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三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

「「ウクライナの日本人義勇兵死亡」 東部前線近く、親ロ派主張」

2025年01月24日 | 朝鮮史
「時事通信」 2025年01月23日22時00分
■「ウクライナの日本人義勇兵死亡」 東部前線近く、親ロ派主張

【写真】ウクライナのザポロジエ州フリャイポレの前線近くに展開するウクライナ兵=2022年4月(EPA時事)

 ロシア国営メディアは23日、同国が侵攻するウクライナ南部ザポロジエ州で、ウクライナ軍の義勇兵として戦っていた日本人が死亡したと伝えた。同州の親ロシア派幹部を務めていたロゴフ氏が22日に通信アプリ「テレグラム」で明らかにした。現場はウクライナ軍が支配する同州フリャイポレ。前線に近く、20日にロシア軍の砲撃によって戦死したという。
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「「日本の略奪」後600年ぶりに戻ってきた高麗仏像…故郷で100日過ごして出発」

2024年12月31日 | 朝鮮史
「The Hankyoreh」 2024-12-30 09:44
■「日本の略奪」後600年ぶりに戻ってきた高麗仏像…故郷で100日過ごして出発
 高麗金銅観音菩薩坐像、来春に日本に返還される見通し 

【写真】金銅観音菩薩坐像/聯合ニュース

 韓国の窃盗団が日本の対馬の寺院から盗んで国内に持ち込んだ高麗金銅観音菩薩坐像(仏像)が、来春にも日本に返還される見通しだ。
 日本の共同通信は27日、仏像の所有権を主張してきた瑞山(ソサン)の浮石寺(プソクサ)住職の円牛(ウォヌ)僧侶が、来年5月以降に長崎県対馬の寺院、観音寺にこの仏像を返還することについて、「協力する」との意思を表明したと伝えた。
 高さ50.5センチ、重さ38.62キロのこの仏像は、2012年10月に韓国人窃盗犯に盗まれた。窃盗団は国内に持ち込んで売ろうとしたが、2013年1月に摘発され、仏像は押収された。その後、仏像は国立文化財研究院が保管してきた。仏教界は、この仏像は1330年ごろ、忠清南道瑞山の浮石寺で作られ、1352~1381年の瑞山一帯に対する倭寇の侵略時に略奪されたと推定する。その後、仏像は1526年から観音寺に400年間あまりにわたって奉安されていた。仏教界は、倭寇に略奪された仏像であるだけに(韓国に)返還されるべきだとして運動を開始。浮石寺は2016年に国を相手取って仏像の引き渡し請求訴訟を起こし、所有権をめぐる攻防が続いていた。
 昨年10月に最高裁判所が仏像の所有権は観音寺にあるとの判断を下したことで、法的紛争は一段落したが、仏像はまだ返還されていない。最高裁は、仏像は1953年に法人を設立した観音寺が、盗難にあった2012年まで20年以上所有していたため、所有権は観音寺にあると判断。他人の物であっても問題なく一定期間占有していれば所有権が移ったとみなす「取得時効」の法理に則り、仏像の所有権は正常に観音寺に移ったという論理だ。
 円牛僧侶はこの日、ハンギョレに「最高裁が日本に所有権があると最終判決を下したため、(仏像は)日本に戻る立場にある。しかし、過程がどうであれ(仏像が)600年ぶりに故国に帰ってきたのに、もともといた浮石寺に一度も帰って来ることなく、収蔵庫に収められただけで戻されるというのは残念に思う。また、そうあってはならないと思う」と述べた。浮石寺は 仏像を観音寺に引き渡す前に100日間の「親見法会」の開催を認めてくれるよう要請し、観音寺側も要請を受け入れたため、春に法会を行うことにしたという。円牛僧侶は、法会によって「仏者や市民、希望するすべての人々が来て仏様(仏像)にお会いできる」だろうとし、「100日にわたって行う」と説明した。また「法会が終わったら(仏像を)送り返すことにした」と語った。円牛さんは法会について「正確な時期は決まっていない」としながらも、「冬が終わる時点ではじめる」との考えを伝えたと説明した。共同通信は、観音寺側は、来年5月15日よりも前に返還を受ける方向で調整中だったが、法要(法会)の日程が遅れれば返還時期も遅れる可能性があると伝えた。
 韓国の窃盗団が2012年に同仏像とともに対馬から盗んで国内に持ち込んだもう一つの仏像、銅造如来立像は、所有権を主張した者がおらず、2015年に日本に返還されている。

キム・ジウン記者 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )
https://www.hani.co.kr/arti/international/international_general/1175177.html
韓国語原文入力:2024-12-27 16:45
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日帝時に韓国を離れた智光国師塔、113年ぶりに故郷に帰還

2024年11月17日 | 朝鮮史
「中央日報日本語版」 2024.11.14 09:12
■日帝時に韓国を離れた智光国師塔、113年ぶりに故郷に帰還

【写真】日帝によって搬出されてから113年ぶりに江原道原州(カンウォンド・ウォンジュ)に再び設置された国宝「原州法泉寺(ポプチョンサ)址智光国師塔」が12日、復元記念式を通じて姿を現した。保存処理過程で塔の基壇石の四隅の獅子像4点も復元されて「完全体」となった。[写真 韓国国家遺産庁]

 日帝強占期である1911年に搬出された国宝「原州(ウォンジュ)法泉寺(ポプチョンサ)址智光国師塔」(以下、智光国師塔)が113年ぶりに故郷の原州・法泉寺址遺跡展示館に姿を現した。景福宮(キョンボックン)の野外に立っていたものを2016年保存処理のために解体して以来8年ぶりだ。高さ5.39メートル、重さ39.4トンに達するこの塔は高麗時代の石塔の中で最も優れた造形美を持つ傑作と言われている。
 「まるで年老いて病気にかかった親を10年ほど治療して故郷の家に迎えるような気持ちです」。12日、国家遺産庁国立文化遺産研究院(以下、研究院)と原州市が共同で開催した復元記念式が開かれた日。行事出席に先立ち、過去10年間、智光国師塔の保存・復元を担当したイ・テジョン学芸研究員が中央日報の電話取材で上記のように話した。

--原州まで行ったが塔がもともとあった法泉寺址ではなく展示館に置いた理由は。
 「人で例えれば老体だったうえにあちこち病気にかかっていた塔だ。長い歳月、風化にさらされたうえに先の修理過程で使われたセメントによって塔の部材(建築物の骨組みになる要素)の耐久性が著しく落ちている。2022年12月展示館が竣工して塔を置く場所が確定した。北に突き出た筒窓を通じて約400メートル離れた法泉寺の場所の智光国師塔碑が一目で見える位置と2つの国宝が100年余ぶりに対面した感じが出る」。

--保存処理で変わった部分は。
 「腐食して傷ついた部材を相当部分、新しいものに取り替えた。屋蓋石のような場合には48%、すなわち半分を新しい石で補修した。塔の四面を飾っていた浮彫(表面を浮き立たせるように彫り込む細工)も国家無形遺産のイ・ジェスン石匠などの腕で円形に合うように復元した。何より獅子像4点までこれに合わせて復元して『完全体』になった」。
 この獅子像は1911年日本人学者の関野貞が撮影したガラス板の写真の中では塔の下層の基壇石の四隅に位置していた。1957年の修理復元後に行方が分からなくなり、半世紀以上も塔と分離していた。
 イ・テジョン氏は2015年学術論文などを検索して国立中央博物館収蔵庫に獅子像があることを突き止めて今回元の姿に復元した。
 「悲運の石塔」と呼ばれる智光国師塔は1085年に僧侶の海麟(984~1070、智光国師)を称えるために建てられた。1911年日本人によって無断搬出されて京城(ソウル)の病院の庭園を飾り、翌年大阪に搬出されて非難が巻き起こると戻ってきた。その後、朝鮮総督府博物館所の蔵遺物として景福宮(キョンボックン)の野外に設置されていたが、韓国戦争(朝鮮戦争)の時の爆撃によって1万2000個の破片に分かれる惨禍を体験した。
 1957年国立博物館によって復元されたが、当時は使用材料の限界によって塔の表面が腐食して装飾彫刻が剥がれる問題が発生した。その後も景福宮の中に場所を移したが、2015年解体・保存処理が決まった。これを含めると計11回解体される間、原州→明洞(ミョンドン)→大阪→景福宮→大田(テジョン)(研究院)→原州など1975キロにわたって放浪し、ついに12回目にして元の場所に戻ってきた。

--塔の復元で最も難しかったのは。
 「室内に塔を立てること自体が高度な技術を要する。まず展示場の地面に塔の重さに耐えられるような免震台(耐震装置)を敷いて礎石を据えた後、その上に塔を積んでいく。平たい免震台とデコボコした址台石の底面がぴたりと合わせて隙間なく積んでいかなくてはならないが、この緩衝構造を作ることが全体工程の40%近くを占めた。研究院内の文化遺産保存科学センターと国内企業が協力して震度7の衝撃にも耐えられるように完成させた。原発のような工業施設ではなく文化遺産としては、国産技術でやり遂げた最大規模の成果だ」。

