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三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

「福島原発汚染水7800トン、海へ…4回目の放出始まる」

2024年02月29日 | 
「The Hankyoreh」 2023-12-30 07:22 
■福島原発汚染水7800トン、海へ…4回目の放出始まる
 来月16日まで

【写真】福島第一原発敷地タンクに保管中の放射性物質汚染水/聯合ニュース

 日本の東京電力が福島第一原発の放射性物質汚染水の4回目の海洋放出を始めた。
 東京電力は28日午前11時11分頃、気象状況など問題がないとし、汚染水を海に放出したと発表した。今回の放出は1~3回目と同様、17日間で約7800トンを原発の沖合に流す予定だ。福島原発汚染水の1回目の放出は昨年8月24日に始まり、3回目の放出は昨年11月20日に終了した。
 東京電力は3回にわたる放出を通じて汚染水約2万3351トンを処理し、今回の4回目まで合わせると計3万1200トンになる。
 東京電力は今年4月から来年3月まで7回にわたって5万4600トンの汚染水を放出する計画だ。1回当たりの放出量は現在のように7800トンだ。東京電力は「これまで処理水の放出による問題は確認されていない」と説明した。
 国際原子力機関(IAEA)のラファエル・グロッシ事務局長は来月12~14日に来日し、福島第一原発を視察する。汚染水を海に放出してから半年を迎え、現地の状況を確認する予定だ。
東京/キム・ソヨン特派員(お問い合わせ japan@hani.co.kr )
韓国語原文入力:2024-02-28 19:47


「The Hankyoreh」 2024-02-28 07:24
■「処理水ではなく汚染水」所信発言で逆風…日本企業の会長が辞任
 日本の食品流通会社「オイシックス」の創業者 
 市民の会を設立した環境・生協運動第1世代

【写真】有機農食材などの宅配サービスを行う大手食品流通会社の「オイシックス・ラ・大地」は、ホームページにて声明を出し、藤田和芳会長が辞任の意思を明らかにし、22日付で会長職の辞任を決めたと、最近発表した。写真は、オイシックスの藤田和芳前会長=読売新聞よりキャプチャー//ハンギョレ新聞社

 日本が28日から福島第一原子力発電所の汚染水の4回目の放出を始める中、日本の大手食品流通会社「オイシックス・ラ・大地」(以下オイシックス)の会長であり創業者が、原発汚染水を日本政府が表現する「処理水」と表現しなかったとの理由で批判を受け、自ら辞任した。
 オイシックスは最近、ホームページに声明を出し、藤田和芳会長が辞任の意思を明らかにし、22日付で会長職の辞任を決めたと発表した。オイシックスは有機農食材などを宅配サービスする日本の大手食品流通会社だ。
 藤田前会長の辞任の発端となったのは、「放射能汚染水」発言だった。これに先立ち、藤田前会長は10日、X(旧ツイッター)への投稿で、「本当は『放射能汚染水』なのに、(日本の)マスコミはその水を『処理水』と呼んでいる」と書いた。12日にもXに「東京電力は、福島原発の放射能汚染水を海に流し始めた。今ある汚染水を海に流し終えるまでは、さらに20年かかるという」という文を投稿した。この投稿は現在削除されている。

【写真】有機農食材などの宅配サービスを展開する大手食品流通会社オイシックスは最近、ホームページに声明を出し、藤田和芳会長が辞任の意思を明らかにし、22日付で会長職の辞任を決めたと発表した=オイシックスのホームページより//ハンギョレ新聞社

 藤田前会長は1975年に「大地を守る市民の会」を設立した環境運動と生協運動の第1世代。投稿が波紋を広げたことを受け、藤田前会長は13日、Xに「『汚染水』という表現は風評被害を拡大する恐れがあるため、『処理水』に訂正する」と釈明したが、日本国内の反発は収まらなかった。
 日本のネットユーザーは「恐怖を煽る」、 「デマに加担するのは恥ずかしいことだ」などの反応を示した。一方、一部の日本のネットユーザーは「汚染水は汚染水だ」、「処理したというが、依然として放射性物質に汚染された水だ」、「処理水という曖昧な表現で汚染されていないように人々に誤解を与える方がさらに問題だ」など、藤田前会長の発言に同調する姿を見せた。

【写真】日本の福島第一原子力発電所の敷地に保管されている汚染水タンクの様子/AP・聯合ニュース

 これについて、オイシックスは「当社会長の藤田和芳が、2024年2月12日にXにて投稿した不適切な発言により、不必要な風評被害を引き起こす可能性があったことを受け、懲戒委員会が開催された」とし、「審議の結果、本年度末(2024年3月末)で停職処分となったが、その結果を受け、藤田本人が責任の重さを自身で判断し、辞任の申し出があった」と説明した。オイシックスは「本件により、多くのみなさまに多大なるご迷惑とお心配をおかけしてしまったことに対して、藤田への監督責任を明確にするために、当社社長取締役社長、高島宏平社長については、本年度末までの役員報酬の10%を自主返納の申し出があった」と付け加えた。
 一方、日本の東京電力は福島第一原発の汚染水の4回目の海洋放出を28日から開始する。東京電力は1~3回目の放出同様、今回も17日間、汚染水約7800トンを福島第一原周辺海域に流す計画だ。
 チョ・ユニョン記者 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )
韓国語原文入力:2024-02-27 14:29


「The Hankyoreh」 2024-02-21 13:00
■日本の原子力専門家 「汚染水放出を止め、独立的な監査機構作るべき」
 福島第一原発の放射能汚染水放出から6カ月 
 長崎大学の鈴木達治郎教授インタビュー

【写真】長崎大学核兵器廃絶研究センターの鈴木達治郎教授=長崎/キム・ソヨン特派員//ハンギョレ新聞社

 「日本政府はひとまず放出を中断し、利害関係者が信頼できる『独立的な監査機構』を作らなければならない」。
 日本の福島第一原発の放射能汚染水の海洋放出から今月24日で丸6カ月になる。福島第一原発の運営会社である東京電力はこの6カ月で汚染水2万3400トンを海に注ぎ込んでおり、このような汚染水放出は今後少なくとも30年は続く予定だ。
 今月14日、長崎大学でハンギョレのインタビューに応じた日本の原子力専門家で、長崎大学核兵器廃棄研究センター所属の鈴木達治郎教授は、昨年8月24日から始まった福島第一原発の汚染水の海洋放出について「これは単純に科学・技術的問題ではないという点を認識しなければならない」とし、「過程に対する信頼がなければ、東電がデータを根拠にいくら説明しても信じられなくなる」と強調した。また「原発事故で溶けた核燃料に触れた汚染水を多核種除去設備(ALPS)で浄化し、海洋に長期間放出することは、これまで前例のないことだ」とし、長期的影響に懸念を示した。
 鈴木教授は2010年から2014年まで内閣府原子力委員会委員長代理を務めた、日本を代表する原子力の専門家だ。2011年の福島第一原発の放射性物質流出事故後の収拾過程にも参加した。
 教授は汚染水の放出開始から1カ月後の昨年9月、米国の著名な学術誌「原子力科学者会報」(Bulletin of the Atomic Scientists)に「なぜ日本は福島原発廃水の海洋放出を止めなければならないのか(Why Japan should stop its Fukushima nuclear wastewater ocean release)」という題で寄稿するなど、この問題を国際社会に公論化した。

◆-今月24日には福島第一原発の汚染水の海洋放出が始まってから6カ月になる。これまで約2万3400トンの汚染水が放出された。日本政府と東京電力、国際原子力機関(IAEA)は、安全に問題がないと主張する。
 「まず明らかにすべきことは、今海洋に放出される処理水は他の原発から放出されているトリチウム水とは異なる点だ。基準値未満ではあるがセシウム、ストロンチウム、ヨウ素など放射性核種を含んでいる。正常稼動する他の原子力発電所から出るトリチウム水では他の核種が含まれることはまれだ。このような処理水が30~40年間放出される場合、海洋環境と生物体にどのような影響を与えるかは不確実だという意見がある。ハワイ大学ケワロ海洋研究所のロバート・リッチモンド所長はナショナルジオグラフィックに『汚染水の海洋放出は国境を越えて世代を越えた事件だ。これが太平洋を取り返しのつかないほど破壊するとは思わないが、だからといって心配する必要がないという意味ではな』と述べた。私が海洋学者ではないので詳しくは分からないが、この意見に共感する」。

◆-日本を代表する原子力の専門家が、著名な米国の専門誌に「日本は放射能汚染水の放出を止めなければならない」という文を寄稿したので驚いた。
 「6カ月が経った今も、ALPS処理水の放出をめぐり、賛成と反対に焦点を合わせた論争が日本内外で続いている。日本政府と東電はトリチウム水だから大丈夫だと主張するが、いろいろな疑問を持っている。最近ようやく西村経済産業相も国会で認めたように(2023年9月)、原発事故で溶けた核燃料に触れた汚染水を多核種除去設備(ALPS)で浄化し、海洋に長期間放出することは、これまで前例のないことだ。この問題を巡り賛否を跳び越え、どうすれば『科学が信頼を得られるか』について討論し、新しい解決法を用意する機会にしたかった」。

◆-汚染水の安全性を議論する際に信頼の問題もあるようだ。例えば不信を解消するために韓国など多くの国が直接汚染水の試料採取を要求しているが、東電は拒否している。
 「日本政府や東京電力が今回の放出が単純に科学・技術的な問題ではないという点を認識しなければならない。放出に反対するからといって、科学的知識が足りないと考えてはならない。核物理学者アルビン・ワインバーグ(Alvin Weinberg)の用語を借りれば、処理水の放出は『科学で質問できるが、科学だけでは答えられない問題』を意味する典型的な『トランスサイエンス』(科学を超越する)の事例だ。データが全てではないということだ。それが出てくる過程に対する信頼がなければ、東電がデータを根拠にいくら説明しても信じられなくなる。試料採取を拒否する理由はわからないが、拒否するのであれば、その理由をきちんと説明すべきであり、単なる拒否は透明性を落とす行為とみられ、不信が大きくならざるを得ない」。

【写真】福島第一原発の敷地内のタンクに保管されている放射性物質汚染水/聯合ニュース

◆-汚染水の安全性に直接影響を与えるALPSの性能も議論を呼んでいる。
 「2018年8月、福島第一原発のタンクに保管中の汚染水の約70%で、セシウム・ストロンチウム・ヨウ素などの放射性物質が基準値以上含まれているということが日本メディアによって暴露され衝撃を受けた。それまでALPSで1次浄化してトリチウムを除いた大部分の核種は検出限界値未満という説明をしてきたためだ。『汚染水』のリスクを低減し、ALPSの性能を確認するために、まずは『汚染水(処理途上水)』をきれいにする作業が優先されると考える。30~40年を浄化しなければならないが、ALPSの性能は心配だ」。

◆-信頼を回復するためには何が必要か。
 「日本政府がひとまず放出を中断し、利害関係者が信頼できる『独立的な監査機構』を作らなければならない。同機構は、福島第一原発の廃炉問題を点検する中で、処理水の放出も同時に扱わなければならない。海洋放出の理由の一つが廃炉のための作業空間の確保だ。現在、廃炉(特にデブリ取りだし)の時期や実現可能性も分からない状況で『なぜ今放出しなければならないのか』という説明が不十分だ。処理方式を決める過程も疑問だ。複数の対策の中で海洋放出を選択した理由が明確ではない。それぞれの方策による安全性だけでなく、地域や周辺国への影響、環境問題などを比較したものはない。このような部分まで監督機構で包括的に扱わなければならない。国会を中心に多様な分野の専門家たちが参加する機構を作った方が良さそうだ。処理水の放出に対する信頼を高めるためには、『科学的論理』を越えなければならない」。

◆-日本政府は「独立的な監督機構」より国際原子力機関(IAEA)に力を入れるようだ。
 「IAEAの総合報告書が役に立つだろうが、今後30~40年間続く海洋放出全体計画を検討したわけではない。日本政府が要請した範囲内で、東京電力が提供した一部の試料だけを検証した。実際、IAEAのラファエル・グロッシー事務総長は報告書の序文で『今回の検討が(日本政府の)政策に対する勧告や支持ではない』と明らかにした。また、今回の報告書にはIAEA一般安全指針(GSG-8)に明示された『その行動で個人と社会に予想される利益がその行動による害悪より大きくなければならない』という原則をまともに検証しなかった。IAEAの報告書もその点を認めている。短期的な安全性だけではなく、長期的・包括的な評価ができる監査機構がやはり必要だ」。

長崎/キム・ソヨン特派員 (お問い合わせ japan@hani.co.kr)
韓国語原文入力:2024-02-21 09:33
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「ウクライナ戦死者、3万1000人 ゼレンスキー大統領」

2024年02月28日 | 個人史・地域史・世界史
「AFP」 2024年2月26日 9:25 発信地:キーウ/ウクライナ 
■ウクライナ戦死者、3万1000人 ゼレンスキー大統領

【写真】ウクライナ東部アウディーイウカ近郊で戦死した兵士のひつぎの傍らで嘆く母親。首都キーウ近郊のブチャで(2024年2月24日撮影)。(c)Roman PILIPEY / AFP
【写真】ウクライナ・キーウの独立広場で、ロシアとの戦いで命を落とした兵士を追悼する市民(2024年2月24日撮影)。(c)Roman PILIPEY / AFP 
【写真】ウクライナ東部アウディーイウカ近郊で戦死した兵士の妻(中央右)と息子(中央)。首都キーウ近郊のブチャで(2024年2月24日撮影)。(c)Roman PILIPEY / AFP
【写真】ウクライナ東部アウディーイウカ近郊で戦死した兵士のひつぎをさする母親。首都キーウ近郊のブチャで(2024年2月24日撮影)。(c)Roman PILIPEY / AFP 
【写真】ウクライナ東部アウディーイウカ近郊で戦死した兵士のひつぎの傍らで嘆く母親。首都キーウ近郊のブチャで(2024年2月24日撮影)。(c)Roman PILIPEY / AFP 
【写真】ウクライナ東部アウディーイウカ近郊で戦死した兵士の墓に土をかける遺族。首都キーウ近郊のブチャで(2024年2月24日撮影)。(c)Roman PILIPEY / AFP 
【写真】ウクライナ東部アウディーイウカ近郊で戦死した兵士のひつぎの周りで膝をつき、こうべを垂れる兵士。首都キーウ近郊のブチャで(2024年2月24日撮影)。(c)Roman PILIPEY / AFP 
【写真】ウクライナ東部アウディーイウカ近郊で戦死した兵士の遺影を持つ兵士。首都キーウ近郊のブチャで(2024年2月24日撮影)。(c)Roman PILIPEY / AFP 
【写真】ウクライナ東部アウディーイウカ近郊で戦死した兵士の追悼式典で演奏する楽団。首都キーウ近郊のブチャで(2024年2月24日撮影)。(c)Roman PILIPEY / AFP 
【写真】ウクライナ東部アウディーイウカ近郊で戦死した兵士のひつぎを運ぶ兵士。首都キーウ近郊のブチャで(2024年2月24日撮影)。(c)Roman PILIPEY / AFP 
【写真】ウクライナ東部アウディーイウカ近郊で戦死した兵士のひつぎが運ばれるのを膝をついて見守る親族や友人。首都キーウ近郊のブチャで(2024年2月24日撮影)。(c)Roman PILIPEY / AFP 
【写真】ウクライナ・キーウの独立広場に据えられた、ロシアとの戦いで命を落とした兵士を追悼する国旗(2024年2月24日撮影)。(c)Roman PILIPEY / AFP 
【写真】ウクライナ・キーウの独立広場に据えられた、ロシアとの戦いで命を落とした兵士を追悼する国旗の前にひざまずく女性(2024年2月24日撮影)。(c)Roman PILIPEY / AF 
【写真】ウクライナ・キーウの「戦没者追悼の壁」の前を歩く兵士や市民(2024年2月24日撮影)。(c)Roman PILIPEY / AFP 
【写真】ウクライナ・キーウの独立広場に据えられた、ロシアとの戦いで命を落とした兵士を追悼する国旗や花(2024年2月24日撮影)。(c)Roman PILIPEY / AF 

【2月26日 AFP】ウクライナのウォロディミル・ゼレンスキー(Volodymyr Zelensky)大統領は25日、ロシア軍との戦闘に伴うウクライナ軍の戦死者は3万1000人に上ると明らかにした。2年に及ぶロシアとの戦争で、自国軍の損失公表は異例。
 ゼレンスキー氏は首都キーウでの記者会見で、「この戦争で3万1000人のウクライナ兵が命を落とした。(ウラジーミル・)プーチン(ロシア大統領、Vladimir Putin)やうそつきの取り巻きが言っているような30万人や15万人といった人数ではない」と強調。「しかし、犠牲になった一人ひとりがわれわれにとっては大きな損失だ」と述べた。
 ロシアのセルゲイ・ショイグ(Sergei Shoigu)国防相は昨年12月、ウクライナ軍の死傷者は38万3000人と指摘していた。
 一方、ゼレンスキー氏は「(米)議会には希望がある。必ず良い結果が出ると確信している」と語り、約600億ドル(約9兆円)のウクライナ支援を含む予算案はいずれ承認されるだろうとの見方を示した。
 米国からの軍事支援が滞っている影響もあり、ウクライナ軍はここ数週間、深刻な弾薬不足に直面している。

