三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

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海南島の朝鮮人兵士 7

2010年10月12日 | 海南島からの朝鮮人帰還
 金元植さんは、広東瓊山地方法院検察処に押送され、看守所に勾留されていましたが、1946年2月19日に脱走しました。しかし、再び逮捕され、3月16日に広東瓊山地方法院で公審されました。
 この公審には、日本官兵善後連絡部長伍賀啓次郎(日本敗戦時まで、日本海軍海南警備府司令長官)、矢柴信雄、国井俊明ら数百人が傍聴したようです(1946年3月17日付「瓊山居民団日報」、防衛研究所図書館蔵『海南海軍警備府引渡目録』)。
 金元植さんは、3月19日に刑事判決を受けました。
 判決文には、
    「公訴人 本院検察官
     被告 金元植男三十歳朝鮮人韓国人民聯合會會長
     主文 金元植殺人一罪處有期徒刑十二年剥奪公権十年脱逃一罪處有期徒刑
       六月執行有期徒刑十二年剥奪公権十年」
と書かれてあります。

 いまから1週間前の10月5日に、ソウルで金永振さんと李西根さんに話を聞かせてもらっているとき、金元植さんを知らないかと尋ねました。すると、李西根さんは、ふたりと同じく日本海軍鎮海警備府の第1期特別志願兵となったあと海南島に行ったAさんなら知っているだろうと言って、さっそくその場でAさんに電話してくれました。
 電話で、Aさんは、李西根さんに、“自分は海南島で第15警備隊にいた。金元植に会ったことがある”と言ったそうです。
 わたしたちは、Aさんに、詳しく話を聞かせてほしいと頼みましたが、Aさんは、“いまは会いたくない。名前も明らかにしたくない”と言いました。
 防衛研究所図書館にある文書に、“1945年10月18日午前11時頃第15警備隊朝鮮籍兵19名ハ朝鮮人民連合会長金元植ニ誘引サレ同隊ヲ離脱……”と書かれていますが、Aさんは、この19人の1人であったかもしれません。
                                     佐藤正人
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