三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

碑文字(案) 碑文(案)

2008年08月31日 | 紀州鉱山
 きょう(2008年8月31日)、紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する碑を建立する会の発会式(呼びかけ団体:在日本大韓民国民団三重県地方本部、在日本朝鮮人総聯合会三重県本部、三重県日韓親善協会、紀州鉱山の真実を明らかにする会)が、三重県津市で開かれました。
 そのとき、紀州鉱山の真実を明らかにする会が、これから数か月みんなで検討して決定することを前提として提起した、碑文字と碑文の案文は、つぎのとおりです。


■碑文字(案)

  追悼
    金仁元  南而福  金鍾云  ○應龍  ○光相  千炳台
    梁四滿  ○炳南  崔俊石  金大成  春木  安勲
    ○永植  李碧收  ○正元  趙龍凡  ○天植  ○國春
    ○泰  薛秉金  梁煕生  ○鐘連  金萬壽  金學録
    梁泰承  安謹奉  南 護  安陵晟  吉興進  鄭誠○
    ○恢姫  ○泰年

      紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する碑を建立する会
                              2009年 月 日

■碑文(案)

 1940年から1945年までに、のべ1300人を超える朝鮮人が、紀州鉱山に強制連行され強制労働させられました。1940年以前にも、家族とともに紀州鉱山で働いていた朝鮮人がいました。
 紀州鉱山を経営していた石原産業は、日本占領下の海南島で、田独鉱山を経営していました。田独鉱山で強制労働させられた朝鮮人は、「朝鮮報国隊」として朝鮮各地の監獄から日本政府・日本軍によって強制連行された人たちでした。田独鉱山で亡くなった朝鮮人の数もその名も、まだわかっていません。
 田独鉱山に建てられている「田独万人坑死難砿工紀念碑」には、「朝鮮、インド、台湾、香港、および海南島各地から連行されてきた労働者がここで虐待され酷使されて死んだ」と記されています。
 紀州鉱山で、朝鮮人労働者130人は、1941年5月、米穀の増配を要求してストライキをおこないました。1944年秋には、紀州鉱山の坑口に、「朝鮮民族は日本民族たるを喜ばず。将来の朝鮮民族の発展を見よ」と、カンテラの火で焼きつけられてあったといいます。
 1942年から石原産業は、フィリピンのカランバヤンガン鉱山、アンチケ鉱山、シパライ鉱山、ピラカピス鉱山などで、日本軍とともに資源略奪を開始し、日本軍と戦って「捕虜」とされた人を含む多くのフィリピン人を強制的に働かせました。

 わたしたちは、田独鉱山で死んだ人びとを想いつつ、紀州鉱山から生きて故郷にもどることができなかったみなさんを追悼する碑を建立しました。
 この碑を基点として、わたしたちは、多くの人びとと共に、日本政府・日本軍・日本企業がアジア太平洋の各地でおおくの人の命を奪った歴史的事実を明らかにし、その責任を追究していきます。

       紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する碑を建立する会
                               2009年 月 日
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日帝強占下強制動員被害真相究明委員会から

2008年08月30日 | 紀州鉱山
     ことし3月9日にはじめて開催された紀州鉱山で亡くなった
    朝鮮人を追悼する集会に、韓国政府機関である日帝強占下
    強制動員被害真相究明委員会の全基浩委員長から紀州鉱
    山の真実を明らかにする会にメッセージが寄せられました。
     以下は、その全文と日本語訳文です。


 기슈광산의 진실을 밝히는 회 임원과 회원 여러분께 뜨거운 감사의 마음을 전합니다.
 지난 10년 동안 기슈광산에서의 조선인 강제연행, 강제노동의 진상을 규명하면서 많은 실적을 쌓았고 이번 첫 추도 모임을 계기로 희생자를 위한 추도 사업도 착수한다고 하니, 한국 정부와 국민들은 여러분께 무한한 존경의 뜻을 갖게 됩니다.

 저희 위원회는 여러분의 숭고한 뜻에 보답하는 차원에서도 기슈광산과 해남도에 관한 진상조사 활동에 더욱더 열과 성을 다하겠습니다.

 여러분의 활동에 큰 성과와 결실이 있기를 진심으로 기원합니다.
 아울러 기슈광산에서 희생된 조선인들의 명복을 빌며, 유족들에게도 위로의 말씀을 드립니다.