「中央日報日本語版」 2024.02.20 15:07
■ウクライナに亡命のロシア操縦士、スペインで銃撃され遺体で発見
 昨年ウクライナに亡命したロシア軍の操縦士マクシム・クズミノフ氏がスペインで射殺されていたことが伝えられた。
 19日(現地時間)のロイター通信など海外メディアによると、クズミノフ氏は13日、スペイン南部の村のアパート駐車場で銃撃されて死亡しているのが見つかった。付近には燃やされた車も発見されたという。
 ウクライナ国防省傘下の情報総局(GUR)の報道官もクズミノフ氏がスペインで死亡したと明らかにしたが、殺害など詳細内容は明らかにしなかった。
 クズミノフ氏はウクライナ戦争が始まって以降ウクライナに亡命した最初のロシア軍操縦士で、昨年8月にロシア軍戦闘機の部品を積んだヘリコプターでウクライナに渡った。GUR側は当時、クズミノフ氏を6カ月間にわたり説得して亡命させ、家族をあらかじめロシアから出国させたと明らかにした。
 ウクライナ政府はクズミノフ氏に定着金として約55万ドル(約8270万円)を支給したという。クズミノフ氏が亡命に成功した後の昨年9月にはウクライナ空軍部隊に合流し、ロシアを相手に戦うという報道もあった。
 ロシアはクズミノフ氏を反逆者として非難してきた。スペイン国営通信EFEによると、クズミノフ氏は死亡当時、スペインでウクライナのパスポートを保持して身分を偽装しながら暮らしていたと推定される。クズミノフ氏がウクライナを離れてスペインに滞在していた理由は伝えられていない。
 ロシアの大統領府と近い親ロ性向のウクライナ高官ウラジミル・ロゴフ氏はテレグラムで、クズミノフ氏の死亡は彼の身分洗浄をするためのウクライナ情報当局の自作劇である可能性がある、と主張した。
 クズミノフ氏の死亡は、反プーチン・反ロシア派の不幸な最期が国際社会の注目を受けている状況で伝えられた。16日にはプーチン大統領の最大の政敵、野党指導者のアレクセイ・ナワリヌイ氏が疑問死した。
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文字と映像による記録・事実の伝達

2024年02月27日 | 海南島史研究
■文字と映像による記録・事実の伝達   海南島近現代史認識の過程で■

                              佐藤正人
■聞きとりの意味と方法
 日本政府・日本軍・日本企業は、アジア太平洋地域における国家犯罪・侵略犯罪を隠しつづけている。
 日本人は、侵略犯罪者・戦犯ヒロヒトを、アジア太平洋戦争後も、天皇としつづけた。植民地機関の職員、日本軍の兵士、侵略企業の職員として、アジア太平洋の各地で、多くの民衆を殺傷した日本民衆は、日本敗戦後に帰国して、過去の犯罪を隠しつづけた。
 日本政府・日本軍・日本企業の国家犯罪・侵略犯罪にかかわる証拠文書は多くは焼却・廃棄されたか隠されたままである。したがって、その歴史的事実を解明するためには、犠牲者、加害者、目撃者からの聞きとりが重要である。
 聞きとった証言を歴史的事実確認の証拠とするためには、史料批判(信憑性の検証)が必要であるのは、文書史料と同じである。
 聞きとりは、歴史的事実を解明するうえで重要な作業だが、証言=事実、とすることができないのは当然である。聞きとりの内容の真実性をたしかめるために、他の証言や文献資料や実物資料、状況資料(当時の社会・経済関係、当時の地形・自然環境、当時の生活状態)との照合も可能なかぎり、おこなわなければならない。
聞きとりは、証言者と聞きとり者との共同作業である。一回だけの聞きとりは限界がある。
 わたしたちは、二〇〇八年八月までに、文昌市重興鎮排田村・白石嶺村・昌文村・賜第村、文昌市羅豆郷秀田村、文昌市抱羅鎮石馬村、文昌市南陽鎮老王村・托盤坑村、定安県黄竹鎮大河村、瓊海市九曲江郷波鰲村、瓊海市北岸郷北岸村・大洋村、瓊海市九曲江郷坡村・長仙村・南橋村・佳文村・鳳嶺村・官園村・戴桃村、瓊海市陽江鎮覃村、瓊海市烟塘鎮大溝村・書田村、瓊海市潭門鎮潭門村九所村、瓊海市新市鎮南城園村、瓊海市参古郷上坡村・外路村、瓊海市大路鎮川教村、万寧市石城鎮月塘村、万寧市東澳鎮豊丁村、万寧市南橋鎮田公村、万寧市龍滾鎮、万寧市和楽、万寧市烏場、万寧市北大鎮中興、儋州市中和鎮東坡村、儋州市長坡鎮呉村、陵水黎族自治県后石村・三十笠村、陵水黎族自治県陵城鎮南門嶺、瓊中黎族苗族自治県湾嶺鎮烏石、瓊中黎族苗族自治県黎母山鎮黎母山村・榕木村、瓊中黎族苗族自治県吊羅山郷、五指山市水満郷、楽東黎族自治県仏羅鎮仏羅村、東方市感城鎮長坡村、三亜市羊欗鎮妙山村、海口市永興鎮、海口市咸来鎮美村・美桐村・昌洽村・美良村・丹村、海口市三江鎮上雲村・古橋村・東寨村・演州村・福内湖村、海口市長流鎮儒顕村、海口市東山鎮儒万村、三亜市田独鎮「朝鮮村」……など海南島の各地を訪ね、住民虐殺の目撃者や幸存者から話しを聞かせてもらい、それを文字と映像で記録してきた。
 わたしたちは、同じ地域をくりかえし訪問し、同じ人びとにくりかえし話を聞かせていただくようにしてきた。そして、そのたびに新しい事実を知り、あいまいであった点を明確にすることができた。
 証言を聞き記録することは、侵略と抵抗の史実を探求するとともに、その史実の史料を創出することでもあった。
 日本では、加害者が証言を拒否しているが、証言拒否もまた、ひとつの証言の方法である。

■動画による記録
 わたしたちは、二〇〇三年春から、記録映画の制作をはじめ、二〇〇三年七月に、『海南島で日本人はなにをやったか! 日本軍の海南島侵略と抗日闘争① “田独鉱山・「朝鮮村」”』(二三分)を試作し、二〇〇三年一〇月に『日本は海南島でなにをやったか』(三分)を試作したあと、二〇〇四年春に、最初のドキュメンタリー『日本が占領した海南島で 六〇年前は昨日のこと』(六五分)を完成させた。
 いちれんのドキュメンタリー制作の過程で、わたしたちは、聞きとりのありかたを検証するとともに、動画による記録の意味を分析しつつその方法を模索してきた。
 文字や絵による記録と静止画(写真)や動画という映像による記録とは、相互に補いあうものであるが、もちろんそれぞれが独自の役割をもっている。
 海南島で証言を聞かせてもらうときにビデオカメラを使いはじめた二〇〇一年一月からの数年間は、そのことの意味の大きさを明確に自覚しておらず、それまでの文字と写真による記録との質の違いをあまり重視していなかった。
 撮影しつつ発問し、発問しつつ撮影するという作業の意味を論理化しなければならないと気づいたのは、二〇〇三年春以後であった。

■写真による記録
 日本軍が海南島に奇襲上陸してから六八年後の二〇〇七年二月一〇日に発行した写真集『日本の海南島侵略と抗日反日闘争』は、終わっていない全世界的規模の民衆闘争の時代を、海南島という地域に限定して写真と証言(ことば)で記録し伝達しようとするものであった。
 ことばと写真は、記録する手段であるとともに、伝達する手段である。
写真と証言(ことば)は、相互に補いあって、事実を伝達してくれる。
写真は、ことば(文字)で表現できないことを伝達してくれる。
 写真集『日本の海南島侵略と抗日反日闘争』制作の過程で、わたしたちは、歴史認識と歴史叙述の手段として、写真の役割が大きいことを再確認した。
証言者は、ことばだけでなく、その姿と表情で証言する。
 写真を撮影し、選択し、編集していく作業は、写真によって歴史を叙述していく作業である。
 証言(ことば)を聞きとり文字で記録するとともに、映像で記録し、ことばと映像で史実を明らかにし、それを伝達していくことがたいせつである。

■文字と映像
 二〇〇四年四月に最初のドキュメンタリー『日本が占領した海南島で 六〇年まえは昨日のこと』の日本語版を、七月に朝鮮語版を、一二月に漢語版を完成させたあと、わたしたちは、二〇〇五年秋にドキュメンタリー『「朝鮮報国隊」』の制作をはじめた。 最初のシナリオ草案の最終部分は、つぎのようであった。

 「南方」の島に強制連行された朝鮮人  グアム島、マキン島、タラワ島、ペルリュー島……の朝鮮人。
 地図 現在のアジア太平洋地図アジア太平洋戦争期のアジア太平洋地図 。
地図 アジア太平洋戦争期のアジア太平洋地図→グアム島、トラック島、ウォッチェ島、テニヤン島、ペルリュー島、マキン島、タラワ島、ペルリュー島、硫黄島……。 
 映像 朝鮮人徴兵。
 ナレーション 朝鮮人は、日本軍基地造成のために、海南島よりさらに「南方」のトラック島、ウォッチェ島、テニヤン島、マキン島、タラワ島などに強制連行されました。
 その地で、日本軍敗退時に多くの朝鮮人が、餓死、「戦死」させられました。 
獄中者を「南方」の島に送って強制労働させる策動は、一九三九年秋から、日本で始められていました。
 一九四三年まで朝鮮人獄中者の「南方派遣」が強行されなかったのは、日本政府・日本軍が朝鮮人の反抗を恐れたためだと思われます。
 軍隊内反乱を恐れていた日本政府が、朝鮮人に対する徴兵制を公布したのも「南方派遣報国隊」策動がはじめられたのと同じ一九四三年春でした。
 映像 ペルリュー島の朝鮮人犠牲者追悼碑(写真)。
 映像 グアム島、マキン島、タラワ島、ペルリュー島……の当時の状況(写真)。 
 ナレーション 日本軍基地造成のために、トラック島、ウォッチェ島、テニヤン島、マキン島、タラワ島などに朝鮮人が強制連行され、日本軍敗退時に多くの朝鮮人が、餓死、「戦死」させられました。
 映像 窪田精『トラック島日誌』。窪田精『流人島にて』 。
 ナレーション 「治安維持法」違反で横浜刑務所に入れられていた窪田精さんは、一九四二年三月に、「第五次トラック島図南報国隊」として、五〇〇人余りの受刑者と六〇人あまりの看守と共に、トラック島に向かう船に乗せられました。同じ船に、七〇〇~八〇〇人の「朝鮮人軍夫」も乗せられており、受刑者のなかにも朝鮮人がいたといいます。
 映像 トラック島。北川幸一『墓標なき島 ある受刑者の“戦争”』 。
 ナレーション トラック島に送られた受刑者や朝鮮人は、日本海軍の飛行場作りをさせられ、厳しい労働やアメリカ合州国軍の爆撃により殺されました。
三重県安芸郡美里村の村議Aさんは、当時トラック島に行った刑務官の一人でした。
 映像‥ウォッチェ島。
 ナレーション 「ウオヂェ赤誠隊」がウォッチェ島で海軍の飛行場基地を完成させたあと、一九四二年七月に、朝鮮人が軍属としてウォッチェ島に送りこまれ、道路建設などをさせられました。
 映像 「陸海軍要員としての朝鮮人労務者」。 
「現在迄に直接戦闘に起因して死歿せる者約 七三〇〇名(「タラワ」「マキン」両島に於ける玉砕者約一二〇〇名を含む)と推定せられ其の外行方不明七三五名を出せり」。
 テロップ 『第八六回帝国議会説明資料』一九四四年一二月、朝鮮総督府鉱工局勤労動員課、一六八葉)。
 ナレーション 一九四三年一一月に、マキン島とタラワ島の日本軍が、アメリカ合州国軍の攻撃によって壊滅しました。このとき、日本軍に使われていた朝鮮人労働者のうち、一二〇〇人が死んだといいます。  
 これは、そのことを当時の日本の議会に報告する朝鮮総督府の文書です。
 映像 テニヤン島。
 テロップ 一九四五年七月二四日、USA軍上陸時、朝鮮人二七〇〇人、日本人一万三〇〇〇人がいた。

 一九四三年九月三〇日に、天皇ヒロヒト・日本政府・日本軍の中枢は、「千島、小笠原、内南洋(中、西部)及西部ニューギニア、スンダ、ビルマを含む区域」を「絶対国防圏」(「帝国戦争遂行上、太平洋及印度洋方面に於て絶対確保すべき要域」)として設定した。しかし、一九四四年一二月に、「絶対国防圏」東端のマキン島とタラワ島の日本軍が、アメリカ合州国軍の攻撃によって壊滅した。一九四四年一二月末の朝鮮総督府文書『第八六回帝国議会説明資料』には、
 「陸海軍要員としての朝鮮人労務者」のうち「現在迄に直接戦闘に起因して死歿せる者約 七三〇〇名(「タラワ」「マキン」両島に於ける玉砕者約一二〇〇名を含む)と推定せられ其の外行方不明七三五名を出せり」
と書かれている。
 このことを、ドキュメンタリー『「朝鮮報国隊」』で示そうとして、前記のようなシナリオを書いたが、このような説明的なことは、映像で伝達する必要がないと判断し、すべてを削除した。

■ドキュメンタリーのみが伝達する内容
 主として動画を編集して制作するドキュメンタリーと文字史料(聞きとりの文字記録をふくむ)・文献を分析して書く論文とは、それぞれの伝達内容が異なる。
両者が単独では伝達できない内容を、写真集ではいくらかは伝達できるが、その質は異なる。
 わたしたちは、ドキュメンタリーのみが伝達しうる内容を表現する方法を、ドキュメンタリーを制作していく過程ですこしづつ学習していった。
 わたしたちが留意したのは、できるだけ映像そのもので表現することであった。説明的になることを避けるために、ナレーションやテロップを簡潔にし、観る人が記録された映像の断片ひとつひとつに表現されている事実を認識しその歴史的意味を考える「動機」をもつことを期待してドキュメンタリーの編集をすすめた。
 わたしたちは、映像の選択・時間設定(テンポのとりかた)に多くの時間を使った。
 ドキュメンタリーという報告物を制作するために、わたしたちは、それまで撮影した映像を前提としておおまかな構成を決め、シナリオ草案を書きあげ、シナリオの各パートごとに三秒間から数分間のクリップを一〇〇個ほどつくり、それを編集していった。
 そのさい、わたしたちは、ひとつの場面のクリップを三秒にするのか五秒にするのかを決定するのに数時間討論したこともあった。
 一日に数十個のクリップを編集していけば、計算上は一か月ほどで一時間のドキュメンタリーを制作できるが、実際にはその一〇倍ほどの時間が必要であった。
 また、できるだけ文書を画面にださないように工夫したが、たとえば、金慶俊さんの戸籍簿の
 「一九四三年十一月一日午後十一時三十分南支那海南島白沙県石碌朝鮮報国隊隊員病舎ニ於テ死亡京城刑務所長朝鮮総督府典獄渡辺豊届出同年十二月二十四日受附」(原文は、「元号」使用)
という部分は、とりこんだ。
 この文書は、「朝鮮報国隊」ということばが記されている数少ない公文書のひとつである。
 わたしたちは、この文書の画像に、「金慶俊さん(一九一五年一〇月一六日生)の戸籍簿」というテロップをつけ、石碌地域の映像とソウルで話を聞かせてもらうことができた金忠孝さん(金慶俊さんの甥)の証言映像とを合わせて三二秒ほどのクリップをつくり、
 「金忠孝さんの叔父金慶俊さんは、「朝鮮報国隊」に入れられ、海南島に強制連行され、石碌で亡くなりました。二八才の誕生日の一か月後でした。妻の裵鳳業さんとのあいだの金忠萬さんは生後七か月でした」
というナレーションを入れた。
 
■映像による証言内容の伝達
 ナレーションをいれず、証言者の声以外の現地音を絞りきって、映像のみによって証言内容を伝達することを、わたしたちは試みた。
 それは、映像が伝達しうる内容を表現する究極の方法なのだが、そのためには、その原映像が、そのような試みに耐えうる質をもつものでなければならない。
 そのような映像を記録することは、撮影技術とは無関係のことであって、それが可能な「場」に撮影者(記録者)がいることが決定的な条件である。同時にそのような「場」は、撮影者が撮影を中止すべき「場」でもある。

