三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

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フィリピンにおける石原産業 13

2010年07月31日 | 紀州鉱山
 石原産業は、フィリピンのパナイ島でアンチケ銅山のほかにカピス州ビラ郡ビラ町にあるビラカピス銅山の資源も略奪していました。アンチケ銅山鉱山長であった山崎英雄氏がまとめた『石原産業株式会社比島勤務者記録』に、ビラカピス銅山にいた須藤貞雄氏の「比島ビラ-カピス鉱山の休山退去の状況」が掲載されています。そこで、須藤氏は、つぎのように述べています。
                                            佐藤正人

     フィリピンの日本軍にとつて狙撃の上手な現地ゲリラ隊は厄介な存在であつた。
     1944年には各地に於いてゲリラ討伐が行われていたが、戦局は連合軍に制空権をほぼ握られ、巧妙なゲリラ
    隊の行動をおさえることが出来ず、鉱石の輸送も途絶えがちの状況であつた。1944年秋頃にはその間隙をねら
    つて南方に出撃する日本軍の飛行機編隊が鉱山上空を通過するのを拍手で見送り無事を祈つていたが、帰還す
    る機影がみられず、何となく不安な念を禁じ得なかつた状況が続いた(原文は「元号」使用)。
     現地警備隊の無線交信は軍と会社が共通に使用されていたが電波妨害が屡々あり又カピス近くの入江には
    米軍の潜水艦基地があるとの情報もあり、無線は傍受され日本軍の行動は探知されているらしいとの噂もきか
    れた。
     この様な環境下で10月以降は米軍の来攻に力を得た地元ゲリラ隊が鉱山を包囲し、鉱石搬出道路は遮断さ
    れて襲撃態勢をとつているとの情報が入り、事務所宿舎、倉庫など主な建物の周りには丸太、土のおを積んで
    銃撃に備え、社員は銃、刀剣を持つて着衣のまま就寝、交替で不寝番に立つて警戒に当つた。
     明け方、夕方には襲撃をうけて警備隊の援護下で応戦し、暫くの間、小ぜり合いが続き昼間は交替で警備しな
    がら仕事を続けていたが作業は進捗せず、双方対峙したまま数日を過した。
     10月中旬過ぎる頃、一時休山の指令をうけて、書類の整理処分、機械類の取りはずし、燃料油はドラム缶ごと
    土中に埋め、飲食料、衣類の一部を現地従業員家族に配給などして、いつ狙撃されるかわからない不安と緊張
    裡に、ゲリラ隊包囲の中で目立たないように引揚げ準備が進行された。……
     或日深夜にゲリラ隊の包囲網が手薄になつたとの情報をつかみ急拠山元を撤退することになり、各自両手に持
    てるだけの大きさで身廻品2個ときめ、重要書類と共に2台のトラックに分乗して闇に乗じて退去した。……
     漸く海岸線に到着し、全員無事を確認して椰子林の中で迎えに来る予定の船を待つた。……
     漸くイロイロ港に入港して全員無事にイロイロ支店に到着した。
     同じく休山命令をうけてイロイロに引揚げて来たシパライ鉱山の従業員と共に宿舎に分宿して、イロイロ支店長
    の指示に従い」残務整理をしていたが12月の暮も押し迫つた時に在留邦人男子全員が現地召集をうけ、パナ
    イ島警備隊に入隊した。
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フィリピンにおける石原産業 12