  2008. 3. 9
    일제강점하강제동원피해진상유명위원회 위원장 전기호


 紀州鉱山の真実を明らかにする会会員のみなさんに、篤い感謝のこころを伝えたいと思います。
 この10年間、紀州鉱山での朝鮮人強制連行・強制労働の真相を糾明しつつ、多くの実績を積み上げ、今回はじめての追悼の集いを契機に、犠牲者を追悼する作業にも着手することについて、韓国政府と国民は、みなさんに深い尊敬の気持ちを持ちます。

 委員会は、みなさんの崇高な志しに応えるためにも、紀州鉱山と海南島にかんする真相調査活動に、よりいっそう励みたいと思います。

 みなさんの活動に大きな成果と結実があることをこころから願っています。
 あわせて、紀州鉱山で犠牲になった朝鮮人の冥福を祈り、遺族にも慰労のことばを伝えたいと思います。

  2008年3月9日
     日帝強占下強制動員被害真相究明委員会委員長 全基浩
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紀州鉱山でのはじめての追悼集会

2008年08月29日 | 紀州鉱山
 わたしたちは、1996年秋から、紀州鉱山に強制連行された人びとの故郷を訪ね、存命の方からお話しを聞かせていただいていました。そして、紀州鉱山での朝鮮人強制連行・強制労働の事実をおおくのみなさんとともに明らかにしていくとともに、紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼するための何かをしたいと考えてきました。
 ようやくことし3月9日に、紀州鉱山ではじめての追悼集会をおこなうことができました。
 在日本朝鮮人総聯合会三重県本部、在日本大韓民国民団三重県地方本部、申載三さん(在日本大韓民国民団三重県地方本部伊賀支部長・伊賀コリアン協議会会長・伊賀市外国人住民協議会会長)、三重県歴史教育者協議会が後援してくれました。

 1996年から1998年にかけて江原道と慶尚北道でわたしたちは、紀州鉱山に強制連行され故郷にもどることのできた人たち15人に会いました。
 しかし、おおくの方がその後亡くなられており、ことし春、紀州鉱山の真実を明らかにする会の会員2人が韓国で会うことができたのは、平昌郡珍富面に住む尹東顕さんと龍坪面に住む金烔燮さんだけでした。

 紀州鉱山選鉱所跡前の広場での屋外追悼集会では、

 조선의 고향에서부터 갈라 놓아져 기슈광산에서 일하게 되어 돌아가신 분들.
 가족과 함께 기슈광산에 와서 죽은 어린 아이들.
 우리는 살아서 고향으로 돌아가지 못했던 여러분을 생각하면서 왜 여러분이 여기서 목슴을 잃지 않았으면 안되었던가를 밝히고 그 역사적 책임을 추궁해 나갈 것입니다.

 朝鮮の故郷から引き離され、紀州鉱山で働かされ、亡くなった人たち。
 家族とともに紀州鉱山に来て亡くなった幼い子たち。
 わたしたちは、生きて故郷に帰ることができなかったみなさんを想い、なぜ、みなさんが、ここで命を失わなければならなかったのかを明らかにし、その歴史的責任を追究していきます

という追悼辞が朝鮮語と日本語で読まれたあと、32人の犠牲者一人ひとりの名が朝鮮語で読みあげられるなか、その名を書いた紙が参加者一人ひとりによって燃やされました。

 3月8日午後と9日午前に、追悼集会参加者は、「現地調査」をおこない、朝鮮人労働者の墓石といわれている石が置かれている共同墓地、惣房・湯の口・板屋などの坑口跡、朝鮮人労働者の宿所跡、朝鮮人の遺骨が残されている本龍寺、朝鮮人犠牲者の名が記されている『紀州鉱業所物故者霊名』がある慈雲寺、鉱山資料館、紀和町指定文化財「史跡 外人墓地」などに行くとともに、惣房と板屋で当時のことを知る人に話を聞かせてもらいました。板屋に住む大畑高千穂さんは、朝鮮人の骨が埋められていた場所にわたしたちを案内してくれました。

 このはじめての追悼集会の日は、紀州鉱山で亡くなられた朝鮮人を追悼する碑の建設準備を始める日となりました。
                                   キム チョンミ
 
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2008年春 紀州鉱山に強制連行された人たちの故郷で 4

