三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

「北海事件」 3

2012年04月29日 | 海南島史研究

 陸軍省密大日記の1936年第四冊に含まれている1936年9月17日付けで荻洲立平台湾軍参謀長が、梅津美治郎陸軍次官にだした「北海事件ニ関連スル軍ノ行動ニ関スル件」(臺参密第一六九號)には、つぎのように書かれていました。
                       佐藤正人

 北海事件交渉ノ推移如何ニ依リテハ軍ハ臨時派兵ヲ命セラルルコトアルヘキヲ予期シ万般ノ派兵準備ニ遺憾ナキヲ期スルト共ニ対支交渉ヲ有利ニ進展セシムル為台湾ノ特殊事情ヲ利用スル宣伝ニ依リ軍ノ決意ヲ対岸ニ反映セシムル工作ヲ実施シアリ其概況左ノ如シ
 一、九月十五日以来隷下部隊ニ命シ臨時派兵ノ場合ヲ顧慮シ諸研究ヲ為サシムルト共ニ所要ノ部隊ニ対シ応急派兵ノ訓練ヲ実施セシメツツアリ
 二、同日新聞通信記者ヲ軍司令部ニ招致シ参謀長談ノ形式ヲ以テ別紙要旨ノ声明書ヲ発表セリ
 三、同日台湾総督府ニ対シ当分ノ内台湾軍ノ行動ニ関スル事項ニ関シテハ軍司令部発表以外之ヲ新聞紙ニ掲載セシメサル様管下新聞通信社ニ示達セシム
 四、台北放送局ニ対シテモ亦前同断
 五、軍ノ派兵準備ヲ推測セシムル為製油会社、海運会社等ニ対シ夫々適当ノ措置ヲ講シ又憲兵隊ト協議シ軍司令部及全島重要都市ニ対シ非常警戒ノ配置ヲ取ラシメアリ
 六、以上各項ハ現地ノ実情ニ照シ軍ハ勉メテ其行動ヲ秘匿シツツ諸準備ヲ整ヘアルノ感ヲ抱カシムルコトヲ企図セルモノナルカ十五日夜既ニ相当ノ反響ヲ見、十六日ニ至リ各種ノ流言ト共ニ軍ノ決意竝派兵準備ハ概ネ之ヲ推測セシムルニ至レリ而シテ此情勢カ対岸ニ反映シアルヤニ関シテハ目下調査中ナリ
 七、尚本島在住内台人ニ対シ此好機ニ於テ国防思想ノ涵養ニ勉ムル如ク指導シツツアリ

別紙
 九月十五日台湾軍参謀長談ノ要旨
 中山、萱生事件ノ未ダ解決セザルニ成都事件アリ、今回更ニ北海事件ヲ惹起ス、日支国交調整ノ為メ誠ニ遺憾ニ堪ヘズ、殊ニ本北海事件ノ調査ニ方リ支那側ガ日本側ノ調査ニ対シ辞ヲ左右ニシテ同意ヲ与ヘザルガ如キハ明カニ誠意ノ缺如セルモノト認ム、而シテ此ノ種事件ノ背後ニハ国民党ノ魔手ノ動キアルハ明瞭ニシテ南京政府ハ事ノ起ル毎ニ一地方ノ出来事トシテ葬リ去ラントスルヲ例トス、誠ニ遺憾ニ堪ヘザル所ナリ、我等台湾軍ハ北海事件ニ関シ南方第一線ニアル以上大ナル関心ヲ以テ其ノ推移ヲ注視シアリ支那側ガ一日モ速カニ伝統ノ迷夢ヨリ醒メ之ヲ契機トシテ一転換アランコトヲ希望シテ巳マズ

