三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

2024年春の海南島「現地調査」報告 5

2024年04月19日 | 海南島近現代史研究会
 4月3日朝8時に黄流を出発し、9時半に楽東黎族自治県尖峰鎮黒眉村の邢亜响さん(1923年生)の家に着いた。邢亜响さんは2023年10月に亡くなっていた。脳梗塞で倒れ海口の病院で2か月間闘病したが家に戻って亡くなったという。邢亜响さんは日本軍と戦ったときの弓矢や火縄銃を保管していたが、邢亜响さんの死後、風習にしたがって燃やしたという。
 生前、邢亜响さんは、
   「日本軍と何回も戦った。射って、さっと場所を変えて、射って、また場所を変えて、射った。
    自分たちの銃はよくなかった。火縄銃だ。火薬を入れて使う。銃はいまもある。弓も使った。矢じりは
   鉄だった。
    仲間は50人くらい。みんな黒眉村の人。女性もいた。女性兵士は、炊事をした。
    機関銃を持つ日本軍とたたかうのは恐くなかった。死ぬことを恐れなかった。死んでも、光栄だと思っ
   た。日本兵を殺して銃を奪った。
    7日間、連続して戦ったことがあった。戦って逃げて、戦って逃げて、戦って逃げた。歌いながら戦っ
   た。遊撃隊は、みんな歌えた。 黒眉村は、まえは老包嶺のふもとにあった。今は人は住んでいない。
    解放後、村はここに移った」
と話していた。kouniti kuromayumuraHP (hainanshi.org) 
 邢亜响さんの一男の邢福球さん(1959年生)に昔の黒眉村に案内していただいた。
 昔の黒眉村では、多くの村人が日本軍に殺されたので、1945年にいまの場所に生き残った村人すべてが移り住んだという。

 黒眉村から感恩県龍衛郷新村(現、東方市新龍鎮新村)に午後2時過ぎに着いた。
 「一九四五年三月二日龍衛新村ノ戦闘」(原題は、「元号」使用)と副題がつけられた「横鎮四特戦闘詳報第五号」が東京の防衛研究所図書室で公開されている。この文書は、横須賀鎮守府第四特別陸戦隊第二大隊第二警備中隊が作製したもので、1945年3月2日に、海南島感恩県龍衛新村を襲撃したときの「戦闘詳報」である。この「戦場ノ状況」と題する個所には、
   「海岸線ヨリ東方一粁ニ位置スルニシテ戸数約八〇戸人口約三〇〇ヲ有シ農業 ヲ主スル一寒村ナリ
    周囲ハ高サ一乃至二米巾約二米ノ潅木ニヨル二重垣ヲ以テ防壁トナシ東西南ノ三方ニ出入門ヲ有シ
   西北ノ一部ニ高サ約二米ノ石造城壁アリ」
と書かれている。日本海軍は、住民300人ほどの村を「戦場」と規定して、襲撃した。この村を襲撃したのは、横須賀鎮守府第四特別陸戦隊第二大隊第二警備中隊第七小隊長猪瀬正信(日本海軍一等機関兵曹)ら11人で、全員が「便衣」を着ていた。この11人が2組に分かれて村を襲撃したのは、1945年3月2日午前10時30分だった。
 わたしたちは1945年3月2日の66年後の3月2日12時40分に、新村を訪ねた。
 「横鎮四特戦闘詳報第五号」には、「敵ニ與ヘタル損害」として、「遺棄死体四(共産党第二支隊指揮中隊長及同軍需主任ヲ含ム)」と書かれているが、新村で聞きとりをして、その「共産党第二支隊指揮中隊長」が湯主良さんで、「共産党第二支隊軍需主任」が王文昌さんであることがわかった。
 湯主良さんの妻の張亜香さんに話を聞かせてもらうことができた。張亜香さん(1922年2月21日、農暦1月25日生)の89歳の誕生日の9日後だった。
 話を聞かせてもらった場所は、小学校の校庭の塀の内側で、その塀の向こう側には、66年前に夫の湯主良さんら4人が日本兵に包囲され爆死した地下室があった。
 張亜香さんは、静かなしっかりした口調で、当時のことをつぎのように話した。その場にいたたくさんの小学生が周りを囲んで、張亜香さんの証言をいっしょに聞いた。
   “夫は、一七歳のときに革命に参加した。ここにあった家の地下室で死んだとき、23歳だった。
   子どもは2歳半だった。わたしは18歳のときに結婚した。夫が死んだときは22歳だった。夫が死んだ
  のは、正月18日だった。
   夫は、夜、ものを運んだり、情報を伝える仕事をしていた。隊長と呼ばれていた。
   夫が、共産党の活動をしていることは知っていたが、具体的なことは、はっきりとは知らなかった。  
   夫は家にいる時間は少なかった。ほとんど家を離れていた。わたしは、夫の両親と、農作業をして暮ら
  していた。
   夫が地下室で爆死した日、日本軍が来るというので、わたしは子どもを連れて逃げていた。あの
  ころわたしも子どももほとんど家に戻らなかった。
   わたしの家では、ときどき共産党の人たちが休憩や会議をした。しかし、安全な場所ではなか
  ったので、なにかあったらすぐ隠れる地下室をつくってあった。家の中では、食事や話ができるが、急
  になにか変なことがあったら、すぐに地下室に入る。狭いが、2~3人はゆっくり入れるほどの広さだっ
  た。
   あの日、日本軍が来たとき村にいた六人のうち、文昌からきていた党員は日本軍を見て逃げた。
   愚かなことに、逃げて、地下室の方に戻ってきた。この党員を日本軍が追いかけてきた。逃げる
  ときには、絶対に自分の同志の方に行ってはならないのに……。この人は逃げるのが遅かったので、
  日本軍につかまってしまった。つかまって、少し聞かれてから、すぐに、中のことを日本軍に教えた。
   日本兵は、地下室に声を掛けたが、誰も返事をしなかった。
   地下室の天井には板がはってあってその上に土をのせて床にしていた。その床の土を掘っていくと板に
  ぶつかる。日本兵は、村人に命令して、土を掘らせた。
   その音を聞いて、地下室にいた4人は、自殺することにした。地下室から出て日本兵と銃撃戦で闘っ
  たら、あとで村民たちがひどい目にあうと判断したようだ。日本兵は、このとき平服で七~八人だったか
  ら、闘うこともできたが、4人はそうせずに、自死の道を選んだ。
   日本軍と直接戦うことをやめ、もっていた銃と手りゅう弾で地下室の中で自殺した。銃を自分に撃った
  人がいた。手榴弾を爆発させた人もいた。
   日本兵は、村人に地下室で倒れている4人を掘り出させた。
   ひとりはまだ生きていたので、村人が息をしているのが日本兵にわからないように顔を下に向けさせた。
   しかし、日本兵は顔を見て生きているのがわかったので、拳銃で頭を何発も撃って殺した。脳が砕けて  
  飛び散ったという。三人の遺体は手も足も爆弾で砕かれていた。
   日本兵は、家に火をつけてからすぐ帰った。
   朝8時ころに爆弾の音が聞こえ、煙が上がるのが見えた。わたしは、日本軍がいなくなってから、村
  に戻り、死んだ4人の遺体を見た。夫の頭に弾の穴があいており、手が無かった。
   そのあと日本兵は、2~3日ごとに村に様子を見に来た。
   隠れ家を教えた文昌出身の党員は同志を裏切ったということで、あとで共産党に処刑された”
 張亜香さんは、夫の湯主良さんらが死んだのは、正月18日だと話した。「横鎮四特戦闘詳報第五号」には、横須賀鎮守府第四特別陸戦隊第二大隊第二警備中隊第七小隊が龍衛新村を襲撃したのは、1945年3月2日であったと書かれている。1945年3月2日は、農暦では1月18日だった。
 湯主良さんの遺児の湯祥文さん(1942年生)に、湯主良さんの墓に案内してもらった。
 墓は村から一キロあまりはなれた広い墓地の中にあった。以前は、村の近くに埋葬されていたが、2006年にこの場所に改葬されたという。
 高さ二メートルあまりの墓碑に、
   「永垂不朽」
   「生于一九二一年辛酉二月二十七日辰時為人正直思想進歩一九三八年投身革命曾任
   村党支部幹事娶同村邦直公次女為妻夫妻恩愛傳男一丁女一口一九四五年正月十八日
   為掩護群衆撤退被日軍囲困寧死不屈而光栄犠牲年僅廿四歳」
と刻まれていた。

