三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

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「朝鮮王朝時代の金属活字版書籍 早稲田大で発見」

2021年04月03日 | 朝鮮史
https://jp.yna.co.kr/view/AJP20210329005100882?section=news
「聯合ニュース」 2021.03.29 20:33
■朝鮮王朝時代の金属活字版書籍 早稲田大で発見
【ソウル聯合ニュース】朝鮮王朝第4代王、世宗大王の在位中(1418~1450)に金属活字で印刷された書籍「吏学指南」が早稲田大の図書館に所蔵されていることが分かった。海外所在の韓国文化財を調査・研究する「国外所在文化財財団」が先ごろ発刊した、早稲田大図書館の韓国関連の書籍を調査した報告書で明らかにした。

【写真】早稲田大が所蔵する「吏学指南」の金属活字版(国外所在文化財財団提供)=(聯合ニュース)

 「吏学指南」は1301年に元王朝時代の中国で編纂された官吏のための指針書。今回、見つかったのは1421年に金属活字で印刷されたもので、「吏学指南」の金属活字版が発見されたのは今回が初めて。韓国にも残っていないという。
 財団は、木版よりも早い時期に金属活字で印刷された事例という点で印刷の歴史上、重要な意味があると説明した。 
 同報告書には「吏学指南」をはじめ、韓国関連の書籍482種2686冊の特徴や成立事情、出版年などの詳細な情報が盛り込まれた。
 またこれまで所蔵が確認されていたものに加え、新たに62種類の資料が加えられた。
 今回の報告書は、国内だけでなく早稲田大や海外とも共有して活用できるように、韓国語と日本語の混合版で発刊された。
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「朝鮮半島最大の古代の墓、開けた直後に閉じた理由は」

2021年03月23日 | 朝鮮史
http://japan.hani.co.kr/arti/culture/39476.html
「The Hankyoreh」 2021-03-22 10:21
■朝鮮半島最大の古代の墓、開けた直後に閉じた理由は
 [ノ・ヒョンソクの時事文化財] 
 長鼓峰古墳をめぐり考古学界で騒ぎに 
 日本の古墳に似た構造や祭祀の跡をめぐり議論 
 「追加発掘後に一般公開」とし、再び埋める 
 墓の被葬者は百済の統制を受けた倭人? 
 日本の右翼が任那日本府説の根拠にすることを懸念

【写真】最近発掘調査された全羅南道海南郡北日面方山里の長鼓峰古墳内部の石室。遺体を置く部屋への入口の玄門が正面にみえ、平らな板石をいくつか置いた床と砕いた石を整然と積んだ石室の壁面が見える。1990年代までに2回盗掘され、内部の遺物は大部分が失われた//ハンギョレ新聞社

 朝鮮半島で最大の古代の単一の墓が、新年の始めについに開かれた。考古学者らは5~6世紀の日本の古墳とそっくりな墓の構造に驚き、すぐに土で覆われ再び埋められてしまったことにがっかりした。今年1月、国土最南端の海南(ヘナム)から聞こえた墓の発掘に続く覆土のニュースは、メディアには公開されなかったが、韓国国内の考古学界を騒がせた。
 この遺跡は、全羅南道海南(ヘナム)の北日面方山里(プギルミョン・パンサンリ)の長鼓峰古墳だ。6世紀前半のものと推定されるこの墓の外側の墳墓と石室内部が、去年10月から今年2月まで、馬韓文化研究院の発掘調査により約1500年ぶりに明らかにされた。驚くべきことに、石室は日本の九州の外海岸と有明海一帯で5~6世紀に造成された倭人貴族の石室墓と、構造はもちろん墓の内部への入口をふさぐ前に行われた祭祀の跡までほとんど同じだった。

【写真】長鼓峰古墳の石室の入口からみた内部空間。床に細長い板石を置き、砕いた石を整然と積み壁面を作り、上側天井に蓋石を置く典型的な古代日本の九州地域の石室墓の構造だ。天井と壁面にはやはり日本の古代古墳の典型的な特徴である赤い朱漆の跡が確認される//ハンギョレ新聞社

 調査団は、後面の封土を掘り、墓の内部に通じる細い通路(羨道)に入り、内側を観察した。調査の結果、床に細長い板石を置き、上側に砕いた石(割石)を整然と積み壁面を作る、古代九州の石室墓特有の構造であることが明確だった。天井と壁面にも、日本の弥生時代以来の古墳の典型的な特徴である赤い朱漆が塗られた跡が残っていた。
 出土品はほとんどが盗掘されていたが、墓の被葬者を明らかにする手がかりとなる遺物が相当数収集された。墓の内部への入口で発見されたふた付きの皿(蓋杯)10点が代表的だ。一部の蓋杯の中にはイシモチなどの魚の骨や肉類など祭礼での食事と推定される有機物の塊も検出された。「日本の古墳で確認された祭礼の遺物と類似の内容物と配置が注目される」と、チョ・グヌ研究院長は説明した。墓の内部を直接調べた慶北大学考古人類学科のパク・チョンス教授は「九州の倭人の墓に入った時と印象がまったく同じだった」と述べた。

【写真】長鼓峰古墳の内部への入口の玄門と内部の様子。石室は、長さと幅がそれぞれ4メートルを越え、天井までの高さは2メートルに達する巨大な空間だ。床に細長い板石を置き、砕いた石を整然と積み壁面を築く古代の西日本九州地域の石室墓と構造が全く同じだ//ハンギョレ新聞社
【写真】墓の石室に入る羨道(細い通路)の入口部分の発掘現場。土の圧力による崩壊の危険に備え、上部をおおう石の下に金属の支柱を差し込んでいる//ハンギョレ新聞社

 長鼓峰古墳は墳墓の長さが82メートル(溝を含む)、高さは9メートルに達する。皇南大塚などの新羅の慶州の大型古墳より大きい韓国国内最大級の墓だ。外見は日本で古代国家が成立する当時の墓の様式である前方後円墳(長鼓形墳墓)の形だ。前方後円墳は、墳墓の前方は四角い形で後方は丸みのある円形の特徴をとり、日本の学者が名付けた名称だ。日本の墳墓の形式である前方後円墳が古代の海上路の要所である全羅南道の海岸一帯に10基存在するという事実は、1980~1990年代に相次いで確認された。日本の右派勢力は、4~6世紀に日本が朝鮮半島南部を支配したという「任那日本府説」を裏付ける物証だと主張した。韓国と日本の学界で、埋葬された人物の出身地が朝鮮半島か倭国かをめぐり大きな議論となった。

【写真】空中から見下ろした海南の長鼓峰古墳の全景。前方は四角い形で後方は丸みのある円形の前方後円墳の特徴がはっきりとみえる。後方の円形の墳墓の上に7の字を逆にした形の穴を掘り石室を開いている発掘の様子がみえる//ハンギョレ新聞社
【写真】海南北日面方山里にある長鼓峰古墳の外見。前方は四角形で後方は丸い墳墓の形である古代日本特有の墓の前方後円墳の典型的な形だ//ハンギョレ新聞社

 長鼓峰古墳も議論の中で困難を経験した。80年代初め、学界に初めて報告された当時は、自然の地形である丘とみなされた。80年代半ばごろに嶺南大学のカン・イング元教授が発掘許可を申請したが、文化財委員会の許可が下りず、外側の実測しかできなかった。1986年に全羅南道記念物に指定されたが、保存措置がまともにとられず、90年代に2回盗掘された。国立光州博物館が2000年に盗掘の穴を確認し、緊急試掘調査により内部を一部確認したが、公式の発掘は20年後の昨年秋に始まった。
 しかし、墓の石室は2月末に再び埋められた。研究院側は「新型コロナウイルスの防疫のための措置で、5~9月に墓の周溝の追加発掘の後に一般公開を推進する」と明らかにした。しかし、一部では発掘による波紋も考慮したものだという見方が出ている。調査内容は、朝鮮半島の前方後円墳の墓の被葬者の議論を再び引き起こす公算が高い。過去20年ほどの間、百済政府の統制を受けた倭人官僚や傭兵という説と、日本に移住し現地の墓の文化の影響を受け帰国した馬韓人または百済人という説など、多くの推測が出された。長鼓峰古墳から九州の古墳と瓜二つの構造と鉄鎧の破片や鉄の矢じりなどの武器類が埋められた事実が確認されたのは、韓国国内の学界に負担になり得る。日本の右派学者が再び任那日本府説の根拠にすることがあり得るという懸念まで出ている。