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「北海事件」 2

2012年04月28日 | 海南島史研究

 1936年9月15日に、日本海軍軍令部は、「北海事件処理方針」をだした。そこには、「北海方面ニオケル兵力行使終了セバ、所要ノ兵力ヲ海口方面ニ駐メ、爾余ノ兵力ハ所要ノ方面ニ集結ス」、「情況ニヨリ海南島モシクハ青島ノ保障占領ヲ行ナウ」と書かれてあった。このときの、軍令部総長は、伏見宮博恭王(1875年~1946年)であった。
 「北海事件」のあと、中華民国政府の張群外交部長(1889年~1990年)と日本政府の川越茂駐華大使(1881年~1969年)の間で、9月15日に南京で1回目の会談がおこなわれ、16日に2回目の会談がおこなわれた。
 このとき、川越茂大使は、日本海軍軍令部の「情況ニヨリ海南島モシクハ青島ノ保障占領ヲ行ナウ」という方針を、日本政府の方針として張群外交部長に伝えたようである。
 のちに、張群は、つぎのように述べている。
    「翌16日、第2次会談が行われた。このとき川越は、北海事件の調査という口実で「日
   本海軍は海南島と青島を保障占領することを考慮している」と、脅迫がましい口調で言っ
   たものである。北海事件は広東省欽州で起きた事件であり、海南島や青島とは見当違い
   も甚だしい。日本の大使ともあろうものが、このような言いがかりをつけて脅迫するという
   のは、まさに、横暴、無理難題であって、まことに憤慨に耐えないものといわなくてはなら
   ない」(張群『日華・風雲の七十年』サンケイ出版、1980年8月、66~67頁)。
                                                  佐藤正人

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「北海事件」 1

2012年04月27日 | 海南島史研究

 1936年9月11日に日本海軍砲艦「嵯峨」が海南島の海口に侵入した。
 続いて、9月13日に日本海軍第13駆逐隊の二等駆逐艦「若竹」が、9月15日に日本海軍軽巡洋艦「球磨」と日本海軍第16駆逐隊の「朝顔」、「芙蓉」、「刈萱」が、9月16日に日本海軍軽巡洋艦「夕張」が、9月17日に日本海軍第4駆逐隊の駆逐艦「太刀風」が海口に侵入した。
 1936年9月16日の『大阪毎日新聞』には、つぎのような記事が掲載されていた。
    「(上海15日発同盟)在上海のわが大使館附海軍武官室は15日、左の発表をなした。
     (海軍武官室発表)わが海軍の有力なる南遣部隊は本日(15日)、海南島に集結を
    完了せり。
     (上海本社特電15日発)北海事件に関し支那側は中央も広東当局も現在に至るまで
    なんら誠意を示さず、地方的小問題として糊塗し去らんとしているので、日本側、殊に
    支那沿岸警備の任にある海軍当局はもはや一刻も躊躇逡巡すべきにあらずとして、南
    方派遣部隊を海南島附近に集中し支那側の態度を厳重監視することとなり、一方南京
    にある川越大使よりは国民政府に対し十九路軍の即時北海撤退を要求することとなっ
    た」。
 「北海事件」についてについては、このブログの2011年1月18日の「「海南島的台湾兵」 2」を参照してください。
                                                  佐藤正人

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「日本嶺」を中心とした仁興郷の日本軍占領時代

2012年04月26日 | 海南島史研究

 以下は、海南島近現代史研究会の会員、王楊(Wang Yang)さんの報告です。
 王楊さんの故郷は北京で、5年前から、海南島で暮らしています。
 この報告は、王楊さんが日本語で書いたものです。
 王楊さんは、このブログの2010年11月14日の「「サルモン岬」 9」に、コメントを寄せています。http://blog.goo.ne.jp/kisyuhankukhainan/e/995e583fe80a95629b48c867b55ee1cb

■「日本嶺」を中心とした仁興郷の日本軍占領時代■
                          王 楊

 4月の清明節の休みが終わった日。佐藤正人さんと澄邁県中部の仁興鎮に行った。海口市内からバスで約1時間で金江に着き、乗り換えて、仁興鎮に出発した。南渡江と平行している県道を通って約1時間で仁興鎮の中心部に着いた。
 近くの茶店に入って、年寄りに、日本占領時代のことをたずねた。
 2キロほど離れたところに高い丘があって、その丘は「日本嶺」と呼ばれており、日本軍占領時代に望楼があったということだった。茶店で出会った隣村から来たという老人によると、「日本嶺」には1個中隊が駐屯していたという。
 早速、茶店の主人に三輪車で案内してもらうことにした。
 「日本嶺」の麓に行き、三輪車を降り、細い道に沿って森の中に入った。道の入口はゴミ集積所になっており、歩けないほどだったが、細い道の左手に平地があり、ゴムの樹が植えられていた。案内してくれた茶店の主人によると、日本占領時代には、ここに市場があったという。しかし、長年人が通っていなかったらしく、潅木が多くて山頂までは行けなかった。

