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三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

大阪人権博物館(リバティおおさか) 2022年の再出発のために

2020年05月31日 | 大阪人権博物館
■大阪人権博物館(リバティおおさか) 2022年の再出発のために■

 前世紀末、1999年7月6日から8月29日まで、三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・裵相度)の追悼碑を建立する会と大阪人権博物館(リバティおおさか)は、企画展「“木本事件”――熊野から朝鮮人虐殺を問う――」を開催しました。
 その約3年後、2002年11月ころ、大阪史についての企画展(あるいは特別展)を開催する準備を始めました。
 紀州鉱山の真実を明らかにする会は、大阪人権博物館(リバティおおさか)に協力を求められ、2002年11から2004年春までの間に、11回、企画展(あるいは特別展)「海南島で日本は何をしたのか――侵略・虐殺・掠奪・性奴隷化――」の展示内容について大阪人権博物館(リバティおおさか)との綿密な打ち合わせ会議を重ねました。
 大阪人権博物館(リバティおおさか)は、2003年末に、翌2004年7月21日から8月15日まで企画展「日本は海南島で何をしたのか」を開催すると広報しはじめ、『催し物のご案内(2004年4月~8月)』というリーフレットに、企画展「日本は海南島で何をしたのか」を2004年7月21日から8月15日まで大阪人権博物館のギャラリーで開催するという案内を掲載しました。
 ところが、開催概要5週間あまり後に迫っていた、2004年5月13日に、大阪人権博物館(リバティおおさか)は、当初の企画展名「海南島で日本はなにをしたのか――侵略・虐殺・略奪・性奴隷化――」が“刺激的だ”という理由で、変更したいと提案してきました。展示の内容は変えないというので、紀州鉱山の真実を明らかにする会は、企画展名を「海南島とアジア太平洋戦争――占領下でなにがおこったか――」と変更することに合意しました。
 その半月後、2004年5月30日に、大阪人権博物館(リバティおおさか)は、紀州鉱山の真実を明らかにする会に、一方的に、企画展「日本は海南島で何をしたのか」の開催を中止すると通告してきました。
 紀州鉱山の真実を明らかにする会は直ちに、大阪人権博物館(リバティおおさか)にたいして、①中止する理由が正当なものだと理解することも了承することもできない、②予定通り開会するためにはどうしたらいいのかを紀州鉱山の真実を明らかにする会とともに検討してほしい、と告げました。

 この問題にかんして、2004年6月14日に、紀州鉱山の真実を明らかにする会は、つぎのような文書を公表しました。その全文はつぎのとおりです。
   ………………………………………………………………………………
★企画展「海南島とアジア太平洋戦争――占領下で何がおこったか――」(大阪人権博物館主催・紀州鉱山の真実を明らかにする会後援)延期のお知らせ
 大阪人権博物館で、7月21日~8月15日に開催する予定で準備を進めていた企画展示「海南島とアジア太平洋戦争――占領下で何がおこったか――」(大阪人権博物館主催・紀州鉱山の真実を明らかにする会後援)が、大阪人権博物館の事情で、延期されることになりました。
 5月13日、大阪人権博物館から、当初の企画展名「海南島で日本はなにをしたのか――侵略・虐殺・略奪・姓奴隷化――」が“刺激的だ”という理由で、変更を提示され、展示の内容は従来通りで、企画展名を「海南島とアジア太平洋戦争――占領下でなにがおこったか――」に変更することに合意しました。
 大阪人権博物館では、特別展「つくられる日本国民」(4月13日~6月13日)を開催中に、戦闘服姿の集団が押しかけたり、大阪市議会議員がポスターの撤去、展示の即時中止などを要求してきたそうです。
 5月30日、大阪人権博物館から、現在の状況で、企画展「海南島とアジア太平洋戦争――占領下でなにがおこったか――」を開催すると、さらに右翼の攻撃が強まることが予想され、大阪人権博物としては対処できないので、延期をしたいという「提案」がありました。これは、大阪人権博物館側では、決議を経た決定でした。
 今回の企画展は、主催が大阪人権博物で、紀州鉱山の真実を明らかにする会は後援することになっていました。この間、2002年11月から約10回にわたって、大阪人権博物館側と打ち合わせ会議をおこない、企画展の準備を進めてきましたが、紀州鉱山の真実を明らかにする会としては、主催の大阪人権博物館ができないという以上、やむをえません。
 「ヒノマル」「キミガヨ」が強制され、軍隊が海外に派兵され、排外主義が強まっているいまの日本でこそ、今回の企画展は、大切な意味を持つと考えたのですが、残念ながら、わたしたちの力が及ばず、こういう結果になりました。
 なお、海南島における日本侵略史を概観する展示は、2005年7月~8月、大阪市内で、主催:紀州鉱山の真実を明らかにする会、後援:大阪人権博物館として、おこなう予定です。
 韓国では予定通り、今年2004年9月から約3か月間、主催:民族問題研究所・独立記念館、後援:紀州鉱山の真実を明らかにする会で、独立記念館での展示をふくめ、全国巡回展示をおこないます。
   ………………………………………………………………………………

 2004年10月1日~10月10日に、西大門刑務所歴史館で、特別展『해남도에서 일본은 무엇을 했는가?  침략・학살・약탈・성노예화(海南島で日本はなにをしたのか  侵略・虐殺・掠奪・性奴隷化)』(主催:民族問題研究所、獨立紀念館。後援:紀州鉱山の真実を明らかにする会)が開催されました。続いて同じ内容の展示会が、10月15日~11月21日に韓国独立紀念館で開催されました。この韓国での展示会の内容は、大阪人権博物館(リバティおおさか)が7月21日から8月15日まで開催を予定していながら、開会50日前に突然延期した展示会「海南島とアジア太平洋戦争――占領下で何がおこったか――」の内容とほぼ同一でした。
 紀州鉱山の真実を明らかにする会は、この韓国での展示の準備を、2003年秋からすすめていました。この特別展の構成は、つぎのとおりでした。
  Ⅰ、総論:海南島で日本はなにをしたのか
  Ⅱ、軍事侵略、抗日闘争
  Ⅲ、経済侵略:土地略奪・資源略奪・労働強制
  Ⅳ、「朝鮮村」虐殺
  Ⅴ、海南島における日本軍隊性奴隷制
  Ⅵ、侵略犯罪に時効はない!

