https://web.archive.org/web/20070911182840/http://www.nishinippon.co.jp/news/2005/sengo60/sengo5/11.html
「西日本新聞」 20050803付 朝刊掲載
■私の8・15<11> 頓田の森の爆撃 窪山強一さん かかとに金属片を受けました
窪山強一(くぼやま・きょういち)さん(68) 福岡県甘木市
一九四五年三月二十七日。立石国民学校(現・福岡県甘木市)の終業式の最中に空襲警報が鳴り、私たちは通知表も持たずに集団下校しました。二年生だった私は近所の上級生たちに連れられていました。
周りの大人も米軍の爆撃機を見たことはなかったし、戦争中でも、せっぱ詰まった感じはなかったです。いくつかの班に分かれての集団下校も訓練通りでした。だから、爆弾の地響きがすると、パニックで散り散りになりました。
頓田(とんた)の森に逃げ込むと、木々に遮られて爆撃機は見えなくなり、目と耳を手で覆い、腹ばいになると少しほっとしました。
そこへ突然の爆撃。子どもが避難した森に爆弾が落とされるとは夢にも思っていませんでした。私はかかとに金属片を受けました。気を失い、再び目を開いたとき、森は明るくなっていました。枝が吹き飛び、子どもたちに覆いかぶさっていたのです。
数日間高熱が続きましたが、私は助かりました。しかし、別の班で集団下校中だった五年生の姉は頭と足を負傷し亡くなりました。既に冷たくなって帰宅した姉を、母は病院に連れて行こうと必死だったそうです。
終戦から三カ月後、頓田の森で子どもを亡くした親たちが近くの一木神社に延命地蔵菩薩(ぼさつ)を建てました。物が乏しい時代に作られた約三メートルの大きな地蔵は深い悲しみの表れでしょう。「いずれ負ける戦争だったら、どうして早く終わってくれなかったのか」。親たちのやり場のない怒りの声を、何度も聞きました。
私は地蔵を建てた一木児童遺族会の会長を引き継いでから、この地を訪れる子どもたちに、頓田の森の爆撃を語ってきました。
最近、戦争や爆弾テロで何十人もの人が次々と亡くなっています。六十年前の悲しみが若い人に伝わるのか。「戦争はそんなもん。人が死ぬのは仕方ない」などと思われないか。難しいと感じます。不安になるときもあります。
戦後六十年がたち、戦争を知る人は減りました。しかし、孫の代になっても、一言でも二言でも戦争の悲惨さを後世に伝え続けてほしいと願っています。
◆頓田の森の爆撃
一九四五年三月二十七日、陸軍大刀洗飛行場と周辺の軍事施設を米軍のB29爆撃機七十四機が空襲。民間人を含む数百人が犠牲になった。頓田の森では立石国民学校から下校中の一木地区の児童が被害に遭い、二十四人が即死、後に負傷者七人が亡くなった。
https://web.archive.org/web/20070908095306/http://www.nishinippon.co.jp/news/2005/sengo60/sengo5/12.html
「西日本新聞」 20050804付 朝刊掲載
■私の8・15<12> 陸軍特別操縦見習士官制度 船木 英示さん 何で僕だけが生き残ったのか
船木英示さん(ふなき・えいじ)さん(81) 福岡市博多区
僕は特攻の出撃命令を三回受けた。でも、出撃できなかった。一回目は離陸体勢にまで入っていたのに、トラックが滑走路に飛び出してきて、叫ぶんだ。「本日の攻撃は中止だ」って。
最後の命令は一九四五年八月十四日、熊本・菊池飛行場で「十七日の沖縄特別総攻撃に参加せよ」と言われた。でも、翌日に玉音放送。言葉が難しくて、ほとんど意味が分からなかったけど、「戦争が終わった。負けたんだ」とは伝わった。おったまがったよ。
今さら降伏なんか、って気持ちだった。一人で出撃しようと、急いで特攻服に着替え、愛機に走った。ところが、もう操縦かんが引き抜かれていたんだ。やりきれなくてねぇ。竹やぶに入って軍刀を振り回したよ。
当時は、陸軍特別操縦見習士官の一期生。学徒動員で福岡高商(現在の福岡大)を繰り上げ卒業し、四三年十月一日に大刀洗陸軍飛行学校・目達原分校に入校した。
同期の五十人のうち四十数人は戦死し、生き残りもみんな亡くなり、もう僕だけになった。易が得意な同期が僕を姓名判断してくれて「おまえは九十歳まで生きる」と占ったことがあったけど、案外あいつの占いは当たってたんだなあ。
何で僕だけが生き残ったんだろう?って今も考えることがあるね。一つ思うのは、たまたま飛行機乗りとしての素質が認められ、操縦を指導する側に回ってしまったことだ。三回も出撃命令を受けたのに、実際の出撃は後回しにされてしまったんじゃないか、と。