2010年07月30日 | 紀州鉱山
 ここに連載中の「フィリピンにおける石原産業」の1、2,3で触れましたが、フィリピン侵略日本陸軍の人見報道隊が「「パナイ」島「アンチケ」州「サンホセ」附近一般民情ニ就テ」を出したには、1942年12月20日であり、「「パナイ」島「サンホセ」附近ニ於ケル石原産業ヲ中心トセル一般比人ノ対日感情ノ現況ト対策」と題する文書を、石原産業アンチケ鉱山長あてに「比人労働者取扱上ノ参考資料トシテ送付」したのは12月23日でした。
 それは、アンチケ鉱山附近で、石原産業「従業員」14人が死んでから3か月後のことでした。
 抗日反日武装組織による攻撃後も、石原産業はアンチケ銅山からの資源略奪を続けました。
 その際、石原産業の日本人は、フィリピン人にたいして「場合ニ依テハ拳銃ヲ擬シテ恐迫シ拉致同様ニ引致」して働かせ、休日を廃止し、休憩時間を短縮しました。石原産業の日本人は、フィリピン人にたいし「平手打」などの暴行をおこない、鶏や野菜などを「騙取掠奪」しました。アンチケ鉱山の石原産業の日本人は拳銃などの武器をもっていましたが、このような武器を民間人が持ち使用することは日本軍の承認なしにはできないことでした。
 人見報道隊(隊長、人見潤介陸軍大尉)は、「一部ニ於テ実施セラレタル労働者強制徴発ニ依リ一部比人ハ拉致同様ニ引致セラレ強制労働ニ服サシメラレ且兵器ヲ以テ恐迫セラルヽ事シバシバナリ」と報告し、それが石原産業の「下級日本人」によるものであると「批判」していますが、このような暴行・略奪は、フィリピンでだけでなく日本軍が侵入したアジア太平洋の各地で日本兵がおこなっていたことでした。
 三井鉱山は、日本軍のフィリピン侵入3か月後の1942年3月から、ルソン島のマンカヤン銅山の資源略奪を開始しました。『大阪朝日新聞』(1942年3月27日)に、つぎのような記事が掲載されています。
    【バギオにて 扇谷特派員二十六日発】皇軍の占領以来すでに三ヶ月フィリッピン諸島
    の中心地ルソン島はバタアンの一角を残しほぼ全島にわたって治安が確立され力強い
    建設の歩みを踏み出しているが各産業部門に魁けて中でも資源開発は急速調に進めら
    れ世界的に有名なバギオ金山ならびに品位の優秀な点では東洋一と称されるマンカヤ
    ン銅山がこのほどわが軍により確保された、同時に内地からは早くも三井マンカヤン
    銅山調査隊団長山下諭吉氏が乗込み警備隊に守られつつ鶴嘴を揮っているなど占領即
    建設の面目を遺憾なく発揮、フィリッピン資源の扉は今新東亜建設の脚光を浴びて開
    かれようとしている。……
 1945年春、「防衛」のためにマンカヤンに入った日本兵のひとりであった山田善助氏は、1982年8月15日にだした『比島従軍戦記 北部ルソンの死闘 戦没者の追悼と平和を祈念して』の「マンカヤン鉱山分哨」と題する小節に、つぎのように書いています。
     三井鉱山のこの街は社員住宅が整然と並んで、鉱山従業員の住民の家も多く都会地
    に来た感じがした。……
     マンカヤン警備隊本部は小さな兵営の感じで、炊事場や浴場等の設備もある兵舎で
    あった。私達の部隊は食料はなく……。
     鉱山の広大な設備と工場、そして幾十段もあるコンクリートの石段を下りると広い敷地
    には火薬庫がある。二階建の三井の事務所の一室が兵隊の控室で、交替で歩哨に朝
    まで警備した。……トロッコの採石は積載したまゝで操業はしていない。……
     警備隊本部からの糧秣の補給はない。原住民に話して芋掘りに連れて行った。……
     周囲を警戒しての芋泥棒だ。素早く掘らせて帰りの分哨地の入口で適当に彼等住民
    から芋を置かせた。……
     その日は帰りにバナナ畑で青い大きな幾重にもたわゝに成長したバナナを彼等にか
    つがせてきた。