--完成された塔を見たときの感想は。
 「国立古宮博物館の前に立っていたものを解体する時でさえ、新しく建てられた姿は想像もできなかった。保存処理過程で驚いたのが、その丈夫な花崗岩を人目のつかない内側まで、例えば屋蓋石(屋根石)の内側の面まで繊細に彫刻してあったという点だ。誠に感嘆すべき誠意と技術だ」
 大学で石造保存処理を選考したイ氏は仏国寺(プルグクサ)多宝塔および慶州(キョンジュ)感恩寺址塔の保存処理などに参加し、2010年研究院に入社した。昨年12月景福宮の外壁落書きテロの時も大田に出動して真冬の厳しい寒さの中で現場実務を総括した。
 「景福宮落書きを消したその時期に智光国師塔の復元位置を決める委員会報告書も一緒に作りました。紆余曲折の末に、私たちの手で、私たちの技術で再び設置された智光国師塔が元の場所でゆっくり安息を取れるよう祈っています」。
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「水漏れもないほど精巧だった…1600年前に伽耶人が作った水路を発見」

2024年11月11日 | 朝鮮史
「The Hankyoreh」 2024-11-11 20:23
■水漏れもないほど精巧だった…1600年前に伽耶人が作った水路を発見
咸安伽耶里遺跡で土城排水施設を発見

【写真】慶尚南道咸安伽耶里(カヤリ)遺跡で確認された人工水路。大きな石を運んできて、精密に継ぎ目を合わせ、底部の水路と側面の石垣を造成した姿が鮮明。同時に確認された土城の壁の内外を通過する仕組みであることが確認された=国立伽耶文化遺産研究所提供//ハンギョレ新聞社

 1600年前に伽耶人たちが掘った水路が初めて明らかになった。当代の職人と兵士が石を運び、精魂込めて背t族部を組み上げた精巧な排水路だ。
 国立伽耶文化財研究所は5~6世紀の伽耶小国「阿羅伽耶」(アラカヤ)の王城跡と推定してきた慶尚南道咸安郡伽耶邑伽耶里586番地一帯の伽耶里遺跡(国家史跡)を発掘調査した結果、当代の土城の跡と土城内外をつなぐ長さ16.5メートルの人工水路(排水施設)跡を発見したと11日発表した。伽耶関連遺跡で形が明確な排水路施設が発見されたのは初めてだ。
 発見された水路は幅1~3.5メートル、長さ16.5メートルに達する。城の内側の狭く窪んだところ(谷間地)に集まる水を城の外に排出する用途と見られる。城壁を通過する部分では、蓋石を覆うように地中に埋めた水路である暗渠の幅を1メートル内外に狭くした。これに比べ、城壁の外に続く部分は蓋石なしで幅が最大3.5メートルまで広がるラッパ状になっている。研究所側は「水が流れる速度を遅らせるために考案した仕組みと推定される。土城が位置した土地の形を綿密に調べ、排水システムを構成した伽耶人の土木技術力が実感できる」と評価した。

【写真】伽耶里遺跡の土城城壁と城内の狭く窪んだ谷間地から城外に流れる石垣排水路の跡を上から見下ろした様子=国立伽耶文化遺産研究所提供//ハンギョレ新聞社
【写真】慶尚南道咸安伽耶里遺跡一帯の全景。写真の中央下部の森が茂った丘の横部分が、伽耶時代の人工水路が出てきた発掘現場だ=国立伽耶文化遺産研究所提供//ハンギョレ新聞社

 土城の城壁は谷間地の狭い入口部分を塞ぎ積み上げてある。幾重にも固めて積み上げる版築技法で、防御用の塚状陣地である土塁を中心部に積み、狭く谷のある城内の地形を平らにするために底部分に木の枝などを土と混ぜて積み上げる敷葉工法を用いた跡が明らかになった。築かれた土塁の内外部分には、斜めに土を重ねて積み上げた内外壁を作ることで城壁を補強した。このような過程を経て積み上げた版築土塁の幅は5.5メートル、内外壁の底部の幅はそれぞれ12メートル、版築土塁と内外壁を含めた底部の幅は29.5メートルだ。積み上げた土層の中から短い木製壺と釜型土器も発見され、城壁の敷地を土地に造成する過程で安全を祈る祭祀などの儀礼があったものと推定される。

【写真】城壁の敷地を作る過程で儀礼に使われたと推定される独特な形の土器類も発掘された=国立伽耶文化遺産研究所提供//ハンギョレ新聞社
【写真】儀礼用と推定される埋納土器=国立伽耶文化遺産研究所提供//ハンギョレ新聞社

 伽耶里遺跡には5~6世紀の咸安一帯で栄えた小国阿羅伽耶の土城や建物跡が散在している。「咸州誌」(1587)と「東国輿地」(1656)など朝鮮時代の文献資料に昔の国の跡を意味する「古国遺基」の記録が伝えられ、最近の地表・発掘調査でも重要遺物と遺構が発見され、考古歴史学界ではこの遺跡を阿羅伽耶王城跡と比定してきた。2019年、国家指定文化遺産史跡に指定された。研究所側は13日午後2時に発掘成果を公開する現場説明会を開き、20日午後1時に咸安博物館で伽耶里遺跡の調査・研究成果を地域住民に説明する学術討論会(フォーラム)も進行する予定だ。

【写真】土城の城郭ができた敷地造成層の底部を見下ろした姿。木の枝を土と混ぜて城郭などの構造物を積む敷葉工法の跡が確認される=国立伽耶文化遺産研究所提供//ハンギョレ新聞社
【写真】城壁の断面土層部の様子。写真の上部に内外壁の盛土層と版築城壁の断面が、左下には今回初めて確認された水路(排水路)が見える=国立伽耶文化遺産研究所提供//ハンギョレ新聞社

ノ・ヒョンソク記者 (お問い合わせ (お問い合わせ japan@hani.co.kr ) )
韓国語原文入力:2024-11-11 19:14


「The Hankyoreh」 2024-10-22 21:54
■1500年前の金官伽耶王城跡に…貝殻を土に混ぜて積み上げた痕跡=韓国
 金海市の国家史跡、鳳凰台古墳を発掘調査中に確認 

【写真】貝殻の破片を混ぜて土層を固めて積み上げた発掘断面の細部。考古学の専門用語で「貝殻盛土層」と呼ばれる=韓国国立伽耶文化遺産研究所提供//ハンギョレ新聞社

 現在の慶尚南道金海(キムヘ)地域で約1500年前に栄えた金官伽耶国の人々が、貝殻を混ぜて土を積み上げ城を築いていた痕跡が明らかになった。
 国立文化遺産研究院・国立伽耶文化遺産研究所(オ・チュンヨン所長)は、金官伽耶王城跡とされてきた金海の鳳凰洞(ポンファンドン)遺跡(国家指定史跡)の一部である鳳凰台の丘一帯を発掘調査した結果、5世紀頃に実施された大規模な敷地造成工事の痕跡を確認したと、22日発表した。
 研究所側は、鳳凰台の丘の東側の傾斜した地点と平地を調査する過程で、伽耶の人々が大規模に貝殻を混ぜて積んだ土層(盛土層)を発見したと明らかにした。この土層は、丘の北東側の低い地帯を埋めて作ったもので、地盤を丈夫にするためにたくさんの貝殻片を混ぜて斜めに重ね合わせて積み上げたもの。最大深さは4メートル、長さは周辺の鳳凰土城の城壁一帯まで含めて100メートル以上とみられる。5世紀頃、鳳凰台の丘を囲んで繰り広げられた土城の城壁(周囲約1.5キロメートルと推定)築造工事の一部の跡であると推定されるという。

【写真】貝殻盛土層が露出した発掘遺跡の西側断面=国立伽耶文化遺産研究所提供//ハンギョレ新聞社

 傾斜した土地の周囲に土を重ねて固め積み上げる工法は、古代朝鮮半島の人々が広い土地を造成する際に主に使われた。慶州の皇龍寺跡(ファンリョンサジ)、扶余の金剛寺跡(クムガンサジ)など三国時代の寺跡に先例があるが、鳳凰台の発掘遺跡はもっと早い時期に造成されており、貝殻を混ぜて積み上げた点が特異だ。研究所側は「底径6~8メートル前後、高さ1メートル前後の盛り土を積み、これを中心にいくつか同心円状に土地を固めて積み上げた盛土作業がなされたことを示す平面構造が新たに明らかになったことに意味がある」として「完全には明らかになっていない金官伽耶王城跡の面貌を究明するのに役立つだろう」と期待した。
 調査現場の公開説明会は24日午後2時に開かれる。研究所側はこの席で、これまで鳳凰台一帯で発掘した生活土器類や鹿・鯨・鮫などの動物の骨、儀礼に使われたと推定される卜骨や土偶、模型土器、動物の骨矢じり、鉄鉱石、送風管なども見せる予定だ。