終戦後は、魚市場、造船所、と職場を転々としたけど、「亡くなった連中の分も」と思って頑張ってきた。みんな前途のある連中ばかりだったんだよ。代弁して僕から一つだけ言いたい。戦争は要するに人と人が殺し合うこと。二度とやっちゃだめだ。そして、命を大切にしてほしい。
戦中、訓練がないときに喫茶店でクラシックを聴くのが唯一の楽しみだった。サラサーテの「チゴイネルワイゼン」が特に好きでね。今も喫茶店まで散歩し、コーヒーを飲むのが一番の楽しみさ。散歩の途中、空を見上げて飛行機雲を見つけると、「そろそろ、迎えに来てくれよ」って、話しかけるんだ。でも、「まだだめだ」って、あいつらから返事が返ってくるんだよ。
◆陸軍特別操縦見習士官制度
パイロットをはじめとする航空要員の養成が急務となり、陸軍が四三年に創設した制度。師範学校、専門学校、高校、大学に在学した者が対象で、入隊の最初から曹長の階級を与えた。生き残った特別操縦見習士一期生がまとめた「特操一期生史」によると、四期にわたる特操入隊者は約八千人。一期生任官者二千三百八十六人のうち、六百六十八人が空中戦や特攻で亡くなったという。
「西日本新聞」 20050805付 朝刊掲載
■私の8・15<13> 満映 緒方用光さん 憲兵が無言で監視しているのです
緒方用光(おがた・もちみつ)さん(81) 福岡市西区
フィルムに映っていたのは雪中のソ連兵でした。
防寒着は裏地が毛皮で、暖かくて軽く、いかにも動きやすそうでした。厚い布や革を重ねただけの粗末な日本兵の冬服とは大違いです。「冬場の戦争だったらソ連にはかなわんな」。頭をよぎりましたが、口に出すことなんてできませんでした。
満州映画協会(満映)の薄暗い一室。私服ですが明らかに関東軍(満州に駐留した日本軍)の憲兵と分かる男が無言で監視しているのです。満映養成所に通っていた私は、先輩職員の手伝いで、ソ連のニュース映画フィルムの複製作業を黙々と続けました。一九四三年ごろから満州でも物資が不足し始め、戦局の悪化をうすうすと感じていました。あのフィルムは関東軍がソ連軍の動向を偵察するため、ソ連領事館あての荷物から抜き取ったものだと思います。複製後、こっそり返すつもりだったのでしょう。今思えば、私たちの作業はスパイ行為の一端だったようです。
カメラマンになる夢を抱いて、養成所に入った四二年当時、同期生は日本人よりも中国人や朝鮮人が多く、授業も寮も一緒でした。映画を見に行ったり、中国人街に出かけてマントウ(蒸しパン)を買って食べたりしました。映画づくりに燃える仲間同士、自由な雰囲気さえありました。
しかし、夢を追いかける日々は長く続きません。満映職員も次第に兵隊に取られていきます。四四年に養成所を卒業すると、私は映画科学研究所でフィルムを自給自足するための研究をさせられました。
翌年三月、召集されました。訓練を繰り返したにもかかわらず、ソ連軍が近づいてきた八月ごろには、上官は「抵抗するな」と言います。戦うこともなく、空腹を抱え、奉天(現・瀋陽)市内を部隊で転々とする中、敗戦を知りました。
日本に帰れると聞いて列車に乗ったら、そのままソ連(カザフスタン)に連れていかれ、三年間の抑留生活。栄養失調とアメーバ赤痢で、若い仲間がやせ衰え、次々と死んでいくのを、ただ見るだけでした。
軍隊にいた期間は短かったんですが、国や軍から置き去りにされた彼らの無念さを思うと、戦争を引き起こした人と一緒に靖国神社に祭られるのはやはりおかしい。過去の事実から逃げずに、戦争は人間に何を及ぼすのか考えていかなければならないですね。
◆満映
一九三二年、中国東北部に造られた日本のかいらい国家「満州国」の建国理念を浸透させるため、三七年、首都・新京(現・長春)に設立された国策映画会社。娯楽、文化、時事の各映画を製作し、李香蘭(山口淑子)などのスターを生んだ。四五年、日本の敗戦とともに解体。現在は長春映画製作所となっている。
「西日本新聞」 20050806付 朝刊掲載
■私の8・15<14> 勤労学徒動員 川野八郎さん もう「海行かば」は歌わない
川野八郎(かわの・はちろう)さん(74) 宮崎県小林市
私が手にしているこの本。題名は「あゝ紅の血は燃えて―勤労動員学徒記録誌」といいます。私たち旧制小林中(現・小林高)二十三回生が十四、五歳の時、勤労動員先で体験した悲惨な出来事の一部始終を収めています。記録を後世に残そうとの一心で、私が編集委員を務め、十九年前に発行しました。
戦中、当時男子校だった小林中三年の百四十七人は、宮崎県都城市の川崎航空機工業都城工場に学徒動員されました。子どもに戦闘機を造らせようというのですから、今では考えられませんね。食事はご飯粒がついているイモだけ。空腹に耐え、びょう打ちの作業を繰り返す毎日でした。
