが見られる。最近は尹錫悦(ユン・ソクヨル)政権がこれに加勢している。ついにはソウル市のオ・セフン市長が鍾路区(チョンノグ)の「開かれた松ヒョン(ソンヒョン)広場」に李承晩記念館を建てるというとんでもない話を持ち出すに至っている。
 李承晩の歴史的評価はすでに定まっている。李承晩は大韓民国臨時政府の大統領と大韓民国の大統領の座から二度も追われた。これ以上どんな評価が必要だというのか。たとえ小さな功があったとしても、それ以上に罪が大きい。李承晩に功があるとすれば、それは一部の人々の強弁する「建国の父」に自身が決してなりえないことを自ら認めたことかもしれない。
 1948年5月10日の選挙で成立した制憲国会で、李承晩は初代国会議長に選出された。李承晩は5月31日の制憲国会の開会の辞で「大韓独立民主政府の再建設」を力説した。大韓独立民主政府は、言い換えれば民国、すなわち大韓民国である。改めて李承晩の言葉を引用すると、「29年ぶりの民国の復活の日であることを我々はここに公布し、民国の年号は己未年(1919年)から起算」すべきだというのだ。
 憲法を制定する際、国の名前を何にするかという問題をめぐって論争が起きたが、1919年にすでに発足している大韓民国を継承し、国の名前として使い続けようという結論が出た。その結果、制憲憲法の前文に「我々大韓民国は己未の3・1運動で大韓民国を建設し、世界に宣布した偉大な独立精神を継承し、今や民主独立国家を再建」するという一節が入った。これは、独立運動の過程ですでに大韓民国は建設されており、制憲憲法による政府の発足は大韓民国の再建だということを意味する。
 1948年8月15日の政府樹立祝賀式の記念演説で、李承晩は「大韓民国30年」という年号を用いた。続いて9月1日に出た初の大韓民国官報にも「大韓民国30年」が記されている。大韓民国は1948年8月15日の政府樹立によって建設されたものではないということを、李承晩政権自らが明確に示したのだ。その後の数回の改憲を経て、憲法前文は変更された。現行憲法の前文には「我々大韓国民は3・1運動で建設された大韓民国臨時政府の法統」を継承しているという一節がある。
 にもかかわらず、李承晩を称揚しようとしている人々は、1948年8月15日の政府発足がすなわち大韓民国の建国だと強弁する。憲法を否定するものであり、1919年に大韓民国が建設されたと主張した李承晩の唯一の功さえも否定するものだ。李承晩は「建国の父」だと言い張る人々は、「建国節」制定をごり押ししてきた。だが、政府が樹立された日がすなわち国の建設された日だと考える国はほとんどない。
 漢字文化圏において「建国」という名の国の記念日を持つ国は日本だけだ。ただし日本は、神話に出てくる初代天皇が即位した日を1873年に紀元節と定め、1966年からは「建国記念の日」として記念している。日本でさえ、「建国節」を主張する連中のように近代政府の発足日を記念してはいない。韓国の開天節に当たる日を建国の起点としているのだ。中国は1949年に中華人民共和国の発足を宣言した日を国慶節として、台湾は1911年に武昌起義の起きた日を双十節として、それぞれ記念している。北朝鮮は1948年に朝鮮民主主義人民共和国を宣布した日を人民政権創建日として、ベトナムは1945年にホーチミンが独立を宣言した日を国慶日として、それぞれ記念している。
 地球上に存在するほとんどの国が記念する日は、韓国の3・1節や光復節に当たる独立記念日だ。特に帝国主義の植民地支配を受けた国は、どこも独立記念日を自らのルーツとして記念している。米国も独立記念日を記念している。7月4日を米国の建国日だと考える米国人はいない。
 ニューライトをはじめとする極右勢力が無理に「建国節」を推し進めるのには理由がある。それは親日と独裁の歴史の洗浄だ。「建国節」制定を通じて独立運動家を大韓民国から切り離し、その座に親日派とその後裔(こうえい)である独裁政権に加担した勢力を据え、あたかも親日と独裁が大韓民国の正統であるかのようにしようという黒い本音が、「1948年建国」主張には込められている。だから「建国節」を何度も蒸し返しているのであり、その一環として「建国の父」李承晩を称揚しているのだ。

イ・ジュンシク|元独立記念館館長 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )
韓国語原文入力:2024-04-22 19:31
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「「高宗が乙巳条約に満足した」…教科書で歴史歪曲すら越えた日本」

2024年04月22日 | 国民国家日本の侵略犯罪
「The Hankyoreh」 2024-04-22 07:16
■[社説]「高宗が乙巳条約に満足した」…教科書で歴史歪曲すら越えた日本

【写真】ソウル市鍾路区の旧日本大使館前にある平和の少女像/聯合ニュース

 日本の文部科学省が19日に公開した中学校の歴史教科書の追加検定結果に言葉を失った。韓日両国政府が歴史で対立しながらも守ってきた度量の広さを越えた「暴挙」だと言わざるをえない。尹錫悦(ユン・ソクヨル)政権は、過去2年間に続けてきた対日「屈辱外交」がこのような歴史歪曲につながったのではないかを省みて、対日政策を根本的に再検討しなければならない。
 文部科学省はこの日、極右的・復古的な歴史の記述で日本国内でも大きな懸念をもたれている令和書籍の中学歴史教科書2点について、「問題ないと判断した」として、検定に合格したことを発表した。この教科書の歴史歪曲のなかで特に驚くべきことは、乙巳条約(第2次韓日協約、1905年)と日本軍「慰安婦」についての説明だ。
 日本は、長きにわたり過去の植民地支配を「合法」だと主張しながらも、韓国人がそれを自発的に望んだとしたり「正当な支配」だったという内容を主張することはなかった。菅直人首相談話(2010年)で、韓国の人々が「その意に反して行われた植民地支配によって」傷を受けたと認めたことが良い例だ。しかし今回は、植民地支配の扉を開いた乙巳条約について高宗が「満足」し、一部の大臣の反対を「自ら説得して調印に達することになった」という衝撃的な主張を認めた。
 問題の記述は、伊藤博文が条約を強制的に締結した後の1905年12月8日に天皇に送った復命書を参考にしたとみられる。しかし、乙巳条約が脅迫のもとで強制的に締結されたことは、条約の「形式的合法性」を主張する日本の学者でさえ認めるものだ。合法派の代表といえる明治大学の海野福寿名誉教授も2000年の研究で、この一節について、高宗は最小限の効力の期限を設定して奪われた外交権の回復を期待したが、伊藤博文はそれを逆利用し、皇帝の要求を受け入れて修正したことで裁可の証拠とみなしたと指摘している。伊藤博文の欺瞞を高宗が同意したということの証拠にした嘆かわしい歴史歪曲だ。
 慰安婦についても、日本は「法的責任」を否定しただけであり、慰安婦の移送や慰安所の運営・管理などについては、「(日本)軍の関与の下に、多数の女性の名誉と尊厳を深く傷つけた」(2015年慰安婦合意)と認めている。しかし、令和書籍の教科書は、「報酬を得て働いた」として日本の責任を否定する内容だけを羅列している。韓国政府は、2020年と2021年の検定では不合格となったこの極右教科書が、今年はなぜ通過したのかを確認しなければならない。「大使招致」という形式的な抗議で穏便に済ませようとしてはならない。
(お問い合わせ japan@hani.co.kr )
韓国語原文入力:2024-04-21 22:09


「The Hankyoreh」 2024-04-20 08:05
■「慰安婦」動員の強制性を否定する日本の教科書、検定で追加合格

【写真】「慰安婦」動員の強制性を否定し植民地近代化論を主張する日本の歴史教科書が検定を通った19日、韓国外交部に呼び出された相星孝一駐韓日本大使が呼ばれソウル鍾路区の外交部庁舎に向かっている/聯合ニュース

