三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

海南島における日本の侵略犯罪  とくに「朝鮮報国隊」について 5

2017年05月31日 | 海南島史研究
6、日本の国家犯罪の歴史的責任
  일본의 국가법죄의 역사적 책임
 1939年2月10日未明、人びとが平和に暮らしていた海南島に日本軍が奇襲上陸した。
 ほとんどの日本人は、台湾植民地化、朝鮮植民地化、「満州」植民地化……のときと同じく、海南島侵略のときにも、占領地の拡大を喜び、軍事行動を支持した。
 日本政府・日本軍・日本企業は、海南島でも、民衆を殺傷し、家を焼き、家畜やものを奪った。既耕地をふくむ土地を奪った。資源(鉱山資源、水産資源、森林資源)を奪った。  
 資源略奪・軍用施設建設(飛行場、港湾、道路、鉄道……)などのために、海南島民衆に、労働を強制した。海南島民衆を性奴隷とした。海南島の自然を破壊した。「ヒノマル」・「キミガヨ」・日本語を海南島民衆におしつけた。軍票を乱発し、アヘン栽培をおこなった。
 1939年2月から1945年8月までの6年半の間に、海南島で日本軍・日本企業が殺害したアジア民衆は、日本軍文書と日本企業文書によっても7万人以上である。
 日本の海南島侵略の時代は、海南島民衆の抗日反日闘争の時代であった。
 日本民衆が、なぜ海南島侵略を阻止できなかったのかという問題は、日本民衆が、なぜ朝鮮植民地化を阻止できなかったのかという問題、いま、なぜシオニストのパレスチナ侵略を世界の民衆が許し続けているのかという問題とつながっている。
 日本民衆の一人として、わたしは、海南島における日本の国家犯罪を総体的に詳細に解明するとともに、アジア民衆の抗日反日闘争の歴史に学びつつ、国民国家形成期以来の日本国家の侵略責任を追及し、現在の日本の他地域他国侵略の政治・経済・社会・文化構造を破壊する運動をすすめていきたい。
                                      佐藤正人


■資料 海南島への朝鮮人連行・「朝鮮報国隊」「朝鮮村」
   孫惠公「接見日本“和平之船”訪華団講話」、中国人民政治協商会議三亜市委員会編
  『三亜文史』3。
   羊杰臣「日軍侵略崖県始末」、『三亜文史』4(「日軍侵略崖県及其暴行紀実」と改題さ
  れて、『三亜文史』5に再録)。
   陳作平「日本侵略者在崖県的罪行」、『三亜文史』5。
   三亜市茘枝溝鎭人民政府「千人坑簡介」、2000年1月8日。
   忠北大学校중원文化研究所遺骸発掘센터「中国海南島朝鮮村発掘結果報告」、2001年
  2月。
   우은진「중국 하이난섬(海南島) 의 대학살 발굴현장을 다녀온 후」、『독립기념관 관보』
  독립기념관、2001년4월。
   金靜美「強制連行された朝鮮人の故郷と朝鮮人が強制労働させられた地域を結ぶ民衆
  のきずなを!」『パトローネ』31号、写真の会パトローネ、1997年10月。
   金靜美「侵略の共同体と抵抗の共同体――故郷と他郷のかなたに――」、『ほるもん文
  化』8、新幹社、1998年12月。
   金靜美「日本占領下の海南島における強制労働――強制連行・強制労働の歴史の総体
  的把握のために――」①・②、『戦争責任研究』27・28、日本の戦争責任資料センター、
  2000年3月・6月。
   金靜美「일본점령하 중국海南島에서의 강제노동」、朴慶植先生追悼論文集『近現代
  韓日関係와  在日同胞』、ソウル大学校出版部、1999年8月。
   金靜美「海南島の場合(とくに「朝鮮村」と「朝鮮報国隊」について)」(2000年5月24日、ソウ
  ルでの第9次国際歴史教科書学術会議第3主題「日本에 있어서의 過去清算問題」における
  報告(「日帝期의 強制連行 問題에 関하여」のなかで)。『各国의 歴史教科書에 비친 過去
  清算問題』国際教科書研究所、2000年5月。
   金靜美「海南島・「朝鮮村」で 2001年1月」、三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基
  允・裵相度)の追悼碑を建立する会『会報』33号、2001年3月。
   佐藤正人「三重県紀和町の紀州鉱山に強制連行された朝鮮人の跡をたずねて」、『パト
  ローネ』28号、1997年1月。
   佐藤正人「日本の海南島侵略と強制連行・強制労働」、第9回朝鮮人・中国人強制連行・
  強制労働を考える交流集会実行委員会編刊『報告集』1999年4月。〈1998年8月8日~9日、
  日本金沢市で開催〉。
   佐藤正人「日本の国境と「周辺」の歴史 日本人はクナシリ・与那国・独島・海南島でなに
  をしたか」、日本の侵略の歴史を知るわかやまの会『第二周年活動報告集』1999年6月。
   佐藤正人「国民国家日本의 領土와 「周辺」」、朴慶植先生追悼論文集『近現代韓日関係
  와 在日同胞』。
   佐藤正人「日本占領下の海南島における朝鮮人虐殺 アジア民衆共同の東アジア近現代
  史認識をめざして」(2001年10月24日、上海での第10次国際歴史教科書学術会議第2主題
  「亜細亜諸国의 歴史教科書에 비친 抗日運動」における報告)。『亜細亜諸国의 歴史教科
  書에 비친 抗日運動』国際教科書研究所、2001年12月。
   金靜美・佐藤正人「海南島에 있어서의 日本軍隊性奴隷制度와 強制連行・強制労働 
  2002年10月海南島「現地調査」報告」、韓国挺身隊研究所『2002年国外居住日本軍‘慰
  安婦’被害者実態調査』女性部権益企画課、2002年12月。
   金靜美「国民国家日本の他地域・他国における暴力――海南島の場合――」、『東北亜
  歴史의 諸問題』(南陽洪鍾泌博士定年退任記念論叢)、2003年10月。
   金靜美「海南島からの朝鮮人帰還について――植民地国家からの出国、国民国家への
  帰還――」、『解放後中国地域韓人の帰還問題研究』、国民大学校韓国学研究所、2003年
  11月28日。
   金勝一「中国海南島에強制連行된韓国人帰還問題 朝鮮報国隊와慰安婦를中心으로」、
  『解放後海外韓人의帰還問題研究』国民大学校韓国学研究所、2003年5月。
   『해외 독립운동-강제징용 유적지 답사자료집』한일역사공동연구위원회 3분과 5주제
  ‘일제의 조선지배와 한민족의 대응’ 팀, 일시:2003년7월 16―22일, 장소:중국
  해남도, 광동성 광주。 (『海外独立運動・強制徴用遺跡地 踏査資料集』)韓日歴史共
  同研究委員会3分科5主題‘日帝の朝鮮支配と漢民族の対応’チーム、日時:2003年7月
  16―22日、場所:中国海南島、廣東省広州)。
   独立紀念館韓国独立運動史研究所編『일제하 국외 한인피해 실태조사보고서 1 
  중국해남도지역 』独立紀念館、2005年4月。金靜美「일본점령하 하이난섬에 있어서의
  조선인」。佐藤正人「海南島에 있어서  日本政府・日本軍・日本企業의 侵略犯罪調査」。
  金勝一「海南島의 朝鮮報国隊와 韓国人慰安婦의 強制連行経緯와 暴行惨状」。
   紀州鉱山の真実を明らかにする会(金靜美、佐藤正人、小谷英治)「海南島2004年12月~
  2005年1月 あらたな共同作業をめざして」、『パトローネ』61号、2005年4月。
   紀州鉱山の真実を明らかにする会『海南島で日本は何をしたのか 虐殺・略奪・性奴隷
  化、抗日反日闘争』写真の会パトローネ、2005年5月。
   佐藤正人「海南島と“カラフト”における朝鮮人虐殺の真相糾明」、三重県木本で虐殺され
  た朝鮮人労働者(李基允・裵相度)の追悼碑を建立する会『会報』41号、2005年5月。
   紀州鉱山の真実を明らかにする会「海南島2006年5月 「朝鮮村試掘」にいたるまで、そし
  て、それから」、『パトローネ』67号、2006年10月。
   紀州鉱山の真実を明らかにする会制作『《写真集》日本の海南島侵略と抗日反日闘争』写
  真の会パトローネ、2007年2月。
   海南島近現代史研究会編刊『会報』創刊号、2008年2月。
   紀州鉱山の真実を明らかにする会「国民国家日本の海南島侵略犯罪史認識と伝達」、大
  阪人権博物館編刊『大阪人権博物館紀要』第10号、2008年3月1日刊)。
   海南島近現代史研究会編刊『海南島近現代史研究会』創刊号、2008年8月。
   海南島近現代史研究会編刊『会報』第2号、2009年2月。
   海南島近現代史研究会編刊『海南島近現代史研究会』第2号・第3号、2011年2月。
   海南島近現代史研究会編刊『海南島近現代史研究会』第4号・第5号、2016年5月。
   佐藤正人「국민국가 일본의 침략와 대결하는 민준운동」、『역사와 책임』5号、民族問
  題研究所、2013年8月。
   斉藤日出治「海南島における日本人の「学術調査研究」と植民地責任」、近畿大学日本文
  化研究所編『否定と肯定の文脈』風媒社、2013年3月。
   斉藤日出治「「戦後」という日本社会の歴史認識  海南島の住民虐殺と沖縄の強制集団
  死との結び目から見えてくるもの」、近畿大学日本文化研究所編『日本文化の明と暗』風媒
  社、2014年3月。
   中共海南省委党史研究室編『海南省重要革命遺祉通覧』(「全国革命遺址普査成果叢書」
  第22巻)、海南出版社、2014年3月。
   朱振华捜集整理『血和泪的记录 海南万宁月塘村三月廿一日惨案专辑』月塘村、2014年
  8月。
   中共海南省委党史研究所室編『海南省抗日戦争時期人口傷亡和財産損失』中共党史出
  版社、2015年8月。
   海南省文化交流促進会编『真相 海南島近現代史研究会17年(27次)調査足跡』南海出版
  公司、2015年8月。
   海南省文化交流促進会著『控訴 採訪九位海南慰安婦実録』南海出版公司、2015年10
  月。
   海南省文化交流促進会著『忘記過去意味着背叛』南海出版公司、2015年12月。