2008年08月28日 | 紀州鉱山
■10年後の慶尚北道安東で
 3月3日、龍坪からバスを乗りついで、安東に行き、午後5時過ぎに安東MBCの李貞姫記者に10年ぶりで会いました。李貞姫記者は、1998年8月18日から22日まで慶尚北道安東と軍威で紀州鉱山に強制連行された人たちをわたしたちが訪ねたとき同行取材し、つづいて8月29日から9月3日まで、『紀伊半島に隠された真実』(安東MBC制作、1998年10月放映)の担当記者として熊野市、紀和町、石原産業などで取材した記者です。
 李貞姫記者は、「10年間なにをしていたのか、なぜいま追悼集会を開くのか」、と聞くとともに、紀州鉱山の真実を明らかにする会が10年以上、活動を持続してきたことに驚き、「自分ができることをやりたい」と言いました。
 翌3月4日、カメラマンが同行して、安東MBCの取材車で、陶山面温恵洞の林聖煕さんの家に向かいました。李貞姫記者は、10年まえにたどった道をよく覚えていました。途中の道は雪景色。陶山面に近づくと、朴正煕政権時代に強引につくられたダムが見えてきました。
 温恵洞に着いて、道を歩いていた人に林聖煕さんの消息を訊ねると、2年ほどまえに亡くなった、とのこたえ。
 息子さんが、近くの老人会館にいるというので、訪ねました。
 午後9時40分から、安東MBCのニュースで、わたしたちが、陶山面温恵洞の林聖煕さんをたずねているときのこと、紀州鉱山の真実を明らかにする会がはじめての追悼集会を開こうとしていることなどが報道されました。このニュースは、翌日朝、韓国全国で放映されました。

 安東MBCが「時事ルポ」という番組で、紀州鉱山の真実を明らかにする会の活動とこんどの追悼集会をまとめて報道することになり、そのための取材の一環として、李貞姫記者が、3月6日にわたしたちに同行して、ソウルの日帝強占下強制動員被害真相究明委員会で取材しました。この委員会に紀州鉱山の真実を明らかにする会は、2005年7月9日に真相究明を申請しています。

 3月9日の紀州鉱山でのはじめての追悼集会のあと、3月14日夜、安東MBCが制作した「紀州鉱山の真実 その後10年……」と題する14分のドキュメンタリーが、放映されました。
                            佐藤正人
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2008年春 紀州鉱山に強制連行された人たちの故郷で 3

2008年08月27日 | 紀州鉱山
■10年あまりのちの平昌郡龍坪面で
 この日午後、龍坪面梨木亭里の金炯燮さんの家を訪ねましたが留守でした。
 翌3月3日、梨木亭老人会館で金炯燮さんに会うことができました。
 10年前に会ったことがあるとわたしは言うと、覚えていないという答え。紀州鉱山に連れて行かれたことがありますか、と聞いても、三重県の鉱山に行ったことはあるが、紀州鉱山には行ったことはない、とのこと。
 しかし、三重県の鉱山の宿所は、イタヤにありましたか、と聞くと、「イタヤに6か月いて、それからユノクチに行った」という答えが返ってきました。そして、“アメリカ軍捕虜がいたが、いっしょに仕事をしたことも話をしたことがない、食事は少なかった、会社から金をもらったことはない、石鹸とタバコはもらった、捕虜はタバコをもらえなかったようだ………”という証言。
 隣の部屋に、金炯燮さんのつれあいさんがいて、10年前にわたしたちが自宅を訪ねたことを覚えていてくれました。夫の金炯燮さんが日本に連れて行かれるとき妊娠していたそうです。
                                   佐藤正人
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2008年春 紀州鉱山に強制連行された人たちの故郷で 2