 日帝強占期(日本による植民地時代)の「慰安婦」動員の強制性を否定する極右的内容まで書かれた日本の中学校の歴史教科書が19日、検定を通過した。
 日本の文部科学省はこの日、令和書籍が発行した中学校の歴史教科書2種が「検定決定未了としていた2点の申請図書について、情報管理の状況等について確認を行った結果、以下のとおり教科用図書検定規則第7条第3項に示す申請者による特定行為に該当しないと判断した」として、検定合格の決定を行ったと発表した。これに先立ち、文部科学省は先月、歴史、地理、公民など中学教科書の検定結果を発表したが、令和書籍の歴史教科書2種は発表を控えて異例にも合否の決定を保留した。当時、共同通信は「検定の内容が公表前に外部に漏れたことが確認され、(文部科学省が)精査のため合否の決定が見送られた」と報道した。右翼史観の歴史教科書は、直前の教科書検定の2020年当時は7種のうち1種だったが、今年は先月検定に合格した育鵬社と自由社に令和書籍2種を合わせて、全10種のうち4種に増えた。
 令和書籍の歴史教科書には、最近右傾化の傾向が強まっている日本の教科書の中でも極右的な内容が含まれている。「蒸し返しする韓国の請求権」というタイトルのコラムで、日本軍が朝鮮の女性を強制連行したという事実はなく、彼女たちは報酬をもらって仕事をしていたという内容の記述もみられる。「慰安婦」動員の強制性を認め、歴史教育を通じて忘れないと宣言した日本政府の公式見解「河野談話」(1993年8月)と食い違う内容だ。
 令和書籍の歴史教科書には、日本の朝日新聞が2014年に過去の慰安婦報道の中で誤りがあったと認めた吉田清治氏の証言に触れ、慰安婦被害問題全体が偽りであるかのような主張が展開された。これは先月検定を通ったもう一つの右翼教科書である育鵬社の教科書にもある記述だ。
 また、同教科書は朝鮮に対する日本の植民支配についても、朝鮮総督府は土地調査を行い、鉄道、ダム、上下水道、病院、電話、郵便など社会基盤を整えていったなどと美化した。また、強制動員問題に対しても賃金が支給されたとして問題がなかったという内容で記述した。
 このような歴史教科書が検定で合格したのは、日本の歴史認識の後退を端的に示している。令和書籍は歴史修正主義者として批判された安倍晋三首相が在任していた当時の2020年に、検定で不合格になった前歴がある。その後、令和書籍はアマゾンなどで検定不合格の教科書だとして、それを売りにして本を販売してきた。
 韓国外交部は同日、報道官声明を発表し「日本政府が独島(トクト)に対する不当な主張と日本軍慰安婦被害者問題、強制徴用問題、植民支配に対する極めて非常識で理解できない偽りの記述を含む教科書を検定で通過させたことに対し、深い遺憾を表明するとともに、直ちに是正することを求める」と明らかにした。
 カン・インソン外交部第2次官は同日午後、外交部庁舍に相星孝一駐韓日本大使を呼んで抗議を伝えた。
チョ・ギウォン記者、パク・ミンヒ先任記者 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )
韓国語原文入力:2024-04-19 21:23


「聯合ニュース」 2024.04.19 19:45SHARE LIKE SAVE PRINT FONT SIZE
■韓国政府が日本の教科書検定巡り遺憾表明 日本大使呼び抗議
 鄭憙靖
【ソウル聯合ニュース】韓国政府は19日、日本政府が独島や旧日本軍の慰安婦被害者などについて偏った内容を掲載した中学の歴史教科書2点を検定で合格させたことに対し遺憾を表明した。
 外交部は同日、「独島に対する不当な主張や慰安婦被害者問題、強制徴用問題、(日本による)植民地支配について極めて非常識で理解できないうその記述が含まれた教科書を日本政府が検定で通過(合格)させたことに対し深い遺憾を表明し、即刻是正するよう促す」とする報道官声明を出した。
 声明は「歴史的・地理的・国際法的に明白なわが国固有の領土である独島に対する不当な主張が盛り込まれた教科書を日本政府が再び検定で通過させたことに強く抗議する。独島に対する日本のいかなる主張も受け入れられないことを明確にする」と強調。「過去の過ちに対する謝罪と反省はおろか、過ちを美化する内容で溢れた教科書を容認したことは両国関係発展の流れに逆行するのはもちろん、青少年たちに歪曲(わいきょく)された歴史観を教える無責任な行動であることを明確にする」と指摘した。
 また「両国関係の未来はもちろん日本の未来を築いていく世代が、偏りがある歪曲された歴史教育を受ける場合に抱くことになる偏見に対し懸念を禁じ得ない。日本政府は歴史を直視しながら未来世代の教育により責任ある姿勢を示すべきだ」と強調した。
 外交部の姜仁仙(カン・インソン)第2次官は同日午後、日本の相星孝一駐韓大使を同部庁舎に呼び、抗議の立場を伝えた。

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「韓国の内部対立による二極化で青年世代が「脱北」している」

2024年04月21日 | 北部朝鮮
「The Hankyoreh」 2024-04-20 10:07
■[寄稿]韓国の内部対立による二極化で青年世代が「脱北」している
 パク・ジュンギュ|「韓半島青年未来フォーラム」創立者

【写真】昨年9月21日午前、仁川市庁前にある「仁川愛の庭」にて、北朝鮮人権市民連合の主催で開かれた北朝鮮人権を知ってもらうための部屋脱出プログラム「北風南風」で市民が北朝鮮の家庭を再現した部屋脱出の体験をしている/聯合ニュース

 外交的孤立と経済難によって北朝鮮で約300万人が餓死したという「苦難の行軍」以降、北朝鮮と中国の国境を通じての市場経済が活性化し、2000年の南北首脳会談の支援と南北接触によって、住民たちは外部の文化や文物への接触を続けた。1990年代生まれとその後の世代、すなわち、苦難の行軍の時期に生まれ、党からの配給が途切れた状況のもと、生存するために住民たちが自ら活性化した市場経済のなかで、外部の文物を自然に接触・吸収して成長した世代には、体制維持の核心である党の思想統制が機能しなくなり始めた。北朝鮮首脳部は、反動思想文化排撃法、平壌(ピョンヤン)文化語保護法、青年教養保障法などを実施し、文化の接触、吸収、模倣を徹底して防ぐために全力を尽くしている。今年初めから武力の示威を続け、「統一」「南朝鮮」「朝鮮半島」「三千里」のような単語を公文書から削除するなどして、南朝鮮との接触点を真空状態にするようにした理由も、やはり、体制維持のための内部制御に亀裂が生じたためだとみるのが有力な分析だ。
 北朝鮮は、人道的支援や交流、協力を断固として拒否している。2000年の首脳会談は、北朝鮮の外交的孤立と経済崩壊、苦難の行軍という時期的な状況と重なり、円滑に進めることができた。しかし、コロナ禍の時期から、北朝鮮はいかなる経路からも韓国の支援を拒否している。統一・朝鮮半島戦略を修正・制度化し、韓国との接触に関連する機関と人員も同様に撤収させている状況だ。こうした北朝鮮の大変化と未来の朝鮮半島に対しては、細心の対応が必要だ。
 しかし、こうした状況のもとで最も懸念されることは、韓国内での対立だ。大韓民国はあらゆる分野で真っ二つに分かれている。二極化の最も中心に南北問題が位置している。政権が変われば、北朝鮮に対する対内・他外政策が180度変化する。そうした極端な変化は、大韓民国に対する国際的な信頼もやはり低下させざるをえない。
 北朝鮮問題をもう少し詳しく見てみると、韓国内の対立の二極化の境界にはあまりにも矛盾が多く、不明だということがわかる。北朝鮮の人権問題が代表的な例だ。北朝鮮の権力型の人権侵害の犯罪や、生命権と生存権、女性の人権、児童の人権などの人権の構成要素を考慮すれば、実態改善のための圧力とともに、脆弱階層の支援のための人道的支援も同じく複合的に考慮しなければならない。しかし、韓国内の対立のもとでは、「北朝鮮人権問題」は保守の領域、「人道的支援」は進歩の領域とみなされている。発展的な対立ではなく、誰と合うのか、正しいのか、優秀なのかをめぐって行われる消耗的な対立で、問題解決の本質は薄れてしまっている。
 青年層の統一に関する議論は空白状態も同然で、年々否定的な世論が強まっている。現在の住宅不安のような現実的な疲れを訴える青年たちにとって、狂気じみた政争は、北朝鮮に対する漠然とした拒否感を生みだし、統一ははるかに大きな「追加負担」としてのみ認識されている。朝鮮半島分野の学界と実務分野も同様に、二極化のうず巻きのなかで分裂し、青年たちは進学と在職を敬遠し、「脱北」という単語を使って北朝鮮分野から離れている。中国に留学した親友の証言が思い出される。北朝鮮の留学生は専攻を党が決めるという。対外・対南戦略のため、最優秀の人材を党で組織的に養成・配置しているという。
 繊細かつ鋭敏な時代変化を反映した「一つになった大韓民国」の体系的な運営が必要だ。北朝鮮が挑発行動をできないようアプローチをしながらも、北朝鮮住民の人権の実態改善のための人道的緊急支援もあわせ、「ツートラック」で進めていかなければならない。未来の朝鮮半島の安定化のために、「一つの国家」次元での構造的・制度的な人材育成システムの用意が急がれる。北朝鮮に対する二者択一の閉じ込められた集団思考の構図を打ち破り、合理的かつ実効的な分析と判断をもとに、新たな朝鮮半島分野のセクターを作ることが、未来の朝鮮半島のために切実に求められる。その希望を、思考の柔軟さを備えた青年世代に託してみることを提言する。

