三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

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「日章旗に覆われてはならない「記録の男」孫基禎」

2024年08月11日 | 朝鮮史
「韓国経済新聞/中央日報日本語版」 2024.08.11 13:23
■日章旗に覆われてはならない「記録の男」孫基禎
 パリ五輪の男子マラソンは10日午後にスタートする。88年前は1日前にスタートした。1936年ベルリン五輪。韓国人のだれもが知っているように、植民地朝鮮の青年孫基禎(ソン・ギジョン)がトップでオリンピアシュタディオンのゴールを通過した。2時間29分19秒、五輪最高記録だった。最後の区間はスプリンターのような途轍もないスピードで疾走した。だが青年の表情は明るくなかった。

◇当時の気温30度? 公式記録は21度
 オリンピアシュタディオンの西側にある聖火台の後壁には種目別の優勝者の名前が刻まれている。「MARATHONLAUF 42195m SON JAPAN」。1970年8月15日、当時国会議員だった朴永禄(パク・ヨンロク)氏がはしごをかけて上り、「JAPAN」を削り「KOREA」に変えた。5時間かかったという。だが国際オリンピック委員会(IOC)と西ドイツ政府はすぐ「JAPAN」に直した。今後も孫基禎の国籍を韓国に変えるのは容易ではないだろう。
 2012年7月、筆者はベルリンを訪問し五輪のマラソン区間を調査しスポーツ博物館とオリンピアシュタディオンを訪問した。スポーツ博物館の学芸員の助けを受けて検索した資料を分析し、「韓国体育史学会誌」に論文を載せた。内容は少なくない。ただ7月19日にスポーツ博物館のドアを開けて入った時の驚きを覚えている。
 ドアを開けるとすぐ孫基禎の写真が見えた。ジェシー・オーエンスの写真はその後ろにあった。学芸員は写真説明を示した。「Kee Chung Sohn(Kitei Son)」。 学芸員は「われわれは1989年から彼の名前を韓国式に表記してきた。国籍は変えられない」とした。筆者は孫基禎という名前が巨大な断層の真ん中にあることを改めて感じた。韓国と日本、勝利と悲哀。
 「孫基禎は韓国人初の五輪金メダリストだ。彼は1936年のベルリン五輪のマラソンで2時間30分の壁を突破し五輪新記録を樹立して金メダルを取った。そして日本帝国主義の強占統治の下に置かれた同胞の鬱憤をぬぐう一方民族意識を改めて鼓吹させた」。
 私たちはここまで知っている。外から見る視角も大きく異ならない。外国の研究者のうち相当数は1988年のソウル五輪を契機に孫基禎に注目した。2004年に論文「孫基禎とスピリドン・ルイス、1936年ベルリン五輪マラソンの政治的局面」を発表したカルル・レナルツが代表的だ。彼は1936年にマラソン表彰台で頭を下げた若い勝利者と1988年ソウル五輪開会式で白髪の高齢者が聖火を持って踊るように走る場面を劇的に対比させた。
 孫基禎の名前はいつも鮮明な断層の中に姿を現わす。その淵源は長い。孫基禎が優勝した後、日本の読売新聞は8月10日に号外を発行し臨時特派員として派遣した西條八十の詩を掲載する。題名は「我等の英雄!弾丸の如く躍り出た小男」だ。このように終わる。
 「誰れか、今日のこの勝利を期待しただろう/踊れ!起て!歌へ!日本人!/日本は見せた/けふ明瞭り(はっきり)みせた/この小男孫のなかに/世界を指導する、躍進日本の勇ましい現在の姿を」。
 半島では詩人の沈熏(シム・フン)が8月11日付の朝鮮中央日報に「おぉ、朝鮮の男児よ!-マラソンに優勝した孫・南の両君に」を載せた。詩人は絶叫する。
 「おぉ、私は叫びたい! マイクを握って/全世界の人類に向かって叫びたい!/これでも君たちはわれわれを弱い民族だと呼ぶのか!」
 このように鮮明な対照は孫基禎の運命であろう。そのため彼の頭の中の真ん中を民族の境界と運命の等高線が横切る。孫基禎はベルリンでだれも自身が韓国人であることを知らないだろうと懸念したようだ。そこで機会があるたびに自身が韓国人であることを示そうと努力しただろう。だれかサインをくれと言えばハングルで名前を書き韓半島(朝鮮半島)の地図を描き、サインとともにKOREANと書く形で。
 残念なことだが残っている資料は1936年にベルリンで孫基禎が韓国人という事実は秘密ではないということを示してくれる。陸上専門紙は孫基禎が京城(現ソウル)の養正高等普通学校出身という日本の関係者の話を引用して報道した。日本人を意識してのことかもしれないが、孫基禎は自身に対して積極的に説明しない。選手村情報誌は孫基禎が「とても寡黙で10分に一度やっと話をするほどだった。彼は故郷であるKoreaで訓練した内容について話した」と書いた。
 このように鮮明な断層の向かい側に忘却が座を占めている。五輪精神に照らして最も高貴な価値かもしれない勝利者に対する尊重と崇拝を見つけることができないのだ。孫基禎は世界最高記録保有者としてベルリンに行き、五輪新記録打ち立てて金メダルを獲得した。彼が立てた記録の価値、世界最高のマラソンランナーが受けて当然な名誉を「植民地青年の悲哀」と「日本はまだ孫基禎が日本人であるかのように紹介している」という韓国人の憤怒の向かい側のどこから見つけるべきか。優れたマラソンランナー孫基禎の実際の競技内容と関連した情報すら悲哀と憤怒の次元を抜け出すことができない。その結果、時には伝説が、時には確認できない誇張と歪曲が事実かのように流通する。例を挙げてみよう。
 多くの韓国国内文献はマラソン競技が開かれた1936年8月9日にベルリンが「30度を超える高温」に湿度が高かったと記録した。「北海から熱風が吹いてきた」という記述もみられる。ベルリン五輪の公式記録は違う。気温は競技が始まった午後3時ごろに22.8度、終わった時は21.0度であり、空は晴れ大気は乾燥していた。30度は真夏の暑さを象徴する温度だ。マラソン競技が苛酷な暑さの中で開かれたという前提は優勝者孫基禎の英雄イメージを強化し彼が収めた勝利の意味を固めるのに寄与しただろう。

◇サインは必ずハングルで書き韓半島描く
 孫基禎は走る間に水を全く飲まなかったという。彼は自叙伝に「ビスマルクの丘を上がると看護婦が水を勧め、口を一度ゆすいで吐いた」と記録した。しかし写真資料は孫基禎が少なくとも2地点で水を供給されたことを示している。まず看護師が渡したコップを口に当てる写真が1枚ある。この写真は孫基禎の自叙伝にも掲載された。五輪公式記録645ページには日本人関係者が渡した水を飲む(ような)写真がある。39キロメートル地点で撮影されたという。水を飲まずに42.195キロメートルを走った超人的意志を強調するにはマラソン中に水を飲んではならないという古い常識も作用した。
 筆者は何年か前に尊敬する仲間と話しながら孫基禎を「歴史的意味」の枠組みから抜け出し自然科学の側面から研究する価値がある点に共感した。こうした考えを交わした。孫基禎が走る姿はレニ・リーフェンシュタールの映画『オリンピア』など動画が存在する。1937年5月に孫基禎がセブランスで心拍数、血圧、肺活量、心臓構造などを測定した身体検査記録が残っている。AIをはじめとする最近の技術を使えば孫基禎の体格と走法などを分析し、彼が到達できた記録の最大値、現代マラソンに適用すべき特長点を抽出してみることはできないだろうか。
 孫基禎という名前は彼が死去した後も忘却と悲哀、憤怒という名前で世界の片隅に残っている。ある所で忘却の深淵は1936年8月よりいまがより深い。筆者は4年前の夏休みにドイツのリューデスハイムを訪問し、路地にあるカフェに入って昼食を食べた。そこで長く土産物店をやってきた韓国僑民から聞いた逸話だ。1981年10月に孫基禎がその店に立ち寄ったが、だれも気付かなかった。同行した僑民1人がドイツ人に尋ねた。
 「1936年のベルリン五輪のマラソンでだれが優勝したか知っているか」。
 ひとりが叫んだ。
 「日本人(Japaner)!」。
 僑民は「韓国人」と正した後、「その方がここに来られた」と紹介した。雷のような満場の拍手が起こった。憂鬱なエピソードの最後が拍手で締めくくられたのはそれでも幸いなことだ。

     ホ・ジンソク/韓国体育大学教授
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「抗日独立運動家パク・チェヒョク義士記念式、28日に開催」

2024年08月03日 | 朝鮮史
「The Hankyoreh」 2020-10-21 10:21
■抗日独立運動家パク・チェヒョク義士記念式、28日に開催
 釜山警察署爆弾投擲義挙100周年記念式