   「京城刑務所假出獄関係書類」(日帝時代朝鮮の監獄の「假出獄関係書類」。「海南島派
  遣報国隊」として海南島に連行された人の個別の「仮出獄」にかんする京城刑務所の文書
  群)。
   朝鮮司法保護協会『朝鮮司法保護』1941年3月、朝鮮司法保護事業令(「勅令」)。
   司法省保護局「思想犯保護対象者南方動員実施要綱」(1942年8月31日付)、大久保達
  正他編『××社会経済史料集成』第16巻(海軍省資料16)、大東文化大学東洋研究所、
  1991年9月。
   とうま「南方派遣報国隊の結成」、『治刑』(朝鮮総督府法務局行刑課内治刑協会発行)
  1943年3月号。
   「第二次南方派遣報国隊」、『治刑』1943年6月号。
   坂藤宇太郎・伊東恵「対談 海南島の印象」、『治刑』1943年7月号。
   「構外作業派遣部隊の名称に関する件」(通牒)、『治刑』1943年8月号。
   諸岡亀吉「南方派遣報国隊の錬成」、『治刑』1943年8月号。
   阿部敬夫「南方通信」、『治刑』1943年10月号。
   いとう生「治刑雑想」、『治刑』1943年10月号。
   「治刑情報」、『治刑』1943年11月号。
   藤間忠顯「回顧と展望」、『治刑』1943年12月号。
   小林長蔵・藤間忠顯他「座談会 報国隊を語る」、『治刑』1944年3月号。
   貴島南星(本名、貞四)「我等は挺身する」、『治刑』1944年3月号。
   金本勇治「医療班の一日」、『治刑』1944年3月号。
   白川興一「隊員と共に」、『治刑』1944年3月号。
   古賀九郎「現地の武道」、『治刑』1944年3月号。
   坂本敏夫「海南島の印象」、『治刑』1944年7・8月号。
   「治刑情報」、『治刑』1944年9・10月号。
   藤間忠顯「台湾及海南島視察記」一、二、『治刑』1944年9・10月号、11・12月号。
   『刑務職員録』1943年版、刑務協会。
   『刑務職員録』1944年版、刑務協会。
   『旧植民地人事総覧』朝鮮編8、1997年2月、日本図書センター。
   『朝鮮年鑑』1944年度、京城日報社、1944年10月15日。
   『朝鮮年鑑』1945年度、京城日報社、1944年10月20日。
   『第84回帝国議会説明資料』1943年12月、朝鮮総督府法務局。
   『第86回帝国議会説明資料』1944年12月、朝鮮総督府法務局。
   「朝鮮総督府受刑者海南島出役ニ伴フ監督職員等増員ニ関スル件ヲ定ム」(公文類聚・
  第六十七編・1943年・第三十五巻・官職二十九・官制二十九〈朝鮮総督府四〉)1943年
  4月19日。
   「台湾ニ於ケル受刑者構外作業ニ伴フ増員ニ関スル件」(公文類聚・第六十七編・1943
  年・第四十四巻・官職三十八・官制三十八〈台湾総督府六〉)1943年9月25日。
   『戦時行刑実録』矯正協会、1966年。
   防衛庁防衛研修所戦史室編『中部太平洋方面海軍作戦〈1〉』(戦史叢書38)、1970年。
   教誨百年編纂委員会編『教誨百年』上、浄土真宗本願寺派本願寺・真宗大谷派本願寺、
  1974年4月。
   窪田精『春島物語』東邦出版社、1968年。
   窪田精『トラック島日誌』光和堂、1983年。
   窪田精『流人島にて』新日本出版社、1992年。
   北川幸一『墓標なき島 ある受刑者の“戦争”』光出版印刷株式会社、1988年4月。
   島田興生『還らざる楽園』小学館、1994年。
   郡義典『マウリ・キリバス』近代文芸社、1996年。
   衣笠一『海南島派遣の朝鮮報国隊始末記』(1997年補筆改定)。

   江川きく(中里チヨ)「撃沈」、医療文芸集団編『白の墓碑銘』東邦出版社、1968年6月。
   中里チヨ「いまも耳に残る朝鮮人慰安婦の悲しい叫び 中国・海南島で看護に従事した
  2年半」(『Nurse eye  ナースアイ』1992年12月号、桐書房)。  
   山田盟子『慰安婦たちの太平洋戦争  秘められた女たちの戦記』光人社、1991年9月。
   朴来順口述、張応勇整理「不堪回首的往事 一個“慰安婦”的自述」、政協海南省保亭
  黎族苗族自治県委員会文史資料工作委員会編『保亭文史』第9輯(紀念抗日戦争勝利50周
  年)、1995年8月。
   朴来順口述、張応勇整理「我被騙逼当日軍“慰安婦”的経歴」、海南省政協文史資料委員
  会編『海南文史資料』第11輯(『鉄蹄下的腥風血雨――日軍侵瓊暴行実録』下)、海南出版
  社、1995年8月。
   西野瑠美子「私が看た海南島海軍病院の「慰安婦」たち 元海軍従軍看護婦の体験」、『週
  刊 金曜日』1997年5月23日号。
   班忠義「中国・海南島の元「慰安婦」たち」、『週刊 金曜日』1997年6月27日号。第176
  号。
   韓国挺身隊研究所・韓国挺身隊対策協議会編『강제로 끌려간 조선인 군위안부들』3、
  図書出版한을(서을)、1999年10月。

ドキュメンタリー
   韓国KBS『해남도에 묻힌 조선혼』(『海南島に埋められた朝鮮の魂』。金五重監督。
  1998.8.31.放映)。
   韓国安東MBC『紀伊半島에 감추어진 진실』(『紀伊半島に隠された真実』。1998.10.
  放映)。
   韓国KBS『海南島의 朝鮮村』(ニュース。2000.3.放映)。
   韓国MBC『하이난섬의 大虐殺』2001.3.1.放映。3・1独立運動記念特別ドキュメンタリー。
   紀州鉱山の真実を明らかにする会企画・制作『海南島で日本人はなにをやったか! 日
  本軍の海南島侵略と抗日闘争① “田独鉱山・「朝鮮村」”』2003年7月。23分。
   韓国KBS『하이난섬 대학살  "조국은 그들을 두번 버렸다"』2003.9.6.放映。“追跡
  60分”)。
   紀州鉱山の真実を明らかにする会企画・制作『日本は海南島でなにをやったか』2003年
  10月。3分。
   The Society for clarifying Crimes of the Kishu-Mine『 What did the Japanese Army do
  in Hainan-dao?』2004年4月。3分。
   紀州鉱山の真実を明らかにする会企画・制作『日本が占領した海南島で 60年まえは昨日
  のこと』第1版、2004年7月。65分。
   기주광산의 진실을 밝히는 회企画・制作『일본이 점령한 海南島에서 60년전은 어제의
  일』2004年7月、65分。
   査明紀州鉱山事実真相自治会企画・制作『日本占領下的海南島 60年前如昨昔』、2004
  年12月。65分。
   紀州鉱山の真実を明らかにする会企画・制作『“朝鮮報国隊”』2006年7月。60分。
   海南島近現代史研究会企画・制作『海南島月塘村虐殺』新版、2008年。

新聞報道
   「不能忘却的記憶――与韓国老人張達雄探訪侵瓊日軍暴行遺跡」(満国徽、華暁東記
  者)、『海南日報』1998年2月24日。
   「中國하이난島서 한국인 학살」(朴雅蘭記者)、『朝鮮日報』1998年3月2日。
   「“日帝만행 해방후 더 잔혹했다”」『佛敎新聞』1998年3月3日。
   「旧日本軍が朝鮮人連行者1000人を虐殺」『民族時報』1998年3月11日。
   「三亜朝鮮村的亡霊在哭泣」(邢中正記者)、『三亜晨報』(中共三亜市委員会機関報)、
  2000年6月24日。
   「海南朝鮮村亡霊泣訴日軍滔天罪」(邢中正記者)、『羊城晩報』2000年7月24日。
   「鉄蹄下的海南“慰安婦”」(連載4回。林瑩・余家亮・周楴記者)、『南国都市報』2001年12月
  3日(1.2)、12月9日(3)、12月10日(4)。
   「日軍労工的悲惨経歴」(余家亮記者)、『南国都市報』2002年3月31日。
   「韩日学者赴海南岛寻找韩籍“慰安妇”幸存者」人民网 2002年10月17日。
   「“海南島の悲劇”真相は」、『北海道新聞』2003年2月21日夕刊。
   「日韓学者調査日軍侵瓊史証」(連載3回。陳超・許春媚記者)、『海南日報』2003年3月28
  日、3月31日、4月4日。
   「日韩学者第六次赴海南调查日军侵略史证」中国新闻网 2003年3月29日。
   「‘하이난섬 징용’ 유족 찾습니다 재일교포·일 시민운동가 “학살 진상규명에 필요”」(양
  선아記者)、『한겨레』2003年5月31日。
   「“這些暴行不能原諒!” ——“千人坑”纪录片回到“千人坑”」(陳超・袁鋒記者)、『海南日
  報』2005年1月1日。
   「日軍侵瓊調査記録片在海口放映」(陳超・袁鋒記者)、『海南日報』2005年1月5日。
   정미란「日軍만행 현장, 해남도 '朝鮮族千人坑'을 아시나요? 일제 강제징용 한국인
  1천여명 학살·매몰 현장」、konas.net、2005年4月7日。
   「『海南島で日本は何をしたのか』出版 日本軍占領下の実態暴く」、『伊勢新聞』2005年
  6月29日。
   「日韓学者再次来瓊掲露日軍侵華暴行 本月13日将在三亜回新村放映日軍侵略海南島
  記録」(許欣記者)、『南国都市報』2005年9月9日。
   「中国・海南島占領の実態暴く」(奥山隆也記者)、『伊勢新聞』2005年12月27日。
   「日韓三位学者再次来海南島調査日軍侵瓊真相」(王辛莉記者)、中国新聞社、2006年3月
  23日。
   「海南島 無念の骨探る」(佐藤純記者)、『朝日新聞』西部版、2006年4月4日夕刊。
   「海南島近現代史研究会:市民や研究者らが設立へ」(中村一成記者) 、『毎日新聞』大阪
  版、2007年8月5日。
   김경민「주목해야 할 中 해남도 해군기지」、konas.net、2008年7月2日。
   「조선보국대(朝鮮報國隊)(DVD)」日帝強占下強制動員被害真相糾明委員会調査2課記録
  管理팀、2008年7月15日。
   「보국대(報國隊)를 아시나요?」、daum.net、2009年3月5日。
   「일제 강제동원 피해상담 및 지원 문의는 110콜센터로 하세요」、konas.net、2009年
  8月14日。
   이현오「日帝 강제학살 천인갱(千人坑) 영령 추모제 거행」、konas.net、 2010年3月27日。
   「형무소서 끌려가 노예처럼 일하다 학살 ‘한 맺힌 유골들’  중국 해남도 ‘조선촌’
  이 증언하는 일제의 만행」(사토 쇼진)、『경향신문』、2010年7月12日。
   「日本に父奪われた 朝鮮人軍属らの遺族、証言」(千種辰弥記者)、『朝日新聞』(大阪
  版)、2010年8月22日朝刊。
   「保亭:正义使者张应勇 让“活历史”发出吼声」(林莹记者)、『南国都市报』2010年12月
  2日。
   이영찬「천인갱(千人坑)사건을 국가는 아는가? 영관장교연합회, 인천 용주사 '일제 강제
  학살 천인갱 영령 추모제' 거행」、konas.net、2012年3月28日。
   「〔인터뷰〕하이난섬 학살 현장을 말하다」、konas.net、2012年4月1日。
   「“우리의 땅으로 돌아가서 희망의 빛이 되소서” 일제의 만행 ‘천인갱’의 진실」 『국방
  일보』、2012年8月14日。
   「海南島の死「事実知りたい」」(多知川節子記者)、『朝日新聞』(大阪版)2011年8月30日
  朝刊。
   「日韩学者来琼调查日军侵琼史」『海南日报』、2012年10月31日。
   「日韩学者祭拜日军侵琼时期杀害朝鲜劳工“千人坑”」「中国新闻网」、2012年11月5日。
   「日韓學者祭拜日軍侵瓊時期被殘殺朝鮮勞工」「中国新闻网」、中新視頻 CNSTV、2012
  年11月8日。
   「搜集日本侵琼证据」『海南日报』、2013年11年4日。
   「追寻“真相”」『海南日報』、2015年9月20日。
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海南島における日本の侵略犯罪  とくに「朝鮮報国隊」について 4