2008年08月26日 | 紀州鉱山
■10年あまりのちの平昌郡珍富面で
 3月2日朝、麟蹄から平昌郡珍富に向かいました。麟蹄邑から南に行って麒麟面に入るすこし手前に、38度線を示す石碑が立っていました。麟蹄邑は38度線の北にあります。麒麟面を過ぎて、高い峠をみっつ越えました。白樺の樹の多い山肌に雪が数センチ積もっていました。
 珍富のバスターミナルは、10年あまりまえと同じ建物。見覚えのある道をたどって、珍富老人会館へ。そこで尋ねると、尹東顕(ユンドンヒョン)さんがすぐ近くの教会の裏にある2階屋に住んでいるとのこと。
 途中出会った人に、ユンドンヒョンさんの家に案内してもらいました。家族といっしょに出てきた尹東顕さんと思う人に、10年あまり前に会ったことがあるものですが……と言っても覚えていないと言います。表札を見ると、尹東鉉(ユンドンヒョン)と書いてあるので人違いかと思い、日帝時代に紀州鉱山に行ったことがありますか、と聞くと、ある、との答え。
 家に入ってゆっくり話を聞かせてもらうことにしました。
 紀州鉱山の名簿では、尹東顕さんは、「平山東顕」と書かれています。生年月日も名簿と一致します。尹東鉉さんは尹東顕さんでした。
 家族はハラボジは昔のことは覚えていないと言っていましたが、話しているうちに、すこしづつ思い出してくれました。紀州鉱山ではたくさん死んだとも言っていました。
 別れる間際に、これから珍富面馬坪里に住む崔東圭さんに会いにいくつもりだというと、「崔東圭は2年前に死んだ、いま生きているのは自分だけだ、崔東圭とは行くときもいっしょ、帰るときもいっしょだった」と尹東顕さんは言いました。
 尹東顕さんの家をでて、再び老人会館に行って、金炯儀さんの消息をたずねると、10年ほど前に亡くなったと言われました。
                                    佐藤正人
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2008年春 紀州鉱山に強制連行された人たちの故郷で 1

2008年08月25日 | 紀州鉱山
■10年あまりのちの麟蹄郡麟蹄邑と麒麟面で
 韓国江原道の雪嶽山山系から流れる麟北川と北川が、五台山山系から流れる昭陽川に合流するところに、麟蹄郡の中心、麟蹄邑があります。
 そこに2008年2月29日に着きました。1996年10月につづいて、1997年5月に再訪していらい10年7か月あまりが経っていました。
新築されたばかりのバスターミナルをぬけて通りにでると、見覚えのある坂道がありました。
 その緩やかな坂道をのぼって麟蹄郡庁に行き、10年あまり前に会った金興龍さんと金石煥さんの消息を尋ねました。金興龍さんは2006年4月13日に、金石煥さんは2003年6月11日に亡くなられたとのことでした。紀州鉱山に強制連行された金興龍さんと金石煥さんの証言の一部は、紀州鉱山の真実を明らかにする会「紀州鉱山への朝鮮人強制連行」(『在日朝鮮人史研究』27号、1997年)に記載してあります。
 1996年と1997年に麟蹄郡麒麟面では、安浩烈さんが熱心に協力してくれました。
その安浩烈さんが麟蹄郡自治行政課長になって麟蹄庁にいました。10年あまりたっての再会でした。
 安浩烈さんはさっそく鍵のついた引き出しをあけ、1996年11月30日の日付のあるわたしの礼状をとりだしました。そこには、安浩烈さんと紀州鉱山に強制連行された丁榮さんとが、丁榮さんの自宅のソファに並んで座っているカラー写真が同封されていました。この写真は、『パトローネ』28号(1997年1月)に掲載されています。
 安浩烈さんは、丁榮さん(本名は丁泰順、朝鮮戦争後に丁榮に改名)も孫玉鉉さんも亡くなったといいました。
 安浩烈さんに、麟蹄郡内の紀州鉱山に強制連行された人の消息をくわしく調べてもらうことにしました。
 翌日は3月1日でした。
 午後1時過ぎ、安浩烈さんから、
    「生存者は見つからなかったが、きょうの3・1記念集会で丁
   榮さんの息子さんに会った。いま郡庁にいっしょに来ている」
と電話がありました。
 さっそく麟蹄郡庁に行って丁榮さんの息子さんの丁炳碩さんに話を聞かせてもらったあと、いっしょに麒麟面に行きました。
 麒麟面で、丁榮さんと社会福祉法人麒麟院理事の鄭益洙さんに、紀州鉱山に強制連行れた人たちの消息をたずねてもらいまいしたが、健在の方はおられないようでした。
 11年半ぶりで訪ねた丁榮さんの家の居間に、遺影が置かれてありました。
                                  佐藤正人
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国民国家日本の他国他地域侵略:その過去と現在 8

