三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

ドキュメンタリー『海南島月塘村虐殺』 2

2007年07月31日 | ドキュメンタリー『海南島月塘村虐殺』
Ⅱ、証言  
  映像:朱学平さん(自宅で、殺戮現場で、月塘村の道で、畑に向かう道で、畑で)
  テロップ:朱学平さん(1933年生)
  ナレーション:
      朱学平(ジュ・シュエピン Zhu-Xueping)さんは、
        「わたしは、12歳だった。朝はやく、日本兵がとつぜん家に入ってきて、な
       にも言わないで、殺しはじめた。10人家族のうち、わたしだけが生き残った。
        父、母、兄2人、姉、叔母2人、いとこ2人、そして6歳だった妹の朱彩蓮
       (ジュ・ツァイリェン Zhu-Cailian)が殺された。
        わたしは、柱のかげに倒れるようにして隠れて助かった。妹は腹を切られて
       腸がとびだしていたが、まだ生きていた。こわかった。 
        血だらけの妹を抱いて逃げた。途中なんども妹が息をしているかどうか確か
       めた。激しい雨が降った。村はずれに隠れた。妹は瀕死だったが、3日ほど生
       きていた。
        半月ほどたって家に戻ってみたら家は焼かれていた。遺体も火にあっていた
       が、骨になりきっておらず、くさっていた。
        まもなく、日本軍の手先になっていた者たちが万寧から来て、遺体を近くに運
       んで埋めた。父の朱開陵(ジュ・カイリン Zhu-Kailing)は52歳、母の呉洋尾
       (ウ・ヤンウェイ Wu-Yangwei)は50歳だった」
     と話しました。
  影像:畑からの帰り道、クワをかついで遺骨が埋められたと思われる場所に近づく朱学平さ
    ん
  影像:遺骨が埋められたと思われる場所をしめす朱学平さん
  テロップ:遺骨が埋められたと思われる場所をしめす朱学平さん
  ナレーション:
       朱学平さんは、「日本軍が負けていなくなってから、遺骨を探した。遺骨が埋め
      られたと思われる場所をなんども掘って探したが見つからなかった。焼けた骨は土
      のなかで砕けてしまったのだと思う」と話しました。
  映像:朱学平さんのむかしの家の跡
  テロップ:日本軍が襲撃した朱学平さんの家の土台石
  テロップ:むかしの家の門の跡を示す朱学平さん
  影像:その向かいの家の跡 土台石が残っているだけ
  テロップ:朱学平さん家の向かいの家の跡 土台石が残っているだけ
  ナレーション:この家では7人家族全員が殺されたそうです。

  映像:朱建華さん
  テロップ:自宅の中庭で話す朱建華さん(1944年生)
  ナレーション:朱建華(ジュ・ジェンホァ Zhu-Jianhua)さんは、当時、生後8か月で、
        お母さんが抱いてかばってくれたそうです。
         お母さんも朱建華さんも刺されながらも命を奪われませんでしたが、4歳の
        兄は刺され、即死したそうです。
         このとき、叔父さん4人と、叔母さん2人も殺されました。その叔父さんの
        1人は、日本刀で腹を刺され、のどが渇いて水を飲んだら、腸がとびだしたそ
        うです。
  影像:日本軍に刺された数か所の傷跡を示す朱建華さん

  映像:朱光清さん
  テロップ:日本軍が襲った家の跡で証言する朱光清さん(1934年生)
  ナレーション:朱光清(ジュ・グァンチン Zhu-Guangqing)さんの家を日本軍が襲ったと
        き、まだ、陽はのぼっていなかったといいます。
         その家のあった場所で、朱光清さんは、
           「とつぜん日本兵が家に入ってきたとき、わたしは母といっしょだっ
           た。
            お辞儀をしている母を日本兵は日本刀で切った。倒れた母を日本兵は
           なんども刺して殺した。
            わたしは、おなかの右下を刺された。血まみれになり、腸がとびで
           た。手でおさえて逃げるとき、右足を切りつけられた。血がいつまでも
           止まらなかった。日本刀で5か所切られていた。
            殺されてとき母は、43歳だった。
           父は日本軍がくる前に死んでいたので、両親がいなくなった」
         と話しました。
  映像:腹部の深い傷跡、右足首上部の細長い傷跡を示す朱光清さん
  影像:母が殺された場所を示す朱光清さん
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ドキュメンタリー『海南島月塘村虐殺』 1

2007年07月30日 | ドキュメンタリー『海南島月塘村虐殺』
          8月5日の海南島近現代史研究会創立集会が近づいてきました。
          集会当日上映するドキュメンタリー『月塘村惨案』日本語暫定版をいま
         制作中ですが、その構成はつぎのとおりです。