■対象と自己の関係
 ドキュメンタリー『海南島月塘村虐殺』で、わたしたちは、一九四五年五月二日に日本兵によって命を奪われた月塘村の人びとの生と死の軌跡をたどろうとした。六〇年を越す歳月のかなたで、ある日突然いのちを奪われた、いまは不在の人たちの生と死を、どのように映像で表現するのか、どうしたら、映像で表現できるのかを考えつづけながら。
 殺害現場、墓地の映像では、殺された人たちのそれまでの生を表現できない。あの時まで、人びとが呼吸していた月塘村の大気や、浴びていた光を撮影する方法を、わたしたちは模索した。殺された人びとのそれまでの生を表現できなければ、その死の重さを、意味を表現できないと思いつつ。
 その模索の過程で、わたしたちは、ドキュメンタリーで表現できるのは、表現しなければならないのは、対象そのものではなく、対象と自己の関係ではないかと考えはじめた。
 おそらく、対象と向き合う者のありかたによって、映像としての対象が規定されるのだろう。
 死者の生と死の軌跡を映像化しようとするとき、対象は直接的な映像としては実在せず、ただ関係においてのみ「実在」するのではないか。

■月塘村へ
 わたしたちは、一九九八年夏に、海南省政協文史資料委員会編『鉄蹄下的腥風血雨――日軍侵瓊暴行実録』上(一九九五年八月)によって、月塘村虐殺のことを知った。
 二〇〇二年春にはじめて万寧市万寧鎮に行き、地域の日本軍犯罪史と抗日反日闘争史を研究している蔡徳佳さんに会った。
 蔡徳佳さんは、
 「万寧市北部の六連嶺地域は、抗日武装部隊の根拠地だった。侵略と抵抗の歴史を統一的に具体的に追及しなければならない」、
と言った。わたしたちは、これから、共同作業が実践的にも思想的にも可能となる道を求めていきたいと話しあった。
 蔡徳佳さんは、万寧県政協文史辧公室編『鉄蹄下的血泪仇(日軍侵万暴行史料専輯)』(『万寧文史』第五輯、一九九五年七月)を寄贈してくれた。
 そこには、月塘村虐殺にかんして、蔡徳佳さんが林国齋さんと共同執筆した「日軍占領万寧始末❘❘製造“四大屠殺惨案”紀実」と、楊宏炳・陳業秀・陳亮儒・劉運錦「月塘村“三・二一”惨案」が掲載されていた。
 二〇〇五年秋、わたしたちは、蔡徳佳さんに紹介されて、万寧市内で、朱進春さんから話を聞かせてもらった。当時八歳だった朱進春さんは月塘村に侵入してきた日本兵に銃剣で八か所刺されながらも生き残ったが、その後、村人に「パァタオ(八刀)」と呼ばれたという。
 わたしたちが、はじめて月塘村を訪れたのは、二〇〇七年一月一七日であった。この日朝、わたしたちは、月塘村に生まれ万寧市内に住んでいる朱深潤さんに月塘村につれて行ってもらった。この日、わたしたちは、自宅で朱学平さんから、あの日のことを聞かせていただいた。
 その四か月後、五月に、わたしたちは、再び月塘村を訪ねた。
 わたしたちが、朱学平さんから、瀕死の妹の朱彩蓮さんを抱えて「坡」まで逃げたことを聞いたのは、朱学平さんにはじめて会った日だった。その後、五月に再会し、一〇月はじめから一一月上旬にかけて月塘村に毎日のように行って、なんども朱学平さんに会った。
 二〇〇七年一月には、わたしたちには月塘村虐殺にかんするドキュメンタリーを制作するという発想はなかった。
 五月に、月塘村で朱進春さんや朱振華さんなどと話し合っているとき、いっしょにドキュメンタリーを制作しようということになった。数日後、わたしたちは、その準備作業として、月塘村の風景の撮影を始めた。
 月塘のそばの太陽河ぞいの三叉路にカメラを固定し、遠景を撮影していると、遠くから鍬をかついだ人が歩いてきた。その人が近づいてくるのを撮影しつづけた。その人は、朱学平さんだった。畑から帰る途中だということだった。
 その後も、このような偶然の出会いが何度となくあった。
 何度会っても、朱学平さんは、笑うことがなかった。
 その朱学平さんを見ているとき、しばしば、わたしたちは、一九二六年一月に、四歳のとき、日本の三重県木本町(現、熊野市)で父裵相度さんを虐殺された裵敬洪さんのことを思った。
 裵敬洪さんは、
 「父が殺されてから、わたしは心の底から笑ったことは一度もない」
と言っていた(金靜美「白いトックがふみにじられていた 裵敬洪さんの記憶より」、三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・裵相度)の追悼碑を建立する会編刊『紀伊半島・海南島の朝鮮人――木本トンネル・紀州鉱山・「朝鮮村」――』二〇〇二年一一月)。

■ドキュメンタリー『海南島月塘村虐殺』
 わたしたちは、朱学平さんが自宅や虐殺現場で証言する映像に、つぎのようなナレーションをいれた。

 朱学平(チュシュエピン)さんは、
 「わたしは、一二歳だった。朝はやく、日本兵がとつぜん家に入ってきて、なにも言わないで、殺しはじめた。わたしだけが生き残った。母、兄の朱学温(チュシュエウェン)と朱学敬(チュシュエジン)、姉の朱彩和(チュツァイホ)、叔母二人、いとこ二人、そして六歳だった妹の朱彩蓮(チュツァイリェン)が殺された。
わたしは、柱のかげに倒れるようにして隠れて助かった。妹は腹を切られて腸がとびだしていたが、まだ生きていた。
 血だらけの妹を抱いて逃げた。途中なんども妹が息をしているかどうか確かめた。激しい雨が降った。      
 村はずれに隠れた。
 半月ほどたって戻ってみたら家は焼かれていた。遺体も火にあっていたが、骨になりきっておらず、く さっていた。
 まもなく、日本軍の手先になっていた者たちが万寧(ワンニン)から来て、遺体を近くに運んで埋めた。
 その五年前の一九四〇年一一月二八日に、父の朱開廉(チュカイリェン)が、近くの東澳(トンアオ)村に魚を買いに行き、日本軍に銃で撃たれて殺されていた」
と話した。

【写真】朱学平さん

■朱彩蓮さん
 わたしは、朱学平さんの妹、朱彩蓮さんを、映像で表現したいと考えた。もちろん、朱学平さんの記憶のなかの朱彩蓮さんを撮影することはできない。しかし、朱彩蓮さんを記憶している朱学平さんを撮影することはできる。
 わたしは、思い切って、朱学平さんに、あの日朱学平さんが朱彩蓮さんを抱いて逃げた「坡」まで行きたいと言った。
 朱学平さんは、「坡はすっかり変わってしまった」とだけ答えた。
 その数日後、わたしは、朱学平さんと、「坡」に向かった。その道は、以前にも歩いたことのある道だったが、朱学平さんといっしょに歩いていると、見知らぬ違う道のように感じた。
 以前行った地点を通り越して、道がなくなったところをさらに一〇〇メートルほど行ったところで朱学平さんは立ち止まった。すぐそばを太陽河が流れていた。
そこで、朱学平さんは、つぎのように話した。

 「あのとき、わたしは、妹を抱いて、前を走っていく人について、逃げた。
妹が痛いというと、いったん下におろし、また抱えて走るようにして逃げた。 
雨が降りそうになったので急いだ。ここまで逃げてきて隠れた。ここには一〇〇人あまりが隠れた。
 あの日、午後三時ころだったと思うが、大雨が降った。夜には止んだ。
ここにはすぐには食べるものがなかったが、まもなくさつまいもを探して掘って煮て食べた。鍋は、‘坡’に住んでいた人に借りた。水は太陽河から汲んできた。 
 妹は、三日後に死んだ。
 妹は、なにも食べようとしないで、水だけ飲んで死んでしまった。妹は、ただ、痛い、痛いと言って、水だけを欲しがった。
妹のからだは、年寄りに助けてもらって近くに埋めた。いまでは、どこなのかはっきりしない。
 叔父(朱洪昆)が日本兵に一〇か所あまり刺された。からだに虫がわいて、何日もしないうちに死んだ」。

【写真】太陽河・牛

 こう話したあと、朱学平さんは、樹と草の茂みに入って行った。そして、とつぜん泣き出した。
 そのあと、朱学平さんは、仕事があると言って、一人で家に帰って行った。
 岩場の多い太陽河が、光って流れていた。太陽河沿いの細い道を下流に進んでいくと、銀白色のススキが風に大きく揺れていた。すぐに道が川辺をはずれ、ビンロウジュの畑にでた。
 夕方、帽子を返しに、朱学平さんの家に行ったが、朱学平さんはいなかった。連れ合いさんが、
   「午後、坡から戻ってから、夫はずっと泣いていた」、
と話した。

■歴史叙述・記録・映像
 ドキュメンタリーは、記録であるとともに、歴史叙述である。
 ドキュメンタリーのシナリオは、ことばによる記録と歴史叙述だが、文章形式のことばだけによる記録・歴史叙述とは違い、影像による表現を前提としている。
 ドキュメンタリーシナリオという形式での記録・歴史叙述は、撮影してきた映像および撮影しようとする映像に規定されるが、同時に、撮影できない映像をも前提としなければ、書きあげることができない。
 ドキュメンタリーのシナリオは、証言を文字で記録しているという意味では記録であるが、映像を前提とし数百個のクリップを編集しているという意味では歴史叙述である。
 わたしたちにとって、『海南島月塘村虐殺』のシナリオを書くということは、歴史を認識すると同時に歴史を叙述するということだった。
 ナレーションという形式の歴史叙述を書くためには、依拠する文献史料の史料批判を厳密におこなわなければならないのは当然である。
 ナレーションは、現在の証言映像に示されている過去の歴史的事実、現在の廃墟の映像に示されている過去の歴史的事実をことばによって「解説」するものであり、文献史料と影像史料を結びつける役割を果たすものである。

■史料としての映像記録
 ドキュメンタリー『「朝鮮報国隊」』は、二〇〇一年一月以後に撮影した一〇〇時間近い原映像を編集したものである。その構成を決定し、シナリオを書く作業は、文字による歴史叙述の場合と方法的には同じ作業であった。
 撮影を開始したときには、自覚していなかったが、「朝鮮報国隊」について語る証言者や「朝鮮報国隊」にかかわる現場を撮影することは、「朝鮮報国隊」にかんする史料を創出することであった。
 ドキュメンタリー『「朝鮮報国隊」』のシナリオを、わたしたちは、海南島と韓国で撮影した原映像と日本内閣文書・朝鮮総督府文書・日本軍文書などを史料として執筆した。
これまで、わたしたちは、「朝鮮報国隊」に入れられ、生き残って故郷にもどることができた人たちから、韓国で話を聞かせてもらうことができた。そのうち、証言している映像の公開を承諾してくれた人は、高福男さん、柳濟敬さん、呂且鳳さんであった。わたしたちは、高福男さん、柳濟敬さん、呂且鳳さんを何回も訪ねた。
 その証言を記録した映像は数十時間だが、そのうち、ドキュメンタリー『「朝鮮報国隊」』で紹介できたのは、五分ほどであった。したがって、高福男さん、柳濟敬さん、呂且鳳さんの証言の史料としてのドキュメンタリー『「朝鮮報国隊」』の役割はきわめて限定的である。
 「朝鮮報国隊」にかんする文書史料は、ほとんど公開されていない。
わたしたちが撮影した映像史料を検討することなしに、これからは、「朝鮮報国隊」にかかわる日本の侵略犯罪事実を明らかにしていく作業はほとんど進展しないだろう。
 「朝鮮報国隊」にかんする史実探求においてだけでなく、国民国家日本の海南島侵略犯罪にかんする史実探求においても、わたしたちが撮影してきた証言映像・現場映像は、その史実にかかわる史料となっている。

【写真】「朝鮮村」
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「スターリンの大粛清で処刑 「長崎出身の金山八五郎」情報提供を エストニア在住の研究者、保坂さん 」

2024年02月26日 | 個人史・地域史・世界史
『長崎新聞』 2024/01/04
■スターリンの大粛清で処刑 「長崎出身の金山八五郎」情報提供を エストニア在住の研究者、保坂さん

【写真】判決文の写しに書かれた内容を説明する保坂さん=長崎新聞社

  旧ソ連の独裁者スターリンが1930年代に主導した大粛清で、現在のロシアに接するジョージア(グルジア)で処刑された金山八五郎という名の長崎市出身の庭師がいた。旧ソ連国家保安委員会(KGB)や前身の内務人民委員部(NKVD)の関連文書を調べているエストニアのシンクタンク所属の日本人研究者は、「時代の荒波に巻き込まれ、悲劇的な最期を遂げた長崎の人がいたことを知ってほしい」と語り、手掛かりを探している。
 情報提供を呼びかけているのはエストニア国際防衛安全保障センター研究員の保坂三四郎さん(44)。今年7月にジョージア内務省が所管する旧KGBの文書庫を訪れた際、ロシア革命(1917年)後、大粛清の嵐が吹き荒れていた37年12月に死刑が執行された61人の中に日本人がいたことを偶然確認。ロシア語で書かれた旧グルジアNKVDの判決文と死刑執行調書の写しを入手した。
 37年11月29日付の判決文には「1883年長崎市生まれのカナヤマ・ハツガラ・シロキコヴィチ、日本人、ソ連国籍、マハラゼ市在住、非党員、初等教育修了、逮捕前は庭師」を「諸外国のある国を利する諜報(ちょうほう)の疑い」で「銃殺刑に処す」などと記載があった。大粛清で裁判は開かれず、NKVD支部長、党書記、検察官の3人で構成する「トロイカ」で判決を下していた。1937年12月4日付の死刑執行調書には、首都トビリシのNKVD拘置所で61人を銃殺刑に処すことに所長がサインしていた。
 保坂さんはその後、日本人庭師について交流サイト(SNS)で情報提供を呼びかけたところ、一つの有力な情報が寄せられた。「知られざる魅惑の国グルジア」(加固寛子著、2012年刊行)に言及があるという。同書を確認すると、劇作家で社会運動家の秋田雨雀が1927年に黒海沿岸の港湾都市バトゥミの植物園を訪れ、「長崎出身の金山八五郎という労働者が働いている」と同年11月28日の日記に記していた。また同書には「金山が日本の盆栽をたくさん作っていた」との関係者の伝え聞きも紹介されている。
 保坂さんによると、20年代は旧ソ連が資本主義各国から投資を呼び込もうとしていた時期。秋田もロシア革命10周年の祝典でソ連を訪れた。バトゥミには革命前の帝政ロシア時代、植物園が開園し、日本庭園も整備されていた。
 保坂さんは「金山さんは庭師の腕を買われ、大正末期か昭和初期にソ連へ渡ったのではないか。無念な最期だっただろう。同じ日本人として多くの人に伝えることが供養になると思う。何か知っている人がいれば」と話している。
 保坂さんは12月上旬に長崎市を訪れ、郷土資料を調査した。年明けに再びジョージアを訪れ、情報提供を呼びかける予定。情報提供はメールで保坂さん(yokokumano2018@gmail.com)へ。