【写真】昨年10月から今年2月まで調査された長鼓峰古墳の主な出土品。本来の副葬品は大部分が盗掘されたが、今回は蓋つきの土器の皿(蓋杯)やかまどの枠の破片、鉄製の鎧や鉄の矢じりの破片などが相当数出土し、墓の被葬者を推定する手がかりになるとみられる//ハンギョレ新聞社

 ソウル大学国史学科のクォン・オヨン教授の助言を思い出したい。「長鼓峰古墳は倭系統の墳墓の構造を有しているが、埋葬された人物を軽々しく断定してはいけません。外形、構造、遺物などを当時の情勢とともによく調べなければなりません。民族主義を越え古代人の観点まで考え、開かれたものの見方でアプローチしなければなりません」。

ノ・ヒョンソク記者、写真=馬韓文化研究院提供 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )
http://www.hani.co.kr/arti/culture/culture_general/987244.html
韓国語原文入力:2021-03-21 11:46
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「名前も記録もない「独立運動家の子孫」を嘲弄した人々へ」

2021年03月09日 | 朝鮮史
http://japan.hani.co.kr/arti/politics/39332.html
「The Hankyoreh」 2021-03-06 12:33
■[記者手帳]名前も記録もない「独立運動家の子孫」を嘲弄した人々へ
 [土曜版]親切な記者たち 
 独立運動家の子孫を嘲弄した事件を見て思いついた企画

【写真】独立有功者叙勲を受けた計1万5千人の中で子孫が確認されず、勲章も渡せなかった方が6228人に達する。左からチャン・ジェウク、イ・ガプムン、キム・ギョンド、チェ・チャン、ペク・グァンピル氏=パク・ジョンシク記者//ハンギョレ新聞社

 こんにちは。写真部写真企画チームのパク・ジョンシクです。隔週で掲載される「この瞬間」など、写真でお見せできる様々な企画取材を担当しています。企画取材をしていると、その日その日に起きた事件よりは特定の時点に関連した取材をする時がよくあります。今回の三一節(独立運動記念日)の企画もそうやって始まりました。
 三一節は韓国の歴史の重要な事件を記憶する日ですが、毎年繰り返されるため、これを写真で表現するのは容易ではありません。三一節記念式典の写真が毎年新聞に載るのもそのためでしょう。何を撮ればいいのか悩んでいたところ、ある右翼の漫画家が自分のソーシャル・ネットワーキング・サービス(SNS)に掲載した書き込みと写真を目にしました。
 「実は100年前にもいわゆる親日附逆派は一所懸命生きた人たちで、独立運動家たちは適当に生きた人たちではなかろうか」。
 高い塀に囲まれた大邸宅と、土壁にスレート屋根の家が写った写真を比べながらの投稿でした。前者には親日附逆派の子孫が、後者には独立運動家の子孫が住んでいるという説明がついていました。文と写真を見ているうちに、怒りより悲しみがこみ上げてきました。独立運動家の子孫の窮乏が笑いのネタになり、そのような文と写真を実名で載せることに何ら恥じらいのない人と同時代を生きていることに、嘆かわしさを覚えたからです。
 漫画家の文と写真が掲載された後、写真の中の独立有功者の子孫だと自分を紹介した人物の文が掲載されました。独立運動家チョ・ビョンジンの曾孫という彼はこのように述べました。「日帝に附逆せず、祖国の独立のために微力ながら貢献した曽祖父の人生を適当に生きたと蔑んだユン・ソイン氏に聞きたい。豊かに暮らしている親日附逆派の子孫は、果たしてその祖先を誇らしく思っているだろうか」。その後、光復会など独立運動家の子孫たちが暴言を吐いた漫画家に対する告訴を進めているというニュースが聞こえてきました。
 2007年、特別帰化で韓国に帰ってきた海外の独立有功者の子孫を取材したことを思い浮かべました。大々的な歓迎の中で帰化しましたが、肉体労働を転々としながら、貧困と病魔に喘いでいました。取材を終えてからは、善意の取材だったけれど「独立運動家の子孫の貧しさを展示することになったのではないか」と悩む日々もありました。他の方法で独立運動家とその子孫に関心を喚起する必要があると考えました。
 ちょうどその時、国家報勲処が「独立有功者の子孫探し」を行っていました。独立運動家6228人の建国勲章・褒章を受ける人がいないという話を聞きました。安定した家庭環境や財産上の理由などによって子孫がはっきりしている親日附逆派と異なり、独立運動家たちは海外居住や生活苦、子孫たちの無関心、越北(北朝鮮へ渡って暮らすこと)などで子孫を探すのが難しかったためです。彼らの活動を記録だけで終わらせてはならないと思い、残されている独立有功者の写真を使って「この独立運動家の子孫を探しています」(「ハンギョレ」3月1日付1面)の記事を書き上げました。
 記事が出た後、さまざまなコメントが寄せられました。「いまも親日附逆派の子孫らがあらゆる富を蓄積し、独裁政権などの庇護で親日附逆の痕跡を消し、子々孫々にわたってこれまで良い暮らしをしているのに、果たして親日附逆の清算が実現し、独立有功者の子孫が堂々と生きられるだろうか?」「残された家族たちのことを考え、自分を隠して散華した人たちは、時代を問わず多い」、「子孫たちに供養もしてもらえず、地下で慟哭していることだろう」
 報道の後、独立運動家の現実を示すもう一つの事実を確認しました。仁川大学仁川学研究院独立運動史研究所が、2019年から昨年8月まで発掘した独立運動家2060人のうち、644人が国家報勲処第2次審査に上がり、最終68人の功績が認められ、今回の三一節に新たに国家褒賞を受けたというのです。韓国政府はもっと積極的に独立有功者の発掘を進めてほしい、と残念に思いました。
 光復から76年が過ぎましたが、いまだに名前すら知られていない独立運動家がたくさんいます。その子孫たちは貧しいという理由であざ笑われたりもします。かなりの年月が流れましたが、独立運動家の発掘・褒賞作業をしなければならない理由が、ここにあります。「この独立運動家の子孫を探しています」 記事に寄せられたコメントの一つで、この文を締めくくりたいと思います。
 「国のために命をも捨てた方々です。彼らの子孫にでも礼を尽くし、必ず報いることを願っています」。

パク・ジョンシク写真企画チーム記者(お問い合わせ japan@hani.co.kr)
http://www.hani.co.kr/arti/society/society_general/985635.html
韓国語原文入力:2021-03-06 02:00
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「「鳳梧洞戦闘」独立軍の母、キム・ソンニョ女史を称える」

2021年03月03日 | 朝鮮史
http://japan.hani.co.kr/arti/politics/39276.htm
「The Hankyoreh」  2021-03-01 12:35
■[寄稿]「鳳梧洞戦闘」独立軍の母、キム・ソンニョ女史を称える
 祖母の命日に捧げる孫娘の文 

 鳳梧洞基地をつくった崔雲山将軍の妻 
 独立軍の娘で14歳の時に結婚 
 「ミシン部隊」つくり数千人の軍服製作 
 愛国青年たちの食材調達・供給を受け持つ 
 「これまで有功者として叙勲を受けていないことが恥ずかしい」

【写真】祖母キム・ソンニョ女史(1893~1975)は独立軍の子孫・妻であり、自身も独立運動家だった。1960年に撮った家族写真。前列右から2人目がキム・ソンニョ女史、3人目が筆者、後列左から2人目が父チェ・ボンウ=チェ・ソンジュ通信員提供//ハンギョレ新聞社