 3月2日午後3時半に東方市新龍鎮新村を離れ、5時半に東方市八所鎮新街村に着いた。わたしが新街村の倪定平さん(1936年生)にはじめて会ったのは2003年春だった。その時、新街村の日本語学校のあった場所や横須賀鎮守府第4特別陸戦隊司令部司令部のあった場所などに案内してもらった。日本語学校にかよったことのある倪定平さんは、
   「当時、生徒は160人くらいだった。1クラス40人で4クラスあった。正面に職員室があった。
    左右に教室があった。日本人教師のひとりの名は、水村定男だった。
    学校の後ろに、日本軍専用の病院があった」
と話した。 
 倪定平さんは「日本侵略期の新街小学校の生徒たち」、「新街小学校前の日本兵士と日本語教師たち」、 「新街小学校の教師たち 軍帽をかぶった日本人教師2人とかぶっていない台湾人教師2人」などの写真をもっていた(紀州鉱山の真実を明らかにする会制作『写真集 日本の海南島侵略と抗日反日闘争』(2007年2月10日発行、76頁)。
 その年11月に再会し隣村の墩頭村の漁港近くにあった横須賀鎮守府第4特別陸戦隊守備隊の望楼跡、日本軍が爆撃した学校の跡などに案内してもらった。その後なんども倪定平さんに会って新街村とその周辺での日本軍の侵略犯罪についてくわしく話していただいた。

 4月3日に家を訪ねると、倪定平さんは1年前(2023年4月20日)に新型冠状病毒肺炎で亡くなっておられた。わたしが最後に会ったのは2014年11月20日だった。一男の倪徳雲さんが“父は発病してから10日間ほど入院したが家で死んだ。肺が真っ白だった”と話した。

                                   佐藤正人
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2024年春の海南島「現地調査」報告 4

2024年04月18日 | 海南島近現代史研究会
  4月2日朝9時40分に旅館から回新村に向かった。5年半前にはなかった道路ができていて、なかなか着かない。10時40分に着くが、村中の道路もおおきく変わっている。
 紀州鉱山の真実を明らかにする会が初めて回新村を訪ねたのは、21年前の2003年3月24日だった。このとき出会った哈秉堯さん(当時74才)は、日本人が、朝鮮人を「朝鮮報国隊」の人たちだと言うのを聞いたことがあると言った。 
 わたしたちは、朝鮮人の宿所跡に、案内してもらった。朝鮮人は、飛行場建設や、道路建設をさせられ、殴られて死んだ朝鮮人もいたという。
 哈秉堯さんは、その現場に案内してくれた。哈秉堯さんは、子どものころ毎日のように朝鮮人がおおぜい死ぬのを見たと言った。
 その後、わたしたちは、なんども回新村を訪ね、村人から証言を聞かせてもらった。
 2004年4月に紀州鉱山の真実を明らかにする会は1998年6月からの海南島での「現地調査」での映像を編集して、ドキュメンタリー『日本が占領した海南島で 60年前は昨日のこと』を制作した。2004年7月にその朝鮮語版を、2004年12月にその漢語版を制作し、2005年はじめに回新村で漢語版を上映した。
 わたしが最後に哈秉堯さんに会ったのは、2018年10月下旬だった。今度訪ねたら家は空き地になっており、近所の人が哈秉堯さんは何年か前に亡くなり、家族は飛行場の近くに引っ越したと話した。
 回新村を離れて、「朝鮮村」に向かった。11時10分に「朝鮮村」の南丁小中学校の前に着いた。
 わたしたちは、これまで20回ちかく「朝鮮村」を訪ね、「朝鮮村」の村人に日本軍が「朝鮮村」をその周辺で朝鮮人を強制的に働かせ、暴行し、虐殺した目撃証言を聞かせてもらってきた。
 今回は同行できなかったが、海南島近現代史研究会の会員の在日朝鮮人が、「朝鮮村」の貧しい小中学生に使ってもらうようにと南丁小中学校に100万円を寄金したいと言い、わたしが預かっていた。南丁小中学校の蔡少冠校長は、上部機関(教育局→民生局)に問い合わせてから、受け取ってくれた。校長は、貧しい生徒と成績のいい生徒のために使いたいと言った。南丁小中学校に隣接している広場には日本政府に「朝鮮報国隊」に入れられ海南島に連行されて1945年夏に虐殺された朝鮮人1000人以上が埋められていた。

 4月2日12時15分に南丁小中学校から離れてが埋められている広場に行った。広場の南丁小中学校寄りの場所(朝鮮人の遺骸がいまも埋められている)には、陶器工場が建設されていた(現在は休業中)。
 12時40分に「朝鮮村」から黄流に向かった。