【写真】提供【市政】スターリンの大粛清で処刑された長崎市出身の庭師がいた  


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海南島近現代史研究会第27回定例研究会 蒲豊彦報告

2024年02月25日 | 海南島近現代史研究会
 以下は、2024年2月17日に開催した海南島近現代史研究会第27回定例研究会での蒲豊彦さんの報告の要旨です。
 

 庶民の記憶と民衆史
           蒲豊彦

 日本では現在、小学6年生から歴史を学び始めるようだが、そこに登場するのは、中学、高校を含め、ほとんど有名な事件や人物に限られるだろう。また歴史にたいする興味やイメージを形作るうえで大きな影響があると思われるNHKの「大河ドラマ」も、主人公はほぼ有名人である。歴史を理解しようとするとき、有名な事件や人物が基本になるのは疑いないが、その歴史がつまり「歴史」である、と思い込むことは避けたい。そのような考えは、その対極にある普通の人の歴史や生活には意味がない、という勘違いにつながる可能性があるからだ。以下では、私の著書『闘う村落-近代中国華南の民衆と国家』(名古屋大学出版会、2020年)と『三竃島事件-日中戦争下の虐殺と沖縄移民』(共著、現代書館、2018年)をおもな材料として、庶民の歴史を研究する方法の一例を紹介してみたい。
 まず、『闘う村落-近代中国華南の民衆と国家』は、中国南部いわゆる華南の地域社会の歴史を解明しようとしたものである。なかでも広東省の東部沿海部に焦点をあてた。このあたりの農村部は、かつてしばしば特徴的な姿をしていた。村は散村ではなく家々がびっしりと集まり、そこには同族を主とする人々が暮らし、村の周囲は土塀で囲まれ、住民たちは武装していた。それはおもに盗賊対策だったと思われるが、その武力を使って近隣の他村と頻繁に武力衝突を繰り返し、多くの死者を出していた。これが華南の地域社会の大きな特徴であり、いわばその基本構造をなしていた。 
 この構造は、16世紀の中ごろ(明の中期)から徐々に形成されはじめ、20世紀の中ごろまで続く。
 ところがその間、中国では、明、清と王朝が入れ替わり、さらに辛亥革命を経て、中華民国、中華人民共和国(1949年成立)へと移った。ここで、きわめて重要な事実が明らかになる。この時期を通してほぼ400年間、華南の地域社会で同じ基本構造が続いていたということは、中国全体が大きく変化しているにもかかわらず、華南ではそれとはまったく別の歴史が同時に存在していたことになるのである。このもう一つの歴史を「歴史の底流」と呼びたい。これまで研究者は、華南のこの底流の存在を明確に認識することがなかった。
 このもう一つの歴史を理解するためには、農村部を中心とする地域社会の様相を独自に時期区分しながら調べなければならないが、史料の欠如という大きな問題がある。日本の場合は、前近代においても各地方の古文書がわりあいよく残っているようだ。しかし中国では、ごく一部の例外を除き、そのようなものはないといってもよい。そこで、様々な細々した漢文史料を寄せ集めて利用することになるが、『闘う村落-近代中国華南の民衆と国家』では、それに加え、それらとはまったく性格の異なる史料を使用した。キリスト教の宣教師が残した書簡や報告書などの文書群である。1840年のアヘン戦争以降、欧米の宣教師が大挙して中国へ入りはじめ、各地で大量の文書を作成して母国のミッション本部に送り、現在も教会の資料館や大学図書館等に保存されている。
 そうした宣教師文書を判読、整理すると、通常の漢文史料には現れない様々なことが見えてくる。たとえば広東東部の場合、19世紀の中ごろから20世紀初頭までの間に、入信者が急増した時期が2回あったことが明らかになる。最初は1870年、次は日清戦争(1894~95年)の直後から19世紀末にかけてである。宣教師文書を使ってさらにその原因を探ると、その時期、社会情勢の変化にともなって住民が大きく動揺していたことがわかる。つまり、地域社会の動向が宣教師文書のなかに記録されているのである。また、1894年には香港でペストが大流行し、さらに広東の沿海各地にも伝播したが、広東東部では1899年を境にして感染が新しい地域に拡大し、特殊な住民運動を引き起こした。これらはいずれも、従来の漢文史料ではうかがい知れなかったことである。
 『闘う村落-近代中国華南の民衆と国家』では、以上のようにして約400年間に及ぶ華南地域社会のもっとも基本的な歴史を描いた。それは次のように整理することができる。まず、明の中ごろから次第に同族が集住しはじめ、清初には隣村との武力衝突が本格化し、このころまでに地域の基本構造が出来あがった。そして日清戦争期に戦争、ペストそのほか各種の社会不安が重なるなかで、住民の間に自助、互助的な組織活動が発展する。住民のそうした社会運動の一つの帰結が、同地域で近現代史上最大の事件となる1920年代の農民運動だった。
 ただし、以上の歴史叙述には大きな限界があり、ほとんど個人を登場させることが出来なかった。そもそも宣教師の文書には中国人信者の個人的なことはあまり出てこない。広東東部にかんしておそらく唯一の例外は、アメリカ人女性宣教師のアデル・M・フィールドが残したPagoda Shadows(1884年)という書物である。これは『私がクリスチャンになるまで-清末中国の女性とその暮らし』(東方書店、2021年)という邦題で私が翻訳しているが、フィールドが聞き取った中国人女性信者の人生や暮らしが細かく記録されている。たとえば「快」という女性は幼かったころ、町へ出かける父親に、三日間、ミカン畑の小屋に泊まり込んで見張りをするよう言いつけられた。ところが三日目の夜、恐くてついに我慢できなくなり、母が待つ家に駆け戻ってしまう。フィールドは、どきどきしながら父親の帰りを待つ少女の心情を、きわめて丁寧に書き留めている。この地域で、住民が実際にどのように日々を過ごしていたのかは非常に重要な問題であり、このようなものも地域研究に積極的に利用すべきだろう。
 文書による記録が少ない庶民史のような分野では、フィールドも行った聞き取り調査がやはり欠かせない。そうした方法を本格的に使おうとしたのが『三竃島事件-日中戦争下の虐殺と沖縄移民』である。本書のテーマは戦争だが、戦闘の経緯だけでなく、三竃島と沖縄双方の住民の暮らしにも留意した。たとえば、たくさんの子どもを抱えたある家族は、少しでも生活の足しにしようとして、本来は海軍へ納めなければならない米を島外から密航してくる中国人に売っていた。日本軍に見つかれば双方ともに大変なことになる行為である。しかし生活のために危険を冒す家族があり、他の沖縄移民もそれを黙認していた。また、日本兵に捕まった老人と小さな子どもを、移民の少女たちと一人の日本人軍曹が一緒になってこっそり逃がしたことがあった。これも発覚すればただではすまされない。
 『三竃島事件』は日本海軍よる三竃島占領と、その後の沖縄移民の状況を整理する目的で始めた研究だったが、1945年に日本軍が撤退したあとの三竃島についても調査した。その結果、三竃島はその地理的な位置のために、国民党軍が台湾へ逃れるための撤退センターとして利用され、戦後も住民に大きな犠牲を出したことが明らかとなった。これは、沖縄が現在まで置かれ続けている状況と非常によく似ている。こうして、日本海軍による三竃島占領だけでなく、三竃島と沖縄という二つの島をつなぐ、より基本的な歴史を描くことが出来た。
 歴史にかんする本を出版するのは、第一に、事実を整理して記録するためだが、読者のことも考えるべきだろう。読者が興味をもって読むためには、たんなる事実の羅列ではなく、上述のような事件や生活の細部を書き込み、できるだけ目に見えるようにその時代を再現することが必要だと思われる。

(以上は海南島近現代史研究会第27回定例研究会で報告した内容を整理したものである)
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海南島近現代史研究会第27回定例研究会 佐藤正人報告

2024年02月24日 | 海南島近現代史研究会
 以下は、2024年2月17日に開催した海南島近現代史研究会第27回定例研究会での佐藤正人の報告の要旨です。

■主題報告  日本が侵略した地域の民衆の記憶、侵略国家の民衆の主体変革■   
    日本国家が侵略した地域における侵略犯罪の歴史は厳密に記録され伝承されなければならない。
    その歴史記述の正確さを保証する、侵略国家日本の民衆の主体のありかたを考えたい。

(一) 国民国家日本の民衆の歴史認識・行動(事実を明らかにする=歴史的責任を自覚する)。

(二)  国家謝罪・国家賠償(国民国家日本政府に侵略犯罪の諸事実を細部まで正確に明らかにさせ、公表させ、謝罪させ、責任をとらせ、
   賠償させる)。
        侵略。虐殺。日本軍隊性奴隷。

(三) 実証的民衆史(事実)。思想。  民衆の歴史・民衆の歴史認識。
        生き方。責任。道徳。
    民衆運動としての歴史認識・民衆運動のなかでの歴史認識・民衆運動深化のための歴史認識。

(四) 世界史   時間(すべては、現在・昨日のこと)・場(地域)。
    北アフリカ史。南アフリカ史。アラブ史。北アジア史。南アジア史。北太平洋史、南太平洋史。北大西洋史。南大西洋史。ヨーロッパ
   史。北「アメリカ」史、中部「アメリカ」史。南「アメリカ」史。
    個人史のなかの世界史・地域史のなかの世界史
    現在の、日常のなかの世界史。 侵略の世界史 ⇔ 抵抗の世界史。
      
(五)時代 過去、生きている時代(わたしが。われわれが)
   13世紀
   14世紀
   15世紀 大西洋奴隷貿易開始。
   16世紀
   17世紀
      1622年「インディアン戦争」(アメリカ合州国植民地戦争)開始→1890年
   18世紀
   19世紀 ベルギー、イギリス、フランス、ドイツ、イタリア、ポルトガル、スペインによるアフリカ大陸分割(植民地化)開始。
      1895年:フランス領西アフリカ
      1898年9月2日:オムダーマンのたたかい マフディール。マフディー戦争
   20世紀
      1904年に、アフリカ南部のナミビア(1884年にドイツが領土化)で、ヘレロ民族がドイツの侵略に抗して烽起したとき、ドイツ
     軍は、ジェノサイドをおこない、ヘレロ民族の8割を殺戮あるいは餓死させた。
      1905年~7年、タンガニイカ民衆(マトゥンビ民族、エンギンド民族、ボゴロ民族、エンゴニ民族ら)が開始したマジマジ烽起の
     時、ドイツ軍、10万人を越える民衆を虐殺。          
      1906年から朝鮮民衆、独立戦争(義兵戦争)開始。日本軍は、義兵の根拠地と判断した村落を襲撃し村人を殺害。朝鮮駐箚軍
     司令部『朝鮮暴徒討伐誌』に、1906年~11年間に日本軍・憲兵・警官が殺害した義兵は1万7779人と書かれている。
      1914年~1918年 世界戦争(1) 
      1919年の朝鮮の三・一独立運動のとき、日本政府は、軍隊・警察を増強し民衆殺傷      
      1937年~38年、ヴィーンヌィッヤ(ウクライナ)でソ連NKVDが1万人以上の民衆を虐殺
      1937年~38年、ソ連で「大粛清」。NKVD(ソ連内務人民委員部部)の1953年統計報告によれば、1937年に政治囚77万9056
     人・死刑者35万3074 人、1938年に政治囚583,326 人・死刑者32万8618 人。
      1937年12月、南京で日本軍が大虐殺
      1939年2月10日、日本軍海南島奇襲上陸開始
      1939年~45年世界戦争(2)
      1939年9月1日、ドイツ軍ポーランドに侵入
      1939年9月17日、ソ連軍ポーランドに侵入
      1940年4月~5月、NKVDがカチンの森でポーランド将兵ら2万人以上を虐殺
      1940年9月27日:日独伊三国防共協定調印→1943年10月13日伊王国独に宣戦
      1941年6月22日:ドイツ、ソ連侵略戦争(バルバロッサ作戦)開始・ソ戦(大祖国戦争)開始→1945年5月9日:ドイツ無条件
     降伏(ソ連の死者2660万人、2015年にロシア国防省発表の公式の推算では、犠牲者数(2660万人、約1200万人の兵士が戦死・
     未帰還、民間人約1460万人がドイツ軍の占領地で死亡・未帰還・飢餓や疾病などで死亡)。
      1944年6月6日:アメリカ合州国軍・イギリス軍ノルマンディ上陸開始
      1944年6月6日~8月30日 ハレマンディ
      1948年:パレスティナでナクバ開始
      1950年:朝鮮戦争開始
      1965年10月~1966年3月 スマトラ島、ジャワ島、バリ島で、インドネシア国軍・国軍に軍事訓練をうけていた民間の「警防
     団」などが、共産主義者、華僑らを集団大虐殺。死者50万人?~300万人?
      1988年3月16日:ハラブジャ虐殺(青酸ガス爆弾によるイラン政府のクルド人虐殺。死者3200人~5000人)
   21世紀
      2023年10月~現在 シオニスト国家政府・国軍・警察、パレスチナでパレスチナ人3万人殺害。

   空爆の時代  南京・成都……爆撃。 クラスター爆弾(ラオス爆撃)。 北朝鮮爆撃。ベトナム爆撃(北爆)。
          ガザ・ウエストバンク爆撃。

(六)シオニスト国家(イスラエル)のパレスチナでの残虐な侵略犯罪
        ホロコースト(ユダヤ人大虐殺)・ナクバ(パレスチナ人虐殺)
   イギリス国家の侵略犯罪
   ドイツ国家の侵略犯罪
   日本国家の侵略犯罪

   1898年9月2日 マフディ戦争 オムダーマンのたたかい
   1939年2月~1945年8月 国民国家日本政府・軍・企業が、海南島で侵略犯罪
   1948年 シオニスト国家(イスラエル)がパレスチナで残虐な侵略犯罪を実行
       ナクバ  パレスチナ人の村をシオニストの軍隊が500以上破壊・占領し、パレスチナ人を追放し、地名を変更。
   1987年6月28日 サルダシュㇳ  死者13人、住民12000人の8000人が被害。
   1988年3月16日 ハラブジャ  死者3200~5000人、負傷者7000~10000人

   朝鮮で
     済州島四・三虐殺(1948年4月~1949年5月。犠牲者3万人~6万人。
     聞慶虐殺(1949年12月24日。韓国陸軍第2師団第7中隊第2小隊第3部隊による住民虐殺。住民88人を射殺)
     韓国の獄中者を韓国政府・軍。・警察が大虐殺(「補導協会員大虐殺」。遺族会は114万人が虐殺されたと報告
     居昌・山清・咸陽虐殺(1951年2月7日、9日~11日。韓国陸軍第11師団による住民虐殺)
     老斤里虐殺(1950年7月。アメリカ合州国陸軍第7騎兵連隊、約300人を射殺。)
     韓国政府・韓国軍、ベトナムで大虐殺。 1966年1月23日~2月26日にかけて韓国陸軍首都機械化歩兵師団(猛虎部隊)は南ベト
    ナムビンディン省タイソン県タイビン村(当時の名は平安を意味するビンアン村)15集落の村民1004人虐殺(ベトナム戦争後、
    栄光を意味するタイビンに変えた)。 2月26日に猛虎部隊、ゴダイで住民380人をすべて虐殺。1968年2月12日に、韓国海兵隊
    第2海兵旅団(青龍部隊)第1大隊、フォンニィ・フォンニャット村で村人76人虐殺。2月25日に韓国海兵隊、ハミ村で子ども・女性・
    老人135人虐殺。

(七)平和・戦争
   パクスロマーナ
   パクㇲブリタニカ
   パクㇲアメリカーナ
   日本の平和(日本国憲法。第一章「天皇(1條~8條)」を前提として第二章「戦争の放棄(9條)」)

(八)海南島で
   万人坑・千人坑・強制連行  石碌鉱山、港、鉱山 「朝鮮村」
   住民虐殺 沙土・月塘村
 
(九)コミューン、ソビエト、起義
   1848年:パリコミューン
   1917年:ソビエト
   1927年11月~1928年2月:海陸豊蘇維埃(海陸豊ソビエト)
   1927年12月11日から3日間:広州起義・広州公社(広州コミューン)

(十)ナショナリズム
   インターナショナルリズム

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「イスラエル当局者、パレスチナ女性を処刑・暴行の疑い 国連専門家チーム」

2024年02月23日 | 個人史・地域史・世界史
https://www.afpbb.com/articles/-/3505930?pid=26511416
「AFP」 2024年2月20日 13:56 発信地:ジュネーブ/スイス
■イスラエル当局者、パレスチナ女性を処刑・暴行の疑い 国連専門家チーム

【写真】エジプト国境付近の避難民キャンプと近くの砂丘に座るパレスチナ人女性や子ども(2024年1月14撮影)。(c)Mahmud Hams / AFP
【写真】イスラエルの爆撃で負傷し、病院での手当てを待つ女性。ガザ地区南部ラファで(2024年2月12日撮影)。(c)MOHAMMED ABED / AFP 
【写真】イスラエルによる爆撃の跡を見る女性や子ども。ガザ地区南部ラファで(2024年2月7日撮影)。(c)Mohammed ABED / AFP 
【写真】イスラエルによる爆撃で親族を亡くした女性たち。ガザ地区南部ラファで(2024年2月12日撮影)。(c)MOHAMMED ABED / AFP 
【写真】イスラエルによる爆撃で親族を亡くした女性。ガザ地区南部ラファで(2024年2月8日撮影)。(c)Mahmud Hams / AFP 