■「日本嶺」
 現在の海南島電子地図では、仁興鎮の中心から約2キロに離れたところ、県道のそばに「日本嶺」という地名が明記されている。
 「日本嶺」は日本占領時代に地元の村人がつけた地名のようである。
 「日本嶺」には望楼は建てられなかったが、軍用物質の運搬と人員の移動のため、自動車道路が丘の頂上までつくられていたという。道路の建設は、現地の農民がやらされた。
 この道路でトラックが野戦砲などの重武器、生活備品などを運んだ。野戦砲は、抵抗武装勢力を撃退するために1台設置されていたという。
 「日本嶺」は仁興鎮を中心にして周囲数10キロの治安維持と抵抗勢力の撲滅の基地の役割をしていた。なお資源略奪のため、派遣された研究者の分析室も設けられていたという。
 「日本嶺」には、水が無く、日本軍は、毎日村人に麓の井戸から頂上まで運ばせていた。日本軍は風呂の水もこの井戸水を使った。「日本嶺」の周辺は温泉が豊富で、日本軍人がトラックで30キロに離れた温泉に出かけたことも度々だった。日本兵は、市場にも度々出あけて買い物をしたが、その場合軍票を使った。

■治安維持会
 「日本嶺」には草葺の建物が8戸あった、隣に治安維持会の事務所があった。治安維持会が日本軍に管理され、緊密の関係をもっていたことが裏付けられる。
 治安維持会の管轄範囲は、仁興鎮とその周辺の村だった。役割は主に治安維持、労働力動員、抵抗者討伐協力などだった。
 治安維持会長だった王氏が、日本軍に協力者で、道路建設、労働者応募、討伐協力など様々なことを協力した。
 日本が敗けた後、王氏は、瓊州海峡の対岸の徐聞鎮に身を隠し30年間暮らした。
 1966年に文化大革命が始まり、1973年に王氏は戸籍調査で紅衛兵に発見され、仁興鎮に送還された。人民裁判で裁かれ、「日本嶺」で銃殺され、村民に石を投げつけられ、悲惨な人生を閉じた。

■言語問題
 現地の言葉は標準語とかなり違っていたので、日本軍は、金江鎮から日本語と現地語ができる男性1人を雇った。一説では台湾人が通訳を担当した。

■村民生活
 占領された期間に、道路を建設するため若者が懲役され、自家農業ができないこともあった。懲役された期間に給料がなく、食事を自己解決した。抵抗勢力が日本軍を攻撃した場合、日本軍が村に侵入し、抵抗者、協力者の割り出しをした。順調にできない場合、村民を逮捕し、殺したりした暴行も度々であった。

■「討伐作戦」
 日本軍の「討伐作戦」の相手は国民党軍とゲリラ(共産党)であった。国民党軍の戦力は弱く、日本軍に容易に撃退されていたが、ゲリラは粘り強く日本軍と激しく戦闘したという。
 ゲリラに参加した若者が共産党でまず教育を受け、村々で宣伝しながら、日本軍と戦闘したようである。
 1943年ころ、ゲリラと日本軍の戦闘の頻度が増し、日本軍が「討伐」のため村に入ってくることも増えた。
 ある村人(王氏)が日本軍に捕って、「日本嶺」に拘束されたことがあった。その1週間後日本が敗戦し、釈放された。現在も元気で生きている。
 王氏は、
     「拘束されている間、1日饅頭1個ぐらいしか食べることができなかった。
      のどが渇いても水がもらえなかった。隣りにいた青年が水が欲しいと頼むと、日本
     兵は石を投げたが、当たらなかった。その石が私の額に当って血がたくさん流れた。
      拘束された若者は全員が拷問された。ゲリラの情報を聞き出すためだった。日本兵 
    は、電話線を体につなぎ、電話機のハンドルを回して電気をおこし、体に電流を流しな
    がら尋問した。尋問をした隊長の日本人はひげが赤かった。赤ひげと呼んでいた。日
    本兵のなかに台湾人もいた」
と話した。
                          2012年4月15日記

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海南島「現地調査」報告 3月21日~25日 6

2012年04月25日 | 海南島史研究

三 3月24日、25日 白沙黎族自治県で
1 玉花村における石碌鉱山労働者
の殺害について
 3月24日の朝、屯昌を発ち、国道224号線を南下して、白沙黎族自治県に入り、牙叉鎮、七坊鎮を通って夕方、玉花村に着きました。
この村は黎族の村で、石碌鉱山の近くにあり、文史史料によれば、鉱山で働かされていた労働者が逃亡し、この村に逃げてきて58人が捕まり、この村で木に縛られて、焼き殺されたところです。
 村にいた符打地さん(1939年生)から話を聞きました。
     “当時5、6歳だった。日本軍は豚や鶏を盗み、女性を軍営に連れ去った。働かない人

