三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

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以史為鑑 以文会友 2

2010年08月31日 | 海南島史研究
二,佐藤正人七年里十二次来万宁采访
  佐藤正人先生大学毕业后,自上世纪六十年代,就从事翻译世界英文版的历史和经济类资料为日文工作。从七十年代开始,他转为研究日本侵略亚洲各国的历史。九十年代,他参加日本民间组织“ 查明纪州矿山事实真相自治会” 和“ 亚洲问题研究所”,参与调查日本侵略朝鲜史。1998年6月,为调查日军侵琼的真相,他和韩国学者金静美最先来到海南岛。他们在海南不怕苦,不怕累,翻山越岭,走遍全琼各地,凡是各市,县曾被日军进行人口屠杀,房屋焚烧的村庄都留下他们的足迹。为了进一步调查研究日本侵略海南岛的历史,他又组织了日本民间的“海南岛近现代史研究会”。
  佐藤是2002年4月5日下午第一次来到万宁的。他先到万宁市政协文史办公室找我,因我退休已不办公。后由我的同事欧阳兴带他到我的家里。他年近六十,身体清瘦,但精神饱满,文质彬彬,带宽边眼镜,很有礼貌地向我打招呼。他手里捧着 ≪实录≫这本书,并掀开书中我撰写的那篇≪日军侵占万宁县暴行述略≫ 作为“介绍信”。这是我继马来西亚后的第二次“ 以文会友”。我热情地欢迎他到客厅坐下来,一边喝茶一边聊。他来中国之前,学过5年汉语,但不是那么精通,话讲得很生硬。为了双方都听得明白,我们改变了谈话的方式,就用中文作问答式的一句一句地写出来。他说明了来意后,我接着说:“ 中国和日本是一衣带水的邻邦,两国人民的友好来往有两千多年,但不幸的是上世纪三十年代,日本军国主义发动了侵华战争,使中国人民蒙受了巨大灾难,而日本人民也是受害者。” 这时佐藤点点头。他说:中国有句古话叫做‘前事不忘,后世之师’。这一重大历史事件,我们一定要记载下来,因为现在日本人民多受军国主义分子蒙骗,很多人不了解日本侵华的真相。这次我来就是要通过实地调查,把日军侵琼的事实写成史书,摄制影片,教育后来人”。
  这天我们谈得很好,谈了四个多钟头,基本上满足他要了解日军侵略万宁的情况。在谈话中,我又赠送≪万宁文史≫第一辑至第六辑给他,其中第五辑是≪铁蹄下的血泪仇≫。他如获至宝,非常高兴。临别时,我带他到万城“ 革命烈士陵园”,瞻仰“革命烈士纪念碑”,参观“庄田将军纪念馆”等,他都一一拍摄照片。我还陪同他游览万城大街,傍晚他才乘客车到三亚市去。
  佐藤第二次来方是同年8月中旬,我们一见如故。当我招呼他坐下来后,他便从挂包里拿出一本7月1日九州出版的≪ 民众纪录≫杂志送给我。该杂志里有佐藤撰写的≪日军侵琼调查报告≫,其中有一个小题是在≪在万宁市万城镇≫,其内容是:“广大的万宁市中心的万城镇,我访问了蔡佳先生。蔡先生长期从事文史资料工作,曾经采访,收集,研究和编写日本侵琼史和人民抗日反日斗争史。蔡先生说:‘ 万宁市北方的六连岭地域,是抗日武装部队的根据地,人民就在这里做长期的抵抗运动’。以后,佐藤想跟蔡先生一起研究日本的侵略史和人民的抵抗史”。 我读后觉得自己是个文史工作者,能协助日本学者调查日军侵琼真相,也是一件荣幸的事。
  这次佐藤来万宁住了三天,第一天他到龙滚镇,由梁瑞居老人带到山钦岭脚下的蓝田村,找到了当年的幸存者邢国贵等老人。他们述说了1939年10月14日(农历九月初二日),龙滚据点日伪军100多人,向乐礼,多格,福山,文曲,治坡,蓝田等十多个村庄进剿,烧毁民房几百间,财物劫空后围剿了山钦岭,杀害了逃难群众300多人。佐藤听后又到群众遇难的地点――狗颈石,燕鸟洞去看遗迹,并拍摄了照片。这天他刚吃过午饭,又马不停蹄地到龙滚光头岭(即日军杀人的地点)寻找杀人的遗迹,再到六连岭北麓的三品村调查,拍摄日军据点的遗址和杀害抗日女英雄符英,苏爱梅的遗址。下午三点多钟,他又到和乐镇西截村,由村委会召开该村被日军杀害的幸存者和老人座谈会,调查1939年10月19日(农历9月初七日),日军出动100多人,屠杀该村村民115人,杀伤10人的情况,听取了见证的老人蔡育琼等人讲述日军杀人放火的经过,并拍摄一些历史遗迹的照片。接着,佐藤调查当年日军对东澳镇丰丁村和万城镇月塘村的大屠杀惨案,这是由退休的原万宁市科协会副主席朱深润带路的。因为他是月塘村人,丰丁村也有他的亲戚。佐藤到了丰丁村后,调查了1940年11月28日(农历十月廿九日),万城据点日军纠集伪军共100多人到该村实行大屠杀。这次共杀死无辜村民42人,杀伤3人,其中陈为耀是被日军刺伤18刀的幸存者,全村房屋被烧,财物被劫等情况,他都一一做了记录。
  最后佐藤到了月塘村,访问了当年被日军杀害的幸存者朱学平,朱学超,朱光清,朱开昆,李金治,朱秀容(女)等10多人,并落实了1945年5月12日(农历三月廿一日)被日军杀害的该村人数为190人(原报286人),杀伤30人,烧毁民房30多间,全村猪,牛,财物全被劫光的情况,并拍摄所有幸存者照片。2005年秋,佐藤和小谷英治又来万城,访问月塘村当年死里回生的幸存者朱进春。他被日军刺伤八刀(绰号“八刀”)打伤一枪,但伤不到要害部位而治愈。佐藤访问他时,请我做记录,小谷英治摄录像。2006年11月,他们将日军屠杀月塘村民惨案发表于九洲出版的≪民众记录≫杂志上,后又编入≪海南岛月塘村虐杀≫一书(该书邀请我为助编)。佐藤,小谷英治,金静美等学者,从2002年4月至2008年5月的7年里,共12次来万宁调查日军侵万的史料,都是由我接洽,并做出调查地点的安排。他们除了调查万宁的“四大惨殺案”外,2005年4月到中兴墟寻找日军中兴据点遗址和修建该据点时杀害民工的遗迹。2006年9月到六连岭瞻仰“革命烈士纪念碑”,并拍摄了我党政军民的抗日根据地六连岭的全景。接着佐藤到六连岭北麓的和顺村,调查1943年8月与11月,日本空军为配合陆军扫荡六连岭抗日根据地,两次派飞机抵和顺,加索,加荣登几十个革命村庄,狂轰滥炸,制造“无人村”,“无屋村”的史料。2007年5月,佐藤,小谷英治等到北坡春园村,调查1945年7月6日(农历五月廿七日)乌场据点日军对该村居民的屠杀惨案,杀死全村男女老少26人,烧毁民房80间,财物劫尽。这是1945年8月日本投降前夕日军在万宁的最后一次暴行。
                                               蔡佳
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以史為鑑 以文会友 1