タイトル:海南島月塘村虐殺     
 Ⅰ、月塘村
 Ⅱ、証言           
 Ⅲ、要求日本国政府賠償請願書 
 Ⅳ、戦犯を「象徴」とする日本国で 
 Ⅴ、海南島における日本軍の住民虐殺 
 Ⅵ、月塘村追悼碑       
 Ⅶ、要求索賠     
 エンディング

タイトル:『月塘村惨案』                        
Ⅰ、月塘村
  映像:月塘村への道
  テロップ:月塘村への道
  ナレーション:1945年5月2日の明け方、まだ暗いうちに、日本軍は、この道を通って月塘
       (ユエタン)村に侵入してきました。
  影像:月塘
  テロップ:月塘
  ナレーション:むかしは、月塘(ユエタン)村の中心は、月のかたちをしているこの大きな
       池のそばにありました。
  映像:アジア太平洋地図→海南島地図→月塘村
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呂且鳳(ヨチャボン)さん 2

2007年07月29日 | 「朝鮮報国隊」
 呂且鳳さんが入れられた第7次「朝鮮報国隊」の中隊長(第7次として海南島に送られた「南方派遣報国隊」中隊の総責任者)衣笠一氏は、呂且鳳さんと同じ1913年生まれでした。

 衣笠一氏は、1946年3月に海南島から日本に戻ったあと、広島などの刑務所に勤務し、60歳で定年退職して岡山に家を建て、司法書士の免許をとって仕事を自宅でやり、80歳をすぎてから、『海南島派遣の朝鮮報国隊始末記――忘れられた殉職刑務官と異境に眠る隊員――』を発表し、2001年から「自分史」を書き始め、2004年ころ病死しました。
 朝鮮総督府の用紙に書かれている「第七次南方派遣職員編成表」には、看守長衣笠一氏のほか39人の看守と1人の「監丁」の名が書かれています。「第七次南方派遣職員編成表」の写真は、紀州鉱山の真実を明らかにする会が制作した写真集『日本の海南島侵略と抗日反日闘争』(2007年2月10日発行)に収録してあります。
 第7次「朝鮮報国隊」は、5小隊に分けられており、呂且鳳さんは、このうちのどこかに入れられていたと思われます。衣笠一氏の「自分史」には、各小隊の隊員は70人で、5人の小隊長のうち2人が朝鮮人であったと書かれています。
 呂且鳳さんは、海南島で飛行場建設をやらされたと証言していましたが、その飛行場は陵水飛行場であったと思われます。
 衣笠一氏の「自分史」には、つぎのように書かれています。
    「陵水は海南島のほぼ中部の東海岸にあって、ここに海軍は飛行場を建設するため、陵
   水工事事務所を設け、工事をしていた。工事を実際に行う労働者は台湾から徴用した工員
   が主体であった。その員数などは知り得なかった。私の第七中隊は、隊員、職員のすべて
   が陵水作業場に配置され、既に作業に就いていた部隊と合せて隊員は総数八百名になっ
   た。
    我々の朝鮮からの受刑者の一団は現地では朝鮮報国隊、又は朝報隊と呼ばれてい
   た」。
                                                  佐藤正人
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ヨ・チャボン老人(その5)

2007年07月28日 | 海南島からの朝鮮人帰還
すさまじい責め苦をくぐりぬけてヨ老人が生き残ったのは、仲間が食べ物をコッソリ運んで救ってくれたからでした。それともう一つ、過酷な労働やマラリアの感染から離れた場所で殴られ続けたからでした。そうして、そのうち日本の敗戦を知りました。日本が負けたと知った時、どう感じましたかと尋ねると「気分が良かった」と答えました。その後は山などをさ迷いながら食べ物を探したり、仕事を求めたりしました。ヨ老人は左官の腕があったのです。しかし不自由になった体では思うように仕事が出来ず苦労しました。日本の敗戦から3ヵ月後、生き残った仲間7人と一緒に故国に戻ることが出来ました。釜山の港で下船したとき初めて3円もらいました。ヨ老人は幼い頃、御両親を亡くされたそうですが、帰国後、結婚なさって娘さん2人に恵まれました。「海南島での出来事はその後の半生に大きなハンディとなったのじゃないですか?」と尋ねてみました。「苦労なんてもんじゃない。どんなに大変で苦しかったか、口では言い表せないよ。今でも体が不自由で、痛くてたまらないよ。いつも市場の中にある鍼灸医院に通っているよ」と言われました。お気の毒で返す言葉が見つかりませんでした。  記録者 崔文子
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ヨ・チャボン老人(その4)