    は川で首に石をつけて沈めたり、腹ばいにさせて下から火をつけて殺した。石碌鉱山 
    には村から2人働きに行かされた。女性が強姦されたこともある。
      あるとき、馬に乗って日本軍がやってきて、村人にマラリアの注射をした。大人も、
    子供も注射をされた。日本兵はそのとき3人来たが、銃は持っていなかった。
 
 この符さんの話を通訳してくれた符得華さん(1964年生)とその父親の符那井さん(78歳)の話によると、
     “石碌鉱山から逃げてきた労働者が、ここでつかまり、殺された。村の近くに望楼があ 
    り、その付近で10数名が銃殺された。この銃殺は1度だけでなく、何回か行われた。そ  
    のときは村の3、4人で見ていた。死体はその近くに埋めた。石碌から逃げてきた労働
    者は、玉花で村人に助けられ、食事を与えられ、逃げる道も教えられたが、望楼のほう
    に向かって行ったために日本兵に捕まり殺された”
とのことです。
 話を聞いた後、殺害の現場を見に行きました。村の近くの道路を降りて林と田んぼのあるなかを少し歩くと、現場がありました。望楼は道路を挟んで反対側にあったそうです。石碌鉱山はその反対方向にあり、逃亡した人たちは石碌方面から望楼の方向に逃げてつかまったそうです。埋められた遺骨がどうなったかはわからないそうです。
 石碌鉱山の労働がきわめて過酷で、命がけで逃亡し、つかまって命を奪われた労働者は、どこの出身なのか、どういう名前なのかもわかりません。ここで殺害され埋められた人は、遺族にも知られないままの状態で現在に至っているのです。
 
2 七坊鎮での聞き取りと日本軍施設の確認
 3月25日に七坊鎮の高石村に行きました。
 この村は抗日闘争の時期に共産党の情報連絡基地であったため、日本軍の爆撃を受けた村です。
 爆弾を落とされた家の周陳定さん(1944年生)のお宅を訪問しました。庭に案内されると、塀をはさんで、両側に大きめの穴が開いていて、これが爆弾の跡だと教えていただきました。半径が5、6メートルあります。子供のときはこの穴で遊んでいたそうです。現在はかなり埋まっていて穴は浅くなっています。
 もう1発の爆弾は、共産党の情報基地の家に命中し、その家は破壊されたそうです。そのあたりは、現在は畑になっていました。
 当時の村の人口は500-600人で、現在は30軒、329人なので、当時のほうが村の規模は多かったようです。昔の村は全体がとげのある木で囲まれていたそうです。
村の入口には門がありますが、その門には「高石交通站支部」と書かれ、村の歴史が書いてあり、抗日闘争期に情報基地として活動していたのは、高石村の呉日輝(1938年―1941年8月)、周唐鎮(1938年―1941年8月)、周夙島(1938年―1941年8月)の3人でした。
 そのあと、孫佛さんから話を聞きました。孫さんは村のひとたちから聞き取りをし、『高石村風聞録』というドラマのシナリオを2004年5月22日に仕上げました。原稿はそのままの状態で、まだ手直しをするので出版のめどは立っていないそうです。この原稿には、玉花における石碌の労働者殺害のことも書かれています。孫佛さんは1990年代に玉花でこのことを聞いたそうです。
 高石村で話を聞いた後、周陳定さんの案内で近くにある望楼の跡を見に行きました。道路わきの林のなかにあったという望楼の痕跡は残っていませんでした。高さは2階建てで、4メートルほどあったそうです。望楼の周囲にはりめぐらされていた鉄条網を、周さんは子供のころ見たそうです。望楼のレンガは1993-94年ころまで残っていて、小学校の教師をしていたとき周陳定さんは歴史の勉強で生徒たちをここに見学に連れてきたそうです。
 午後は七坊鎮のもうひとつの村、保優村を訪問しました。この村も黎族の村で、すべて陳という姓の村です。
 家にいた陳成助さん(1933年生)に話を聞きました。日本軍が来たときのことを次のように話しました。
     “自分が10歳のころに日本軍がこの村に来て、アヒル、鶏、豚などを盗んでいった。
      日本軍に首を絞められたことがある。この村では2人が殺された。1人は日本軍の  
     馬の足に踏まれ、もう1人は木で殴られて死んだ。馬の足に踏まれた男性の妻は男
     が殺されたあと日本兵に強姦された。自分はその一部始終をみていた。
      村の近くには日本軍の中隊が住んでいて、自分は道路工事、軍営の中の掃除や草
     取りなどをさせられた。工事のときは日本兵が監視をしていた。食事は自分でおにぎ
     りを家から持っていった”。
 