2010年08月30日 | 海南島史研究
一,《海南文史》出版的《铁蹄下的腥风血雨――日军侵琼暴行实录》,引起海内外学者的关注
  1945年8月15日,日本帝国主义宣布无条件投降,中国人民坚持八年抗日战争终于取得了伟大的胜利。这是我国近代以来抗击世界侵略者第一次的伟大胜利。毛泽东主席总结这段历史说:“我国从十九世纪四十年代起到二十世纪四十年代中期,共105年时间,全世界几乎一切大,中,小帝国主义都侵略过我们,都打过我们,除了最后一次,即抗日战争,由于国内外的原因,以日本帝国投降告终外,没有一次战争不是以我国失败,签订丧权辱国条约而告终。” 所以这次抗日战争的胜利意义重大,举国欢腾。
  1995年,为了纪念中国人民抗日战争暨世界反法西斯战争胜利50周年,海南省政协文史资料委员会与各市,县政协大力协作,征集,编写和出版了≪铁蹄下的腥风血雨――日军侵琼暴行实录≫(以下简称≪实录))一书。它记述了日本从1939年2月10日侵略海南岛后的罪行。军事上在全琼修建飞机场,港口,公路,桥梁和密密麻麻的据点,镇压全琼人民的抗日斗争,实行“反共”,“剿共”,“蚕食”和扫荡的见人杀光,见房烧光,见物抢光的“三光”政策,企图把海南岛作为日本侵略亚洲太平洋地区的中心基地――永不沉没的航空母舰和第二个台湾岛。经济上修建铁路,开发矿山,电力,大量掠夺海南自然资源。侵琼日军残暴成性,丧尽天良,无恶不作,在全琼各市,县都制造了骇人听闻的血案,惨案,肆意戮杀无辜平民和劳工,至今丧存百人墓,五百人墓,千人坑,万人坑等的罪证。每个县,区,乡都出现焦土遍地,尸骨遍野,荒无人烟的悲惨情景。日军还对海南无数良家妇女进行强奸,轮奸致死或奸后杀害,这是人类文明史上最残酷的事件。还有世界战争史上最肮脏,最无耻的“非军事行动”的军妓制度,这就是日军将海南各地抓去当慰安妇的年轻妇女,与台湾,韩国,朝鲜,菲律宾,日本等国家和地区诱骗,抽派来海南的良家妇女一样,参加所谓“战地后勤服务队”,实际上她们是在全琼各地日军慰安所里的性奴隶,任由日本军官兵糟蹋。
  据不完全统计,日军侵占海南六年多期间,共杀害我抗日军民20多万人,烧毁民房6万余间,奸淫妇女,抢掠民财民物和自然资源不计其数。加上他们在海南滥征繁重劳役民工和战争造成的种种祸害,致使全琼人民非正常死亡的达40万余人,占当时全琼总人口的五分之一。这是海南各族人民遭受历史上空前浩劫和最惨烈的摧残。
   ≪实录≫ 发行后,引起国内外有关部门和历史学者专家的关注。全国政协文史委员会评选该书为全国文史优秀作品。海外学者认为这是一部宝贵的警世史书。日本学者佐藤正人先生,韩国学者金静美女士,于1998年6月飞抵海南,首先到省政协文史委员会拜访领导人,说明他们为了调查日军侵琼的真相,拜读了≪实录≫后,从中找到日军侵琼罪行的重大资料和线索,并希望得到领导的支持和帮助。接着,他们拿着≪实录≫这本书当作“介绍信”到各市,县政协文史办公室去联系,要求为调查日军侵琼真相给他们提供资料。他们这次调查,发现在海南日军暴行事件很多,只作一次调查是不能满载而归的。为此,佐藤和另一位日本学者小谷英治及金静美等三人,用了十年时间(即从1998年至2008年),共十六次自费来海南调查日军侵琼真相。他们走过海口,琼山,文昌,儋州,临高,屯昌,定安,琼海,万宁,陵水,保亭,昌江,乐东,琼中,东方,三亚等市,县120多个村庄,访问了被日军杀害的幸存者和见证老人200多人,并拍摄了大量珍贵的历史图片,编写了≪在海南岛日本干了什么――残杀・掠夺・性奴化≫,≪ 日本对海南岛的侵略与抗日反日斗争≫ 和≪海南岛月塘村虐杀≫ 等史书。同时他们把调查日军侵占海南岛的罪行史实,摄制成≪日本占领下的海南岛≫ 纪录片。从2005年1月至2007年9月,该片分别在海口市,海南大学,三亚市,日本东京京都大学,大阪人权博物馆,熊野市民会馆等处放映。2004年10月至2007年7月,他们把日本侵琼真相的大量文字资料和图片,在韩国独立纪念馆,西大门刑务所历史馆,在日本东京高丽博物馆举行展示会,让外国人知道日军侵琼的历史,尤其是让日本人知道日本军国主义的侵略罪行。
                                                  蔡佳
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能美実らに対する横浜裁判 6