パク・ジュンギュ|「韓半島青年未来フォーラム」創立者 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )
韓国語原文入力:2024-04-18 19:04
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2024年春の海南島「現地調査」報告 7

2024年04月21日 | 海南島近現代史研究会
 4月5日朝7時ころから数羽の鶏鳴がなんども聞こえた。
 8時ころ旅館をでて新盈港に行った。1939年9月19日に日本軍(司令長官林田鷹次)は、海南島北海岸の天然の良港新盈一帯を空爆し、9月22日に艦砲射撃をおこない、9月25日に新盈港から上陸した。わたしたちは2002年春に新盈港を訪ねていた。20年あまりのちの新盈港の風景は大きく変わっていた。埠頭に残されていた日本軍の見張り台は撤去されていた。当時、港の近くで何人かの人に話を聞かせていただいたが、もうその人たちに再会することはできなかった。
 侵略してきた日本軍は、近くの高台に司令部を設営し、周囲に壕を掘り、砲台、火薬庫、宿舎、給水塔、食堂、井戸、厩、伝書鳩小屋などを建設した。日本軍はこれらの建設に中国人を排除し、連行してきた朝鮮人だけを使ったという(王京「新盈日軍司令部的設立及暴行」、臨高文史資料研究委員会編『臨高文史』10、1995年12月)。
 1940年1月に、日本軍は、新盈に慰安所をつくった。12歳のときに、その慰安所で洗濯や炊事をしていたという宋福海さんは、
  「慰安所は派遣軍に属していた。中年の日本人女性ふたりが管理し、4人の慰安婦がいた。ひとりは若い朝鮮人だった」
と証言している(宋福海「新盈慰安所」、『臨高文史』10)。日本軍はその後、さらにいくつかの慰安所をつくった。2002年春には新盈の慰安所とされていた建物は残っていた。
 1945年8月に日本軍が消えたあと、その場所に新盈小・中学校が建設された。
 新盈中学校の敷地となっている旧日本軍司令部跡の給水塔、司令部の建物は、1999年ころ3年前に撤去されていた。
 2002年年春、新盈港に残されていた日本軍の見張り台の写真をとっていると、年長の男の人が、わたしたちを見て、日本語で「バカ」と繰り返した。わたしたちは、その場を急いで立ち去ろうとするその人を追いかけて、話を聞かせてもらえないかと頼んだ。かれは、「わたしは何も知らない。日本語をよく知っている人が近くにいる」と言った。その日本語を知っている人は、日本軍が海口につくった日本語学校に15歳のとき入学して日本語を学んだという林吉蘇さんだった(1925年生まれ)。林吉蘇さんは、
   「1944年はじめに学校を卒業して、特務部に通訳として配属された。海口と那大の日本軍で通訳をしたあと、故郷の新盈
  派遣所に勤務した。当時、新盈の商店の主人は、日本人か台湾人。海南島人は、働くだけ。
   那大には、舞鶴第一特別陸戦隊司令部があって、新盈よりも兵隊が多いので、慰安所が大きかった。
   日本軍がいま新盈中学があるところに建物を作っているときに、見にいったことがある。当時は全部、
  墓地だった。
  日本軍が来て、墓を壊して、施設を作った。土地の人は、苦力をした。
   日本軍が降伏したあと、三亜に逃げた。逃げないと、遊撃隊に殺されるから。日本軍に協力した人は、
  たくさん殺された。三亜では、楡林海軍工場で朝鮮人と会った。朝鮮人は、機械の修理・管理のしごとを
  していた。軍人ではない。100人以上いたと思う」
と話した。