2017年05月30日 | 国民国家日本の侵略犯罪
5、「朝鮮報国隊」
①、「報国隊」とは
 1942年末ころから、日本海軍は、不足している労働力を補うために、朝鮮の刑務所から獄中者を海南島に強制連行する策動を開始した。海軍の要請に応じた朝鮮総督府法務局は、1943年3月から、朝鮮各地の刑務所から残刑数年の獄中者を選んで「南方派遣朝鮮報国隊」を組織し、海南島に送り出しはじめた。
 日本支配下の朝鮮で、朝鮮人を「国民勤労報国隊」に入れ、「軍事上特に必要なる土木建築に関する業務」などを行なわせる策動は、アジア太平洋戦争開始直前の1941年12月1日からはじめられたが、このときには「法令により拘禁中の者」は除外されていた(「国民勤労報国協力令」第10条)。
 獄中者を「南方」の島(トラック島、テニヤン島など)に送って強制労働させる策動は、日本では1939年末から実行されたが、朝鮮では1943年春から始められた。アジア太平洋戦争開始後、労働力不足が決定的になった1943年まで朝鮮人獄中者の「南方派遣」が強行されなかったのは、日本政府・日本軍が朝鮮人の強固な反抗を恐れたからだろう。軍隊内反乱を恐れていた日本政府が、朝鮮人に対する徴兵制を公布したのも1943年春(3月1日)であった(8月1日施行)。

②、「朝鮮報国隊」虐殺
 1943年~44年に、朝鮮の各地の刑務所から、「南方派遣報国隊」(「朝鮮報国隊」)の隊員として海南島に送られた朝鮮人獄中者は、海南島で、鉱石採掘、飛行場建設、道路建設、橋梁建設などを強制され、おおくの人が命を失わされた。
 日本敗戦近くまでに生き残っていた「朝鮮報国隊」の人びとは、海南島南部の三亜市郊外の南丁村に集められ、軍用道路建設、軍用洞窟掘りなどをさせられたあと、1945年夏に殺された。その名は、まだ、一人も明らかになっていない。
 日本軍がいなくなってから、南丁村は、そこで殺された朝鮮人を悼んで、「朝鮮村」と改名された。「朝鮮村」には、いまも、殺された朝鮮人が埋められている。
 「朝鮮村」における朝鮮人大虐殺は、村人たちが目撃していた。しかし、その事実を、虐殺した者たちは、隠しつづけた。

③、いまも海南島に埋められている朝鮮人
  아직도 해남도 땅에 묻혀 있는 조선인
 紀州鉱山の真実を明らかにする会は、2002年4月17日に金大中大統領に、2003年5月5日に盧武鉉大統領に、①「朝鮮村」に埋められている人たちの遺骨の死因を解明してほしい、②「朝鮮村」の遺骨の処遇を国家プロジェクトとして考えてもらいたい、と要請した。
 紀州鉱山の真実を明らかにする会は、2003年11月から民族問題研究所および太平洋戦争被害者補償推進協議会と協議をかさね、「朝鮮村」の遺骨「発掘」の準備をすすめた。遺骨鑑定人も決まった。しかし、2004年2月の「発掘」直前に、地権所有者(韓国人)が突然拒否したため、中止せざるをえなくなった。
 2004年9月15日に、紀州鉱山の真実を明らかにする会は、日本政府に「“南方派遣朝鮮報国隊”の真相究明」を文書で要請した。それに対して、10月6日付けで厚生労働省職業安定局総務課から、
   「厚生労働省では「南方派遣朝鮮報告(ママ)隊」に関する資料がないため、要請に対し
  てお答えすることができません」
という回答があったのみであり、なぜないのか、どのような調査をしたのか、まったく説明されていなかった。
 韓国民衆運動が深化していくなかで、2004年年2月に「日帝強占下強制動員被害真相究明等に関する特別法」が韓国国会で議決され、11月に「日帝強占下強制動員被害の真相を糾明し、歴史の真実を明らかにすること」を目的とする日帝強占下強制動員被害真相糾明委員会が国家機構として設置された。
 2005年4月に、紀州鉱山の真実を明らかにする会は、日帝強占下強制動員被害真相糾明委員会に、日帝強占下の海南島における朝鮮人強制動員・虐殺被害真相糾明を共同でおこなうこと、そのために、「朝鮮村」発掘をおこなうことを提言した。この提言に、真相糾明委員会は同意した。
 紀州鉱山の真実を明らかにする会は、真相糾明委員会の要請に応じて、2005年6月23日に、真相糾明委員会に対し海南島における日本軍の「朝鮮村」での朝鮮人虐殺にかんする調査請求をおこなった。この請求は同年9月2日に受理されたが、真相究明委員会は、いつまでたっても海南島での組織的調査をおこなおうとせず、  「朝鮮村」発掘の準備もしようともしなかった。
1998年6月から2006年4月まで30回あまり「朝鮮村」を訪問してきた紀州鉱山の真実を明らかにする会は、いつまでも放置しておくことができないため、やむをえず、2006年5月2日に「朝鮮村」の遺骨のはじめての科学的な「発掘」を、会だけで試みた。
 それは、「朝鮮村」における日本軍による朝鮮人虐殺の事実を確かめ、①埋葬様式、②埋葬状態、③遺体状態、④遺骨、⑤遺物状態、⑥遺物内容などを解析・鑑定・分析することによって、できるかぎり死因を特定し、朝鮮人であるかどうかを埋葬様式と埋葬状態の分析によってできるだけ明らかにし、公的機関による全面的「発掘」をうながすためであった。
 「朝鮮村」に埋められている人たちは、遺骨となって、日本の侵略犯罪の事実を証言している。
 「朝鮮村」での「発掘」は、日本の侵略史の発掘、日本の侵略犯罪の発掘であった。
 しかし、このときの「発掘」は、中国海南省政府によって中断させられた。
 2006年7月6日に、紀州鉱山の真実を明らかにする会は、ドキュメンタリー『“朝鮮報国隊”』を完成させ、翌日東京の高麗博物館で試写会をおこなった。高麗博物館では、5月17日~7月16日に、特別展示『海南島で日本は何をしたか 戦時朝鮮人強制労働・虐殺 日本軍“慰安婦”』が開催されていた。
 2008年夏に、「朝鮮村」を横断する高速道路の建設が開始され、朝鮮人の遺骨が埋められている場所のすぐ近くが掘り崩され、建設工事用の建物などが建設され、遺骨の一部が、地表に現われた。
 2012年11月3日に「朝鮮村」を訪れたわたしたちは、朝鮮人が埋められていると思われる地域の7割~8割が厚い土砂で覆われ、壁で囲まれているのを見た。そこは、「秋苑陶芸園」という名がつけられ、樹が植えられ、大型の陶器の壷が置かれ、レンガ造りの登り窯、作陶場・展示場の建物がつくられていた。朝鮮人の遺骨の多くは、その下に埋められたままになっていると思われる。壁の外側の残された2割~3割の土地には、雑草が茂っていた。高速道路は完成し、「朝鮮村」は分断されていた。
 日帝強占下強制動員被害真相糾明委員会(のちに、対日抗争期強制動員被害調査および国外強制動員犠牲者支援委員会)は、「朝鮮村」の遺骨を放置し続け、「朝鮮報国隊」にかんする真相究明報告書も作成しなかった。
                                     佐藤正人
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海南島における日本の侵略犯罪  とくに「朝鮮報国隊」について 3

2017年05月29日 | 海南島史研究
4、海南島に連行された朝鮮人女性・台湾人女性
 2000年3月に、わたしたちは、海南島南部の保亭に行き、朝鮮人女性朴来順さん(1912年生)の墓を訪ねた。保亭県公路局が建てた墓誌には、「生於一九一二年卒於一九九五年」、「祖妣韓国僑工来順朴氏墓」と刻まれていた。朴来順さんは、日本の軍艦にのせられて、1942年2月に海南島北部の海口につれてこられ、海口の「慰安所」にいれられ、1943年1月に、海南島南部の三亜紅沙の「慰安所」に移された。日本敗戦後も故郷に戻らず、保亭県の公路局で働き、1995年に亡くなり、保亭郊外に埋葬された。
 2002年10月に、わたしたちは、保亭で、保亭文史資料工作委員会主任であった張応勇さん(1940年生)に、朴来順さん(1912年生)について、くわしく話しを聞かせてもらった。
張応勇さんは、
   「日本の罪悪史を調査していて、朴来順さんのことを知った。なんども訪ねて、ようや
  くすこしづつ話しを聞かせてもらうこができた。故郷に帰りたかったら、領事館を通じて
  話してあげようといったが、ここで長い間暮らしたのだから、ここで死ぬといった」
と話した。2003年7月に、わたしたちは、張応勇さんに、朴来順さんが死ぬときまで住んでいたところ(保亭亭県公路局宿舎)にも案内してもらった。
 海南島に連行され、「慰安婦」とされられた朝鮮人女性の数は、はっきりしない。わたしたちの調査と海南島で発行されている『文史史料』などの記述を総合すれば、海口、三亜、石碌、藤橋、陵水などの「慰安所」に収容されていた朝鮮人女性は70~80人である。
 1945年に日本海軍「三亜航空隊」の第二中隊長であった楢原留次氏によれば、飛行場近くの「つばさ荘」という名の「慰安所」に、朝鮮人女性15人が「収容」されていたという(楢原留次「海軍経歴と海南島勤務」、『三亜航空基地』三亜空戦友会事務所刊、1980年)。
 2003年春に、わたしたちは、慶尚南道生まれの朴来順さんが2年7か月間入れられていた紅沙の「慰安所」跡を訪ねた。
 子どものころからその近くに住んでいた蘇殷貞さん(1931年生)は、
   「建物は三つあった。一般兵士は土日、将校は金曜日に来た。一般人はそこに入るこ
  ともできなかった。朝鮮人の女性は、白い服を着ていた。長いスカートだった。(チマ・チョ
  ゴリの絵を書いて見てもらうと)。これだ。こんな服を着ていた。朝鮮人の女性たちは髪が
  長かった。日本人は髪が短い。“アリラン”は聞いたことがある」
と、話した。蘇洪槙さんは、朴来順さんを見かけたことがあったかもしれない。
 朴来順さんは、故郷にもどることなく、1995年に海南島で病死した。おなじ「慰安所」に入れられていた台湾の盧満妹さん(1926年生)は、謝罪と賠償を求めて、日本国を被告とする裁判闘争を1999年にはじめた。
 2000年12月に東京で開催された女性国際戦犯法廷で盧満妹さんは、
   「看護婦にならないかと騙されて、高尾から軍艦で海南島に連れていかれ、紅沙の「慰安
  所」に入れられた。そこには30人あまりの女性が入れられており、30人が台湾人で、朝鮮
  人女性や日本人女性もいた」
と証言した。
 わたしたちは、2004年2月に、朴来順さんの故郷、慶尚南道咸安を訪問した。朴来順さんの家のあった場所は空き地になっていた。
 盧満妹さんは2011年8月に亡くなった。
                                    佐藤正人
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海南島における日本の侵略犯罪  とくに「朝鮮報国隊」について 2