2010年08月29日 | 海南島
 多田実は、1948年6月8日の事情聴取の際に、続いて、つぎのように陳述していました。

   「わたしは、海南警備府庁舎で、アメリカ合州国軍捕虜5人を尋問したが、そのなかに、
   第16警備隊が処刑した捕虜がいた。
    わたしが、はじめに訊問したのは、2人の捕虜だった。佐藤豊三郎参謀といっしょに
   訊問した。1人は足に負傷していた。訊問時間は、各人5分だった。尋問後、佐藤参謀の
   命令で捕虜は第16警備隊に戻された。
    それから約1か月後、海口から新たに3人の捕虜が海南警備府庁舎に送られてきた。こ
   の3人は、海南島北部の海口の近くで捕らえられた飛行士だった。
    3人は、顔色が青く、健康状態がよくなく、飢えと虐待で苦しんでいるように見えた。
   3人を拘禁してきたのは吉田喜一を司令官とする第15警備隊であったが、その副指令
   官松田宏大尉は、わたしに、3人は海口の街頭で中国人にさらし者にされ、第15警備
   隊の将兵は、しばしば棒で殴ったと話した。
    わたしは、松田に、捕虜の傷を治療し充分な食事を与えるように命じた。
    吉田喜一第15警備隊司令官は、部下の松田らの捕虜にたいする処遇の実態を知って
   いたと思う。
    松田の言ったことを伝えると、伍賀司令長官は激怒し、3人を海口から安全な三亜に
   移動させるように命令した。3人は、翌週、三亜に着いた。
    わたしは、三亜の海南警備府本部で、佐藤豊三郎参謀、村野正太郎参謀といっしょに
   3人に面会した。
    3人の健康状態は非常に悪く衰弱していた。1人はやつれて立ち上がれないほどだった。
   3人ともひげをそっておらず、長い間フロに入っていないようであり、頬はこけ、餓死
   寸前のようにみえた。
    わたしは、医官に3人を診察し治療するように命令した。佐藤参謀が、3人を病院に
   つれて行った。
    立ち上がれないほどやつれていた捕虜は、病院で死んだ。直接的な死因はマラリヤだ
   ったが、海口の第15警備隊による劣悪な処遇や殴打が根本的な原因だった。わたしは、
   充分な食事が与えられ適切な療がなされ殴打されることがなかったなら、あの捕虜はマ
   ラリヤで死ぬことはなく、いまも生存していると考えている。
    このことにかんして、伍賀総司令官が、第15警備隊の将兵を罰したかどうかは、わ
   たしは知らない」。