 大阪人権博物館(リバティおおさか)は、2004年7月1日発行の『広報誌リバティ』26号に、「企画展“日本は海南島で何をしたのか”の中止について」を掲載しました。その全文はつぎのとおりです。
     大阪人権博物館では、7月21日から8月15日まで企画展「日本は
    海南島で何をしたのか」の開催を「紀州鉱山の真実を明らかにす
    る会」の後援により予定し、当館発行の「催し物のご案内」など
    で広報していました。
     しかしながら、2005年の常設展示の全面リニューアルの実現とそ
    の準備などの諸事情により、本企画展の開催を中止することを判断
    しました。
     なお、当館は8月16日から常設展示リニューアルのための休館し
    ますが、本企画展については来年度以降の実現のため、開催形態
    を含めて検討しています。
     最後に、本企画展の中止についてお詫び申し上げますとともに、
    皆さまのご理解をいただきたいと存じます。

 大阪人権博物館(リバティおおさか)が「来年度以降の実現のため、開催形態を含めて検討しています」と公言したのは、2004年7月でした。しかし、それからこれまで15年あまりのあいだに大阪人権博物館(リバティおおさか)は、企画展「海南島で日本は何をしたのか 侵略・虐殺・掠奪・性奴隷化」(→企画展「海南島とアジア太平洋戦争――占領下でなにがおこったか――」を開催する努力をほとんどしてきませんでした。

 大阪人権博物館(リバティおおさか)の建物は、2020年7月以後、解体されることになり、5月25日から31日までの一週間、最終的に開館されました。
 わたしは、5月30日に、大阪人権博物館(リバティおおさか)を訪問しました。
 展示会場の入り口に、「特別企画  リバティおおさか35年展(2020年1月15日~3月14日)」というタイトルが掲げられており、そこに「大阪人権博物館のあゆみ」と題する年表が示されていました。
 そしてそこに、
    2004年2月6日 入館者100万人を越える
       3月   リニューアル工事のため休館
と書かれてありました。

 大阪人権博物館(リバティおおさか)が、「リニューアル工事のため休館」したのは、2004年8月16日でした。2004年3月に「リニューアル工事のため休館」したという誤記は、大阪人権博物館(リバティおおさか)が2004年5月の企画展「海南島で日本は何をしたのか 侵略・虐殺・掠奪・性奴隷化」(→企画展「海南島とアジア太平洋戦争――占領下でなにがおこったか――」を中止(→延期)した問題を真剣に解決しようとしてこなかったことを示しています。
 海南島近現代史にかかわって何を展示するのか。何を展示しないのかは、展示主体の思想に規定されます。
 しかし、展示(事実の伝達)をおこなわないというのであれば、その主題にかかわって、博物館の役割は根本のところで空無となります。
 大阪人権博物館(リバティおおさか)は、「人権問題に関する調査研究をおこなうとともに、関係資料や文化財を収集・保存し、あわせてこれらを展示・公開することにより、人権思想の普及と人間性豊かな文化の発展に貢献する」ことを設立目的としています。
 海南島近現代史にかんする展示の中止→延期は、「人権に関する総合博物館」としての大阪人権博物館(リバティおおさか)存在理由にかかわる重大な問題です。
 2022年に再出発しようとしている大阪人権博物館(リバティおおさか)が、2004年の誤りを克服することを願っています。

                                         佐藤正人

【付記】本稿には、大阪人権博物館編刊『大阪人権博物館紀』第10号(2008年3月1日)に掲載された紀州鉱山の真実を明らかにする会「国民国家日本の海南島侵略犯罪史認識と伝達」(文責キム チョンミ)をほぼそのまま使用した箇所があります。
 「国民国家日本の海南島侵略犯罪史認識と伝達」の全文は、このブログに10回に分けて連載してあります(2009年5月3日~5月12日)。
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企画展『海南島で日本は何をしたのか』無期延期の経緯と社会的応答 2

2012年07月21日 | 大阪人権博物館

 国民国家日本の侵略犯罪という人権にかんする最悪の犯罪を隠蔽することである企画展「日本は海南島で何をしたのか」の開催中止は、大阪人権博物館の内部問題ではなく、現在の日本の社会問題である。

 2004年7月27日付けで、大阪府教職員組合の山口成幸中央執行委員長は、大阪人権博物館の秋定嘉和館長に、
    「大阪人権博物館が不当な圧力に屈せず設立趣旨に基づいて人権思想の普及と
   啓発に邁進されるよう要望します」
と題する文書を送った。その全文は、つぎのとおりである。
    私たちは、大阪人権博物館が「展示への抗議があれば、対応できない」として、企
   画展「海南島とアジア太平洋戦争 占領下で何がおこったか」をとりやめたとの報道
   に接し、驚きを禁じ得ません。
    新聞報道によると、開催を予定していた企画展に対してその中止を求める動きもな
   い中で、起こるか起こらないかわからないトラブルを想定して自主規制したとのことです。
   確かにこれまでにも、貴博物館に対して右翼が押しかけるなど、不当な圧力が掛けら
   れてきたことは事実であり、それが無視して済ませられる問題でないことは理解できます。
    しかし、「最大の人権侵害」である戦争の事実を明らかにし、市民に啓発していくことは
   人権博物館の使命といえます。
    仮にその事実に対する評価を巡って抗議を受けることがあったとしても、真摯に対応
   していくことが貴博物館には求められているのです。
   今回、自主規制によって企画展が中止されたことが、日本の戦争責任を認めず過去
   の戦争を美化しようとする勢力にとって「成果」となり、今後に悪い影響を及ぼすことを
   懸念します。
    また、自衛隊の多国籍軍参加など戦前回帰を思わせる事態が進む中で、また一歩
   「物言えぬ時代」に近づくのではないかとの思いを禁じ得ません。
    私たちは教職員組合として、あらゆる戦争と差別に反対し、平和と人権を守るための
   教育と運動をおこなってきました。
    これまでたくさんの子どもたちや私たち自身が、貴博物館を訪れ、多くのことを学びま
   した。今後も私たちと貴博物館は、お互いにパートナーとして、手を携え同じ方向に進
   んで行くべきであると考えています。
    中止となった企画展は場所を変えて行われ、貴博物館が後援すると聞いておりますが、
   このような決着の付け方を是とするわけにはいきません。
    今後、大阪人権博物館が不当な圧力に屈せず、設立趣旨に基づいて人権思想の普及
   と啓発に邁進されるよう要望します。