2017年05月28日 | 国民国家日本の侵略犯罪
2、海南島での朝鮮人強制労働
 日本企業は、日本占領下の海南島で、日本軍と共に、資源を略奪し、住民を虐待し、朝鮮や台湾・中国大陸各地から連行した人たちを酷使し、暴行死・事故死・病死・餓死させた。日本企業の経済侵略は、日本軍の軍事侵略とむすびついていた。
 1926年以降、朝鮮で、大規模水力発電所や肥料工場、油脂工場、化学工場、火薬製造工場、大豆調味料製造工場などを経営し、資源・労働力を掠奪していた日本窒素は、1940年4月から海南島に侵入し、海南島西部の石碌鉱山の鉄鉱石略奪を開始した。
 「朝鮮報国隊」の人たちは、日本軍用飛行場建設、港湾建設、鉄道・鉄橋建設、特攻艇格納用洞窟建設などをさせられ、石碌鉱山や石原産業が経営する田独鉱山でも働かされた。
田独鉱山に建てられている「田独万人坑死難砿工紀念碑」には、「朝鮮、インド、台湾、香港、および海南島各地から連行されてきた労働者がここで虐待され酷使されて死んだ」と記されている。

3、海南島に日本軍兵士としておくられた朝鮮人
  해남도로 일본군병사로서 가게 된 조선인
 1943年7月27日に、日本政府は、「勅令」第608号として、「海軍特別志願兵令」を出した。
 その第一条には、
   「戸籍法ノ適用ヲ受ケザル帝国臣民タル男子ニシテ海軍ノ兵役ニ服スルコトヲ志願スル
   モノハ海軍大臣ノ定ムル所ニ依リ銓衡ノ上之ヲ特別志願兵ニ採用シ海軍兵籍ニ編入ス」
と書かれていた。
 「戸籍法ノ適用ヲ受ケザル帝国臣民タル男子」とは、当時国民国家日本が植民地としていた朝鮮と台湾の「男子」 であった。「海軍特別志願兵令」は、朝鮮や台湾の知事や警察署長が、16歳~21歳の朝鮮と台湾の青年を強制的に「特別志願兵」として日本海軍の兵士とする「勅令」であった。
 朝鮮で「海軍特別志願兵令」(「勅令」第608号)が1943年8月1日に施行されてから2か月後、10月に最初(第一期)の「志願者」1000人が鎮海の「朝鮮総督府海軍志願兵訓練所」に入所し,6か月間の「訓練」のあと、「海兵団」に入団した。
 しかし、その後、日本政府・日本軍は、長期間「訓練」する余裕がなくなり、「朝鮮総督府海軍志願兵訓練所」を廃止し、「訓練」ぬきで、ただちに「志願者」を「海兵団」に入団させた。
 海南島に日本海軍の兵士として入った最初の朝鮮人は、「鎮海海兵団」に入団した「海軍特別志願兵」の第1期生であった。この人たちが乗って南方に向った船は、台湾とフィリピンの間のバシー海峡で沈没し、生き残った人たちは、マニラを経由してベトナムのサイゴンに行き、サイゴンから海南島に行った。
 かれらが、海南島に上陸したのは、1944年の中ごろだと思われる。
 1939年2月に海南島に奇襲上陸した日本海軍は、武力行使を集中的におこなう「Y作戦」を9回おこない、抗日反日武装部隊を制圧し抗日反日闘争の深化を阻止しようとして住民虐殺をくりかえした(「Y1作戦」:1939年2月~11月、「Y2作戦」:1940年2月~4月、「Y3作戦」:1941年2月22日~3月31日、「Y4作戦」:1941年8月9日~8月30日、「Y5作戦」:1941年11月25日~1942年1月25日、「Y6作戦」:1442年6月、「Y7作戦」:1942年11月~1943年6月、「Y8作戦」:1943年12月から1年間断続的に、「Y9作戦」:1944年12月)。
 日本海軍は、「Y作戦」の期間だけでなく、6年半の占領の全期間に継続的に海南島各地で住民虐殺、村落破壊、放火、暴行、略奪、人権侵害を重ねた。
 「海軍特別志願兵」の第1期生が海南島に日本海軍の兵士として上陸したのは、日本海軍が海南島で「Y8作戦」をおこなっているさなかであったと思われる。
 1946年5月に日本陸軍少将富田直亮(第23軍司令官田中九一代理)の名で出された第23軍司令部の「状況報告」(日本防衛研究所図書館所蔵)の別表第一「華南地区第二十三軍隷属(指揮)下部隊(海軍部隊及居留民ヲ含ム)人員一覧表」には、「海南島地区」の陸軍部隊は68人、海軍部隊は3万3475人、居留民は1万1935人、計4万5478人であり、陸軍部隊は全員が「内地籍」、海軍部隊は、「内地籍」1万7674人、「台湾籍」1万5068人、「韓籍」733人、居留民は、「内地籍」5214人、「台湾籍」5488人、「韓籍」1233人と書かれている。
 ここでは、当時、海南島にいた朝鮮人は、733人+1233人=1966人であったとされている。
1944年11月から日本の敗戦時まで海南警備府司令長官であった伍賀啓次郎が、帰国後、1946年4月10日付けで日本政府に提出した「帰還報告書」(日本防衛研究所図書館所蔵)には、 “日本敗戦時に海南島にいた朝鮮人の総数は1620人であり、そのうち軍人は175人、軍属は110人、「其ノ他」は1335人であった”、と書かれている。
 そこでは、第15警備隊:軍人36人・軍属2人、第16警備隊:軍人21人・軍属4人、横須賀鎮守府第4特別陸戦隊:軍人52人・軍属5人、佐世保鎮守府第8特別陸戦隊:軍人22人・軍属1人、舞鶴鎮守府第1特別陸戦隊:軍人44人、軍需部・運輸部:軍属31人、施設部:軍属5人、特務部:軍属9人、気象部:軍属1人、「朝鮮報國隊」:軍属52人・「其ノ他」606人、居留民:「其ノ他」729人とされている。
 日本敗戦時に海南島にいた朝鮮人軍人・軍属は、「華南地区第二十三軍隷属(指揮)下部隊(海軍部隊及居留民ヲ含ム)人員一覧表」では733人、伍賀啓次郎の「帰還報告書」では285人(軍人175人・軍属110人)とされており、大きく違っている。
 海南島に朝鮮人が何人日本海軍兵士として送り込まれたのかは、はっきりしていない。
 瓊山の捕虜収容所には第15警備隊と舞鶴鎮守府第1特別陸戦隊の将兵が、三亜の捕虜収容所には第16警備隊と横須賀鎮守府第4特別陸戦隊と佐世保鎮守府第8特別陸戦の将兵が収容されていた。
伍賀啓次郎の「帰還報告書」の「朝鮮籍民ノ移管」と題する節には、
   「集中セザル居留民ヲ中心トシ朝鮮人民聯合会ヲ結成シ韓国独立光復軍ノ編成等ヲ
  標榜活溌ナル運動ヲ開始シ特ニ集中セル軍人軍属ニ働キカケタル為軍人軍属中一部
  ノ者ハ日本軍人軍属ト共ニ集結スルコトヲ潔シトセズ事毎ニ反抗的態度ヲ執リアリタル
  処一九四五年十月中旬第十五警備隊ノ特別志願兵十九名ハ朝鮮人民聯合会ノ策動
  ニ呼応遂ニ聯合会ヘ逃亡スルニ至レリ」(原文は「元号」使用)
と書かれている。
 海南警備府の名で1946年3月1日付けで出された「海南島地区局地処理要報(居留民関係)」には、
   「朝籍民ハ終戦前別ニ会ヲ組織セザリシモ終戦後独立ノ声ニ応ジ朝鮮人民会(後ニ
  韓国人民聯合会ト称ス)ヲ組織ス 彼等ハ台湾籍民ニ比シ其ノ数モ尠ク且其ノ大部分
  ハ開発会社ノ労務者ニシテ知識分子尠シ 彼等ノ一部ノ者ハ穏健ニシテ軽挙ヲ慎ミ帰
  還迄ハ従来通日本人ト行動ヲ共ニスルヲ穏当ナリトセルモ大部分ハ独立国家ノ国民ト
  シテノ自覚ニ生キ従来ノ従属的関係ヲ絶チ独立独歩ノ自己ノ生活ヲ営ムベシト主張シ
  遂ニ朝鮮人民会ノ大勢ヲ支配スルニ到レリ 従テ終戦直後ハ我方ニ対シ其ノ態度冷然
  タルモノアリタルガ十一月分迄ノ我方ノ配給物資モ消費シ尽シ生活ニ窮スルニ及ビ中
  国側の食料支給ノ措置ナキ儘食料問題ニ関シ我方ニ申入レスルノ余儀ナキニ到リ遂
  ニ昨年十二月一日海口人民会長等数名ハ海南海軍特務部溝口政務局長ト会談ノ際
  狙撃死ニ到ラセシメタル不祥事件ヲ惹起セリ」、
   「朝鮮籍居留民ニ対シ大体中国側ノ態度ハ台湾籍居留民ニ対スルモノト同一ナリ 又
  会社従業員ニ関シテモ各会社ニ於テ台湾籍居留民ニ準ジ取扱ヲ為セリ 鮮籍民ハ終戦
  後相当ノ人口移動ヲナシ目下海口地区ニ約一七〇名楡林三亜地区ニ二三七名集結セ
  リ」
と書かれている。
                                   佐藤正人
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海南島における日本の侵略犯罪  とくに「朝鮮報国隊」について 1

2017年05月27日 | 海南島史研究
■海南島における日本の侵略犯罪  とくに「朝鮮報国隊」について
 해남도에 있어서 일본의 침략범죄  특히 「朝鮮報國隊」에 대해

  1、国民国家日本の歴史は他地域他国侵略の歴史
  2、海南島での朝鮮人強制労働
  3、海南島に日本軍兵士としておくられた朝鮮人
  4、海南島に連行された朝鮮人女性・台湾人女性
  5、「朝鮮報国隊」
      ①、「報国隊」とは
      ②、「朝鮮報国隊」虐殺
      ③、いまも海南島に埋められている朝鮮人
  6、日本の国家犯罪の歴史的責任
  資料 海南島への朝鮮人連行・「朝鮮報国隊」「朝鮮村」