【2月20日 AFP】国連(UN)に任命された7人から成る人権問題の独立専門家チームは19日、パレスチナ人の女性・少女がイスラエル当局者に処刑されたり、レイプを含む性的暴行の被害を受けたりしている疑いがあるとして、徹底調査の実施を要請した。
 専門家チームは、パレスチナ自治区ガザ地区(Gaza Strip)およびヨルダン川西岸(West Bank)で女性と少女を標的にした「重大な人権侵害が行われていることを示す信ぴょう性の高い申し立て」があったと述べた。
 ガザでは「子どもを含む家族と共に恣意(しい)的に処刑されている事例」があると指摘。「女性や子どもが避難先で、または退避中に意図的に標的にされ、超法規的に殺害されているとの報告に衝撃を受けている」とした。
 さらに、「恣意的に拘束されている多数のパレスチナ人女性と少女」の多くが殴打され、生理用品や食料、医療品を支給されずに「非人道的な扱い」を受けたとの報告を紹介。少なくとも2人がレイプされたほか、「イスラエル軍の男性将校に裸にされ、身体検査を受けた」人もいるとしている。
 専門家チームは、こうした疑いについて「独立した公平な調査を直ちに徹底的に」行うよう求め、イスラエルに協力を呼び掛けた。
 人権専門家は国連人権理事会(UN Human Rights Council)に任命されるが、国連を代表する立場にはない。
 スイス・ジュネーブのイスラエル政府代表部は「真実ではなく、イスラエルへの憎悪に基づいた」主張だと反発。ただイスラエル当局としては、「信頼できる申し立てと証拠が提示されれば、治安部隊が不正行為を働いたとする主張」を調査する用意はあると表明した。
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『日本軍‘慰安婦’被害者 金玉珠 口述資料集』(韓国挺身隊研究所編、2022年12月刊)について

2024年02月23日 | 日本軍隊性奴隷
■『일분군‘ 위안부’ 피해자 김옥주 구술자료집 』한국정신대연구소 엮음 , 한국 여성인권진흥원 간,  2022년12월(『日本軍‘慰安婦’被害者 金玉珠 口述資料集』韓国挺身隊研究所編、韓国女性人権振興院刊、2022年12月)について■       金靜美
 
 1923年大邱で生まれた金玉珠(キム オク チュ)さんは、17歳の時に、海南島につれて いかれました。「食母」として仁川に行くことに応じた金玉珠 さんは、仁川から船に乗せられ、上海、香 港をへて、着いたところは海南島でした。 じぶんを入れて5人がいっしょに海南島に 連れていかれたといいます。 
 この本は、金玉珠さんに話を聞いた4回の 一問一答式の全記録です(面談者は、4回と もチョチェ ヘラン)。 
 さいしょに話を聞いたのは、1996年11月3 0日で、当時住んでいた江原道麟蹄の自宅だ ったそうです。 
 1999年に出版された『증언짐 강제로 끌 려간 조선인 군위안부들 証言集 強制 的に連行された朝鮮人軍慰安婦たち』(第3 巻、韓国挺身隊研究所・韓国挺身隊問題対 策協議会編、ハンウル、1999年10月)には、 金玉珠さんの証言が収録されていますが、 面談者が整理したもので、今回の一問一答 式の証言は、その原型となるものです。 
 金玉珠さんがいた慰安所の屋号は、海口 の‘エビス’だったそうです。道を挟んだ 正面に軍の基地があり、時計塔が見えたと いいます。 
 金玉珠さんの記憶は、とても正確で、時計塔があり、日本軍の基地があった場所は、 海口の中心街の中山路です。 
 わたしは、紀州鉱山の真実を明らかにす る会・海南島近現代史研究会の海南島「現地 調査」で、海口の中山路に何度か行きました。 そのうちの1回は、佐藤正人が行程計画を 立案・調整し、ともに参加した2002年10月 の紀州鉱山の真実を明らかにする会として は第5回目の海南島「現地調査」で、韓国挺身 隊研究所と共同でおこないました。 
 このとき、金玉珠さんがいたという‘エ ビス’を探して、当時の建物が残る中山路 を歩きましたが、特定できませんでした。 その「現地調査」について、佐藤正人・金 靜美が共同執筆した、「海南島における日 本軍隊性奴隷制度と強制連行・強制労働― ― 2002年10月海南島「現地調査」報告― ―」は、『2002년 국외거주 일본군 ‘위안 부’피해자 실태조사 2002年 国外居住日 本軍‘慰安婦’ 被害者実態調査』(2002年1 2月、韓国女性部刊)に収録されています。 
 今回の『口述資料集』には、佐藤正人は、 「海南島戦時性暴力被害訴訟」1、2を、 金靜美は、「女性たち、日本軍占領下の海南 島で」を書きました。 金玉珠さんは、日本敗戦の翌年、陰暦9 月に船に乗り、日本を経て釜山に着きまし た。故郷に戻ってからの生活は、“ことば にできないほどの苦労”だったといいます。 麟蹄からナヌムの家に移り、2000年1月16 日、病のため亡くなりました。77歳でした。

      ………………………………………………………………………………………………………………………………
  以上の文は、三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・裵相度)の追悼碑を建立する会『会報』68号・紀州鉱山の真実を明らかにする会『会報』23号合併号(2023年10月10日発行)に掲載したものです。
    
 三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・裵相度)の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会のブログに昨日(2024年2月22日)掲載した「女性たち、日本軍占領下の海南 島で」は、한국정신대연구소 엮음『일분군‘ 위안부’ 피해자 김옥주 구술자료집 』(韓国挺身隊研究所編『日本軍‘慰安婦’被害者 金玉珠 口述資料集』、韓国女性人権振興院刊、2022年韓国女性人権振興院刊)の巻末に付録として掲載された金靜美「일본군 점령하 하이난다오(海南島)의 여성들」の日本語版です。
      ………………………………………………………………………………………………………………………………
■付記
 『일분군‘ 위안부’ 피해자 김옥주 구술자료집 』の巻末には、付録として金靜美「일본군 점령하 하이난다오(海南島)의 여성들」とともに佐藤正人「하이난다오(海南島) 전시 성폭력 피해 소송」が掲載されています。その原文(日本語)は、つぎのとおりです。

◆海南島戦時性暴力被害訴訟◆ 
 ◆訴訟開始
 住んでいる村に突然侵入してきた日本軍によって、少女の時に日本軍隊性奴隷とされた黄玉鳳さん、陳金玉さん、鄧玉民さん、陳亜扁さんは、黄有良さん、林亜金さん、譚玉蓮さん、譚亜洞さんの8人は、2001年7月16日に、日本国を被告として、「名誉及び尊厳の回復のための謝罪」と「名誉及び尊厳の回復がなされてこなかったことに対する損害賠償」を求めて、訴状を東京地裁にだしました。
 この年11月に、黄有良さんが、東京地裁で開かれた第1回裁判(口頭弁論)で「意見」を述べました。
 その後、原告が出席しないまま裁判が続けられましたが、2005年3月の第9回裁判の場で、原告の林亜金さんと海南島史研究者である張応勇さんが、2006年3月の第14回裁判の場で、原告の陳亜扁さんが証言しました。

 ◆一審判決
 2006年8月、5か月ぶりで再び来た原告の陳亜扁さんが見まもるなかで、東京地裁民事24部の裁判官(矢尾渉、梶智紀、亀村恵子)は、海南島における日本軍の性犯罪事実とその不法性を認定しながら日本政府を免罪し、「原告らの請求をいずれも棄却する」という不当判決をだしました。
 原告と海南島戦時性暴力被害賠償請求事件弁護団は直ちに控訴し、中国人戦争被害賠償請求事件弁護団は、海南島戦時性暴力被害賠償請求事件弁護団と共同抗議声明をだし、中華全国律師協会・中華全国婦女聨合会・中国人権発展基金会・中国法律援助基金会・中国抗日戦争史学会は共同抗議声明をだしました。

 ◆『日軍侵陵暴行実録』
 2001年7月に黄有良さんらが日本の裁判に、日本人弁護士24人を代理人として訴状を出す6年半前、1995年2月に発行された『日軍侵陵暴行実録』(政協陵水黎族自治県委員会文史学習委員会編『陵水文史』第7輯)に掲載されている黄有良口述・胡月玲整理「一位“慰安婦”的血和泪」には、
    “黄有良さんの村(架馬村)から40メートルの地点に日本軍は軍営を作った。
   日本兵30人あまりが駐屯した。
   その軍営を拠点にして日本軍は、近くの黎族の村を襲撃し、多くの人を殺し、女性に暴行した……”
と書かれています。
 黄有良さんら8人の原告に危害を加えたのは、海南海軍第16警備隊加茂分遣隊、保亭派遣隊、藤橋派遣隊などに所属する日本兵たちでした。
 海南海軍第16警備隊に所属する日本兵は、1945年には「朝鮮村」でおおくの朝鮮人を虐殺していました(当時の第16警備隊司令は、海軍大佐能美実)。海南警備府第16警備隊が軍事支配しようとしていたのは、ほぼ現在の三亜市、保亭黎族苗族自治県、陵水黎族自治県に相当する地域でした。
 陳亜扁さんが最初に被害を受けた場所は、海南警備府第16警備隊所属祖関守備隊の兵舎(あるいはその周辺)だったと思われます。

 ◆加害将兵の所属部隊と氏名
 日本政府は、アジア太平洋各地で侵略犯罪を直接実行した犯罪集団の部隊名・指揮官名・将兵名をほとんど明らかにしていません。海南島における侵略犯罪の場合も同じです。
 8人の原告を襲ったのは、日本海軍海南警備府第15警備隊の南林地域、保亭地域、加茂地域、祖関地域、田仔地域駐屯部隊の将兵の将兵でした。
 藤橋分遣隊などの構成員にかんして、これまでわたしたちが公開されている旧日本軍文書(『海南警備府戦時日誌』、『海南警備府戦闘詳報』など)のなかで発見できたのは、つぎのような、わずかなことだけです。

 1944年4月の藤橋分遣隊指揮官は、兵曹長横山壽。1944年5月の藤橋分遣隊指揮官は、少尉寺角八十一。当時の藤橋分遣隊部隊員数74人、准士官以上2人、下士官兵37人、巡査補35人。藤橋分遣隊警察隊員数8人、巡査6人、巡査補2人。
 1944年4月の保亭派遣隊指揮官は、少尉寺角八十一、同年5月の保亭派遣隊指揮官は兵曹長横山壽。
 1944年4月の加茂分遣隊指揮官は、二曹田中勝次郎、同年5月の加茂分遣隊指揮官は一曹野尻竹次郎。
 1944年4月、5月の什令分遣隊指揮官は、上曹東川七之助。
 1944年4月・5月の藤橋分遣隊指揮官と、保亭分遣隊指揮官は、入れかわっていますが、兵曹長横山壽や少尉寺角八十一が指揮官であった時期に、黄有良さんは、1944年4月、5月にも、藤橋の「慰安所」に監禁されていました。

◆二審開始
 2007年5月15日に、東京高等裁判所で「海南島戦時性暴力被害訴訟」の二審の審理が開始され、9月25日に第2回裁判、10月18日に第3回裁判が開かれました。
 2008年1月15日午後2時から、東京高裁818法廷で、高裁4回目の裁判が開かれました。この日、黄有良さんが海南島から来て証言しました。

◆証言する黄有良さん
 黄有良さんの証言を傍聴しようとして、この日東京高裁前には、100人以上の人が集まりました。50枚ほどの聴券が抽選で配られました。
 黄有良さんは黎族で、漢語を話しません。法廷では、黄有良さんの話す黎語を、海南島から同行してくれた胡月玲さんが漢語に通訳し、それを徳永淳子さんが日本語に通訳しました。
 胡月玲さんは、「一位“慰安婦”的血和泪」を書いた人です。
 黄有良さんは、低い声で、静かに、日本軍が何をやったのかを語りました。

◆ハイナンNET
 2005年3月16日に林亜金さんと張応勇さんが東京地裁で証言する1か月ほど前、ハイナンNET(海南島戦時性暴力被害者への謝罪と賠償を求めるネットワーク)が組織されました。
 黄有良さんが高裁で証言した2008年1月15日の夕刻、ハイナンNETは報告集会を開きました。
 傍聴できなかった人もふくめ70人あまりが参加したこの集会に来てくれた黄有良さんは、
    「日本政府はきちんと謝罪し、わたしたちの‘潔白’を証明すべきだ。
     こんなに多くの人がわたしたちを支援しているのを知ってうれしい」、
と穏やかな表情で語りました。

◆原告林亜金さんと証人張応勇さん
 2005年3月15日の「海南島戦時性暴力被害訴訟」の東京地方裁判所での第9回裁判で原告林亜金さんと証人の張応勇さんが証言しました。
 証言の前々日、弁護団と支援者が集まった席で、マスメディアに写真取材を認めていいかどうかなどが議論になったとき、林亜金さんは、「ウェイダー」と言いました。「ウェイダー」は、「恐れることはなにもない」という意味の黎語です。
 林亜金さんと張応勇さんが、東京地方裁判所で証言した2日後、2005年3月18日に、東京高等裁判所で、中国人「慰安婦」裁判第2次訴訟の控訴審判決が出されました。この判決を、林亜金さんと張応勇さんは傍聴しました。郭喜翠さんと侯巧蓮さんは、1996年2月に、被害事実の認定と、日本政府の公式謝罪と賠償を求めて提訴していました。控訴審判決は、原告が1949年から中華人民共和国政府のもとに生活しているにもかかわらず、1952年に蒋介石政権との間に締結された「日華平和条約」にもとづいて、原告の損害賠償請求権の放棄を認定する不当判決でした。
 侯巧蓮さんは、1999年5月に亡くなられました。
 東京地方裁判所で証言してから9か月後の2005年12月28日朝5時に、張応勇さんが亡くなられました。

◆陳金玉さん
 2004年9月に、原告の黄玉鳳さんが亡くなられました。
 2007年5月に、東京高等裁判所第21民事部(渡邊等裁判長)で二審の「海南島戦時性暴力被害訴訟」口頭弁論が開始されました。このときの「事件名」は、「日本軍によって「慰安婦」とされた中国海南島の被害者が日本政府に対して謝罪と名誉回復並びに損害賠償を求めた控訴請求事件(海南島戦時性暴力被害賠償請求事件)」でした。
 2007年9月に第2回口頭弁論、2007年10月に第3回口頭弁論、2008年9月に第6回口頭弁論が開かれました。
 2008年12月に第7回口頭弁論が開かれ。原告の陳金玉さんが証言しました。
 陳金玉さんの証言を傍聴しようとして、朝9時半までに、裁判所前に、100人以上の人が集まりました。しかし、証言がおこなわれる東京高等裁判所424号法廷の傍聴席には42人しか入ることができず、抽選からはずれた人たちは傍聴できませんでした。  
 弁護団は、あらかじめ東京高等裁判所第21民事部渡辺等裁判長に大きな法廷を使うことを要請していましたが、裁判長は許可しませんでした。
 陳金玉さんは黎族で、漢語を話しません。法廷では、陳金玉さんの話す黎語を、海南島から同行した陳厚志さんが漢語に通訳し、それを徳永淳子さんが日本語に重訳しました。
 陳金玉さんは、静かに、日本兵から加えられて危害について語り、そのときこころとからだに受けた、いまも癒されることのない傷について話しました。
 証言をはじめてからまもなく、陳金玉さんは、涙声になり、話しができなくなり、10分ほど休廷しました。
 証言のおわりに、陳金玉さんは、被告席に座っている3人の日本国の代理人の方を向いて、日本政府に歴史を直視し事実を認め謝罪し賠償することを求めました。
 その3年10か月足らずのちの2012年9月22日に陳金玉さんは亡くなられました。

 ◆二審判決、そしてその後
 2009年3月26日に、東京高等裁判所第21民事部は控訴人らの請求を棄却するという判決をだしました。同日、直ちに、海南島戦時性暴力被害賠償請求事件弁護団と中国人戦争被害賠償請求事件弁護団が連名で、つぎのような声明をだしました。その要旨はつぎのとおりです。

   本件は,中国海南島において,旧日本軍(主として海軍)が中国人の少女を強制的に拉致・監禁し,継続的かつ組織的に戦時性奴隷とし
  た事案である。
   本判決は,「本件被害女性らは,本件加害行為を受けた当時,14歳から19歳までの女性であったのであり,このような本件被害女性らに対し
  軍の力により威圧しあるいは脅迫して自己の性欲を満足させるために陵辱の限りを尽くした軍人らの本件加害行為は,極めて卑劣な行為で
  あって,厳しい非難を受けるべきである。このような本件加害行為により本件被害女性らが受けた被害は誠に深刻であって,これが既に癒さ
  れたとか,償われたとかいうことができないことは本件の経緯から明らかである」(判決書28頁)と認定している。
   本件被害の質的側面においてもPTSDはもとより「破局的体験後の持続的人格変化」も認定している(判決書30頁)。
   以上の事実認定を踏まえ,国家無答責の法理を排斥したうえ民法715条1項を適用し控訴人らの損害賠償請求権を認めた。
   アメリカ連邦下院における対日謝罪要求決議の外,カナダ,オランダ,EU議会,国連人権理事会,国連自由権規約委員会,ILO条約勧告適
  用専門家委員会等々で解決を求める決議がなされている。このように国際社会は,被害を受けた女性の尊厳と人権の回復のための真の措置
  をとるよう日本政府に強く迫っている。
   国内においても宝塚市,清瀬市,札幌市に続いて福岡市議会において3月25日解決を求める決議が賛成多数で可決された。
   このように解決を迫る世論は国内外を問わず高まっている。
   日本政府は,本判決で厳しく認定された加害の事実と深刻な被害の事実を真摯に受け止め,被害者一人一人が納得するように謝罪をし,そ
  の謝罪の証として適切な措置をとるべきである。