 2004年8月14日の『朝日新聞』朝刊の「声」欄に、姫路市に住む藤原みどりさんの次のような投稿が掲載された。
    広島の小中学校で、原爆被害の実態などを学ぶ「平和学習」が衰退してきているという
   記事を読んだ。
         (中略)
    また、大阪人権博物館では、7月に予定していた旧日本軍の中国での侵略行為をテーマ
   にした企画展が取りやめになったという。
    先の記事には「平和教育が政治的な活動と受け止められている」との意見があった。
    だが、事実を知る機会を制限していることこそ「政治的」と言えるのではないだろうか。
    私自身の体験からも、子供たちから歴史の真実を学び、考える機会を奪わないでほしい
    と願う。

 国民国家日本の海南島侵略にかかわる歴史的事実を伝達しようとする企画展を中止することは、企画展開催準備をすすめてきた主体(この場合は、大阪人権博物館と紀州鉱山の真実を明らかにする会)が、その侵略の歴史を克服する道を歩むことを中止し、過去の侵略の歴史を現在において追認することを意味する。
 紀州鉱山の真実を明らかにする会は、大阪人権博物館にたいして、企画展を中止するのではなく、延期することとし、できるだけ早期に実現することを求めた。大阪人権博物館は、それを了承した。したがって、大阪人権博物館の『広報誌リバティ』26号に掲載された「企画展“日本は海南島で何をしたのか”の中止について」は、「……の延期について」と訂正されなければならない。

 大阪人権博物館が企画展を延期してから数か月後、韓国では、特別展『海南島で日本は何をしたのか 侵略・虐殺・掠奪・性奴隷化』(主催:民族問題研究所、独立紀念館。後援:紀州鉱山の真実を明らかにする会)が、10月1日から10日まで、ソウルの西大門刑務所歴史館で開かれ、続いて10月15日から11月20日まで、独立紀念館で開かれた(注4)。
 韓国での展示はもちろん朝鮮語でおこなわれたが、その展示解説および写真説明の日本語原稿は、つぎのとおりであった(この原稿の全文は、2006年10月7日~10日にこのブログに連載してあります)。これは、大阪人権博物館における企画展の原案として紀州鉱山の真実を明らかにする会が提案していた最終案とほとんど同じである。
 紀州鉱山の真実を明らかにする会は、大阪人権博物館にも、総論部の地図と最終部の「補、日本で、企画展『日本は海南島で何をしたか 侵略・虐殺・掠奪・性奴隷化』が中止された」を除いて、原稿に対応するすべての画像をパネル展示用に構成して提供していた。
     注4 三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・相度)の追悼碑を建立する会
       『会報』40号、2004年11月1日、13~14頁。紀州鉱山の真実を明らかにする会  
       編『海南島で日本は何をしたのか 虐殺・略奪・性奴隷化、抗日反日闘争』写真の会
       パトローネ、2005年5月、46頁。

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企画展『海南島で日本は何をしたのか』無期延期の経緯と社会的応答 1

2012年07月20日 | 大阪人権博物館

  紀州鉱山の真実を明らかにする会は、大阪人権博物館編刊『大阪人権博物館紀』第10号(2008年3月1日)に、「国民国家日本の海南島侵略犯罪史認識と伝達」を発表しました。
 その第二章「海南島で日本は何をしたのか」の前半で、紀州鉱山の真実を明らかにする会は企画展『海南島で日本は何をしたのか 侵略・虐殺・掠奪・性奴隷化』を大阪人権博物館が中止(→延期)した経緯とそれにたいする社会的反応を報告しました。
 以下に、その報告を、企画展『海南島で日本は何をしたのか』無期延期の経緯と社会的応答と題して2回にわけて掲載します。「国民国家日本の海南島侵略犯罪史認識と伝達」の全文は、このブログに2009年5月5日~5月12日にこのブログに連載してあります。

■企画展『海南島で日本は何をしたのか』無期延期の経緯と社会的応答
 大阪人権博物館は、2003年末に、翌2004年7月21日から8月15日まで企画展「日本は海南島で何をしたのか」を開催すると広報しはじめ、『催し物のご案内(2004年4月~8月)』というリーフレットに、企画展「日本は海南島で何をしたのか」を2004年7月21日から8月15日まで大阪人権博物館のギャラリーで開催するという案内を掲載した。
 この企画展は、紀州鉱山の真実を明らかにする会が後援していた。この企画展は、1998年6月から約6年間の紀州鉱山の真実を明らかにする会の海南島での「現地調査」を基礎にしたものであった。
 だが、開会50日まえの5月30日に、大阪人権博物館は、突然、紀州鉱山の真実を明らかにする会に、企画展を中止すると通告してきた。
 それは、一方的な通告であって、そのとき大阪人権博物館は、①予定通り開催する道を紀州鉱山の真実を明らかにする会とともに検討することも、②中止することの社会的意味を紀州鉱山の真実を明らかにする会とともに解明しようとすることもしようとしなかった。
 中止通告を受けた紀州鉱山の真実を明らかにする会は、即座に、大阪人権博物館にたいして、①中止する理由が正当なものだと理解することも了承することもできない、②予定通り開会するためにはどうしたらいいのかを紀州鉱山の真実を明らかにする会とともに検討してほしい、と告げた。

 それまで、紀州鉱山の真実を明らかにする会は、大阪人権博物館と、2002年11月から11回、企画展(あるいは特別展)『海南島で日本は何をしたのか 侵略・虐殺・掠奪・性奴隷化』を大阪人権博物館で開くために、その展示内容について綿密な打ち合わせ会議をおこない、準備を進めていた。
 企画展開催のため大阪人権博物館との協議をはじめてから、それが突然無期限に延期されるまでの2002年11月から2004年5月までの間、紀州鉱山の真実を明らかにする会は、2003年3月~4月と2003年7月~8月の2回、海南島に行き、回新村、「朝鮮村」、大坡村、昌文村、白石嶺村、排田村、老王村、托盤坑村、石馬村、秀田村、書田村、大溝村、天尾村、九所村、呉村、東坡村、和合村、互村、向陽村、南林、田独、石録、黄流など海南島の40か所あまりの地域で、100人を越す方がたから日本侵略期のことにかんして話を聞かせていただいた(注1)。また、2003年10月~11月には、韓国で、「朝鮮報国隊」に入れられ海南島に送られながらも生還できた方から話を聞かせていただいた。
 とくに、この期間の海南島と韓国での聞きとりは、大阪人権博物館で国民国家日本の海南島での侵略犯罪にかかわる諸事実を伝達することを前提としておこなっていた。
 あたりまえのことだが、証言者がいなければ証言を聞きとることはできない。証言者が証言を拒否すれば証言を聞きとることはできない。証言者と聞きとる者とのあいだに、信頼関係がなければ、証言者の記憶を詳細に聞かせてもらうことはできない。
 大阪人権博物館での展示延期は、その展示によって証言内容を伝達していくことを延期することであり、それは、証言者と紀州鉱山の真実を明らかにする会との信頼関係を損なうことであった。
 
