■「戦場」にされた地域の住民の死と日本兵の死 4
マキンとタラワで日本軍が壊滅してから2か月後、1944年1月に大本営陸軍部は、陸軍をインド北東部のインパール地域に侵入させることにした。
3月8日に、日本軍は、ビルマからインパール地域への行軍を開始したが、途上でイギリス軍の空爆を受け、食料、弾薬が欠乏し、日本軍は敗退した。
敗退の途上で、食料をもたない日本軍の兵士が餓死した。
日本軍のインパール地域への侵入ときには、インド国民軍の兵士約6000人が日本軍とともに参戦した。そのうち約2000人が戦死・餓死・病死したという。
戦死・餓死・病死した日本兵は数万人であった。
1944年6月11日にUSA軍はサイパン島への空爆を開始し、13日に艦砲射撃を開始し、15日に上陸を開始した。
7月7日にサイパン島の日本軍は壊滅した。サイパン島にいた3万人あまりの日本兵の約2万5千人が戦死し約5千人が自殺した。サイパン島にいた日本兵以外の日本人のうち約1万人が爆撃・砲撃などで殺された。自殺した人も多かった。サイパン島に先住していたチャモロ人、カナカ人の犠牲者も多かった。サイパン島に日本政府・日本軍に強制連行されていた朝鮮人も多かった。
サイパン島の日本兵を壊滅させてから半月後、7月21日にUSA軍はグアム島に上陸を開始した。
8月11日に日本軍は壊滅した。グアム島にいた約1万8千人あまりの日本兵のほとんどが死んだ。先住のチャモロ人の犠牲者も多かった。
1944年7月24日にUSA軍はテニアン島への上陸を開始した。
8月3日に日本軍は壊滅した。8000人あまりの日本兵のほとんどが死んだ。約1万5千人の日本人移民のうち約1500人が死亡したという。約3000人の朝鮮人のうち犠牲になった人も多かった。
ミッドウェー海域での大敗北の時点で、アジア太平洋全域での日本軍の敗退は決定的になっていたが、遅くても、サイパン島・グアム島・テニアン島をUSA軍が再占領した時点で、天皇ヒロヒト・日本政府・日本軍中枢は、アジア太平洋侵略戦争を中止すべきだった。
日本海軍が大津島に回天(=人間魚雷)の基地建設を始めたのは1944年9月だった。
1945年8月6日に広島に、8月9日に長崎に原子爆弾を投下したUSA軍の爆撃機が発進したのはテニアン島だった。
1975年10月31日に天皇ヒロヒトは、「原子爆弾が投下されたことに対しては遺憾に思っておりますが、こういう戦争中であることですから、どうも、広島市民に対しては気の毒であるが、やむを得ないことと私は思っております」と日本記者クラブ主催の公式記者会見で公言した。
佐藤正人
マキンとタラワで日本軍が壊滅してから2か月後、1944年1月に大本営陸軍部は、陸軍をインド北東部のインパール地域に侵入させることにした。
3月8日に、日本軍は、ビルマからインパール地域への行軍を開始したが、途上でイギリス軍の空爆を受け、食料、弾薬が欠乏し、日本軍は敗退した。
敗退の途上で、食料をもたない日本軍の兵士が餓死した。
日本軍のインパール地域への侵入ときには、インド国民軍の兵士約6000人が日本軍とともに参戦した。そのうち約2000人が戦死・餓死・病死したという。
戦死・餓死・病死した日本兵は数万人であった。
1944年6月11日にUSA軍はサイパン島への空爆を開始し、13日に艦砲射撃を開始し、15日に上陸を開始した。
7月7日にサイパン島の日本軍は壊滅した。サイパン島にいた3万人あまりの日本兵の約2万5千人が戦死し約5千人が自殺した。サイパン島にいた日本兵以外の日本人のうち約1万人が爆撃・砲撃などで殺された。自殺した人も多かった。サイパン島に先住していたチャモロ人、カナカ人の犠牲者も多かった。サイパン島に日本政府・日本軍に強制連行されていた朝鮮人も多かった。
サイパン島の日本兵を壊滅させてから半月後、7月21日にUSA軍はグアム島に上陸を開始した。
8月11日に日本軍は壊滅した。グアム島にいた約1万8千人あまりの日本兵のほとんどが死んだ。先住のチャモロ人の犠牲者も多かった。
1944年7月24日にUSA軍はテニアン島への上陸を開始した。
8月3日に日本軍は壊滅した。8000人あまりの日本兵のほとんどが死んだ。約1万5千人の日本人移民のうち約1500人が死亡したという。約3000人の朝鮮人のうち犠牲になった人も多かった。
ミッドウェー海域での大敗北の時点で、アジア太平洋全域での日本軍の敗退は決定的になっていたが、遅くても、サイパン島・グアム島・テニアン島をUSA軍が再占領した時点で、天皇ヒロヒト・日本政府・日本軍中枢は、アジア太平洋侵略戦争を中止すべきだった。
日本海軍が大津島に回天(=人間魚雷)の基地建設を始めたのは1944年9月だった。
1945年8月6日に広島に、8月9日に長崎に原子爆弾を投下したUSA軍の爆撃機が発進したのはテニアン島だった。
1975年10月31日に天皇ヒロヒトは、「原子爆弾が投下されたことに対しては遺憾に思っておりますが、こういう戦争中であることですから、どうも、広島市民に対しては気の毒であるが、やむを得ないことと私は思っております」と日本記者クラブ主催の公式記者会見で公言した。
佐藤正人