                                      佐藤正人
 
 
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2024年春の海南島「現地調査」報告 3

2024年04月17日 | 海南島近現代史研究会
 4月1日朝8時35分に旅館を出発し、9時30分に英州鎮九尾村(前、九尾吊村)に着いた。
 わたしは、2005年に、政協陵水黎族自治県委員会主席の蘇光明さんから『陵水文史 7 日軍侵陵暴行実録』(1995年2月発行)をいただいた。その書には、馮徳郷・藍信郷・馮興瓊口述、蘇光明整理「死里逃生憶当年——九尾吊村“三・九”大屠殺述実」が掲載されていた。そこには1943年農歴3月9日に日本軍が村民72人を殺害したという証言が記されていた(陵水黎族自治県老区建設促進会編『陵水黎族自治県革命老区発展史』(2021年12月、海南出版社発行)には「死里逃生憶当年」が「九尾吊村大屠殺遺址」と題されて6行に縮められて収録されている。314頁)。
 2007年から海南島近現代史研究会は村人に証言を聞かせてもらうために、何度か九尾吊村を訪ねた。
 2014年4月7日に英州镇红鞋村委会九尾村全体村民は、陵水黎族自治县人民政府に、村に日本軍の村民殺害の「歴史真相」を伝える「纪念碑」建設を求める文書を提出する準備を開始していた。
 海南島近現代史研究会が前回九尾村を訪ねたのは、2014年11月4日だった。そのとき、元書記の馮興義(1933年生)さん、現書記王田衛(1970年生)さんらは各家をまわり、戸主が死んだり、全滅した家のばあいは、親戚を訪ねて聞いて、殺された人の名まえ、虐殺の状況を調べて文書をつくったと言った。
 馮興義さんは、
   「日本軍は村の二つの方向から攻めてきた。田んぼの方には日本兵はいなかったので、20何人が田んぼのほうに逃げた。
    逃げられなかった人はぜんぶ、剣で刺し殺された。
    当時わたしは13歳ころで、家族は、父、母、兄3人、姉2人、じぶんの8人家族だった。わたしは末子なので、父はわたしを
   連れて逃げた。兄ふたりと姉ひとりは逃げることができたが、兄の亜楽と姉の玉英は殺された。兄は25歳、姉は15歳だった。
   王廷朝と李家珍はつかまって、隆広の日本軍の基地まで、村のニワトリやブタ、羊などを運ばされたあと、首を切られて殺された。
   首は見つからないまま。隆広の人が見ていて、村の人に教えてくれた。村の人が遺骸を引き取りに行ったが、首がなかった。探しても見つからなかった。
   村の人はみんな山に逃げているので、村には
  人はいない。家は焼かれて、壁だけ焼け残っていた。日本軍は何回も来た。家を壊して、レンガを盗っていった。
   壁を壊したり、運んだりしたのは、別の村の人がした。どこの村の人かわからない。英州あたりの村の人。
  車はないので、みんなかついで運んだ。
と話した。とげがはえた大きなサボテンをゆびさして、馮興義さんは、
   「日本軍時代、大きく茂っていて、村のまわりぜんぶに植えられていた。‘界刺(ゴイシ)’という。動物も入って行かない。
   痛いが、ここに隠れた人は助かった」と言った。
 その9年半後の2024年4月1日に、わたしは 九尾村を訪ねた。村人に聞くと、追悼碑(「纪念碑」)は、まだ建設されていないと言う。
 馮興義さんの家を訪ねた。馮興義さんは、ほとんど目が見えなくなっていた。すこしの間話していると、声でわたしのことを思い出してくれた。馮興義さんは、1958年から1988年まで30年間、村里(周辺のいくつかの村)の書記をしていたという。

 2024年4月1日午後12時15分に、保亭黎族苗族自治県什玲鎮で陳厚志さんに会った。陳厚志さんは、張応勇さんに教えられて海南島で民衆運動を続けてきている人だ。
 保亭市内で張応勇さんの三女の張蕾さんに会った。張応勇さんの妻の黄菊春さんは2020年後半に、一女の張嘉さんは2022年後半に乳がんで亡くなったという。張応勇さんの遺稿集出版について話し合った。
 午後6時、三亞市内に着き、三亞民间文化博物館に行き、館長の蔡明康さんに再会し話を聞いた。『海南島近現代史研究第4号・第5号』を寄贈すると、「このような資料はいちばんだいじなものだ」と語った。

                                     佐藤正人
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2024年春の海南島「現地調査」報告 2

2024年04月16日 | 海南島近現代史研究会
 3月31日早朝、海口を車で出発し、高速道路を南に向かい、定安県・瓊海市を通過し、11時過ぎに万寧市万寧鎮に着いた。
 新型冠状病毒肺炎流行のため、海南島近現代史研究会が海南島に行くのは訪ねるのは5年3か月ぶりだった。
 初めに蔡徳佳さんの家を訪ねた。蔡徳佳さんは、2年前に亡くなられていた。
 わたしが、初めて蔡徳佳さんに会ったのは、2002年4月5日だった。その後、わたしが蔡徳佳さんに10数回話を聞かせてもらってきた。
 初めにあった日に、万寧県政協文史弁公室編『鉄蹄下的血泪仇(日軍侵万暴行資料専輯)』(『万寧文史』第五輯、1995年7月)をいただいた。その書には、蔡徳佳・林国齋「日軍占領万寧始末——制造“四大屠殺惨案紀実”」、楊広炳・陳業秀・陳亮儒・劉運錦「月塘村“三・廿一”惨案」が掲載されていた。
 3月31日午後1時過ぎに、月塘村の朱振華さんの息子さんを訪ねると、朱振華さんは2年前に脳の病気で入院し、いまはほとんど記憶を失っていると話した。
 わたしが初めて朱振華さんに出会ったのは、2007年5月24日だった。
 朱振華さんは、1980年代末から、月塘村虐殺の犠牲者の「調査」をはじめ、犠牲者と幸存者全員の名簿をつくった。虐殺三年後の1948年に月塘村で生まれた朱振華さんは、成人後、獣医をしながら、村の家を一軒一軒、なんども訪ねて聞きとりをし、月塘村虐殺の実態を知ろうとしていた。
 月塘村の追悼碑(三・廿一惨案紀念碑)は、2008年農暦3月21日(4月26日)に除幕された。
 追悼碑の建設は、朱振華さんと朱学基さんが中心になってすすめた。
 1945年5月2日明け方、日本軍は、北方の万寧市のほうから、月塘の西側の道を通って、村に入ってきた。その道は、いまでも残っている。
 月塘のすぐ近くの朱光清さんの家を日本軍が襲ったとき、まだ、陽はのぼっていなかったという。その家のあった場所で、朱光清さん(一九三四年生)は、
   「とつぜん家にはいってきた日本兵に、おなかの右下を刺された。血まみれになり、腸がとびでた。
   手でおさえて逃げるとき、右足を切りつけられた。血がいつまでも止まらなかった。
   門のそばで母が殺された。四三歳だった」。
と、ときどき遠い所を見つめるようにして、低い静かな口調で話してくれた。
 朱光清さんは、傷跡をみせてくれた。腹部の傷跡が深く残っており、右足首上部の傷が細長く残っていた。
 2024年3月31日に朱光清さんの家を訪ねた。妻の黄玉金さんが、朱光清さんは家のなかで転んで骨折し、1か月ほど寝込んで農歴2023年2月10日に89歳で亡くなった、と語った。

 月塘村を離れ、高速道路を南西に進み、陵水黎族自治県英州鎮にいった。

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2024年春の海南島「現地調査」報告 1

2024年04月15日 | 海南島近現代史研究会
 海南島近現代史研究会は、2024年3月30日から13日まで20回目(紀州鉱山の真実を明らかにする会としては回目)の海南島「現地調査」をおこないました。
 その行程は、つぎのとおりでした。

3月30日午後9時、海南島海口国際空港にホンコンからの直行便で到着。 
3月31日 海口→月塘村→英州鎮大坡村→英州鎮九尾村→陵水泊。
4月1日 陵水→保亭→「朝鮮村」→三亞泊。
4月2日 三亞→三亞民间文化博物馆→黄流日本軍飛行場跡→黄流泊。
4月3日 黄流→感恩県龍衛郷新村(現、東方市新龍鎮新村)→東方市博物館→八所鎮新街村→四更鎮→東方市泊。
4月4日 東方→四更鎮英顕村→昌化鎮旦場村→烏烈鎮→白馬井鎮→新盈鎮泊。          
4月5日 新盈→臨高→沙土(聖眼村・欽定村)→澄邁泊。 
4月6日 澄邁常樹村→雷鳴鎮南曲村→雷鳴鎮梅種村→黄竹→南陽→文昌泊。 
4月7日 文昌→清瀾港→東郊鎮→文昌泊。 
4月8日 文昌→東閣鎮→石馬鎮→中国銀行→大至坡泊。  
4月9日 大至坡→三江で李粒くんに会う→咸来→潭牛泊。
4月10日 潭牛→秀田村→舖前泊。
4月11日 舖前→澄邁県橋頭鎮理善村→臨高角解放記念碑→臨高→海口泊
4月12日 海口市石山鎮玉榮村の“迷人洞”→1939年2月10日に日本陸海海軍が奇襲上陸した天尾村海岸(現、新海港)→海口図書館→海南省史志館→新華書店→海口泊。
4月13日 海口人民公園に建てられている海南革命烈士纪念碑のそばの許如梅さんの「墓」に、許如梅さんの息子さん(邢勇さん)に案内してもらう→南海出版公司との話し合い→海口発(ホンコン経由で日本に)。
                                 佐藤正人
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海南島近現代史研究会第27回定例研究会 蒲豊彦報告