2008年08月24日 | 集会
■おわりに 日本民衆の課題
 国民国家日本の領土拡大と、天皇制の維持・強化は相関していた。
 天皇制を廃絶しないかぎり、日本民衆は、現在の日本の他地域他国侵略構造を破壊できない。
 日本の政治・経済・社会・文化構造を変革することなしに、日本民衆は、日本の他国他地域侵略を阻止することはできない。天皇制が残されているかぎり、日本民衆は、他地域他国侵略の思想・意識を克服できない。
 日本人近現代史研究者のもっとも重要な課題は、日本の侵略の事実を細部にいたるまで明らかにすることである。だが、日本人研究者のおおくは、この課題を中心としてこなかった。
 1990年代のはじめから、在日朝鮮人金静美は、くりかえし、国民国家日本の侵略の時代が続いている事実をくわしく分析・叙述し、侵略構造のなかの「共生」ではなく、天皇制のもとに構築されてきた国民国家日本の侵略構造を破壊する共闘をよびかけている。
 アジア太平洋各地で民衆殺戮・暴行・略奪をくりかえした日本人兵士たちは、日本にもどってからは侵略地での犯罪を隠し平和にくらし続けた。最悪の侵略犯罪者ヒロヒトは、死ぬ時まで「天皇」であり続けた。
 日本では、ヒロヒトのアジア民衆虐殺の責任追求はなされず、ヒロヒトの死後、天皇となったアキヒトは、その父親のヒロヒトが世界の平和を願っていたかのように宣伝した。
 1895年の台湾植民地化に反対した日本人は、ほとんどいなかった。
 1905年の大韓帝国植民地化に反対した日本人は、ほとんどいなかった。
 1939年の海南島占領に反対した日本人は、ほとんどいなかった。
 いまも、国民国家日本の独島再占領策動、「北方四島返還」策動、魚釣島占領に反対する日本人は多くない。
 日本民衆は、天皇制を廃止し、日本の侵略の構造をうちくだき、他国の民衆から収奪することをやめないならば、アジアの民衆と連帯することはできない。
 過去の侵略の事実を明らかにし、たたかいの勝利と敗北を総括し、日本帝国主義者の策動にひとつひとつ対抗していくたたかいの拠点を確実なものとしていくことが、現在のわたしたち日本民衆の課題である。

■参照
 金静美「東アジアにおける反日・抗日闘争の世界史的脈絡」、『中国東北部における抗日朝鮮・中国民衆史序説』第一編、現代企画室、1992年。
 金静美「侵略の時代をおわらせるために」、『水平運動史研究――民族差別批判――』序章、現代企画室、1994年。
 金静美「東アジアにおけるインターナショナリズムの歴史」、「侵略の構造を破壊するために」、『故郷の世界史――解放のインターナショナリズムへ――』第1章、第3章、現代企画室、1996年)。
 金靜美「일본점령하 중국 海南島에서의 강제노동 ―-강제연행・강제노동 역사의 총체적 파악을 위해―-」、朴慶植先生追悼論文集『近現代韓日関係와 在日同胞』、서울大学校出版部、1999年8月。
 金靜美「日帝期 強制連行問題에 관하여」、『各国의 歴史教科書에 비친 過去清算問題』国際教科書研究所、2000年5月。
 佐藤正人「国民国家日本의 独島占領」、『世界化時代의 歴史学과 歴史教科書』国際教科書研究所、1996年10月。
 佐藤正人「世界近現代史에 있어서의 独島」、『独島領有権問題와 海洋主権의 再検討』独島学会、1998年4月。
 佐藤正人「三重県紀和町の紀州鉱山に強制連行された朝鮮人の跡をたずねて」、『パトローネ』28号、写真の会パトローネ、1997年1月。
 佐藤正人「日本の海南島侵略と強制連行・強制労働」、第9回朝鮮人・中国人強制連行・強制労働を考える交流集会実行委員会編刊『報告集』、1999年4月。
 佐藤正人「国民国家日本의 領土와 周辺”」、朴慶植先生追悼論文集『近現代韓日関係와 在日同胞』、서울大学校出版部、1999年8月。
 佐藤正人「オタル市近郊の鉱山への朝鮮人・中国人強制連行」、『パトローネ』47号、2001年10月。
 佐藤正人「日本占領下 海南島에 있어서의 朝鮮人虐殺 ――아시아民衆共同의 東아시아近現代史認識을 향하여――」、『亜細亜諸国의 歴史教科書에 비친 抗日運動』国際教科書研究所、2001年12月。
 佐藤正人「パレスチナ解放への道、アイヌモシリ解放への道」、『情況』情況出版、2003年4月。
 佐藤正人「海南島에서의 日本政府・日本軍・日本企業의 侵略犯罪調査」、独立紀念館『일제하 국외 한인피해 실태조사보고서 1 중국 해남도지역 』、2005年4月。
 佐藤正人「日本の独島再占領を許さない日本民衆の運動を!」、『パトローネ』62号、2005年7月。
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国民国家日本の他国他地域侵略:その過去と現在 7