 もうすぐ三一節(独立運動記念日)と祖母キム・ソンニョ女史の命日がくる。1975年3月3日、私が高校3年の新学期を迎えた日、生涯鳳梧洞(ポンオドン)・青山里(チョンサンリ)武装独立戦争の歴史を正すために尽力した祖母が、夫の崔雲山(チェ・ウンサン)将軍の叙勲を見ることができないまま亡くなった日だ。崔雲山将軍は、その2年後の1977年になって独立有功者として認められた。長男である父(チェ・ボンウ)をはじめ私たち家族はその時、祖母のことを思って長いこと胸を痛めた。ただ、祖父の崔雲山将軍が遅くはなったが叙勲を受けたので、もうしこりが一つ解けたのだから残りは学者や専門家の役目だとして振り返らないことにした。
 そして2015年7月4日、父(2001年死去)の命日に集まった5人兄弟は「わが家の歴史がまさに韓国独立運動史の重要な流れなのだから、これ以上放置してはいけない」という考えで意気投合した。その年の9月に初めて訪問した北満州の鳳梧洞(現中国吉林省汪清県)で、私たちは1997年に父が探し出した曽祖父チェ・ウサムの墓所を確認することができた。2016年には、早くから朝鮮王朝末期に高宗が任命した延辺の道台(道知事)を務め、独立軍指導者の「振東(ジンドン)・雲山・治興(チフン)・明鐵(ミョンチョル)」の4兄弟を育てた曽祖父の墓所に碑を建てようとした父親の約束を守った。

【写真】2016年10月、子孫が北満州の鳳梧洞村にある曽祖父チェ・ウサムの墓所を訪れ記念碑を建てた。写真はチェ・ウサムの次男の崔雲山とキム・ソンニョ夫妻の孫で、右からチェ・ユンジュ、フンジュ、ソンジュ(筆者)、ヒョンジュ、ウンジュ=チェ・ソンジュ通信員提供//ハンギョレ新聞社

 これをきっかけに、30年余り言論分野の市民社会活動を言い訳に家族史に背を向けてきた私も、遅まきながら満州武装独立戦争史を正しく残す仕事に飛び入り、歴史を改めて勉強している。特に、歴史学界がまとめた鳳梧洞独立戦争史とキム・ソンニョ女史の証言が衝突する部分が多かった。ここ数年間、史料調査を通じて再確認する作業を行っている。実際、最も重要な基準は、祖母が生前に聞かせてくれた、生真面目だった本人たちの人生だ。そして驚くべきことに、100年前の史料が、本人の残した記録と証言が正しいということを毎回証明している。
 この過程を通じて改めて分かったのは、鳳梧洞独立軍基地と祖母の活躍ぶりだ。夫の崔雲山将軍が鳳梧洞に集まってくる愛国青年たちを訓練させ、精鋭独立軍に育成した時、祖母は彼らの衣食を世話した「満州独立軍の母」だった。

【写真】2016年に発足した崔雲山将軍記念事業会の理事を務める筆者は「鳳梧洞戦闘の隠れた英雄」である祖父崔雲山と祖母キム・ソンニョの業績を発掘し、2000年に本を出版した=フィロソフィック提供//ハンギョレ新聞社

 咸鏡北道会寧(フェリョン)で生まれた祖母は、すでに独立軍の娘だった。祖母が幼い頃、独立運動のためにロシアに渡った父と兄は、その後永久に帰ってくることができなかった。祖父崔雲山も、清との国境紛争の時、武力衝突も辞さなかった民族主義者のチェ・ウサムの次男だった。そのような2人の結婚は、運命で結ばれた歴史の呼び掛けだったのではないだろうか。
 14歳だった1907年、婚姻と共に新韓村・鳳梧洞の建設に参加した祖母は、夫が馬賊から朝鮮の同胞たちを保護するために約100人の鳳梧洞私兵部隊を創設すると、軍部隊の生活を受け持った。愛国青年が数百人に増え、鳳梧洞の森を伐採し新しい練兵場を作る時も、伐採した木で兵士が泊まる大型の兵舎を建てる時も、自宅の周りに巨大な土城を築いて四方に大砲を配置し、1915年に本格的な独立軍基地を完成させる時も、すべての時を共にしながら父や兄の面倒を見るように独立軍の日常を世話した。
 祖母は北間島と沿海州のすべての独立軍が力を合わせて統合独立軍団「大韓北路独軍部」を組織した時、8台のミシンを用意して数千着の独立軍の軍服を作った「裁縫部隊の大将」だった。軍服を十分に作っておいたおかげで、鳳梧洞戦闘の時、カカシに着せて日本軍の目に止まるように山頂に配置する偽装作戦も使うことができた。また、鳳梧洞周辺に分散して駐屯した各連隊へ、醤油、味噌、コチュジャンに至るまで、すべての食材を惜しみなく配給した「気前のいい兵站隊長」だった。鳳梧洞には、どんな危機にも屈することなく一糸乱れずに動いた「女丈夫」のキム・ソンニョと女性たちがいた。1919年3月26日と5月18日、崔将軍と兄弟が汪清県百草溝で“万歳デモ”を主導した時も、祖母は女性たちを率いて参加した。
 「われわれ独立軍にご飯を作り、独立軍の軍服を作り、独立軍の生活を一手に引き受けてくださったこの方こそ、真の勲章を受けなければならない独立軍です」 。1960年代初め、崔将軍の部下だったある独立軍人が祖母を訪ね、挨拶しながら語った言葉だ。

【写真】鳳梧洞戦闘の主役、洪範図将軍(左)と崔振東将軍(右)が1922年1月、モスクワ極東民族大会に参加した姿。崔振東は筆者の祖父・崔雲山将軍の兄で、日本憲兵隊の飛行場の提供要求を断って連行され、拷問の後遺症で1941年11月に死去した=パン・ビョンリュル教授提供//ハンギョレ新聞
【写真】1922年1月、モスクワ極東民族大会の写真。崔振東将軍の子孫で筆者の伯母であるチェ・ギョンジュは、真ん中の人物が崔雲山将軍だと証言した。崔雲山は生涯で計6回も獄中生活をし、兄と同様に拷問の後遺症で、1945年7月に死去した=パン・ビョンリュル教授提供//ハンギョレ新聞社

 しかし82歳で亡くなるまで、私は祖母が昔のことを自慢したり誇張して話すのを聞いたことがなかった。ただ淡々と、自分の役割を説明するだけだった。そのためか、孫娘である私でさえも、祖母が10代から50代までの人生の黄金期に鳳梧洞の中心を守りながら崔雲山将軍の独立戦争を完成させたその長い歳月、献身を当然のことのように思っていた。
 今になって祖母の言葉をもとに鳳梧洞の歴史を改めて書きながら、私は祖母の名前の前に「独立軍」という呼称をつけるべきだと考える。鳳梧洞の住民はほとんどが独立軍とその家族だった。時期によって人数の加減はあり、独立軍がいくつもの地域に散って滞在することもあったが、鳳梧洞はいつも北間島の独立軍と武装闘争の中心だった。そして鳳梧洞の中心に祖母がいた。残念ながらキム・ソンニョ女史は、いまだ独立運動家としての叙勲を受けていない。恥ずかしいことだ。

チェ・ソンジュ|ハンギョレ株主通信員 (お問い合わせ japan@hani.co.kr)
http://www.hani.co.kr/arti/society/media/984587.html
韓国語原文入力:2021-02-26 19:18
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「韓国初の百科事典に「独島領有権」の証拠発見…日本の「朝鮮忘却説」への反論根拠に」

2021年02月02日 | 朝鮮史
https://japanese.joins.com/JArticle/275052?servcode=A00&sectcode=A10
「中央日報日本語版」 2021.02.01 13:59
■韓国初の百科事典に「独島領有権」の証拠発見…日本の「朝鮮忘却説」への反論根拠に

【写真】朝鮮中期の文官・権文海(1534~1591)が編纂した韓国初の百科事典『大東韻府群玉』(宝物第878号)[写真 醴泉郡]