 ここで、多田実前海南警備府参謀にたいする1948年6月8日の事情聴取は、午後7時に終わり、翌6月9日午前8時に再開しました。そのとき、多田実は、つぎのように陳述しました。

   「海南島に墜落したアメリカ合州国軍航空機についての情報はすべて海南警備府本部に
   届いていた。
    しかし、当時、われわれは、海南島全土には日本軍をおいていなかったので、海南島
   に着陸したアメリカ合州国軍航空機についての情報は届いていなかった。
    わたしは、1945年3月8日の三亜近郊の紅沙における3人のアメリカ人捕虜殺害
   についてはなにも知らない。
    わたしは、これまで、ここで、なんら強制されることなく、自分の意思で自由に真実
   を陳述した」。

                                        佐藤正人
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能美実らに対する横浜裁判 5

2010年08月28日 | 海南島
 多田実は、「能美実ら4人に対する横浜裁判文書A」によると、1948年6月8日の事情聴取の際に、続いて、つぎのように陳述していました(イングランド語の原文は、問答形式ですが、翻訳にあたっては、叙述の重複を避け、陳述形式にしました。また、ローマ字による固有名詞は、『海南警備府戦時日誌』、『海南警備府戦闘詳報』、『海南海軍警備府引渡目録』などを参照にして漢字に変えました)。

   「捕虜は、紅土坎あるいは楡林の近くの紅沙で殺されたと思う。三亜から約15キロの
   ところである。
    当時、紅土坎あるいは紅沙には能美実を司令官とする第16警備隊の派遣隊が駐屯し
   ていた。この派遣隊の島田隊長は、捕虜殺害について詳しく知っていると思う。
    わたしは、捕虜殺害の状況をくわしく知らないが、捕虜は首を切られて殺されたと考
   えている。なぜなら、当時多くの者が刀を持っており、斬首は囚人を処理する普通の方
   法( the logical way of disposing  way of the prisoner )だったからだ。
    わたしは、捕虜処刑の報告書を受けとったことはないし、また、捕虜処刑にかんする
   報告書作成を命じられたこともない。
    殺された捕虜は重病で自分で防空壕に行くことができなかった、と聞いていた。空襲の
   たびに、かれは担架に乗せられるか背負われるかしなければ防空壕に入ることができな
   かった。隔日におこなわれる空襲のたびにその捕虜を防空壕につれていくのは、つれて
   いく者にとって危険なことだと第16警備隊の担当者は考えたようだ。それで、誰かが、
   その捕虜を処理するほうがいいと判断し殺したのだろう。
    当時、このようなことが話されていたが、わたしもこの話は事実に近いと思っている。
    わたしは、誰が捕虜の処刑を命令したのかは知らない。
    捕虜が処刑されたのは1945年5月だった。日にちははっきりしない。
    捕虜の処刑は、能美実が司令官だった警備隊の管轄区域内で行われたが、わたしは、
   能美実が、処刑を命令したとは考えていない。能美実司令官に知らせないで、その部下
   が自分の判断で処刑を命令したのだと思う。
    伍賀啓次郎海南警備府司令長官は、終戦時に降伏について参謀会議を招集したが、そ
   のとき捕虜処刑については議論されなかった。
    伍賀啓次郎司令長官が召集する捕虜の死についての会議に、わたしは出席したことは
   ないが、海口の将校用食堂で、伍賀司令長官か千田副司令官が、「アメリカ人捕虜の処
   刑は極めて悪い事件だ。捕虜処刑について占領軍による尋問がおこなわれる場合には、
   なにも語らないほうがいい」と話していたのを覚えている。
    それは命令ではなかったが、当時は、上官の話は、命令と同じだった。そのとき、そ
   こにいたのは、伍賀司令長官、千田副司令官、村野正太郎参謀、わたしの4人だった」。
                                     