【写真】釜山出身の独立運動家、パク・チェヒョク義士=資料写真//ハンギョレ新聞社

 新型コロナウイルス感染症(COVID-19)の拡散によって延期されていた朴載赫(パク・チェヒョク)義士の釜山(プサン)警察署爆弾投てき義挙100周年記念式が、28日に開催される。
 パク・チェヒョク義士記念事業会は20日、「28日午前10時、釜山商工会議所2階の国際会議場で、釜山の独立運動家であるパク義士の釜山警察署爆弾投てき義挙100周年記念式を開催する」と発表した。当初、記念式は先月14日に開かれる予定だったが、新型コロナの拡散が収まらず、延期されていた。
 南区大淵洞(ナムグ・テヨンドン)のアモスアートホールでは、29日夜7時30分に学生・市民招待音楽会「パク・チェヒョクを歌う」が開かれる。釜山国際デザイン祭と連携した学生・青年デザイン体験展と、パク義士特別企画パネル展示も、記念式会場と音楽会場で行われる。
 パク義士は公立釜山商業学校を卒業後、地域で抗日運動を展開。1917年6月に中国の上海へと渡り、1920年4月に義烈団に加入した。パク義士は同年9月14日、釜山警察署で中国人の古書籍商になりすまし、当時釜山警察署長だった橋本秀平への面会を求めた。橋本はパク義士と面談し、パク義士はその場で独立運動家たちを捕らえた橋本の罪をとがめながら爆弾を投げた。橋本は死亡し、パク義士は重傷を負った。
 パク義士は現場で捕まり、大邱(テグ)刑務所に投獄され、1921年3月に死刑を言い渡された。パク義士は「日本の奴らの手で死刑になりたくない」としてハンストに入り、同年5月11日に拷問の後遺症などにより獄中で殉国した。
 パク義士の義挙後の1年間は、国内で日帝の警察署を襲撃する事件が相次いだ。政府は1962年、パク義士に建国勲章独立章を授けた。釜山中区(チュング)は昨年12月、パク義士の義挙を称える表示板を、旧釜山警察署(中区東光洞(トングァンドン))跡の隣の階段に立てている。
キム・ヨンドン記者 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )
韓国語原文入力:2020-10-20 14:13


https://japan.hani.co.kr/arti/politics/32137.html「The Hankyoreh」 2018-11-19 07:46
■1932年、永保村の兄弟峰では一体何が?
 無視された永保村の抗日闘士… 
 国家報勲処、審査基準変更し 
 崔炳秀先生など6人、有功者叙勲 
 一つの村に15人…独立運動の聖地に

【写真】1932年陰暦メーデー時、小作権移転に反対するデモが起きた全羅南道霊岩郡徳津面永保里兄弟峰=霊岩文化院提供//ハンギョレ新聞社

 日帝強制占領期間(日本の植民地期)の1931年8月、全羅南道霊岩(ヨンアム)永保村(ヨンボチョン)の青年たちは、10年に及ぶ準備の末「新思想研究会」という秘密結社組織を作る。1919年の3・1運動以後、いわゆる“文化統治”という名前で一層巧妙化した日帝の弾圧に抵抗するためだ。翌年1932年の陰暦メーデーの6月4日、これらの青年70人あまりは、永保村の裏山の兄弟峰(ヒョンジェボン)で山遊会を装って集結した。彼らは日帝に向かって「この地から出て行け」、「田畑をよこせ」と叫び村に向けて行進した。これに対し村の農民たちが加勢した。日帝は、デモ隊のうち100人あまりを逮捕し、このうち67人を裁判に付して最高5年までの重刑を宣告した。この事件は当時、新聞に「永保村兄弟峰事件」として80回ほど報道され、全国から注目を集めた。
 農民の抗日デモが起きた霊岩の永保村が、独立運動の聖地に浮上している。国家報勲処は最近、この村出身の崔炳秀(チェ・ビョンス)、崔東林(チェ・ドンニム)、シン・ヨンジュ・シン・ヨンジョム先生など6人を独立有功者として追叙した。彼らは今まで社会主義系という理由で叙勲から排除されていたが、審査基準が変わり遅れて有功者になった。報勲処は6月「社会主義活動参加者も北朝鮮の政権樹立に寄与していないならば褒賞する」と審査基準を変えた。これにより、この村出身の独立有功者は計15人に増えた。一つの村から叙勲者がこれほど多く出た事例は、独立運動史で珍しいという。

【写真】国家報勲処が17日、独立有功者に認定した崔炳秀先生の功績調書=報勲処提供//ハンギョレ新聞社

 今回独立褒章が叙勲された崔炳秀先生(1906~1965)は、当時27歳でデモの中心に立ち、1年7カ月の獄苦を体験しなければならなかった。彼は朝鮮戦争当時、北側が占領した時に霊岩の「内務署長」(警察署長)を務めた経歴のために、今まで褒賞審査に上がれなかった。彼は2015年8月12日、日本大使館前で開かれた水曜集会で焼身して亡くなったチェ・ヒョンヨル氏の父親だ。息子のヒョンヨル氏は、現場に「正しい歴史を手にするなら、戦う方法を知り、死ぬ方法も知らなければならない」という遺書を残した。
 シン・ヨンジュ(1906年生)・ヨンジョム(1910年生まれ)兄弟は、メーデーデモに揃って参加し1年以上収監される苦難に遭った。だが、朝鮮戦争当時、農民同盟員だった経歴があるとか、独立運動以後の行跡が明らかでないとの理由で忘れられた存在として残され、一歩遅れて独立有功者になった。
 チェ・ユンホ霊岩農民抗日独立運動記念事業会長(81)は「住民の血の中に火花のような正義感が受け継がれている。当時そろって抗日闘士だったが、58人は正当な評価を受けることができなかった。小さな記念館でも建てて、村の歴史を長く記憶してほしい」と話した。

アン・クァノク記者 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )
韓国語原文入力:2018-11-18 18:03
訳J.S
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千年超えて土中に埋もれていた観音像…ついによみがえった眩い黄金色=韓国

2024年07月16日 | 朝鮮史
「The Hankyoreh」 2024-07-13 09:57
■千年超えて土中に埋もれていた観音像…ついによみがえった眩い黄金色=韓国
 国立春川博物館特別展「よみがえる新羅の光」 
 禪林院址金銅仏像、5年以上の大手術の末に再公開

【写真】国立春川博物館で今年5月から単独展示中の禅林院址の金銅菩薩立像。台座と光背、胴の装身具をすべて別々に作り結合して作った8~9世紀の統一新羅の金銅仏像の最高傑作と評される。低反射ガラス製の特製ショーケースの中で観客を迎えている=ノ・ヒョンソク記者//ハンギョレ新聞社

 まばゆい黄金色のきらびやかな金銅仏像は、1000年以上も山奥の地中に埋もれていた。
 8~9世紀、新羅・慶州の最高の職人たちが衆生を救ってほしいと祈り、真心を込めて観音菩薩立像だった。だが、その運命は過酷だった。慶州から江原道襄陽郡(ヤンヤングン)の山奥の寺に移され、修行僧たちの視線を浴びていたが、山崩れで寺と共に埋没してしまった。山奥の地中で光と形を失い崩れていた暗黒の歳月は、21世紀になってようやく終わりを迎えた。9年前、奇跡的に考古学者のショベルに仏像の胴体が引っかかったのだ。全面が錆と土にまみれた仏像は、5年以上にわたる保存科学者たちの大手術の末に、錆を取り除き眩しい黄金色を取り戻した。散乱していた台座と光背、華麗な装身具もほとんど像と一体になることができた。
2015年に禅林院址の遺跡から出土したばかりの当時の仏像の姿。錆に覆われ土と絡み合っていた=ノ・ヒョンソク記者//ハンギョレ新聞社
 今年5月から国立春川博物館の単独特別展「よみがえる新羅の光」で披露されている江原道襄陽の禅林院址から出土した統一新羅時代の金銅菩薩立像(宝物)は、眩しい姿の中にこうした秘史を持っている傑作だ。2015年に襄陽の禅林院址で発掘された菩薩像で、長きにわたる保存復元処理の過程を経て、朝鮮半島の古代仏像の中で最もきらびやかな黄金色を持つ姿が蘇った。台座と光背を含めて高さ66.7センチのこの観音菩薩立像は、出土地が明確な統一新羅の小型金銅像の中で最も大きいだけでなく、台座、光背、装身具を全て備え、髪の毛、唇、ひげなどに石彩と墨で彩色した跡までそのまま残った唯一の仏像だ。

【写真】金銅菩薩立像の頭と顔の部分。厳粛でありながら深く慈しみ深い表情をしている。髪や目元、ひげなどを墨や藍色の顔料を塗って表現していたことが分かる。古代朝鮮半島の仏像の顔と体の細部に墨と顔料を使った跡が現れたのは、禅林院址の金銅仏像が唯一=ノ・ヒョンソク記者//ハンギョレ新聞社