 鬱陵島(ウルルンド)と独島(ドクト、日本名・竹島)の領有権を立証する新たな資料が韓国初の百科事典などから発見された。慶尚北道醴泉郡(キョンサンブクド・イェチョングン)醴泉博物館に所蔵された『大東韻府群玉』(1589)と『東西彙纂』(19世紀)、『東国通志』(1868)などに鬱陵島・独島に関する多くの内容が確認された。
 1日、醴泉郡によると、朝鮮中期の文官・権文海(クォン・ムンヘ、1534~1591)が編纂した韓国初の百科事典『大同韻府群玉』(宝物第878号)の内容のうち、島(ト、島)、悍(ハン、荒々しさ)、獅(サ、獅子)など一般的な名詞概念の説明で鬱陵島が韓国の地名として登場する。これについて専門家らは、朝鮮前期に韓国人の思考体系の中で鬱陵島が日常的に流通・活用されていたことを証明する史料として評価した。
 これは、これまで日本の学界が朝鮮後期まで韓国が鬱陵島と独島を忘れていたとする主張に反論する根拠となる。日本の学界は「朝鮮政府の空島政策の結果、朝鮮社会は鬱陵島と独島を忘却し、17世紀の安龍福(アン・ヨンボク)と日本の衝突、19世紀の日本の朝鮮半島侵略により朝鮮人が鬱陵島・独島を再発見した」と主張してきた。
 ソウル大学奎章閣(キュジョンガク)韓国学研究院専任研究員のホン・ムンギ博士(独島史料研究委員)は「朝鮮時代の鬱陵島に関する知識が知性界で流通・活用された事例として朝鮮社会が鬱陵島・独島を忘却したという、日本の学界の主張に強く反論する資料」と評価した。
 醴泉博物館は宝物268点を含む計2万点の遺物を確保し、韓国の公立博物館の中で最も多くの宝物を所蔵する場所として知られている。22日、「独島博物館と共にする共同企画展」で新たに発見された鬱陵島・独島関連の所蔵品を一般公開する予定だ。


https://japanese.joins.com/JArticle/275099?servcode=300&sectcode=300
「中央日報日本語版」 2021.02.02 11:22
■独島の地価「高騰」、自然林は前年比17%上昇=韓国

【写真】独島

 独島(ドクト、日本名・竹島)の「地価」が大きく上昇した。慶尚北道(キョンサンブクド)は2日「都内行政区域である鬱陵郡(ウルルングン)独島里の標準公示地価を調査した結果、前年より7.53%~17.78%が上がった」と明らかにした。
 島である独島は陸地とは違って全体101筆地で構成されている。101筆地のうち接岸施設・住居地・自然林に分類し、標準3筆地を定めて毎年公示地価を算定する。
 まず船舶接岸施設がある独島里27番地の1平方メートル当たり公示地価は165万ウォン(約15万5000円)だ。前年比10%上昇した。住居施設がある独島里30-2番地の1平方メートル当たり公示地価は93万5500ウォンということが分かった。前年より7.53%が上がった。自然林で構成された独島里20番地は公示地価が最も大きく上昇したところだ。1平方メートル当たり5300ウォンで、昨年調査より17.78%上昇した。
 慶北道は独島の公示地価の上昇要因を独島の社会的・政治的重要性が独島自らの経済的価値を引き上げたと分析した。また、国民の独島に対する高い関心、これに伴う観光需要の増大と観光基盤施設の増設が公示地価の上昇に影響を及ぼしたと分析した。
 独島に行くために経るべき鬱陵島に空港が建てられるのも独島の公示地価の上昇に影響を及ぼす要因になり得る。鬱陵郡も空港建設の効果で前年比11.66%の平均公示地価が上がった。
 今年慶北地域の全体標準地公示地価の変動率は全国10.39%より1.95%低かった。
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「地球上の人工物量、生物量を上回る 研究」

2020年12月11日 | 朝鮮史
https://www.donga.com/jp/List/article/all/20201211/2282518/1/%E4%BA%BA%E9%96%93%E3%81%8C%E4%BD%9C%E3%81%A3%E3%81%9F%E7%89%A9%E8%B3%AA%EF%BC%9E%E8%87%AA%E7%84%B6%E3%81%8C%E4%BD%9C%E3%81%A3%E3%81%9F%E7%94%9F%E7%89%A9
「東亞日報」 December. 11, 2020 08:57,   
■人間が作った物質>自然が作った生物
 人類がこれまで生産した人工物の総質量が、自然が作り出した地球上生物の総質量を初めて超えたことが分かった。人類は今も、世界人口全体の体重より重くて大量の建物、道路、プラスチックなどの人工物を毎週生産していると分析された。
 イスラエル・ヴァイツマン研究所・植物・環境科学部のロン・マイロ教授研究チームは9日(現地時間)、人類がこれまで作ってきた人工物の総質量が、現在全世界の生物の総質量である約1兆1000億トンを今年初めて上回ったと試算されるという研究結果を、国際学術誌「ネイチャー」に発表した。
 地球で人間は全体生物の0.01%に過ぎないが、生態系に及ぼす影響は甚大だ。約1万年前に農業革命が始まって以来、人間は森林伐採や土地利用などで全世界の植物を早く破壊した。1万年前は2兆トンに達した総植物量は、現在は1兆トン水準に減少した。植物量が減り、現在、人間が栽培する作物の総量は約100億トンに過ぎない。人間が地球に及ぼした影響が大きくなるにつれ、科学者たちは最近の地質時代を「人新世」と定義して分類するほどだ。
 研究チームは、人間の影響を定量化するため、1900年から現在まで全世界の生物量と人工物の総質量の変化を推定した。文献調査や衛星を活用した遠隔観測、モデリングにより生物量を推定した。人工物は、「人間が作った固体形態の無生物」と定義した。人間が作った食糧や家畜は生物量に含まれ、木を加工して作った木材は人工物として扱われた。
 分析の結果、1900年の人工物の総質量は、生物量の3%にすぎなかった。しかし、建物や道路、機械のような人間の生産物が急激に増え、人工物の総質量は20年ごとに2倍に増えた。今年まで人間が地球に建てた建物と道路は約1兆1000億トンで、全世界の木の総質量である9000億トンを上回ったことが分かった。プラスチックの総質量も80億トンで、全世界の動物総質量である40億トンの2倍に達した。
 人工物を構成する成分の大半も、建物を構成する砂、砂利のような骨材やコンクリートだった。1950年までは建物の主材料だったレンガが全体人工物の25%を占めた。以後、建物にコンクリートが使われ、コンクリートと骨材の割合が急速に伸びた。コンクリートの割合は、1900年の5%から今年は45%に増えた。
 人工物生産量の伸び率は、世界的な出来事の流れとつながっている。第2次世界大戦前までは2%に過ぎなかった年間生産量の伸び率は、以後5%まで高くなったが、1973年の第1次オイルショックの時、3%台に落ち込んだ。以後、同様の伸び率を維持している。2020年現在、人間は年間300億トンを生産するという。研究チームは、「世界の全ての人間が、毎週自分の体重以上を生産していることになる」と説明した。
 今回の分析は、人工物のうち、人間が捨てたゴミを除いた結果だ。人間が捨てたゴミの中で焼却とリサイクルを経た場合を除いた量を含めれば、人工物の総質量は2013年に既に全世界の生物量を超えたことが分かった。
 このような傾向が続けば、20年後の2040年は、人工物の総質量が現在の約3倍の3兆トンを超えるものと研究チームは試算した。マイロ教授は、「地球が人新世に変化しているという象徴的な境界線を見せている」とし、「目前に迫った衝撃的な結果に、もっと責任感を持って行動することを願う」と語った。


https://www.afpbb.com/articles/-/3320633
「AFP」 2020年12月11日 12:29 発信地:パリ/フランス
■地球上の人工物量、生物量を上回る 研究