1、国民国家日本の歴史は他地域他国侵略の歴史
 國民國家일본의 역사는 타지역과 타국침력의 역사

 国民国家日本は1868年に形成されはじめた。国民国家形成の過程で日本は植民地と占領地を拡大した。国民国家日本の歴史は、他地域・他国侵略の歴史であった。
 1895年4月、「日清講和条約」によって清国は、日本に台湾・澎湖列島・遼東半島、および3億円をわたした。このとき、宮古・八重山地域(宮古島、石垣島、西表島、与那国島など)も日本の植民地とされた。
 1904年2月8日に、日本陸軍(「韓国臨時派遣隊」)が朝鮮の仁川に上陸し、その翌日、日本海軍が仁川沖のロシア軍艦を奇襲攻撃した。日本は、「日清戦争」のときと同様に「宣戦布告」することなく、ロシアとの戦争を開始した(「宣戦布告」は、2月10日)。
 1905年2月に、国民国家日本は、独島を日本領土とした。日本が独島を略奪し、大韓帝国を植民地化(「乙巳保護条約」受諾強要)したのは、ヘレロ虐殺・マジマジ虐殺の時期だった。日本の独島占領は、国民国家日本の領土拡大の一環であり、アイヌモシリ植民地化、琉球王国植民地化、小笠原諸島領土化、台湾・澎湖島植民地化、八重山諸島植民地化、南鳥島日本領化に続くものであった。
 1905年11月に、日本政府は朝鮮に統監府を設置した。大韓帝国政府が日本正規軍の占領下で内政権、財政権、警察権を侵害され、外交権を奪われた。
 「日清戦争」前後から「日ロ戦争」前後に至る時期は、アメリカ合州国のハワイ・サモア植民地化、フランスのマダガスカル・ダホメ・サモリ帝国植民地化、ドイツの東南アフリカ・マーシャル諸島植民地化、日本・アメリカ合州国・イギリス・ロシア・ドイツ・オーストリア・フランス・イタリア8か国連合軍の中国侵略(義和団戦争)の時期だった。
 東アフリカ民衆がマジマジ戦争を戦っているさ中、1906年に、朝鮮で反日義兵が中心となって独立戦争を開始した(第1次朝鮮独立戦争)。数年にわたる戦いのなかで、大量の武器と弾薬をもって襲撃してくる日本の軍警によって、日本側文書によっても1万7千人を越す朝鮮民衆が殺害された(朝鮮駐箚軍司令部『朝鮮暴徒討伐誌』1913年、附表第二)。朝鮮民衆が第1次独立戦争を戦っている時期に、台湾民衆は1895年以降、抗日反日武装闘争を戦いつづけていた。
 1910年6月22日、日本政府は、拓務局官制を公布した。そこでは、「拓務局は……台湾、樺太、韓国に関する事項を統理す」とされており、この時点ですでに、朝鮮は台湾、樺太と同様に「統理」の対象とされていた。その2か月後、1910年8月に、大日本帝国は大韓帝国を「併合」した。
 第1次世界大戦開始後まもなく、1914年8月に、日本はドイツに宣戦布告し、10月に、ドイツが植民地としていたミクロネシア地域(「マーシャル諸島」、「マリアナ諸島」、「カロリン諸島」)を占領し、12月に軍政をしいた。
 第1次世界戦争は、日本にとっては第1次アジア太平洋戦争であった。この戦争の時期に、台湾では原住民族が日本軍と戦っていた。第1次アジア太平洋戦争と台湾戦争が同時に戦われていた。1914年に台湾戦争で戦死した日本軍兵士は66人、日本人警官は71人であった(靖国神社社務所『靖国神社忠魂史』第5巻)。
 1919年に帝国主義諸国は、国際連盟を利用して、ドイツからとりあげた土地を分配しあった。日本は、ドイツが占領していた太平洋諸島のうち赤道以北のすべての島の「統治」を国際連盟から「委任」され、海軍が軍政を続けた。1922年4月に、日本政府は、軍政を廃止し「南洋庁」を設置した。「南洋庁」はアイヌモシリ植民地機関である北海道庁と同じく内務省が管轄した(1935年に日本拓務省内に「南洋群島開発調査委員会」が設立され、1936年に朝鮮の東洋拓殖株式会社に相当する国策会社である南洋拓殖株式会社が設立された)。
 日本は、1931年7月に、沖之鳥島と名付けた2平方メートルの放置しておけば水没する岩礁を日本の領土とした。現在、日本の最南端とされている岩礁(沖之鳥島)の周囲50メートルをコンクリートで固めている。
 1931年9月に、日本は中国東北部・モンゴル東南部への武力侵略を開始し、1932年3月に「満洲国」を偽造して、支配地域を拡大した。
 1933年1月1日に、日本軍は、長城を越えて中国河北省への軍事侵略を開始した。
 1935年12月25日に、日本政府・日本軍は、傀儡「冀東防共自治政府」をつくり、1937年7月7日の「盧溝橋事件」後、1937年12月14日に華北に傀儡「臨時政府」を、1938年3月28日に華中に傀儡「維新政府」をつくり、1940年3月30日に中国の占領地域の傀儡政府を統合して「中華民国中央政府」をつくった。
 1938年12月23日、日本政府は、海南島のはるか南方の、ベトナム東南方・ボルネオ島北方・フィリピンのパラワン島西方にある「新南群島」を日本領土に編入すると、閣議決定し、天皇ヒロヒトは、12月28日にそれを承認した。
 1939年2月10日に、日本陸海軍が、海南島侵略を開始した。
 1940年7月26日、日本政府は閣議で、日本を中心として「大東亜の新秩序」を建設することを国家の基本方針とするという「基本国策要綱」を決定した。
 1941年12月、日本軍は、マラヤのコタバル、フィリピンのダバオ、ハワイのパールハーバーを、ほぼ同時に奇襲攻撃し、第2次アジア太平洋戦争を開始した。太平洋の島々が戦場となり、多くの住民が日本軍とアメリカ合州国軍に殺された。
 1943年5月に、日本天皇ヒロヒトと日本政府および日本軍中枢は、オランダの植民地とされていたスマトラ島、ジャワ島、ボルネオ島、セレベス島などを「帝国ノ領土ト決定」した(「大東亜政略指導大綱」)。
 1945年1月18日に、最高戦争指導会議は「今後とるべき戦争指導の大綱」を決定し、翌19日に「帝國陸海軍作戦計画大綱」をヒロヒトが承認(裁可)した。この大綱は、「本土決戦」にそなえてオキナワをアメリカ合州国軍との戦場とすることをきめていた。その50日後の3月27日にアメリカ合州国軍がオキナワ上陸を開始し、以後3か月の間に、おおくのオキナワ民衆がアメリカ合州国軍と日本軍に殺された。
 1945年8月14日、日本政府は、ポツダム宣言(日本への降伏要求の最終宣言)を受諾した。この日の夜録音した「終戦の詔勅」で、ヒロヒトは、なおも、第2次アジア太平洋戦争の戦争目的を「帝国の自存と東亜の安定」であったとし、「忠良なる爾臣民」に対して「神州の不滅」を信じることを要求した。
                                        佐藤正人
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帝国主義諸国の侵略犯罪史における海南島侵略犯罪 年表(抄) 2

2017年05月26日 | 海南島史研究
1939年9月1日 西からドイツ軍がポーランドに侵入。 9月17日、東からソ連軍が侵入。 分
    割占領。
1939年9月1日 朝鮮総督府、「朝鮮人労務者募集並渡航取扱要綱」を出す(「募集」方式の
    朝鮮人強制連行開始)。
1939年11月10日 朝鮮総督府、「朝鮮民事令」改悪。 → 1940年2月「創氏改名」実施。
1940年2月~4月 日本海軍海南島で「Y二作戦」(地域住民虐殺)。  1941年2月~3月 「Y
    三作戦」。
1940年7月 関東軍防疫部、関東軍防疫給水部に改編(関東軍防衛給水部本部の通称:満
    州第731部隊)。
1940年10月27日 日本軍1644部隊、寧波市でペスト蚤散布。
1941年7月28日 日本陸軍第25軍約4万人、海南島楡林港からベトナム南部・カンボジア)に
    侵入。
1941年8月 日本海軍海南島で「Y四作戦」(地域住民虐殺)。 海南島澄邁県沙土・定安県黄
    竹鎮で住民虐殺。
1941年11月~42年1月 日本海軍海南島で「Y五作戦」。  1942年6月 「Y六作戦」。
1941年12月8日 海南島三亜港をでた日本軍、コタバル奇襲、アジア太平洋戦争開始。
1942年2月 日本軍、シンガポールで華僑大虐殺。
1942年6月5日~7日 日本海軍、ハワイ西北のミッドウェーのUSA軍を攻撃。大敗。
1942年8月7日 USA軍、ガダルカナル島に上陸開始 → 日本兵2万5千人戦死・餓死・病死。
1942年11月~43年4月 日本海軍海南島で「Y七作戦 1期」(海南島東北部住民虐殺)。
1943年3月30日 第1次「南方派遣朝鮮報国隊」ソウル出発 → 海南島へ。
1943年4月~5月 日本海軍海南島で「Y七作戦 2期」(海南島東部の住民虐殺)。
1943年5月12日 USA軍、アッツ島上陸開始。 5月29日、日本軍壊滅(日本兵2千6百人あ
    まり死亡)。
1943年6月 「Y七作戦 3期」(海南島西北部の住民虐殺)。
1943年7月23 日 海軍特別志願兵令公布(「勅令」)→ 朝鮮人、海軍特別志願兵に。
1943年9月8日 イタリア、「連合軍」に全面降伏。
1943年11月21日 USA軍、現キリバス共和国のマキンとタラワに上陸。11月22日、マキン
    で日本軍壊滅(日本兵約500人死亡。朝鮮人軍属数百人のうち生存者104人)。11月
    23日、タラワで日本軍壊滅(5000人近い日本兵、軍属、朝鮮人軍属死亡。朝鮮人軍
    属生存者百数十人。マキンとタラワで朝鮮人約1200人死亡。
1943年12月から1年間断続的に  日本海軍海南島で「Y八作戦」(地域住民虐殺)。
1944年3月~7月 「インパール作戦」で日本兵約5万人死亡。
1944年4月 朝鮮人にたいする徴兵検査開始。  1945 年1月 台湾人にたいする徴兵検査
    開始。
1944年6月15日 USA軍、サイパン島への再上陸開始。 7月7日、日本軍壊滅。
1944年7月24日 USA軍、テニアン島への上陸開始。 8月3日、日本軍壊滅。
1944年10月10日 USA軍、沖縄大空襲(十・十空襲)。 1945年3月2日、沖縄本島大空襲。
1944年11月~45年8月 「松代大本営」建設工事。
1944年12月 日本海軍海南島で「Y九作戦」(地域住民虐殺)。
1945年1月4日~6月~  ルソン島戦(フィリピン人犠牲者110万人)。
1945年2月3日~3月3日 マニラ大虐殺(フィリピン人市民約10万人が死亡)。
1945年2月19日~3月17日 硫黄島戦(日本側死者2万人余、USA側死者6821人)。
1945年3月10日 東京大空襲、12日名古屋大空襲、13日大阪大空襲 、17日神戸大空襲、
    5月29日横浜大空襲。
1945年3月26日 USA軍、沖縄慶良間諸島の慶留間島・座間味島などに上陸。「沖縄戦」
    開始。
1945年3月26日 慶留間島で53人、「集団自決(強制集団死)」。 4月2日 読谷村チビチリ
    ガマで強制集団死。
1945年4月12日 佐世保第8特別陸戦隊、海南島楽会県互助郷を襲撃(被殺者777人、幸存
    者337人)。
1945年4月27日 沖縄阿嘉島で日本軍、朝鮮人軍夫約10人虐殺。
1945年4月30日 ヒトラー自殺。 5月7日 ドイツ無条件降伏。
1945年5月2日 海南警備府佐世保鎮守府第8特別陸戦隊万寧守備隊、万寧市月塘村を襲
    撃。犠牲者190人。
1945年6月13日頃 沖縄で日本海軍大田司令官自殺。6月22日頃、日本陸軍牛島司令官自
    殺。
1945年7 月30 日 海南警備府第15 警備隊舗前守備隊、文昌市秀田村を襲撃(被殺者140
    人、幸存者56 人)。
1945年6月27日~8月20日 沖縄久米島で日本軍、住民虐殺(朝鮮人谷川昇〈本名不明〉の
    家族7人を含む)。
1945年8月6日・9日:アメリカ合州国政府・軍、広島・長崎に原爆投下(14万人・7万4千人殺
    害)。
1945年夏 日本海軍海南警備府第16警備隊の兵士ら、「朝鮮報国隊」の朝鮮人を虐殺。
1945年8月14日:日本無条件降伏。 8月15日「大東亜戦争終結ノ詔書」NHK放送。
1946年4月 海南島から朝鮮へ「帰還船」出港→釜山へ。
1946 年5月~49年3月 朝鮮人23人・台湾人21人、「戦犯裁判」で処刑。
1946年11月3日 最悪の戦犯を日本国民統合の象徴とする「日本国憲法」公布(1947年5月3日
    施行)。
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民衆の世界史概要 7、民衆史(とくに海南島民衆史について)