 錆を除去するだけで4年以上かかり、ついに2021年に国立文化財復元センターで復元を終え、昨年仏教中央博物館で初めて大衆に公開された。初公開ではないが、今回の博物館の展示は昨年の展示よりはるかに格別だと言える。国立博物館の保存専門家たちが力を合わせて、像の背面に残った光背の細部と一部の瓔珞(ようらく、玉装身具)などの復元まで終え、低反射ガラスでできた特製ショーケースまで備えて360度回って仏像の細部をより完全な姿で鑑賞できるようになった。
 禅林院址の菩薩像は、三国時代と統一新羅時代の古代仏像の中で装飾性が最も優れており、華麗な作品として筆頭に挙げられる。装飾性を生かすのは、幾重もの空間にわたって装飾物を囲みながら視覚的効果を極大化することが常道だが、禅林院址の仏像はこうした技法を最大限に発揮し、体の装身具はもとより台座の様々な器物までそれぞれ別に分離された工芸小物が付いている。光背の炎模様と植物の唐草(つる)模様を透かし彫りで処理し、菩薩本体の華やかな姿と調和させたのも絶妙だ。
 間近で像を見ることができるので、髪、目元、ひげを墨と藍色の顔料を塗って表現したことがわかる。古代朝鮮半島の仏像の顔と体の細部に墨と顔料を使った跡が明らかになったのは、この禅林院址の金銅仏像が唯一だという点で注目すべき部分だ。
 金銅菩薩立像の首、胸、腹の部分も目を引く部分だ。柔らかく流れ落ちる布の裾を背景に、つぼみ状の装飾がついたネックレスがあり、その下の腹部には精巧な作りの四角形の装身具が豪華な装飾美の極みを見せてくれる。展示のために、梵鐘のうなりのように間隔をおいて強弱を繰り返す特製照明の効果も、立体的な鑑賞を助けてくれる。

【写真】金銅菩薩立像の上半身を横から見た姿=ノ・ヒョンソク記者//ハンギョレ新聞社

 今年上半期、京畿道龍仁(ヨンイン)の湖巖(ホアム)美術館仏教美術展の目玉として展示された後に日本に戻った百済金銅観音像とこの仏像を比較する楽しみもある。いずれも新羅と百済の仏教信仰と芸術性、技術力が反映された絶頂の作品と言えるが、子どものように純粋で澄んだ百済観音像の無垢な表情に比べ、200年後に出た禅林院址の観音像は厳粛でありながらも奥ゆかしく慈しみ深い絶対者の表情をしている。

【写真】金銅菩薩立像の首、胸、腹の部分。柔らかく流れ落ちる布の裾を背景に、つぼみ状の飾りがいくつも連なったネックレスがあり、その下の腹部には精巧な作りの四角形の装身具が見える=ノ・ヒョンソク記者//ハンギョレ新聞社

 厳粛だが、胴体は世俗化する中国の唐・宋代の仏像や、極度の恐怖心を抱かせる表情で悪鬼を制圧する同時期の日本の平安仏像とは明確に区分される、新羅ならではの特徴だ。5~6世紀新羅古墳の黄金の金冠と装身具から見える精巧な金属細工術の伝統を継承しながらも、図像の側面で後代さらに深く円熟した統一新羅の仏像芸術の様相を端的に示す展示会といえる。28日まで。

春川/ノ・ヒョンソク記者 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )
韓国語原文入力:2024-07-11 19:05
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「韓日市民が手を取り合い、100年越しの『関東犠牲者追悼文化祭』を開催」

2024年05月19日 | 朝鮮史
「The Hankyoreh」 2023-12-15 10:08
■韓日市民が手を取り合い、100年越しの『関東犠牲者追悼文化祭』を開催
  京畿文化財団「関東、100年の沈黙」 
  今月9日、城南市の嘉泉大学イェウムホールで  
  平和の木合唱団・埼玉合唱団の合同公演 
 「真実を直視し、誤った歴史を繰り返さないように」 
  埼玉も虐殺の現場 
 「謝罪・反省の意を抱いて公演準備」

【写真】関東大震災から100年を迎え開かれる韓日合同追悼文化祭「関東、100年の沈黙」のポスター=企画会社ANTストーリー提供//ハンギョレ新聞社

 1923年9月1日、東京を含む関東地域で史上最悪の大地震が発生した。日本の歴史では関東大震災は過去最大級の自然災害の一つに過ぎない。しかし、いわゆる自警団の狂気で数千人が犠牲になった在日朝鮮人にとって、関東大震災時の虐殺は恐ろしい大災害として残っている。にもかかわらず、これまで韓日両政府の無視の中で関東大虐殺は忘れられてきた。今年、関東大震災朝鮮人虐殺100年を迎え、初めて「韓日市民合同追悼文化祭」公演が開かれる。
 京畿文化財団(代表ユ・インテク)は今月9日午後7時、京畿道城南市(ソンナムシ)の嘉泉大学イェウムホールで「2023韓日市民の合唱―関東、100年の沈黙」公演を行う。「いまここに鳴り響く韓日の平和と共生のハーモニー」を主題に、ハンギョレ平和の木合唱団と日本の埼玉合唱団、京畿少年少女合唱団、イ・エジュ伝統舞踊会、Mクラシックオーケストラ、そして在日コリアン2世の歌手イ・ジョンミなど、両国の芸術者たちが一緒に舞台を飾る。
 特に平和の木合唱団と埼玉合唱団は、2010年8月の「強制併合100年韓日市民大会」の時にソウルで「第1回韓日市民の合唱」合同公演を行って以来、これまでほぼ毎年両国を行き来しながら文化交流を行ってきた。
 「警官隊の警戒裡 哀の涙 怨の恨/悲しい弔辞と追悼歌で終わる/仁川で震災時惨死同胞追悼会―昨年9月1日の日本の関東地方震災時に惨死した同胞のために、仁川労働総同盟の主催で追悼会が開催された。同追悼会は1日午後8時半から市内の山手町の公会堂で開かれたが、定刻前から制服私服の巡査30人余りが警戒する中、定刻になり主催側である労働総同盟委員長のパク・チャンハン氏の開会で哀悼の辞が読まれた後、しばし黙想した。会衆は立錐の余地もなく1千人余りに達し、場内の空気は悲しき風が吹くように張り詰めた中……」。
 今回の追悼文化祭は、「1924年9月1日当時、京畿道仁川市の公会堂(現在の仁聖女子高校)で関東大震災1周忌追悼会が開かれた」という旧日刊紙の記事をきっかけに企画された。

【写真】1924年9月1日、京畿道仁川市で開かれた関東大震災1周忌追悼会を知らせた「警官隊の警官裡 哀の涙 怨の恨」という見出しの記事=「朝鮮日報」1924年9月3日付//ハンギョレ新聞社
【写真】1924年9月1日「関東大震災1周忌追悼会」が開かれた、日帝強占期の京畿道仁川府山手町の公会堂の全景。現在の仁聖女子高校の多目的ホールの位置。仁川市史に掲載された写真//ハンギョレ新聞社

 すでに知られている通り、1923年、関東一帯でマグニチュード7.9の大地震が起こり、数万人が死亡し、数百万人が家を失いさまよう混乱の中、「朝鮮人が井戸に毒を入れた」「朝鮮人が暴動を起こし、日本人を襲撃している」というデマがあっという間に広がり、日本の警察の庇護のもと自警団という市民組織によって朝鮮人大虐殺が行われた。第2の「3・1万歳運動」を警戒した日帝の統制にもかかわらず朝鮮人被害を調査した罹災同胞慰問班が1924年1月に発表した記録によると、少なくとも6661人の朝鮮人が犠牲になった。100年がたつ間、事件の真相と内幕は、さまざまな証拠と研究資料を通じて、日本政府によって捏造された扇動によって行われていたことが明らかになった。しかし、これまで日本政府はその責任を回避しており、一部の極右政治家は虐殺そのものを否定し、歴史歪曲論議を呼んでいる。歴代の韓国政府も公式に真相究明や謝罪を要求したことが一度もないほど「沈黙」を守ってきた。
 今回の追悼文化祭の総監督であり「関東犠牲者のための鎮魂曲」を作った平和の木合唱団の指揮者イ・ヨンジュ氏は「過去の歴史的事件をイメージあるいは音楽で表現することは、完全ではありえません。しかも、他人の記憶と記録に依存して組み合わせる方法では、事件を完全に記述することもできません。しかし、もどかしさを抱いたまま、一曲一曲作業をしなければなりません。今ここに生きている音楽家がしなければならない義務です。たとえ当時の目撃者ではないとしても、残された者として後代に証言を伝えなければならない責務があるのですから」と、「沈黙」を破る意味を明らかにした。
 埼玉合唱団の八反田誠(はったんだまこと)団長は、「犠牲者への追悼の気持ちとともに、関東(大震災虐殺)の真実を直視し、誤った歴史を絶対に繰り返さず、みんなで平和の未来に進むことを願う思いを伝えたい」とし、韓国側からの「初の韓日市民合同追悼文化祭」の提案を快く受け入れた趣旨を明らかにした。