 大阪人権博物館から、突然、延期通告を受けた紀州鉱山の真実を明らかにする会は、その半月後、2004年6月14日に、つぎのような内容の報告を発表した(注2)。
     大阪人権博物館で、7月21日~8月15日に開催する予定で準備を進めていた企画展
    示「海南島とアジア太平洋戦争――占領下で何がおこったか――」(大阪人権博物館主
    催・紀州鉱山の真実を明らかにする会後援)が、大阪人権博物館の事情で、延期される
    ことになりました。
     5月13日、大阪人権博物館から、当初の企画展名「海南島で日本はなにをしたの
    か――侵略・虐殺・略奪・性奴隷化――」が“刺激的だ”という理由で、変更することを
   提案されました。展示の内容は変えないというので、わたしたちは、企画展名を「海南島
   とアジア太平洋戦争――占領下でなにがおこったか――」と変更することに合意しました。
    しかし、さらに5月30日、大阪人権博物館から、現在の状況で、企画展「海南島とアジア
   太平洋戦争――占領下でなにがおこったか――」を開催すると、さらに右翼の攻撃が強
   まることが予想され、大阪人権博物館としては対処できないので、延期をしたいと通知さ
   れました。これは、大阪人権博物館側では、決議を経た決定でした。
    紀州鉱山の真実を明らかにする会は、2002年11月から、大阪人権博物館側と打ち合
   わせ会議をおこない、企画展の準備を進めてきましたが、主催の大阪人権博物館ができ
   ないという以上、やむをえません。
    「ヒノマル」「キミガヨ」が強制され、軍隊が海外に派兵され、排外主義が強まっているいま
   の日本でこそ、今回の企画展は、大切な意味を持つと考えたのですが、残念ながら、わた 
   したちの力が及ばず、こういう結果になりました。

 紀州鉱山の真実を明らかにする会がこのような報告をしてからほぼ10日後、この問題について、『朝日新聞』、『北海道新聞』、『東奥日報』、『河北新報』『東京新聞』などいくつかの新聞が報道した(注3)。
 『京都新聞』2004年6月27日朝刊は、「“侵略展”直前で中止」という見出しをつけて報道し、東京大空襲・戦災資料センター館長早乙女勝元氏のつぎのような発言を「歴史にふたをする行為」と題して掲載した。
    抗議などに真摯(しんし)に対応できるかどうかが博物館としての正念場だ。
    起きるかどうかわからないトラブルを想定して(企画展を)中止するなんて及び腰としか言
   いようがない。
    まさに歴史にふたをする行為。人権博物館と名乗るのなら、侵略された側の人々の人権
   も尊重すべきだ。

 大阪人権博物館は、2004年7月1日発行の『広報誌リバティ』26号に、「企画展“日本は海南島で何をしたのか”の中止について」を掲載した。その全文はつぎのとおりである。
    大阪人権博物館では、7月21日から8月15日まで企画展「日本は海南島で何をしたの
   か」の開催を「紀州鉱山の真実を明らかにする会」の後援により予定し、当館発行の「催し 
   物のご案内」などで広報していました。
    しかしながら、2005年の常設展示の全面リニューアルの実現とその準備などの諸事情
   により、本企画展の開催を中止することを判断しました。
    なお、当館は8月16日から常設展示リニューアルのための休館しますが、本企画展につ
   いては来年度以降の実現のため、開催形態を含めて検討しています。
    最後に、本企画展の中止についてお詫び申し上げますとともに、皆さまのご理解をいただきたいと存じます。

 ここで、大阪人権博物館は、中止理由を、「2005年の常設展示の全面リニューアルの実現とその準備などの諸事情」と説明しているが、「2005年の常設展示の全面リニューアル」が2005年5月になってから突然決定されたのではないのだから、「2005年の常設展示の全面リニューアルの実現とその準備」を、2005年5月の突然の中止理由(あるいは延期理由)とする説明を理解するのは難しい。
 この理由説明には「その準備」のあとに、「など」ということばがつけられている。「など」が、具体的にどのような「諸事情」であるかは、現在(2007年末)においても、大阪人権博物館は、社会的に公表していない。
 「2005年の常設展示の全面リニューアルの実現とその準備」という中止理由としては理解しがたい「事情」のほかに、具体的にどのような「諸事情」があったのかがはっきりと示さなければ、その「諸事情」を、大阪人権博物館が、社会的に克服していくことは難しいだろう。
    注1 紀州鉱山の真実を明らかにする会「海南島2003年春① 60年前の日本軍による
      虐殺は、きのうのこと」、『パトローネ』54号、写真の会パトローネ、2003年7月、紀州
      鉱山の真実を明らかにする会「海南島2003年春② 1939年2月以後、日本人は、 
      海南島でなにをやったか」、『パトローネ』55号、2003年10月。
    注2 単独のチラシや紀州鉱山の真実を明らかにする会編『海南島で日本は何をしたの
      か 虐殺・略奪・性奴隷化、抗日反日闘争』(写真の会パトローネ、2005年5月)など
      で公表。
    注3 共同通信社は、2004年06月26日 20時18分に、「トラブル恐れ戦争展中止」と題    
      する記事を配信した。そこには、次のように書かれていた。
           同和問題や在日外国人問題など人権に関する資料を収集、展示している大
         阪人権博物館(大阪市浪速区)が、7月に予定した旧日本軍の中国での侵略行
         為に関する企画展を「トラブルが起きた場合、対処できない」と事実上中止にし
         ていたことが26日、分かった。
          博物館などによると、企画展は中国海南島での旧日本軍の侵略行為などが
         テーマで、市民団体が後援。7月21日から8月15日まで開く予定だった。
          2002年11月から両者の間で内容について打ち合わせを重ねていたが、5月3
         30日になって博物館側が延期したいと申し出たという。
          博物館の担当者は「旧日本軍の侵略問題についてはいろいろな意見を持つ人
         がいて、展示内容に対する抗議や攻撃があるかもしれない。トラブル回避を優先
         した」と延期理由を説明。「8月から(同博物館は)改装で閉館するため、同会が
         別会場で開催する場合は協力したい」としている。