                                       佐藤正人
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能美実らに対する横浜裁判 4

2010年08月27日 | 海南島
 横浜裁判で能美実は、アメリカ合州国軍捕虜の斬首は、伍賀啓次郎海南警備府司令長官のもとにいた多田実海南警備府司令部参謀の指令によるものであった、と主張しました。
 多田実は、「能美実ら4人に対する横浜裁判文書A」によると、能美実らの裁判が開始される前、1948年6月8日の事情聴取の際に、つぎのように陳述していました。
 このとき多田実は、37歳で、住所は、長崎県西彼杵郡(にしそのぎぐん)香焼村(こうやぎむら)で、川南工業に勤務していました。

   「わたしは、1943年6月から終戦まで海南島に駐屯していた。
    海南島では、伍賀司令官が指揮する海南警部府に所属し、千田金二副司令官と佐藤
   豊三郎参謀に直属しており、情報収集に従事していた。
    わたしは、三亜にあった海南警備府本部で、アメリカ人捕虜5人を尋問したことがある。
    そのうち3人はアメリカ合州国に生還し、1人は海南島の海軍病院で死亡し、1人は
   16警備隊員によって殺された。
    1945年3月、伍賀司令長官と海南警備府のスタッフとわたしは、軍隊を視察して
   海口から三亜に戻った。その途中、伍賀指令長官は、わたしに、三亜にいるアメリカ人
   捕虜の現状を質問した。わたしは、かれらは継続的な空襲を避ける安全な場所で生活し
   ていると答えた。伍賀司令長官は、捕虜に危害を加える者は、厳しく処罰すると言い、
   わたしにすべての捕虜を良好に処遇するように命令した。それから約5時間後に、われ
   われは、三亜の海南警備府本部に戻り、能美実第16警備隊司令官に電話で2人の捕虜の
   状態をたずねた。
    能美実第16警備隊司令官は、「伍賀海南警備府司令長官の留守中に、部下の1人がア
   メリカ人捕虜1人を殺した」と答えた。
    わたしはこの知らせを聞いて非常に驚き、能美実第16警備隊司令官に、「これは極め
   て深刻で重大な問題である。伍賀海南警備府司令長官と海南警備府スタッフ各人に報告
   しなければならない」と告げた。
    能美実第16警備隊司令官は直ちに海南警備府に行って捕虜殺害について報告すると
   答えた。
    受話器を置いてすぐにわたしは千田金二副司令官と佐藤豊三郎参謀のところに行き、能
   美実第16警備隊司令官が語ったことを報告した。
    それを聞いて千田金二副司令官はすぐに伍賀海南警備府司令長官に報告に行った。
    10分か15分後に、能美実第16警備隊司令官が千田金二副司令官の部屋に行き、2
   人はそろって伍賀海南警備府司令長官のところに行った。わたしは同行しなかった。
    わたしは、それまで、能美実第16警備隊司令官と、アメリカ人捕虜殺害について話し
   たことはなかった。                                                                        佐藤正人
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能美実らに対する横浜裁判 3

2010年08月26日 | 海南島
 国会図書館憲政資料室で公開されている、GHQ/SCAP Records, International Prosecution Section (「国際検察局文書」〈国会図書館で仮訳した文書群名〉)に含まれている Records of Trials and Clemency Petitions for Accused Japanese War Criminals Tried at Yokohama, Japan, by a Military Commission Appointed by the Commanding General, 8th Army, 1946-48(米陸軍第8軍司令官によって任命された軍事委員会によって横浜で審理された日本人戦犯被告人に対する裁判文書および減刑嘆願)のなかの Exhibits to Record of Trial in the case of UNITED STATES vs Minoru Nomi et 3. (合州国の能美実ほか3人に対する裁判記録文書)は、201頁です(以下、「能美実ら4人に対する横浜裁判文書A」と略記)。
 「能美実ら4人に対する横浜裁判文書A」には、海南警備府第16警備隊司令官能美実(大佐)の上官であった伍賀啓次郎海南警備府司令長官(中将)、千田金二海南警備府司令部参謀長(少将)や多田実海南警備府司令部参謀(少佐)の証言が記録されています。
 能美実ら4人に対する横浜裁判の主要な論点は、海南警備府第16警備隊の「管轄地域」でおこなわれたアメリカ合州国軍捕虜の斬首にかんして、責任は誰にあるのかということでした。
                                        佐藤正人
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「我們必須再加快其研究歩伐」

2010年08月25日 | 海南島近現代史研究会
 海南島近現代史研究会第4回総会・第6回定例研究会に海南島の会員邢越(シンユエ)さんからつぎのようなメッセージが、8月10日にとどけられました。 

