三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

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崔永洙さんと徐鳳順さん

2010年10月02日 | 海南島からの朝鮮人帰還
 きょう(2010年10月2日)午前、韓国大田市中区で、崔永洙さんに会いました。
 崔永洙さん(1924年2月5日生)は、“鎮海の日本海軍警備府の第1期特別志願兵となり、半年間の「訓練」のあと、鎮海から日本の下関と台湾のキールンを経由して南方にむかった。台湾とフィリピンの間のバーシ海峡で船が沈没した。魚雷を受けたのだと思う。1943年3月15日午前3時15分だった。突然大きな爆発音がして船が大きく揺れた。
 船には3500人ほどが乗っていたが、1050人ほどが死んだ。朝鮮人兵士は350人ほど乗っていたが215人が生き残った。フィリピン北方の島に上陸し、それからベトナムのサイゴンに行った。サイゴンから海南島の海口に行った。部隊名をはっきり覚えていないが、第15警備隊ではなかったかと思う。海口からトラックで1時間ほどのところにあった守備隊に入った。 「討伐」をやった。自分は殺さなかったが、村に入って、日本軍に抵抗する者を何人か殺した。自分は、伍長になった。部下は日本兵をふくめて7人いた。武器は小銃だけで、機関銃はなかった”と話しました。
                   
 きょう午後、韓国京畿道平沢市で、徐鳳順さんの息子の徐경석さんと孫の徐湘弼さんに話を聞かせてもらいました。
 徐鳳順さん(1912年1月6日生)の除籍簿には、徐鳳順さんは、1945年2月23日に「海南島三亜朝鮮報国隊」で死亡したと書かれているそうです。
 徐경석さんが9歳のときに徐鳳順さんは逮捕され、公州の刑務所にいれられ、その後、行方がわからなくなっていたそうです。
 朝鮮が解放される前、突然、徐鳳順さんの「死亡診断書」が郵送されてきたそうです。
 その複写を見せてもらいました。
 そこには、
   「死亡原因   病死
    病名     マラリア兼下痢
    発病年月日  1945年2月5日
    死亡年月日時 1945年2月13日午後11時30分
    死亡場所   海南島三亜朝鮮報国隊々員病舎
       右之通及診断候也
       1945年2月13日
          朝鮮総督府刑務医官
            医師 大沼 質 」
と書かれてありました(原文は「元号」使用)。
                              佐藤正人
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