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「リバティの灯を消すな」について

2012年07月19日 | 大阪人権博物館


 「海南島」というコトバがあるキムチョンミさんの2月21日予定の報告が含まれている2009年春の「被差別民衆とアジア・太平洋戦争」というテーマの大阪人権博物館セミナーが中止になったのは、2004年7月21日~8月15日に大阪人権博物館で開催する予定だった企画展示「海南島とアジア太平洋戦争――占領下で何がおこったか――」(大阪人権博物館主催・紀州鉱山の真実を明らかにする会後援)を大阪人権博物館が突然「中止」しようとしたこと(紀州鉱山の真実を明らかにする会の批判によって「延期」にした)ことと無関係ではありませんでした。
 企画展のときには大阪人権博物館はすでに2004年春に予告を公表していました(このブログの2006年10月7日の「企画展『海南島で日本は何をしたのか』 1」をみてください)。
 セミナーの場合も案内チラシは、2008年12月には刷り上っていました。

 大阪人権博物館は、2004年夏の突然の中止(→延期)については、なんら公式に謝罪しませんでしたが、その5年後の2009年春の「中止・延期」については、 『広報誌リバティ』43号(2009年4月1日)に、秋定義和大阪人権博物館館長の「リバティセミナー中止・延期についてのお詫び」が掲載されました(同じ内容が大阪人権博物館HPに、2009年4月28日から短期間、「セミナーについて」欄に掲載)。
 その全文は、つぎのとおりでした。
       当館では今年の二月から三月にかけて、「総力戦体制と日雇労働者」(吉村智博)、「日本占領下の
     海南島でー1939年~1945年ー」(キムチョンミ)、「日中戦争下の在阪沖縄人」(仲間恵子)、「戦時期の部
     落問題と水平運動」(朝治武)をテーマとしたリバティセミナー「被差別民衆とアジア・太平洋戦争」の開
     催を予定していました。しかし海南島に関しては特別展もしくは企画展の開催を当館の理事会と展示企
     画委員会において延期を決定しているとの理由で、大阪市市民局人権室からリバティセミナー開催は承
     認されませんでしたので、今回のリバティセミナーは中止・延期することにしました。
      当館をめぐっては極めて困難な状況にありますが、今後も海南島については展示やセミナーなど博物
    館事業の企画を検討していきたいと考えています。そして理事会・展示企画委員会、関係機関において企
    画の開催が承認されますよう、引き続き努力していく所存です。講師を依頼していた海南島近現代史研究
    会のキムチョンミさん、およびリバティセミナー開催を期待されていた皆さまに対して、深くお詫び申し上げます。

 ここには、「当館をめぐっては極めて困難な状況にありますが、今後も海南島については展示やセミナーなど博物館事業の企画を検討していきたいと考えています」と書かれていますが、その後これまでの3年間、大阪人権博物館は「海南島については展示やセミナーなど博物館事業の企画」を具体的に準備しようとしてきませんでした。
                          
 大阪人権博物館セミナー(2009年春)中止にいたる経過と問題点ついては、キムチョンミさんが『海南島近現代史研究』第2号・第3号で報告していますが、そこには、つぎのように書かれています(このブログの2009年4月28日~5月2日の「 大阪人権博物館大阪人権博物館での報告「日本占領下の海南島で」中止問題」1~5、2011年2月16日~2月20日の「大阪人権博物館セミナー(2009年春)中止について」1~5をみてください)。
     2008年12月3日、セミナーの企画責任者である大阪人権博物館担当者から、電話があった。
     その内容は、おおよそつぎのとおりである、
           “大阪市市民局人権室が「海南島」ということばが入ったテーマでの話は、海南島にか
         んする企画展示の中止をめぐるこれまでの経緯から難色を示している、話す内容は海南島
         のことでいいので、タイトルを変えられないか。大阪市市民局人権室では、キム チョンミの所
         属を示した海南島近現代史研究会の「海南島」という名称にも、難色を示している。チラシ
         はすでに刷りあがっている”。

 2004年の場合も、大阪人権博物館の担当者は、企画展のタイトルの変更を5月13日に求めてきて、紀州鉱山の真実を明らかにする会がそれに応じると(「海南島で日本軍はなにをしたのか――侵略・虐殺・略奪・性奴隷化――」から「海南島とアジア太平洋戦争――占領下で何がおこったか――」に)、こんどはそのわずか17日ごの5月30日に企画展そのものの中止を大阪人権博物館として決議したと通告してきました。2009年のセミナーの場合もはじめは大阪人権博物館の担当者は海南島近現代史研究会のキムチョンミさんの「日本占領下の海南島で(1939年~1945年)」という「タイトル」の変更を提案してきました。
 そして、大阪人権博物館は、人権博物館の名にふさわしい姿勢をこのときも放棄し、セミナーは中止されました。
 そのことについて、大阪人権博物館は、つぎのように「釈明」していました(2009年4月28日付け「大人博第24号」)。
     当館は大阪府と大阪市から多額の運営費補助をうけています。そのため事業に関しては展示企画
    委員会や理事会で承認されていたとしても、特に大阪市の場合では事業の変更を伴う時は大阪市か
    ら承認されないと実施できない仕組みとなっています。このような状況のなかで変更を伴う事業を実施
    すると、大阪市からの運営費補助が削減もしくはストップする状況をつくり出し、当館の存立基盤を危う
    くする可能性があります。
 
  大阪市・大阪府の大阪人権博物館への「運営費補助」の「削減もしくはストップ」を阻止するためには、大阪人権博物館は、2004年の企画展の原題「海南島で日本軍はなにをしたのか――侵略・虐殺・略奪・性奴隷化――」を変更するような「コソク」な手段をとったり、原題を「海南島とアジア太平洋戦争――占領下で何がおこったか――」に変更した企画展を中止(→延期)すするような後退をすべきではなかったと思います。
 わたしは、2002年秋から企画展の準備を大阪人権博物館とともに進めてきた紀州鉱山の真実を明らかにする会の会員であるわたしは、企画展中止を告げた大阪人権博物館の担当者に、
     「この一歩後退は、1930年代の全国を含む日本民衆組織の一歩後退、二歩
   後退、三歩後退→侵略戦争への前面協力と同じ質のものだ。あとから後悔しても遅いよ」
と話しました。
 大阪人権博物館の人たちがそれ以後も後退し続け、「大阪市からの運営費補助が削減もしくはストップする状況をつくり出し、当館の存立基盤を危うくする可能性」を阻止するための真の努力を避けてきました。その、原因と結果についてこれから大阪人権博物館の人たちと共に考えていきたい思っています。
 あさって(7月21日)午後1時から大阪人権博物館のホールで「リバティの灯を消すな 市民の会(仮称)」の設立大会が開かれますが、三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・相度)の追悼碑を建立する会、紀州鉱山の真実を明らかにする会、海南島近現代史研究会が呼びかけ団体になり、会員が個人として呼びかけ人になりました。
                                                                                        佐藤正人