                                         佐藤正人
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フィリピンにおける石原産業 11

2010年07月29日 | 紀州鉱山
 日本政府・日本軍の海南島侵略目的のひとつは、海南島の地下資源略奪でした。
 海南島の地下資源略奪をおこなったのは、三菱鉱業(羊角嶺水晶鉱山)、日本窒素(石碌鉄山)、石原産業(田独鉄山)などでした。
 講談社が発行していた『少年倶楽部』(1941年3月号)には、「このごろの海南島」という絵入り組頁の中の「海南島は宝の島だ」と題する頁には、
    「こゝ(海南島)は今まで、匪賊と、わづかな土民がすむだけで、ほとんど開かれないでゐました。
     ところが、1939年2月、皇軍が上陸して、匪賊は奥地へ追ひつめられ、いろいろなしらべがすゝむにつれ
    て、こゝは大へんな宝の島だといふことがわかりました。
     鉄をはじめ、たくさんのだいじな鉱物が出る。魚もよくとれる。農業も牧畜も林業ものぞみが多い。
     それらがみな、日本人の来てくれるのを待つてゐるのです」
と書かれており、同じ組頁の中の「世界一の鉄鉱」と題する頁には、
     「鉄は今の日本にとつて、最も必要なものの一つです。その鉄では楡林から北へ九キロのといころに、田独
    山があります。山全体が鉄といつてよいほどで、しかも世界第一のよい鉄鉱なのです。
      絵のやうに露天掘りでほり出された鉱石は軽便鉄道で楡林へ運ばれ、こゝから船につみこんで日本へ送
     られてゐます。
      さらに昨年のしらべで、石碌山といふのがまた、良質の鉄鉱を、底なしにもつた山であることがわかりま
     した。
      その他大嶺山の金、昌化大江南岸一帯の砂金、那大附近の錫をはじめ、三亜付近の、セメントの原料と
     なる石灰岩や、定安附近の石炭など、どれもどれものぞみの多いものばかりです」
と書かれていました。『少年倶楽部』は日本の少年たちに、日本が必要とする資源は他地域・他国から奪って日本に送るのがあたりまえだ、という思想を植えつけようとしていました。当時、他地域・他国からの資源略奪に反対する日本の大人たちはほとんどいませんでした。
 1939年2月に陸海軍を奇襲上陸させ、占領地域を拡大し、海南島を軍事基地とした日本は、1941年12月に、陸海軍をマラヤ、フィリピンなどに上陸させました。
 日本軍上陸直後からフィリピンの地下資源略奪を開始したのは、三井鉱山、三菱鉱業、日本鉱業、住友鉱業、石原産業、古河鉱業、南洋鉱業、太平洋鉱業、昭和鉱業、鯛生産業などでした。
 これらの日本企業は、日本軍に守られて資源略奪をおこないましたが、フィリピンの抗日反日軍は、日本侵略軍と侵略企業にたいして持続的に戦いました。
 アンチケ鉱山地域での抗日反日軍と日本侵略軍とのたたかいのなかで死んだ石原産業の「従業員」は、「佐々木貢、池尻喜義両君のほか八名、現地人四名」であったと石原廣一郎氏は書いていますが(前掲、石原産業株式会社社史編纂委員会編『創業三十五年を回顧して』227頁)、日本軍はその14人の遺体の首を切って首だけを回収したようです(前掲、独歩一六五大隊史編集委員会編『比島派遣守備隊戦記 瀬能、多賀部隊』95頁)。日本軍は死んだ兵士の腕を切りとって腕だけを回収したこともあったようです。独歩一六五大隊史編集委員会編『比島派遣守備隊戦記 瀬能、多賀部隊』には、ダハ水源地で、「戦死者は収容困難であったので腕を斬り各自の名前の縫い取りのある軍帽で切口を包み天幕に包んだ。それは敵の重囲の中でぎりぎりの手段であった」と書かれています(90頁)。
 石原産業は、フィリピンで死んだ「従業員」の数も名前もはっきりさせていません。アンチケ銅山鉱山長であった山崎英雄氏が個人的にまとめた前掲『比島勤務者記録』には、フィリピンで死んだ石原産業の「比島勤務者」約200人の名が書かれている。ただし同書は1944年後半以後のことに限られており、「佐々木貢、池尻喜義両君のほか八名、現地人四名」についての記述はありません。
                                             佐藤正人
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『日本占領下の海南島で何があったか?』

2010年07月28日 | 上映会
 6月5日にこのブログでお知らせしたように、あさって(7月30日)から、8月1日まで、3日間、大阪人権博物館(リバティおおさか)で、紀州鉱山の真実を明らかにする会と海南島近現代史研究会が主催するドキュメンタリー連続上映会『日本占領下の海南島で何があったか?』が開かれます。