2008年08月23日 | 集会
■7 歴史認識と民衆運動:日本の民衆運動の可能性
 歴史認識は行動を規定し、行動は歴史認識に規定される。
 独島の日本再占領を許さない日本民衆の運動は、「北方四島」の日本再占領を許さない運動(アイヌモシリをアイヌ民族にとりもどす運動)とともに、日本ナショナリズムと対決し、日本のあらたな侵略の時代に対抗する民衆運動である。
 日本民衆が、いま、日本国家の独島再占領を許すことは、国民国家日本の過去・現在・未来の他地域他国侵略を肯定・支持することである。
 1860年代末から、アイヌモシリ、ウルマネシア、台湾、朝鮮侵略の過程で、日本の政治権力者たちは、天皇制を強化し、民衆支配と侵略の政治的・経済的・社会的・文化的構造をつくっていった。
 他地域他国の民衆の大地と資源といのちを奪って経済を発展させた国民国家日本の歴史的国家犯罪は、いまだわずかしか解明されていない。
 それは、日本政府がその国家犯罪の歴史を明らかにしようとしてこなかっただけでなく、国家犯罪を隠蔽してきたからであり、その歴史を明らかにしようとする日本人が少ないからである。
 国民国家日本が台湾や朝鮮を植民地としていた時代、日本国民は、台湾や朝鮮を日本の領土としていることを当然のこととしていた。そのような歴史認識は、アジア民衆の歴史認識と対立するものである。
 日本人にとって、アジア太平洋戦争敗戦は歴史的画期ではなかった。
 1945年の敗戦後も、日本民衆のおおくは、侵略の歴史を終らせようとしておらず、天皇(制)を存続させ、抑圧民族として過去と現在の侵略によって日常生活を維持・向上させている。
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国民国家日本の他国他地域侵略:その過去と現在 6

2008年08月22日 | 集会
■6 現在の問題
 日本天皇ヒロヒトは、日本軍の最高司令官として日本のアジア太平洋侵略戦争を主導した。日本軍兵士による大量殺戮の最悪の責任者は、ヒロヒトである。
 しかし、殺戮の責任はヒロヒトやA級戦犯だけにあるのではない。日本軍兵士は、あるときは信念、確信をもって、あるいはときに上官に強制されて、アジア太平洋の民衆に襲いかかった。
 侵略戦争のときの民衆殺戮には、それを命令したものだけでなく、個々の直接の殺戮者もその責任をとらなくてはならない。だが、日本敗戦後、帰国した日本軍兵士のほとんどは、自己の民衆殺傷・暴行・略奪の過去を隠しつづけ、その責任をとろうとせず、平和にくらしつづけた。

 アイヌモシリにたいする日本の植民地支配はいまも続けられている。だが、いま日本人のほとんどは、日本がアイヌモシリを植民地支配しつづけているという明白な歴史的事実を直視していない。
 ヨーロッパ帝国主義諸国でもアメリカ合州国でも日本でも、「国民」のほとんどが、植民地支配の歴史的責任をとろうとしていない。植民地での暴虐は現在の問題である。
 日本民衆は、アイヌモシリは北方諸民族の大地であって、日本の領土ではないという歴史的事実をみずから確認するとともに、日本政府に、アイヌを先住民族と認めさせ、アイヌにたいする歴史的犯罪に謝罪し、賠償させなければならない。
 日本政府は1981年に、2月7日を「北方領土の日」とすることを閣議決定した。クナシリ・エトロフ・ハボマイ・シコタンを再び日本の植民地としようとする国民国家日本の官民の「北方領土返還運動」は、北方諸民族にたいする根本的な民族差別運動であり、日本ナショナリズムを強化する運動である。
 日本の独島再占領策動および「北方領土返還」策動は、領土を拡大し国境線(および経済水域)を押し広げようとする日本の現在の他国他地域侵略策動の一環である。
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