【写真】2010年8月、ソウル成均館大学で平和の木合唱団と埼玉合唱団が「強制併合100年―第1回韓日市民の合唱」合同公演を行っている=ハンギョレ統一文化財団提供//ハンギョレ新聞社

 埼玉合唱団は、日本の埼玉県で1960年から活動してきた純粋な民間文化団体だ。東京都の北に位置する埼玉県は、関東大震災での朝鮮人虐殺の現場の一つでもある。ある団員は「2010年に『強制併合100年』合同公演で日本軍『慰安婦』被害者の方々に慰労と謝罪の気持ちを伝えたように、今回も心の中に韓国の人たちへの謝罪と反省を抱き、公演を準備した」と、個人的な感想を伝えた。
 追悼文化祭の第1部のテーマは「関東の記憶100年」。犠牲者の魂を呼び起こすイ・エジュ韓国伝統舞踊会のノクチョン(死者の魂を表す紙の人形)の舞いを皮切りに、大虐殺の惨状を平和の木合唱団と埼玉合唱団がオラトリオで観客に伝える。第2部は「懺悔と和解」の時空間を、歌手のイ・ジョンミ氏と京畿少年少女合唱団が両国の童謡などを通じて演出する。第3部では埼玉合唱団の単独舞台に続き、出演者全員が「平和と和合の大合唱」でフィナーレを飾る。

(以下のURLより「関東、100年の沈黙」公演の動画を見ることができます:
https://www.youtube.com/watch?v=UIvvHDGSoXc)

キム・ギョンエ先任記者 (お問い合わせ japan@hani.co.kr)
韓国語原文入力:2023-12-05 01:48
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「日本に渡った「百済の微笑」79年ぶりに故国訪問…半跏思惟像に並ぶ国宝級=韓国」

2024年03月27日 | 朝鮮史
「The Hankyoreh」 2024-03-27 08:00
■日本に渡った「百済の微笑」79年ぶりに故国訪問…半跏思惟像に並ぶ国宝級=韓国
 朝鮮半島仏像の最高傑作「百済金銅観音像」 
 湖岩美術館の仏教美術企画展に劇的に出品 

【写真】湖岩美術館1階の展示室2セクションの入り口に展示された日本の個人蔵である百済金銅観音菩薩立像。25日、マスコミ説明会の時に撮影した写真=ノ・ヒョンソク記者//ハンギョレ新聞社

 最も美しい百済の微笑が故国の地に帰ってきた。
 朝鮮半島の古代仏像の中で半跏思惟像とともに最高の傑作とされる百済金銅観音菩薩立像(日本の個人蔵・以下、百済観音像)が、1945年の植民地解放時に搬出されてから79年ぶりに故国の地に帰り、韓国国内の観客たちと会う。
 サムスン文化財団傘下の湖岩美術館は、27日から始まる仏教美術企画展「泥に染まらぬ蓮の花のように」の開幕に先立ち、25日午前にマスコミ説明会を開き展示場に出品作として展示された百済観音像を公開した。
 7世紀前半から中葉に作られたと推定されるこの百済観音像は、1階の1部2セクション展示室の入り口に展示された。高さ28センチ、頭に宝冠をかぶり左手に浄瓶を持った観音菩薩が美しい姿で立っている精巧な仏像だ。慈悲深い笑みを口元に含んだ表情と、肩・腰を少しひねった三曲姿勢、天衣を上半身に巻いて玉装飾(瓔珞)を付けた姿などが百済仏教美術の頂点に立つにふさわしい調和と均衡の美しさを見せてくれる。韓国の学界では国宝の半跏思惟像、百済金銅大香炉に匹敵する名品と評価されてきた。
 1907年、百済の古都・泗ビ(サビ)城があった忠清南道扶余郡窺岩里(プヨグン・キュアムリ)の畑で、ある農夫が釜に収められた状態で発見したとされるこの仏像は、1922年に大邱に暮らしていた日本人医師・市田次郎氏に売られ、1929年に大邱で開かれた新羅芸術品展覧会にこの仏像を含む所蔵品を披露したのを最後に公開の展示はされなかった。(1945年の)解放直後、市田氏が懐に入れて日本に持ち帰ったとされているが、韓国国内の展示場に公開されたのは95年ぶりといえる。
 この仏像は華やかだが贅沢ではなかったという華而不侈の美徳でよく語られる百済造形芸術の最高絶頂を示す仏像に挙げられる。百済の仏像は7世紀、北斉・隋・唐の様式の影響を受け、自然で優雅な体の量感を表現する段階に発展することになるが、湖岩美術館に展示される百済観音像はこのような発展過程を最も端的に示す作品といえる。現在、日本に残っている朝鮮半島の仏像は約150体程度で、これらの中で国籍および出土地、移転経緯、所蔵来歴が正確にわかっている仏像はこの百済観音像がほとんど唯一だ。青銅の錆が染み込んでいるが、鍍金された状態や仏像の表面細部などが依然としてしっかりと残っている。

【写真】湖岩美術館1階の展示室2セクションの入り口に展示された日本の個人蔵である百済金銅観音菩薩立像。25日、マスコミ説明会の時に撮影した写真=ノ・ヒョンソク記者//ハンギョレ新聞社

 市田次郎氏は1970年代に死去するまで百済観音像をごく少数の知人以外には全く公開しなかったが、2018年に当時東国大学教授だったチェ・ウンチョン現文化財庁長とチョン・ウヌ東亜大学教授が、東京で他の収蔵家の手に入った仏像を実見し調査する過程で、完全な状態で保存されている事実が伝えられた。これをハンギョレが単独報道(2018年6月4日付1面)し、韓国国立中央博物館が現地に実態調査団を送って本物であることを確認し、文化財庁が返還交渉に乗り出した。しかし、鑑定評価額の差が大きく、買入交渉は4カ月で決裂し、作品は再び埋もれてしまったという経緯がある。
 サムスン財団側は、2年前に企画展の準備を始めた時からこの作品を展示作の候補に上げ、関係者との交渉を試みたもののずっと接触できずにいた。展示の開幕を控えた今年初めに実務者との接触が成立し、所蔵者の貸与許可を得て1カ月前に美術館に作品を搬入したという。湖岩美術館のある関係者は「当初、所蔵者との連絡自体ができなかったが、終盤に奇跡的に連絡がつき、所蔵者も快く貸与に応じてくれて展示が成功した」と明らかにした。
 「泥に…」展は、女性と東アジア仏教美術の関係を世界で初めて照明する美術史企画展で、百済観音像を含め世界各地に散在する仏教美術の傑作92点を6月16日まで展示する予定だ。

ノ・ヒョンソク記者 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )
l韓国語原文入力:2024-03-25 19:09



「中央日報日本語版」 2024.03.26 15:45
■80年ぶりに帰還した「百済の微笑み」、ちょうど40日後に再び日本へ帰る「釈迦誕生図」=韓国

【写真】観音図と白磁観音像(中国)を一堂に集めた集めた展示室。[写真 湖巌美術館]