一九四五年五月八日の朝、寮の食堂で空襲警報が鳴りだしました。防空壕(ごう)へ向かう途中、上空から「シュル、シュル、シュル」という音がして、見上げたら、カラスのような黒いものが落ちてくる。「爆弾だ」と直感し、瞬間的に伏せました。耳をつんざくごう音。夢中で防空壕に走りました。
壕の近くのレンゲ畑で一人の友が肩から血を流して倒れ、手足をけいれんさせていました。でも、私は爆撃が怖くて、壕から出られなかった。あの時なぜ引き返して、苦しみにあえぐ友を介抱しなかったのか。自責の念は今も消えません。
結局、この爆撃で級友十人が殉死しました。ある友は、吹き飛んだ自分の片脚を懐に抱え、「天皇陛下万歳」と叫び、亡くなりました。顔がざくろのように割れた友の遺体は、駆けつけた親にも見せられませんでした。その夜、私たちは亡くなった友のため、涙を流しながら「海行(ゆ)かば」を歌いました。「海行かば…大君(おおきみ)の辺(へ)にこそ死なめ」というあの歌です。
今でも私たちは年に一回、亡き級友の慰霊祭を続けており、その時は必ず記録誌の題名にした「あゝ紅の…」を歌います。この歌は「花もつぼみの若桜」という歌い出しで、私たち勤労学徒のシンボルだったんですよ。でも、「海行かば」は歌いません。だって大君のために死ぬのは、もはや時代遅れですから。
振り返れば、私たち勤労学徒は懸命に国のため働きました。その中で、つぼみのまま亡くなった多くの友がいたことを記憶してほしいのです。
◆勤労学徒動員
第二次世界大戦中、少年や少女が軍事工場などへ勤労動員に駆り出された。一九四五年四月からは「決戦教育措置要綱」により、国民学校初等科を除く学校の授業が停止され、全国で三百万人超の動員学徒が、一万数千の職場で働いたとされる。勤労動員先で死亡した学徒は一万人を超すといわれ、うち九千人近くは原爆犠牲者とみられる。
https://web.archive.org/web/20070920182258/http://www.nishinippon.co.jp/news/2005/sengo60/sengo5/15.html
「西日本新聞」 20050809付 朝刊掲載
■私の8・15<15> 被爆体験継承 安井幸子さん 「あの日」若者とともに語り継ぐ
安井幸子(やすい・さちこ)さん(66) 長崎市八つ尾町
六十年目の八月九日が巡ってきました。六歳の私は、長崎市の自宅近くで被爆しました。爆風は一瞬にして、一緒にいた友だち四人を生き埋めにし、二歳の弟の命を奪いました。五人兄弟だった私は生き残った二人の兄と妹、それに両親とともに、島原の親類のもとに避難しました。でも、原爆の惨禍から逃れることはできませんでした。
次兄は吐き気と出血、高熱に苦しみ、八月二十四日に死んでしまった。「さっちゃん、さよなら」と言い残して…。涙が止まりませんでした。八日後、長兄も同じ症状で亡くなりました。終戦の日を過ぎても、私たち家族の「戦争」は続いたのです。
原爆投下から九年後の五四年四月、今度は、被爆後に体調を崩していた妹が重い貧血で倒れました。原因も治療法も分からず、入学したばかりの中学校に行けないまま自宅療養が続きました。夜、私が学校から帰ると「今日は何を習ってきたと」と聞いてきます。枕元で歌を歌い、本を読み聞かせると、安心したように眠ります。「学校に行きたい」が口癖でした。
その年の六月に息を引き取った妹の死因が「白血病」と分かったのは、亡くなった一週間後。体の奥深くに染み込んだ放射線は、時間をかけて妹をむしばんでいたのです。
兄弟四人全員が原爆で死にました。私自身も被爆から一カ月後、発熱や出血、脱毛に苦しみました。両手両足が化膿(かのう)し、ウジがわいたこともあります。被爆から十七年後には甲状腺がんを患いましたが、二度の手術で生き延びました。「生かされた」という思いが十年前、語り部活動を始める原点になりました。
今春、長崎平和推進協会の継承部会長になりました。被爆者の高齢化が進む中、協会では、被爆者以外の市民が核兵器の惨禍を伝える「平和案内人」の育成に取り組んでいます。七十年目、八十年目、体験を話せる被爆者がいなくなったとき、若い人たちに被爆体験を自分のものとして語り継いでほしいのです。
世界では、テロにおびえる人々がたくさんいます。日本では、被爆や戦争体験の風化という現実があります。日本の平和が原爆や戦争犠牲者の痛みの上に成り立っていることを、忘れてほしくはないのです。
◆被爆体験継承
被爆体験を修学旅行生らに伝える語り部活動は、長崎市など官民でつくる長崎平和推進協会の継承部会や、長崎原爆被災者協議会などが行っているが、同推進協会の三十八人の平均年齢は七十四歳で高齢化が悩み。次世代への「継承」は被爆地にとって大きな課題となっている。