 保優村で話を聞いた後、近くの日本軍の軍営のあった打尾村を訪れました。軍営には、近隣の村人が、交代で狩り出され、日本軍の仕事をさせられたそうです。
     “仕事は10歳くらいの子供もさせられ、自分の父母は橋をつくるための太い木を運ぶ
     仕事をさせられた。工事の時仕事が遅いと言って足の親指くらいの太さの藤の鞭で   
     叩かれ、倒れたこともある。
      日本軍が来た時、山奥に逃げた人も多かったが、逃げなかった人もいて、その人た 
     ちは仕事をさせられた。仕事の報酬は、毎日茶碗1杯の塩をもらっただけだった。日     
     本が敗ける時まで仕事は続いた。
      日本軍が引き揚げるところは見ていた。4台のトラックで、1台には銃を積み、3台の
     トラックに兵士を乗せて引き揚げていった”。
 
 住民を虐待した日本軍人の行動が以上の話から浮かび上がります。
 儋州(那大)、屯昌、白沙での聞き取りによっても、日本軍が住民を労働に駆り立て、虐待を繰り返し、そしてその加害に対する責任を放棄したまま海南島から逃げ去り、戦後も沈黙し続けたことが明らかになりました。
 また、屯昌の符名鳳さんや白沙の高石村の孫佛さんのように、それぞれの地域で、日本の侵略犯罪を記録していく努力が地道になされていることを知ることができました。
                                                 斉藤日出治
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証人尋問申請の意味

2012年04月24日 | 紀州鉱山

 2012年4月18日、三重県を被告(被控訴人)とする最初の名古屋高裁民事4部の裁判(口頭弁論)で、私たちは証人尋問申請(証拠の申立)をしました。
 尋問を申請した証人は、三重県紀州県税事務所紀南県税課の根来信一さんです。
 なぜ、私たちが根来一さんの証人尋問を申し出たかというと、根来さんは2010年4月30日に、私たちに、“不動産取得税の減免はできない。行政不服審査の不服申立をするように”と説明した当時の実務担当責任者だからです。
 根来さんが、偽証を許されない公開の法廷で、事実を証言するならば、三重県が裁判所に提出した文書で述べていることが虚偽であることが明らかになるからです。
 たとえば、三重県は、4月3日に提出した「控訴答弁書」で、
     「減免申請書のひな型なるものはもともと無くあくまでも作り替えの様式である。減免
    申請者が窓口に来て申請書を提出する段になって、窓口職員が様式をつくりサポート
    したまでのこと」
と主張していますが、それが虚偽であることは、「不動産取得減免(還付)申請書」が、紀州県税事務所だけでなく他の桑名、四日市、鈴鹿、松阪、伊勢市の県税事務所にも全く同じ書式で存在しており、その書式を減免申請として受理していることからも明らかです。
 地方公務員は「職務専念の義務」、「信用を失墜行為の禁止」が法律で定められています。
 三重県の税務職員が、「ひな形なるものはもともと無くあくまでも作り替えの様式である」と主張したことにされていますが、「ひな形なるもの」と「作り替えの様式」とは、減免申請の要件を満たすことにおいて、どのように違うのか、根来さんにこの言葉の使い分けを明瞭に説明してもらいたいと思いました。
 根来さんは、三重県県税条例施行規則第7条に定められている減免申請を職務として提出させる義務を怠たりました。
 そのために、原告が、「書面による減免申請」の期日内の申請ができませんでした。この経過について事実審理をすることなく、津地裁の裁判官は、
      「書面による減免申請がない限り、県税の減免に係る判断をすることができ   
     ず……」
として、三重県の課税を正当化しました。
 納税通知書も減免申請書も出されていない2010年4月30日の時点で「減免はできない」という誤った説明をした根来さんが、法廷で事実を証言するなら、三重県の主張も、津地裁の判決も覆るのです。
 しかし、4月18日に名古屋地裁民事4部の3人の裁判官は、私たちの証人尋問申請を却下し、事実を法廷で明らかにすることなく、1回だけの裁判(口頭弁論)でだけで審理を終了しようとしました。
                                                    竹本昇