  海南島近現代史研究会第4回総会・第6回定例研究会将在大阪人権博物館研修室召开,在大会召开之前,特发此文,以表衷心祝贺!
  第二次世界大战结束65年周年了,作为战争发起国之一的日本,由于终战后当时的冷战环境,因而得到美国政府的偏袒和庇护,再加上主要受害国,如中国和朝鲜等陷入了内战和南北分治的局面,所以日本并没有像国和意大利那样对过去的战争罪行进行彻底的反省和清算,因而给历史留下了沉重的包袱。今日的情况是,战后好几代的日本人几乎不了解这场战争,日本的政治人物时而还堂而皇之美化这场战争。这是日本人民和亚洲各国人民在政治和心理上存在隔阂的主要原因。
  然而,却有一批富于人性正义感的日本友人,他们为了完整、准确地揭示这段真实的历史,长期以来,一直奔走于日本各地和各受害国之间,他们进行各种各样的调查和取证,向世人揭开了一个又一个的当时的战争犯罪事实。他们这种跨越了国家、民族心理界限的精神和理念,他们所秉持的正义和人性尊严以及他们的历史勇气和道风范令人敬佩!
  《海南島近現代史研究会》是研究日据海南那段历史中颇有影响力的研究会之一,它的创办人佐藤正人先生10几年来他对海南的研究以及贡献有目共睹。然而,要更详细地向世人完整地展示这段真实的历史,还有一段很长的路要走。现在,由于当时的历史见证人一个又一个地减少,再加上海南大开发活动过程也会毁掉一些有历史价值的遗址,因而形势相当严峻,所以,我们必须再加快其研究步伐。我们这是和时间进行赛跑,我们务必要走在时间的前面!
  《海南島近現代史研究会》在海南享有一定得知名度,许多民间人士,文史网友都是研究会的坚定的支持者和后援团。我深信,经过努力《海南島近現代史研究会》一定会结出丰硕的成果!
  顺祝大家身体健康,万事如意!
     2010年8月10日                            邢越
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海南島近現代史研究会第4回総会

2010年08月24日 | 海南島近現代史研究会
 8月22日、大阪人権博物館で第4回総会が開催されました。
 1年前の予定ではこの総会は海南島で開催する予定でしたが、実現できずに、日本での開催となりましたが、韓国から、アボジが日本軍の犠牲となった2名の遺族をお招きして、大変有意義な集会となりました。
 今回の総会のメインテーマは「「朝鮮報国隊」の真相究明」ですが、まず自分が2歳のときに海南島でアボジの命を奪われたハン・グァンスさんから証言を聞きました。ハンさんはアボジについての記憶がほとんどないこと、アボジは本家の長男で21歳の若さで亡くなったこと、死亡の知らせがたった1行で書かれていたこと、など無念の思いを語りました。また戦後はオモニと自分の二人だけの生活で、孤独で貧しい生活を強いられ、いろいろなことをしてなんとか生き延びてきたこと、兄弟姉妹が多い家庭を見るとうらやましく思ったこと、ただせめてもの慰めは、自分が結婚して4人の子宝に恵まれ、オモニも90歳で現在健在であること、だと、を話されました。日本の社会に対しては、この問題をぜひ解決して欲しいと強く訴えられました。
 同じく韓国から来日されたイ・ヒジャさんは、やはり自分が1歳のときにアボジが日本軍の軍属として徴用され、その後消息が途絶えて、92年になってようやくアボジが45年の6月に死亡していたことを知らされた方です。日本の政府は戦争を終わったものにしようとしているが、被害者の遺族はこの苦しみを忘れてはいない。自分は活動家ではなく、被害者の一人として、ただアボジへの思いだけをよりどころに活動を続けてきた、アボジが靖国神社の合祀されていることについては、日本政府が家族に父親の死を知らせることをしないで家族が知らないままに合祀されていたことに対して深い憤りを表明されました。最後に、政府が解決に取り組まない以上、市民の理解と働きかけが重要になると強く訴えられました。
 その後キム・チョンミさんが「「朝鮮報国隊」と朝鮮自営隊について」と題して、「朝鮮報国隊」として海南島に連行されながらも生還した人の話を紹介し、またそれとは別に日本軍の軍人や軍属として海南島に送られていた朝鮮人が、解放後、三亜と海口で朝鮮自営隊あるいは朝鮮人民会という名称で自治組織をつくり、「朝鮮報国隊」に入れられていた朝鮮人とともに、食料の調達、帰還の準備などをおこなったことについて報告がありました。
 続いて、竹本昇さんから、海南島の軍事占領時に、『文芸春秋』や『中央公論』などの総合誌で軍事占領を正当化し、資源の略奪に期待を寄せる論調の記事が掲載されたことについて紹介がおこなわれました。さらに斉藤が、海軍の「Y作戦」と呼ばれる軍事作戦が占領中に行われた民間人の無差別の虐殺とどのように結びついていたのかについて『海南海軍警備府戦時日誌』の解読を通して説明をおこないました。最後に、佐藤さんが「朝鮮報国隊」の殺害に手を下した第16警備隊の能美実について紹介し、戦後、連合軍の捕虜に対する虐待について能美は裁かれているが、朝鮮人の虐殺についてはまったく不問に付されている、との指摘がなされました。
 当日の『朝日新聞』で韓国から遺族が来日したことについて写真入の記事が掲載されたという反響もあって、40名あまりの参加者がありました。若い人も参加していて、自分の祖父が軍人として海南島に赴任したことがあり自分のルーツを知るためにも海南島について知りたい、と発言した若者もいました。
 「朝鮮報国隊」という戦後65年間も闇に葬られていた事実を日本社会に投げかけたという意味で、今回の総会が果たした役割は大きいと思います。イ・ヒジャさんがこの研究会がなければ、ふたりで日本にくることはなかった、と語っていたことが大変印象的でした。
                                            斉藤日出治
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「朝鮮人ら強制労働従事」