【写真】人工敷地の造成工事の痕跡が明らかになった発掘現場。貝殻片を大規模に混ぜて土層を固めて積み上げた様子が発掘した断面に表れている=国立伽耶文化遺産研究所提供//ハンギョレ新聞社

 鳳凰洞遺跡は1963年に国家指定史跡に指定された金海の会ヒョン里(フェヒョンニ)貝塚遺跡と、1990年代に本格的な発掘が行われた鳳凰台丘一帯の遺跡を、2001年に一つにまとめて拡大指定された国家史跡だ。昔から金官伽耶の王城と伝えられ、日本による植民地時代から最近まで鳳凰台の丘と周辺一帯に対する発掘調査が続いてきた。調査を通じて船を浦口に置いた接岸施設跡や倉庫建物跡、鉄を掘る冶鉄跡、貝塚、土城、支石墓など紀元前の青銅器時代から4~5世紀の金官伽耶時代に至る多期な遺跡が明らかになっている。

【写真】遠方から見下ろした金海市の鳳凰洞遺跡の全景。写真の中で下の方に青色のシートで区画したところが、伽耶時代の大型工事跡が出てきた発掘現場=国立伽耶文化遺産研究所提供//ハンギョレ新聞社
【写真】発掘調査で明らかになった貝殻盛土層の平面構造を上から見下ろした姿=国立伽耶文化遺産研究所提供//ハンギョレ新聞社
【写真】発掘過程で明らかになった建物跡の様子=国立伽耶文化遺産研究所提供//ハンギョレ新聞社

ノ・ヒョンソク記者 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )
韓国語原文入力:2024-10-22 18:59


「The Hankyoreh」 2024-07-09 07:56
■【独自】泥岩層から出土した大伽耶初の「大王」の痕跡…1500年の謎を解くか
 伽耶人が用いた最高指導者の呼称の謎 
 高霊の宮殿の場所から「大王」と彫られた土器が出土 
 伽耶が支配者に新羅のように「大王」と呼称したと推定 

【写真】「大王」と刻まれたと推定される土器のかけらの銘文の細部と土器のかけらの全体像。土器のかけらの下段に「大」の字とその下に一部字形が崩れた「王」または「干」と読める不完全な1文字が連続して浮き彫りになっている=大東文化財研究院提供//ハンギョレ新聞社

 大伽耶は、約1500年前に慶尚道西部と全羅道東部にかけて繁栄し、新羅と競合した強力な小国家だった。大伽耶の人々が最高首長を当時の新羅のように「大王」と呼んだことが推定できる遺物が出土した。
 先月27日に発掘調査が終った高霊(コリョン)の大伽耶邑延詔里(テガヤウプ・ヨンジョリ)555-1番地の「大伽耶推定宮城跡」I-1区域の堀(防御用の池)跡の内部の底の泥岩層から出土した土器のかけらがまさにそれだ。先月21日に発掘機関である大東文化財研究院が、宮城跡と堀跡についての現場説明会を開いた直後に出土した、6世紀初めごろの大伽耶系の土器で、未公開の遺物だ。
 この土器のかけらを調べたところ、下の部分に明確な「大」の字と、一部字形が崩れて「王」または「干」の字と推定できる不完全な形の1文字を垂直の構図で続けて浮き彫り(陽刻)にした模様が確認された。
 「大」の字は全体が明確に表れ、その下の字は上の部分の画だけが残っているが、「王」であることが明らかだとする見解が有力だ。慶北大学のチュ・ボドン名誉教授ら古代金石文を研究する一部の歴史学系の専門家らが事前に鑑識した結果、「王」の字であることがほぼ確実だとする意見を提示したことが分かった。

【写真】慶尚北道高霊郡大伽耶邑内の大伽耶の宮城と推定される遺跡の堀底で発見された、「大王」と刻まれたと推定される土器のかけら=大東文化財研究院提供//ハンギョレ新聞社

 「大王」と判読する場合、出土場所が明らかな大伽耶の遺物から「大王」という呼称名が確認された初の事例となる。大伽耶が最高首長を「大王」と呼んでいたという実物の資料になるという点で、支配勢力内部の階層構造を把握する具体的な端緒を発見したという意味が大きい。
 「三国史記」や「三国遺事」などの朝鮮半島の歴史書には、高句麗や百済、新羅の首長は「王」と呼ばれ、新羅の場合、6世紀初期に仏教を公認した法興王の時代に「大王」という称号を使用していた記録が伝えられているが、大伽耶の人たちが首長をどのように呼んでいたのかについての歴史的資料はない。
 ただし、朝鮮半島関連の歴史的記述の歪曲が激しいという指摘を受けている7~8世紀の古代日本の歴史書である「日本書紀」には、慶尚南道咸安郡(ハマングン)一帯にあった安羅国(安羅伽耶)と伽耶(大伽耶)では王という称号が使われていたという内容が残されている。このような脈絡から、大伽耶の首長が「大王」という称号を用いていたのは、伽耶帝国の他の伽耶勢力の間で優れた地位を誇示し、新羅や百済とは同格の国であることを示そうとする意味があるものとみられる。

【写真】「大王」と推定される字が刻まれた土器が出土した大伽耶の宮城と推定される遺跡の土城壁の下の堀の様子。底面に黒ずんだ泥岩層が見える。ここから銘文土器が出土した=大東文化財研究院提供//ハンギョレ新聞社

 出土場所が宮城跡と推定される遺跡の下方の堀の底である点も重要だ。土器自体が、学界が実体を追跡してきた高霊の大伽耶の宮城跡であることを立証するもう一つの考古学的根拠になるためだ。
 大伽耶系の遺物で「大王」の銘文が出土した先例としては、1990年代から忠南大学博物館が所蔵している「大王」と刻まれた大伽耶系大型土器の有蓋長頚壷(蓋付きの首の長い壷)がある。しかし、出処不明の盗掘品の性質を持つ購入品であるため、信憑性に劣るという限界がある。
 出土した大伽耶土器のなかでは別の銘文が刻まれた事例も珍しいが、一部報告された事例が知られている。慶尚南道陜川郡苧浦里(ハプチョングン・チョポリ)から出土した「下部思利利」と記名された土器が代表的で、大伽耶が古新羅のように地方行政単位で部体制を整えていたことを示す遺物とされる。

【写真】忠南大学が所蔵する「大王」と彫られた有蓋長頚壷と、この壷の蓋と胴体の部分にそれぞれ刻まれた「大王」の文字=国立金海博物館提供//ハンギョレ新聞社

 大邱韓医大学のキム・セギ名誉教授(考古学)は「大伽耶は他の伽耶の小国とは違い、5世紀末に中国南朝の南斉に使節を送り、首長が公式に爵位を得て、その後は新羅のように古代国家級に成長することになる」とし、「大王と刻まれた土器の発見は、古代国家の段階に達した大伽耶の国家体制の実体を示す重要な成果とみられる」と述べた。
 大東文化財研究院は9日午後2時、大邱市頭流洞(テグシ・トゥリュドン)にある研究院の建物で、古代史や考古学の専攻者らを招待し、銘文土器を公開して意見を聞く説明会を開く予定だ。

ノ・ヒョンソク記者 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )
韓国語原文入力:2024-07-08 23:01


「The Hankyoreh」 2024-06-14 08:07
■日本が破墓した大伽耶「黄金の龍頭」王陵…1500年を経て世に公開
 略式発掘だけでも環頭大刀、金銅の矢筒などの宝物が続々 
 ベールに包まれた支配者、錦林王の墓と記録…3年間再調査

【写真】日帝強占期の1939年、高霊郡池山洞の大伽耶古墳群の旧39号墳(現5号墳)から出土した輪の柄と龍頭の装飾の大きな刀(環頭大刀)。国立中央博物館が所蔵する日帝強占期のガラス乾板の写真=国立中央博物館提供//ハンギョレ新聞社