 4月5日11時ころ新盈を離れ、旧道をとおって臨高に行き、高速道路に入って東に進み、福山で降りて北方の沙土に向かった。
 わたしたちは、2008年10月と2009年6月に沙土をなんども訪ねていた。
 1941年7月6日(農暦6月12日)に日本軍は、沙土の村々を襲撃した。
 沙土には、13の村(昌堂、美梅、那南、北山、昌表、聖眼、福留、欽帝、上帝、文旭、小美良、木春、扶里)がある。
 聖眼村の近くの墓地に建てられている高さ12メートルほどの「史証碑」の碑文に、1941年閏6月12日に沙土の昌堂、美梅、那南、北山、昌表、聖眼、福留、欽帝、上帝、文旭で村人1119人が殺され、さらにその後200人あまりが殺されたと書かれている。
 紀州鉱山の真実を明らかにする会として19回目、海南島近現代史研究会として6回目の海南島「現地調査」のとき、 2011年3月4日と6日に、澄邁県沙土の欽帝村に行った。1年8か月ぶりの沙土訪問だった。
 わたしたちは、2008年10月と2009年6月に昌堂村、美梅村、那南村、北山村、昌表村、聖眼村、福留村を訪ねていたが、今回は、福留村と聖眼村を再訪し、欽帝村をはじめて訪ねた。
 欽帝村では、侵入してきた日本兵に機関銃で射殺される寸前に逃げて生き残ることができた王世杰さんと王徳林さんに話を聞かせてもらうことができた。
 王世杰さんは、
   「あの日、双子のあかんぼうを抱いて女性が逃げたが、殺されてしまった。あかんぼうは、生まれて1か月くらいだった。
    父親も殺されており、乳を飲ませる人もおらず、生きていけないので、村人が、母親といっしょに埋葬した」
と話した。
 3月6日朝10時過ぎから1時間ほど王世杰さんに話を聞かせてもらったあと、王世杰さんが機関銃を向けられた現場に案内してもらった。
 そこは、村の中心から200メートルほど離れた伺堂の前だった。石造の伺堂とその周りの囲いの石の壁は、ほぼ当時のままだとのことであった。この日はちょうど村の土神の祭日で、供え物が置かれ、ろうそくの火がともされていました。王世杰さんから当時のことを話してもらっているとき、爆竹が鳴らされた。
 そのとき、とつぜん、王徳林さんが来て、当時日本兵が機関銃を置いたあたりに走って行き、わたしたちに日本兵がどのように年寄りや子どもたちを殺そうとしていたかを、身体で示してくれた。
 王徳林さんは、つぎのように話した。
   「ここに、日本兵は、年寄りと女の人と子どもを3列に並ばせた。前列は年寄り、2列目は女の人、3列目は
  子ども。
    日本兵は腹ばいになって機関銃を撃った。そのそばで小銃を持った日本兵は立って撃った。撃たれた後
  も生きていた年寄りを銃剣で刺して殺した。
    わたしは、王世杰さんたちといっしょに逃げた。妹も逃げたが、小銃で撃たれて殺されてしまっ
  た。
    竹やぶの間に隠れた。しばらくたってから、イ、ウォ、サン、シと言いながら、日本兵は去って行った。午後3時ころだったと思う。
    まもなく、遠くの村のほうから銃の音が聞こえた。
    日本兵がいなくなってから、家族をさがした。
    父(王世桐)の遺体を見つけた。背中から撃たれて殺されていた。祖父(王元享)は父から20メートルほど離れた
   ところで殺されていた。母(王氏)の遺体はそこからすこし離れたところにあった。
    わたしの家では、祖父、父、母、妹2人、伯父(父の兄)、伯父の妻、叔父(父の弟)2人、ぜんぶで9人が殺された。
     その後も、日本兵はなんども村に来た。井戸端で洗濯している女性を強姦してから殺したこともあった。その
   井戸はいまも残っている。
    両親が殺されてから、生きていくのに苦労した。牛の糞を拾って乾かして売ったりして暮らした。
 王徳林さんは、祖父と両親が殺されたところに連れていってくれた。
 村はずれの小道をたどって樹木がまばらに生えているところにきて、王徳林さんは、立ち止まり、ここだ、と言った。そして、祖父が倒れていた地点、母の遺体を見つけた地点を示した。そのあたりには、10人ほどの人が倒れており、銃で撃たれて殺された人も、銃剣で刺されて殺された人もいたという。
 その近くに石でつくられた家があった。その家は、当時もあったとのことであった。石組みのしっかりした家で、人は住んでいなかった。その家の前から、虐殺現場が見えた。
 そのあと、王徳林さんたちが逃げて隠れた地点に案内してもらった。
 伺堂の前の道を右にそれ、大きな樹木の間をぬけたところに細い竹が密集している竹林があり、数百メートルかなたに海(沙土湾)が見えた。その竹林の奥に隠れたという。当時は、いまより竹林の地面が低く、水があふれていたとのことであった。
 王徳林さんと別れて村に入っていくと、日本兵が機関銃で村人を殺害した現場から近い自宅そばの豚小屋の前で、王徳信さん(1954年生)は、
   「兄が日本兵に腹を切られてまもなく死んだ、腹から腸が流れ出していたと、父から聞いた。父は銃剣で
   3回刺されたが生き残った。母はそのとき村にいなかったので助かった。姉は日本兵に強姦されて殺された」
と話した。

 日本政府は、沙土での日本政府と日本軍の犯罪記録を公開していない。当時、沙土地域を占領していたのは、日本海軍舞鶴鎮守府第1特別陸戦隊の部隊であった。
 沙土虐殺にかんする記録・報告は、わずかである。いちばんくわしいのは、澄邁県政協文史資料委員会が1995年ころ編集発行した『澄邁文史』第十期(『日軍侵澄暴行実録』)に掲載されている、温家明・温明光口述(曾憲富、呉可義、雷登華整理)「血海深仇 永不忘懐(侵瓊日軍制造“沙土惨案”実況)」である。
 2003年8月20日に新華網は、沙土虐殺にかんする「目睹大屠殺 八旬老人痛訴日軍在瓊犯下罪行」と題する記事を配信した。
 2003年8月20日に新華網が「目睹大屠殺 八旬老人痛訴日軍在瓊犯下罪行」を配信し、その2年後の2005年8月15日に、橋頭鎮人民政府が聖眼村の近くの墓地に「史証碑」を建立した。
 その碑文の全文は、つぎのとおりである。

  槍声遠去笑声欣、時尚新潮世尚仁。
  血鋳沙土千古恨、碑留史証告来人。
  一九四一年夏、国軍臨高県遊撃大隊長黄坤新率部、于沙土海域截取了日僞軍西路総指揮林桂深営運的貨船、並殺死押運人林桂深之仔林明成。林便誣沙土人民所為、逐勾結日軍,同年閏六月十二日払暁時分、日軍二百多人、従那大、新盈、包岸等地分乗十部汽車、長駆直入沙土峒、旋即包囲了昌堂、美梅、那南、北山、昌表、上帝、聖眼、文旭、福留、欽帝等村庄。以検査「良民証」為名、強聚群衆、行槍射、刀砍、剣戮、奸殺、生埋之凶。僅両個時辰、就殺了男女老幼一千一百一十九人。后又両次来犯、再殺無辜両二百余人、焼毀民房五十八間、漁船一百多条、掠搶耕牛六百多頭。這就是瓊島史上惨絶人寰的「沙土惨案」。如此的腥風血雨、鉄証着侵瓊日寇的罪悪、銘刻着沙土人民的冤怨。特立此碑、永志不忘。
                 橋頭鎮人民政府   公元二〇〇五年八月一五日

 2024年4月5日午後3時ころ橋頭鎮を経由して沙土に向かった。史証碑のある聖眼村を訪ねると、沙土虐殺の犠牲者の名簿をつくっていた温国興さん(1928年生)は農歴2016年2月に亡くなっておられた。弟の温国照さんによると、バイクに乗っていて倒れてけがをし、一週間入院したが回復のみこみがないので家に帰り、まもなく亡くなったという。
 温国照さんは“いま聖眼村ではわたしが一番年上だ。1941年8月4日に、家の近くの竜眼の樹の下で日本兵に何か所も刺され血が流れたが歩いて家に戻った。母が南瓜のわたで血止めをしてくれた。いちばん 深かった傷には3年間薬をつけ続けた”と言って、その傷跡をみせてくれた。
 そのあと、王徳林さんの家を訪ねた。その直前、近所に住んでいる人が“王徳林さんはボケていて何もわからなくなっている”とひとち話していた。2015年ころ王徳林さんの家の近くで出会ったことがある。そのとき王徳林さんは、大きな薪の束を背負って元気に歩いていた。
 王徳林さんは、一人で歩行器に座っていた。「好久不見。我従日本来的」と言ったがこたえがかえってこない。7~8分間同じコトバをくり返していると、とつぜん「サトウショウジン」、“メシを食っていけ”と言い、その後なんども“メシを食っていけ”とさそってくれた。家の階段に積んであったバナナをもらった。
 別れの時、家の前に出てきて、訪ねたわたしと邢越さんの姿が見えなくなるまで見送ってくれた。
 5時半ころ橋頭鎮に向かった。途中、風が強くなり、砂塵で陽が赤くなった。橋頭鎮に旅館が無くなっていたので、澄邁県に向かった途中陽が落ち、金江鎮の旅館に入ったのは8時過ぎだった。 
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2024年春の海南島「現地調査」報告 6

2024年04月20日 | 海南島近現代史研究会
 4月4日朝9時、「旦場抗日遇難同胞紀念碑」の前に着いた。
 碑の裏面には、
    這是鮮血和生命凝鋳的歴史。随着“九・一八”的硝烟、我祖国大好河山被日寇鉄蹄蹂躪。数千万同胞被殺
  戮。
    一九三九年二月、日軍侵占海南后、我旦場村民為捍衛民族尊厳、不甘当亡国奴、拒領“順民証”、憤怒的撕
  破焼毀日本国旗。
    由此、日軍対我村進行滅絶人性的野蛮報復、当年十一月四日深夜(農暦九月二十三日)、全副武装的日
  軍従水路上岸包囲我村庄、殺害九十三同胞、其中孕婦五人、強奸村姑四人、焼毀民房三十多間、槍劫財物
  無数……制造旦場九・廿三大惨案。
    歴史決不能忘却、惨劇更不容重演! 為報国難、家仇和民族恨、旦場先烈們在抗日戦争中可歌可泣的
  事跡永載史冊、他們寧死不屈的革命精神永遠激励着后人、奮発図強、振興中華、反対侵略戦争、維擁世界
  和平。
    為永恒的紀念、旦場村民立碑銘記。
                        公元二〇一三年三月