2007年07月27日 | 海南島からの朝鮮人帰還
暑さと疲労と飢えのため多くの朝鮮人が死んでいく中でヨ老人は耐えました。それは当時74キロもあったという恵まれた体格と、それからマラリアを恐れて決して生水を飲まなかったからです。今でも一度沸騰させたお水しか飲まない習慣が身についているそうです。飛行場建設(前回まちがって飛行場掃除と書きました)で働く報酬は月給3円と聞いていましたが、一度も給料は支払われませんでした。そんなある時、ヨ老人は空腹のあまり米を盗みました。しかし、それが見つかってしまい、3人の日本兵による地獄の責め苦、リンチが繰り返されます。日本兵達は3ヶ月間、毎日こん棒で叩きながら「殺してやる」「死ぬまで叩いてやる」と言いました。3人はいずれも50代から60代、ヨ老人は当時を語りながら「あいつらは人間じゃなかった。人を殺そうとしたんだから」と言いました。リンチが繰り返されて身動きが出来ない体となり、大小便も垂れ流しのまま3ヶ月を耐えました。恐る恐る私が垂れ下がった唇のことを尋ねると、勿論そのときに殴られて変形したと答えました。口だけでなく頭部もグニャグニャにされ出血もおびただしかったそうです。              記録者 崔文子
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ヨ・チャボン老人(その3)

2007年07月26日 | 海南島からの朝鮮人帰還
小倉に着いた朝鮮人たちは小倉の刑務所で2日間を過ごし、それから八幡港に入って3日間留め置かれ、その後、台湾に寄って、2週間かけて中国の「海南島」に着きました。ヨ老人は海南島に連行された最後の朝鮮報国隊で第七次であったた言われましたが、記録では第八次まであったようです。海南島のどこに着いたのか、収容所がどこにあったのか、地名は記憶がないそうです。収容所での暮らしは7人が一つの幕舎に入れられ、早朝5時から点呼によって1日が始まりました。仕事は飛行場の掃除でしたが、暑さとマラリアと食料不足で朝鮮人達は次々と死んでいきました。海南島にいた日本軍人達は残酷で凶暴でたちのわるいのが送り込まれていました。朝、点呼の時、名前を呼ばれてトラックで連れて行かれた朝鮮人は、どこでどうなったのか二度と戻ってきませんでした。忘れられない光景があると言って話されたことですが、ある朝、いつものように飛行場の掃除に行くため、列を作って山道を歩いていたら、向こうの方に何か恐ろしい気配を感じて注意して見た。それは座ったまま木にくくりつけられている人間だった。その人間は油をかけて焼かれ遺体になっていた。腸が全部、前に流れ出ていた。       記録者 崔文子
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ヨ・チャボン老人(その2)

2007年07月25日 | 海南島からの朝鮮人帰還
 どんな風に話しかけようかと緊張し、あれこれ言葉を捜していましたが、ヨ老人は事務所の人から私たちの身元や目的をすでに聞いてくださってたのか、ご自分から話す姿勢を見せてくださり、聞き取りはスムーズに始まりました。但し変形した口のせいでヨ老人の言葉に慣れるのに汗をかきました。まず、なぜ海南島に行くこととなったのか伺いました。60年ほど前の夏のことだとヨ老人はおっしゃいます。私の手元の資料では1944年6月の事です。些細な喧嘩から光州の刑務所に入っていたヨ老人は、あと少しで刑期が終わるというある日、日本軍人(或は日本人看守なのか記憶がはっきりしません)から海南島に行くように説得されます。たくさんお金が貰えるからと言われたそうですが、ヨ老人は「もうすぐ出獄の日が来るし、そうしたらすぐ家に帰るつもりだから海南島には行かない」と断ったそうです。すると独房に閉じ込められて承諾するまで出さないと言われました。選択の余地も何も無く、無理やり海南島に行くしかなかったということです。この光州刑務所からはヨ老人を含めて5人の朝鮮人が連行されました。5人は光州から釜山に着き釜山港から船に乗りました。船には3000人くらい乗って居て、一般の乗客でない囚人たちは船底に、そして女性たち慰安婦も居たようだったが、別々の船底だったのでしっかり見ることは出来なかったそうです。船はまず日本に向かい九州の小倉に着きました。             記録者 崔文子
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ヨ・チャボン老人(その1)