2024年02月25日 | 海南島近現代史研究会
 以下は、2024年2月17日に開催した海南島近現代史研究会第27回定例研究会での蒲豊彦さんの報告の要旨です。
 

 庶民の記憶と民衆史
           蒲豊彦

 日本では現在、小学6年生から歴史を学び始めるようだが、そこに登場するのは、中学、高校を含め、ほとんど有名な事件や人物に限られるだろう。また歴史にたいする興味やイメージを形作るうえで大きな影響があると思われるNHKの「大河ドラマ」も、主人公はほぼ有名人である。歴史を理解しようとするとき、有名な事件や人物が基本になるのは疑いないが、その歴史がつまり「歴史」である、と思い込むことは避けたい。そのような考えは、その対極にある普通の人の歴史や生活には意味がない、という勘違いにつながる可能性があるからだ。以下では、私の著書『闘う村落-近代中国華南の民衆と国家』(名古屋大学出版会、2020年)と『三竃島事件-日中戦争下の虐殺と沖縄移民』(共著、現代書館、2018年)をおもな材料として、庶民の歴史を研究する方法の一例を紹介してみたい。
 まず、『闘う村落-近代中国華南の民衆と国家』は、中国南部いわゆる華南の地域社会の歴史を解明しようとしたものである。なかでも広東省の東部沿海部に焦点をあてた。このあたりの農村部は、かつてしばしば特徴的な姿をしていた。村は散村ではなく家々がびっしりと集まり、そこには同族を主とする人々が暮らし、村の周囲は土塀で囲まれ、住民たちは武装していた。それはおもに盗賊対策だったと思われるが、その武力を使って近隣の他村と頻繁に武力衝突を繰り返し、多くの死者を出していた。これが華南の地域社会の大きな特徴であり、いわばその基本構造をなしていた。 
 この構造は、16世紀の中ごろ(明の中期)から徐々に形成されはじめ、20世紀の中ごろまで続く。
 ところがその間、中国では、明、清と王朝が入れ替わり、さらに辛亥革命を経て、中華民国、中華人民共和国(1949年成立)へと移った。ここで、きわめて重要な事実が明らかになる。この時期を通してほぼ400年間、華南の地域社会で同じ基本構造が続いていたということは、中国全体が大きく変化しているにもかかわらず、華南ではそれとはまったく別の歴史が同時に存在していたことになるのである。このもう一つの歴史を「歴史の底流」と呼びたい。これまで研究者は、華南のこの底流の存在を明確に認識することがなかった。
 このもう一つの歴史を理解するためには、農村部を中心とする地域社会の様相を独自に時期区分しながら調べなければならないが、史料の欠如という大きな問題がある。日本の場合は、前近代においても各地方の古文書がわりあいよく残っているようだ。しかし中国では、ごく一部の例外を除き、そのようなものはないといってもよい。そこで、様々な細々した漢文史料を寄せ集めて利用することになるが、『闘う村落-近代中国華南の民衆と国家』では、それに加え、それらとはまったく性格の異なる史料を使用した。キリスト教の宣教師が残した書簡や報告書などの文書群である。1840年のアヘン戦争以降、欧米の宣教師が大挙して中国へ入りはじめ、各地で大量の文書を作成して母国のミッション本部に送り、現在も教会の資料館や大学図書館等に保存されている。
 そうした宣教師文書を判読、整理すると、通常の漢文史料には現れない様々なことが見えてくる。たとえば広東東部の場合、19世紀の中ごろから20世紀初頭までの間に、入信者が急増した時期が2回あったことが明らかになる。最初は1870年、次は日清戦争(1894~95年)の直後から19世紀末にかけてである。宣教師文書を使ってさらにその原因を探ると、その時期、社会情勢の変化にともなって住民が大きく動揺していたことがわかる。つまり、地域社会の動向が宣教師文書のなかに記録されているのである。また、1894年には香港でペストが大流行し、さらに広東の沿海各地にも伝播したが、広東東部では1899年を境にして感染が新しい地域に拡大し、特殊な住民運動を引き起こした。これらはいずれも、従来の漢文史料ではうかがい知れなかったことである。
 『闘う村落-近代中国華南の民衆と国家』では、以上のようにして約400年間に及ぶ華南地域社会のもっとも基本的な歴史を描いた。それは次のように整理することができる。まず、明の中ごろから次第に同族が集住しはじめ、清初には隣村との武力衝突が本格化し、このころまでに地域の基本構造が出来あがった。そして日清戦争期に戦争、ペストそのほか各種の社会不安が重なるなかで、住民の間に自助、互助的な組織活動が発展する。住民のそうした社会運動の一つの帰結が、同地域で近現代史上最大の事件となる1920年代の農民運動だった。
 ただし、以上の歴史叙述には大きな限界があり、ほとんど個人を登場させることが出来なかった。そもそも宣教師の文書には中国人信者の個人的なことはあまり出てこない。広東東部にかんしておそらく唯一の例外は、アメリカ人女性宣教師のアデル・M・フィールドが残したPagoda Shadows(1884年)という書物である。これは『私がクリスチャンになるまで-清末中国の女性とその暮らし』(東方書店、2021年)という邦題で私が翻訳しているが、フィールドが聞き取った中国人女性信者の人生や暮らしが細かく記録されている。たとえば「快」という女性は幼かったころ、町へ出かける父親に、三日間、ミカン畑の小屋に泊まり込んで見張りをするよう言いつけられた。ところが三日目の夜、恐くてついに我慢できなくなり、母が待つ家に駆け戻ってしまう。フィールドは、どきどきしながら父親の帰りを待つ少女の心情を、きわめて丁寧に書き留めている。この地域で、住民が実際にどのように日々を過ごしていたのかは非常に重要な問題であり、このようなものも地域研究に積極的に利用すべきだろう。
 文書による記録が少ない庶民史のような分野では、フィールドも行った聞き取り調査がやはり欠かせない。そうした方法を本格的に使おうとしたのが『三竃島事件-日中戦争下の虐殺と沖縄移民』である。本書のテーマは戦争だが、戦闘の経緯だけでなく、三竃島と沖縄双方の住民の暮らしにも留意した。たとえば、たくさんの子どもを抱えたある家族は、少しでも生活の足しにしようとして、本来は海軍へ納めなければならない米を島外から密航してくる中国人に売っていた。日本軍に見つかれば双方ともに大変なことになる行為である。しかし生活のために危険を冒す家族があり、他の沖縄移民もそれを黙認していた。また、日本兵に捕まった老人と小さな子どもを、移民の少女たちと一人の日本人軍曹が一緒になってこっそり逃がしたことがあった。これも発覚すればただではすまされない。
 『三竃島事件』は日本海軍よる三竃島占領と、その後の沖縄移民の状況を整理する目的で始めた研究だったが、1945年に日本軍が撤退したあとの三竃島についても調査した。その結果、三竃島はその地理的な位置のために、国民党軍が台湾へ逃れるための撤退センターとして利用され、戦後も住民に大きな犠牲を出したことが明らかとなった。これは、沖縄が現在まで置かれ続けている状況と非常によく似ている。こうして、日本海軍による三竃島占領だけでなく、三竃島と沖縄という二つの島をつなぐ、より基本的な歴史を描くことが出来た。
 歴史にかんする本を出版するのは、第一に、事実を整理して記録するためだが、読者のことも考えるべきだろう。読者が興味をもって読むためには、たんなる事実の羅列ではなく、上述のような事件や生活の細部を書き込み、できるだけ目に見えるようにその時代を再現することが必要だと思われる。