 約1500年前の大伽耶の支配者の墓の中から黄金の刀があらわれた。純金の塊を加工して作った輪の柄の中に口から炎を吹き出す純金製の龍頭のレリーフを入れたものを付けた大きな刃だった。
 いわゆる「環頭大刀」と称される大伽耶の宝物の刃を発見したのは、日帝の御用考古学者だ。85年前の1939年、朝鮮総督府の命令を受けて慶尚北道高霊郡池山洞(コリョングン・チサンドン)の大伽耶古墳群の現場に調査員として急派された有光教一と斎藤忠だった。二人は山稜線に点在する古墳のなかから頂上にある5号墳を指定し、ただちに墳丘墓を掘り始めた。5号墳は直径が約45メートル、高さ11.9メートルに達する巨大な墓で、慶尚道と全羅道の大伽耶の古墳のなかでは最大だった。
 現況把握のための略式発掘だったが、黄金に輝く環頭大刀をはじめ、怪獣模様の腰帯、龍の像で彩られた金銅の矢筒、頑強な大伽耶の土器の壺などが墓の内部の部屋から数多く出土した。
 王陵級の遺跡であることは明らかだったが、二人は正式な発掘報告書を提出しなかった。ごく簡略な調査記録と一部の出土品の写真だけを残したまま、発掘の穴を埋めて去っていった。6年後に解放(日本の敗戦)が訪れたが、5号墳の発掘は世間の記憶から忘れ去られた。
 伽耶時代の古墳のなかで最大の墓である高霊池山洞5号墳は、このように日帝強占期(日本による植民地時代)に盗掘に近い発掘で終わる悲運を経た。そのため、解放後に伽耶史を研究する考古歴史学者の間では、伽耶の古墳を代表する5号墳の完全な再発掘調査は悲願として残ることになる。
 今年、ついにその念願がかなうことになった。国立慶州文化遺産研究所と高霊郡は昨年、ユネスコの世界遺産リストに加えられた伽耶古墳群の一部である池山洞5号墳について再調査の業務協約を結んだと12日に発表した。

【写真】今年から再発掘調査に入る高霊郡池山洞の大伽耶古墳群5号墳とその周辺を撮った写真。稜線の頂上部に位置する伽耶最大規模の王陵級古墳だ=高霊郡提供//ハンギョレ新聞社
【写真】日帝強占期の1939年、高霊郡池山洞の大伽耶古墳群の旧39号墳(現5号墳)から出土した丸い輪と龍頭の装飾の大きな刀(環頭大刀)。国立中央博物館が所蔵する日帝強占期のガラス乾板の写真=国立中央博物館提供//ハンギョレ新聞社
【写真】朝霧が漂う高霊郡池山洞の古墳群の風景を撮った写真=高霊郡提供//ハンギョレ新聞社

 山稜線に存在するのが特徴である池山洞古墳群は、前世紀の日帝強占期の頃から注目された大伽耶の支配層の大規模な墳丘墓群だ。
 大伽耶は5~6世紀に慶尚北道と慶尚南道の北部一帯で栄えた伽耶の地域強国だった。3~4世紀に伽耶圏を主導した金官伽耶を押しのけ、伽耶時代後期に盟主の役割を果たした。池山洞古墳群は全盛期の大伽耶の地位を端的に示す歴史遺跡だといえる。
 特に1970年代には、5号墳の下の44号墳や45号墳などを発掘したところ、地位の低い者を犠牲にして埋葬する殉葬の跡がある大伽耶支配者の墓の構造が明らかになり、多数の鎧、兜、刃、装飾品、土器などが確認され、国民的な関心を集めた。さらに2017~2018年には、古墳群の中小型の墳墓74基に対する後続調査によって、金銅冠、鎧、刃、殉葬と推定される人骨などの遺物1000点あまりを確認する成果を上げたりもした。

【写真】1939年に池山洞の旧39号墳(現5号墳)内の部屋から環頭大刀が出土した当時の発掘現場の様子。刃の先端と輪柄の取手以外の刃の本体が地面に埋もれている。国立中央博物館が所蔵する日帝強占期のガラス甲板写真=国立中央博物館提供//ハンギョレ新聞社

 池山洞の山のふもとと稜線には、封土墓700基あまりを含む1万基を超える古墳が点在していると推算されるが、5号墳はこの古墳のなかで最も高い地位にある中核的な墳墓とされる。朝鮮時代に発行された地図書『新増 東国輿地勝覧』には「錦林王陵」と記録されている。錦林王は大伽耶または伴跛国の王と推定されている。他の歴史書には登場せず、唯一『新増 東国輿地勝覧』にだけ登場する謎の君主だ。
 研究所側は、再発掘の調査期間をひとまず3年ほどと考えている。2026年まで封土と墓の被葬者の遺体と副葬品を埋めた埋葬主体部、墓の周辺部に対する精密な発掘調査を進めることにした。これをもとに、2028年までに調査内容と出土遺物を収録した発掘調査報告書を発刊する計画だ。
 ファン・インホ所長は「発掘調査とともに、墓の土木工学的な構造と各種の有機物などを分析する作業も進める予定」で、「関連の記録が少なくベールに包まれている大伽耶の古墳築造技術と埋葬儀礼なども明らかにできると期待される」と述べた。

【写真】高霊郡池山洞の大伽耶古墳群5号墳の発掘調査のための業務協約式が12日、高霊郡庁で開かれた。調査を担当する国立慶州文化遺産研究所のファン・インホ所長とイ・ナムチョル高霊郡守が業務協約書を持って記念写真を撮っている=国家遺産庁提供//ハンギョレ新聞社

ノ・ヒョンソク記者 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )
韓国語原文入力:2024-06-13 23:56
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「ロシア反体制派指導者ナワリヌイ氏、獄死を予見 回顧録で明らかに」

2024年10月12日 | 朝鮮史
「AFP」 2024年10月12日 16:40 発信地:ニューヨーク/米国
■ロシア反体制派指導者ナワリヌイ氏、獄死を予見 回顧録で明らかに

【写真】ロシアの反体制派指導者アレクセイ・ナワリヌイ氏。モスクワ市裁判所報道局提供(2021年2月2日撮影)。(c)AFP PHOTO / Moscow City Court press service / handout

【10月12日 AFP】今年2月に北極圏の刑務所で獄死したロシアの反体制派指導者アレクセイ・ナワリヌイ(Alexei Navalny)氏が、自身の獄死を予見していたことが、米誌ニューヨーカーが11日に公開した回顧録の抜粋で明らかになった。
「Patriot(愛国者)」と題された回顧録はナワリヌイ氏が獄中で記した日記とそれ以前に記した文書をまとめたもので、今月22日に米出版社クノッフ(Knopf)から発売予定。同社はロシア語版の発売も計画している。
 ナワリヌイ氏は2022年3月22日、「私は残りの人生を獄中で過ごし、ここで死ぬだろう」「別れを告げる人は誰もいないだろう。すべての記念日は私抜きで祝われるだろう。自分の孫に会うこともないだろう」と記している。
 ナワリヌイ氏は「過激主義」の罪で懲役19年を言い渡され、北極圏の刑務所で服役していた。
 今年2月16日に47歳で死去すると、ウラジーミル・プーチン(Vladimir Putin)大統領に責任があると非難する声が相次いだ。
 ナワリヌイ氏は2020年に毒殺未遂の被害に遭い、一命を取り留めた後、2021年1月にロシアに帰国して逮捕された。
 今年1月17日付のニューヨーカー誌に掲載された抜粋で、ナワリヌイ氏は受刑者仲間や刑務官から、なぜロシアに戻って来たのかと聞かれるとして、こう答えている。
「私は祖国を見限ったり、裏切ったりしたくない。自分の信念が意義あるものなら、そのために立ち上がり、必要ならば犠牲を払う覚悟が必要だ」 。
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「月尾島に生き埋めになった人民軍100人の遺骨を発掘して北に返還しよう」

2024年10月03日 | 朝鮮史
「The Hankyoreh」 2024-09-11 09:37
■「月尾島に生き埋めになった人民軍100人の遺骨を発掘して北に返還しよう」
 海軍諜報部隊予備役中央会のイム・ヒョンシン会長

【写真】海軍諜報部隊(UDU)予備役中央会のイム・ヒョンシン会長=コ・ギョンテ記者//ハンギョレ新聞社

 「仁川市月尾島(ウォルミド)の東側の洞窟跡を発掘し、生き埋めになった方々を探して北朝鮮に返してほしいです」。
 海軍諜報部隊(UDU)予備役中央会のイム・ヒョンシン会長(55)は、毎年9月、仁川(インチョン)上陸作戦記念日が近づく度に、感慨を新たにする。国軍情報司令部特殊任務旅団の一軸であるUDUで服務した一人として、マッカーサーと米国の観点にとらわれず、韓国のUDU隊員たちが作戦に貢献した事実を知らせるのに先頭に立ってきたからだ。ところが、最近は毎年9月15日前後に「(北朝鮮の)人民軍の遺骨」を思い浮かべると語った。
 昨年3月22日、仁川研究院1階の大講堂で開かれた黄海平和フォーラム政策セミナー「仁川上陸作戦、保守と革新の対話」に討論者として出席したイム会長は、「米軍の艦砲射撃と地上作戦で月尾山東麓に生き埋めになった人民軍の遺骨を人道的見地で発掘し、返還することで、南北関係の行き詰まりを突破してみよう」とも話した。保守側の討論者として型破りな発言だったが、革新側も関心を示さず残念だったという。最近も機会あるごとにこのような提案をするというイム会長は、休戦後の北朝鮮特殊作戦に対し、なかなか勲章追叙を行わない韓国政府にも物申したいと語った。仁川上陸作戦と月尾島爆撃日が近づく6日午前、仁川新浦洞(シンポドン)のチャイナタウンにあるUDU予備役中央会事務室でイム会長に会い、詳しい話を聞いた。
 月尾島は1950年9月15日、仁川上陸作戦を控え、10日から14日まで米軍の戦闘爆撃機と軍艦による無差別爆撃の対象になり、火の海へと変わった。10日には月尾島東側の民間人居住地に爆弾(ナパーム弾)が投下されてから、戦闘機による機関銃射撃が行われ、13~14日には10隻の軍艦が月尾島に720メートルの距離まで近づき、月尾島西側の丘の要塞に艦砲射撃を加えた。