【写真】アラブ首長国連邦・ドバイの高層建築群と幹線道路(2020年7月8日撮影、資料写真)。(c)KARIM SAHIB / AFP
【写真】中国・陝西省にある製鉄所(2018年2月17日撮影、資料写真)。(c)FRED DUFOUR / AFP 
【写真】南米コロンビアの国立公園での違法な伐採(2020年9月3日撮影、資料写真)。(c)Raul ARBOLEDA / AFP 

【12月11日 AFP】歴史上初めて、地球上の人工物量が生物量を上回る「クロスオーバーポイント」に達したようだとする研究論文が9日、英科学誌「ネイチャー(Nature)」に掲載された。
 道路や建築物などの人工物の重量はほぼ20年ごとに倍増しており、論文の著者らによると、現在、1.1兆トンに達している。
 一方、人類の天然資源消費量は増え続け、樹木や植物、動物などの生物量は農業革命以来半減し、現在では1兆トンとなっている。
 研究では、産業と生態学の多くのデータから、1900年以降の地球上の生物量と人工物量の変化を推計。20世紀初頭には人工物量は生物量のわずか3%だったが、第2次世界大戦(World War II)後に世界的に製造業が急成長し、今では地球上の全人類の総体重に相当する人工物が毎週、生産されるに至った。
 論文は、2020年には人工物量が生物量を上回ったようだとしている。

◆人類の自然界に対する並外れた影響力を示す研究
 推計によると、人工物の生産量は現在では年間約300億トンに上り、現在の伸び率が続けば、2040年までに人工物量は3兆トンに達するという。
 同時に、生物量は減少しつつあり、その主な要因は森林伐採や、集約農業を可能にするための土地利用変更だ。
 人工物のほとんどを占めているのは建築物や道路だ。1950年代半ばに起きたれんがからコンクリートへの建設資材の変化といった建設上の傾向が、重量加速に寄与した。
 論文の主執筆者で、イスラエル・ワイツマン科学研究所(Weizmann Institute of Science)の植物・環境科学部のエミリー・エルハチャム(Emily Elhacham)氏はAFPに、研究は人類の自然界に対する並外れた影響力を示すものだと指摘している。
「われわれが自然界で果たしている中心的役割を否定することは、もはやできない」とエルハチャム氏は言う。「われわれは既に重要な役割を担っており、それには共同責任が伴うのだ」 (c)AFP/Patrick GALEY


https://www.natureasia.com/ja-jp/nature/pr-highlights/13536
「Nature」 2020年12月10日
■環境科学:人為起源物質の量が、生きている生物体量を追い抜く
 Environmental science: Human-made materials outweigh living biomass

 人為起源物質の量が、生きている生物体量を初めて上回るクロスオーバーポイントが2020年に到来する可能性のあることを報告する論文が、今週、Nature に掲載される。建物、道路、機械などの人工物に埋め込まれた物質の量は、過去100年間で20年ごとに倍増してきた。今回の知見は、人間が地球に与える影響が増大していることを明確に示している。
 最初の農業革命以降、人間は、土地利用の仕方を変えて農業や森林伐採などを行い、植物の生物体量を約2兆トンから現在の約1兆トンに半減させた。また、「人為起源物質(anthropogenic mass)」と呼ばれる人工物の生産量と蓄積量が増加していることも、生きている生物体量と人為起源物質の量のバランスの変化に寄与した。
 今回、Ron Miloたちの研究チームは、1900年から現在までの全球の生物体量と人為起源物質の量の変化を推定した。その結果、20世紀初頭には、人工物の量は生物体量全体の約3%にすぎなかったが、現在では、人為起源物質の量が全球の生物体量を上回り、約1.1兆トンに達したことが明らかになった。この期間中の、全体の生物体量の減少はわずかであったのに対し、人為起源物質の量は急増し、現在では年間300億トン以上のペースで生産されている。つまり、地球上の人々全員の体重を超える人工物が、毎週生産されている。
 人為起源物質の大部分を占めるのが建物と道路で、この他にプラスチックや機械などがある。人為起源物質の構成の変化は、1950年代中盤以降に建物に使用される材料がレンガからコンクリートに移行したこと、1960年代に道路舗装にアスファルトが使用されるようになったことなど、具体的な建築トレンドに対応している。さらに、人為起源物質の総量の変化は、第二次世界大戦後のグレート・アクセラレーション(建設工事の増加が続いた時期)などの主要な事象に関連している。
 Miloたちは、クロスオーバーの起こる正確な時期は、その定義の仕方によって変化するため、推定値に多少のばらつきが生じるかもしれないと指摘している。Miloたちは、今回は乾燥重量(水分を除く重量)で推定を行ったが、人為起源物質の量と生物体量のバランスの転換が、湿重量による推定や物質カテゴリーの異なる定義によって、過去・現在・将来の10年以内に起こる可能性があるという考えを示している。現在の傾向が続けば、人為起源物質の量は2040年までに3兆トンを超えると予想される。
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「「アイデンティティーの一掃」 内モンゴル抗議もむなしく進む中国語教育」

2020年11月23日 | 朝鮮史
https://www.afpbb.com/articles/-/3306212
https://www.afpbb.com/articles/-/3306212?page=2
「AFP」 2020年11月22日 9:00 発信地:通遼/中国
■「アイデンティティーの一掃」 内モンゴル抗議もむなしく進む中国語教育

【写真】中国・内モンゴル自治区通遼の学校に戻った生徒ら。新カリキュラムに反対し、約1週間にわたって学校をボイコットした(2020年9月10日撮影)。(c)NOEL CELIS / AFP
【写真】中国・内モンゴル自治区通遼市にある学校の前で駐車する警察車両(2020年9月10日撮影)。(c)NOEL CELIS / AFP 
【写真】中国・内モンゴル自治区通遼の学校に戻った生徒らと校門外で待つ保護者ら。新カリキュラムに反対し、学校を約1週間ボイコットした(2020年9月10日撮影)。(c)NOEL CELIS / AFP

【11月22日 AFP】内モンゴル自治区(Inner Mongolia Autonomous Region)では、標準中国語での教育の義務化に対し、住民らは当局に激しく抗議し、子どもたちは学校をボイコットした──。しかし、私服警官の厳しい目が光るなかで学校に戻る息子の姿に、中国の少数民モンゴル族の父親は敗北感でいっぱいだった。
 匿名を希望した父親は、「(抵抗の)精神はまだあるが、われわれは恐怖を感じている」と語る。目の前には、1週間に及ぶボイコットが終わり、自治区通遼(Tongliao)市にある中等教育校に、重い荷物を抱えて戻る子どもたちの姿があった。この父親は、標準語教育によってモンゴル族の文化が抹消されてしまうことを恐れているのだ。
 中国北部に広がる内モンゴル自治区での8月末からの抗議デモやボイコットには数万人が参加し、地元当局が発表した標準中国語で教育を行うというカリキュラムの変更に反対を訴えた。
 同自治区での抗議デモはまれだ。しかしそのデモは、同国が過去数十年で経験したなかでは最大規模となった。
 抗議の後、政府による取り締まりが始まった。装甲車両がデモの拠点となった通遼市内に展開し、複数の学校を包囲した。
 住民の約半数がモンゴル民族である通遼市での弾圧は、新疆ウイグル自治区(Xinjiang Uighur Autonomous Region)やチベット(Tibet)自治区における中国政府の動きに呼応する。どちらの地域でも、少数民族を多数派の漢民族に同化させることを目指す政策が遂行されている。 文化的アイデンティティーを打ち出すことによって、国家とイデオロギーを統一しようという習近平(Xi Jinping)国家主席のビジョンだ。
 当局は、子どもを学校へ送り出すことを拒否する親たちには、解雇や罰金、そして子どもの退学という脅しをちらつかせ、ある地域では、復学するよう他の生徒らを説得した子どもたちへの金銭の提供を申し出た。
 内モンゴル自治区滞在中、AFPの記者らは政府当局者と正体不明の男らに尾行された。このことで取材対象者は神経質になり、記事に名前がでることを不安がった。