(以上は海南島近現代史研究会第27回定例研究会で報告した内容を整理したものである)
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海南島近現代史研究会第27回定例研究会 佐藤正人報告

2024年02月24日 | 海南島近現代史研究会
 以下は、2024年2月17日に開催した海南島近現代史研究会第27回定例研究会での佐藤正人の報告の要旨です。

■主題報告  日本が侵略した地域の民衆の記憶、侵略国家の民衆の主体変革■   
    日本国家が侵略した地域における侵略犯罪の歴史は厳密に記録され伝承されなければならない。
    その歴史記述の正確さを保証する、侵略国家日本の民衆の主体のありかたを考えたい。

(一) 国民国家日本の民衆の歴史認識・行動(事実を明らかにする=歴史的責任を自覚する)。

(二)  国家謝罪・国家賠償(国民国家日本政府に侵略犯罪の諸事実を細部まで正確に明らかにさせ、公表させ、謝罪させ、責任をとらせ、
   賠償させる)。
        侵略。虐殺。日本軍隊性奴隷。

(三) 実証的民衆史(事実)。思想。  民衆の歴史・民衆の歴史認識。
        生き方。責任。道徳。
    民衆運動としての歴史認識・民衆運動のなかでの歴史認識・民衆運動深化のための歴史認識。

(四) 世界史   時間(すべては、現在・昨日のこと)・場(地域)。
    北アフリカ史。南アフリカ史。アラブ史。北アジア史。南アジア史。北太平洋史、南太平洋史。北大西洋史。南大西洋史。ヨーロッパ
   史。北「アメリカ」史、中部「アメリカ」史。南「アメリカ」史。
    個人史のなかの世界史・地域史のなかの世界史
    現在の、日常のなかの世界史。 侵略の世界史 ⇔ 抵抗の世界史。
      
(五)時代 過去、生きている時代(わたしが。われわれが)
   13世紀
   14世紀
   15世紀 大西洋奴隷貿易開始。
   16世紀
   17世紀
      1622年「インディアン戦争」(アメリカ合州国植民地戦争)開始→1890年
   18世紀
   19世紀 ベルギー、イギリス、フランス、ドイツ、イタリア、ポルトガル、スペインによるアフリカ大陸分割(植民地化)開始。
      1895年:フランス領西アフリカ
      1898年9月2日:オムダーマンのたたかい マフディール。マフディー戦争
   20世紀
      1904年に、アフリカ南部のナミビア(1884年にドイツが領土化)で、ヘレロ民族がドイツの侵略に抗して烽起したとき、ドイツ
     軍は、ジェノサイドをおこない、ヘレロ民族の8割を殺戮あるいは餓死させた。
      1905年~7年、タンガニイカ民衆(マトゥンビ民族、エンギンド民族、ボゴロ民族、エンゴニ民族ら)が開始したマジマジ烽起の
     時、ドイツ軍、10万人を越える民衆を虐殺。          
      1906年から朝鮮民衆、独立戦争(義兵戦争)開始。日本軍は、義兵の根拠地と判断した村落を襲撃し村人を殺害。朝鮮駐箚軍
     司令部『朝鮮暴徒討伐誌』に、1906年~11年間に日本軍・憲兵・警官が殺害した義兵は1万7779人と書かれている。
      1914年~1918年 世界戦争(1) 
      1919年の朝鮮の三・一独立運動のとき、日本政府は、軍隊・警察を増強し民衆殺傷      
      1937年~38年、ヴィーンヌィッヤ(ウクライナ)でソ連NKVDが1万人以上の民衆を虐殺
      1937年~38年、ソ連で「大粛清」。NKVD(ソ連内務人民委員部部)の1953年統計報告によれば、1937年に政治囚77万9056
     人・死刑者35万3074 人、1938年に政治囚583,326 人・死刑者32万8618 人。
      1937年12月、南京で日本軍が大虐殺
      1939年2月10日、日本軍海南島奇襲上陸開始
      1939年~45年世界戦争(2)
      1939年9月1日、ドイツ軍ポーランドに侵入
      1939年9月17日、ソ連軍ポーランドに侵入
      1940年4月~5月、NKVDがカチンの森でポーランド将兵ら2万人以上を虐殺
      1940年9月27日:日独伊三国防共協定調印→1943年10月13日伊王国独に宣戦
      1941年6月22日:ドイツ、ソ連侵略戦争(バルバロッサ作戦)開始・ソ戦(大祖国戦争)開始→1945年5月9日:ドイツ無条件
     降伏(ソ連の死者2660万人、2015年にロシア国防省発表の公式の推算では、犠牲者数(2660万人、約1200万人の兵士が戦死・
     未帰還、民間人約1460万人がドイツ軍の占領地で死亡・未帰還・飢餓や疾病などで死亡)。
      1944年6月6日:アメリカ合州国軍・イギリス軍ノルマンディ上陸開始
      1944年6月6日~8月30日 ハレマンディ
      1948年:パレスティナでナクバ開始
      1950年:朝鮮戦争開始
      1965年10月~1966年3月 スマトラ島、ジャワ島、バリ島で、インドネシア国軍・国軍に軍事訓練をうけていた民間の「警防
     団」などが、共産主義者、華僑らを集団大虐殺。死者50万人?~300万人?
      1988年3月16日:ハラブジャ虐殺(青酸ガス爆弾によるイラン政府のクルド人虐殺。死者3200人~5000人)
   21世紀
      2023年10月~現在 シオニスト国家政府・国軍・警察、パレスチナでパレスチナ人3万人殺害。

   空爆の時代  南京・成都……爆撃。 クラスター爆弾(ラオス爆撃)。 北朝鮮爆撃。ベトナム爆撃(北爆)。
          ガザ・ウエストバンク爆撃。

(六)シオニスト国家(イスラエル)のパレスチナでの残虐な侵略犯罪
        ホロコースト(ユダヤ人大虐殺)・ナクバ(パレスチナ人虐殺)
   イギリス国家の侵略犯罪
   ドイツ国家の侵略犯罪
   日本国家の侵略犯罪

   1898年9月2日 マフディ戦争 オムダーマンのたたかい
   1939年2月~1945年8月 国民国家日本政府・軍・企業が、海南島で侵略犯罪
   1948年 シオニスト国家(イスラエル)がパレスチナで残虐な侵略犯罪を実行
       ナクバ  パレスチナ人の村をシオニストの軍隊が500以上破壊・占領し、パレスチナ人を追放し、地名を変更。
   1987年6月28日 サルダシュㇳ  死者13人、住民12000人の8000人が被害。
   1988年3月16日 ハラブジャ  死者3200~5000人、負傷者7000~10000人