【写真】仁川市月尾島の月尾公園内に位置する韓国移民史博物館および月尾山地域。この近隣地域は、米軍の艦砲射撃で人民軍が壊滅したと推定される=コ・ギョンテ記者//ハンギョレ新聞社

 仁川上陸作戦の際に洞窟に避難した人民軍 
 投降を拒否すると、米軍が洞窟の入口を埋めた 
 「遺骨の発掘、南北梗塞突破口になる可能性も」 
 
 仁川上陸作戦当時、海軍特殊部隊が活躍 
 10日、月尾公園で戦死者の追悼式典 
 「休戦以降の対北朝鮮工作も勲章を与えるべき」

 真実・和解のための過去事整理委員会(真実和解委)が2008年に行なった「月尾島米軍爆撃事件」調査によると、1950年9月10日の爆撃による民間人犠牲者は約100人と推算された。人民軍駐屯地と民間人居住地域を全く区別せず爆撃を行った結果だった。13~14日の艦砲射撃で、月尾島の西半分の月尾山の丘にトンネルを掘って塹壕を作り、火力を配置した人民軍第226独立海兵連隊3大隊1個砲台と、第918野戦工兵連隊1個砲台400人余りの兵力が壊滅した。当時UDUの作戦を指揮したハム・ミョンス中佐(第7代海軍参謀総長)は、回顧録『海へ世界へ』(2007)で、「人民軍400人余りのうち108人が戦死し、136人が捕虜になったが、このうち100人余りは生き埋めになった」と書いた。
 「米軍の爆撃でここに住んでいた住民が犠牲になり、故郷を離れて帰れなかったことを思うと、胸が痛みます。ところが、今まで誰もそこに埋められた人民軍のことは覚えていてくれませんでした。洞窟の入口から投降を勧めましたが、拒否されたことを受け、米軍がブルドーザーで入口を埋めてしまいました。74年も過ぎたのだから、もう人権の見地から彼らにも目を向ける時ではないでしょうか」。当時島だった月尾島は、干拓で今は仁川とつながっている。イム会長は、「今のように南北関係が行き詰まっている時が、むしろ遺骨を発掘し北朝鮮に引き渡す適期だ」と主張するが、まだ耳を傾けてくれる人がいない。
 現実性も問題になる。正確な埋葬地を探し出すことは二の次の問題だ。北朝鮮は坡州(パジュ)の赤軍墓地にある人民軍の遺骨もいまだ引き取っていない。国軍の遺骨発掘の過程で、人民軍と中国軍(中国軍)の遺骨を発見したことはあるが、国防部の遺骨発掘鑑識団が最初から人民軍の遺骨のために発掘作業を進めたことはない。ただ、生き埋めになったにもかかわらず、忘れられた彼らの名前を初めて呼んだだけでも意味はある。関心の第一歩を踏み出したからだ。
 江原道横城(フェンソン)生まれのイム会長は、高校生の時、仁川に引っ越した。1989年、中国の伝統武術の韓国代表に選ばれ、1990年の北京アジア大会への出場に備えていたところ、軍隊の招集令状が届いた。UDUに配属されたのは偶然だった。「水原(スウォン)兵務庁で特殊部隊に行きたいと言ったら、空輸特戦団など様々な特殊部隊を紹介する資料を見せてくれました。 『ほかはありませんか』と聞くと、本物の特殊部隊があると言って、兵務担当要員に連れて行きました」。イム会長は36カ月間外泊・外出の一切ない軍生活を送った。

【写真】北朝鮮派遣工作員特殊任務同志会全国連合の会員たちが2002年3月15日、大統領との面会と政府の具体的な補償を求め、ソウル鍾路区の世宗文化会館前の道路を占拠し、鉄パイプなどを振り回しながら警察と対立している=ハンギョレ資料写真//ハンギョレ新聞社

 現在、UDU予備役中央会には1200人の会員がいる。1948年の政府樹立から2002年まで勤めた彼らは、「特殊任務遂行者補償に関する法律」などによって、全員国家有功者として認められた。2002年3月、大統領との面会と政府の具体的な補償を求め、光化門(クァンファムン)で大規模なデモを行った結果だった。陸軍諜報部隊(HID)まで含めて1951年から2002年にかけて北に送られた工作員は1万1273人で、そのうち7987人が戻ってくることはできなかったが、政府が「そのような部隊はない」として彼らの存在を否定したことで、会員たちが総決起した。
 イム会長は、1950年8月24日、八尾島南側の霊興島にUDUが真っ先に入り諜報作戦を始めたとし、仁川上陸作戦前夜の活動を説明した。17人からなる1チームが、霊興島でゲリラ戦をしながら時間を稼ぎ、特殊工作隊を月尾島と仁川側に潜入させ、人民軍兵力に関する情報を収集し、海軍本部を経由してマッカーサー司令部に伝えたという。UDU予備役中央会が毎年仁川上陸作戦戦勝記念行事の一つである「海軍諜報部隊戦死者追悼式典」に力を入れる理由だ。
 今年の追悼式典は11日9時半、月尾島の月尾公園内のUDU忠魂塔で行われる。仁川上陸作戦の戦死者だけでなく、UDU全体の戦死者(450位)に対する追悼式典だ。また、民間人犠牲者に対する追悼の気持ちも表すという。
 イム会長はインタビューの最後に、政府に対する残念な気持ちをにじませた。「1972年の7・4南北共同声明までの諜報部隊戦死者に対する勲章追叙を要請しましたが、朝鮮戦争の期間までに限るとして断られました。勲章も与えないのに、休戦協定後もなぜ部隊を存続させ、対北朝鮮特殊作戦を遂行させたのか問いたいです」。

コ・ギョンテ記者 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )
https://www.hani.co.kr/arti/society/society_general/1157928.html
韓国語原文入力:2024-09-10 19:29
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「日章旗に覆われてはならない「記録の男」孫基禎」

2024年08月11日 | 朝鮮史
「韓国経済新聞/中央日報日本語版」 2024.08.11 13:23
■日章旗に覆われてはならない「記録の男」孫基禎
 パリ五輪の男子マラソンは10日午後にスタートする。88年前は1日前にスタートした。1936年ベルリン五輪。韓国人のだれもが知っているように、植民地朝鮮の青年孫基禎(ソン・ギジョン)がトップでオリンピアシュタディオンのゴールを通過した。2時間29分19秒、五輪最高記録だった。最後の区間はスプリンターのような途轍もないスピードで疾走した。だが青年の表情は明るくなかった。