2017年05月25日 | 個人史・地域史・世界史
■海南島近現代史のなかの世界近現代史
※1939年~1945年~2017年
 2017年5月:1869年9月(アイヌモシリ植民地化)から147年8月、1939年2月から78年3月。
※戦後?  日本国家の他地域他国侵略の時代は、終わっていない。
 侵略。戦争。占領。領土化。植民地化。併合。不等価交換。
※現在の侵略
 天皇制を前提とした「平和憲法」下の日本国家・日本軍の他地域・他国侵略。
 朝鮮戦争、ベトナム戦争、湾岸戦争、アフガニスタン戦争に実質参戦。
 1999年8月13日、日本は、侵略の旗「ヒノマル」を国旗とし、天皇賛歌「キミガヨ」を国歌とした。
 その12日後(8月25日)、他地域・他国軍事侵略のための「周辺事態法」を施行。2001年12月2日、日本海軍軍艦が、アラビア海で作戦行動中のアメリカ合州国軍艦に燃料を洋上補給。アフガニスタン侵略戦争・アフガニスタン民衆殺戮に直接荷担。このとき、アジア太平洋戦争後はじめて、日本正規軍が侵略戦争に参戦。
 2004年1月から日本政府は日本軍を、アメリカ合州国のイラク侵略戦争に参戦させた(2004年1月、日本軍サマワに侵入)。日本は、ファルージャやバスラなどイラク各地でのアメリカ合州国軍の民衆虐殺に間接的に荷担。
 2011年11月から日本軍南スーダンに侵入(2015年12月から「第9次要員(基幹:第10師団)が侵入。2017年5月撤退開始)。
 2015年9月19日、自民党とそれに追随する公明党などが、「平和」をかかげる戦争法(「平和安全法制整備法」と「国際平和支援法」)を成立させた(9月30日公布、2016年3月29日施行)。
※連鎖 木本トンネル → 紀州鉱山の坑道 → 海南島の日本軍用洞窟 → 太平洋の島々の日本軍用洞窟 →  硫黄島の数百本のべ18キロの地下坑道(「横穴陣地」)を朝鮮人も掘らされた。
※個人史のなかの世界史・地域史のなかの世界史
   現在の、日常のなかの世界史。 侵略の世界史⇔抵抗の世界史。
   海南島近現代史⇔世界近現代史。
※日本ナショナリズムとの対決を!
   日本民衆(労働者、農民、会社員、漁民、商人、官吏、医者、看護婦、店員、教師、
  主婦……)は、なぜ天皇制を支持し、他地域他国侵略を実行したのか。しているのか。
※他地域他国侵略をゆるさない日本民衆の歴史認識
   シオニストのパレスティナ侵略・「イスラエル国」の歴史は、USA……日本国……の歴史。
※解放のインターナショナリズム ⇔ グローバリズム、ナショナリズム

■海南島戦争(侵略と抵抗)
   アジア太平洋全域における抗日反日闘争のなかで
   1939年2月から6年半
   1939年2月、日本軍の海南島奇襲上陸直後から、日本のマスメディア、「従軍作家」などは
  事実を隠蔽して海南島侵略を美化、宣伝、扇動。
   日本民衆は領土拡大を喜び、支持(兵士……となった日本民衆は直接、犯罪を実行)。

■国民国家日本の海南島侵略と抗日反日闘争の歴史 
   Ⅰ、海南島民衆の抗日反日闘争
      国民党軍の戦い
      共産党軍の戦い
      民衆闘争
   Ⅱ、日本政府・日本軍・日本企業の海南島における犯罪
       軍事:★住民虐殺、「処刑」、村落破壊、放火、暴行、略奪。「海南部隊命令」第
         19号、「1941年海南島緊急米穀対策要綱」。★港湾、道路、橋梁、鉄道、軍事施
         設(飛行場、司令部、兵舎、要塞、望楼、砲台、トーチカ、火薬庫、給水塔、軍
         用倉庫、軍用洞窟)などを整備・新設。 農地・住宅などを破壊して建設。
       軍事・経済:★金融支配。「軍票」乱発。★新都市建設、鉱山開発、電源開発。★強
         制連行・労働強制。 暴行死・事故死・病死・餓死。 ★漁業資源・森林資源収
         奪・コメ、砂糖、ゴム、薬草……収奪。海南島農林開発委員会設置(日本企業30
         数社)。 ★土地収奪 → 熱帯産農産物事業会社が綿花、ゴム、サトウキビなど
         栽培・日本人「農業移民」。★アヘン生産。
       軍事・政治:★行政機関設置(三省〈外務省、海軍省、陸軍省〉連絡会議)。傀儡政
         府創作。★「治安維持会」・「良民証」による住民相互監視・管理。
       軍事・社会:★性的暴行・日本軍隊性奴隷化(「慰安所」設置)。
       軍事・文化:★「ヒノマル」・「キミガヨ」おしつけ、天皇賛美強制、日本語使用奨
         励・「皇民化教育」(日本語学校設置)。

■海南島史のなかの世界史・世界史における海南島史
   海南島の先住民。漢族の侵入。漢族の支配。日本人の侵入。海南島解放とは?
   地域・社会・個人:犠牲者一人ひとりの個人史。

   中華帝国。台湾。海南島。越南。ジュンガリア(ジュンガル帝国)。
   トルキスタン:西トルキスタン(トルクメニスタン・ウズベキスタン・キルギス・カザフス
  タン・タジキスタン)。東トルキスタン(中華人民共和国新疆ウイグル自治区)。南トルキス
  タン(アフガニスタン北部)。
   琉球王国、台湾民主国、マダガスカル(メリナ王国)、ハワイ王国。
   アヘン戦争、義和団戦争、マジマジ戦争、義兵戦争、シベリア戦争、台湾戦争、海南戦争。

■海南島史
  石器時代:三亜市吉陽区の落筆洞遺址。東方市四更镇荣村の付龍園遺址。文昌市昌洒鎮の鳳鳴村遺址など。
  BC110年:漢、海南島に珠崖郡、儋耳郡を設置?
  631年:唐、海南島を瓊州(簡稱「瓊」)とする? 
  19世紀:清、海南島に瓊州府設置。県:儋州、瓊山、澄邁、定安、文昌、會同(→瓊海)、樂會(→瓊海)、臨高。
  1905年:県:感恩(→東方)、昌化(→昌江)、陵水、万県(→万寧)。
  1912年:中華民国建国。「中華」・「五族共和」という排外主義・侵略思想。
  1931年12月:国民政府、海南島を瓊崖特別区とする。
  1939年2月:日本軍、海南島に侵入。1945年8月:投降。
  1947年8月:国民政府行政院、瓊崖特別区を海南特別行政区とする。
  1949年10月1日:中華人民共和国成立。
  1950年5月1日:中国人民解放軍、海南島全域占領。  → 中国政府、海南島を広東省に編入。
  1950年5月30日:昌江・感恩県→昌感県、1958年:昌感県・東方県・白沙県→東方県、1962年5月:昌江県再度設置、1987年11月20日:昌江県→昌江黎族自治県。
  1987年11月20日:白沙県(1935年設置)→白沙黎族自治県、楽東県(1935年設置)→楽東黎族自治県、陵水県(611年設置?)→陵水黎族自治県、瓊中県(1948年設置)→瓊中黎族苗族自治県、保亭県(1935年設置)→保亭黎族苗族自治県。
  1988年4月:中国政府、海南省設置。 → 中国本土から多数の漢族などが移住。人口急増。
  2012年6月:中国政府、海南省に三沙市(市政府駐地西沙永興島)設置。

  現在の海南省の行政区
    市:海口市、三亜市、儋州市、五指山市、瓊海市、文昌市、万寧市、東方市、三沙市。
    県:定安県、屯昌県、澄邁県、臨高県。
   自治県:白沙黎族自治県、昌江黎族自治県、楽東黎族自治県、陵水黎族自治県、保亭
       黎族苗族自治県、瓊中黎族苗族自治県。