2007年07月24日 | 海南島からの朝鮮人帰還
 7月17日早朝、伊賀を出発した私は、正午に韓国ソウルのインチョン空港に到着しました。そして空港からそのまま地下鉄を利用して、インチョン市内の老人施設永楽園に向かいました。あの地獄の「海南島」から生還なさった、ごくわずかな生き証人の一人であるヨ・チャボン老人をたずねるためです。94歳という御高齢なので一刻も早くお話をうかがいたいと焦りました。昨日から訪韓している佐藤さんと途中で落ち合って、二人で施設に行ってみると、ご老人は昼食を済まされた後、市場に出掛けられたと聞き、お元気なんだと安心しました。お帰りを待つ間、私たちも食堂を探して昼食を食べながら、質問事項の打ち合わせをしました。再び永楽園に行って見ると、戻られたということで部屋に案内されました。三人部屋のオンドルパンの窓際に布団を敷いて、ヨ老人は座っていらっしゃいました。その顔を一目見て私は少し驚きました。口の右側が大きく垂れ下がっていたからです。話す時も食べる時もこれでは不自由なのではないかと思いました。垂れた口の端からはよだれが、しょっちゅう流れていました。            崔文子
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呂且鳳(ヨチャボン)さん 1

2007年07月23日 | 「朝鮮報国隊」
 7月17日と20日に、韓国仁川で、呂且鳳さんから話を聞かせてもらいました。
呂且鳳さんは、1913年生まれで、まもなく94歳になりますが、しっかりとした力強い口調で話してくれました。2日間、4時間あまりにわたる呂且鳳さんの証言は、つぎのとおりです。

 「わたしは、光州刑務所に入れられていた。3年の刑期がまもなく終わるころ、突然、朝鮮を出てどこかに働きに行けと言われた。
 わたしは、もうすぐ出獄できるのだから行きたくないと言って監房をでようとせず、食事を拒否して抵抗したが、むりやり行かされた。はじめはどこに行かされるのか分からなかったが、朝鮮人看守がそっと行き先は海南島だと教えてくれた。だが、海南島がどこにあるのか、どんなところなのかは、わからなかった。
 第7次「朝鮮報国隊」だった。第7次というのははっきり覚えている。光州刑務所からソウルの刑務所に移され、そこから釜山に行かされた。1944年だったと思うが、よく覚えていない。季節は夏ではなかった。履物はチカタビだった。
 釜山からコクラ刑務所につれていかれ、ヤハタから船にのせられて海南島に向かった」。

 第7次「朝鮮報国隊」の中隊長であった衣笠一氏の『海南島派遣の朝鮮報国隊始末記』や『自分史』には、第7次「朝鮮報国隊」が編成されたのは、1943年11月であったと書かれています。
                                 佐藤正人
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「‘南方派遣報国隊’真相調査報告書」批判 2

2007年07月16日 | 「朝鮮報国隊」
■理由3
 孟康鉉調査官は、紀州鉱山の真実を明らかにする会が「申請趣旨」に書いた項目を、自ら独自に設定した「調査目標」や「今後の課題」であるかのようにしている。

■理由4
 孟康鉉調査官報告書で、紀州鉱山の真実を明らかにする会にかんして記述されている内容は、事実ではない。
  「報告書」の作成者は、「6-2、遺骸処理問題」で、「……この会社の依頼を受けて、2001年月11日から2月11日まで、忠北大学校遺骨発掘センター、および紀州鉱山の真実を明らかにする会が発掘に参与し……」としているが、これはまちがいである。
  「報告書」の作成者がこのように書いた根拠をしめすことを要求する。
 このことについて、紀州鉱山の真実を明らかにする会は、日帝強占下強制動員被害真相究明委員会の海南島調査官であり、この「報告書」の作成者であるという孟康鉉氏から、いちども問い合わせを受けていない。

■日本政府と日本軍の犯罪を隠蔽してはならない
  孟康鉉調査官報告書の末部「6-2、遺骸処理問題」に、
    「真相調査問題で、この千人坑にたいする発掘調査がすぐに真相への接近を意味する
   のではなく、犠牲者を慰労する追悼施設を建てる前段階としての意味を持つことができ
   る」(64頁)
 と書かれている。
  「朝鮮村」は、日本軍の犯罪現場であり、その犯罪の被害者である朝鮮人がいまも埋められて
 いるところである。
  日本政府、日本軍、日本企業は、19世紀末から、アイヌモシリをはじめとして、東アジア、
 アジア太平洋地域で、地域住民に深刻な被害を与えつつ、国民国家としての基礎をつくりあげ
 てきた。現在、その日本政府、日本軍、日本企業の犯罪現場が、ほとんどそのままの状態で残
 っているところは、「朝鮮村」以外にはほとんどない。
  「朝鮮村」を、ただ‘追悼施設’を建立するために遺骨を収集するというやりかたで発掘する
 のは、日本軍の犯罪現場と物証を破壊することであり、その犯罪を一番よく‘証言’すること
 ができる犠牲者の遺骨を破壊することであり、日本政府と日本軍の犯罪を隠蔽してしまうこと
 になるだろう。
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