◇当時の気温30度? 公式記録は21度
 オリンピアシュタディオンの西側にある聖火台の後壁には種目別の優勝者の名前が刻まれている。「MARATHONLAUF 42195m SON JAPAN」。1970年8月15日、当時国会議員だった朴永禄(パク・ヨンロク)氏がはしごをかけて上り、「JAPAN」を削り「KOREA」に変えた。5時間かかったという。だが国際オリンピック委員会(IOC)と西ドイツ政府はすぐ「JAPAN」に直した。今後も孫基禎の国籍を韓国に変えるのは容易ではないだろう。
 2012年7月、筆者はベルリンを訪問し五輪のマラソン区間を調査しスポーツ博物館とオリンピアシュタディオンを訪問した。スポーツ博物館の学芸員の助けを受けて検索した資料を分析し、「韓国体育史学会誌」に論文を載せた。内容は少なくない。ただ7月19日にスポーツ博物館のドアを開けて入った時の驚きを覚えている。
 ドアを開けるとすぐ孫基禎の写真が見えた。ジェシー・オーエンスの写真はその後ろにあった。学芸員は写真説明を示した。「Kee Chung Sohn(Kitei Son)」。 学芸員は「われわれは1989年から彼の名前を韓国式に表記してきた。国籍は変えられない」とした。筆者は孫基禎という名前が巨大な断層の真ん中にあることを改めて感じた。韓国と日本、勝利と悲哀。
 「孫基禎は韓国人初の五輪金メダリストだ。彼は1936年のベルリン五輪のマラソンで2時間30分の壁を突破し五輪新記録を樹立して金メダルを取った。そして日本帝国主義の強占統治の下に置かれた同胞の鬱憤をぬぐう一方民族意識を改めて鼓吹させた」。
 私たちはここまで知っている。外から見る視角も大きく異ならない。外国の研究者のうち相当数は1988年のソウル五輪を契機に孫基禎に注目した。2004年に論文「孫基禎とスピリドン・ルイス、1936年ベルリン五輪マラソンの政治的局面」を発表したカルル・レナルツが代表的だ。彼は1936年にマラソン表彰台で頭を下げた若い勝利者と1988年ソウル五輪開会式で白髪の高齢者が聖火を持って踊るように走る場面を劇的に対比させた。
 孫基禎の名前はいつも鮮明な断層の中に姿を現わす。その淵源は長い。孫基禎が優勝した後、日本の読売新聞は8月10日に号外を発行し臨時特派員として派遣した西條八十の詩を掲載する。題名は「我等の英雄!弾丸の如く躍り出た小男」だ。このように終わる。
 「誰れか、今日のこの勝利を期待しただろう/踊れ!起て!歌へ!日本人!/日本は見せた/けふ明瞭り(はっきり)みせた/この小男孫のなかに/世界を指導する、躍進日本の勇ましい現在の姿を」。
 半島では詩人の沈熏(シム・フン)が8月11日付の朝鮮中央日報に「おぉ、朝鮮の男児よ!-マラソンに優勝した孫・南の両君に」を載せた。詩人は絶叫する。
 「おぉ、私は叫びたい! マイクを握って/全世界の人類に向かって叫びたい!/これでも君たちはわれわれを弱い民族だと呼ぶのか!」
 このように鮮明な対照は孫基禎の運命であろう。そのため彼の頭の中の真ん中を民族の境界と運命の等高線が横切る。孫基禎はベルリンでだれも自身が韓国人であることを知らないだろうと懸念したようだ。そこで機会があるたびに自身が韓国人であることを示そうと努力しただろう。だれかサインをくれと言えばハングルで名前を書き韓半島(朝鮮半島)の地図を描き、サインとともにKOREANと書く形で。
 残念なことだが残っている資料は1936年にベルリンで孫基禎が韓国人という事実は秘密ではないということを示してくれる。陸上専門紙は孫基禎が京城(現ソウル)の養正高等普通学校出身という日本の関係者の話を引用して報道した。日本人を意識してのことかもしれないが、孫基禎は自身に対して積極的に説明しない。選手村情報誌は孫基禎が「とても寡黙で10分に一度やっと話をするほどだった。彼は故郷であるKoreaで訓練した内容について話した」と書いた。
 このように鮮明な断層の向かい側に忘却が座を占めている。五輪精神に照らして最も高貴な価値かもしれない勝利者に対する尊重と崇拝を見つけることができないのだ。孫基禎は世界最高記録保有者としてベルリンに行き、五輪新記録打ち立てて金メダルを獲得した。彼が立てた記録の価値、世界最高のマラソンランナーが受けて当然な名誉を「植民地青年の悲哀」と「日本はまだ孫基禎が日本人であるかのように紹介している」という韓国人の憤怒の向かい側のどこから見つけるべきか。優れたマラソンランナー孫基禎の実際の競技内容と関連した情報すら悲哀と憤怒の次元を抜け出すことができない。その結果、時には伝説が、時には確認できない誇張と歪曲が事実かのように流通する。例を挙げてみよう。
 多くの韓国国内文献はマラソン競技が開かれた1936年8月9日にベルリンが「30度を超える高温」に湿度が高かったと記録した。「北海から熱風が吹いてきた」という記述もみられる。ベルリン五輪の公式記録は違う。気温は競技が始まった午後3時ごろに22.8度、終わった時は21.0度であり、空は晴れ大気は乾燥していた。30度は真夏の暑さを象徴する温度だ。マラソン競技が苛酷な暑さの中で開かれたという前提は優勝者孫基禎の英雄イメージを強化し彼が収めた勝利の意味を固めるのに寄与しただろう。

◇サインは必ずハングルで書き韓半島描く
 孫基禎は走る間に水を全く飲まなかったという。彼は自叙伝に「ビスマルクの丘を上がると看護婦が水を勧め、口を一度ゆすいで吐いた」と記録した。しかし写真資料は孫基禎が少なくとも2地点で水を供給されたことを示している。まず看護師が渡したコップを口に当てる写真が1枚ある。この写真は孫基禎の自叙伝にも掲載された。五輪公式記録645ページには日本人関係者が渡した水を飲む(ような)写真がある。39キロメートル地点で撮影されたという。水を飲まずに42.195キロメートルを走った超人的意志を強調するにはマラソン中に水を飲んではならないという古い常識も作用した。
 筆者は何年か前に尊敬する仲間と話しながら孫基禎を「歴史的意味」の枠組みから抜け出し自然科学の側面から研究する価値がある点に共感した。こうした考えを交わした。孫基禎が走る姿はレニ・リーフェンシュタールの映画『オリンピア』など動画が存在する。1937年5月に孫基禎がセブランスで心拍数、血圧、肺活量、心臓構造などを測定した身体検査記録が残っている。AIをはじめとする最近の技術を使えば孫基禎の体格と走法などを分析し、彼が到達できた記録の最大値、現代マラソンに適用すべき特長点を抽出してみることはできないだろうか。
 孫基禎という名前は彼が死去した後も忘却と悲哀、憤怒という名前で世界の片隅に残っている。ある所で忘却の深淵は1936年8月よりいまがより深い。筆者は4年前の夏休みにドイツのリューデスハイムを訪問し、路地にあるカフェに入って昼食を食べた。そこで長く土産物店をやってきた韓国僑民から聞いた逸話だ。1981年10月に孫基禎がその店に立ち寄ったが、だれも気付かなかった。同行した僑民1人がドイツ人に尋ねた。
 「1936年のベルリン五輪のマラソンでだれが優勝したか知っているか」。
 ひとりが叫んだ。
 「日本人(Japaner)!」。
 僑民は「韓国人」と正した後、「その方がここに来られた」と紹介した。雷のような満場の拍手が起こった。憂鬱なエピソードの最後が拍手で締めくくられたのはそれでも幸いなことだ。

     ホ・ジンソク/韓国体育大学教授
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「抗日独立運動家パク・チェヒョク義士記念式、28日に開催」

2024年08月03日 | 朝鮮史
「The Hankyoreh」 2020-10-21 10:21
■抗日独立運動家パク・チェヒョク義士記念式、28日に開催
 釜山警察署爆弾投擲義挙100周年記念式

【写真】釜山出身の独立運動家、パク・チェヒョク義士=資料写真//ハンギョレ新聞社

 新型コロナウイルス感染症(COVID-19)の拡散によって延期されていた朴載赫(パク・チェヒョク)義士の釜山(プサン)警察署爆弾投てき義挙100周年記念式が、28日に開催される。
 パク・チェヒョク義士記念事業会は20日、「28日午前10時、釜山商工会議所2階の国際会議場で、釜山の独立運動家であるパク義士の釜山警察署爆弾投てき義挙100周年記念式を開催する」と発表した。当初、記念式は先月14日に開かれる予定だったが、新型コロナの拡散が収まらず、延期されていた。
 南区大淵洞(ナムグ・テヨンドン)のアモスアートホールでは、29日夜7時30分に学生・市民招待音楽会「パク・チェヒョクを歌う」が開かれる。釜山国際デザイン祭と連携した学生・青年デザイン体験展と、パク義士特別企画パネル展示も、記念式会場と音楽会場で行われる。
 パク義士は公立釜山商業学校を卒業後、地域で抗日運動を展開。1917年6月に中国の上海へと渡り、1920年4月に義烈団に加入した。パク義士は同年9月14日、釜山警察署で中国人の古書籍商になりすまし、当時釜山警察署長だった橋本秀平への面会を求めた。橋本はパク義士と面談し、パク義士はその場で独立運動家たちを捕らえた橋本の罪をとがめながら爆弾を投げた。橋本は死亡し、パク義士は重傷を負った。
 パク義士は現場で捕まり、大邱(テグ)刑務所に投獄され、1921年3月に死刑を言い渡された。パク義士は「日本の奴らの手で死刑になりたくない」としてハンストに入り、同年5月11日に拷問の後遺症などにより獄中で殉国した。
 パク義士の義挙後の1年間は、国内で日帝の警察署を襲撃する事件が相次いだ。政府は1962年、パク義士に建国勲章独立章を授けた。釜山中区(チュング)は昨年12月、パク義士の義挙を称える表示板を、旧釜山警察署(中区東光洞(トングァンドン))跡の隣の階段に立てている。
キム・ヨンドン記者 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )
韓国語原文入力:2020-10-20 14:13


https://japan.hani.co.kr/arti/politics/32137.html「The Hankyoreh」 2018-11-19 07:46
■1932年、永保村の兄弟峰では一体何が?
 無視された永保村の抗日闘士… 
 国家報勲処、審査基準変更し 
 崔炳秀先生など6人、有功者叙勲 
 一つの村に15人…独立運動の聖地に