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裁判官忌避申立理由書 2

2012年04月23日 | 紀州鉱山

 きょう(4月23日)、紀州鉱山の真実を明らかにする会は、控訴人を申立人として、名古屋高等裁判所に、民事4部の裁判官(渡辺修明、坪井宣幸、末吉幹和)を忌避するつぎのような「裁判官忌避申立理由書」を出しました。
 名古屋高等裁判所民事4部の3人の裁判官忌避にいたる経過については、このブログの4月18日の「三重県を被告とする第1回控訴審」と4月19日の「裁判官忌避→忌避却下→裁判官忌避→」を、名古屋高裁民事3部の裁判官(長門栄吉、内田計一、山崎秀尚)を忌避する「申立理由書」は、このブログの4月12日の「裁判官忌避申立理由書」をみてください。
 同時(4月23日)に、紀州鉱山の真実を明らかにする会は、控訴人を申立人として、名古屋地裁に「抗告許可申立書」を、最高裁判所に「特別抗告状」をだしました。この2通は、名古屋高裁民事3部の裁判官(長門栄吉、内田計一、山崎秀尚)にたいする忌避申立を名古屋地裁民事4部の裁判官(渡辺修明、嶋末和秀、末吉幹和)が棄却したことに「抗告」する文書です。

■裁判官忌避申立理由書
 基本事件2012年(行コ)第3号
 不動産取得税賦課処分取消請求控訴事件
 被控訴人 三重県知事

 申立人は、被控訴人に対して不動産取得税賦課処分取消請求の訴えを提起し、名古屋高等裁判所民事第4部に頭書請求事件として係属している。
 ところで、頭書請求事件の審理を担当している渡辺修明裁判長、坪井宣幸裁判官、末吉幹和裁判官は、証拠上明白な被控訴人の虚偽の言行、たとえば、減免申請書があるのにないと主張していることや、三重県県税条例の減免の条文で規定されている「特別の事情」について審理せず、三重県県税条例施行規則の違反、県税事務取扱要領の違反などについても審理せず、控訴人からの証人申請を却下し、審理をしないで、1回の口頭弁論だけで審理終結を図ろうとした。
 また、2012年4月4日、韓国の慶尚北道議会の議員4人が、同議会の決議に基づき慶尚北道庁の正式な訪問団として三重県議会の山本教和議長と面談し、課税の撤廃と紀州鉱山に強制連行された朝鮮人について歴史的な真実究明を求めた。被控訴人も行政機構として強制連行を遂行した歴史的責任があり、この要請に応えなければならないのは当然である。にもかかわらず「追悼碑の建立目的や経緯、歴史的考察については、控訴人らが取得した不動産に際して今回課税した不動産取得税の課税処分の適否を判断する本件訴訟ではあえて考慮する必要のないもの」と主張する被控訴人の不正義と反社会性的な言行についても、渡辺修明裁判長、坪井宣幸裁判官、末吉幹和裁判官は、審理をしようとせず、審理終結を図ろうとした。
 このような裁判官は裁判の公正を妨げ、社会正義の実現を阻むものであるので、裁判官忌避の理由に該当する。よって、裁判官忌避を申立てるものである。

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海南島「現地調査」報告 3月21日~25日 5

2012年04月22日 | 海南島史研究

5 烏坡鎮での聞き取りと日本軍施設の確認
 水晶鉱山から南に、符名鳳さんが当時住んでいた烏坡鎮に向かいました。途中から幹線道路を離れて、狭い舗装されていない道を走って烏坡鎮銀苑坡村に着きました。そこで、102歳になる龐月芳さんとその息子の符業鳳さん(1929年生)から話を聞きました。
      ”この村でも多くの人が道路工事をさせられた。道路の草や竹やぶを刈る仕事をし  
     た。
      日本軍の軍営で使う水を川から運ぶ仕事もさせられた。望楼作りもさせられたが、
     完成しなかった。
      日本兵は女性や子供の仕事が遅いと怒って、棒や木で殴った。人を殺すときはみ
    んなの前で殺した。女性を裸にして、川に入らせ、銃剣で刺し殺した”。