 

 

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大阪人権博物館セミナー(2009年春)中止について 5

2011年02月20日 | 大阪人権博物館
■海南島における日本の侵略犯罪を明らかにする朝鮮人として
 今回のことは、大阪人権博物館が、2004年夏の企画展示「海南島とアジア太平洋戦争――占領下で何がおこったか――」を、前年末から公示していながら、開会直前に、「中止」したことに端を発している。2004年夏の企画展示は、関係諸機関で承認され予算案も通過していた。

 侵略戦争において、侵略国とその国民は、無制限に、根底的な人権侵害、人権破壊をおこなう。
 「人権」を冠した日本の博物館が、広範囲にわたって無制限に、根底的な人権侵害、人権破壊をおこなった日本の侵略戦争の実相を伝える企画展を、無期限に中止してしまった。
 2009年春に予定されていたセミナーにおいて、キム チョンミは、担当者から報告タイトルと所属の変更を提案された。
 大阪市市民局人権室が「海南島」ということばそのものに難色を示しているから、という理由だった。
 わたしは、日本に生まれ、日本で育った在日朝鮮人である。自分の歴史的位置を知ろうとして、歴史研究をおこない、その過程で海南島における日本の侵略犯罪調査・研究をすすめている。
 そのわたしの「日本占領下の海南島で」と題する報告の表題から「海南島」ということばの削除を提案されたことは、わたしには、わたしから、「朝鮮」ということばの削除を求められたのと同じ意味をもつ。
 山本柚は「戦争の〈不都合な記憶〉をどう伝えるか・上 変えられる展示・消される記憶」(『世界』2010年7月、岩波書店)で、20世紀末以来のピースおおさか、2004年の大阪人権博物館、2006年の埼玉県平和資料館、堺市立平和と人権資料館などでが日本の侵略と加害にかんする展示を「自主規制」する経過と原因を追及している。
 アイヌモシリ・琉球王国侵略いらい他地域・他国侵略をつづけてきている日本において資料館や博物館が、日本の加害の歴史を隠蔽・歪曲することは、日本が侵略した諸地域の民衆にたいする新たな加害行為である。
 今回のセミナー中止の問題は、大阪人権博物館だけの問題ではなく、日本の社会・文化状況の反映であり、大阪人権博物館だけで解決できることではないだろう。
 しかし、侵略犯罪という最大の人権侵害の展示・セミナーを実現できなくなっている原因を大阪人権博物館が主体的に解明し、その解決の努力を積極的に持続的に進めないかぎり状況は変わらない。2009年4月に大阪人権博物館は、「企画の開催が承認されますよう、引き続き努力していく所存です」と広報したが、それからの2年間、残念ながら、大阪人権博物館の努力は、わたしたちには、あまり伝わってきていない。
                                  キム チョンミ

■資料 「リバティセミナー中止・延期についてのお詫び」
          『広報誌リバティ』43号(2009年4月1日)
 当館では今年の二月から三月にかけて、「総力戦体制と日雇労働者」(吉村智博)、「日本占領下の海南島でー1939年~1945年ー」(キムチョンミ)、「日中戦争下の在阪沖縄人」(仲間恵子)、「戦時期の問題と水平運動」(朝治武)をテーマとしたリバティセミナー「被差別民衆とアジア・太平洋戦争」の開催を予定していました。しかし海南島に関しては特別展もしくは企画展の開催を当館の理事会と展示企画委員会において延期を決定しているとの理由で、大阪市市民局人権室からリバティセミナー開催は承認されませんでしたので、今回のリバティセミナーは中止・延期することにしました。
 当館をめぐっては極めて困難な状況にありますが、今後も海南島については展示やセミナーなど博物館事業の企画を検討していきたいと考えています。そして理事会・展示企画委員会、関係機関において企画の開催が承認されますよう、引き続き努力していく所存です。講師を依頼していた海南島近現代史研究会のキムチョンミさん、およびリバティセミナー開催を期待されていた皆さまに対して、深くお詫び申し上げます。
                          大阪人権博物館 館長秋定嘉和
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大阪人権博物館セミナー(2009年春)中止について 4

2011年02月19日 | 大阪人権博物館
■2回目の「質問および要請」と「再質問書」(2009年4月13日付け)
 海南島近現代史研究会は、再度、4月13日付けで、秋定嘉和大阪人権博物館館長あて「質問および要請」、大阪市市民局人権室あて「再質問書」を送った。
 大阪人権博物館あて「質問および要請」で、わたしたちは、
① リバティセミナー「被差別民衆とアジア・太平洋戦争」が、大阪人権博物館展示・企画委員会と、理事会において、了解されていなかったのか、
② 大阪市市民局人権室が今回のセミナーを、2007年度に予定されていた「海南島に関する企画展」の大阪人権博物館展示・企画委員会と同理事会における延期決定に関連づけたことを、大阪人権博物館が受け入れた理由はなぜか、
など3項目と、2006年秋のふたつの会における「海南島に関する企画展」延期決定にかかわるすべての資料の提示を要請した。
 大阪市市民局人権室には、「再質問書」で、2点について質問した。
    「海南島に関する企画展」とは直接的に関係ない今回のセミナーが、2007年度に
   予定されていた「海南島に関する企画展」の大阪人権博物館展示・企画委員会と同
   理事会における延期決定に拘束されなければならない理由はなんですか?」。
    「海南島に関する企画展」について、大阪人権博物館展示・企画委員会の2006年
   9月決定と、同理事会の83回決定の「延期」がとりけされれば、「大阪人権博物館運
   営費補助金変更承認申請書」は「適正」と認められるのですか?」。