と刻まれており、そのそばに犠牲者の名、性别、殉难时年龄、亲缘关系がつぎのように刻まれている。

1 张生珠 男 81 张恩福曾祖父
2 谢连瑞 男 50 良昌祖父
3 许江匙 女 52 文丕富伯母
4 谢宏茅 女 68 张永值祖母
5 符凤岑 女 49 张天太祖母
6 文建熙 男 3 文益忠叔父
7 李则佑 男 28 李开现堂伯父
8 符兰荣 女 46 文名发祖母 
9 文仍面 女 68 符克勤祖母
10 文绍谦 女 54 张天助祖母
11 文士钦 男 70 文国瑶祖父
12 谢先炳 男 67 谢克精祖父
13 谢连兆 男 65 则富伯父
14 林 女拜 角 女 63 则富伯母
15 谢泽兰 女 13 则富堂姐 
16 谢泽坤 女 8 则富堂姐
17 谢泽路 女 一个月 则富堂妹
18 文贵女 女 46 王永双母亲
19 王永成 男 14 王永双胞兄
20 文昌才 男 25 文益丰父亲
21 文丕毓 男 35 文坤卜父亲
22 文成美 男 26 许承仕小舅公
23 文其英 男 37 昌显父亲
24 符玉佳 女 26 文国富前妻
25 黄永银 女 38 张坡弟前妻
26 文 女拜 窝 女 65 张天兴祖母
27 张天梅 女 30 张天兴胞姐
28 文其生 男 29 文昌民叔父
29 文兆和 男 42 文世连父亲
30 文国秀 男 37 文任元父亲
31 王之仁 男 40 永乐父亲
32 张石纯 男 46 张天玉祖父
33 赵永姨 女 40 文益留祖母
34 文瑞赫 男 36 文宗文伯父
35 文亚妹 女 36 文宗文伯母
36 文宗世 男 3个月 文宗文堂弟
37 谢则鸟 女 21 文宗文前母
38 谢祥符 男 32 谢泽长父亲
39 文琼銮 女 32 谢泽长母亲
40 谢泽玉 男 18 谢泽长胞弟
41 谢坡小 男 7天 谢泽长胞弟
42 陶安三 女 62 文秉山祖母
43 王永善 男 21 永乐胞兄
44 文 经 男 35 文德远父亲
45 文庆补 男 36 文高岗祖父
46 李则兴 男 13 李则贵胞弟
47 文亚小 女   王永善的前妻
48 文现熙 男 32 文益成父亲 
49 文令护 男 38 文成群父亲
50 文拜堪 女 35 许瑞梅母亲
51 文仁堪 男   文义五父亲 文昌盛继承 
52 王绍堪 女   文义五母亲 文昌盛继承
53 陶仍姐 女 60 文高荣祖母
54 文其川 男 40 文丕训父亲 
55 文仁均 男 48 亚条父亲开琼继承
56 谢三拥 男   谢良高叔父
57 文妹琴 女   文妹真胞姐
58 张成汤 男   张天才堂伯父 
59 谢金亻于 男  谢宝智父亲
60 谢祖兴 男   谢良才父亲
61 谢则性 男   谢良月父亲 
62 文妹笑 女   文宗娥继承
63 文其兴 男   文丕福叔父
64 文瑞路 男   文相机兄
65 文龙排 男   文其雄兄
66 张玉全 男   张永奎叔父 
67 文昌南 男   文丕高兄
68 许明芬 男 75 许瑞俊继承
69 文绍番 男   文永职父亲
70 文性龙 男   文昌东叔父 
71 黄金才 男   黄永照父亲
72 文康复 男   文永真父亲
73 文兆熙 男   文 女拜 珍父亲 註:「女拜」は、「拜」に「女」偏がついた漢字。 
74 许代奇 男 51 许瑞底父亲 
75 文 女拜 耐 女 60 许瑞俊继承
76 文瑞雄 男   文秉位叔父
77 文世帖 男   昌功叔父
78 谢先堪 女   文相器母亲 
79 文先喜 男   文天亮父亲
80 赵拜移 女 32 文庆勇叔母
81 文拜小 女 几天 赵拜移女儿 
82 文天明 男   文性方叔父
83 张 骞 女   成福祖母
84 谢家宝 男   谢昌姨父亲
85 符登雄 男 38 文永祥小舅
86 文其福 男   克耿父亲
87 符开尧 男   符振养叔父 
88 符仕高 男   符美柳父亲
  胎儿五名

 海南島近現代史研究会がはじめて東方市北方の四更鎮旦場村を訪ねたのは、2012年11月2日(農暦9月19日)の午後3時ころだった。
 このとき、旦場村の人たちが、日本軍に殺された村人の名を刻んだ追悼碑を建立する準備をすすめていることを知った。
 この日の午後8時過ぎに、旦場村から東方市内に着いたわたしたちは、旦場村の追悼碑建立の準備を中心になって進めている謝良昌さんと李永賢さんからくわしく話を聞かせてもらうことができた。
 それから5か月後の海南島「現地調査」の最初の日、2013年3月25日にわたしたちは再び旦場村を訪問しようと考えていたが、出発10日前に、謝良昌さんから、“旦場村の人たちが多く東方市にいるので、旦場村にではなく、東方市にこないか”という連絡があったので、東方市を訪問することにした。
 わたしたちは、1989年にはじめて海南島を訪問しましたが、そのとき東方市にも行きました。東方市は、日本が海南島を侵略した時期には、八所という小さな村だった。石碌鉱山の鉄鉱石を奪って日本に運び出すために、日本軍・西松組・日本窒素は、山中の鉱山から海岸まで約50キロの鉄道と積出港(八所港)を急造した。この工事で多くの人命が奪われた。八所港の「万人坑」には、1964年に「日軍侵瓊八所死難労工紀念碑」が建てられた。
 東方市は、その北東の昌江黎族自治県、白沙黎族自治県、南の楽東黎族自治県と同じく黎族の人たちが多く住む地域で、1990年代なかごろまでは、東方黎族自治県とされていた。清国時代から1940年代までは、昌江県と感恩県の一部とされており、東方黎族自治県とされたのは、1950年代のようである。

 2013年3月25日午前11時に東方市内の待ち合わせ場所に着くと、謝良昌さん、李永賢さんとともに、旦場村委員会書記の文益夫さん、旦場村委員会主任のまだ20歳代の張恩朝さん、東方中学校の校長をしている謝華さん(謝良昌さんの弟)、東方市の二軽局の局長を退職した文培徳さんが迎えてくれた。
 その席で、追悼碑の建立について、李永賢さんはつぎのように話した。
   “追悼碑は、昌化江に向かって南向きに建てる。場所は、みんなで決定した。
   碑の正面に、「旦場抗日遇難同胞紀念碑」と刻み、その下に碑文を刻む。
   石の裏面に殺された人の名前を刻む。碑の周囲は樹木や花で囲みたい。
   あなたたちが来た昨年11月には、93名の犠牲者のうち、85人の名しかわからなかったが、その後、これまでに90人の名を知ることが
  できた。
   旦場村の交通の便は、いまは悪いが、これからは道路や橋が建設されると思う。
   この碑を外から訪れる人、とくに若い人たちに事件を伝える教育基地としていきたい。
   ことし、74年前に93人が日本兵によって殺害された農歴9月23日(普通暦では、10月27日)に除幕式を開催したい”。
 謝良昌さんによると、旦場村の追悼碑を建立する運動が本格的に始められたのは7年ほど前からで、犠牲者の名前、年齢、「親縁関係」などの調査を始めたのは、2011年からだとのことでした。犠牲者の名簿(「旦場9・23惨案殉難同胞登記表」)の作成が、1939年から70年あまり経過してようやく行なわれることになったことについて、謝良昌さんは、
   “村ではむかしから犠牲者の名を調べてきていたが、中心になる人が多忙だったこともあり、定年になってようやく本格的な活動ができ
  るようになったからだ”
と話した。

