三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

海南岛近现代史研究会第12次总会・第22次定期研究会

2018年07月24日 | 海南島近現代史研究会
■海南岛近现代史研究会第12次总会・第22次定期研究会
  查明纪州矿山真相研究会以调查石原产业在海南岛的企业犯罪为主要目的,于1998年6月在海南岛开始展开调查。海南岛近现代史研究会于2007年8月创立。
  至今为止,查明纪州矿山真相研究会共计32次前往海南岛调查,海南岛近现代史研究会前往海南岛调查的次数也达到了19次。在海南岛各地,听取日本的侵略犯罪,海南岛民众的抗日反日斗争的证言。与此同时,在韩国国内听取被强行带到海南岛的朝鲜人的证言,在日本国内寻找分析与海南岛侵略相关的历史资料,取得了与曾经入侵海南岛的日本人面谈。
  我们将国民国家日本对其他地域其他国家的侵略时代结束的民众运动基础变成确实可行。海南岛近现代史研究会的章程里,提到“本研究会具体综合地把握日本的侵略犯罪实况,查明其对海南岛的政治,经济,文化,社会结构造成的破坏,追究其历史责任”、“本研究会将查明海南岛的抗日反日斗争历史”。
  从1998年6月至今的20年里,我们向大家汇报海南岛近现代史研究会的轨迹和现状,希望和大家一起讨论今后如何更具体地展开活动。

     时间:2018年8月18日(星期六)13时00分~17时(12时30分开场)
     地点:国劳大阪会馆 1楼大厅 
             从JR天满站出口往右拐(樱之宫站方向)200米          
     参加费・资料费:500日元(会员免费)

主题:海南岛近现代史研究的轨迹,现状及未来
■主题报告  20年里,已做到的,未能达成的                     佐藤正人
■主题报告  从殖民地朝鲜强行带到海南岛的朝鲜人                金静美
■主题报告  在海南岛的地域上日本的国家犯罪和日本人的“战后”责任    齐藤日出治
■主题报告  讲述在海南岛的侵略事实                         竹本升
■报告 远东国际军事法庭的文件里记录的日本军在海南岛侵略犯罪 2    日置真理子

■讨论 研究海南岛近现代史的意义及今后的课题 
  国民国家日本在阿伊努摩西利,琉球的殖民化过程,在侵略台湾,朝鲜的过程中,不断增强军备,建设和强化经济基础构造。日本国家的政治,经济,社会,文化的侵略构造从19世纪后半期开始至今都没有改变。现在,日本政府在准备进行纪念“明治150年(2018年) ”的活动。
  我们希望讨论破坏日本之外其他地域其他国家的侵略构造的民众历史认识。

■报告  对“大阪国际和平中心”的展示恶改 法院上诉及“恢复会”的成立     竹本升
■关于2018年秋季海南岛近现代史研究会第20次海南岛“现地调查”

               海南岛近现代史研究会  http://www.hainanshi.org/
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海南島近現代史研究会第12回総会・第22回定例研究会

2018年07月23日 | 海南島近現代史研究会
 8月18日に、第12回総会・第22回定例研究会を開きます。
 主題は、「海南島近現代史研究の軌跡と現状、そして未来」です。
 みなさんの参加を待っています。
                        海南島近現代史研究会
                        http://www.hainanshi.org/

■海南島近現代史研究会第12回総会・第22回定例研究会

 紀州鉱山の真実を明らかにする会が、石原産業の海南島での企業犯罪調査を主目的として海南島を始めて訪ねたのは1998年6月でした。海南島近現代史研究会の創立は2007年8月でした。
 これまで、紀州鉱山の真実を明らかにする会は32回、海南島近現代史研究会は19回、海南島を訪ね、各地でおおくの人たちに、日本の侵略犯罪、海南島民衆の抗日反日闘争についての証言を聞かせてもらうとともに、韓国国内で海南島に連行された朝鮮人の証言を聞かせてもらい、日本国内で海南島侵略にかんする史資料を網羅的に探索し分析しつつ海南島に侵入した日本人に面会を求めてきました。
 わたしたちは、国民国家日本の他地域他国侵略の時代を終らせる民衆運動の基礎を確実なものにしようとしてきました。海南島近現代史研究会は会則で、「本会は、海南島における日本の侵略犯罪の実態を具体的・総合的に把握し、それが海南島の政治的・経済的・文化的・社会的な構造をどのように破壊したのかを究明し、その歴史的責任を追及します」、「本会は、海南島における抗日反日闘争の歴史を究明します」としています。
 1998年6月から20年間の、わたしたちの海南島近現代史研究の軌跡と現状を報告し、今後、さらに具体的になにをなすべきかについて、みなさんと話し合いたいと思います。

