三 3月24日、25日 白沙黎族自治県で
1 玉花村における石碌鉱山労働者の殺害について
3月24日の朝、屯昌を発ち、国道224号線を南下して、白沙黎族自治県に入り、牙叉鎮、七坊鎮を通って夕方、玉花村に着きました。
この村は黎族の村で、石碌鉱山の近くにあり、文史史料によれば、鉱山で働かされていた労働者が逃亡し、この村に逃げてきて58人が捕まり、この村で木に縛られて、焼き殺されたところです。
村にいた符打地さん(1939年生)から話を聞きました。
“当時5、6歳だった。日本軍は豚や鶏を盗み、女性を軍営に連れ去った。働かない人
は川で首に石をつけて沈めたり、腹ばいにさせて下から火をつけて殺した。石碌鉱山
には村から2人働きに行かされた。女性が強姦されたこともある。
あるとき、馬に乗って日本軍がやってきて、村人にマラリアの注射をした。大人も、
子供も注射をされた。日本兵はそのとき3人来たが、銃は持っていなかった。
この符さんの話を通訳してくれた符得華さん(1964年生)とその父親の符那井さん(78歳)の話によると、
“石碌鉱山から逃げてきた労働者が、ここでつかまり、殺された。村の近くに望楼があ
り、その付近で10数名が銃殺された。この銃殺は1度だけでなく、何回か行われた。そ
のときは村の3、4人で見ていた。死体はその近くに埋めた。石碌から逃げてきた労働
者は、玉花で村人に助けられ、食事を与えられ、逃げる道も教えられたが、望楼のほう
に向かって行ったために日本兵に捕まり殺された”
とのことです。
話を聞いた後、殺害の現場を見に行きました。村の近くの道路を降りて林と田んぼのあるなかを少し歩くと、現場がありました。望楼は道路を挟んで反対側にあったそうです。石碌鉱山はその反対方向にあり、逃亡した人たちは石碌方面から望楼の方向に逃げてつかまったそうです。埋められた遺骨がどうなったかはわからないそうです。
石碌鉱山の労働がきわめて過酷で、命がけで逃亡し、つかまって命を奪われた労働者は、どこの出身なのか、どういう名前なのかもわかりません。ここで殺害され埋められた人は、遺族にも知られないままの状態で現在に至っているのです。
2 七坊鎮での聞き取りと日本軍施設の確認
3月25日に七坊鎮の高石村に行きました。
この村は抗日闘争の時期に共産党の情報連絡基地であったため、日本軍の爆撃を受けた村です。
爆弾を落とされた家の周陳定さん(1944年生)のお宅を訪問しました。庭に案内されると、塀をはさんで、両側に大きめの穴が開いていて、これが爆弾の跡だと教えていただきました。半径が5、6メートルあります。子供のときはこの穴で遊んでいたそうです。現在はかなり埋まっていて穴は浅くなっています。
もう1発の爆弾は、共産党の情報基地の家に命中し、その家は破壊されたそうです。そのあたりは、現在は畑になっていました。
当時の村の人口は500-600人で、現在は30軒、329人なので、当時のほうが村の規模は多かったようです。昔の村は全体がとげのある木で囲まれていたそうです。
村の入口には門がありますが、その門には「高石交通站支部」と書かれ、村の歴史が書いてあり、抗日闘争期に情報基地として活動していたのは、高石村の呉日輝(1938年―1941年8月)、周唐鎮(1938年―1941年8月)、周夙島(1938年―1941年8月)の3人でした。
そのあと、孫佛さんから話を聞きました。孫さんは村のひとたちから聞き取りをし、『高石村風聞録』というドラマのシナリオを2004年5月22日に仕上げました。原稿はそのままの状態で、まだ手直しをするので出版のめどは立っていないそうです。この原稿には、玉花における石碌の労働者殺害のことも書かれています。孫佛さんは1990年代に玉花でこのことを聞いたそうです。
高石村で話を聞いた後、周陳定さんの案内で近くにある望楼の跡を見に行きました。道路わきの林のなかにあったという望楼の痕跡は残っていませんでした。高さは2階建てで、4メートルほどあったそうです。望楼の周囲にはりめぐらされていた鉄条網を、周さんは子供のころ見たそうです。望楼のレンガは1993-94年ころまで残っていて、小学校の教師をしていたとき周陳定さんは歴史の勉強で生徒たちをここに見学に連れてきたそうです。
午後は七坊鎮のもうひとつの村、保優村を訪問しました。この村も黎族の村で、すべて陳という姓の村です。
家にいた陳成助さん(1933年生)に話を聞きました。日本軍が来たときのことを次のように話しました。
“自分が10歳のころに日本軍がこの村に来て、アヒル、鶏、豚などを盗んでいった。
日本軍に首を絞められたことがある。この村では2人が殺された。1人は日本軍の
馬の足に踏まれ、もう1人は木で殴られて死んだ。馬の足に踏まれた男性の妻は男
が殺されたあと日本兵に強姦された。自分はその一部始終をみていた。
村の近くには日本軍の中隊が住んでいて、自分は道路工事、軍営の中の掃除や草
取りなどをさせられた。工事のときは日本兵が監視をしていた。食事は自分でおにぎ
りを家から持っていった”。
保優村で話を聞いた後、近くの日本軍の軍営のあった打尾村を訪れました。軍営には、近隣の村人が、交代で狩り出され、日本軍の仕事をさせられたそうです。
“仕事は10歳くらいの子供もさせられ、自分の父母は橋をつくるための太い木を運ぶ
仕事をさせられた。工事の時仕事が遅いと言って足の親指くらいの太さの藤の鞭で
叩かれ、倒れたこともある。
日本軍が来た時、山奥に逃げた人も多かったが、逃げなかった人もいて、その人た
ちは仕事をさせられた。仕事の報酬は、毎日茶碗1杯の塩をもらっただけだった。日
本が敗ける時まで仕事は続いた。
日本軍が引き揚げるところは見ていた。4台のトラックで、1台には銃を積み、3台の
トラックに兵士を乗せて引き揚げていった”。
住民を虐待した日本軍人の行動が以上の話から浮かび上がります。
儋州(那大)、屯昌、白沙での聞き取りによっても、日本軍が住民を労働に駆り立て、虐待を繰り返し、そしてその加害に対する責任を放棄したまま海南島から逃げ去り、戦後も沈黙し続けたことが明らかになりました。
また、屯昌の符名鳳さんや白沙の高石村の孫佛さんのように、それぞれの地域で、日本の侵略犯罪を記録していく努力が地道になされていることを知ることができました。
斉藤日出治