 4月4日朝10時、旦場村の大樹のある広場に行く。文益顕書記が迎えてくれた。
 日本軍の大虐殺後、生き残った村人は2000人以上だったが、その後村を離れる人が多く、今の村の人口は200人あまりだという。
 紀念碑の前に門を造る準備を始めており、設計図はできているという。1947年に故文天政さんが編纂した「村歌」(哀嘆長恨歌 日軍惨殺旦場同胞)を整理した王永效さんはいま東方市に住んでいるという。謝良昌さんは東方市に住んでおり、李永賢さんは数年前に亡くなったという。謝良昌さんに電話すると、紀念碑建設後も犠牲者の名簿の整理を李永賢さんといっしょにすすめてきたと話した。今年秋に会う約束をした。
 11時に旦場村を離れ、三家鎮、烏烈鎮、海頭鎮、白馬井鎮をとおって午後6時半に新盈鎮に着いた。

                                      佐藤正人
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「韓国社会に「トレランス」広めたホン・セファ氏死去…最後の願い「成長から成熟へ」」

2024年04月19日 | 韓国で
「The Hankyoreh」 2024-04-19 11:24
■韓国社会に「トレランス」広めたホン・セファ氏死去…最後の願い「成長から成熟へ」

【写真】ジャン・バルジャン銀行頭取を務めたホン・セファ氏=パク・スンファ記者eyeshoot@hani.co.kr//ハンギョレ新聞社 

 韓国社会に「トレランス」を伝えた作家でありジャーナリスト、社会運動家であるホン・セファ氏(ジャン・バルジャン銀行頭取)が18日に死去した。享年77。
 故人は1947年12月10日、ソウル鍾路区梨花洞(チョンノグ・イファドン)で生まれた。ほどなく朝鮮戦争が勃発し、親と離れ離れになり鍾路区蓮建洞(ヨンゴンドン)の母方の実家に預けられて育った。母方の祖父は人生の知恵を教えてくれた人だったという。京畿中・京畿高校を経て、1966年にソウル大学金属工学科に入学した。
 ホン・セファの名が韓国社会に広く知られるようになったきっかけは、フランスに亡命中だった1995年に出版した自伝的エッセイ『私はパリのタクシー運転手』(日本語題『コレアン・ドライバーは、パリで眠らない』みすず書房)だった。亡命者として暮らすことになった激動の過程とパリ生活のエピソードを交え、読者の熱い反応と支持を受けた。本全体を貫く「トレランス(寛容さ)」は、白黒論理が支配する韓国社会に知的省察のきっかけを与えたという評価を受けている。
 ホン・セファ氏が亡命者になったのは、ドイツのデュッセルドルフに続いて定着したフランスのパリにいた頃、南朝鮮民族解放戦線(南民戦)事件が起きてからだ。当時、ホン氏は貿易会社デボン産業の海外支社に勤務する社員だった。1977年、韓国民主闘争委員会(民闘)の盟員を経て、南民戦の闘争家となったが、組織員という事実が明らかになり、故国に帰れない境遇となった。
 亡命20年目にして1999年にようやく帰国し、この時出版した文化批評エッセイ『セーヌは左右を分かち、漢江は南北を隔てる』(ハンギョレ出版、日本語版はみすず書房)が書店総合部門のベストセラーになり、作家として改めて地位を固めた。
 2002年に完全帰国したホン氏は、同年2月、ハンギョレ新聞社に入社し企画委員と編集委員を務め、2009年にはハンギョレが発行する「ル・モンド・ディプロマティーク」韓国版の編集人を務めた。ハンギョレの企画委員として働いていた当時、多様な市民の声と意見を盛り込んだ『なぜなら』という紙面を作った。『なぜなら』は現在まで続いており、専門家やジャーナリスト中心の世論の地形で市民の声を代弁する公論の場となっている。ホン氏はハンギョレを離れた後も、物静かでまっすぐな性格で多くの後輩から尊敬を受けた。韓国社会の代表的な知識人であり活動家、政党員として、2011年に進歩新党の共同代表、2013年に季刊誌「言葉と弓」発行人となり、2015年からは罰金刑を宣告され罰金を払えず刑務所に入る人々を支援する社会団体「ジャン・バルジャン銀行」の頭取となった。
 故人は生前のインタビューで、ソウル大学金属工学科1年だった1966年の秋夕(チュソク、旧暦8月15日)の時、父親の故郷であった出来事を「思惟体系の土台を崩した人生の分岐点」だったと述懐している。忠清南道牙山郡塩峙面大洞里(チュンチョンナムド・アサングン・ヨムチミョン・テドンリ)のファンゴルで、親族の代父から朝鮮戦争期に住民の間で起こった虐殺の全貌を聞いたのだ。その現場に3歳だった本人が母親、弟と一緒にいたという衝撃的な事実も知ることになった。村の公会堂に閉じ込められた一家は「指一本」で生死が分かれる運命にあった。親族は家族単位で皆殺しにされた。この事件以後、母親は去り、1歳だった弟のミンファは死んだ。日本から帰ってきてアナーキスト活動をしていた父親は逃避生活中で、事件当時はいなかった。
 放浪を始めたホン氏は落第して学校を辞め、1969年にソウル大学文理学部の外交学科に再び進学した時には別人になっていた。演劇部の活動をしながら学生運動に没頭した。1970年の労働者チョン・テイルの死と1975年の人民革命党事件関連者8人に対する死刑執行に接し、闘争家になることを決心した。これらが南民戦に入るきっかけとなった。
 故人は昨年9月、メディアのインタビューで「理性の光を失った瞬間、私たちは人間であることを放棄することになる。孟子は惻隠の心、羞悪の心、辞譲の心、是非の心を語った。言葉を変えれば『トレランス』だ」と語った。昨年1月、ハンギョレに最後に載せられた同氏のコラムのタイトルは「最後の願い:所有から関係へ、成長から成熟へ」だった。「自然と人間、動物と人間、人間と人間の関係は成長するのではなく成熟するもの」と書いた。
 故人は昨年2月、がんの診断を受けたが抗がん治療をせずに活動を続けた。12月頃からがんが全身に広がり、京畿道一山(イルサン)の国立がんセンターとソウル中浪区(チュンラング)の緑色病院を行き来して治療を受けてきた。病状が重くなり、妻を含む家族が韓国に来て臨終を見守った。遺族は妻のパク・イルソンさん、子どものスヒョンさん、ヨンビンさん。葬儀は18~21日、ハンギョレ新聞社の社葬で行われ、葬儀場はソウル西大門区の延世大学校新村セブランス病院斎場に設けられた。告別式および出棺は21日午前8時。

コ・ギョンテ記者 (お問い合わせ japan@hani.co.kr)
韓国語原文入力:2024-04-18 21:11
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「「家族」を利用し北朝鮮に亡命させ、逮捕…北朝鮮から来たある医師の人生」

2024年04月19日 | 韓国で
「The Hankyoreh」 2024-04-18 08:24
■「家族」を利用し北朝鮮に亡命させ、逮捕…北朝鮮から来たある医師の人生
 真実和解委員会、約70年ぶりに人権侵害と決定 
 申立人の娘「亡くなる瞬間まで北朝鮮に残してきた家族のことを想っていた」

【写真】1971年、ソウル鷹岩洞の慈恵医院時代、パク・ナモブ院長が看護師たちが見守る中、4歳の末娘ユンギョンさんを抱いている=パク・ユンギョンさん提供//ハンギョレ新聞社