 大阪人権博物館は、2003年末から企画展「日本は海南島で何をしたのか」を開催すると広報しはじめ、『催し物のご案内(2004年4月~8月)』に、企画展「日本は海南島で何をしたのか」を2004年7月21日から8月15日まで開催するという案内を掲載していました。この企画展は、1998年6月から約6年間の紀州鉱山の真実を明らかにする会の海南島での「現地調査」を基礎にしたものでした。
 ところが、開会50日まえの2004年5月30日に、大阪人権博物館は、突然、この企画展を中止しました。
 それまで、紀州鉱山の真実を明らかにする会と大阪人権博物館は、2002年11月から11回、企画展(あるいは特別展)『海南島で日本は何をしたのか 侵略・虐殺・掠奪・性奴隷化』の展示内容について綿密な打ち合わせ会議をおこない、開催準備を進めていました。
 『大阪人権博物館紀要10号』に掲載された紀州鉱山の真実を明らかにする会「国民国家日本の海南島侵略犯罪史認識と伝達」を参照してください (このブログに転載してあります)。
          http://blog.goo.ne.jp/kisyuhankukhainan/c/df0ce452e692f9e92da5e107c755435d
 他地域・他国侵略は、最大の人権問題です。 
 しかし、「人権」を主題とする日本の博物館が、海南島での日本の侵略犯罪にかかわる諸事実と海南島における抗日反日闘争の内実を伝達しようとする企画展を延期しつづけています。
 きょうからの大阪人権博物館での「日本占領下の海南島で何があったか?」と題するドキュメンタリー連続上映会は、6年前から延期され続けている 企画展「日本は海南島で何をしたのか」の、すみやかな実現を企図しています。   

 6月26日にこのブログでお知らせしましたが、同じ大阪人権博物館(リバティおおさか)を会場にして8月22日に海南島近現代史研究会第4回総会・第6回定例研究会が開かれます。
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フィリピンにおける石原産業 10

2010年07月27日 | 紀州鉱山
 『比島派遣守備隊戦記 瀬能、多賀部隊』の「第二次アンチケ銅山附近の戦闘」と題する小節には、つぎのように書かれています。
                                            佐藤正人

   アンチケ銅山警備の第一中隊は、(1942年)10月1日以来3次に渉る夜襲を行って、強
  敵を排除して銅山の直接警備に必要な各高地を確保していた。
   高地占領後は各陣地を補強し、特に14高地には人力で砂利、セメントを担ぎ上げてトー
  チカを構築するなどして警備に万全を期していた。一方では各陣地の兵員を極力削減して
  機動力の保持を図っていた。
   配置された山田野砲兵隊は、ビリヤルに到着してからは、銅山の北方及び西海岸を北進
  して遠くブガソン方面まで各要所を砲撃して其の威力を誇示していた。その後一時サンホ
  セに駐留したが、其の期間も短かくその配属を解かれてマニラに帰還してしまった。
   野砲隊がサンホセを離れると敵は10月17日未明突如として銅山周辺の各高地にある
  我が陣地に対して大挙包囲攻撃をしてきた。
   恐らくサンホセ市内にはスパイが多数潜入して、我が方の行動は敵側に逐一知らされて
  居たものと思われるが、我が軍としては一般市民との識別もつかず、また探索の機関もな
  かったのである。
   各高地の我が陣営は何れも8名以下の兵力で、特に4高地は配置してあった機関銃を前
  日ビリヤルに引揚げたので残るのは6名にすぎなかった。実に10数倍の敵に包囲された
  のである。陣地前のたこ壺に出ていた阿部六朗兵長は戦死し1名負傷者を出した。
   敵はいよいよ接近してきて、石油をビール瓶に詰めて火をつけ、いわゆる火炎瓶を盛ん
  に投げ込んで来た。負傷した哨兵も今はこれまでと夢中でたこ壺を飛び出して低地に脱出
  したが、最早や後方陣地に帰ることができなかった。然し、夜に入ってビリヤルへ帰りつい
  た。
   一方、14高地はトーチカの陣地と言うものの兵員は僅か5名で銃眼より応戦した。敵は
  銃眼を目標に執拗に猛射してきて遂に仲田伍長、鈴木金也上等兵の両名は壮烈な戦死を
  遂げた。
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フィリピンにおける石原産業 9