   朝鮮で
     済州島四・三虐殺(1948年4月~1949年5月。犠牲者3万人~6万人。
     聞慶虐殺(1949年12月24日。韓国陸軍第2師団第7中隊第2小隊第3部隊による住民虐殺。住民88人を射殺)
     韓国の獄中者を韓国政府・軍。・警察が大虐殺(「補導協会員大虐殺」。遺族会は114万人が虐殺されたと報告
     居昌・山清・咸陽虐殺(1951年2月7日、9日~11日。韓国陸軍第11師団による住民虐殺)
     老斤里虐殺(1950年7月。アメリカ合州国陸軍第7騎兵連隊、約300人を射殺。)
     韓国政府・韓国軍、ベトナムで大虐殺。 1966年1月23日~2月26日にかけて韓国陸軍首都機械化歩兵師団(猛虎部隊)は南ベト
    ナムビンディン省タイソン県タイビン村(当時の名は平安を意味するビンアン村)15集落の村民1004人虐殺(ベトナム戦争後、
    栄光を意味するタイビンに変えた)。 2月26日に猛虎部隊、ゴダイで住民380人をすべて虐殺。1968年2月12日に、韓国海兵隊
    第2海兵旅団(青龍部隊)第1大隊、フォンニィ・フォンニャット村で村人76人虐殺。2月25日に韓国海兵隊、ハミ村で子ども・女性・
    老人135人虐殺。

(七)平和・戦争
   パクスロマーナ
   パクㇲブリタニカ
   パクㇲアメリカーナ
   日本の平和(日本国憲法。第一章「天皇(1條~8條)」を前提として第二章「戦争の放棄(9條)」)

(八)海南島で
   万人坑・千人坑・強制連行  石碌鉱山、港、鉱山 「朝鮮村」
   住民虐殺 沙土・月塘村
 
(九)コミューン、ソビエト、起義
   1848年:パリコミューン
   1917年:ソビエト
   1927年11月~1928年2月:海陸豊蘇維埃(海陸豊ソビエト)
   1927年12月11日から3日間:広州起義・広州公社(広州コミューン)

(十)ナショナリズム
   インターナショナルリズム

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「海南島月塘村の朱学平さんのこと」

2024年02月19日 | 海南島近現代史研究会
 海南島近現代史研究会第27回定例研究会(2024年2月17日に開催)への海南島からのメッセージのなかで林彩虹さんは、「万寧月塘村の「三・廿一」惨事の生存者である朱学平さん」について語っています。
 海南島近現代史研究会は、月塘村虐殺62年後の2007年に、生き残った人びとの証言を、村人のみなさんの助けをかりて、50日間記録し、ドキュメンタリー『海南島月塘村虐殺』制作しました。
 以下は、そのドキュメンタリーのうち、朱学平さんにかかわる記録の個所です。

Ⅰ、月塘村 
 映像:月塘村への道
 表題:海南島月塘村虐殺
 ナレーション:1945年5月2日の明け方、まだ暗いうちに、日本軍は、この道を通って月塘(ユェタン)村に侵入してきました。
 影像:月塘
 テロップ:月塘
 ナレーション:むかしは、月塘村の中心は、月のかたちをしているこの大きな池のそばにありました。
 映像:アジア太平洋地図→海南島全図→万寧→月塘村

Ⅱ、証言                     
 映像:朱学平さん(自宅で、殺戮現場で、月塘村の道で)
 テロップ:朱学平さん(1933年生)
 テロップ:ここから 腸が出ていた
 テロップ:私は 柱の影に隠れていたので 助かった
 テロップ:朱学平さんの家の土台石
 ナレーション:朱学平(ジュ・シュェピン Zhu-Xueping)さんは、
         「わたしは、12歳だった。朝はやく、日本兵がとつぜん家に入ってきて、なにも言わないで、殺しはじめた。
        わたしだけが生き残った。母、兄の朱学温(ジュ・シュェウェン Zhu-Xuewen)と朱学敬(ジュ・シュェジン
        Zhu-Xuejing)、姉の朱彩和(ジュ・ツァィホ Zhu-Caihe)、叔母2人、いとこ2人、そして6歳だった妹の
        朱彩蓮(ジュ・ツァィリェン Zhu-Cailian)が殺された。
         わたしは、柱のかげに倒れるようにして隠れて助かった。妹は腹を切られて腸がとびだしていたが、まだ
        生きていた。血だらけの妹を抱いて逃げた。途中なんども妹が息をしているかどうか確かめた。激しい雨が
        降った。村はずれに隠れた。半月ほどたって戻ってみたら家は焼かれていた。遺体も火にあっていたが、
        骨になりきっておらず、くさっていた。まもなく、日本軍の手先になっていた者たちが万寧(ワンニン
        Wanning)から来て、遺体を近くに運んで埋めた。
         その5年前の1940年11月28日に、父の朱開廉(ジュ・カイリェン Zhu-Kailian)が、近くの東澳(トンアォ 
        Dongao)村に魚を買いに行き、日本軍に銃で撃たれて殺されていた」
     と話しました。
 影像:畑からの帰り道、クワをかついで遺骨が埋められたと思われる場所に近づく朱学平さん
 影像:遺骨が埋められたと思われる場所をしめす朱学平さん
 テロップ:遺骨が埋められたと思われる場所をしめす朱学平さん
 ナレーション:朱学平さんは、
          「日本軍が負けていなくなってから、遺骨を探した。遺骨が埋められたと思われる場所をなんども
       掘って探したが見つからなかった。焼けた骨は土のなかで砕けてしまったのだと思う」
    と話しました。
 映像:朱学平さんのむかしの家の跡
 テロップ:日本軍が襲撃した朱学平さんの家の土台石
 テロップ:むかしの家の門の跡を示す朱学平さん
 影像:その向かいの朱開琨さんの家の跡
 テロップ:朱学平さんの家の向かいは朱開琨さんの家だった  土台石が残っているだけ

Ⅸ、朱彩蓮さん                    
 映像:瀕死の妹、朱彩蓮さんを抱いて逃げた道を62年後に歩く朱学平さん
 テロップ:妹を抱いて逃げた道を歩く朱学平さん
 映像:「坡」で話す朱学平さん
 テロップ:妹は、近くに埋めた
 テロップ:妹を抱いてここまで逃げてきた
 テロップ:妹は、近くに埋めた
 テロップ:妹は ただ 水だけを欲しがった
 テロップ:妹は静かに目を閉じ、死んでしまった
 映像:朱学平さん 樹と草の茂みのなかで
 テロップ:ナグゥサン(ひどい) ナグゥサン  思い出す。悲しい ホレン(可怜)
       食べるものも着るものもなかった   土の上に麻の袋を敷いて、蓑をかけて寝た
 テロップ:ここで何か月も暮らした  捨てられているサツマイモのくずを探して食べた   ひとりで何年も暮らした  
       怖かった 思い出すと涙がでてくる
 映像:「坡」を去る朱学平さん
 映像:太陽河
 テロップ:太陽河 2007年11月
 映像:太陽河の水辺に映る揺らめく太陽→遠景
 テロップ:朱学平さんは、瀕死の妹にこの河の水を汲んで飲ませた
 映像:牛と太陽河
 テロップ:月塘村と その農地と 入会地は太陽川の 北側の台地にある