■島、島嶼国家
   海南島(3万3572 km²)、台湾島(3万5801 km²)、ホンコン島、ルソン島、パナイ島、チモール島(3万777 km²)、パプア島、ガダルカナル島(5336km²)、マライタ島、サンタイサベル島、タスマニア島(6万637 km²)、シンガポール島(約700 km²)、スマトラ島。
   サハリン島(7万6400 km²)、クナシリ島(1498 km²)、エトロフ島(3139 km²)、ウルップ島(1450 km²)……、「北海島」(7万8073 km²)、沖縄島(1207 km²)、宮古島、石垣島、波照間島……、奄美大島、対馬(708 km²)、佐渡島(859 km²)、淡路島(593 km²)、小豆島(153 km²)、伊豆大島、式根島、神津島、三宅島、御蔵島、八丈島、沖ノ鳥島、南鳥島、硫黄島……。
   済州島(1845 km²。耽羅王国。耽羅民族)。
   マダガスカル島(58万7041 km²)、セイロン島(6万5610 km²)。
   ハワイ島、イスパニオラ島、マルビナス島(フォークランド島)。
   シチリア島(2万5460 km²)、サルデーニャ島、キプロス島、コルシカ島、クレタ島(8261km²)。
   ジャマイカ島(1万991 km²)。
   グレートブリテン島(20万9331 km²)、アイルランド島(8万4412km²)

   小島嶼国連合(Alliance of Small Island States AOSIS)。1990年設立。
   1994年:京都議定書草案作成に参加。国際連合加盟国の5分の1(37か国)+6地域。
★小島嶼国連合参加国・地域
 アンティグア・バーブーダ(1981年11月1日独立。アンティグア島、バーブーダ島、レドンダ島)、バハマ(1973年7月10日独立)、バルバドス(1966年11月30日独立)、ベリーズ(1981年9月21日独立)、カーボベルデ共和国(1975年7月5日独立)、コモロ連合(Union des Comores、1975年7月6日独立。ンジャジジャ島〈グランドコモロ島〉、ヌズワニ島〈アンジュアン島〉、ムワリ島〈モヘリ島〉)、クック諸島(1965年8月4日、ニュージーランドと自由連合)、キューバ、キプロス、ドミニカ国(Commonwealth of Dominica。1978年11月3日独立)、フィジー共和国(1970年10月10日独立)、ミクロネシア連邦、グレナダ(1974年2月7日独立。カリアク島、プティトマルティニーク島など)、ギニアビサウ共和国(1973年9月24日独立宣言)、ガイアナ共和国(1966年5月26日独立)、ハイチ共和国(イスパニョーラ島西部。1804年1月1日独立)、ジャマイカ(1962年8月6日独立)、キリバス共和国(1979年7月12日独立。ギルバート諸島、フェニックス諸島、ライン諸島の一部)、モルディブ共和国(1965年7月26日独立)、マルタ共和国(1964年9月21日独立)、マーシャル諸島、モーリシャス共和国(1968年3月12日)、ナウル共和国(1968年1月31日独立。2011年人口9322人。国土面積21平方キロ)、ニウエ(1974年10月19日、ニュージーランドと自由連合)、パラオ共和国(1994年10月1日独立。2005年人口20303人。1943年6月末、33,960人〈パラオ人6474人、日本人25026人、朝鮮人2460人、スペイン人・ドイツ人宣教師18人〉。ペリリュー島、コロール島、バベルダオブ島、アンガウル島など。1944年9月15日~11月25日ペリリュー島で日本軍・アメリカ合州国軍戦闘〈日本兵戦死 10695人、朝鮮人「軍属」死亡2千人?、アメリカ合州国兵戦死2336人〉)、パプアニューギニア、シンガポール共和国(1965年8月9日独立)、セーシェル共和国(1976年6月29日独立。115個の島。国名は1742年当時のフランスの大臣Jean Moreau de Séchellesの姓から)、サントメ・プリンシペ民主共和国(1975年7月12日独立。サントメ島、プリンシペ島など)、サモア独立国(Mālō Sa'oloto Tuto'atasi o Samoa。Independent State of Samoa。1962年1月1日独立。ウポル島、サバイイ島など)、セントクリストファー・ネイビス(1983年9月19日独立)、セントルシア(1979年2月22日独立)、セントビンセント・グレナディーン(1979年10月27日独立)、スリナム共和国(1975年11月25日独立)、トンガ王国(1970年6月4日独立)、トニダード・トバゴ共和国( Republic of Trinidad and Tobago。1962年8月31日独立)、ツバル(1978年10月1日独立。2000年国連加盟。2015年人口9916人)、バヌアツ共和国(1980年7月30日独立)。
★小島嶼国連合オブザーバー参加地域
 アメリカ合州国領サモア、グアム、アメリカ合州国領ヴァージン諸島、オランダ領アンティル。

■「歴史を読み直す」?

■民衆の世界史
 民衆の歴史認識
   民衆の歴史、民衆の世界史のふたつの意味。
   歴史を偽造する者たちとのたたかい。権力者の歴史とのたたかい。
   侵略と開発、ポストコロニアリズムという虚偽。

■証言(ことば→文字・映像)
   日本の国家犯罪を総体として認識し伝達する方法。
   国民国家日本の海南島における侵略犯罪を総体として認識する方法。
   海南島「現地調査」( 侵略と植民地支配の事実究明、抗日反日闘争史探求の調査)。
   証言:被害者・目撃者からの聞きとり。死者からは、聞きとりできない。
      加害者からの聞きとり。犯罪の「記憶」。
          旧日本軍兵士、朝鮮総督府行刑関係者の沈黙・証言(告白)拒否。
         沈黙のままの自然死。数人が広東裁判で死刑。ほとんどが「帰還」。
   証言を聞く者のありかたが、証言の質を決定する。
   「現地調査」・必然的な偶然の出会い。
   海南島人による聞きとり。朝鮮人による聞きとり。日本人による聞きとり……。
   聞きとって、どうするのか 。
      日本政府・日本軍の侵略犯罪の解明 → 責任追及(犯罪の責任・犯罪を隠しつづけ
     てきた責任)→ 国家謝罪・国家賠償、責任者処罰(侵略犯罪の最悪の責任者は、ヒロ
     ヒト)。
      海南島に侵入した日本企業(三井物産、日本窒素、石原産業、西松組〈現、西松
     建設〉、浅野セメント、王子製紙、武田薬品、資生堂、三越百貨店、トヨタ自動車、明
     治製糖、……)の過去と現在の侵略犯罪解明・責任追及。

■記録(文書〈報告書・記録文学・新聞〉、映像、歴史地図)
   被害の記録、加害の記録。

■モノ・「場」
   アジア太平洋戦争の「場」。 犯罪現場・抗日根拠地。交錯する「場」。
   住民虐殺はほとんど「遺跡」として残されていない。
   「戦争遺跡」というコトバには、侵略犯罪の証拠という意味が薄い。
   侵略犯罪の巨大さを隠してしまう。

■さまざまな人生・体験   被害者の人生。犠牲者の生と死。  加害者の人生

■朝鮮村発掘 →日本軍・日本政府の犯罪事実の解明 → 責任追及 → 国家謝罪・賠償。
   「朝鮮村」の遺骨=殺された人が村人とともに「証言」する。
   誰が殺されたのか。どのように殺されたのか。

■歴史を知ること。事実を知ること
   事実はひとつ。事実はひとつ。実証。ことば。文字
   事実をどのように評価するか(歴史意識。歴史観。歴史思想)。記憶は「継承」できない。
   自力で。確信をもって。

                                     佐藤正人
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帝国主義諸国の侵略犯罪史における海南島侵略犯罪 年表(抄) 1

2017年05月24日 | 海南島史研究
1492年 コロンブス船団大西洋往復 → インディヘナ虐殺、資源掠奪。
1592年~93年 壬辰倭乱。 1597年~98年、丁酉倭乱。
1602年 オランダ東インド会社、ジャワ島に。オランダのインドネシア植民地化開始。
1609年 薩摩軍、奄美・琉球国に侵入 → 幕府、琉球国を薩摩藩の「所管」とする。薩摩藩、
   奄美を直接支配。
1637年12月~38年4月:島原・天草烽起。籠城した37000人死亡。
1643年 ヘナウケの戦い。 1669年 シャクシャインの戦い。
1763年~65年 ポンティアック戦争(アメリカ北西部先住民諸部族が連合して、白人侵入者
   と戦う)。
1776年7月4日 アメリカ合州国独立宣言 → 先住民織の大地にたいする大規模侵略開始。
1789年 フランス革命。クナシリ・メナシの戦い。
1828年~32年 「ブラックウォー」(タスマニア人虐殺)。 1876年5月 最後のタスマニア
   人死亡。
1840年~42年 アヘン戦争。
1857年~59年 インド大反乱(第一次インド独立戦争)。
1869年9月 日本政府、アイヌモシリを日本領土とし「北海道」と名づける。
1872年10月 「琉球藩」設置(第1次琉球処分)。 1879年4月、「琉球藩」を「沖縄県」に(第
   2次琉球処分)。
1873年3月 オランダ、アチェ王国侵略開始(1904年、アチェ王国滅亡)。
1874年5月 西郷従道(「台湾蕃地事務局都督」)が指揮する日本軍が台湾に侵入。住民虐殺。
1875年9月 日本小型砲艦「雲揚」、朝鮮の首都に近い江華島海域に侵入。
1876年2月26日 朝日修好条規(조일수호 조약。江華島条約)調印・発効。
1884年~1885年 清フランス戦争( → 1887年 フランス領インドシナ)。
1889年2月11日 「大日本帝國憲法」発布(1890年11月施行)。1890年10月、「教育勅語」発表。
1890年12月28日 ウンデットニーの虐殺(USA軍第7騎兵隊、サウスダコタ州スー族大虐殺)。
1894年7月 USAの侵略集団が「ハワイ共和国」樹立宣言(10月に日本政府が承認)。
1894年~95年 朝鮮日本戦争(甲午農民戦争)→ 清日本戦争。 1894 年11月 旅順大虐殺。
1894年12月28日 全琫準、淳昌で日本軍に逮捕されソウルに。 1895年4月23日 全琫準ら処
   刑される。
1895年4月 「日清講和条約」締結(台湾、澎湖列島、遼東半島を日本領土とする)。
1895年5月 日本軍、台湾侵入開始。以後、長期に台湾民衆を殺害。
1896年8月 フランス、メリナ王国(マダガスカル)「併合」。 USA、ハワイ「併合」。
1898年12月 USA、スペインに2千万ドル支払い、プエルトリコ、フィリピン、グアム島を植民
   地に。
1900年~1901年 義和団戦争(日本、ロシア、ドイツ、フランス、イギリス、USA、イタリア、
   オーストリア・ハンガリー〈8か国〉軍隊が連合して清国に侵入)。
1905年 日本、独島・カラフト南部・遼東半島南部(「関東州」)・「満鉄附属地」を領土とする。
1905年~08年 ドイツ軍、タンガニイカで大虐殺。
1906年 日本占領下の大韓帝国で、反日義兵が中心になって独立戦争開始。
1910年8月 日本帝国、大韓帝国を日本領土とする。1910年9月 日本政府、朝鮮総督府設置。
1915年 日本、「南洋群島」を植民地とする。
1918年~22年 シベリア侵略戦争(日本・イギリス・アメリカ合州国・フランス・イタリア・カナダ)。
1919年3月~5月 朝鮮で、3・1独立運動。  5月~6月 中国で、5・4運動。
1919年3月22日 日本軍、イワノフカ村虐殺(アムール州ブラゴベシチェンスク郊外)。
1919年4月 イギリス軍、アムリットサル虐殺。
1930年10月~31年5月 台湾の日本軍と警察、烽起した霧社の民衆を殺戮。
1931年9月18日 日本関東軍、中国東北部侵略開始。  1932年3月1日「満洲国建国」。
1937年7月7日 日本、中国への全面的侵略開始。
1937年12月 日本軍、南京大虐殺。 日本海軍将兵、三灶島(三竈島)に侵入(民衆虐殺)。
1938年2月22日 陸軍特別志願兵令公布(「勅令」)。 2月26日の『朝鮮総督府官報』に掲載。
1938年2月~1943年8月 日本陸海軍航空部隊、重慶・成都・蘭州……爆撃。
1938年9月 台湾総督府、「海南島処理方針」作成。
1939年2月10日 日本陸海軍海南島に奇襲上陸。 2月~11月 日本海軍海南島で「Y一作
   戦」(地域住民虐殺)。
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「リオの奴隷墓地博物館に閉鎖の危機、ブラジル」