 宝瓶を持った左手、流麗な裙衣の線、そして口元をわずかにあげた微笑み!このような微笑みは百済人だけが作ることができた。7世紀中盤に製作されたと推定される高さ26.7センチの百済「金銅観音菩薩立像」だ。扶余郡窺岩面(プヨグン・キュアムリ)の出土と推定されるこの仏像は日帝強占期に日本人が持ち去り、2018年にその存在が知らされて「百済の微笑み」という愛称で呼ばれるようになった。
 当時韓国文化財庁が最大42億ウォン(現レートで4億7400万円)で還収しようとしたが所有者が150億ウォンを提示して交渉が決裂した。京畿道竜仁(キョンギド・ヨンイン)の湖巌美術館で25日から始まった「泥に染まらないレンゲのように」特別展出品のために借り、ほぼ80年ぶりに帰郷がかなった。
 世界各地に散逸していた仏教美術の傑作92点を一堂に集めた今回の展示は「女性と仏教」という異色のキーワードで企画された。責任研究員のイ・スンへ氏は「現代美術で女性に光を当てるさまざまな動きを見て、仏教美術にも多くの女性が存在しているが、いままで一度も注目されたことがないことに考えが及んだ」と説明した。女性と東アジア仏教美術の関係に光を当てる世界初の企画展の誕生背景だ。
 Leeum美術館をはじめ、国立中央博物館・仏教中央博物館など韓国国内9カ所から国宝1点と宝物10点など40点を集めた。李健熙(イ・ゴンヒ)コレクション9点も含まれている。米国メトロポリタン美術館・ボストン美術館、大英博物館・東京国立博物館などにある仏教美術品も数多く“帰国”した。展示作の半分を越える47点が海外から初めて韓国に帰ってきた。『金銅観音菩薩立像』の他に『釈迦誕生図』と『釈迦出家図』が代表的だ。
 「(太子をお産みになった後に)夫人が木の下におられたが…」。1447年首陽大君(スヤンテグン)〔後の7代国王、世祖(セジョ)〕は父・世宗(セジョン)の命で母である昭憲(ソホン)王后の冥福を祈るために釈迦の一代記を書いた。宝物として残っている『釈譜詳節』だ。日本の本岳寺からやって来た『釈迦誕生図』はまさにこの場面を描いている。釈迦を出産した摩耶夫人が菩提樹の下の台座に座って正面を見つめている。頭上に4羽の鳳凰がついた装飾をのせてその上に加髢(つけ毛)を載せたヘアスタイルは、朝鮮王室女性の「クンモリ(加髢を多く載せてヘアスタイル)」に似ていた。宮中の長老と天神のイメージが重なった摩耶夫人の姿から、絵画に頼って願いをかなえようとした王室女性たちの様子が自然に思い浮かぶ。
 その横の『釈迦出家図』では太子の出家を知って悲しむ父と妻の姿を繊細かつ精巧に描いている。ドイツ・ケルンの東アジア美術館からやって来た。二卵性双子ようなこの朝鮮の仏画2点はワンセットだったものと見られる。朝鮮仏画の規範ともいえるこの2点の仏画がどのような運命で異国の地に散ることになったのかは定かではない。帰郷して史上初めて並んで展示されることになったが、それもたった40日間だけだ。『釈迦誕生図』は5月5日まで展示された後、日本に戻る。
 仏教は女性をどのように見つめ、女性は仏教からどのような可能性を見出して猛烈に帰依したのか。展示はこの2つの質問から出発した。新しい美術は後援者なしに語ることはできない。仏像・仏画を製作する過程と念願を記した発願文には女性たちの名前がびっしりと並んでいる。公式的な歴史書物や仏教文献には登場しない女性たちだ。仏教では万物に仏陀になることができる可能性があると教えながらも、女性は先天的に資質が足りず、女性の体では成仏できないとした。そのため『紺紙金泥 妙法蓮華経』を製作した高麗女性キム氏はこのような発願文を残した。やはり国内初公開となる。
 「私は以前の劫の不幸で女の体を受けたため…真に嘆かわしいことこの上ありません。これによって銀の文字で書いた華厳経1部と金の文字で書いた法華経1部を作るというまことの願いを心から込めて、ようやく事をすべて終えました」。
 仏伝図(釈迦の生涯に起きた出来事を描いた絵)の中で母として描写された女性、執着と情念の根源と見なされた女性の体、女性の形状で表現された観音菩薩など、仏教美術の中の女性の姿を集めた1部から、2階に続く2部では崇儒抑仏政策(儒教を重んじ仏教を排斥する政策)の中でも積極的に仏教を支持した王室女性たちが作った仏画や仏像、髪の毛を捧げて仏と菩薩の形状を縫取った刺繍仏画を見ることができる。
 展示は3月27日から6月16日まで。おとな1万4000ウォン。展示期間は火曜日から金曜日で、一日2回、Leeum美術館と湖巌美術館間の無料シャトルバスが運行。バスは公式サイトで予約後に利用することができる。
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「韓国の移住民、歓待にとどまらず連帯すべき」

2024年03月22日 | 朝鮮史
「The Hankyoreh」 2024-03-22 01:33
■[コラム]韓国の移住民、歓待にとどまらず連帯すべき
 イ・ジュンヒ|全国部記者

【写真】移住労働者たちが自分たちの境遇を象徴する鎖を使ってパフォーマンスを繰り広げている=カン・チャングァン先任記者//ハンギョレ新聞社

 昨年4月、移住民政策を取材するために、私はフランスのパリへ行った。シャルル・ド・ゴール空港で飛行機を降りて地下鉄に乗った。移住民の多いパリ北部では、白人の乗客を探すのが難しかった。ホテルのあるパリ中心部はそれとは異なっていた。街にいる人の大半は白人だった。黒人を見る機会は限られていた。エッフェル塔前の露天商、ホテルの清掃員、博物館の警備員。まるで黒人のする仕事が定められているように思えた。一種の「人種化した階級」だった。
 フランスは移住民の包容に積極的だった。しかし、不平等も根深かった。特に移住民に対する尊重は、安い労働力を利用して利潤を創出しなければならない資本主義の論理の前では、あっけなく崩れ去った。移住民というアイデンティティーは配慮の対象となりうるが、労働者としての彼らの賃金が低い理由は彼らの努力や能力の不足、さらには怠惰のような「人種的特性」にたやすく置き換えられた。彼らを低賃金雇用へと追いやる構造は隠蔽されていた。
 韓国はどうか。尹錫悦(ユン・ソクヨル)政権は、人口の絶壁と地域消滅問題の解決策として移民政策を打ち出した。その一環として、今年の非専門就業(E-9)ビザの発給規模を過去最大の16万5千人へと拡大した。ソウルを含む4地域では、下半期から彼らはホテルや食堂の厨房でも働けるようになる。ソウル市は外国人家事手伝いのモデル事業も開始する。
 政策の基調は明確だ。韓国人が敬遠する仕事に外国人を投入するというものだ。同時に、彼らを低賃金雇用に縛りつけておくために、監視と処罰は強化した。法務部は昨年、未登録移住民に対する大々的な取り締まりを行い、3万8千人あまりを摘発した。移住労働者の自由を抑圧しているとの批判を浴びている雇用許可制はそのまま維持した。
 あちこちで副作用が現れた。慶尚北道慶州市(キョンジュシ)のある工場では昨年11月、取り締まりの過程で法務部の男性職員が女性移住労働者を「ヘッドロック」で制圧して連行していく映像が公開され、社会の怒りを買った。京畿道烏山市(オサンシ)にある韓信大学は同月27日に、語学堂に通っていた22人のウズベキスタン人留学生を「不法滞在者になりうる」との理由で、外部の警備業者を動員し、携帯電話まで押収して強制的に出国させていたことが後になって明るみに出て、衝撃を与えた。
法務部の職員が昨年11月7日、慶尚北道慶州市のある工場で未登録移住民の取り締まり中、ある女性移住労働者の首を絞めている=動画をキャプチャー//ハンギョレ新聞社
 政府の強圧的な移住民政策をめぐっては、批判が相次いでいる。人手の足りない農漁村はもちろん、首都圏の企業からも不満が出ている。移住民のおかげで消滅を免れている地域も状況は同じだ。状況が状況だけに、最近は政治傾向を問わず移住民に対する規制を緩和すべきだとの声があがっている。違いを認め、共存を模索しようとの声も高まっている。
 同意しつつも、依然として疑問は残る。国、民族、人種のような皮を剥けば、その中には搾取を通じてのみ維持が可能な体制の問題が存在するのではないかと感じるからだ。内国人と外国人を分ける前に「人間が敬遠する労働」であるなら、まず労働現場を変えるべきだと考えるからだ。未来の韓国を想像してみよう。アジア各国からやって来た人々が低賃金雇用を埋めたその地で、移住民の第2世代が自身の親の受けてきた搾取を批判して立ち上がったとしたら? 低賃金労働を強制し、職場を離脱すれば違法のレッテルを貼って処罰する韓国の移住民政策を「現代版奴隷制」だとして批判したとしたら? 私たちはそれを移住民の問題と考えるべきか、それとも階級問題と考えるべきか。単なる移住民に対する歓待が、世代を重ねて積もっていくその怒りを防げるだろうか。
 歴史学者エリック・ウィリアムズはその著書『資本主義と奴隷制』で、人種差別のせいで黒人奴隷制が生まれたのではなく、黒人奴隷制が人種差別を産んだのだと主張する。西欧の産業化の動力は超過利潤を通じた資本の蓄積を可能にした黒人奴隷制であり、その過程を正当化する論理として人種差別が誕生した、との指摘だ。ウィリアムズは同書の中でこのように語る。「時代の政治理念と道徳観念は、それらが経済発展と結ぶ非常に緊密な関係の中で検討しなければならない」。移住民に対する歓待にとどまらず、共に搾取の構造を乗り越えていく連帯を考えるべき理由はここにある。

イ・ジュンヒ|全国部記者 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )
韓国語原文入力:2024-03-19 19:05
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「韓国の益山双陵は百済の武王の墓だろうか…「本当の主」探す論争続く」

2024年03月15日 | 朝鮮史
「The Hankyoreh」 2024-03-15 08:25
■韓国の益山双陵は百済の武王の墓だろうか…「本当の主」探す論争続く
 ノ・ヒョンソクの時事文化財

【写真】2018年の発掘調査後に公開された益山双陵大王墓石室の内部の様子。棺を支える屍床台が床に置かれている。石室の断面は六角形なのが特徴である=資料写真//ハンギョレ新聞社