2010年08月23日 | 紀州鉱山
 『中日新聞』(朝刊、三重版)は、『戦跡は語る 65年後の記憶』と題する連載記事を、ことし8月13日から20日まで8回連載しました。
 その連載記事それぞれの見出しはつぎのとおりです。
 ①阿漕(あこぎ)の憲兵分遣隊の塀「空襲の“生き証人”保存  厚さ5㌢の塀に穴」、②いなべ、四日市の奉安殿「通るたびに児童最敬礼  教育勅語など安置」、③第七航空通信連隊基地跡「戦後に家族40世帯入植  兵舎に住み畑耕す」、④三重海軍航空隊の正門「戦時中は特攻隊も募集  元隊員 今も語り継ぐ」、⑤海防艦“駒橋”戦没者慰霊碑「山奥での火葬 石仏弔う  米軍攻撃避け運搬」、⑥鳥羽・神島監的哨「試験砲弾の飛距離観測  住民かり出し建設」、⑦名張のB29墜落現場「追悼碑を建立 米兵供養  寺に部品 今も保管」、⑧熊野・紀州鉱山「朝鮮人ら強制労働従事  石に名 追悼碑建立」。
 以下は、8月20日に掲載された記事です。
 1998年2月に発行された三重県歴史教育者協議会編『三重の戦争遺跡』(つむぎ出版)には、「紀州鉱山に残る戦争遺跡」として「英兵捕虜墓地」が挙げられ、「1944年6月に紀州鉱山に連行された300人のイギリス兵のうち、敗戦までに死亡した16人の墓地が、当時の収容所付近に作られています」と書かれています。
 2002年6月に発行された十菱駿武・菊地実編『しらべる戦争遺跡の事典』(柏書房)には、「指定文化財・登録文化財となった戦争遺跡」のうち市指定のものは20件、町指定のものは18件であると書かれており、町指定のものとして、「三重県紀和町外人墓地(紀州鉱山労働英国人捕虜墓地)」や「沖縄県南風原町南風原陸軍病院壕」が挙げられています。
 同書で菊地実氏は、「戦争遺跡とは、近代以降の日本の国内、対外(侵略)戦争とその遂行過程で形成された遺跡である」と述べていますが、「戦争遺跡」概念は、いまだ明確に規定されていません。
 紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する碑は、「戦争遺跡」でも「遺跡」でも「遺物」でもありません。
                                              佐藤正人

■熊野・紀州鉱山 
 朝鮮人ら強制労働従事
 石に名 追悼碑建立

 朝鮮人三十五人の名前を記した石が、並んでいた。紀州鉱山で死亡した朝鮮人の追悼碑の前。漢字三文字の名前が多いが、本当の名が分らず一部が空白の石もある。日本の植民地となった朝鮮半島から、戦時中に強制連行された朝鮮人が働いていた熊野市紀和町の同鉱山。一九四五年八月十五日の「解放」前に事故や病気で命を落とした人もいた。その追悼碑が建てられたのは、ことし三月のことだ。
 「この地で命をなくした人の名前を残したい。侵略の歴史を、これからの子どもたちが知っていけばいいと思う」。 碑建立の中心となった市民団体「紀州鉱山の真実を明らかにする会」のキム・チョンミさん=和歌山県海南市=が語る。
 会の調査によると、鉱山に連れてこられた朝鮮人は千三百人以上。キムさんらは鉱山を経営した石原産業(大阪市)が作成した名簿などを手掛かりに韓国で現地の戸籍簿をたどり、実際に鉱山で働いた十数人の生存者と会うことができた。
 強制連行された人は鉱石の運搬など坑内での重労働をさせられたあ、ほぼ全員が「賃金を受け取れなかった」と証言。戦争末期、朝鮮半島で村ごとに割り当てられた労働者数を集めるため「寝込みを襲われ、無理やり連れて行かれた」と話す人もいた。
 亡くなった少なくとも三十五人の名は、石原産業の文書や紀和町内の寺に残る物故者名簿などを照合して割り出した。日本式の名前で書かれた人もいて、うち十人は完全な本名が分らないまま。死因など、未解明の点は多い。鉱山の歴史を解説する熊野市営の「鉱山資料館」では、朝鮮人労働者にかかわる展示はない。戦時中、同じように強制労働に従事した三百人のイギリス人捕虜に関する展示が充実しているのと対照的だが、市教委は「資料を持ち合わせていない」と話す。
 資料館近くの山の斜面には、掘り出した鉱石を選別した「選鉱場」のコンクリートの廃墟が今も残る。西に一㌔余り離れた坑道口に立つと、鉄柵の向こうの暗闇から冷たい風が噴き出し、坑道の奥行きを感じさせた。 (木下大資)