【写真】1932年陰暦メーデー時、小作権移転に反対するデモが起きた全羅南道霊岩郡徳津面永保里兄弟峰=霊岩文化院提供//ハンギョレ新聞社

 日帝強制占領期間(日本の植民地期)の1931年8月、全羅南道霊岩(ヨンアム)永保村(ヨンボチョン)の青年たちは、10年に及ぶ準備の末「新思想研究会」という秘密結社組織を作る。1919年の3・1運動以後、いわゆる“文化統治”という名前で一層巧妙化した日帝の弾圧に抵抗するためだ。翌年1932年の陰暦メーデーの6月4日、これらの青年70人あまりは、永保村の裏山の兄弟峰(ヒョンジェボン)で山遊会を装って集結した。彼らは日帝に向かって「この地から出て行け」、「田畑をよこせ」と叫び村に向けて行進した。これに対し村の農民たちが加勢した。日帝は、デモ隊のうち100人あまりを逮捕し、このうち67人を裁判に付して最高5年までの重刑を宣告した。この事件は当時、新聞に「永保村兄弟峰事件」として80回ほど報道され、全国から注目を集めた。
 農民の抗日デモが起きた霊岩の永保村が、独立運動の聖地に浮上している。国家報勲処は最近、この村出身の崔炳秀(チェ・ビョンス)、崔東林(チェ・ドンニム)、シン・ヨンジュ・シン・ヨンジョム先生など6人を独立有功者として追叙した。彼らは今まで社会主義系という理由で叙勲から排除されていたが、審査基準が変わり遅れて有功者になった。報勲処は6月「社会主義活動参加者も北朝鮮の政権樹立に寄与していないならば褒賞する」と審査基準を変えた。これにより、この村出身の独立有功者は計15人に増えた。一つの村から叙勲者がこれほど多く出た事例は、独立運動史で珍しいという。

【写真】国家報勲処が17日、独立有功者に認定した崔炳秀先生の功績調書=報勲処提供//ハンギョレ新聞社

 今回独立褒章が叙勲された崔炳秀先生(1906~1965)は、当時27歳でデモの中心に立ち、1年7カ月の獄苦を体験しなければならなかった。彼は朝鮮戦争当時、北側が占領した時に霊岩の「内務署長」(警察署長)を務めた経歴のために、今まで褒賞審査に上がれなかった。彼は2015年8月12日、日本大使館前で開かれた水曜集会で焼身して亡くなったチェ・ヒョンヨル氏の父親だ。息子のヒョンヨル氏は、現場に「正しい歴史を手にするなら、戦う方法を知り、死ぬ方法も知らなければならない」という遺書を残した。
 シン・ヨンジュ(1906年生)・ヨンジョム(1910年生まれ)兄弟は、メーデーデモに揃って参加し1年以上収監される苦難に遭った。だが、朝鮮戦争当時、農民同盟員だった経歴があるとか、独立運動以後の行跡が明らかでないとの理由で忘れられた存在として残され、一歩遅れて独立有功者になった。
 チェ・ユンホ霊岩農民抗日独立運動記念事業会長(81)は「住民の血の中に火花のような正義感が受け継がれている。当時そろって抗日闘士だったが、58人は正当な評価を受けることができなかった。小さな記念館でも建てて、村の歴史を長く記憶してほしい」と話した。

アン・クァノク記者 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )
韓国語原文入力:2018-11-18 18:03
訳J.S
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千年超えて土中に埋もれていた観音像…ついによみがえった眩い黄金色=韓国

2024年07月16日 | 朝鮮史
「The Hankyoreh」 2024-07-13 09:57
■千年超えて土中に埋もれていた観音像…ついによみがえった眩い黄金色=韓国
 国立春川博物館特別展「よみがえる新羅の光」 
 禪林院址金銅仏像、5年以上の大手術の末に再公開

【写真】国立春川博物館で今年5月から単独展示中の禅林院址の金銅菩薩立像。台座と光背、胴の装身具をすべて別々に作り結合して作った8~9世紀の統一新羅の金銅仏像の最高傑作と評される。低反射ガラス製の特製ショーケースの中で観客を迎えている=ノ・ヒョンソク記者//ハンギョレ新聞社

 まばゆい黄金色のきらびやかな金銅仏像は、1000年以上も山奥の地中に埋もれていた。
 8~9世紀、新羅・慶州の最高の職人たちが衆生を救ってほしいと祈り、真心を込めて観音菩薩立像だった。だが、その運命は過酷だった。慶州から江原道襄陽郡(ヤンヤングン)の山奥の寺に移され、修行僧たちの視線を浴びていたが、山崩れで寺と共に埋没してしまった。山奥の地中で光と形を失い崩れていた暗黒の歳月は、21世紀になってようやく終わりを迎えた。9年前、奇跡的に考古学者のショベルに仏像の胴体が引っかかったのだ。全面が錆と土にまみれた仏像は、5年以上にわたる保存科学者たちの大手術の末に、錆を取り除き眩しい黄金色を取り戻した。散乱していた台座と光背、華麗な装身具もほとんど像と一体になることができた。
2015年に禅林院址の遺跡から出土したばかりの当時の仏像の姿。錆に覆われ土と絡み合っていた=ノ・ヒョンソク記者//ハンギョレ新聞社
 今年5月から国立春川博物館の単独特別展「よみがえる新羅の光」で披露されている江原道襄陽の禅林院址から出土した統一新羅時代の金銅菩薩立像(宝物)は、眩しい姿の中にこうした秘史を持っている傑作だ。2015年に襄陽の禅林院址で発掘された菩薩像で、長きにわたる保存復元処理の過程を経て、朝鮮半島の古代仏像の中で最もきらびやかな黄金色を持つ姿が蘇った。台座と光背を含めて高さ66.7センチのこの観音菩薩立像は、出土地が明確な統一新羅の小型金銅像の中で最も大きいだけでなく、台座、光背、装身具を全て備え、髪の毛、唇、ひげなどに石彩と墨で彩色した跡までそのまま残った唯一の仏像だ。

【写真】金銅菩薩立像の頭と顔の部分。厳粛でありながら深く慈しみ深い表情をしている。髪や目元、ひげなどを墨や藍色の顔料を塗って表現していたことが分かる。古代朝鮮半島の仏像の顔と体の細部に墨と顔料を使った跡が現れたのは、禅林院址の金銅仏像が唯一=ノ・ヒョンソク記者//ハンギョレ新聞社

 錆を除去するだけで4年以上かかり、ついに2021年に国立文化財復元センターで復元を終え、昨年仏教中央博物館で初めて大衆に公開された。初公開ではないが、今回の博物館の展示は昨年の展示よりはるかに格別だと言える。国立博物館の保存専門家たちが力を合わせて、像の背面に残った光背の細部と一部の瓔珞(ようらく、玉装身具)などの復元まで終え、低反射ガラスでできた特製ショーケースまで備えて360度回って仏像の細部をより完全な姿で鑑賞できるようになった。
 禅林院址の菩薩像は、三国時代と統一新羅時代の古代仏像の中で装飾性が最も優れており、華麗な作品として筆頭に挙げられる。装飾性を生かすのは、幾重もの空間にわたって装飾物を囲みながら視覚的効果を極大化することが常道だが、禅林院址の仏像はこうした技法を最大限に発揮し、体の装身具はもとより台座の様々な器物までそれぞれ別に分離された工芸小物が付いている。光背の炎模様と植物の唐草(つる)模様を透かし彫りで処理し、菩薩本体の華やかな姿と調和させたのも絶妙だ。
 間近で像を見ることができるので、髪、目元、ひげを墨と藍色の顔料を塗って表現したことがわかる。古代朝鮮半島の仏像の顔と体の細部に墨と顔料を使った跡が明らかになったのは、この禅林院址の金銅仏像が唯一だという点で注目すべき部分だ。
 金銅菩薩立像の首、胸、腹の部分も目を引く部分だ。柔らかく流れ落ちる布の裾を背景に、つぼみ状の装飾がついたネックレスがあり、その下の腹部には精巧な作りの四角形の装身具が豪華な装飾美の極みを見せてくれる。展示のために、梵鐘のうなりのように間隔をおいて強弱を繰り返す特製照明の効果も、立体的な鑑賞を助けてくれる。