 郷歌「薯童謡(ソドンヨ)」は7世紀初めの新羅・百済の人々の恋の物語だ。新羅の善花(ソンファ)姫が百済の青年・薯童(ソドン)に夜に会ったという不思議な内容を含んでいる。この歌のエピソードが込められた場所が、全羅北道益山市石旺洞(イクサンシ・ソクワンドン)にある2基の墓「双陵」だ。
 百済の武王(?~641)が双陵の大きな墓である大王陵に、善花姫は小さな小王陵に眠っていると伝えられてきたが、2017~2019年の発掘調査の結果、これは相当部分が事実だと発表された。大王陵は1917年、日本の学者である谷井済一が初めて調査して歯や木棺の棺材、土器などを発掘し、円光大学の馬韓百済文化研究所が2017年に再発掘を行い、人骨を発見した。これを国立扶余文化財研究所が分析した結果、人骨の正体は620~659年に死亡した60~70代の男性高齢者であることが分かった。これに符合する百済の王は、600年に即位して641年に亡くなった武王だけだ。小王陵も2019年に発掘されたが、善花姫であることを立証できる遺物は出なかった。
 最近、これと関連してある所蔵研究者が予想外の反論を提起した。谷井の発掘遺物と調査資料を所蔵する国立全州博物館が2015年に双陵発掘報告書を発表した際に学芸室長だったイ・ジュホン氏だ。彼は報告書で、1917年の発掘の時、歯が20~30代の女性のものだったという点などを根拠に「善花姫埋葬説」を提起した。その主張はその後、人骨の発見と武王の身元確認につながった双陵の発掘を触発した。この時自分の説に事実上反論されたイ氏は、今月8日に東国大学で開かれた韓国木棺学会の学術発表会で「出土文字から見た陵山里型石室の歴年代と主人公」という論考を発表し、反論の信号弾を打ち上げた。
2020年12月、ソウル古宮博物館で公開された益山双陵石室の人骨。研究陣は7世紀初中盤に死亡した60~70代以上の老年層男性であるとし、その情況に符合する百済王は600年に即位し641年に亡くなった武王だけであることを明らかにした=資料写真//ハンギョレ新聞社

 この論考で反論の要諦は、過去30年余りにわたり公州・扶余で数多く発見された王陵級古墳の発掘過程での考古学的脈絡や、出土品の文字記録および形態、武王など百済の王の葬儀と副葬品に対する文献記録などを度外視し、人骨に対する科学的分析にのみ重点を置いて墓の主が武王であるという説を固着させた、ということだ。双陵の石室断面は6世紀末~7世紀初めの六角形を帯びており、7世紀半ばに亡くなった武王より時期が早いという解釈を出した。それによると、双陵の二人の墓の主は武王の先代である恵王と法王ということになる。
 双陵の大王墓の木棺の中から1917年に出土した金玉帯の腰帯装身具も、武王が墓の主であるという説を遮る遺物として目されている。北朝~隋の高官が使用した玉帯腰帯と同じ系統とみられるが、イ氏は、この帯は唐の顕慶1年(656年)に制定された衣服制度で初めて適用されたため、641年に亡くなった武王が在位した時や葬儀の時に金玉帯の腰帯を入手することは不可能だと主張した。
 しかし、武王説を主張してきた東国大学のイ・ビョンホ教授と双陵を発掘した円光大学のイ・ムンヒョン研究員は、「舎利龕の様式と保守的な墓石室様式は、先行するものと古いものがいくらでも共存しうるのに、数学的で機械的な段階論的仮説で双陵の被葬者問題を説明しようとするのには説得力がない」と反論した。
ノ・ヒョンソク記者 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )
韓国語原文入力:2024-03-14 14:18


「The Hankyoreh」 2024-03-08 06:29
■[独自]韓国ソウル付近の百済遺跡で1600年前の日本人居住痕跡を発見
 漢城百済時代のソウル地域に古代日本人が居住していた可能性

【写真】百済窯遺跡の廃棄物層から日本製の埴輪の破片が出土した際の様子=大韓文化財研究院提供//ハンギョレ新聞社

 1500年余り前に日本からソウルに移ってきた技術者をはじめ、倭の移住民が工房などの生産活動に従事していた事実が明らかになった。最近、彼らが暮らしながら墓に使う葬儀用品として使ったと推定される日本特産の土器が相次いで確認されたためだ。
 大韓文化財研究院は6日、今日のソウルである漢城に百済王朝が都を置いた漢城百済時代(西暦18年~西暦475年)の官営土器窯関連遺跡(京畿道城南市福井洞(ソンナムシ・ポクジョンドン))から、古代日本の権力層の大型墓を飾った土器装飾遺物の「埴輪(はにわ)」を初めて発見したと明らかにした。大韓文化財研究院は地中の文化遺産を発掘・調査する機関だ。
 埴輪は5世紀前半の古代日本の典型的な装飾型土器で、主に円筒形のものと動植物形の象形造形物、家などの住宅造形物などに分けられる。今回発掘されたのは円筒形で外壁に穴を開けた5世紀の造形物だ。

【写真】城南市福井洞の百済土器窯関連遺跡の廃棄物層から出た5世紀の日本の古墳装飾品「埴輪」の破片。突出した帯を付けて巻いてあったり、表面に一定間隔で線を引いた特有の仕上げ跡が明確にみられる典型的な埴輪円筒形土器の破片であることが判明した=大韓文化財研究院提供//ハンギョレ新聞社
【写真】日本の古墳装飾品である埴輪の破片の一部を間近で見た様子。外壁の表面に突出した帯を囲み、一定間隔で細い線を引いた仕上げの跡がはっきりと見える=大韓文化財研究院提供//ハンギョレ新聞社
【写真】日本の職人たちが作った埴輪が出土した城南市福井洞にある霊長山の麓の百済土器窯遺跡。当時、百済王室が運営していた官営工房施設の一部と推定される。埴輪はこの遺跡の廃棄物層から他の百済土器と混在する状態で発見された=大韓文化財研究院提供//ハンギョレ新聞社

 この遺跡は、福井洞393番地の霊長山の麓一帯7798平方メートルの面積で確認された。百済時代に国が運営したとみられる土器窯と廃棄場施設が散在しているが、百済王城跡として有力な風納土城(プンナプトソン)、夢村土城(モンチョントソン)からわずか4~5キロメートルの距離なので、王室が管掌して物品を調達する国営工房施設の一部と推定されてきた場所だ。関心が集中した埴輪の破片は、2022年に遺跡の廃棄物層から黒煉瓦、軒丸瓦、平瓦、内拍子など数百点と共に発掘された。突出した帯を付けて巻いてあったり、外壁の表面に一定間隔で線を引いた日本特有の仕上げ跡(日本の考古学用語で刷毛目)がはっきりとみられる埴輪円形土器の破片であることが判明した。
 大きさが15~20センチの埴輪の破片は、一部分に円形の穴が開いた円筒形で、一部の破片は帯が上下に巻かれたり、このような帯の跡が残ったままだった。破片の下側である低部は、古墳の墳丘の地層につく部位なので、別途の手入れはせずに、上の方だけを手入れした低部も見える。独特の引っ掻き模様の跡も発見された破片のほとんどで観察される。
 大韓文化財研究院のイ・ヨンチョル院長は、「倭の職人たちが日本から移住して百済の官窯や工房に入り、百済の職人たちと一緒に作業した痕跡と思われる」とし「墓の装飾物である埴輪の実体が、韓国の首都圏の百済施設跡で明確に確認されたのは初めて」と話した。2000年代初めに百済王城跡であることが有力な風納土城を発掘し、手のひらより小さい残片大の埴輪の破片が三点ほど出たことはあるが、大きさが小さく出土の状況が明確ではないため、大きな注目を集めることはできなかった。
 韓日古代史を研究してきた歴史考古学界の一部の専門家たちは驚きを隠せずにいる。紀元前18年から475年まで存続した百済王朝の最初の都で、現在のソウル松坡区(ソンパグ)、江東区(カンドング)や京畿道城南市一帯にあたる旧漢城地域で、1600年前に外交官や職人をはじめとする倭人たちが居住して活動したことを示す明確な根拠が出たと評価されるためだ。

【写真】日本の古墳装飾品である埴輪の破片の一部を間近で見た様子。外壁表面に突出した帯の跡と一定間隔で細い線を引いた仕上げ手入れの跡がはっきりと見える=大韓文化財研究院提供//ハンギョレ新聞社
【写真】日本の古墳時代の長鼓型の墓(前方後円墳)である神戸五色塚古墳。墳丘の頂上と下側の部分に円筒形の装飾土器(埴輪)を並べて復元された姿が見える=神戸市公式観光サイト//ハンギョレ新聞社