2010年07月26日 | 紀州鉱山
 独歩一六五大隊史編集委員会編『比島派遣守備隊戦記 瀬能、多賀部隊』(南十字会、1978年3月)の「第一次アンチケ銅山附近の戦闘」と題する小節には、1942年9月23日と24日のことについて、つぎのように書かれています。
                                             佐藤正人

      急を聞いて救援に向った北川小隊十字火を浴びせられて苦戦状態に追い込まれた。
      この襲撃を知った中隊長野々村中尉は主力を率いて急きょビリヤルに向った。敵の猛射を受けながらシバロン
     川を渡河してビリヤルに到着し、北川小隊を併せ指揮して先ず4高地を奪取するため、同高地の敵に猛攻を加え
     たが、地の利を得た敵は頑強に抵抗して後退のきざしがなかった。野々村中隊長は意を決して、機関銃の援護
     の下に前面の稲田の中を攻撃前進することにして、陣頭に立って命令を下そうとしたとき、敵弾は右大腿部を貫
      通しその場にドッと倒れた。……
      翌24日早朝、中隊は主力をビリヤルに集結して今後の行動を画策した。
      敵は以前各高地を占拠しておって、散発的にビリヤルの我が陣地を射撃して来た。
      石原産業の犠牲者の収容については、同社の森主任を交えて協議して、本夜死体を収容して犠牲者を確認に
     決定した。尚、人力で遺体の収容が困難な場合は、とりあえず頭部のみを持帰ることを中隊長が提案したところ
     森主任もこれを了解同意したので実行に移すことにした。
      午後7時、所軍曹以下7名は、フィリピン警察10余名を率いて遭難現場に向った。午後11時頃、収容を完了し
     た。
      散乱している遺体を捜し求めて軍刀で首を切り、頭部を一つ一つ繃帯包の三角布で包んで持ち帰ったのであ
     る。
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フィリピンにおける石原産業 8

2010年07月25日 | 紀州鉱山
 アンチケ鉱山の銅鉱石略奪を石原産業は、1942年7月から開始しました。
銅鉱石は、サンホセ港から日本に運び出すことにしていました。
 その2ヵ月後の9月23日、サンホセからトラックでアンチケ鉱山に向かっていた石原産業の従業員を抗日ゲリラ部隊が襲撃しました。そのときのことを、石原廣一郎はつぎのように書いています(石原産業株式会社社史編纂委員会編『創業三十五年を回顧して』石原産業株式会社、1956年)。
                                            佐藤正人

       サンホセに待機中の従業員二十四名は、一台のトラックに同乗して、九月二十三日午前八時鉱山に向って出
      発した。……鉱山から五㌔の地点にあるマヨー峠にさしかかったが、この時突如両側の峰から匪賊の一斉機銃
      掃射を受け、トラックは忽ち集中銃撃の目標となった。……銃声は止まず一寸の身動きもできなかった。夜に入
      るのを待ってやっと危地を脱して、すぐに警備隊に連絡した。時を移さず出動してくれた警備隊の協力で、交戦
      状態に入ったが、敵は頑強で翌二十四日になっても、退却の色さえ見せず、軍と共にわが社従業員は塹壕を
      掘り、土嚢を築いて抗戦をつづけた。
       当時、私はフィリピンの全事業地視察のためマニラに滞在中であったが、マニラ支社でこの報を知ったので、
      早速軍に増援方を要請し支社幹部数名をともなって現地に急行した。私が現地に着いた頃、匪賊はまだ山
      中に立て籠り一向に退勢を見せないので、軍に依頼し野砲で攻撃したが、依然として敵はその包囲を解か
      ず、ついに二十七日になって最後の手段として航空隊の応援を得て爆撃を加え、はじめて敵を四散させるこ
      とができた。
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フィリピンにおける石原産業 7

