「The Hankyoreh」 2024-11-11 20:23
■水漏れもないほど精巧だった…1600年前に伽耶人が作った水路を発見
咸安伽耶里遺跡で土城排水施設を発見
【写真】慶尚南道咸安伽耶里(カヤリ)遺跡で確認された人工水路。大きな石を運んできて、精密に継ぎ目を合わせ、底部の水路と側面の石垣を造成した姿が鮮明。同時に確認された土城の壁の内外を通過する仕組みであることが確認された=国立伽耶文化遺産研究所提供//ハンギョレ新聞社
1600年前に伽耶人たちが掘った水路が初めて明らかになった。当代の職人と兵士が石を運び、精魂込めて背t族部を組み上げた精巧な排水路だ。
国立伽耶文化財研究所は5~6世紀の伽耶小国「阿羅伽耶」(アラカヤ)の王城跡と推定してきた慶尚南道咸安郡伽耶邑伽耶里586番地一帯の伽耶里遺跡(国家史跡)を発掘調査した結果、当代の土城の跡と土城内外をつなぐ長さ16.5メートルの人工水路(排水施設)跡を発見したと11日発表した。伽耶関連遺跡で形が明確な排水路施設が発見されたのは初めてだ。
発見された水路は幅1~3.5メートル、長さ16.5メートルに達する。城の内側の狭く窪んだところ(谷間地)に集まる水を城の外に排出する用途と見られる。城壁を通過する部分では、蓋石を覆うように地中に埋めた水路である暗渠の幅を1メートル内外に狭くした。これに比べ、城壁の外に続く部分は蓋石なしで幅が最大3.5メートルまで広がるラッパ状になっている。研究所側は「水が流れる速度を遅らせるために考案した仕組みと推定される。土城が位置した土地の形を綿密に調べ、排水システムを構成した伽耶人の土木技術力が実感できる」と評価した。
【写真】伽耶里遺跡の土城城壁と城内の狭く窪んだ谷間地から城外に流れる石垣排水路の跡を上から見下ろした様子=国立伽耶文化遺産研究所提供//ハンギョレ新聞社
【写真】慶尚南道咸安伽耶里遺跡一帯の全景。写真の中央下部の森が茂った丘の横部分が、伽耶時代の人工水路が出てきた発掘現場だ=国立伽耶文化遺産研究所提供//ハンギョレ新聞社
土城の城壁は谷間地の狭い入口部分を塞ぎ積み上げてある。幾重にも固めて積み上げる版築技法で、防御用の塚状陣地である土塁を中心部に積み、狭く谷のある城内の地形を平らにするために底部分に木の枝などを土と混ぜて積み上げる敷葉工法を用いた跡が明らかになった。築かれた土塁の内外部分には、斜めに土を重ねて積み上げた内外壁を作ることで城壁を補強した。このような過程を経て積み上げた版築土塁の幅は5.5メートル、内外壁の底部の幅はそれぞれ12メートル、版築土塁と内外壁を含めた底部の幅は29.5メートルだ。積み上げた土層の中から短い木製壺と釜型土器も発見され、城壁の敷地を土地に造成する過程で安全を祈る祭祀などの儀礼があったものと推定される。
【写真】城壁の敷地を作る過程で儀礼に使われたと推定される独特な形の土器類も発掘された=国立伽耶文化遺産研究所提供//ハンギョレ新聞社
【写真】儀礼用と推定される埋納土器=国立伽耶文化遺産研究所提供//ハンギョレ新聞社
伽耶里遺跡には5~6世紀の咸安一帯で栄えた小国阿羅伽耶の土城や建物跡が散在している。「咸州誌」(1587)と「東国輿地」(1656)など朝鮮時代の文献資料に昔の国の跡を意味する「古国遺基」の記録が伝えられ、最近の地表・発掘調査でも重要遺物と遺構が発見され、考古歴史学界ではこの遺跡を阿羅伽耶王城跡と比定してきた。2019年、国家指定文化遺産史跡に指定された。研究所側は13日午後2時に発掘成果を公開する現場説明会を開き、20日午後1時に咸安博物館で伽耶里遺跡の調査・研究成果を地域住民に説明する学術討論会(フォーラム)も進行する予定だ。
【写真】土城の城郭ができた敷地造成層の底部を見下ろした姿。木の枝を土と混ぜて城郭などの構造物を積む敷葉工法の跡が確認される=国立伽耶文化遺産研究所提供//ハンギョレ新聞社