■「受け入れられない」
 新たなカリキュラムが通知されたのは、9月の新学期が始まる直前だった。変更は、二つの言語を併用する自治区内全ての寄宿学校で、標準中国語の授業を第1学年から始めることが義務付けられた。開始時期が1年前倒しとなるかたちだ。
 歴史、政治、そして文学も、モンゴル語ではなく標準中国語で教えることが必要となった。
 「これは受け入れられない」と前出の父親は述べる。
 「いま7~8歳の子どもたちは、10年または20年のうちに自分たちの言語で祖父母と話せなくなるだろう」。
 8月には、中国で利用できた唯一のモンゴル語SNSアプリ「Bainuu」が当局によって使用が禁じられた。
 11月になってもそのアプリは使用できない状態だ。オンライン上のやりとりは警察によって監視され、大多数の子どもたちは学校に戻された。
 AFPは、9月に通遼市在住のある男性から話を聞いた。この男性は、地元警察からの脅迫が続くなか、自宅で子どもの勉強を見ていると話していた。
「私の子どもの考え方はまだ伝統的なモンゴル人のままだ。(標準中国語教育を実施する)学校環境に行けば、子どもらはモンゴル人のアイデンティティーを失うだろう」。
 米ニューヨークに拠点を置く南モンゴル人権情報センター(Southern Mongolian Human Rights Information Center)のトゴチョグ・エンフバト(Enghebatu Togochog)代表は、カリキュラムの変更は「モンゴルの言語、文化、アイデンティティーを一掃する」という中国の決意を示すものだと指摘する。
 「モンゴル族の人々は言語を失うことを本当に嫌がっている。もし失えば、全てを無くすことになるからだ」。    AFP/Laurie CHEN
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「115年前の日本の大韓帝国外交権剥奪が無効である理由」

2020年11月13日 | 朝鮮史
https://japanese.joins.com/JArticle/272219?sectcode=100&servcode=100
「中央日報日本語版」 2020.11.12 12:10
■115年前の日本の大韓帝国外交権剥奪が無効である理由

【写真】1905年11月20日の皇城新聞に掲載された「是日也放声大哭」と国権を失った悲しみを吐露した張志淵(チャン・ジヨン)。[中央フォト]

 立冬が過ぎた。冬に入る時期だ。冷たい風に落ち葉が飛ばされる。落ちていく葉の痛みと残された枝の寂しさ。11月は一年の中で冬の入り口だ。同時に一時代の冬の入り口でもある。
 大韓帝国の冬は11月に始まった。1905年11月18日0時ごろ、慶運宮の夜空は乙巳勒約の現場を見守った。日本の特使の伊藤博文は韓国政府に韓国外交権日本委託条約案を強要した。ついに衝撃的な勒約の話が広まった。
 人心は怒った。五賊の処罰と勒約の取り消しを要求する上訴が続いた。皇城新聞11月20日の論説「是日也放声大哭」は抗日言論に火をつけた。論説は激しかった。「四千里の領土と五百年の宗社を他人に奉献し、二千万の民を他人の奴隷にする、犬豚にも劣る」韓国の大臣を糾弾した。「我々の二千万の奴隷になった同胞よ、生きているのか死んでしまったのか、檀紀以来四千年、国民の精神が一夜にして突然滅亡してしまったのか」と悲しんだ。論説は「痛哉、痛哉、同胞、同胞」と叫んで終わった。

◆「是日也放声大哭」の絶叫、今でも悲痛
 皇城新聞が閉鎖されると、大韓毎日申報が闘争を続けた。皇城新聞に掲載された勒約の顛末に関する記事を入手して22日から25日まで連載し、27日にはこの事件の顛末を整理して号外を出し、勒約が不当であることを布告した。号外はそれぞれ「韓日新条約請諦顛末」という漢字の記事と、「THE MAKING OF A TREATY AND THE PASSING OF AN EMPIRE」(条約締結と帝国滅亡)という英語の記事だが、勒約の顛末に関する内容だった。「是日也放声大哭」を英語で鑑賞したい人はこの号外を読めばよい。
 ここで少し条約締結顛末の記事を見てみよう。11月11日に親書を奉呈した伊藤は、15日に高宗(コジョン)を謁見し、16日に韓国の大臣らを招請して3つの条項の条約案締結を要求した。韓国外部(外務部)の廃止、韓国外交権の日本委託、駐韓日本公使の統監改称が主な内容だった。17日に駐韓日本公使の林権助は韓国政府の大臣を招請し、同じ要求を繰り返した。林は御前会議の開会を要求したが、参政大臣の韓圭ソル(ハン・ギュソル)は政府会議で決める問題であり御前会議は必要ないと拒否した。
 林はすぐに慶運宮に直行して大臣らに御前会議の開会を要求し、まもなく日本軍が宮廷に乱入して高宗(コジョン)の居所がある漱玉軒に進撃して銃剣で包囲した。続いて現場に到着した伊藤は御前会議を要求したが、参政大臣の韓圭ソルは応じず、高宗も必要ないから大臣と協議すべきとして拒否すると、その場で議論し、条約案に関する文言修正と大臣一人一人の意見を受けた。韓国外部に日本軍を送り、官印を強奪して条約を調印した。
 顛末を読んでみると、疑問が生じる。この日、政府会議は開かれたのだろうか。強圧的な雰囲気だったが、とにかく政府会議を通じて条約案の可否が決定されたのか。しかし政府会議が開かれたという証拠はない。甲午改革期間の「内閣官制」もそうだったが、大韓帝国期の「議政府(ウィジョンブ)官制」によると、国際条約は議政府会議を通すと明示されている。乙巳勒約の場合、16日に日本公使館から韓国外部に条約の提案が入ってきたが、議政府会議は開かれなかった。
 議政府会議とは何か。「議政府会議規定」には具体的な会議手続きが記録されている。首席大臣が開会を宣言すれば、主務大臣の議案説明と討論を経て、各大臣が可否標題を終え、首席大臣がこれを集めて多数意見に基づき自らの意見の標題を終え、閉会を宣言する。首席大臣と主務大臣が署名した上奏案(政府原案+討論記録+可否標題)は、御押と御璽で皇帝の裁可を受けて官報に頒布される。
 現在ソウル大奎章閣に所蔵されている『奏本』(奎17703)は、このように議政府の会議を経て皇帝の裁可を受けた上奏案を綴ったものだ。『奏本』には乙巳勒約に関する上奏案がない。議政府会議もなく、首席大臣の上奏もなく、皇帝の裁可もなかったからだ。乙巳勒約の前後に高宗が裁可した案件は奏本第157号「中枢院官制改正件」(1905.11.8)、第158号「度量衡製造所職制及び実施局職制件」(1905.12.9)で、乙巳勒約に関するいかなる奏本も発見されていない。会議がなかったため当然のことだ。
 ここで『奏本』に収録された「中枢院官制改正件」は乙巳勒約を理解する重要な資料だ。中枢院は甲午改革期に設置された国政諮問機構だった。途中、中枢院を議会に改編しようとする独立協会の動きもあったが、概して有名無実だった。ところが勅令第46号「中枢院官制改正件」(1905.10.24)により中枢院は「君国重要事項と法律勅令の制定と改廃」を審査して議定(議会活動)できる権限を得た。なら、乙巳勒約の案件は議政府の会議を経た後にも、皇帝の裁可を受ける前にまた中枢院に諮問すべきことだった。
 これに先立ち顛末の記事で参政大臣の韓圭ソルが御前会議を開けという林の要求に対し、政府会議で決める問題だと答えたのは正しかった。議政府会議と中枢院への諮問なしに慶運宮で伊藤が御前会議を口実に韓国大臣と夜を明かしながらいくら話しても、それは閑談にすぎなかった。韓国の議政府会議に伊藤・林・長谷川好道は入会権がない人物だったし、伊藤が韓国の大臣に条約案に対する可否を尋ねたのも、またそれに対して韓国の大臣が可否や意見を述べても、会議としていかなる効力もなかった。