 父親が日本兵に刺されながら生き残ったという龐宏和さんの子息の龐業雄さん(56歳)から話を聞きました。
     “道路工事をさせられていた父(慶宏和さん)は、工事の後で体の前と後を刺された
    が、四角河を渡って逃げた。
     親戚の村人が探して村に運び、黎族の医者を遠くから呼んで、山の薬草で治療して
    なんとか助かった。薬が切れると、山道を通って薬を取りに行った。
     このときは、12名の子供(12-13歳)が刺され、11名が殺され、父だけが助かった。 
    日本軍はこの子供たちを仕事ができない、と怒って刺し殺した。
    軍営のなかで強姦された女性もいる。暑いときは太陽や火を当てて殺し、寒いときは
    裸にして水に入らせて殺した”。
 
 銀苑坡村で話を聞いた後、烏坡鎮の中心街にあった日本軍の軍営跡に行きました。そこは、製材所になっていました。案内してくださった符名鳳さんは、
     “当時ここは二重の堀と二重の鉄条網(鉄条網、堀、鉄条網、堀という4重の仕切り)
   で囲まれていた。日本兵は20数名で、木造2階建ての望楼があり、10数軒の建屋があ
   った。軍営の建屋は農家の家を壊して、材料を調達した。自分は村仔村から6キロ離れ
   たこの軍営のなかの仕事をさせられた”。
と話しました。
 現在、烏坡鎮の敬老院がある場所には治安維持会があったそうです。さらに少し行った丸嶺にも軍営の跡がありました。
 烏坡鎮のとなりの楓木鎮にも高台に軍営の跡がありました。
 ここに20人くらいの日本兵がいたそうです。
 さらに少し行った丸嶺にも軍営の跡がありました。 あるとき、石嶺坡で日本兵がひとりで女性を連れ去ろうとしたので、村人がその兵士を殺し、芋畑に死体を埋めて、見つからずに済んだそうです。
 そのあと、南呂鎮に戻り、前々日に見る時間のなかった軍営と「慰安所」の跡を見ました。そこは現在製材所になっていて当時の建物はありませんでした。門は現在ある位置とは反対側にあり、その門を入ると軍営の建物があり、そのうしろに「慰安所」があったそうです。周囲は高い塀に囲まれていて、普段は監視が厳しくて、符名鳳さんも慰安婦を見たことはなかったそうです。
 日本軍は、道路工事や施設の設営がはかどらないことにいらだち、日本軍が理性的な判断能力を喪失している状況に追い込まれている事態がうかがえました。
                                                        斉藤日出治

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海南島「現地調査」報告 3月21日~25日 4

2012年04月21日 | 海南島史研究

3 南呂鎮での聞き取り
 ト文村を出て、南呂鎮に行きました。
 南呂鎮の中心部で鍾時常さん(1924年生)から話を聞きました。
     “軍営は尖端がとがった木と鉄条網で囲まれていた。望楼作りや道路工事に駆りださ
    れ、石運びや掃除の仕事をさせられた。
     陵水の飛行場でも働いたことがある。トラックで陵水まで運ばれ、1週間働いてから、
   逃亡して、歩いて何日もかけて故郷にたどり着いた。陵水は水事情が悪く、井戸を掘ると
   塩水をふくんだ水が出て、その水を飲んだ人は病気になりたくさん死んだ。
    日本軍は少女を機関銃で撃ち殺したり、村民を縛って頭から熱湯をかけたりして殺し
  た。家族が殺されたので、埋められていた遺体を掘り出そうとしてみつかり銃殺された人
  もいる。60歳代の夫婦は銃剣で刺し殺された後、焼かれた。一家3人が働かないといっ
  て殺されたこともある”。

 日本軍が村民を強制労働に駆り立てるために過酷な迫害をおこなった事実が浮き彫りになりました。

 4 羊角嶺の水晶鉱山で
 3月23日の朝、屯城鎮の符名鳳さんのお宅を訪問しました。符名鳳さんは今から11年前の2000年に佐藤正人さんが出会い、近くの羊角嶺の水晶鉱山に案内していただいた人です。
 水晶鉱山は、現在は水晶が採れなくなっていますが、観光公園として開発する準備をしているところで、そのための資金を集めているそうです。
 符さんは自分の体験をつぎのように話しました。
     ”12歳のころ日本軍にむりに水晶鉱山で働かされた。父も母も病弱で働けなかった
    ので、代わりに自分が働かされた。
     当時、ここから20キロほど離れた烏坡鎮の村に住んでいた。そこにも日本軍の駐屯
    地があり、水晶鉱山で働く人を各村から30-50人位ずつ出すよう強いられた。各村の
    保長が25の村から1000人くらいを集めた。
      トラックで鉱山に運ばれ、3ヶ月ほど働かされた。鉱山で住んでいた家は、草で屋根
    をつくり、床にも草を敷いただけのものだった。
     働いているとき、仕事が遅いといって胸ぐらをつかまれ、投げ飛ばされて、そのとき石
    の角が足に当たり、足が傷ついた。傷跡がまだ残っている”。