【写真】城壁の断面土層部の様子。写真の上部に内外壁の盛土層と版築城壁の断面が、左下には今回初めて確認された水路(排水路)が見える=国立伽耶文化遺産研究所提供//ハンギョレ新聞社
ノ・ヒョンソク記者 (お問い合わせ (お問い合わせ japan@hani.co.kr ) )
韓国語原文入力:2024-11-11 19:14
「The Hankyoreh」 2024-10-22 21:54
■1500年前の金官伽耶王城跡に…貝殻を土に混ぜて積み上げた痕跡=韓国
金海市の国家史跡、鳳凰台古墳を発掘調査中に確認
【写真】貝殻の破片を混ぜて土層を固めて積み上げた発掘断面の細部。考古学の専門用語で「貝殻盛土層」と呼ばれる=韓国国立伽耶文化遺産研究所提供//ハンギョレ新聞社
現在の慶尚南道金海(キムヘ)地域で約1500年前に栄えた金官伽耶国の人々が、貝殻を混ぜて土を積み上げ城を築いていた痕跡が明らかになった。
国立文化遺産研究院・国立伽耶文化遺産研究所(オ・チュンヨン所長)は、金官伽耶王城跡とされてきた金海の鳳凰洞(ポンファンドン)遺跡(国家指定史跡)の一部である鳳凰台の丘一帯を発掘調査した結果、5世紀頃に実施された大規模な敷地造成工事の痕跡を確認したと、22日発表した。
研究所側は、鳳凰台の丘の東側の傾斜した地点と平地を調査する過程で、伽耶の人々が大規模に貝殻を混ぜて積んだ土層(盛土層)を発見したと明らかにした。この土層は、丘の北東側の低い地帯を埋めて作ったもので、地盤を丈夫にするためにたくさんの貝殻片を混ぜて斜めに重ね合わせて積み上げたもの。最大深さは4メートル、長さは周辺の鳳凰土城の城壁一帯まで含めて100メートル以上とみられる。5世紀頃、鳳凰台の丘を囲んで繰り広げられた土城の城壁(周囲約1.5キロメートルと推定)築造工事の一部の跡であると推定されるという。
【写真】貝殻盛土層が露出した発掘遺跡の西側断面=国立伽耶文化遺産研究所提供//ハンギョレ新聞社
傾斜した土地の周囲に土を重ねて固め積み上げる工法は、古代朝鮮半島の人々が広い土地を造成する際に主に使われた。慶州の皇龍寺跡(ファンリョンサジ)、扶余の金剛寺跡(クムガンサジ)など三国時代の寺跡に先例があるが、鳳凰台の発掘遺跡はもっと早い時期に造成されており、貝殻を混ぜて積み上げた点が特異だ。研究所側は「底径6~8メートル前後、高さ1メートル前後の盛り土を積み、これを中心にいくつか同心円状に土地を固めて積み上げた盛土作業がなされたことを示す平面構造が新たに明らかになったことに意味がある」として「完全には明らかになっていない金官伽耶王城跡の面貌を究明するのに役立つだろう」と期待した。
調査現場の公開説明会は24日午後2時に開かれる。研究所側はこの席で、これまで鳳凰台一帯で発掘した生活土器類や鹿・鯨・鮫などの動物の骨、儀礼に使われたと推定される卜骨や土偶、模型土器、動物の骨矢じり、鉄鉱石、送風管なども見せる予定だ。
【写真】人工敷地の造成工事の痕跡が明らかになった発掘現場。貝殻片を大規模に混ぜて土層を固めて積み上げた様子が発掘した断面に表れている=国立伽耶文化遺産研究所提供//ハンギョレ新聞社
鳳凰洞遺跡は1963年に国家指定史跡に指定された金海の会ヒョン里(フェヒョンニ)貝塚遺跡と、1990年代に本格的な発掘が行われた鳳凰台丘一帯の遺跡を、2001年に一つにまとめて拡大指定された国家史跡だ。昔から金官伽耶の王城と伝えられ、日本による植民地時代から最近まで鳳凰台の丘と周辺一帯に対する発掘調査が続いてきた。調査を通じて船を浦口に置いた接岸施設跡や倉庫建物跡、鉄を掘る冶鉄跡、貝塚、土城、支石墓など紀元前の青銅器時代から4~5世紀の金官伽耶時代に至る多期な遺跡が明らかになっている。