◆開かれもしない御前会議、日本も自認
 一つ確認しておく問題がある。17日夜の勒約の現場にいた韓国の大臣のうち李完用(イ・ワンヨン)、朴斉純(パク・ジェスン)、李址鎔(イ・ジヨン)、権重顕(クォン・ジュンヒョン)、李根澤(イ・グンテク)が3日後に連名の上訴をした。韓国の大臣は17日、日本公使館で林と条約案について争論したが、権重顕は議政府会議と中枢院への諮問がない状態で決議できないという点を明確にした。林は皇帝の決裁一つで終わる問題だとし、これを無視して強制的に拝見し、韓国の大臣は高宗に会って状況を報告し、対策を議論した後に伊藤と会った。
 ここからが重要だ。伊藤が参政大臣に会議を始めさせ、参政大臣が各大臣に意見を述べさせると、伊藤が割り込んで御前会議の状況だけを話せばよいと干渉した。伊藤は韓国君臣の御前会議が条約案についてすでに結論を出し、韓国の大臣は伊藤と交渉しに来た人ではなく御前会議の決定を履行しに来た人だと言い張った。韓国の大臣の可否意見も伊藤が判定した。実際、御前会議は日本側が条約案の強制妥結のために吹っ掛ける概念だった。会議は伊藤が来る前にすでに終わり、伊藤は会議の結論を確認すればよいということだが、これは17日夜の伊藤と韓国大臣の協議が会議として意味がないということを彼らも自認するというものだった。しかしそのような意味の御前会議は開かれることもなく、開かれる必要もなかった。乙巳勒約は無効だ。

          ノ・グァンボム/ソウル大奎章閣韓国学研究院教授
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「金大建神父が描いた朝鮮全図に「東海」明記」

2020年10月23日 | 朝鮮史
https://www.donga.com/jp/List/article/all/20201021/2217288/1/%E9%87%91%E5%A4%A7%E5%BB%BA%E7%A5%9E%E7%88%B6%E3%81%8C%E6%8F%8F%E3%81%84%E3%81%9F%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E5%85%A8%E5%9B%B3%E3%81%AB%E3%80%8C%E6%9D%B1%E6%B5%B7%E3%80%8D%E6%98%8E%E8%A8%98
「東亞日報」 October. 21, 2020 08:30,   
■金大建神父が描いた朝鮮全図に「東海」明記
 19世紀の韓半島地図にラテン語で「東海(トンへ)」を明記した金大建(キム・デゴン)神父(1821~1846)の「朝鮮全図」のコピーが追加で公開された。米海軍で当時、朝鮮の地理把握のために使った地図だ。「19世紀から『日本海』の表現が国際的に定着した」という日本の主張に反論する根拠になれるか注目される。
 北東アジア歴史財団のキム・ジョングン研究委員は20日、米国立公文書記録管理局(NARA)が所蔵した金大建神父の朝鮮全図のコピーを韓国内で初めて公開した。地図の名前はフランス語で「Carte de laCor¨ee」、韓国語で「韓国地図」という意味だ。金神父が1840年代に布教のために描いて海外に送った複数の韓国地図をひっくるめて「朝鮮全図」と呼ぶ。
 今回公開された朝鮮全図は、1868年3月、米海軍のJRフェラン将校が金神父の地図を模写したもので、原作者が「金大建神父」と明記されている。米政府は1866年、朝鮮人たちが米国商船を燃やしたジェネラル・シャルマン号事件を調査するために海軍を派遣した。この地図は、米海軍の航海のための地理情報の把握のために使われた。金研究委員は、「地図の原本は、金神父が布教のために1845年に作成して、マカオのカトリック・パリ外国宣教会支部に送ったものと推定される。朝鮮の地理についての情報がなかった米海軍でも使ったものとみられる」と語った。
 今回公開された朝鮮全図には、東海という意味のラテン語「MARE ORIENTALE」と独島(トクド)が表記されているという点で、金神父が作成した他の地図と異なっている。これに先立って公開されたフランス・パリの国立図書館(BnF)に所蔵された金神父のもう一つの朝鮮全図には、鬱陵島(ウルルンド)の東に独島の昔の地名である于山島(ウサンド)をローマ字で「Ousan」と表記したが、東海という表記は別になかった。
 キム研究委員は、BnFでラテン語で「東海」表記がされているもう一つの朝鮮全図も発見した。やはり金神父が描いたものと推定される。キム研究委員は、「作者不詳のラテン語地図だが、地名の一部にハングルの表示があり、金神父の他の地図と河川、海岸線などがほとんど一致している」とし、「米国、フランスで使用された地図に『東海』が明記されたということは、19世紀から『日本海』の表現が定着したという日本の主張に反論する根拠となる」と主張した。彼はこのような内容を北東アジア歴史財団が独島の日(25日)を迎えて、22日開く「独島主権研究の歴史・地理的成果と課題」のフォーラムで発表する予定だ。
          崔고야 best@donga.com
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「慰安婦被害者の娘、七十の人生の烙印はいつ消えるのか」

2020年09月05日 | 朝鮮史
https://japanese.joins.com/JArticle/269908?servcode=A00&sectcode=A10
https://japanese.joins.com/JArticle/269909?servcode=A00&sectcode=A10
「中央日報日本語版」 2020.09.04 15:01
■<光復75周年-日帝強制動員、奪われた家族3>慰安婦被害者の娘、七十の人生の烙印はいつ消えるのか

【写真】先月20日、母の故朴玉蓮さんが眠る大田(テジョン)市立公園墓地を訪れた娘のイム・ミョンオクさん。「母が亡くなる前、重湯もよく飲み込めないとき、ヤクルトはよく召し上がっていた」というミョンオクさんは母親に会いに来るときにはヤクルトを忘れず持ってくる。イム・ヒョンドン記者

 旧日本軍慰安婦被害者の故・朴玉蓮(パク・オクリョン)さん。「ナヌムの家」で晩年を過ごした朴玉蓮さんは「私は200歳まで生きて死にたい」という言葉が口癖だった。
 朴玉蓮さんが生前に残した証言によると、1919年4月に全羅北道茂朱(チョルラブクド・ムジュ)で生まれ、1942年南太平洋パプアニューギニアに連れて行かれた。旧日本軍9万人が駐留したラバウル島の慰安婦としてだ。
 帰国した船が2度に渡って破損し、生死の境をさまよって44年に帰国した。帰国後結婚をしたが、その結婚は家庭がある男の家に入って「第2夫人」として一緒に暮らすというものだった。
 「母親がそういうところに行ってきたから子どもを産めないのではないか、本妻の体の調子が良くなく子どもが2人いるということで、子供たちをちゃんと育ててくれればいい、そのような話になって妾になったということのようです」。
 娘のイム・ミョンオクさん(71)氏は後日叔母から聞いた話だと言った。
 「ところが妾になった途端、母が兄を生んで私の下の妹まで産んだということです。私は何も知らずに大きくなりました。幼い私に何が分かりましょうか」。
 郡庁の公務員だった優しい父親と本妻、異母兄2人、そこに母親の子供3人まで。イム・ミョンオクさんは8人家族の中で特別な波風なく育った。10歳になってようやく入学した小学校を卒業してから彼女は中学校ではなく編物学院を選んだ。成人になったからだった。同じ地域の友人は一人二人と嫁いでいくのに結婚話がなかった。23歳になった秋、当時としては遅れた結婚をする。西海岸の蘇莱浦口(ソレポグ)の塩田で働く男だった。妊娠の兆しがないまま時が流れた末、夫は子供が持つことができない人であるということを知るようになった。その渦中に姑が中風で倒れる。
 「子どもを産んで育てたかったのに、このまま仲良く暮らしていくことはできない。私は激しく怒り、夫が嫌いになり始めて一緒に住みたくなくなったんです。家を出ました」。
 初めての結婚はそのようにして破局を迎えた。一人で過ごしていた28歳、安東(アンドン)金氏の貴族の末っ子という見合い話が舞い込み再婚し、すぐに子どもができた。そこまでして欲しかった子ども、娘を産んだ。しかし夫が問題だった。生活力がないばかりか疑妻症まであり、嫌がらせの中で娘一人を頼みに耐え抜いた。
 娘が進学の年齢になると、このままではだめだと思うようになった。7歳の娘を連れて茂朱の実家に戻った。2回目の結婚もそのようにして終わった。
 「私が働かなければ生きていけないと思って、子どもを実家の母親に預けたり、小姑にも預けたり…。私一人のせいで家族がどれほど精神的な苦労をしたでしょう」。
 イム・ミョンオクさんは料理の腕前があった。茂朱で開いたトンタク(鶏の丸焼き)店に客が集まり、当時としてはかなり繁盛した。しかし、娘が中3になった時、トンタク店を整理して大田(テジョン)に移り住んだ。都会に出て娘に良い教育を受けさせたいという母性の切実な思いが下した決断だった。
 師範学校を卒業した兄が教師生活を始めると本妻はそこに移り住み、朴玉蓮さんは結婚した兄に従って大田(テジョン)に移り住んだ。そのようにして本妻と妾の生活も終わり、父親が80歳で亡くなる。
 ターミナル喫茶店の台所仕事もし、そこで学んだことがあり喫茶店を開いたりもした。家政婦としても働いたが、もっと多くのお金がもらえる工事現場まで行き来して娘を育てた。
 1995年4月、朴玉蓮さんはソウル恵化洞(ヘファドン)ナヌムの家に入所する。この時期はイム・ミョンオクさんの人生においても重要な変曲点になる。一緒に集会を行って、証言をして、闘争する母親たちの様子を見つめるイム・ミョンオクさんにも覚醒がやってくる。