■『海南島月塘村虐殺』新版(海南島近現代史研究会 2008年制作)■
 Ⅰ、月塘村  Ⅱ、証言  Ⅲ、「要求日本国政府賠償請願書」 Ⅳ、戦犯を「象徴」とする日本国で  Ⅴ、海南島における
 日本軍の住民虐殺  Ⅵ、月塘村追悼碑  Ⅶ、要求賠償  Ⅷ、掲碑儀式  Ⅸ、朱彩蓮さん
 
 構成・シナリオ:佐藤正人  編集:佐藤正人 小谷英治 金静美
 翻訳:林彩虹 佐藤正人 金静美  撮影:小谷英治 佐藤正人  ナレーション:崔文子
 協力:月塘村のみなさん 蔡徳佳 朱学基 朱振華

 『海南島月塘村虐殺』のシナリオ全文は、海南島近現代史研究会のウェブサイトに掲載してあります。
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海南民众们致于海南近现代史研究会的致信的

2024年02月18日 | 海南島近現代史研究会
■2024年2月17日に開催した海南島近現代史研究会第27回定例研究会への海南島からのメッセージ■

 邢越

  海南島近現代史研究会 各位同仁:
  海南島近現代史研究会将于2024年2月17日在大阪召开海南島近現代史研究会第27次定例研究会了,我在中国的海南岛,虽然不能亲临大阪参加大会,但是,我衷心祝愿本次大会顺利召开,并希望研究会在新的一年取得新的研究成果!



 林彩虹

  大家好,我是一位出生於1987年土生土長的海南本地人,名字叫林彩虹,相信大家可能也有所听闻过,我是在2006年一次乘坐公交车上偶然遇到佐藤先生的,當時我在車上聽到佐藤先生跟一位翻译蒙古人在說日語,当时我就很奇怪心里在想「怎么这种普通的公交车上会出现日本人」,因为好奇心原因所以鼓起勇气用日语问「你们是日本人吗?」,就这样的一句简单的问候让我认识了佐藤先生,然后我们在公交车上用简单的日语跟中文交流之后,当时佐藤先生跟我介绍了他海南的目的,给了我一些资料,还问我之后能不能有机会给他们当翻译,然后互相留了联系方式,虽然在这之前我有学过一年日语会说一点,但是说到当翻译我心里完全沒底,害怕自己不能勝任這份工作,但是很幸运佐藤先生会说一些中文,所以沟通交流起來就没太大阻碍。从那之后佐藤先生他们每次来海南做调查之前都会提前联系我告诉他们的行程,来海南之前佐藤先生都会做好行程表,令我极其佩服的是几位日本学者非常敬重历史,穿着朴素、省吃俭用、工作起来一丝不苟,接触过最多的是佐藤先生,刚开始觉得佐藤先生很严肃,但接触下来后觉得他很慈祥、和蔼可亲、平易近人、
  对待工作非常严肃认真、对我这个后辈也非常照顾,在我眼中他很像一位慈祥的老父亲。其次是金静美女士,性格非常开朗,偶尔喜欢开玩笑,同样对待工作也非常认真。还有小谷英治先生、齐藤日出治先生都非常和蔼可亲,他们对待历史的态度令我敬佩!
  每次他们到达海南先找好宾馆后,接下来我就陪同他们按照行程表去各个村庄,做实地调查、采访去过的村庄的各位幸存者,我們从幸存者們口中听闻到日军当年对他们所做的各种各样灭绝人性的暴行,簡直惨不忍睹,访问过很多村庄与许多的幸存者給予我极其印象深刻的是万宁月塘村「三·廿一」惨案中的幸存者朱学平先生的阐诉,还有月塘村的其他村民们,大家一听说有日本民间学者要过来调查当年日军侵略月塘村的事迹,大家都表示非常高兴,也非常热情积极配合,也许我跟他们都是同乡万宁人的缘故大家交流起来也特别的顺畅,大家毫无保留的对我阐述了当年的遭遇。我记得当时访问朱学平的时候,他的眼中带着泪花声音哽咽的对我诉说,他那时才12岁,当天清晨日军突然闯入他家,二话不说见人就杀,母亲、哥哥朱学温和朱学敬、姐姐朱彩和、2个姑姑、2个表弟,还有6岁妹妹朱彩莲都被杀害了,妹妹当时被日军刺伤肚子,肠子都流出来了但当时还没死,全家唯独他很幸运瘦小的身躯躲在柱子后面没被发现所以才逃过一劫,等到日军走了之后他赶紧跑出来确认家人们的情况,其他8位亲人已经全部被杀死,唯独6岁的妹妹朱彩莲还有一口气在,他就赶紧抱起满身是血的妹妹逃离现场,害怕日军再次来袭,当时的他即害怕日军的再次出现又担心妹妹的身体情况,一个12岁的孩子抱着满身是血垂死的妹妹跑去山坡上的灌木丛中隐藏起来,当时天还下着大雨,似乎老天都在为他们可怜的遭遇感到哭泣,当时的妹妹口中一直说口渴想喝水,朱学平就去旁边的太阳河打水给妹妹喝,但很不幸没多久妹妹也死了,他当时把妹妹的尸体埋在了附近的山坡上,9位親人在同一天慘遭日軍殺害,父亲也是在三年前的一天去东澳村买鱼的路上被日军开枪杀害死的,一夜之间全家都被日军杀害,房子也被日军烧毁了,就连亲人们的遗体也被大火给烧尽了,我当时看到朱学平边哭边对我说,希望日本政府能为他们当年所做的一切公开于世,对中国、还有千千万万的民众们公开道歉与赔偿,当时的我听到这些内心感到非常的震撼久久不能平复,觉得自己全身都被怒火点燃了,心情格外悲伤和沉重,既难过又气愤,即为他的遭遇感到可怜难过的同时又对日军的当年所犯下的罪行直到如今都没给大家一个交代而感到愤怒,对于我们80后的这一代人,距离战争的硝烟已经过去久远,我们对战争的了解少得可怜,以前,我对日本的了解就是日本人很坏,他们侵略中国,是不可饶恕的罪人 .而我也了解过日本民族本来也是一个善良的民族,但是由于这些统治者的误导,野心,使得中国遭遇了前所未有的劫难,而他们日本人民的生活也很苦,可见战争对于胜利或是失败的国家都是一种深深的无法磨灭的伤害,自己都不敢想象当时的他还有其他的千千万万的同胞们是怎么熬过来的,这种残酷的遭遇对于一个12岁的孩子来说得留下多大的伤痛与心理阴影!
  之前因为种种原因很多年都没能和佐藤先生们取得联系,直到去年的9月份通过一位海南老乡的帮助下才取得联系,我从佐藤先生口中听说朱学平先生在2011年已离开了人世,当时我一听到这个消息时为他感到惋惜,临死之前都没能等到日本政府的道歉,不知道他们死的瞑不瞑目,他们这些幸存者也渐渐的离开人世,在此我真的很希望日本政府能够尽快早点正视这段历史,面对事实,为当年所犯下的错误买单!除了朱学平還听说了其他幸存者们的惨遇,其中还有一位当时年仅10岁的朱进春,他家六口人也是在当天全部被日军杀害,他自己也被日本刺了8刀没死幸存了下来,还有的被日軍用刺刀刺穿腹部,腸子都流出來了的等等遭遇!访问完后海南近现代史研究会对月塘村的幸存者们的闡述过程作成DVD放映给大家看,海南近现代史研究会还给月塘村“三·廿一”惨案遇害的同胞们募捐筹款建立了一座纪念碑,名字是“三廿一惨案纪念碑”,纪念碑上刻着所有当天遇难者的名字,关于建立这座纪念碑的意义是想让所有人铭记、正视这段历史,让日本政府能够重新审视当年的所作所为,尊重历史,修正历史!
  听说日军当时在海南实行惨无人道的“三光”(烧光、杀光、抢光)政策,肆意杀戮无辜民众,制造一桩桩骇人听闻的惨案、血案。日军屠杀人的手段极端残忍,有活埋、斩首、抛撒、集体枪杀、放狗咬、钉四肢等多种手段。为了寻欢作乐竟然让村民们做(四脚牛)让他们骑、强征慰安妇,各种各样毫无人性的丑恶暴行让人无法原谅。
  虽然我是一位土生土长的海南本地人,在我的印象里有听长辈们说过以前日本侵略中国的手段与其经历,能夠逃过日军的魔掌活下來的就算是非常幸运了!自从我跟佐藤先生他們去各个地方做完实地调查,听完幸存者們的诉说后,心里久久无法平静!作为任何的一位正常人都不能容忍与原谅日軍當年的所做所为,极其恶劣、毫无人性!
  在此我希望今后世世代代的子孙们要以此谨记,勿忘历史、铭记历史!永远生活在一个没有战争、和平相处的美好世界里!