2010年07月24日 | 紀州鉱山
 日本政府・日本軍のフィリピン侵略開始直後から、フィリピンの資源略奪をおこなおうとした日本企業に日本軍は資金を渡しました。その主な企業は、三井物産、日本鉱業、石原産業、三井鉱山、古河鉱業、三菱鉱業、南洋鉱業などでした(「軍票前渡金ヲ機密費ニ使用方ノ件」 陸亜密電42 1942年1月31日)。
 石原産業社長(石原新三郎)は、「比島地下資源開発の使命を帯び」、1942年2月はじめから6月中旬までフィリピンに行っていましたが、帰国後、
    「比島の地下資源は共栄圏内で一番有望だ。中でも日本が最も期待しているのは銅である。……鉄も
    無尽蔵といつてよい」、
    「ルソン島の鉄山、パナイ島の銅山を視察してその開発に着手するのが今度の旅行の目的でしたが、
    作戦の進捗と共に外にも足を入れて新しい将来性のある鉱山を発見……」、
    「比島の戦禍は予想外で、これが建設には軍官民一致協力、一日も早く戦争遂行計画に積極的協力の
    出来るやうにお互ひ努力邁進しなければなりません」、
    「地下資源についても極めて有望で銅、マンガン、鉄など開発上の困難は勿論伴ふことですが銅につ
    いてみれば共栄圏では外にないのだから万難を排して軍官民協力大戦遂行に寄与しなければならない
    ことです」
と述べたと、当時の新聞は報道しています(『朝日新聞』1942年6月16日朝刊、および6月18日朝刊)。
 アメリカ合州国の植民地とされていたフィリピンの鉱山資源は、アメリカ合州国の企業によって開発・収奪されていました。日本軍のフィリピン占領後、日本企業はその鉱山をアメリカ合州国企業から奪いました。石原産業が奪ったアイアン・マイン社のララップ鉱山について、『大阪毎日新聞』(1942年3月4日朝刊)は、「石原鉄山始る 露天掘り、逞しい轟音」という見出しで、つぎのような同盟通信記事を掲載していました(同日の『朝日新聞』にも「比島鉱山採鉱開始」と題する同様記事)。
    「【比島北カマリネス州ララップ鉱山にて 三日発同盟】南部ルソンの宝庫ビコール地方一帯は治安工作
    の進捗とともに漸次常態を取戻した。
     民心の平静化と相まって復興新生の機運が満ち溢れておりこれと並行して戦前比島一の鉱山で米国のド
    ル箱だったララップ鉱山は早くもわが石原産業の手によって着々開発されている。
     この鉱山は従来米資本の比島アイアン・マイン会社の手によって毎年七十万トン内外の鉄鉱を産出、品
    位も六十パーセント以上という優良鉱山であったが、今次比島作戦とともに石原産業が引継ぐこととなり
    悪条件を克服してすでに部分的な作業を開始し名前も比島石原鉱山と改称されいまやこの鉱山には露天掘
    りの周囲を縦横に馳駆するトロッコの轟轟たる軌音とダイナマイトの爆破作業が逞しい建設譜を奏でてい
    る」。
                                             佐藤正人
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フィリピンにおける石原産業 6