■2回目の「質問および要請」と「再質問書」への回答
 大阪人権博物館から、4月28日付けで、回答がきた(大人博第24号)。
 そこには、
    「大阪市市民局人権室からの口頭の説明では海南島を含むリバティセミナーは公
   開でおこなわれるため、公開をともなう企画展と同じ博物館事業であるとの見解が
   示されました。それによって「大阪人権博物館運営費補助金変更承認申請書」の手
   続きでは「不受理」となったということです。
     また3月12日付けの「貴研究会の「要請書」に対する回答」で述べた通り、当館
   は大阪府と大阪市から多額の運営費補助をうけています。そのため事業に関して
   は展示企画委員会や理事会で承認されていたとしても、特に大阪市の場合では事
   業の変更を伴う時は大阪市から承認されないと実施できない仕組みとなっていま
   す。このような状況のなかで変更を伴う事業を実施すると、大阪市からの運営費
   補助が削減もしくはストップする状況をつくり出し、当館の存立基盤を危うくす
   る可能性があります」。
と書かれてあった。
 その後、大阪人権博物館は、『広報誌リバティ』43号(2009年4月1日)に館長秋定嘉和名で「リバティセミナー中止・延期についてのお詫び」を掲載し(資料)、同じ内容を、大阪人権博物館HPトップページに、2009年4月28日から、「セミナーについて」欄で掲載した(その後消去。現在は掲載されていない)。

 大阪市市民局人権室からは、海南島近現代史研究会の催促にもかかわらず、2年近く経過したいまも、まだ回答が来ていない。
                                  キム チョンミ
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大阪人権博物館セミナー(2009年春)中止について 3

2011年02月18日 | 大阪人権博物館
■1回目の「要請書」と「質問書」(2009年2月28日付け)
 海南島近現代史研究会は、2009年2月28日付けで、秋定嘉和大阪人権博物館館長あて「要請書」と、大阪市市民局人権室室長あて「質問書」を出した。回答期限は、3月15日とした。
 秋定嘉和大阪人権博物館館長あて「要請書」では、4項目を要請した。
1、大阪市市民局人権室にたいし、「適正とは認められない」という「目的、内容等」を具体的に文書で示してもらってください。そして、その文書回答を、海南島近現代史研究会に提示してください。
2、大阪市市民局人権室にたいし、「適正とは認められない」理由を文書で詳細に具体的に示してもらってください。そして、その文書回答を、海南島近現代史研究会に提示してください。
3、大阪人権博物館が、案内チラシを印刷したにもかかわらず、独自にリバティセミナーを開けない理由を説明してください。
4、リバティセミナー「被差別民衆とアジア・太平洋戦争」を中止した事実と経過を、大阪人権博物館のホームページなどで、公表してください。

 大阪市市民局人権室室長あて「質問書」では、2項目について質問した。
1、「適正とは認められない」という「補助事業の目的、内容等」を具体的に示してください。
2、「適正とは認められない」理由を具体的に詳細に説明してください。

■1回目の「要請書」と「質問書」にたいする回答
 回答は、大阪人権博物館からは3月14日付け(「人博第148号」)で、大阪市市民局人権室からは3月13日付けで相談担当課長渡邊誠名で、送られてきた。
 大阪人権博物館からの回答は、「リバティセミナー「被差別民衆とアジア・太平洋戦争」が中止となり……深くお詫び申し上げます」ではじまり、手続上「当館に不備があったことは否めません」につづき、
    「それは当初から詳細に企画を練り、内容と講師を明確にすべきだったといえま
   す。そのうえで展示企画委員会と理事会において議論に付し、承認を受ける必要が
   あったといえます。このような努力を怠ったため補助事業等変更承認申請の提出と
   なってしまい、結果的には不受理となってしまったのです」
というものであった。

 大阪市市民局人権室からの回答(原文の「元号」削除)では、「2006年9月に開催された財団法人大阪人権博物館展示・企画委員会と、同年11月に開催された同財団第83回理事会において、2007年度に予定されていた海南島に関する企画展を延期する旨の決定がなされ」たが、この「決定」が変更されていないため、「適正とは認められないと判断したところです」とされていた。

 2006年秋、9月の財団法人大阪人権博物館展示・企画委員会と11月の第83回理事会で検討された2007年度の海南島企画展案は、大阪人権博物館の学芸員が、それまでのわたしたちとの会議で積み上げていた内容を、企画展タイトルをふくめ、わたしたちの了解なしにおおきく変更して作成したものであった。
 その企画展案をもとに相談された大阪人権博物館のふたつの会で、2007年度の海南島企画展案が「不指示」とされ延期された。
 わたしたちは、その後、2006年12月に大阪人権博物館の担当者と会い、2007年度の海南島企画展案の内容に、海南島近現代史研究会はいっさい責任がないということを、大阪人権博物館展示・企画委員会と理事会に告知してもらいたいと要請し、了承された。その後、企画案担当学芸員名で、その経過を記した文書が展示・企画委員と理事に郵送された。

 大阪市市民局人権室からの回答は、このときの海南島企画展案が「不指示」とされた決定が変更されていないので、2009年春のセミナーが「適正とは認められない」という説明である。

 2009年春に予定されていたセミナーは、テーマが「被差別民衆とアジア・太平洋戦争」で、海南島を中心にしたものではなかったが、セミナーのひとつに海南島にかんする内容がはいっているということで、セミナー全体が中止とされてしまったのである。
                                   キム チョンミ
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大阪人権博物館セミナー(2009年春)中止について 2

2011年02月17日 | 大阪人権博物館
■セミナー中止にいたるまで
 2008年12月3日、セミナーの企画責任者である大阪人権博物館担当者から、電話があった。その内容は、おおよそつぎのとおりである、
    “大阪市市民局人権室が「海南島」ということばが入ったテーマでの話は、海南島
   にかんする企画展示の中止をめぐるこれまでの経緯から難色を示している、話す
   内容は海南島のことでいいので、タイトルを変えられないか。大阪市市民局人権室
   では、キム チョンミの所属を示した海南島近現代史研究会の「海南島」という名称
   にも、難色を示している。チラシはすでに刷りあがっている”。