【写真】金銅菩薩立像の上半身を横から見た姿=ノ・ヒョンソク記者//ハンギョレ新聞社

 今年上半期、京畿道龍仁(ヨンイン)の湖巖(ホアム)美術館仏教美術展の目玉として展示された後に日本に戻った百済金銅観音像とこの仏像を比較する楽しみもある。いずれも新羅と百済の仏教信仰と芸術性、技術力が反映された絶頂の作品と言えるが、子どものように純粋で澄んだ百済観音像の無垢な表情に比べ、200年後に出た禅林院址の観音像は厳粛でありながらも奥ゆかしく慈しみ深い絶対者の表情をしている。

【写真】金銅菩薩立像の首、胸、腹の部分。柔らかく流れ落ちる布の裾を背景に、つぼみ状の飾りがいくつも連なったネックレスがあり、その下の腹部には精巧な作りの四角形の装身具が見える=ノ・ヒョンソク記者//ハンギョレ新聞社

 厳粛だが、胴体は世俗化する中国の唐・宋代の仏像や、極度の恐怖心を抱かせる表情で悪鬼を制圧する同時期の日本の平安仏像とは明確に区分される、新羅ならではの特徴だ。5~6世紀新羅古墳の黄金の金冠と装身具から見える精巧な金属細工術の伝統を継承しながらも、図像の側面で後代さらに深く円熟した統一新羅の仏像芸術の様相を端的に示す展示会といえる。28日まで。

春川/ノ・ヒョンソク記者 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )
韓国語原文入力:2024-07-11 19:05
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「韓日市民が手を取り合い、100年越しの『関東犠牲者追悼文化祭』を開催」

2024年05月19日 | 朝鮮史
「The Hankyoreh」 2023-12-15 10:08
■韓日市民が手を取り合い、100年越しの『関東犠牲者追悼文化祭』を開催
  京畿文化財団「関東、100年の沈黙」 
  今月9日、城南市の嘉泉大学イェウムホールで  
  平和の木合唱団・埼玉合唱団の合同公演 
 「真実を直視し、誤った歴史を繰り返さないように」 
  埼玉も虐殺の現場 
 「謝罪・反省の意を抱いて公演準備」

【写真】関東大震災から100年を迎え開かれる韓日合同追悼文化祭「関東、100年の沈黙」のポスター=企画会社ANTストーリー提供//ハンギョレ新聞社

 1923年9月1日、東京を含む関東地域で史上最悪の大地震が発生した。日本の歴史では関東大震災は過去最大級の自然災害の一つに過ぎない。しかし、いわゆる自警団の狂気で数千人が犠牲になった在日朝鮮人にとって、関東大震災時の虐殺は恐ろしい大災害として残っている。にもかかわらず、これまで韓日両政府の無視の中で関東大虐殺は忘れられてきた。今年、関東大震災朝鮮人虐殺100年を迎え、初めて「韓日市民合同追悼文化祭」公演が開かれる。
 京畿文化財団(代表ユ・インテク)は今月9日午後7時、京畿道城南市(ソンナムシ)の嘉泉大学イェウムホールで「2023韓日市民の合唱―関東、100年の沈黙」公演を行う。「いまここに鳴り響く韓日の平和と共生のハーモニー」を主題に、ハンギョレ平和の木合唱団と日本の埼玉合唱団、京畿少年少女合唱団、イ・エジュ伝統舞踊会、Mクラシックオーケストラ、そして在日コリアン2世の歌手イ・ジョンミなど、両国の芸術者たちが一緒に舞台を飾る。
 特に平和の木合唱団と埼玉合唱団は、2010年8月の「強制併合100年韓日市民大会」の時にソウルで「第1回韓日市民の合唱」合同公演を行って以来、これまでほぼ毎年両国を行き来しながら文化交流を行ってきた。
 「警官隊の警戒裡 哀の涙 怨の恨/悲しい弔辞と追悼歌で終わる/仁川で震災時惨死同胞追悼会―昨年9月1日の日本の関東地方震災時に惨死した同胞のために、仁川労働総同盟の主催で追悼会が開催された。同追悼会は1日午後8時半から市内の山手町の公会堂で開かれたが、定刻前から制服私服の巡査30人余りが警戒する中、定刻になり主催側である労働総同盟委員長のパク・チャンハン氏の開会で哀悼の辞が読まれた後、しばし黙想した。会衆は立錐の余地もなく1千人余りに達し、場内の空気は悲しき風が吹くように張り詰めた中……」。
 今回の追悼文化祭は、「1924年9月1日当時、京畿道仁川市の公会堂(現在の仁聖女子高校)で関東大震災1周忌追悼会が開かれた」という旧日刊紙の記事をきっかけに企画された。

【写真】1924年9月1日、京畿道仁川市で開かれた関東大震災1周忌追悼会を知らせた「警官隊の警官裡 哀の涙 怨の恨」という見出しの記事=「朝鮮日報」1924年9月3日付//ハンギョレ新聞社
【写真】1924年9月1日「関東大震災1周忌追悼会」が開かれた、日帝強占期の京畿道仁川府山手町の公会堂の全景。現在の仁聖女子高校の多目的ホールの位置。仁川市史に掲載された写真//ハンギョレ新聞社

 すでに知られている通り、1923年、関東一帯でマグニチュード7.9の大地震が起こり、数万人が死亡し、数百万人が家を失いさまよう混乱の中、「朝鮮人が井戸に毒を入れた」「朝鮮人が暴動を起こし、日本人を襲撃している」というデマがあっという間に広がり、日本の警察の庇護のもと自警団という市民組織によって朝鮮人大虐殺が行われた。第2の「3・1万歳運動」を警戒した日帝の統制にもかかわらず朝鮮人被害を調査した罹災同胞慰問班が1924年1月に発表した記録によると、少なくとも6661人の朝鮮人が犠牲になった。100年がたつ間、事件の真相と内幕は、さまざまな証拠と研究資料を通じて、日本政府によって捏造された扇動によって行われていたことが明らかになった。しかし、これまで日本政府はその責任を回避しており、一部の極右政治家は虐殺そのものを否定し、歴史歪曲論議を呼んでいる。歴代の韓国政府も公式に真相究明や謝罪を要求したことが一度もないほど「沈黙」を守ってきた。
 今回の追悼文化祭の総監督であり「関東犠牲者のための鎮魂曲」を作った平和の木合唱団の指揮者イ・ヨンジュ氏は「過去の歴史的事件をイメージあるいは音楽で表現することは、完全ではありえません。しかも、他人の記憶と記録に依存して組み合わせる方法では、事件を完全に記述することもできません。しかし、もどかしさを抱いたまま、一曲一曲作業をしなければなりません。今ここに生きている音楽家がしなければならない義務です。たとえ当時の目撃者ではないとしても、残された者として後代に証言を伝えなければならない責務があるのですから」と、「沈黙」を破る意味を明らかにした。
 埼玉合唱団の八反田誠(はったんだまこと)団長は、「犠牲者への追悼の気持ちとともに、関東(大震災虐殺)の真実を直視し、誤った歴史を絶対に繰り返さず、みんなで平和の未来に進むことを願う思いを伝えたい」とし、韓国側からの「初の韓日市民合同追悼文化祭」の提案を快く受け入れた趣旨を明らかにした。

【写真】2010年8月、ソウル成均館大学で平和の木合唱団と埼玉合唱団が「強制併合100年―第1回韓日市民の合唱」合同公演を行っている=ハンギョレ統一文化財団提供//ハンギョレ新聞社

 埼玉合唱団は、日本の埼玉県で1960年から活動してきた純粋な民間文化団体だ。東京都の北に位置する埼玉県は、関東大震災での朝鮮人虐殺の現場の一つでもある。ある団員は「2010年に『強制併合100年』合同公演で日本軍『慰安婦』被害者の方々に慰労と謝罪の気持ちを伝えたように、今回も心の中に韓国の人たちへの謝罪と反省を抱き、公演を準備した」と、個人的な感想を伝えた。
 追悼文化祭の第1部のテーマは「関東の記憶100年」。犠牲者の魂を呼び起こすイ・エジュ韓国伝統舞踊会のノクチョン(死者の魂を表す紙の人形)の舞いを皮切りに、大虐殺の惨状を平和の木合唱団と埼玉合唱団がオラトリオで観客に伝える。第2部は「懺悔と和解」の時空間を、歌手のイ・ジョンミ氏と京畿少年少女合唱団が両国の童謡などを通じて演出する。第3部では埼玉合唱団の単独舞台に続き、出演者全員が「平和と和合の大合唱」でフィナーレを飾る。

(以下のURLより「関東、100年の沈黙」公演の動画を見ることができます:
https://www.youtube.com/watch?v=UIvvHDGSoXc)

キム・ギョンエ先任記者 (お問い合わせ japan@hani.co.kr)
韓国語原文入力:2023-12-05 01:48
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