2017年05月23日 | 個人史・地域史・世界史
http://www.afpbb.com/articles/-/3128928
http://www.afpbb.com/articles/-/3128928?pid=0&page=2
「AFPBB News」2017年5月20日 14:09 発信地:リオデジャネイロ/ブラジル
■リオの奴隷墓地博物館に閉鎖の危機、ブラジル

【写真】ブラジル・リオデジャネイロの新黒人記憶・研究博物館(2017年5月5日撮影)。
     (c)AFP/YASUYOSHI CHIBA

【5月20日 AFP】ブラジル・リオデジャネイロ(Rio de Janeiro)に住むメルセド・ギマラエス(Merced Guimaraes)さん(60)の家で、改装中に床下から大量の人骨が見つかった。連続殺人鬼が残した証拠だろうか。警察に言えば、自分が犯人だと疑われるのではないか──恐れをなした大工たちは仕事を放棄して逃げてしまった。
 だが、さらに恐ろしいことが分かった。彼女の家はアフリカ人奴隷数千人の遺骨の上にあったのだ。そこは米大陸で発見された最大の奴隷墓地だった。その歴史に触れた1996年の偶然の出来事が、エネルギッシュで陽気なギマラエスさんの人生を変えた。
 彼女は小さな家族経営の会社を子どもたちに譲り、快適な家を建てる代わりに、その家を博物館に変える計画に乗り出した。「人道に対する罪の生きた証拠」をつくりたかったのだ。

 2005年についにそれが実現し「新黒人記憶・研究博物館(Instituto de Pesquisa e Memoria Pretos Novos)」が開館した。まだ掘り出されていない骨が詰まった大きな穴を中心にすえた同博物館には、昨年までに7万人が訪れた。来館者の数はさらに急速に増え続けている。
 だがその成功にもかかわらず、博物館は閉鎖寸前となっている。明らかな理由は資金不足だ。厳しい不況とリオデジャネイロ五輪開催の後遺症で政府からの補助金は削られ、電気代の支払いや掃除用具の購入もままならなくなった。
 だがギマラエスさんは、究極的には問題の根はもっと深く、ブラジル人は単に「国の恥」を直視したくないのだと言う。

■隠された歴史
 ブラジルは米大陸で最後まで奴隷制があった国で、1888年に廃止されるまでに米国の10倍、計500万人近い奴隷が送り込まれた。この奴隷の大量移入が、ブラジルにアフリカ外で最大の黒人人口と、豊かな音楽的・文化的遺産をもたらした。だがその負の側面が語られることはめったになく、ましてや犠牲者の尊厳のための取り組みはさらに少ない。
 リオの旧港地区はかつて奴隷売買の中心地だった。奴隷船が到着すると「新黒人」は検疫を受けさせられ、生存者は売られていった。しかしそれを思わせるものは消えてしまったか葬り去られ、専門家の間以外では歴史は失われてしまった。
 新黒人博物館を訪れる学校や学者は多いが、一般社会にはほとんど知られておらず、リオの観光地図上の小さな一点に過ぎない。施設を3階建てに拡張する大掛かり計画は幻のように見える。
 「ブラジル政府はこうした問題に関心はなく、持とうとしたこともない。今日の金融危機など問題ではない。こちらは昔からずっと続いている問題だ」と同博物館のアントニオ・カルロス・ロドリゲス(Antonio Carlos Rodrigues)事務局長は語った。ギマラエスさんは「人種差別だ」と言う。
 ブラジル政府の財政が破綻寸前となった今年、博物館への助成金は突然カットされた。残っている資金で運営できるのはせいぜい7月までだ。明らかな解決方法の一つは入館料を徴収することだが、そんなことは考えられない、「入館料をとって犯罪行為を見せるなんて、おかしい」。
 だが、博物館がどうなろうとも、ギマラエスさんが予期していなかった同居人たちを見捨てることは絶対にない。彼らはまるで「ゴミ」のように捨てられたのだ、とギマラエスさんは頬に伝わる涙をぬぐった。彼女にとって「彼らは子どもたち、この家の子どもたちです。私たちの家の」。
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文昌市昌洒鎮東坡村で

2017年05月22日 | 海南島史研究
 5月5日、文昌市文教鎮立新村を訪ねたあと、午後5時過ぎに昌洒鎮東坡村に向かいました。
 わたしたちは、2005年9月15日朝、海南島南部の三亜からバスを乗り継いで、文昌に行き、市販の海南島地図にない東坡村を探しました(旧日本軍の地図には、第15警備隊駐屯地の一つとして記載されていました)。
 ようやく東坡村にたどり着いた時には、午後おそくなっていました。
 この日、わたしたちは、黄循桂さん(1925年生)と黄循昌さん(1931年生)から、日本侵略期当時の話を聞かせていただきました。
 このとき黄循桂さんは、
   “日本軍は、わたしたちが住んでいる家を壊して望楼を建てた。望楼の高さは25メートル
   ほどだった。東坡村には100人以上の日本兵がいた。共産ゲリラだといって、日本軍は連
   行してきた人たちをたくさん殺した。殺害場所は、いま東坡小学校が建っているところだ”
と話し、望楼の図を書いてくれました(「日本が占領した時代に生きた人たちはいま」〈『パトローネ』64号〈写真の会パトローネ刊、2006年1月〉、および写真集『日本の海南島侵略と抗日反日闘争』(紀州鉱山の真実を明らかにする会制作、写真の会パトローネ刊、2007年2月)54頁の「文昌市昌洒鎮 東坡村」をみてください)。

 5月5日午後6時前に11年8か月ぶりに東坡村の入口の門をくぐりました。これまで何度か再訪しようと思いながら機会をつくることができませんでした。黄循桂さんと黄循昌さんは亡くなられていました。黄循昌さんが亡くなったのは2014年だったとのことでした。そのことを教えてくれたのは黄良波さん(1933年生)でした。
 陽が沈みかける時間だったので、黄良波さんに翌日ゆっくり話しを聞かせていただく約束をして東坡村を離れました。

 5月6日朝8時前に海口市内を出発し9時半に東坡村の黄良波さんの家に着きました。
 黄良波さんは、つぎのように話しました。
   “日本軍が来たとき、7歳だった。
    日本軍は村の近くに飛行場をつくろうとしたが、工事を始める前に日本軍は敗けた。
    子どものとき日本語学校に2年間通った。2年たったら日本軍が敗けていなくなった。
    先生は5人いた。高松先生と島津先生は日本人、黄循生先生と黄良友先生はこの村の
   人、林道欽先生は台湾人だった。林道欽先生は93歳のときに亡くなった。
    日本軍がいなくなってから、島津先生は3回この村を訪ねて来た。最後に来たのは2008
   年だった。
    日本語学校で日本の歌を教えられた。「クニヲデテカライクツキゾ」、「トッタタズナガチ
   ガカヨウ」、「キミガガヨウハ」。
    日本軍が飛行場をつくろうとしたことは、林道欽先生から聞いた。
    むかしの村の家は丈夫な硬い材木でつくられていた。日本軍は村の家を壊して軍営をつ
   くった。わたしの家も壊されたので近くの福架村の親戚の家に移らなければならなかった。
    日本軍は軍営の真ん中に望楼をたてた。
    村の家を壊し兵舎や望楼をつくったのはのはよその村の人たちだった。日本軍はすこし
   離れた村の甲長に命令してその村の人を働かせた。兵舎や望楼を設計したのは日本軍
   だった。
    日本語学校の建物も日本軍は新しくつくった。日本語学校の工事も村人がやった。
    日本軍が来る前は祠堂で子どもたちが勉強した。
    近くの文東中学校の敷地から日本軍に殺された人の200人以上の遺骨がてきたことが
   あった」。

 黄良波さんの連れ合いの何金英さん(83歳)は、そばで話しを聞いていて、つぎのように話しました。
   “兵舎の工事に来ていた若い娘が日本兵に交代で強姦されて殺されたことがあった。
    慰安所に近づいて中をみようとしたら、慰安婦の女性に水をかけられたことがあった。村
   の人が慰安婦のことをよく言ってなかったからだと思う。子ども心にそう感じた。
    わたしは近くの昌吉村からこの村に来たが、高松先生を知っている。優しい先生だった。
    わたしはこの村の日本軍の兵舎をつくるときレンガなどを運んだ。子どもも大人もたくさん
   働いていた。

 黄良波さんと何金英さんに話しを聞かせてもらったあと、黄良波さんに、日本軍の兵営があった場所に案内してもらいました。
 村の中心部にある黄良波さんの家から30~40メートル離れたところが慰安所があった場所であり、そこから50~60メートル離れたところが日本軍の入り口の門の柱があった場所でした。そこは、2005年9月15日にわたしたちが訪ねたことがあるところでした。その風景は、11年8か月前と同じでした。
 門柱があったところの角を曲がって3軒目の家が黄循桂さんの家でした。空き家になっていました。その家の正面の樹が茂っている広い土地が、兵営と望楼があった場所でした。木々の間から文東中学校の校舎の一部が見えました。
 兵営と望楼があった場所から村の中心部に戻り、さらに7~800メートルほど行ったところが、日本語学校のあったところでした。建物の跡はまったなく草地になっていました。

 黄良波さんに別れ、文東中学校に行きました。
 守衛に、この学校の敷地に埋められていた遺骨ついてたずねました。近くの村に住んでいるという40歳代のその人は、
   “はっきりしたことはわからない。学校の塀をつくるときにたくさん遺骨がでてきた
   らしい。遺骨がどうなったかは知らない。
    子どものころ、むかし日本軍は鉄の籠に人を入れ、その中の人をこの付近で殺した、と
   聞いたことがある”、
と話してくれました。 校庭に、簡単な学校の歴史を書いた文字板がありました。
 そこには、この学校が1949年に開校したこと、開校当時の校舎の多くは旧日本軍の兵舎と望楼であったことなどは書かれていましたが、敷地内で日本軍に多くの人が殺害されたことも発見された遺骨のこともまったく書かれていませんでした。

 午後12時50分ころ文東中学校を離れ、錦山鎮発山村に向かいました。

                                  佐藤正人 

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