 2010年3月2日 最高裁判所第3小法廷(那須弘平裁判長)、「海南島戦時性暴力被害賠償請求事件」上告を棄却し上告受理申立を不受理とする決定。海南島戦時性暴力被害賠償請求事件弁護団と中国人戦争被害賠償請求事件弁護団、抗議声明。
 2010年9月8日 「海南島戦時性暴力被害訴訟」原告譚亜洞さんが亡くなられました。
 2012年9月22日 「海南島戦時性暴力被害訴訟」原告陳金玉さんが亡くなられました。
 2013年10月17日 「海南島戦時性暴力被害訴訟」原告林亜金さんが亡くなられました。
 2014年6月19日 「海南島戦時性暴力被害訴訟」原告鄧玉民さんが亡くなられました。
 2017年5月11日 「海南島戦時性暴力被害訴訟」原告陳亜扁さんが亡くなられました。
 2017年8月12日 「海南島戦時性暴力被害訴訟」最期の原告黄有良さんが亡くなられました。

◆張応勇さん
 1993年に張応勇さんは、海南島の保亭黎族苗族自治県の県道工事で働いていた朴来顺さんに出会いました。
 朴来順さん(1912年生)は、朝鮮人で、1941年に日本軍にだまされて中国につれてこられて「慰安妇」にされ、1942年に海南島に連行されていました。1945年8月に日本が投降したあと保亭に留まり、1994年に病死しました。
 1994年5月に張応勇さんは、南林郷羅葵村委会什号村に住む林亚金さんを始めて訪ねました。このころから張応勇さんは、保亭黎族苗族自治県とその周辺地域で日本軍の性奴隷とされていた人からの聞き取りと記録を熱心に始めました。
 保亭黎族苗族自治県の保亭の自宅を突然訪問し、保亭文史資料工作委員会主任であった張応勇さん(1940年生)にはじめて会ったのは、2002年3月でした。
 2002年10月に、金靜美さんとわたしは、朴来順さん(1912年生)について、くわしく話しを聞かせてもらいました。
 張応勇さんは、
  「日本の罪悪史を調査していて、朴来順さんのことを知った。
   国籍も中国に変えないでいるのに、なぜ故郷に帰らないのか、知りたいと思った。
   最初は、なにも話してくれなかった。なんども訪ねて、世間話だけして、帰ってきた。
   病気になって、“わたしはもう死にゆく身だから、みんな話してあげよう”といって、ようやく、1994年秋ころからすこしづつ話しを聞か
  せてもらうこができた。
   故郷に帰りたかったら、領事館を通じて話をしてあげようと言ったが、“ここで長い間暮らしたのだから、ここで死ぬ”といった」
と話しました。
 朴来順さんが保亭の病院で亡くなったのは、韓国と中国が国交を樹立してから3年後の1995年でした。
 2003年7月に、わたしたちは、張応勇さんに、朴来順さんが死ぬときまで住んでいたところ(保亭亭県公路局宿舎)に案内してもらいました。

◆朴来順さんの墓
 2000年3月に、金靜美さんとわたしは、保亭に行き、朴来順さんの墓を訪ねました。
 保亭県公路局が建てた墓誌には、「生於一九一二年卒於一九九五年」、「祖妣韓国僑工来順朴氏墓」と刻まれていました。朴来順さんは、日本の軍艦にのせられて、1942年2月に海南島北部の海口につれてこられ、海口の「慰安所」にいれられ、1943年1月に、海南島南部の三亜紅沙の「慰安所」に移されました。日本敗戦後も故郷に戻らず、保亭県の公路局で働き、1995年に亡くなり、保亭郊外に埋葬されました。
 2004年2月に、わたしたちは、朴来順さんの故郷、慶尚南道咸安を訪問しました。朴来順さんの家のあった場所は空き地になっていました。

◆海南島に連行され「慰安婦」とされた朝鮮人女性と台湾人女性
 朴來順口述・張應勇整理「我被騙逼當日軍“慰安婦”的經歴」〈『鐵蹄下的腥風血雨――日軍侵瓊暴行實錄――』下,海南省政治協商會議文史資料委員會編,1995年〉、牛泊「北黎日軍“慰安所”簡況」〈政協東方黎族自治県委員会文史組編『東方文史』8、1993年3月〉、戴沢運「日軍的慰安所」〈政協昌江黎族自治県委員会文史資料組編『昌江文史』6、1997年1月〉、戴沢運「日寇鉄蹄残踏昌感見聞」〈政協東方市文史委員会編『東方文史』10、1999年12月〉などの記述を総合すれば、海口、三亜、北黎、石碌、藤橋、陵水などの「慰安所」に収容されていた朝鮮人女性は70~80人である。調査をすすめれば、この数はさらに増えるかもしれない。
 1945年に「三亜航空隊」の第二中隊長であった楢原留次によれば、飛行場近くにあった「つばき荘」という名の「慰安所」には、朝鮮人女性15人が「収容」されていたといいます(楢原留次「海軍経歴と海南島勤務」、『三亜航空基地』三亜空戦友会事務所刊、1980年)。
 2003年春に、わたしたちは、慶尚南道生まれの朴来順さんが2年7か月間入れられていた紅沙の「慰安所」跡を訪ねました。
 子どものころからその近くに住んでいた蘇殷貞さん(1931年生)は、
   「建物は三つあった。一般兵士は土日、将校は金曜日に来た。一般人はそこに入ることもできなかった。朝鮮人の女性は、白い服を着て
  いた。長いスカートだった。(チマ・チョゴリの絵を書いて見てもらうと)。これだ。こんな服を着ていた。朝鮮人の女性たちは髪が長かった。日本人は髪が短い。“アリラン”は聞いたことがある」
と、話しました。幼いときに蘇洪槙さんは、朴来順さんを見かけたことがあったかもしれません。
 朴来順さんは、故郷にもどることなく、1995年に海南島で病死しました。おなじ「慰安所」に入れられていた台湾の盧満妹さん(1926年生)は、謝罪と賠償を求めて、日本国を被告とする裁判闘争を1999年にはじめました。
 2000年12月に東京で開催された女性国際戦犯法廷で盧満妹さんは、
   「看護婦にならないかと騙されて、高尾から軍艦で海南島に連れていかれ、紅沙の「慰安所」に入れられた。そこには30人あまりの女性
  が入れられており、30人が台湾人で、朝鮮人女性や日本人女性もいた」
と証言しました。
 盧満妹さんは2011年8月に亡くなられました。

      ………………………………………………………………………………………………………………………………
 以上の海南島戦時性暴力被害訴訟にかんする報告の前半は、海南島近現代史研究会『会報』創刊号(2008年2月10日発行)に掲載したもので、後半(「原告林亜金さんと証人張応勇さん」以後)は、2022年10月に書いたものです。   佐藤正人
      ……………………………………………………………………………………………………………………………… 
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女性たち、日本軍占領下の海南島で

2024年02月22日 | 海南島
■女性たち、日本軍占領下の海南島で■
                    金靜美

■はじめに
 海南島で、日本軍がいたときのことを覚えているか、と尋ねるわたしたちに、黙ったままで身じろぎもしない女性にであった。
 ある村では、日本軍の「慰安婦」にされた女性に話を聞くことができる、といわれたが、
 その女性を訪ねなかった。その女性がみずからわたしたちと会うことを望んだのではないようだったからだ。
 わたしはその場にいなかったが、ある海辺でであった女性に話しかけると、砂浜にうずくまったまま、しずかに泣いていたという。
 
 海南島だけではないが、日本が犯した侵略犯罪は、ことばでは表現できない。
 日本軍占領の時代を経験した海南島でであった女性たちのさまざまな表情を、わたしは、表現することばを持たない。
道行く人たち、三輪車や二輪車の運転手たちをはじめ、わたしたちがおおくの人たちの助けを得てであった海南島の人たちの声を、わずかでも伝えたい。
 この稿では、海南島でであった女性たちの証言、女性たちにかんする証言を中心に書き記そうと思う(註1)。

■八所
 東方市八所(パソ)は、海南島西部の海に面した町である(註2)。
 日本の植民地下にあった朝鮮の刑務所から、獄中者が、8次にわたって「南方派遣報国隊(朝鮮報国隊)」として海南島に連行されたが(註3)、その上陸地はおもに八所であった。
 わたしたちがはじめて八所港に行ったのは1998年6月27日であった。
 そこには、日本軍が「監獄」として作ったという建物や、「日軍侵瓊八所死難劳工紀念碑」(1994年12月、建立)があった。
 すぐ近くの海沿いに養殖場があった。そばにいた人に聞くと、エビをはじめ魚の養殖場を作る工事中に、おおくの人骨が埋められていることがわかり、その人骨を集め、「万人坑」をつくったのだという。
 八所港の「万人坑」には、石碌鉱山ー八所港間鉄道工事、八所港湾工事に働かされていた朝鮮人、台湾人、インド人、香港人、大陸から連行された中国人など、無念に亡くなったおおくの人たちが埋められた。
 石碌鉱山の鉄鉱石掠奪のため、日本窒素は、①石碌鉱山の鉱石採掘施設、②石碌鉱山から八所港(積み出し港)までの鉄道、③八所港の港湾施設、④発電用ダムと発電所を建設しようとした。
 そのための労働力として、1941年9月に、3000人以上の中国人が、上海から貨物船で八所港に運ばれた。上海からのわずか1週間の船旅の途中で、数十人もの人が死亡し、海南島に到着した人たちは、「過半数が痩せ細った、一見して病人を思わすような身体つき」であったという。その後、劣悪な宿所に住まわされ、厳しい労働を強制されて、病人、死者が続出し、「約半年の間に、この上海苦力はその半数近くが死んだ。逃亡者も相次いだ」という。3000人のうち、1945年1月の石碌鉱山全面操業停止時に残っていた人はわずか300人ほどだったという(註4)。

 1941年12月8日のアジア太平洋戦争開始後まもなく、日本軍は香港を占領し、同年12月29日に軍政をしいた。日本軍政下の香港から、1942年2月13日に香港を出港した日本船で、483人の「苦力」が八所港に上陸し、つづいて2月末までに、第2、第3船によって、1509人が到着し、さらにそれ以後毎月、1000人から1500人が到着したという(註5)。
 この人たちは、八所港湾工事、石碌までの鉄道建設、石碌での採鉱、などで酷使された(註6)。
 海南島の日本窒素関係の工事を担当したのは、西松組であった。日本軍・日本窒素・西松組は、暴力をつかって労働者を働かせた(註7)。『西松組社内報』1943年1月号には、この時点での死者は3158人(そのうち中国人労働者は2528人)であったと書かれている(註8)。
 1924年生まれの崔能は、1942年2月、合記公司香港事務所の募集に応じて海南島にいき、石碌鉱山の発電所で働いた。崔能は、「あすこには、強制的に連行された者が七千人もいた」、「鉄鉱石を掘る現場は重労働だったからたくさん死んでいった」、「日本軍は……病人や怪我人でも働かせようとした」と証言している(註9)。
 北黎特務部労務主任岡崎四郎の記録では、1943年10月の「石碌鉄山従業員」は、「日本人日窒社員及び西松組従業員」3000人、「台湾事務員及び労務者」600人、「広東、香港労務者」20000人、「現地海南島徴用労務者」22000人、計45600人であったと書かれている(註10)。
 日本窒素は、1926年以降、朝鮮で、大規模水力発電所や肥料工場、油脂工場、化学工場、火薬製造工場、大豆調味料製造工場などを経営し、朝鮮の資源・労働力を掠奪していた(註11)。朝鮮に基盤をおく日本窒素は、海南島での事業にも、朝鮮人を働かせた。1942年から石碌で働いていた張達雄氏は、次のように証言している(註12)。
   「19歳の1941年末、京城商科学校にいて、卒業を3か月後にひかえて就職活動をしていたとき、日本窒素で社員を募集しているという
    広告を見て応募した。合格後にソウル駅からわけのわからないまま、北から強制徴用者を乗せてきた汽車に乗って釜山にいき、日本、
    台湾をへて海南島に行った。海南島では、はじめ石碌で鉱石を運ぶ仕事をしたが、あまりにつらくて北黎に逃げた。捕まって西松組
   で働くことになり、また石碌で今度は監視や警備の仕事をした。日本窒素が石碌で経営していた農場の警備などもした」。

  石碌鎮西方十数キロメートルの叉河鎮で1924年に生まれた黎族の林亜政氏は、村の近くを通る石碌鉱山ー八所港間の鉄道工事をおこなう労働者の監督をする日本軍の通訳をした。

 林亜政氏は、
   「日本軍は村の住民の家をこわし、その材料で近くの高台に兵舎をつくり、その下方の労働者の宿舎を監視した。宿舎のそばに物品を
   売る配給所があった。イギリス人、インド人、台湾人、朝鮮人、上海からきた人など、たくさんの人が働いていた。宿舎は別々で、配
   給所も、朝鮮人の配給所、インド人の配給所など別々になっていた」
とのべている(註13)。

 石碌鉱山開発のために日本海軍は「巨額の投資」をおこなったが、1944年5月中旬に鉱石を積んだはじめての船が八所港から日本に向かったあと、10月24日に最後の船が出るまでに、日本に運ばれた鉄鉱石は、約37,5000トンのみであった(註14)。
 その後、アメリカ合州国軍の攻撃が激化し、海上輸送が不可能になったので、日本海軍は、1945年1月に、石碌鉱山に操業中止命令をだした。 このとき、「石碌開発関係の邦人」は4000人以上であり、そのうち「軍籍のある者」500人あまりが陸軍に現地召集されて、海南島対岸の雷州半島にいったという(註15)。
 石碌の鉄鉱石を日本に運び出そうとする日本軍と日本窒素・西松組によって生命を奪われた人びとの名はほとんど明らかにされておらず、その数もはっきりしていない。日本敗戦時に日本窒素海南事業本部総務部次長であった河野司は、「犠牲人柱」の数を「数万」としている(註16)。日本軍と日本窒素が37,5000トンの鉄鉱石を日本に送り出すために「数万」の人の生命が奪われたのである。その人たちの遺体は、「万人坑」に捨てられた。
 1965年に、「石碌鉱山万人坑」近くの公園の高台に、「石碌鉄鉱死難労工紀念碑」が建てられた。

【写真】日軍石碌鉄鉱死難労工紀念碑(1998年6月27日撮影)

 日本大蔵省が1947年に出した極秘文書には、
   「諸会社団体は軍の援助の下に一九三九年より終戦の一九四五年に至る七年間に亘り、文字通り熱帯の暑熱と戦ひ、マラリヤ、赤痢、コレラ等恐る可き熱帯地特有の悪疫と戦ひ、更に奥地に蟠居する蕃族や共産匪賊と戦ひ、遂に二千年来中国政府及び島民が夢想だにしなかつた程急速度に各種の近代的技術と資材に依る産業開発を実行した。……七年間に生れ変つた海南島が建設されたのである」、
   「占領地七年の行政成績は島民に取つて必らずしも不満足なものではなかつた」
 と書かれている(註17)。

【写真】移築された「監獄」として使われたという建物(2015年3月30日撮影)

■2015年3月30日 八所で
 2015年3月30日、わたしたちは八所を訪ねた。
 「監獄」として使われたという建物は、移築されていた。
 その区画の入り口には、「侵華日軍侵瓊八所死難労工監獄 厳禁破壊違法必究 東方市文体局 2013年12月」の看板があった。
 「日軍侵瓊八所死難劳工紀念碑」は、壊され、残骸が砂に半ばうずもれ残っていた。以前の場所には、ホテル、マンションが建ち、まだ工事中のところもあった。

■2015年11月20日 八所で
 2015年11月20日、わたしたちは、紀州鉱山の真実を明らかにする会として第28回目、海南島近現代史研究会として第16回目の海南島「現地調査」の3日目で、八所にいた。
 八所鎮八所村委会で、日本軍占領下のことを知っている人がいると聞き、そこの職員の案内で、八所村を訪ねた。