 特に埴輪は4~6世紀の日本の古墳時代の権力者、実力者の大型墓(長鼓型墓で日本では前方後円墳と呼ばれる)に欠かせない墳丘の重要装飾部材だったという点で、1600年~1500年前に古代日本の移住民が百済のソウルの都に暮らし、特有の墓を建てて飾った可能性が提起されている。まだ断定はできないが、この埴輪の破片の発見で、百済の首都である漢城一帯に倭の職人や外交官らが移住した居住民村があったという推論も可能になったという分析が出ている。
 これまで韓日両国の学界は、古代朝鮮半島で日本と直接交流した有力な対象地として全羅道栄山江(ヨンサンガン)一帯を挙げてきた。この30年間、この地域で倭系移住民のものとみられる前方後円墳が多く確認され、円筒形の他に馬や人などを形象化した埴輪も相当数出土している。しかし今回の埴輪の発見で、首都圏一帯にも埴輪を墳丘の装飾物として使った倭人の墓が存在したという推論が可能になった。
 百済の中央政府があった首都圏一帯の工房で、栄山江流域の倭系遺物より時期が早い5世紀前半の埴輪が出たことで、百済の中央政府と古代日本の間の密接な直接交流が先に進み、続いて百済の領域である栄山江流域と倭との交流が続いた可能性を示しているからだ。研究院側は来月に正式報告書を出版する予定であり、遺物の性格をめぐって学界の議論が熱くなるとみられる。

ノ・ヒョンソク記者 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )
韓国語原文入力:2024-03-07 13:32
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「東電に5700万円賠償命令 地裁いわき、富岡の避難者訴訟」

2024年03月14日 | 朝鮮史
「福島民友新聞 」 2024年03月14日 08時10分 
■東電に5700万円賠償命令 地裁いわき、富岡の避難者訴訟
 東京電力福島第1原発事故で避難した富岡町などの住民が東電に慰謝料などの損害賠償を求めた訴訟で、地裁いわき支部の三井大有裁判長は13日、東電に計約5700万円を賠償するよう命じた。訴訟では、原告158人のうち148人が和解していて、今回は和解していない10人への判決。
 三井裁判長は判決理由で「地震や津波が想定外の大規模なものであり、事故を回避できたと断ずるまではできない」としたが「対策の遅れが原発事故による被害を受けた避難者の精神的損害に及ぼす影響を十分に考慮すべきである」と結論付けた。
 賠償額は帰還困難区域と居住制限区域で2022年12月に見直された国の賠償基準「中間指針」に基づき、区域ごとに算出した。原告側は区域による金額の差を設けないことを訴えていたが、三井裁判長は「地域ごとの被害程度や回復の可能性などを考慮して定めるのが合理的」とした。
 原告団の猪狩俊幸副団長(78)は「判決は非常に残念で、何事にも誠意が見られない」と語った。原告側は控訴を検討している。
 原告は、原発事故による「ふるさと喪失」などに対する慰謝料を求める「福島原発避難者訴訟」の第3陣。富岡町などの住民64世帯162人が東電に慰謝料など35億6400万円を求めて提訴したが3世帯4人が取り下げ、先月28日には58世帯148人が和解していた。
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「韓国ソウル付近の百済跡で1600年前の日本人居住痕跡が発見された」

2024年03月08日 | 朝鮮史
「The Hankyoreh」 2024-03-07 17:06
■[単独]韓国ソウル付近の百済跡で1600年前の日本人居住痕跡が発見された
 漢城百済時代のソウル地域に古代日本人が居住していた可能性

【写真】百済窯遺跡の廃棄物層から日本製埴輪の破片が出土した際の様子=大韓文化財研究院提供//ハンギョレ新聞社

 1500年余り前にソウルに日本から移ってきた技術者をはじめ倭の移住民が工房などの生産活動に従事していた事実が明らかになった。最近、彼らが暮らしながら墓に使う葬儀用品として使ったと推定される日本特産土器が相次いで確認されたためだ。
 地中の文化遺産を発掘・調査する機関である大韓文化財研究院は6日、今日のソウルである漢城に百済王朝が都を置いた漢城百済時代(西暦18年~西暦475年)の京畿道城南市福井洞(ソンナムシ・ボクジョンドン)にある百済時代の官営土器窯関連遺跡から、古代日本権力層の大型墓を飾った土器装飾遺物「埴輪」を初めて発見したと明らかにした。
 埴輪は5世紀前半の古代日本の典型的な装飾型土器で、主に円筒形のものと動植物形の象形造形物、家などの住宅造形物などに分けられる。今回発掘されたのは円筒形で外壁に穴を開けた5世紀の造形物だ。

【写真】城南市福井洞の百済土器窯関連遺跡の廃棄物層から出た5世紀の日本の古墳装飾品「埴輪」の破片。突出した帯を付けて巻いてあったり、表面に一定間隔で線を引いた特有の仕上げ跡が明確にみられる典型的な埴輪円筒形土器の破片であることが判明した=大韓文化財研究院提供//ハンギョレ新聞社
【写真】日本の古墳装飾品である埴輪破片の一部を間近で見た様子。外壁の表面に突出した帯を囲み、一定間隔で細い線を引いた仕上げの跡がはっきりと見える=大韓文化財研究院提供//ハンギョレ新聞社
【写真】日本の職人たちが作った埴輪が出土した城南市福井洞霊長山の麓の百済土器窯遺跡。当時、百済王室が運営していた官営工房施設の一部と推定される。埴輪はこの遺跡の廃棄物層から他の百済土器と混在する状態で発見された=大韓文化財研究院提供//ハンギョレ新聞社

 この遺跡は、福井洞393番地霊長山麓一帯7798平方メートルの面積で確認される。百済時代に国が運営したと見られる土器窯と廃棄場施設が散在しているが、百済王城跡として有力な風納土城(プンナプトソン)、夢村土城(モンチョントソン)とわずか4~5キロメートルの距離なので、王室が管掌しながら物品を調達する国営工房施設の一部と推定されてきたところだ。関心が集中した埴輪破片は2022年に遺跡の廃棄物層から黒煉瓦、軒丸瓦、平瓦、内拍子など数百点余りと共に混ざって出てきた。突出した帯を付けて巻いてあったり、外壁の表面に一定間隔で線を引いた日本特有の仕上げ跡(日本の考古学用語で刷毛目)がはっきりとみられる埴輪円形土器の破片であることが判明した。
 大きさが15~20センチに達する埴輪の破片は、一部分円形の穴が開いた円筒形で、一部の破片は石柱が上下に巻かれたり、このような石柱の跡が残ったままだった。破片の下側である低部は、古墳の墳丘の地層につく部位なので、別途の手入れはせずに、上の方だけを手入れした低部も見える。独特の掻いた模様跡も発見された破片のほとんどで観察される。
 大韓文化財研究院のイ・ヨンチョル院長は、「倭の職人たちが日本から移住して百済の官窯や工房に入ってきて百済の職人たちと一緒に作業した痕跡と思われる」とし「墓の装飾物である埴輪製作品の実体が韓国の首都圏の百済施設跡で明確に確認されたことは事実上初めて」と話した。2000年代初めに百済王城跡であることが有力な風納土城を発掘し、手のひらより小さい残片大の埴輪の破片が三点ほど出たことはあるが、大きさが小さく出土の状況が明確ではないため、大きな注目を集めることはできなかった。
 韓日古代史を研究してきた歴史考古学界の一部の専門家たちは驚いている。紀元前18年から475年まで存続した百済王朝の最初の都で、今日のソウル松坡区(ソンパグ)、江東区(カンドング)、城南(ソンナム)一帯にあたる旧漢城(ハンソン)地域で、1600年前に外交官や職人をはじめとする倭人たちが居住して活動したことを示す明確な根拠が出たと評価されるためだ。

【写真】日本の古墳装飾品である埴輪破片の一部を間近で見た様子。外壁表面に突出した帯の跡と一定間隔で細い線を引いた仕上げ手入れの跡が明確に見える=大韓文化財研究院提供//ハンギョレ新聞社
【写真】日本の古墳時代の長鼓型の墓(前方後円墳)である神戸五色塚古墳。墳丘の頂上と下側の部分に円筒形の装飾土器(埴輪)が列をなして復元された姿が見える=神戸市公式観光サイト//ハンギョレ新聞社

 特に埴輪は4~6世紀の日本の古墳時代の権力者、実力者の大型墓(長鼓型墓で日本では前方後円墳と呼ばれる)に欠かせない墳丘の重要装飾部材だったという点で、1600年~1500年前に古代日本の移住民が百済のソウルの都に暮らし、特有の墓を建てて飾った可能性が提起されている。まだ断定はできないが、この埴輪破片の発見で百済の首都である漢城一帯に倭の職人や外交官らが移住し、居住民村があったという推論も可能になったという分析が出ている。
 これまで韓日両国の学界は、古代朝鮮半島で日本と直接交流した有力な対象地として全羅道栄山江(ヨンサンガン)一帯を挙げてきた。この30年間、この地域で倭系移住民のものと見られる長鼓型墓が多く確認され、円筒形の他に馬と人などを形象化した埴輪も相当数出土している。しかし、今回の埴輪の発見で首都圏一帯にも埴輪を墳丘の装飾物として使った倭人の墓が存在したという推論が可能になった。
 百済の中央政府があった首都圏一帯の工房で、栄山江流域の倭系遺物より時期が早い5世紀前半の埴輪が出たことで、百済の中央政府と古代日本の間の密接な直接交流が先に進み、続いて百済の領域である栄山江流域と倭との交流が続いた可能性を示しているからだ。研究院側は来月に正式報告書を出版する予定であり、遺物の性格をめぐって学界の議論が熱くなるとみられる。