2010年07月23日 | 紀州鉱山
 1941年12月8日、日本陸海軍は、マラヤのコタバルに上陸し、パールパバーのアメリカ合州国艦船を奇襲攻撃し、フィリピン北部を空爆し、ホンコン・グアム島・ウエーク島・ナウル島……攻撃を開始しました。パールハーバーのアメリカ合州国艦船攻撃は、アメリカ合州国海軍の戦力を減少させることを目的としていましたが、その他のすべての軍事行動は、アジア太平洋の各地域を侵略し植民地化していくことを目的としていました。
 日本軍が侵略地域を拡大していくとともに、日本企業は日本軍とともにその地の資源を奪いはじめました。
 『朝日新聞』東京版1942年4月21日付け夕刊には、「アンチケ(パナイ島)銅山占領」という表題で次のような記事が掲載されています。
     「【○○基地にて堀内特派員十九日発】 十七未明パナイ島サンホセに無血上陸した○○部隊は十八日夕刻同
     島西北方廿五キロにあるアンチケ銅山を占領した。同銅山はほとんど未開発であるが含銅率五パーセントで鉱
     床は層状をなし一部は露出してをり、露天掘りが可能なので年内に鉱石がどしどし搬出される見込みである。な
     ほ附近にはすでに石原産業が開発をはじめてゐたサンレミホ銅山があり双方合せて埋蔵量二十五万トンを超え
     るものと推定されてゐる」。
 その半月後の『朝日新聞』東京版1942年5月10日付け朝刊には、「進む新生比島建設 全島戡定終了を契機に」という表題の記事の中には、つぎのような記述があります。
     「【マニラ特電九日発】 大東亜共栄圏の一翼として比島におい現在もつとも期待するところの大きいのは、鉱物
     資源の開発確保であるが、コレヒドール殲滅による全島戡定作戦の進展により、資源開発は急速に展開されて
     行くであろう。
      即ち、わが占領下にある鉱山として、すでにマンカヤン銅山(ルソン島)ヒツクスバー銅山(ラブラブ島)カランバ
     ヤンガン鉄山(ルソン島)を数へそれぞれ三井鉱山、日本鉱山、石原鉱業などの手によつて開発されてゐたが、
     わが戡定作戦の進展とともに最近アユーエクローム鉱山(ルソン島)アンチケ銅山(パナイ島)ならびにブスアン
     ガ島(ミンドロ島南方)のマンガン鉱山ネグロス島のマンガン鉱山がそれぞれ確保された。これら新鉱物資源大東
     亜戦遂行の資源として活用される日も間近い」。
                                             佐藤正人
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フィリピンにおける石原産業 5

2010年07月22日 | 紀州鉱山
 「アンチケ鉱山退山前後」の個所に、山崎英雄氏は、続いて、つぎのように書いています。
                                             佐藤正人

○鉱山からの撤退
 鉱山に立篭つても、致方ない事はゲリラが迫撃砲を使用していることで明瞭である。
 斯様になると警備隊と一緒に居れば石原職員も50名も居り抵抗も出来る。内線の作線(ママ)ならゲリラの直撃の鉄砲弾さえ避ければ職員の生命は守れると感じた。
 長期間と云ふことは考えていなかつた。最後まで我々に協力して呉れた比島労務者も適当に避難させることも出来る。パトノゴン事件が起つてからは一層サンホセへ集結しなければと考へた。芝村君にイロイロ支店と連絡させた。然しサンホセ警備隊には云えない。多分パトノゴンの奥田少尉の救出で頭の中は困乱しているだろうから。
 パトノゴンを包囲しているゲリラは可成り堅固な抵抗線を敷いて居るとの事だつた。
        〈 中略 〉
 多量のダイナマイトもある。資材も多い。それだからと云つて、表立つて動きを見せればスパイが横行しているから、ゲリラの攻撃を受けるかも知れない。芝村君から何とか名目をつけて、期末整理とか云つて幹部の職員に云いふくめて準備させた。警備隊の方もゲリラの武装が強化されて居ることを知つているから注意はしていた。当日の部隊の動きは余り迅速には行われなかつた。朝になつて命令を出した。鉱山の周辺の分哨の撤退を要領良く実行せねばならぬ。鉱山に残つたトラック二台で出来るだけ資材と人員をシバロン河まで運んだ。シバロン河からサンホセまでは同様にトラックを出すことになつていた。
 然しこの方のトラックも何回か往復したが、午後おそくなつて迎えのトラックは来なくなつた。故障だと云ふ。
 斯うして徒歩にてサンホセに隊伍を組んで行進した。
 日暮れ頃、サンホセから一キロ位の所に架る小さな橋の前後に十数名の社友(サンホセ勤務)が屯ろしていた。外村君秦君らで、話によればゲリラがこの橋を焼却しようとしたから警戒のために出て来た。全員武装していた。
 斯くて無事に200名に余る石原部隊はサンホセに集結することが出来た。
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