 梁昌寳

  尊敬的佐藤正人先生、以及其他的“”海南近现代史研究会”的主将们,你们辛苦了!
  你们这几十年以来,对二战期间外来侵略者在海南岛犯下的罪行的研究,可以用以下成语来形容:孜孜不倦、一丝不苟、认真负责、不远万里、不知疲倦、细致入微、真实可靠、不畏压力、几十年如一日、持之以恒、坚韧不拔永不言弃……。用多少词语赞美你们,都不为过。我作为海南人,深受感动!并从内心对你们表示感谢。之前没有人这样做过,不知有没有后来者。
  收集、走访、整理、研究、作成资料是花费时间、消耗精力的,你们不是海南人,也不是中国人,却为海南岛付出了那么多,消耗了你们的宝贵人生。海南人应该给你们颁发奖状。  
  祝愿你们都健康长寿,有精力继续研究。
非常感谢你们。
                        2024年2月15日



 陈北崗  中国海南省陵水县英州镇大坡村

  尊敬的佐藤正人先生和金静美女士:
  2023年11月22日,我们到日本歌山县海南市专门拜访了您二位,通过和您们面对面做了为时不长的交流,我们由衷地向您们二位表示敬佩和感激。因为您二位为了调查研究和记录第一手日军二战侵略中国海南省的罪行,不辞劳苦,自费来海南数十次,城市和村镇角角落落都留下了您们的足迹,造访了为数不多的战争亲历受害者(大多数已离世)和他们的遗属,留下了非常珍贵的史料和图片,我们很惭愧地说中国方面还没有任何政府部门和学者对此付出那么多的时间,经历和心血。
  当今的世界处于新的动荡时期,俄乌战争,巴以在加沙地区的战火,每天无辜平民百姓和军人失去了宝贵的生命,大家都希望世界安定,减少和免除战争。我们根据您们给我们的部分资料,在我们的纪念园筹划建立了二战日军侵略海南罪行展,来参观的民众络绎不绝,他们认为作为侵略国的有良知的日本国民,确有“知耻者近乎大勇”的正义感,两国国民都应该以史为鉴,教育当代的民众和下一代,正常维护两国人民的友谊,和平共处,发展日中邦交正常化。
  最后我们以一句:“山川异域,日月同天”结束我们的发言稿。
  目前我们正在联系和安排佐藤先生和金女士再一次访问海南,给海南陵水华中师范大学附属中学陵水分校师生做一次演讲,并由海南电视台对二位做一次专访。时间尚未确定,请二位静候我们的通知。如果这次贵近代史研究会会议有影像记录,请电邮我们一份不甚荣幸。

      四野解放海南研究会会长:黄星星 秘书长 陈北崗 
                              2024年2月16日
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海南島近現代史研究会 第27次研究会例会

2024年02月17日 | 海南島近現代史研究会
■海南島近現代史研究会 第27次研究会例会■
 19世紀中叶以来、日本在亚洲太平洋各地进行侵略戦争、不断把阿伊努莫西里(「北海道」)、奄美、琉球、台湾、萨哈林岛南半部、朝鮮、中国東北部・蒙古東南部、「南洋群島」、海南島等地占据为自己的領土。
 日本政府迄今仍隐瞒对这些国家的犯罪歴史,他们既不想为侵略犯罪行为进行謝罪道歉,也不想对当年的犯罪责任人进行惩罚,更不想为他们重大的犯罪行为去承担相应的賠償。
 2020年2月8日召开的海南島近現代史研究会第25次研究会例会的主題是「侵略戦争⇔抗日戦争、植民地支配⇔抗日反日闘争」,2022年8月21日召开的海南島近現代史研究会第14次総会・第26次研究会例会的主題是「民衆的歴史研究・歴史認識・事実的伝達」。
 2022年6月左右以来,因为新型冠状病毒肺炎的伝染急速扩大,所以计划于2022年8月21日召开的海南島近現代史研究会第14次総会・第26次研究会例会,不得已又再次延期至2023年2月。然而,进入2023年以后,由于新型冠状病毒肺炎的流行更加严重,所以计划于2月召开的第14次総会・第26次研究会例会又延期至8月。
 思考从2020年2月8日以来,历时3年半的巴勒斯坦、乌克兰……以及民衆的日常生活和斗争,于是把2023年8月26日召开的海南島近現代史研究会第14次総会・第26次研究会例会的主題,变更为「日本所侵略地域的民衆記憶、侵略国家民衆的主体変革」。
 2024年2月17日将召开第27次研究会例会。其主題与第14次総会・第26次研究会例会相同,即「日本所侵略地域的民衆記憶」。
 在海南島近現代史研究会迄今为止的研究集会上,还没有重复过相同的主題。
 但是,在犹太复国主义者国家(以色列)正在巴勒斯坦进行残酷的侵略犯罪的当下、考虑这个主題务必涉及且深究,所以,决定专心致志于这个相同的主題。

 时间:2024年2月17日 下午0時30分開場、下午1時10分開会
 地点:国労大阪会館 2階第1小会議室 大阪市北区錦町2  JR大阪環状線天満駅北口
 参加費・資料费:500日元(会員免费)

 主題:日本所侵略地域的民衆記憶、侵略国家民衆的主体変革
 ■主題報告  日本が侵略した地域の民衆の記憶、侵略国家の民衆の主体変革   佐藤正人
   日本国家在所侵略地域上的侵略犯罪的歴史务必周密地记录下来并传承下去。
  要保证歴史記述的正確性,要考虑侵略国家日本民衆的主体的思想形态。                                       
 ■主題報告  庶民的記憶和民衆史                      蒲豊彦
   世界上大多数都是普通人。但是,人们理解其生活和人生,乃至探寻其中真谛的努力是远远不足的。下面
  把中国史和三竃島史的研究作为題材,试探民衆史之課題。
 ■海南民众们致于海南近现代史研究会的致信的   邢越 林彩紅 梁昌寶 陳北崗
 ■討論  关于认识日本的国家犯罪的事実的民衆的方法
 ■关于海南島近現代史研究会第21次(查明紀州鉱山真相之会的第34次)的海南島「現地調査」

              海南島近現代史研究会  http://hainanshi.org/
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