ノ・ヒョンソク記者 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )
韓国語原文入力:2024-03-07 13:32
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「韓国外交部、独島に「在外公館」表示…徐坰徳教授「韓国領土でないということ」

2024年02月01日 | 朝鮮史
「中央日報日本語版」 2024.02.01 11:15
■韓国外交部、独島に「在外公館」表示…徐坰徳教授「韓国領土でないということ」

【写真】独島の冬の風景[写真 外交部、中央DB]

 海外旅行関連の安全情報を提供する韓国外交部の海外安全旅行サイトが「独島(ドクト、日本名・竹島)」に「在外大韓民国公館」表示をし、論議を呼んでいる
 誠心女子大の徐坰徳(ソ・ギョンドク)教授は1日、自身のフェイスブックで「前回の国防部に続いて今度は外交部が独島に関する大きな事故を起こした」とし「短時間内にDMでこれほど多くの情報提供を受けたのは初めてのようだ。あまりにもあきれるようなことがまた生じた」と指摘した。
 外交部が運営する該当サイトには、世界各地にある韓国の公館を表示している。独島は大きい文字の上に太極模様のアイコンが付いているが、このアイコンは「在外大韓民国公館」を意味する。独島を「在外」、すなわち韓国領土でないと表示しているのだ。
 これに関し外交部は聯合ニュースTVに「独島ホームページにつながるリンクをクリックできるようアイコンを入れたが、別途のアイコンを使用せず在外公館のアイコンを使用して誤解が生じたようだ」と釈明した。
 徐教授は「独島を『在外公館』と表示したことは独島が韓国領土でないとことを意味する。どうすればこのようなことが起きるのか。これは日本の独島領有権主張に同調するようなものだ。幸い、現在は削除された状態」と指摘した。
 続いて「昨年末に国防部が出した将兵精神教育資料に独島を『紛争地域』と記述し、また、多数の韓半島(朝鮮半島)地図に独島が全く表示されていないことが明らかになり、大きい議論を呼んだ。最近はなぜ政府機関が独島に関してこのようになったのか分からない。気を引き締めなければいけない。今後このようなことが再発しないよう注意してほしい」と呼びかけた。


「中央日報日本語版」 2024.02.01 11:21
■海外旅行関連の安全情報を提供する韓国外交部の海外安全旅行サイトが「独島(ドクト、日本名・竹島)」に「在外大韓民国公館」表示をし、論議を呼んでいる。

【写真】独島に「在外公館」表示した韓国外交部サイト


「中央日報日本語版」 2024.02.01 07:19
■「ロシア版ウィキペディア」で独島を紛争地と紹介…徐坰徳教授が「抗議メール」

【写真】独島

 ロシアのインターネット百科事典「ルウィキ」が独島(ドクト、日本名・竹島)を韓国と日本の領土紛争地域として紹介したことがわかった。
 ルウィキで独島を検索すると「リアンクール」が出ている。ルウィキは「リアンクールまたは独島、または竹島。日本と韓国がこの島に対する領有権紛争を行っている」と説明した。
 リアンクールは1949年に独島を発見したフランスの捕鯨船の名前を取ったもので、韓国の独島領有権を否定する意味で日本政府が主に使う用語だ。
 これは独島が韓国固有の領土であり、関連した領土紛争は存在しないという韓国政府の公式見解に反するものだ。
 韓国の文化と歴史を伝えている誠信(ソンシン)女子大学の徐坰徳(ソ・ギョンドク)教授は「独島は歴史的、地理的、国際法的に韓国の領土なので紛争は存在しない。日本の強引な主張であるだけ」と指摘した。
 独島を英語では「リアンクールロックス」と呼ぶという説明に対しては、「独島は英語で『Dokdo』と表記する。リアンクールロックスは日本政府が韓国の独島領有権を薄めようとする意図で国際社会に広めている用語」と指摘した。
 合わせて独島の位置を日本海と表記したことに対しても徐教授は「韓国と日本の間の海の名前は2000年前から『東海』(East Sea)と呼ばれてきた」と強調した。
 徐教授はルウィキ側に関連情報を修正するよう促すメールを送り、独島が韓国領土であり東海の正しい名称を紹介する動画も伝えたと明らかにした。
 徐教授はグーグルやバイドゥなど海外検索サイトに韓国関連の間違いを粘り強い抗議で変えたとし「ルウィキの独島と韓国関連間違いも必ず修正されれば良いだろう」と付け加えた。
 ルウィキは代表的インターネット百科事典であるウィキペディアがロシアのウクライナ侵攻と関連した虚偽情報を掲載しているという主張が提起されたことを受け登場した代替サービスで15日に正式にサービスが開始された。
 ルウィキは「だれでもコンテンツ製作に参加することはできるが、専門家だけが資料検証を保証する点でウィキペディアと違う」と強調した。


「中央日報日本語版」 2023.05.04 15:50
■「独島は韓国の土地」証拠…日米の図書館で古地図245点発見
 米国スタンフォード大学図書館に所蔵中の日本全図(英国、1882)に鬱陵島(ウルルンド)と独島(ドクト)がそれぞれ「Dagelet I.」と「Hornet Is.」と表記されて描いている。日本の隠岐の島は着色されているが、鬱陵島と独島は韓半島(朝鮮半島)と同一に着色されていない。[写真 独島財団]
 日本政府が独島(トクド、日本名・竹島)領有権主張を繰り返して論争になっている中で、独島が韓国領土であることを示す古地図245点が日本や米国など海外で追加で発見された。当時の世相を含む外国の古地図に鬱陵島・独島が韓国領土として表記されたことはそれ自体で歴史学的証拠になるものと評価される。

◇1600~1900年代の多様な時期の古地図を確認
 慶尚北道(キョンサンブクト)支援機関である独島財団は3日「海外機関および団体所蔵 独島関連古地図現況調査およびDB(データベース)構築」調査の結果を発表した。今回の調査の過程で日本11カ所の大学と米国議会、スタンフォード大学図書館に所蔵された独島関連古地図245点が確認された。
 追加で確認された地図は1600年代から1900年代に至るまでさまざまな時期に製作された。東洋古地図135点は韓国で製作された20点を除けばほとんどが日本で製作され、西洋古地図110点は英国とドイツなどさまざまな国家で製作された。英国46点(34.1%)、ドイツ33点(24.4%)、フランス13点(9.6%)、米国11点(8.1%)、ロシア2点(1.5%)、オーストリア2点(1.5%)、イタリア2点(1.5%)、スイス1点(0.7%)の順だ。
 独島の過去の名称表記もさまざまだったことが分かった。東洋の古地図ではほとんどが現在日本で呼んでいる独島名称である竹島ではなく松島と表記されていて、一部は朝鮮で製作されたのも影響で于山島・于島・千山島・子山島などで現れていた。西洋の古地図では「Tchian-chan-tao」「リアンクール岩礁(Liancourt Rocks)」「Hornet Island」と表記された。
 特に東・西洋の古地図ともに特徴的に確認できるのは鬱陵島と独島が別々に離れているものではなく一つの群島のように常に一緒に登場しているという点だ。

◇独島財団「欧州でも追加調査進行計画」
 独島財団のユ・スホ事務総長は「当時の世相をそのまま含んでいる古地図の証拠力は非常に強力」としながら「今回調査できなかった米国と日本の他の大学を含めて西洋の古地図が最も多く製作された英国やドイツ、フランスなど欧州でも追加調査を進めて独島古地図DBを構築していく」と話した。
 一方、最近日本政府は岸田文雄首相の7日の訪韓を控えて独島領有権主張を再び持ち出した。韓国野党「共に民主党」の田溶冀(チョン・ヨンギ)議員が2日に独島を訪問すると翌日「極めて遺憾」としながら外交ルートで抗議しながらだ。共同通信・NHK放送など現地メディアによると外務省の船越健裕アジア大洋州局長は田議員の独島訪問に関連して韓国大使館の金容吉(キム・ヨンギル)駐日政務公使に電話して「到底受け入れられず極めて遺憾だ」としながら再発防止を要求した。あわせて「竹島は、歴史的事実に照らしても国際法上も明らかに日本固有の領土だ」と主張した。
 これに対して韓国外交部は「日本側の不当な主張を外交チャネルを通じて一蹴した」とし「独島は歴史的・地理的・国際法的に明白な我が国固有の領土で、領土主権関連の日本側の主張を受け入れることはできない」と反論した。
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