 ◆紀州鉱山◆ 古くは奈良・東大寺の大仏の建立時に銅などを供給したとされる銅鉱山。石原産業が1934年に買収し、大規模に再開発を進めた。熊野市紀和鉱山資料館によると39年に選鉱場が建設、3年後に増強され、鉱石の処理能力は1日2000㌧に達した。戦後は外国産の安い鉱石に押され、1978年に閉山した。
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「日本に 父奪われた」

2010年08月22日 | 「朝鮮報国隊」
 今朝(8月22日)の『朝日新聞』大阪版社会面の記事です。

■日本に 父奪われた
 朝鮮人軍属らの遺族、証言
 韓国併合条約100年で集会

 日本が朝鮮半島を植民地化した韓日併合条約が結ばれてから22日でちょうど100年。朝鮮半島では戦時中、多くの朝鮮人が日本や日本軍のために働き、命を落とした。幼い時に父と引き離された韓国人遺族2人が市民団体の招きで大阪を訪れ、21日、市民の前で証言した。 (千種辰弥)

 韓国・ソウルに住む韓光洙(ハンガンス)さん(68)に、父、錫(キソク)さんの記憶はない。
 村の書記だった父は1942年2月、韓さんが生まれた4日後に、公金を横領した前任者の罪をかぶって逮捕された。最後の消息はソウルの刑務所から届いた手紙。「息子の顔を見たい。写真を送ってほしい」と記されていた。
 44年3月、木の箱に入ったひとかけらの骨だけが戻ってきた。母はその場で気絶してしまったという。
 いま、父の面影をしのばせるのは、20歳ごろに撮ったスーツを着て涼しげな表情をした写真1枚だけだ。
 2004年、韓国で植民地時代の被害実態を調べるための特別法が成立した。被害申告のため取った父の戸籍には、「昭和拾九年弐月拾七日午後五時海南島陵水朝鮮報国隊ニ於テ死亡」とあった。
 朝鮮報国隊は、朝鮮半島にあった刑務所の収容者で組織され、中国・海南島で強制労働させられた部隊。父はそこで亡くなっていた。
 詳しい状況を知りたいと、今も父の記録を探し続ける。初めて日本で体験を語ることを決めたのは「心の底からわき上がる悲しみやつらさを理解してほしい」との気持ちからだ。「父の死の真相が分り、本当の謝罪があればこそ、韓日の未来の関係を築くことができる」
                   ◇               ◇
 李煕子(イヒジャ)さん(67)の父の思鉉(サヒョン)さんは、李さんが1歳のときに陸軍軍属として徴用された。 「2年で帰ってくるから。娘の面倒を頼む」。 故郷の江華島をたつ際、そう言い残し、消息は途絶えた。 
 92年、日本政府から韓国政府へ70年代に引き渡された、朝鮮人軍人・軍属の死亡者名簿を調べると、45年6月11日に中国・広西省(現・広西チワン族自治区)の病院で戦傷死していた。記述は、そのことを伝える1行だけ。 「父の死をたったこれだけで片付けるなんて」。 悔しさと疑問が募った。なぜ、どうやって命を落としたのか――。
 その後、別の資料で父が病院に患者を運ぶ途中に右足を撃たれ、亡くなったことを知った。靖国神社に合祀(ごうし)されていることもわかった。 2001年、「父の名が靖国に残っている限りは、植民地支配が続く」と、合祀取りやめなどを求める裁判を起こした。
 「事実を共有することで変わることがある。韓日が近くて近い国になるため、証言を続けたい」と話した。
                   ◇               ◇
 2人の証言集会は22日午後1時、大阪市浪速区浪速西4丁目のリバティおおさか(06・6561・5891)でも開かれる。

 【写真】亡くなった父の思い出などを語る韓光洙さん(手前)と李煕子さん=21日午後、大阪市北区、小玉重隆撮影
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