【写真】久しぶりに母親を伴った旅行で、朴玉蓮さんとイム・ミョンオクさんが仲良くポーズを取っている。イム・ヒョンドン記者 

 私が母を恥じなければならないことなのか。母親たちには罪がない。日帝強占期の被害者という不幸を越えて、いまや女性の人権のために戦う母親たちではないのか。ナヌムの家が京畿道広州市退村面(キョンギド・クァンジュグン・テチョンミョン)に建てられると母親もここに移り住む。
 「生活安定支援金として一時に4300万ウォン(現レートで約384万円)を受け取ると、息子を神様のように思っていた母は兄さんに4000万ウォン、一人暮らしをしている私には200万ウォン、妹には主人がいると言って100万ウォンを分けます」。
 日本政府は95年7月、「女性のためのアジア平和国民基金」(以下、国民基金)を設立し、各国の慰安婦被害者に慰労金を支給すると発表する。被害国では反対運動が起きる。被害者は国民が募金した慰労金でなく「日本政府の法的賠償」を望んだ。
 96年10月、韓国では被害者支援のための汎国民募金が始まり、IMF通貨危機の中でも12億ウォンが造成された。政府はここに予算を加えて98年5月から生活安定支援金として4300万ウォンを支給する。朴玉蓮さんが受け取って子どもたちに分けたのがこのお金だ。政府はこの時、被害者から国民基金をもらわないという覚書を受け取り、公式に国民基金を受けた7人は受給者から除外した。
 実際、日本国民基金側は7人を含めて計61人に基金を支給したという。拒否する被害者を懐柔するなど、卑劣な方法で極秘裏に基金の支給を強行し、被害者の間で不信と葛藤が深くなった。覚書を書いても基金を受け取った被害者1人は自責の念にさいなまれ、お金の出処を明らかにしないで5000万ウォンを公益財団に寄付することもした。
 大学に進学したイム・ミョンオクさんの娘は復学生の恋人とキャンパスカップルになり、99年4月にニュージーランドに留学に行った。その娘から孫娘を産んだという知らせが入ってくる。夫の世話しながら自分は学業をあきらめた娘だった。イム・ミョンオクさんはニュージーランドに行って娘の産後を助けながら2カ月を過ごした。
 そしてその帰り道、飛行機に乗り込みあふれた涙が仁川(インチョン)空港に降り立つまで止まらなかった。大田の家に戻り、誰もいない家に座り込んだ時、また涙があふれてきた。
 数日後、寂しい心情を落ち着かせようと母親の元を訪ねて行ったのはナヌムの家だった。母親と一緒に暮らし、調理士として働いてほしいという提案を受ける。「私はお前といればよいが、あのおばあさんたちの煩さに耐え抜けるのか」という母親の心配があったが、母親と一緒に暮らそうという決心が先んじた。イム・ミョンオクさんは2000年5月、ナヌムの家調理士として入った。
 気を引き締めて始めたナヌムの家の生活だったが、決して順調な毎日ではなかった。一人で裏山に登って流した涙を今になって話しても何の足しになろうか。世の中に怖いものがなかった母親たちに苦しめられ、団体写真を撮るときも母親の横に立つことすらはばかられ、遠く離れていなければなかった。米が底をついてソウルへ僧侶を訪ねて行って米をもらいに行き母親たちのご飯を炊いたこともあったし、地域のスーパーに掛買い代金を支払うことができず手ぶらで帰ってくる日もあった。そのころのナヌムの家の事情がそのようにさせた。
 2011年春に朴玉蓮さんがこの世を去った。「日本の謝罪と賠償のための長い戦いが何の結実も見られないままいなくなるんだ」。それが恨めしかった。
 母親は兄がいる大田の市立公園墓地に埋葬した。所長の口添えで1級療養保護士の資格を取ることができたイム・ミョンオクさんは母親が亡くなった後もナヌムの家で療養保護士として働きながら2017年に定年退職した。母親と一緒に暮らそうと始めた歳月がほぼ20年、空しく流れていた。少なくとも母親と兄の近くで暮らそうと大田(テジョン)に家を求めた。
 近頃は一人で市立公園墓地に向かう後ろ姿がより寂しくなった。納骨堂を見つめ、心の中で問いかける。「お母さん、今は安らかですか」。200歳まで生きると話していた母親からは言葉がない。目じりを拭い背を向けようとするところをみると、まだ涙が残っているようだった。
 娘イム・ミョンオク、彼女の人生には娘として、母親としての彼女はあるが、一人の女性としての彼女はない。慰安婦の娘、妾の娘として生きなければならなかった彼女があり、海外に住む娘の産後を助けて帰ってくる飛行機の中でずっと泣かなければならなかった彼女もいる。しかし、美しくて活気に満ちていなければならない女性イム・ミョンオクが、ごまを叩きながら家族が帰ってくる夕方の戸口を眺めても喜ぶような普通の女ミョンオクではない。
 悲劇の底に隠れているのは「ある家族を破滅させた日本」だ。日帝強占期の最も残酷な被害の余震の中に生きなければならなかった慰安婦被害者の娘、避けられなかった不幸の相続だった。最後のインタビューを終わらせて彼女がこう語った。
 「私は烙印がたくさん押された人間です。慰安婦の娘に妾の娘、そのうえ離婚の女に、また一人暮らし。雪ぐことのできない恨(ハン)を抱いて生きている人間です。このような話をすれば、夜に清心丸(漢方薬)を飲まないと寝ることができません。心の中は腐りきってドロドロになり、命が長いから仕方なくそれを克服しようと我慢して生きてきました。私の心の中がどうなっているか、分かりますか」。

※編集者の言葉 「あっちが朝鮮だ」
 作家ハン・スサンの小説『軍艦島』は日本に連行された徴用工のこの言葉から始まる。中央日報光復75周年企画「日帝強制動員、奪われた家族」は徴用工がそれほど懐かしく思った「あっちの朝鮮」に残された息子・娘の話だ。彼の小説の中で、命をかけて軍艦島脱出を試みた朝鮮人は徴用工である前に一人の父だった。27年間の調査と考証の末、軍艦島に連行された父の死闘を小説として完成させたハン・スサン氏が、残された強制動員被害者の息子・娘の生存記を中央日報に記録する。
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