  符さんはズボンをまくって傷跡を見せてくれました。話を伺った後、車で羊角嶺の鉱山跡に案内していただきました。
 鉱山の入口から徒歩で山道を歩いてほどなく、鉱山労働の犠牲者の追悼碑が建てられている場所に着きました。碑には「羊角嶺被日冠惨殺無 殉難同胞坆」と刻んでありました。ここには犠牲者の遺骨はないそうで、山のあちこちに埋められているとのことです。
 符さんはここで3ヶ月はたらき、食事はおにぎりが2個、塩漬け大根が2切れで、ご飯には砂が混じっていました。逃げてつかまると銃殺されたそうです。
 そのあと、別のルートから鉱山の頂上に上りました。上から鉱山を採掘した場所を見下ろすと、そこには水がたまり、巨大な池になっていました。ここからは屯昌の町が一望できました。
 日本軍は鉱山の採掘労働に地域住民を動員して、きわめて過酷な条件で働かせていた状況が、符さんの話からうかがえます。
                                                斉藤日出治

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海南島「現地調査」報告 3月21日~25日 3

2012年04月20日 | 海南島史研究

二 3月22日、23日 屯昌県で
1 新興鎮の軍営跡
  
3月22日朝、海口市から南に向かい、屯昌県に入ってしばらく行って、新興鎮で日本軍の舞鶴鎮守府第1特別陸戦隊の軍営跡を見ました。現在は人民検察院として使われているところです。軍営は周囲を4メートルの深さの堀で囲まれ、2階建ての望楼があったそうです。望楼は1955-56年ころに壊され、軍営跡はほとんど残っていませんが、周囲の堀の一部が、土に埋まって浅くなっていましたが残っていました。この軍営の内部でたくさんの人が殺されたそうです。軍営のあったあたりは高台になっていて、周囲を広く見渡すことができました。

2 新興鎮ト文村での聞き取り
  新興鎮の中心部からト文村に行新興鎮の中心部からト文村に行き、陳桂春さん(88歳)から話を聞きました。ここには、日本軍の侵略以前にフランス人神父が布教のために教会を建てていて、日本軍がその教会を焼き払った、という記録が残っています。
 陳さんは、
     “この近くの山の上に望楼があり、自分の母はこの望楼作りに駆りだされ、望楼の近
   くで殺された”、
と語りました。村から望楼と軍営があった場所までの道路は地元のひとびとを動員してつくられたそうです。
 話を聞いた後、陳さんの案内で山の望楼跡に行きました。道を10分ほど走り、車を降りて山道を登り、望楼跡にたどり着きました。そこには、現在は通信鉄塔が建てられていて、周囲が一望できます。望楼は土で作り、望楼に登っていく山道の入り口には鉄条網の門の跡があり、門に近くには石が数個残されていました。
 この山のふもとで陳さんの母親が殺されたというので、その場所に案内してもらいました。陳さんの母親をふくめて7人の女性(40-50歳代)がそこで殺されたそうです。
 陳さんは7人が殺された経緯を次のように語りました。
     “道路工事や望楼建設に駆りだされた村人が夜酒を飲んだとき望楼を攻撃しようと
    いう話をして、それが日本軍の耳に入った。
     日本兵は、道路工事も望楼建設も終わったあとで、200-300人の村人のなかから
    高齢の女性を選んで、みせしめのために村人が見ている前で7人の女性を殺した。
     日本兵は7人を銃剣で刺し殺してから、村人に穴を掘らせ、7人をここに埋めた。母
    をふくめて7人の遺骨はここに埋められたが、ほかの6人はそのあと遺骨を掘り出し
    てそれぞれ墓をつくった。
     自分は貧しくて墓を作ることができずにいた。母はいまだここに埋められている”。
 陳さんが指差したところには、ひとつの小さな石が置かれているだけでした。毎年清明節にはここに来ておまいりするそうです。
 陳さんの母親のように、不条理に殺害され、遺骨がほとんど放置されたような状態のままに時が過ぎていることは、遺族にとって身を切られるように辛いことだと思います。
                                                 斉藤日出治

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