 張老桃さん(92歳 2015年当時)は、八所の港湾建設現場でしごとをした。
   「朝鮮人といっしょにしごとをした。いっしょにご飯も食べた。朝鮮人はやさしい。朝鮮人の軍人もいた。レールを運んでいた。きついしごとをしていた。重いので‟アイヨーサ、アイヨーサ”と声かけあって運んでいた。‟たいへんですね“というと、‟たいへんだけど、やらなければいけない”と言っていた。
    ‟メシタベル。モッテコイ。キモノ。アカイ。シロイ。クロイ。ブタニク。ニワトリ。サカナ。フルサト。アナタ。ワタシ“。朝鮮人なのに、日本語をしゃべっていた。
    妹妹よ、と話しかけてきた。
      ‟わたしは朝鮮人。日本人につかまって連れてこられた”。
     朝鮮人は日本軍人と服装がちがう。朝鮮人は、しごと服。いろいろな服。
    朝鮮人はしごとの行き帰りに列を作っていた。朝鮮人は、レールを運ぶ。鉱石を運ぶ。なんでもした。
    何千人もの労働者がいた。中には、おおぜいの大学生がいた。‟わたしたちは上海の大学生です。捕まってこっちに連れてこられた“と話していた。大学生は注射をされてすぐ死んだ。死体は焼いた。扇動して抗議活動をすることを恐れて。見て涙がぼろぼろこぼれた。泣いたらあんたにも注射をする、と脅かされた。
    八所の港で。隣の工場で。万人坑のところで。魚鱗河のところで。注射をした。
    労働者に水を運んだり、食事のしたくをして、一日5毛もらった。レンガを運ぶときは1元。
    ホンコンの労働者のために水運び、食事のしたく、掃除をしたときは、お金はもらわなかった。
    ホンコンの労働者のひとつのグループの隊長は、病気になって、日本人は火の中に入れた。何人もで担いで、火の中に入れた。
    ‟隊長さん、あの人たちはあなたをどこに運ぶのですか”と聞いたら、‟知らない”。逃げて、また捕まって、火の中に入れられ、それを何回もしてとうとう出てこられなかった。見て泣いた。
    宿舎でしごとをしていたが、そこから見えた。ホンコン人が何人くらいいたかわからない。
    じぶんの責任は、何十人の世話。食事は2人か3人でいっしょにつくる。ふたつの大きな鍋でつくる。材料は日本の軍人が運んできた。
    そのころの港はアタマしか見えない。アタマばっかり。上海、ホンコン、朝鮮人、インド人、アメリカ人英国人、台湾人。労働者はみんな別々の宿舎。長い部屋。いい宿舎も、悪い宿舎もある。日本軍の話をよく聞く人は、よい宿舎に入れる。
    日本軍に抗議をするために、工具を隠し持って捕まった。ホンコンの夫婦で別々の監獄に入れられた。夫婦には娘がひとりいた。この子は子どもだから、育てたいというと、だめだ、悪い人間の子どもは悪い人間になるといって、どこかへ連れていって殺した。
    日本軍のいうことを聞かない労働者はトラックに載せて川辺に連れていって、穴を掘らせて軍刀で殺して穴にいれた。
    毎日家から通った。14歳から21歳まで。さいしょは港で砂やレンガを運んだ。少しお金をもらえたので、このしごとをした。16歳か17歳のころ、食事の世話に変わった。砂やレンガは宿舎を作るために運んだ。完成したあと、食事の世話のしごと。
    さいしょ、台湾人が来た。最初、宿舎を作るのも台湾人。ホンコンや上海から来た人は、港のしごと。船から降りるのは見ていない。
    この村から働きに行った人もとてもおおい。附近の人はみんな八所に働きにいった。
    日本が降参して70年たった。20歳のとき、日本が降参した。日本軍がいなくなったが、なぜいなくなったかわからなかった。
    (「監獄」といわれる建物は?)死んだ労働者を焼いて、灰を置いていた。箱に入れてあった。たくさんあった。監獄を作る必要はない。いうことを聞かなかったらすぐ殺すから。前に紀念碑があったところには、骨がいっぱいあった。骨はむき出しで、歩くと骨を踏んだ。死体を捨てるのを見た。
    (日本敗戦後)労働者は自動的に解散した。放置された。ほおっておかれた。食べるものもなくたいへん。周辺の村に住みついた人もいる。この村に住みついた人もいる。
    朝鮮人とは仲がよかった。名前は知らない。いろいろな年の人。青年、中年。大人」。

 張仁常さん(90歳 2015年当時)も八所の港湾建設現場で働いた。
  「朝鮮人、アメリカ人もいた。とてもおおい。
   朝鮮人は男も女もいた。女の人はしごとをしない。きれいなかっこうをしている。女の人だけで小さな部屋に住んでいた。朝、散歩をしていた。掃除をしていて、‟日本娘よ、汚いからこっちにこないで“というと、‟ちがう、朝鮮人”と言った。
   上海の労働者は大学生がおおかった。皮膚病にかかっている人がおおかった。注射をされてこうなったと話していた」。
     【写真】張仁常さん

■2014年11月1日 東閣鎮南文村で
 南文村で出会った符祝霞さん(75歳 2014年当時)から話を聞いたあと、伯母がうたっていたという唄をうたっていただいた。30何年か前に亡くなった(2014年11月当時)伯母がいつもうたっていて、覚えたという。
   「6台のトラックが兵隊を運んできた。男は先に逃げた。女性は子どもを抱いて、ものをかついで、どうしたらいいのか。コメとか食べ物はぜんぶ焼かれてしまった。食べ物はない。
    日本軍が敗退して帰るとき、それを見ながら、この唄が出てきたと聞いた。
    日本軍が剣をかざして自分を空に放り投げて突き刺そうとしたが、母が、シンシャン、ひざまずいて何度もお願いして自分は助かった。母は良民証がなく、父は、共産党員だった」。
     
   日本自从文昌驻
   没有足迹到昌洒
   谁料去年十二月
   从清澜他来六车
   一直行至敦乐城
   到了敦乐就停车
   大人小孩皆逃命
   逃到远处无粮食 
   逃回家也是死定
   有些人
   担得住粮食抱不住儿
   妻唤夫
   你到底等不等? 
   骂一句就戳心窝
   米糠皆烧没粮食 
   这下饿着母子了 
   只剩下房屋墙头未塌

   日本は文昌から
   足音もなくしずかに昌洒にきた
   意外にも去年の12月
   6台のトラックで清瀾(註18)からやってきた
   まっすぐ敦楽城に行き
   敦楽で停車した
   大人も子どもみんな命からがら逃げた
   遠くまで逃げたが食べものはない
   家に戻れば死ぬ定め
   食べものを持てば
   子どもを抱いて逃げられない
   妻は夫をなじる
   あなたは何をしてるのか
   胸をたたいてののしっても
   米ももみもみんな食べものは焼かれてしまった
   こうして母子は飢え
   家は壁だけのこっている

■2015年3月30日 海頭鎮南港村で
 李春寿さん(90歳、1926年生)
  「付近の家はぜんぶ、日本軍の指揮部として取られてしまった。
   日本軍が来てから、農耕もできない、生活も安定しない。人をおおぜいつかまえて、日本軍のしごとをさせる。少し大きな人を見つけたら、つかまえてしごとをさせた。
   橋をつくるしごと。そこで使う木材を運んだ。監督は日本人だ。
   ここに日本軍の基地があった。司令部はここにあった。
   妓女館は司令部のところにあった。鉄条網の外側だが、村すべてが日本軍の司令部だった。
   6、7人の女性がいた。臨高(註19)から連れてこられた女性。
   当時の村の人口はおよそ40世帯。二つの道路があったが、一軒をのぞいて、両側の家をぜんぶ壊した。家を壊して、炮楼建設の材料に使った」。

■2015年4月1日 屯昌県南坤鎮で
 梁月花さん(81歳、1933年生?)
大人の人から売春の女と聞いて、住んでいるところを見に行った。
女性は臨高から連れてこられた、とみんな話していた。近くに井戸もあった。日本軍がいなくなったあと、女性たちは行方不明になった。人数はわからない。見たことある」。

符玉波さん(86歳 2015年当時)
   「日本軍はたくさんの人を殺した。たくさんの人が穴を掘って殺されるのを見た。おおぜいで、何人かわからないほどだ。よその村の人が殺されるのも見た。いまはその上に家が建っている。
    日本軍が来たばかりのころ、家はぜんぶ焼かれた。
    日本軍の建物をつくる工事をする人のなかに、黒人がいた。頭に布を巻いていた。 (朝鮮人ということばを聞いたことがあるか?)朝鮮人ということばは知らない。
    黒人は監督もするし、しごともする。監督は、軍服を着ていた。
    “日本娘”がいたのは知っているが、何人いたか知らない。街を歩いているのを見た。きれいな服を着ていた」。

 朱月英さん(48歳、1966年生)
   「(レンガの壁の家)“リーペンニャン日本娘”が住んでいた。小さいころから母からよく聞いた。“リーペンニャン日本娘”も、この井戸の水を使いに来ていたという。井戸はもっと小さく、水も上の方まであった。桶を投げてそのまま水を汲みあげることができた。
    (池のすぐそばの建物)この近辺は人が殺された場所。母が話していた。母はいま78歳」。

■2015年4月2日 屯昌県屯城鎭大同村で
 韓玉花さん(84歳 2015年当時)
   「いうことを聞かない人を水につけて殺した。みんなを集めて、殺すのを見せた。わたしも見た。通訳の名前は、リョウバイ。日本語の通訳。通訳はこわい。
    何人かの女の子といっしょにしごとをした。大同での道路工事で、木とか草を刈るしごと。そのとき、わたしが1節、また別の子が1節、それぞれ順に作ってみんなでしごとをしながら歌った。
    日本軍が聞いてもここのことばはわからない」(註20)。
                         【写真】韓玉花さん
   村里甲叶叫啰啰
   一半牛头半镰刀
   一半镰刀割青岭
   一半牛头赶干粮
   去到半路就闲晚
   去到工地身走斜
   拿点稀饭打到洒
   穿件衣服撕到烂

   村の甲長に大きな声で呼ばれた
   村の人たちは半数づつ鎌と刀を用意した
   鎌で山の木と草を刈った
   刀でしごとをした
   遠いしごと場についたら遅いといわれた
   からだが地にへばりつくようにはたらいた
   水がおおい粥をおなかにいれた
   着ているものは破れている

■2016年4月26日 昌江黎族自治県重合村で
 符永令さん(82歳 2016年当時)
   「母は子どもがいなくて、わたしを養女にして育てた。
    日本軍のしごとには、かならず一家族一人が出なくてはならなかった。わたしは幼かったが、母は年寄りなので、かわりに出て、温泉のところでしごとをした。少し大きい人は、草刈り。温泉とか炮楼のあたりで。わたしは、まだ小さかったので、草刈りをした草のあとかたづけ。草を拾い集めて捨てる。草刈り、片付けが終わったあとは、サツマイモを炊いて、食事のしたくをして家に帰った。
    兵士はおおぜいいた。基地の中には入ったことはない。
    (ある日のこと)しごとが終わったあと、男の人は帰して、女性だけ残した。4人の少し大人の女性4人を裸にして一つの部屋に入れようとしたが、その人たちが、子どもたちに、あなたたちはぜったい離れないでいっしょにいて、そしたら日本兵は悪いことができないから、というので、子どもたちは、その女性たちのそばを離れないで、ずーといっしょにいた。日本兵は怒って、鉄の棒で大人の女性を殴り、部屋に追い入れようとしたが、みんな入ろうとしなかった。
    (日本軍のしごとに出て)食事もないし、金ももらわなかった。殴られなかっただけ、よかった」(註21)。

■2017年5月3日 文昌市錦山鎮東山村で
 上東山村の自宅前広場の木陰で、韓裕豊さん(1926年3月生)に話を聞かせてもらうことができた。
   「近くに日本軍は望楼をつくった。高かった。屋根にトタン板がはられていた。
    望楼からすこし離れたところに日本軍の兵舎が2か所あった。そこは市場の前だった。偽軍の建物もあった。慰安所もあった。
    慰安所には女性が10人あまりいた。その女性たちは、ときどきいなくなって、よそに行って、また戻ってきた。日本の服を着ている人がおおかった。膨らんだ布の飾りを背中につけていた。海南島の服を来ている人が2人いた。
    慰安所の女性とは話したことはなかったが、慰安所で働いていた人から、慰安所の女性たちは、近くの日本軍の軍営を回っていると聞いた。海南島の服を着ている人は、舗前(註22)の人だと聞いた。
    慰安所は、もとは民家だった。新しくつくった家ではなかった」。

■2017年5月6日 文昌市昌洒鎮東坡村で
 東坡村の黄良波さんは、つぎのように話した。
   「日本軍が来たとき、7歳だった。
    日本軍は村の近くに飛行場をつくろうとしたが、工事を始める前に日本軍は敗けた。
    子どものとき日本語学校に2年間通った。2年たったら日本軍が敗けていなくなった。
    先生は5人いた。高松先生と島津先生は日本人、黄循生先生と黄良友先生はこの村の人、林道欽先生は台湾人だった。
    日本軍が飛行場をつくろうとしたことは、林道欽先生から聞いた。
    むかしの村の家は丈夫な硬い材木でつくられていた。日本軍は村の家を壊して軍営をつくった。わたしの家も壊されたので、近くの福架村の親戚の家に移らなければならなかった。
    日本軍は軍営の真ん中に望楼をたてた。
    村の家を壊し兵舎や望楼をつくったのは、よその村の人たちだった。日本軍はすこし離れた村の甲長に命令して、その村の人を働かせた。兵舎や望楼を設計したのは日本軍   だった。
    日本語学校の建物も日本軍は新しくつくった。日本語学校の工事も村人がやった。
    日本軍が来る前は祠堂で子どもたちが勉強した。
    近くの文東中学校の敷地から日本軍に殺された人の遺骨がたくさんでてきたことがあった」。

 黄良波さんの連れ合いの何金英さん(83歳)は、そばで話しを聞いていて、つぎのように話した。
   「兵舎の工事に来ていた若い娘が日本兵に交代で強姦されて殺されたことがあった。
    慰安所に近づいて中をみようとしたら、慰安婦の女性に水をかけられたことがあった。
    村の人が慰安婦のことをよく言ってなかったからだと思う。子ども心にそう感じた。
    わたしはこの村の日本軍の兵舎をつくるときレンガなどを運んだ。子どもも大人もたくさん働いていた」(註23)。

■おわりに
 2001年7月16日、「名誉及び尊厳の回復がなされてこなかったことに対する損害賠償」を求めて、黄玉鳳さん、陳金玉さん、鄧玉民さん、陳亜扁さん、黄有良さん、林亜金さん、譚玉蓮さん、譚亜洞さんの8人が日本国を提訴した(註24)。
 8人の原告は、全員が亡くなった。
 8人の原告は、無言の数知れない海南島の女性たちを代弁していた。