【写真】遠方から見下ろした金海市の鳳凰洞遺跡の全景。写真の中で下の方に青色のシートで区画したところが、伽耶時代の大型工事跡が出てきた発掘現場=国立伽耶文化遺産研究所提供//ハンギョレ新聞社
【写真】発掘調査で明らかになった貝殻盛土層の平面構造を上から見下ろした姿=国立伽耶文化遺産研究所提供//ハンギョレ新聞社
【写真】発掘過程で明らかになった建物跡の様子=国立伽耶文化遺産研究所提供//ハンギョレ新聞社
ノ・ヒョンソク記者 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )
韓国語原文入力:2024-10-22 18:59
「The Hankyoreh」 2024-07-09 07:56
■【独自】泥岩層から出土した大伽耶初の「大王」の痕跡…1500年の謎を解くか
伽耶人が用いた最高指導者の呼称の謎
高霊の宮殿の場所から「大王」と彫られた土器が出土
伽耶が支配者に新羅のように「大王」と呼称したと推定
【写真】「大王」と刻まれたと推定される土器のかけらの銘文の細部と土器のかけらの全体像。土器のかけらの下段に「大」の字とその下に一部字形が崩れた「王」または「干」と読める不完全な1文字が連続して浮き彫りになっている=大東文化財研究院提供//ハンギョレ新聞社
大伽耶は、約1500年前に慶尚道西部と全羅道東部にかけて繁栄し、新羅と競合した強力な小国家だった。大伽耶の人々が最高首長を当時の新羅のように「大王」と呼んだことが推定できる遺物が出土した。
先月27日に発掘調査が終った高霊(コリョン)の大伽耶邑延詔里(テガヤウプ・ヨンジョリ)555-1番地の「大伽耶推定宮城跡」I-1区域の堀(防御用の池)跡の内部の底の泥岩層から出土した土器のかけらがまさにそれだ。先月21日に発掘機関である大東文化財研究院が、宮城跡と堀跡についての現場説明会を開いた直後に出土した、6世紀初めごろの大伽耶系の土器で、未公開の遺物だ。
この土器のかけらを調べたところ、下の部分に明確な「大」の字と、一部字形が崩れて「王」または「干」の字と推定できる不完全な形の1文字を垂直の構図で続けて浮き彫り(陽刻)にした模様が確認された。
「大」の字は全体が明確に表れ、その下の字は上の部分の画だけが残っているが、「王」であることが明らかだとする見解が有力だ。慶北大学のチュ・ボドン名誉教授ら古代金石文を研究する一部の歴史学系の専門家らが事前に鑑識した結果、「王」の字であることがほぼ確実だとする意見を提示したことが分かった。
【写真】慶尚北道高霊郡大伽耶邑内の大伽耶の宮城と推定される遺跡の堀底で発見された、「大王」と刻まれたと推定される土器のかけら=大東文化財研究院提供//ハンギョレ新聞社
「大王」と判読する場合、出土場所が明らかな大伽耶の遺物から「大王」という呼称名が確認された初の事例となる。大伽耶が最高首長を「大王」と呼んでいたという実物の資料になるという点で、支配勢力内部の階層構造を把握する具体的な端緒を発見したという意味が大きい。
「三国史記」や「三国遺事」などの朝鮮半島の歴史書には、高句麗や百済、新羅の首長は「王」と呼ばれ、新羅の場合、6世紀初期に仏教を公認した法興王の時代に「大王」という称号を使用していた記録が伝えられているが、大伽耶の人たちが首長をどのように呼んでいたのかについての歴史的資料はない。
ただし、朝鮮半島関連の歴史的記述の歪曲が激しいという指摘を受けている7~8世紀の古代日本の歴史書である「日本書紀」には、慶尚南道咸安郡(ハマングン)一帯にあった安羅国(安羅伽耶)と伽耶(大伽耶)では王という称号が使われていたという内容が残されている。このような脈絡から、大伽耶の首長が「大王」という称号を用いていたのは、伽耶帝国の他の伽耶勢力の間で優れた地位を誇示し、新羅や百済とは同格の国であることを示そうとする意味があるものとみられる。