 その後、数度にわたり、電話で担当者と話し合った。
 その電話でわたしが伝えた内容は、おおよそ、つぎのようなものであった。
    “セミナー報告のタイトルも所属も変える必要はないと考える、予算の問題である
   なら、わたしひとりである外部からの講師の講師料・交通費は必要ない。
    海南島をほかの表現に変えるということは、海南島の人たちのことを考えるとでき
   るはずのないことである。
    また、わたしたちの活動の根底を否定するものであり、わたし個人の研究の基本
   理念を変質させるものである。
    このままのタイトルでおこなうと、大阪人権博物館が大阪市市民局人権室に伝え
   るべきで、そして大阪市市民局人権室がだめだというなら、その理由を文書で示し
   てもらうべきである。
    大阪人権博物館が大阪市市民局人権室の提案を予算獲得のために受け入れる
   のなら、セミナー主催者の大阪人権博物館からわたしに、文書でタイトル変更依頼
   書を送ってもらいたい。わたしはタイトルも所属も変更しないので、その旨文書で
   返答する。
    それでも大阪人権博物館が大阪市市民人権室の了解なしにセミナーを開催でき
   ないというなら、大阪人権博物館は、大阪市市民局人権室に、その理由を文書で
   だすように要請してもらいたい。その経過をわたしに文書で通知してもらいたい”。

 2009年1月5日、大阪市市民局人権室から大阪人権博物館あてに文書が送られてきた。そこには、「補助事業の目的、内容等が適正とは認められないので」、「不受理」と書かれていた。
                                  キム チョンミ
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大阪人権博物館セミナー(2009年春)中止について 1

2011年02月16日 | 大阪人権博物館
 2009年春、「被差別民衆とアジア・太平洋戦争」というテーマのもと、全4回でおこなわれる予定であった大阪人権博物館セミナーが中止になった。
 このセミナーの趣旨は、案内チラシに、
   「アジア・太平洋戦争が終結してから64年が経過しましたが、その意味は現在も問
  われ続けています。このセミナーでは、被差別民衆に焦点を当てながらアジア・太平
  洋戦争の歴史的意義を考えます」
と書かれてあった。報告者は、キム チョンミ以外の3人は、大阪人権博物館学芸員である。
  2月14日:「総力戦体制と日雇労働者」(大阪人権博物館学芸員)
  2月21日:「日本占領下の海南島で(1939年~1945年)」(キム チョンミ)
  2月28日:「日中戦争期の在阪沖縄人」(大阪人権博物館学芸員)
  3月7日:「戦時期の問題と水平運動」(大阪人権博物館学芸員)

 2004年7月21日~8月15日に大阪人権博物館で開催する予定だった企画展示「海南島とアジア太平洋戦争――占領下で何がおこったか――」(大阪人権博物館主催・紀州鉱山の真実を明らかにする会後援)が突然「中止」されてから2年あまり過ぎた2006年秋、再度の海南島にかんする企画展示案が大阪人権博物館の「有識者会議」で不支持とされて2007年中に企画展示を開催することもむずかしくなった。
 そのため、海南島にかんする企画展示を開催する展望を開くために大阪人権博物館が蓄積していく作業のひとつとして、『大阪人権博物館紀要』への原稿依頼が紀州鉱山の真実を明らかにする会になされ、紀州鉱山の真実を明らかにする会の「国民国家日本の海南島侵略犯罪史認識と伝達」が同誌第10号(2008年3月1日刊)に掲載された(2009年5月3日~5月12日に、このブログに連載しました)。
 それにつづいて、大阪人権博物館は、この2009年春のセミナーでの報告をキム チョンミに依頼してきたのであった。
                                  キム チョンミ
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国民国家日本の海南島侵略犯罪史認識と伝達 10

2009年05月12日 | 大阪人権博物館
おわりに 世界近現代史・海南島近現代史

 本稿は、博物館の役割を、とくに海南島における国民国家日本の侵略犯罪と海南島における抗日反日戦争という歴史的事実の伝達にかかわって解析しようとするものであったが、最後に、博物館における展示の意味について考えたい。
 博物館展示もまたひとつの表現なのであって、展示主体が、主題にかかわるさまざまなモノや文書などを選択し、選びとったモノや文書の相互関係を明確にして展示して、観衆に事実を伝達しようとする行為である。
 したがって、博物館展示には、展示主体の社会的ありかたが、いやおうなしに示される。
 海南島近現代史にかんする展示の場合にもまた、すべての歴史にかんする展示と同様に、展示主体の歴史意識と歴史観が示される。
 あらゆる地域の歴史、あらゆる個人の歴史には、その時代の世界史が反映している。海南島近現代史にもまた、世界近現代史が反映している。世界史は地域史・個人史を内包し、地域史・個人史は世界史を内包している。
 したがって、海南島近現代史にかかわる展示をおこなうことは、世界近現代史を展示することを意味する。
 世界近現代史認識なしには、いかなる地域の展示も十分にはできない。
 海南島近現代史に内包されている世界近現代史を認識しようとすることなしには、海南島近現代史を認識することはできない。
 海南島近現代史にかんする博物館展示のためには、海南島近現代史のなかの世界近現代史認識、世界近現代史のなかの海南島近現代史認識が不可欠である。
 もちろん、海南島近現代史も世界近現代史も、その総体を展示することは不可能である。
 展示できるのは、その断片である。しかし、その断片を展示するときに、展示主体の海南島近現代史認識・世界近現代史認識の過程を示すことは可能である。
 近現代史にかかわる展示をおこなうことは、展示主体の歴史認識過程とその過渡的結果を展示という形式で報告することである。
 そのような報告は、博物館展示だけではなく、書物、ドキュメンタリーなどという形式でもおこなうことができるが、博物館展示においては、文字、映像、モノなどを複合し、相互に関係づけておこなうことができる。
 歴史的事実にかんする博物館展示は、展示主体が認識した歴史事実を伝達する基本的方法である。海南島近現代史認識作業は、現場で、証言を聞き、それを記録し、複数の証言と文書記録から、国民国家日本の侵略犯罪を解明していく作業の積みかさねである。
 海南島近現代史にかかわって何を展示するのか。何を展示しないのかは、展示主体の思想に規定される。
 しかし、展示(事実の伝達)をおこなわないというのであれば、その主題にかかわって、博物館の役割は根本のところで空無となる。
 大阪人権博物館は、「人権問題に関する調査研究をおこなうとともに、関係資料や文化財を収集・保存し、あわせてこれらを展示・公開することにより、人権思想の普及と人間性豊かな文化の発展に貢献する」ことを設立目的としている。
 海南島近現代史にかんする展示の延期状態の持続は、「人権に関する総合博物館」としての大阪人権博物館の存在理由にかかわる重大な問題であろう。
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