 韓国軍の諜報要員が北朝鮮に残してきた家族に会いたいと願う「想い」を利用して北朝鮮行きを提案し、教育訓練までさせた。指示どおり北朝鮮に渡ったが、北朝鮮の人民軍を装った韓国の諜報要員に捕まり、利敵罪で10年間服役させられた。この小説のような事件の主人公に対し、約70年ぶりに人権侵害の決定が下された。
 16日、真実・和解のための過去事整理委員会(真実和解委)は第76回全体委員会を開き、第2軍団司令部陸軍諜報特殊部隊(HID・諜報部隊)の欺瞞にだまされて北朝鮮に渡ってから逮捕された後、利敵罪で服役した故パク・ナモブさん(1918~1989)の「国防警備法違反捏造事件」に対し、真実究明決定を下し、国家に再審による名誉回復措置を勧告した。
 真実和解委はパク・ナモブさんが1954年5月20日から諜報部隊に抑留された後、同年6月3日に検挙されたと報告されるまで、諜報部隊に約2週間不法拘禁され、軍人・軍属の犯罪だけを捜査できる国軍情報機関である諜報隊がパクさんを逮捕・抑留して北朝鮮を称賛する告白書を書かせたことは、「憲兵と国軍情報機関の捜査の限界に関する法律に違反するだけでなく、職権乱用に該当し、刑事訴訟法第420条7号の再審査の理由になる」と判断した。
 パク・ナモブさんは1940年3月頃、京城医学専門学校(現ソウル大学医学部)を卒業した後、1948年1月頃、平壌(ピョンヤン)の北朝鮮中央病院内科で医師として勤務していた。朝鮮戦争が勃発すると、1950年12月、父親と叔父4人とともに南に渡った。母親と息子2人、娘1人は北朝鮮に残したままだった。その後、釜山(プサン)の内科病院で勤務したのち、1952年3月頃には春川(チュンチョン)に移住して開業した。

【写真】パク・ナモブ院長の若い頃の姿=パク・ユンギョンさん提供//ハンギョレ新聞社

 事件当時、パク・ナモブさんはいとこのKさんが春川にある陸軍諜報特殊部隊に勤めていたため、病院をよく往来した部隊の将校たちと知り合いになった。パクさんは彼らを通じて北朝鮮に残した母親と妻子の消息を知ろうとした。すると、諜報部隊の将校たちはパク・ナモブさんに直接北朝鮮に渡り妻子に会って情報も収集してくるのはどうかと提案した。パクさんはこれを受け入れ、春川から北に4キロメートル付近で数日間教育訓練を受けた。訓練を終えたパクさんは彼らの案内に従って北朝鮮に渡ったが、その後すぐに人民軍の服装の軍人に逮捕された。結局、北朝鮮に渡った動機と釜山・春川地域の軍配置および動向と大韓民国を誹謗する陳述などの告白書を提出した。数日後、彼らは人民軍ではなく、人民軍の服装をした諜報部隊員である事実を知った。諜報部隊に逮捕された場所も休戦ライン以南の地域だった。パク・ナモブさんの娘である事件申立人のパク・ユンギョンさん(56)は2022年10月、ハンギョレに寄稿した文で「父親の財産を狙った従兄弟と結託した特務隊の工作だと(父親は)訴えたが、無視された」と明らかにした。
 しかし、真実和解委の調査が行われるまでは、諜報部隊の欺瞞と緻密な罠に父親がかかった具体的な内幕は知らなかったという。真実和解委関係者はこの事件と関連し「担当調査官が2年間にわたる執拗な資料追跡で、真実を究明することができた」と説明した。同関係者は「はじめは資料が本人の判決文しかなかったが、担当調査官が戦争後に北朝鮮から韓国に渡った医師たちを取り上げた論文を検索して調べていたところ、パク・ナモブ事件のパズルを完成することができた」と語った。

【写真】生前の故パク・ナモブ慈恵医院院長=パク・ユンギョン提供//ハンギョレ新聞社

 1964年に釈放されたパク・ナモブさんは翌年、ソウル新設洞(シンソルドン)で「大洋医院」を開き、1966年にチュ・ミョンスンさんと再婚した後、ソウル鷹岩洞(ウンアムドン)に移住して慈恵医院を開院した。パクさんは獄中で縁を結んだ複数の長期囚や病院費の出せない患者を無料で診療したという。
 パク・ナモブさんは、1975年8月には北朝鮮の放送を聞いたという理由で緊急措置第9号と反共法第4条違反の疑いで治安本部に連行され、厳しい拷問の末に懲役5年、資格停止5年を言い渡され、再び投獄された。これについては、真実和解委が2022年12月、「連行および拘禁が適法でなく、調査過程で治安本部捜査官らは職務範囲を抜け出し陳述を強要・欺瞞・脅迫し、虚偽の自白をさせたことにより、事件が捏造された」として、真実究明決定を下した。
 パク・ユンギョンさんは、父親の1954年事件に関する真実究明決定直後の16日、ハンギョレの電話インタビューで、「父は北朝鮮に残してきた妻子の安否が気になっただけなのに、とんでもない事件に巻き込まれ、人生の黄金期を10年も刑務所で過ごしたことを思うと、胸が痛む。父は亡くなる瞬間まで無実なのに刑務所に入れられたことではなく、北朝鮮に残してきた家族に会えなかったことを、最後まで無念に思っていた」と述べた。

コ・ギョンテ記者 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )
韓国語原文入力:2024-04-17 21:45
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2024年春の海南島「現地調査」報告 5

2024年04月19日 | 海南島近現代史研究会
 4月3日朝8時に黄流を出発し、9時半に楽東黎族自治県尖峰鎮黒眉村の邢亜响さん(1923年生)の家に着いた。邢亜响さんは2023年10月に亡くなっていた。脳梗塞で倒れ海口の病院で2か月間闘病したが家に戻って亡くなったという。邢亜响さんは日本軍と戦ったときの弓矢や火縄銃を保管していたが、邢亜响さんの死後、風習にしたがって燃やしたという。
 生前、邢亜响さんは、
   「日本軍と何回も戦った。射って、さっと場所を変えて、射って、また場所を変えて、射った。
    自分たちの銃はよくなかった。火縄銃だ。火薬を入れて使う。銃はいまもある。弓も使った。矢じりは
   鉄だった。
    仲間は50人くらい。みんな黒眉村の人。女性もいた。女性兵士は、炊事をした。
    機関銃を持つ日本軍とたたかうのは恐くなかった。死ぬことを恐れなかった。死んでも、光栄だと思っ
   た。日本兵を殺して銃を奪った。
    7日間、連続して戦ったことがあった。戦って逃げて、戦って逃げて、戦って逃げた。歌いながら戦っ
   た。遊撃隊は、みんな歌えた。 黒眉村は、まえは老包嶺のふもとにあった。今は人は住んでいない。
    解放後、村はここに移った」
と話していた。kouniti kuromayumuraHP (hainanshi.org) 
 邢亜响さんの一男の邢福球さん(1959年生)に昔の黒眉村に案内していただいた。
 昔の黒眉村では、多くの村人が日本軍に殺されたので、1945年にいまの場所に生き残った村人すべてが移り住んだという。