【写真】「大王」と推定される字が刻まれた土器が出土した大伽耶の宮城と推定される遺跡の土城壁の下の堀の様子。底面に黒ずんだ泥岩層が見える。ここから銘文土器が出土した=大東文化財研究院提供//ハンギョレ新聞社
出土場所が宮城跡と推定される遺跡の下方の堀の底である点も重要だ。土器自体が、学界が実体を追跡してきた高霊の大伽耶の宮城跡であることを立証するもう一つの考古学的根拠になるためだ。
大伽耶系の遺物で「大王」の銘文が出土した先例としては、1990年代から忠南大学博物館が所蔵している「大王」と刻まれた大伽耶系大型土器の有蓋長頚壷(蓋付きの首の長い壷)がある。しかし、出処不明の盗掘品の性質を持つ購入品であるため、信憑性に劣るという限界がある。
出土した大伽耶土器のなかでは別の銘文が刻まれた事例も珍しいが、一部報告された事例が知られている。慶尚南道陜川郡苧浦里(ハプチョングン・チョポリ)から出土した「下部思利利」と記名された土器が代表的で、大伽耶が古新羅のように地方行政単位で部体制を整えていたことを示す遺物とされる。
【写真】忠南大学が所蔵する「大王」と彫られた有蓋長頚壷と、この壷の蓋と胴体の部分にそれぞれ刻まれた「大王」の文字=国立金海博物館提供//ハンギョレ新聞社
大邱韓医大学のキム・セギ名誉教授(考古学)は「大伽耶は他の伽耶の小国とは違い、5世紀末に中国南朝の南斉に使節を送り、首長が公式に爵位を得て、その後は新羅のように古代国家級に成長することになる」とし、「大王と刻まれた土器の発見は、古代国家の段階に達した大伽耶の国家体制の実体を示す重要な成果とみられる」と述べた。
大東文化財研究院は9日午後2時、大邱市頭流洞(テグシ・トゥリュドン)にある研究院の建物で、古代史や考古学の専攻者らを招待し、銘文土器を公開して意見を聞く説明会を開く予定だ。
ノ・ヒョンソク記者 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )
韓国語原文入力:2024-07-08 23:01
「The Hankyoreh」 2024-06-14 08:07
■日本が破墓した大伽耶「黄金の龍頭」王陵…1500年を経て世に公開
略式発掘だけでも環頭大刀、金銅の矢筒などの宝物が続々
ベールに包まれた支配者、錦林王の墓と記録…3年間再調査
【写真】日帝強占期の1939年、高霊郡池山洞の大伽耶古墳群の旧39号墳(現5号墳)から出土した輪の柄と龍頭の装飾の大きな刀(環頭大刀)。国立中央博物館が所蔵する日帝強占期のガラス乾板の写真=国立中央博物館提供//ハンギョレ新聞社
約1500年前の大伽耶の支配者の墓の中から黄金の刀があらわれた。純金の塊を加工して作った輪の柄の中に口から炎を吹き出す純金製の龍頭のレリーフを入れたものを付けた大きな刃だった。
いわゆる「環頭大刀」と称される大伽耶の宝物の刃を発見したのは、日帝の御用考古学者だ。85年前の1939年、朝鮮総督府の命令を受けて慶尚北道高霊郡池山洞(コリョングン・チサンドン)の大伽耶古墳群の現場に調査員として急派された有光教一と斎藤忠だった。二人は山稜線に点在する古墳のなかから頂上にある5号墳を指定し、ただちに墳丘墓を掘り始めた。5号墳は直径が約45メートル、高さ11.9メートルに達する巨大な墓で、慶尚道と全羅道の大伽耶の古墳のなかでは最大だった。
現況把握のための略式発掘だったが、黄金に輝く環頭大刀をはじめ、怪獣模様の腰帯、龍の像で彩られた金銅の矢筒、頑強な大伽耶の土器の壺などが墓の内部の部屋から数多く出土した。
王陵級の遺跡であることは明らかだったが、二人は正式な発掘報告書を提出しなかった。ごく簡略な調査記録と一部の出土品の写真だけを残したまま、発掘の穴を埋めて去っていった。6年後に解放(日本の敗戦)が訪れたが、5号墳の発掘は世間の記憶から忘れ去られた。