註1 わたしたちは、2018年10月の紀州鉱山の真実を明らかにする会としては第33回目、海南島近現代史研究会としては第20回目を最後に、海南島には行くことができていない。
 わたし自身は、2016年4月22日(農暦3月16日)~5月5日(農暦3月29日)の紀州鉱山の真実を明らかにする会としては第29回、海南島近現代史研究会としては第16回目を最後に、海南島には行っていない。
 本稿での証言は、他のわたしの海南島関係論文との内容的な重複を避けるため、註11と註12の張達雄氏と林亜政氏のもの以外は、2010年代の海南島「現地調査」で得たものである。
 しかし、ここで紹介するのは、残念ながら、ごく一部である。
 海南島で証言してくださった方がた、わたしたちを支えてくださった方がたに、この場を借りて、感謝します。
註2 八所は、1939年7月8日、日本軍に占領された。石碌は、1940年3月15日に日本軍に占領された(八所港務局〈港史〉編写組編『八所海港史』海南人民出版社、2000年発行と思われる、179頁)。
 在海口日本総領事館警察署が発行した『治安月報』1942年4月分に、「戦時資源として万難を排し開発中の田独石碌両鉄山」と書かれている。
 「田独鉄山」は石原産業が、「石碌鉄山」は日本窒素が「経営」していた。
 石原産業の経営者だった石原廣一郎は、日本軍が海南島に奇襲上陸してから2か月後の4月に、日本海軍の部隊に護衛され、海南島の田独村などを回った。
 石原は、1945年12月末から1948年12月末までA級戦犯容疑者として巣鴨拘置所に拘禁されていたが、そのころ書いたと思われる「回顧録」の「海南島資源調査」と題する部分で、つぎのように語っている。
    「海口に新たに台湾銀行支店が昨日開設せられたので、ここに立寄った。
     ……昨日開店したばかりであるが昨日一日中に預金が三、四万円あった。
     その預金者は慰安婦のみであるという話を聞いた時、当地占領後わずか二ヵ月に過ぎないが早くも慰安婦が来て……。
    帰りに街を注意して見ると、各所に慰安所という看板が上がっていることに気付く。
    慰安婦は……日本人、朝鮮人、台湾人などであって……」。
註3 「南方派遣報国隊(朝鮮報国隊)」は、第1次が1943年3月30日に出発、文書で確認できる最後の第8次が1944年1月にソウルの西大門刑務所を出発した。     
 「南方派遣報国隊(朝鮮報国隊)」については、以下の論文を参照した。
 ・金靜美「日本占領下の海南島における強制労働――強制連行・強制労働の歴史の総体的把握のために――」①・②、『戦争責任研究』27・28、日本の戦争責任資料センター、2000年3月・6月。
 ・金靜美「일본점령하 중국海南島에서의 강제노동」、朴慶植先生追悼論文集『近現代韓日関係와  在日同胞』、ソウル大学校出版部、1999年8月。
 ・金靜美「海南島の場合(とくに「朝鮮村」と「朝鮮報国隊」について)」(2000年5月24日、ソウルでの第9次国際歴史教科書学術会議第3主題「日本에 있어서의 過去清算問題」における報告(「日帝期의 強制連行 問題에 関하여」のなかで)。『各国의 歴史教科書에 비친 過去清算問題』国際教科書研究所、2000年5月。
 ・金靜美・佐藤正人「海南島에 있어서의 日本軍隊性奴隷制度와 強制連行・強制労働 2002年10月海南島「現地調査」報告」、韓国挺身隊研究所『2002年国外居住日本軍‘慰安婦’被害者実態調査』女性部権益企画課、2002年12月。
 ・金靜美「国民国家日本の他地域・他国における暴力――海南島の場合――」、『東北亜歴史의 諸問題』(南陽洪鍾泌博士定年退任記念論叢)、2003年10月。
 ・金靜美「海南島からの朝鮮人帰還について――植民地国家からの出国、国民国家への帰還――」、『解放後中国地域韓人の帰還問題研究』、国民大学校韓国学研究所、2003年11月28日。
註4 八所での日本海軍や日本窒素・西松組の暴行、労働者の状況や闘いについては、前掲『八所海港史』15~38頁、参照。
註5 河野司編著『海南島石碌鉄山開発誌』石碌鉄山開発誌刊行会、1974年、223~225頁。
註6 同前、231頁。
註7 王瑾「礦工血泪 石碌鉄礦労工的悲惨遭遇紀実」、および、李玉親・趙志賢整理「石碌鉄礦労工悲惨遭遇実録」、海南省政治協商会議文史資料委員会編『鉄蹄下的腥風血雨 日軍侵瓊暴行実録』続、海南出版社、1996年。および、趙志賢整理「日軍侵占昌江及其暴行」、政治協商会議海南省昌江黎族自治県委員会文史資料組編『昌江文史』6、1997年。
 関松瑶「日本侵瓊時期石碌鉄礦労工状況簡介」(政治協商会議広東省昌江県委員会文史資料組編『昌江文史』2、1987年9月)には、1943年秋に、広州出身の労働者2人が逃亡しようとして捕えられ、みせしめのため、おおくの労働者の前で首を切られた、という証言が記されている(45頁)。
註8 玉城素他『産業の昭和社会史』12(土木)、日本経済評論社、1993年、190頁。  
 西松組(現、西松建設)がアジアの各地でおこなった非道行為については、中国人強制連行・西松建設裁判を支援する会編刊『歴史に正義と公道を』1998年、参照。
註9 石田甚太郎『日本鬼 日本軍占領下香港住民の戦争体験』現代書館、1993年、25~27頁、および小林英夫『日本軍政下のアジア 「大東亜共栄圏」と軍票』岩波書店、1993年、8~12頁。
 合記公司は、日本海軍特務部管轄下の「募集機関」であった。合記公司香港事務所からは、海南島の田独鉱山、三井倉庫、台湾拓殖会社にも労働者が「供出」された(前掲『海南島石碌鉄山開発誌』228頁)。
註10 前掲『海南島石碌鉄山開発誌』239頁。
註11 日本窒素が朝鮮でおこなったことに関する研究はあるが(姜在彦編『朝鮮における日窒コンツェルン』不二出版、1985年、など)、海南島でおこなったことに触れている研究はない。堀和夫は、その論文「日本化学工業と日本窒素コンツェルン 個別資本と植民地経済」(『朝鮮工業の史的分析』有斐閣、1995年)で、「日本帝国圏における日窒」を論じているが、「日本帝国圏」とされていた海南島で日本窒素が日本軍と共におこなったことを全く無視している。
 「8・15」の後、朝鮮から日本に引き揚げた日本窒素の幹部たちは、日本九州の水俣工場の経営権を握った。かれらはその工場から水銀の入った毒水を流し続け、海を汚染し、水俣湾地域の民衆を「病気」にし、殺害した(原田正純『水俣病』岩波書店、1972年。岡本達明・松崎次夫編『聞書水俣民衆史』一~五、草風館、1990年、など参照)。
註12 1998年8月17日に、ソウルで筆者が聞く。
  張達雄氏は、1998年1月~2月に、50余年ぶりに海南島を再訪した。
註13 1998年6月29日に、筆者を含む紀州鉱山の真実を明らかにする会のメンバーが、林亜政氏にその自宅で話を聞いたあと、近所の兵舎跡、宿舎跡、配給所跡に案内していただいた。
註14 前掲『海南島石碌鉄山開発誌』212頁。
註15 同前、559頁。
註16 同前、560頁。
註17 大蔵省管理局『日本人の海外活動に関する歴史的調査(海南島篇)』1947年、7、212頁。
註18 海南島東海岸北部にある港町、清瀾に、日本軍の台湾混成旅団が、1939年2月23日に上陸した(『陸軍省大日記』、「陸支受大日記「密」第52号 海南島攻略戦 登號作戦」1939年自8月16日至8月21日)。
註19 1939年4月16日、日本軍は臨高近くの新盈港に上陸し、翌18日、臨高を占領した(海南省政治協商会議文史資料委員会編『鉄蹄下的腥風血雨 ―日軍侵瓊暴行実録』海南出版社、1995年、755頁)。
 直後から日本軍は、臨高に日本軍基地の建設をはじめ、治安維持会を組織し、日本語学校などを作った。
 わたしたちがはじめて臨高に行ったのは、2002年3月31日だった。
 日本軍が作った日本語学校に行った後、海南海軍特務部で通訳として働いた林吉蘇氏(1925年生)から、日本軍が、新盈、臨高、那大などに「慰安所」を設置したことを聞き、日本軍が作った望楼や「慰安所」を確認した。その後も数度、臨高、新盈を訪ね、日本軍が上陸した地点などを確認した。
 註3であげた金靜美・佐藤正人「海南島에 있어서의 日本軍隊性奴隷制度와 強制連行・強制労働 2002年10月海南島「現地調査」報告」、韓国挺身隊研究所『2002年国外居住日本軍‘慰安婦’被害者実態調査』女性部権益企画課、2002年12月、参照。
註20 海南島の言語は、地域によってことなる。先住民族は、漢族によって、「黎族」となづけられたが、彼らの言語も、地域によってちがう。海南語でも、北部と南部ではことばが通じない。
 韓玉花さんたち女性が、日本軍によって強制的に労働させられながら、一節づつ即興でうたったという唄は、抵抗歌ともいえる。
 韓玉花さんがうたってくれた唄は、あとから、わたしたちに同行していた南海出版社の何怡欣さんが漢字に書き起こし、呉雪さんが送ってくれた。符祝霞さんの唄も、南海出版社の人が漢字に書き起こし、漢語に翻訳してくれたものである。
註21 邢越さんは、海南島で、海南語と漢語を日本語に通訳してくれる、海南島近現代史研究会の会員である。海南島南部で生まれ育った邢越さんは、海南島北部のことばが聞き取れない、と話す。
 「黎族」「苗族」の村に行ったときは、「黎語」や「苗語」を、若い人たちに漢語、いわゆる「普通語」に通訳してもらい、さらに、邢越さんが日本語に置き換えた。
 証言を聞くとき、証言者の言語を直接理解できないということは、ひとえに証言に接する側の怠慢であるが、その「怠慢」を克服するのはむずかしい。
 海南島各地で、邢越さんだけでなく、証言の理解において、おおくの人たちの助けを得た。同行者に漢語が流暢にできるひとがいないときには、あるときは、中学生、高校生にも協力してもらった。証言を漢字で書きとってもらって、それを読んだ。
わたしたちの海南島での調査は、行く先ざきで出会ったおおくの人たちの協力で成り立ったものである。
註22 舗前は、1939年5月2日、日本軍によって占領された(海南省政治協商会議文史資料委員会編『鉄蹄下的腥風血雨 ―日軍侵瓊暴行実録』海南出版社、1995年、755頁)。
註23 2017年5月、上東山村の韓裕豊さん、東坡村の黄良波さんの証言は、佐藤正人の紀州鉱山の真実を明らかにする会として第31回目、海南島近現代史研究会として第18回目の海南島「現地調査」報告から引用した。
註24 「海南島戦時性暴力被害訴訟」については、本書『일본군´위안부`피해자 김옥주 구술자료집』(韓国挺身隊研究所編、韓国女性人権振興院、2022年12月)に収録されている佐藤正人の「海南島戦時性暴力被害訴訟史(年表)」、および「海南島戦時性暴力被害訴訟1・2」を参照してください。
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海南島戦時性暴力被害訴訟史(年表)

2024年02月21日 | 日本軍隊性奴隷
1995年8月 張応勇「日軍“戦地服務隊”中的黎族婦女」、政協海南省保亭黎族苗族自治県委員会文史資料工作委員会編9(紀念抗日戦争勝利
     50周年)。
2001年11月 小野寺利孝弁護士らが、初めて海南島を訪問し、日本軍に性暴力をうけた被害者から話を聞かせてもらう。
2001年6月 小野寺利孝弁護士、中野比登志弁護士、坂口禎彦弁護士、杉浦ひとみ弁護士が海南島を訪問し、原告となる8 人の方たちに会い、
     2日間、話をきかせてもらう。
2001年7月16日 日本軍隊性奴隷とされた黄玉鳳さん、陳金玉さん、鄧玉民さん、陳亜扁さん、黄有良さん、林亜金さん、譚玉蓮さん、譚亜洞
     さんら8人が、日本国を被告として、「名誉及び尊厳の回復のための謝罪」と「名誉及び尊厳の回復がなされてこなかったことに
     対する損害賠償」を求めて訴状を東京地方裁判所に弁護人を介して出す(「海南島戦時性暴力被害訴訟」開始)。
      海南島における日本軍性奴隷は、「慰安所」に入れられた女性もいたが、各地の村落に侵入した日本軍の小隊が、「駐屯所」に
     独自につくった監禁所に拘禁された女性もいた。裁判の原告の8人は、すべてそのような村の少女だった。張応勇さんは、海南島で
     少女たちは「戦地服務隊」(あるいは「戦地后勤服務隊」)に入れられたと言っていた。
     ◆参照:朴来順口述、張応勇整理「不堪回首的往事 一個“慰安婦”的自述」、政協海南省保亭黎族苗族自治県委員会文史資料工作
      委員会編『保亭文史』9、1995年8月。張応勇「日軍“戦地服務隊”中的黎族婦女」、『保亭文史』9、1995年8月。
2001年11月28日 東京地方裁判所で第1回裁判(口頭弁論)。原告黄有良さんが証言。
2002年3月13日 第2回裁判(弁護団、第2次準備書面をだす)。
2002年5月21日~27日 弁護団、海南島訪問(原告の法廷での証言に代わるビデオ収録を目的)。
2002年6月19日 第3回裁判(弁護団、第3次準備書面で、“国が戦後の回復措置を執るべき義務の根拠、戦後の回復措置を採らないままの
     放置が原告らにどのような被害を与えたか”を明確に示す)。
2003年12月 原告の譚玉蓮さんが亡くなられた。
2004年2月19日 原告の意思を受けて訴因を変更(戦後だけでなく、戦時中の日本軍の加害行為そのものの責任も追及するため)。
2004年9月 「海南島戦時性暴力被害訴訟」原告黄玉鳳さん逝去。
2005年2月16日 ハイナンNET(海南島戦時性暴力被害者への謝罪と賠償を求めるネットワーク)創立
2005年3月16日 「海南島戦時性暴力被害訴訟」原告林亜金さんと証人張応勇さん、第9回裁判で証言。
       証言の前々日、弁護団と支援者が集まった席で、マスメディアに写真取材を認めていいかどうかなどが議論になったとき、
      林亜金さんは、「ウェイダー」と言った(「ウェイダー」は、「恐れることはなにもない」という意味の黎語。
       林亜金さんと張応勇さんが、東京地方裁判所で証言した2日後、2005年3月18日に、東京高等裁判所で、中国人「慰安婦」裁判
      第2次訴訟の控訴審判決が出された。この判決を、林亜金さんと張応勇さんは傍聴した。郭喜翠さんと侯巧蓮さんは、1996年
      2月に、被害事実の認定と、日本政府の公式謝罪と賠償を求めて提訴したが、侯巧蓮さんは1999年5月に亡くなられた。
       控訴審判決は、原告が1949年から中華人民共和国政府のもとに生活しているにもかかわらず、1952年に蒋介石政権との間に
      締結された「日華平和条約」にもとづいて、原告の損害賠償請求権の放棄を認定する不当判決だった。
2005年4月 担当裁判官3人のうち裁判長ら2人の裁判官が突然交代。
2005年6月15日 第10回裁判(裁判官交代後、初めての口頭弁論。新しい裁判官が、弁論中に居眠り)。
2005年7月20日 第11回裁判  裁判官の意識を変える必要があるため、原告陳亜扁さんと、日本の海南島侵略の歴史を追究している
     在日朝鮮人金靜美さんを証人申請。
2005年9月28日 第12回裁判  ドキュメンタリー『日本が占領した海南島で 60年まえは昨日のこと』(証拠用要約版、紀州鉱山の
     真実を明らかにする会制作)を、「海南島戦時性暴力事件、甲第33号証」として法廷で上映。
2005年11月9日 第13回裁判  裁判官は、原告陳亜扁さんの証人申請を受理したが、金靜美さんの証人申請を却下。
2005年12月28日朝5時 張応勇さんが亡くなられた。
2006年3月8日 第14回裁判(原告陳亜扁さんが証言)。
2006年3月22日 第15回裁判(結審)。
2006年8月30日 東京地方裁判所(裁判長矢尾渉、裁判官梶智紀・亀村恵子)不当判決(「主文 1原告らの請求をいずれも棄却する、 
     2訴訟費用は原告らの負担とする」)。
      一審判決を出した東京地方裁判所民事24部は、日本軍の犯罪事実を具体的に明確に認定ながら、原告の名誉回復と日本政府の
     謝罪と国家賠償請求を棄却した。矢尾渉裁判長は、海南島における日本軍の性犯罪事実とその不法性を明確に認定しながら、司法の
     正義を守ろうとしないで、日本政府を免罪し、原告の請求をすべて棄却した。原告・弁護団直ちに控訴。
      中国人戦争被害賠償請求事件弁護団・海南島戦時性暴力被害賠償請求事件弁護団共同抗議声明。中華全国律師協会・中華全国
    婦女聨合会・中国人権発展基金会・中国法律援助基金会・中国抗日戦争史学会共同抗議声明。
2006年12月 この月発行された『軍縮問題資料』(軍縮市民の会・軍縮研究室発行)に、坂口禎彦弁護士の「中国人慰安婦訴訟・海南島
     事件」掲載。
2004年9月 原告の黄玉鳳さんが亡くなられた。
2007年5月 東京高等裁判所で「海南島戦時性暴力被害訴訟」口頭弁論開始。
2007年9月 「海南島戦時性暴力被害訴訟」第2回口頭弁論。
2007年10月 「海南島戦時性暴力被害訴訟」第3回口頭弁論。
2008年5月 東京高等裁判所で、「海南島戦時性暴力被害訴訟」第5回口頭弁論。
2008年9月 東京高等裁判所で、「海南島戦時性暴力被害訴訟」第6回口頭弁論。
2008年12月 東京高等裁判所で、「海南島戦時性暴力被害訴訟」第7回口頭弁論。原告陳金玉さん証言。
2009年3月 「海南島戦時性暴力被害訴訟」東京高等裁判所判決。控訴棄却。原告、上告。
2010年3月2日 最高裁判所第3小法廷(那須弘平裁判長)、「海南島戦時性暴力被害賠償請求事件」上告を棄却し上告受理申立を不受理とする
     決定。海南島戦時性暴力被害賠償請求事件弁護団と中国人戦争被害賠償請求事件弁護団、抗議声明。
2010年9月8日 「海南島戦時性暴力被害訴訟」原告譚亜洞さんが亡くなられた。
2012年9月22日 「海南島戦時性暴力被害訴訟」原告陳金玉さんが亡くなられた。
2013年10月17日 「海南島戦時性暴力被害訴訟」原告林亜金さんが亡くなられた。
2014年6月19日 「海南島戦時性暴力被害訴訟」原告鄧玉民さんが亡くなられた。
2017年5月11日 「海南島戦時性暴力被害訴訟」原告陳亜扁さんが亡くなられた。
2017年8月12日 「海南島戦時性暴力被害訴訟」最期の原告黄有良さんが亡くなられた。

                                佐藤正人 作成
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