 黒眉村から感恩県龍衛郷新村(現、東方市新龍鎮新村)に午後2時過ぎに着いた。
 「一九四五年三月二日龍衛新村ノ戦闘」(原題は、「元号」使用)と副題がつけられた「横鎮四特戦闘詳報第五号」が東京の防衛研究所図書室で公開されている。この文書は、横須賀鎮守府第四特別陸戦隊第二大隊第二警備中隊が作製したもので、1945年3月2日に、海南島感恩県龍衛新村を襲撃したときの「戦闘詳報」である。この「戦場ノ状況」と題する個所には、
   「海岸線ヨリ東方一粁ニ位置スルニシテ戸数約八〇戸人口約三〇〇ヲ有シ農業 ヲ主スル一寒村ナリ
    周囲ハ高サ一乃至二米巾約二米ノ潅木ニヨル二重垣ヲ以テ防壁トナシ東西南ノ三方ニ出入門ヲ有シ
   西北ノ一部ニ高サ約二米ノ石造城壁アリ」
と書かれている。日本海軍は、住民300人ほどの村を「戦場」と規定して、襲撃した。この村を襲撃したのは、横須賀鎮守府第四特別陸戦隊第二大隊第二警備中隊第七小隊長猪瀬正信(日本海軍一等機関兵曹)ら11人で、全員が「便衣」を着ていた。この11人が2組に分かれて村を襲撃したのは、1945年3月2日午前10時30分だった。
 わたしたちは1945年3月2日の66年後の3月2日12時40分に、新村を訪ねた。
 「横鎮四特戦闘詳報第五号」には、「敵ニ與ヘタル損害」として、「遺棄死体四(共産党第二支隊指揮中隊長及同軍需主任ヲ含ム)」と書かれているが、新村で聞きとりをして、その「共産党第二支隊指揮中隊長」が湯主良さんで、「共産党第二支隊軍需主任」が王文昌さんであることがわかった。
 湯主良さんの妻の張亜香さんに話を聞かせてもらうことができた。張亜香さん(1922年2月21日、農暦1月25日生)の89歳の誕生日の9日後だった。
 話を聞かせてもらった場所は、小学校の校庭の塀の内側で、その塀の向こう側には、66年前に夫の湯主良さんら4人が日本兵に包囲され爆死した地下室があった。
 張亜香さんは、静かなしっかりした口調で、当時のことをつぎのように話した。その場にいたたくさんの小学生が周りを囲んで、張亜香さんの証言をいっしょに聞いた。
   “夫は、一七歳のときに革命に参加した。ここにあった家の地下室で死んだとき、23歳だった。
   子どもは2歳半だった。わたしは18歳のときに結婚した。夫が死んだときは22歳だった。夫が死んだ
  のは、正月18日だった。
   夫は、夜、ものを運んだり、情報を伝える仕事をしていた。隊長と呼ばれていた。
   夫が、共産党の活動をしていることは知っていたが、具体的なことは、はっきりとは知らなかった。  
   夫は家にいる時間は少なかった。ほとんど家を離れていた。わたしは、夫の両親と、農作業をして暮ら
  していた。
   夫が地下室で爆死した日、日本軍が来るというので、わたしは子どもを連れて逃げていた。あの
  ころわたしも子どももほとんど家に戻らなかった。
   わたしの家では、ときどき共産党の人たちが休憩や会議をした。しかし、安全な場所ではなか
  ったので、なにかあったらすぐ隠れる地下室をつくってあった。家の中では、食事や話ができるが、急
  になにか変なことがあったら、すぐに地下室に入る。狭いが、2~3人はゆっくり入れるほどの広さだっ
  た。
   あの日、日本軍が来たとき村にいた六人のうち、文昌からきていた党員は日本軍を見て逃げた。
   愚かなことに、逃げて、地下室の方に戻ってきた。この党員を日本軍が追いかけてきた。逃げる
  ときには、絶対に自分の同志の方に行ってはならないのに……。この人は逃げるのが遅かったので、
  日本軍につかまってしまった。つかまって、少し聞かれてから、すぐに、中のことを日本軍に教えた。
   日本兵は、地下室に声を掛けたが、誰も返事をしなかった。
   地下室の天井には板がはってあってその上に土をのせて床にしていた。その床の土を掘っていくと板に
  ぶつかる。日本兵は、村人に命令して、土を掘らせた。
   その音を聞いて、地下室にいた4人は、自殺することにした。地下室から出て日本兵と銃撃戦で闘っ
  たら、あとで村民たちがひどい目にあうと判断したようだ。日本兵は、このとき平服で七~八人だったか
  ら、闘うこともできたが、4人はそうせずに、自死の道を選んだ。
   日本軍と直接戦うことをやめ、もっていた銃と手りゅう弾で地下室の中で自殺した。銃を自分に撃った
  人がいた。手榴弾を爆発させた人もいた。
   日本兵は、村人に地下室で倒れている4人を掘り出させた。
   ひとりはまだ生きていたので、村人が息をしているのが日本兵にわからないように顔を下に向けさせた。
   しかし、日本兵は顔を見て生きているのがわかったので、拳銃で頭を何発も撃って殺した。脳が砕けて  
  飛び散ったという。三人の遺体は手も足も爆弾で砕かれていた。
   日本兵は、家に火をつけてからすぐ帰った。
   朝8時ころに爆弾の音が聞こえ、煙が上がるのが見えた。わたしは、日本軍がいなくなってから、村
  に戻り、死んだ4人の遺体を見た。夫の頭に弾の穴があいており、手が無かった。
   そのあと日本兵は、2~3日ごとに村に様子を見に来た。
   隠れ家を教えた文昌出身の党員は同志を裏切ったということで、あとで共産党に処刑された”
 張亜香さんは、夫の湯主良さんらが死んだのは、正月18日だと話した。「横鎮四特戦闘詳報第五号」には、横須賀鎮守府第四特別陸戦隊第二大隊第二警備中隊第七小隊が龍衛新村を襲撃したのは、1945年3月2日であったと書かれている。1945年3月2日は、農暦では1月18日だった。
 湯主良さんの遺児の湯祥文さん(1942年生)に、湯主良さんの墓に案内してもらった。
 墓は村から一キロあまりはなれた広い墓地の中にあった。以前は、村の近くに埋葬されていたが、2006年にこの場所に改葬されたという。
 高さ二メートルあまりの墓碑に、
   「永垂不朽」
   「生于一九二一年辛酉二月二十七日辰時為人正直思想進歩一九三八年投身革命曾任
   村党支部幹事娶同村邦直公次女為妻夫妻恩愛傳男一丁女一口一九四五年正月十八日
   為掩護群衆撤退被日軍囲困寧死不屈而光栄犠牲年僅廿四歳」
と刻まれていた。

 3月2日午後3時半に東方市新龍鎮新村を離れ、5時半に東方市八所鎮新街村に着いた。わたしが新街村の倪定平さん(1936年生)にはじめて会ったのは2003年春だった。その時、新街村の日本語学校のあった場所や横須賀鎮守府第4特別陸戦隊司令部司令部のあった場所などに案内してもらった。日本語学校にかよったことのある倪定平さんは、
   「当時、生徒は160人くらいだった。1クラス40人で4クラスあった。正面に職員室があった。
    左右に教室があった。日本人教師のひとりの名は、水村定男だった。
    学校の後ろに、日本軍専用の病院があった」
と話した。 
 倪定平さんは「日本侵略期の新街小学校の生徒たち」、「新街小学校前の日本兵士と日本語教師たち」、 「新街小学校の教師たち 軍帽をかぶった日本人教師2人とかぶっていない台湾人教師2人」などの写真をもっていた(紀州鉱山の真実を明らかにする会制作『写真集 日本の海南島侵略と抗日反日闘争』(2007年2月10日発行、76頁)。
 その年11月に再会し隣村の墩頭村の漁港近くにあった横須賀鎮守府第4特別陸戦隊守備隊の望楼跡、日本軍が爆撃した学校の跡などに案内してもらった。その後なんども倪定平さんに会って新街村とその周辺での日本軍の侵略犯罪についてくわしく話していただいた。

 4月3日に家を訪ねると、倪定平さんは1年前(2023年4月20日)に新型冠状病毒肺炎で亡くなっておられた。わたしが最後に会ったのは2014年11月20日だった。一男の倪徳雲さんが“父は発病してから10日間ほど入院したが家で死んだ。肺が真っ白だった”と話した。

                                   佐藤正人
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