伽耶時代の古墳のなかで最大の墓である高霊池山洞5号墳は、このように日帝強占期(日本による植民地時代)に盗掘に近い発掘で終わる悲運を経た。そのため、解放後に伽耶史を研究する考古歴史学者の間では、伽耶の古墳を代表する5号墳の完全な再発掘調査は悲願として残ることになる。
今年、ついにその念願がかなうことになった。国立慶州文化遺産研究所と高霊郡は昨年、ユネスコの世界遺産リストに加えられた伽耶古墳群の一部である池山洞5号墳について再調査の業務協約を結んだと12日に発表した。
【写真】今年から再発掘調査に入る高霊郡池山洞の大伽耶古墳群5号墳とその周辺を撮った写真。稜線の頂上部に位置する伽耶最大規模の王陵級古墳だ=高霊郡提供//ハンギョレ新聞社
【写真】日帝強占期の1939年、高霊郡池山洞の大伽耶古墳群の旧39号墳(現5号墳)から出土した丸い輪と龍頭の装飾の大きな刀(環頭大刀)。国立中央博物館が所蔵する日帝強占期のガラス乾板の写真=国立中央博物館提供//ハンギョレ新聞社
【写真】朝霧が漂う高霊郡池山洞の古墳群の風景を撮った写真=高霊郡提供//ハンギョレ新聞社
山稜線に存在するのが特徴である池山洞古墳群は、前世紀の日帝強占期の頃から注目された大伽耶の支配層の大規模な墳丘墓群だ。
大伽耶は5~6世紀に慶尚北道と慶尚南道の北部一帯で栄えた伽耶の地域強国だった。3~4世紀に伽耶圏を主導した金官伽耶を押しのけ、伽耶時代後期に盟主の役割を果たした。池山洞古墳群は全盛期の大伽耶の地位を端的に示す歴史遺跡だといえる。
特に1970年代には、5号墳の下の44号墳や45号墳などを発掘したところ、地位の低い者を犠牲にして埋葬する殉葬の跡がある大伽耶支配者の墓の構造が明らかになり、多数の鎧、兜、刃、装飾品、土器などが確認され、国民的な関心を集めた。さらに2017~2018年には、古墳群の中小型の墳墓74基に対する後続調査によって、金銅冠、鎧、刃、殉葬と推定される人骨などの遺物1000点あまりを確認する成果を上げたりもした。
【写真】1939年に池山洞の旧39号墳(現5号墳)内の部屋から環頭大刀が出土した当時の発掘現場の様子。刃の先端と輪柄の取手以外の刃の本体が地面に埋もれている。国立中央博物館が所蔵する日帝強占期のガラス甲板写真=国立中央博物館提供//ハンギョレ新聞社
池山洞の山のふもとと稜線には、封土墓700基あまりを含む1万基を超える古墳が点在していると推算されるが、5号墳はこの古墳のなかで最も高い地位にある中核的な墳墓とされる。朝鮮時代に発行された地図書『新増 東国輿地勝覧』には「錦林王陵」と記録されている。錦林王は大伽耶または伴跛国の王と推定されている。他の歴史書には登場せず、唯一『新増 東国輿地勝覧』にだけ登場する謎の君主だ。
研究所側は、再発掘の調査期間をひとまず3年ほどと考えている。2026年まで封土と墓の被葬者の遺体と副葬品を埋めた埋葬主体部、墓の周辺部に対する精密な発掘調査を進めることにした。これをもとに、2028年までに調査内容と出土遺物を収録した発掘調査報告書を発刊する計画だ。
ファン・インホ所長は「発掘調査とともに、墓の土木工学的な構造と各種の有機物などを分析する作業も進める予定」で、「関連の記録が少なくベールに包まれている大伽耶の古墳築造技術と埋葬儀礼なども明らかにできると期待される」と述べた。
【写真】高霊郡池山洞の大伽耶古墳群5号墳の発掘調査のための業務協約式が12日、高霊郡庁で開かれた。調査を担当する国立慶州文化遺産研究所のファン・インホ所長とイ・ナムチョル高霊郡守が業務協約書を持って記念写真を撮っている=国家遺産庁提供//ハンギョレ新聞社
ノ・ヒョンソク記者 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )
韓国語原文入力:2024-06-13 23:56