と き:2018年8月18日(土)13時00分~17時(開場12時30分)
ところ:国労大阪会館 1階ホール  
        JR天満駅改札口を出て右へ(桜ノ宮駅方向へ)200メートル
参加費・資料代:500円(会員は無料です)

主題:海南島近現代史研究の軌跡と現状、そして未来
■主題報告 20年間に、何ができたか、何ができなかったか            佐藤正人
■主題報告 植民地朝鮮から海南島に連行された朝鮮人             金靜美
■主題報告 海南島における日本の国家犯罪と日本人の「戦後」責任      斉藤日出治
■主題報告 海南島における侵略の事実を伝える                  竹本昇
■報告 極東国際軍事裁判文書に記録されている日本軍の海南島侵略犯罪 2  日置真理子

■討論 海南島近現代史研究の意味と今後の課題
 国民国家日本は、アイヌモシリ・琉球植民地化、台湾侵略、朝鮮侵略……の過程で、軍備を増強し、経済基礎構造を建設・強化してきました。日本国家の政治的・経済的・社会的・文化的侵略構造は、19世紀後半から現在まで変わっていません。いま日本政府は、「明治150年(2018年)」記念行事の準備をすすめています。日本の他地域他国侵略の構造を破壊する民衆の歴史認識について討論したいと思います。

■報告 ピースおおさか改悪リニューアル裁判上告と「取り戻す会」の発足    竹本昇
■2018年秋の海南島近現代史研究会の19回目の海南島「現地調査」について
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20年間、32回の海南島訪問の途上で

2018年02月04日 | 海南島近現代史研究会
■場・地域

■記憶、証言(声・ことば)→記録(文字・映像)
   日本の国家犯罪を総体として認識し伝達する方法。
   国民国家日本の海南島における侵略犯罪を総体として認識する方法。
   「現地調査」(侵略と植民地支配の事実究明、抗日反日闘争史探求の調査)。

   被害者・目撃者からの聞きとり(死者からは、聞きとりできない)。
       証言を聞く者のありかた。
   加害者からの聞きとり。犯罪の「記憶」。
       犯罪者の沈黙・証言(告白)拒否。沈黙のままの自然死。
       「現地調査」・必然的な偶然の出会い。
   聞きとって、どうするのか 。
       侵略犯罪の解明 → 責任追及(犯罪の責任・犯罪を隠しつづけてきた責任)→
      国家謝罪・国家賠償、責任者処罰(最悪の侵略犯罪者ヒロヒト)。
       アジア太平洋に侵入した日本企業の過去と現在の侵略犯罪解明・責任追及。
   ★「残されている時間は、限られている」と自覚してから10年以上が過ぎた。
       符介育敗(フ・カイヨパイ)さん(1923年?~2016年4月25日)
            昌江黎族自治県七叉鎮重合村(旧、楽東県重合)

■民衆の世界史(世界史規模の民衆史・民衆の画く世界史像)
   民衆の歴史認識
   歴史を偽造する者たちとのたたかい。権力者の歴史とのたたかい。
   侵略と開発、ポストコロニアリズムという虚偽。
   歴史を知ること。事実を知ること
   事実はひとつ。実証。ことば。文字。
   事実をどのように評価するか(歴史意識。歴史観。歴史思想)。記憶は「継承」できない。

   全世界的規模の反侵略民衆闘争の時代。
   諸地域・諸国家の近現代史は、世界近現代史に規定され、世界近現代史を規定してきた。
   歴史認識深化の過程は、絶えざる歴史意識変革の過程。
   侵略諸国家・諸民族の侵略の世界史は、被侵略諸国家・諸民族の抵抗の世界史。

■海南島近現代史・アジア近現代史・世界近現代史
 海南島近現代史のなかの世界近現代史  海南島近現代史⇔世界近現代史。
 1939年2月に、日本政府・日本軍が海南島侵略を開始する以前に、日本国民のほとんどが、他地域・他国侵略に反対する思想・感性・倫理を喪失していた。
 1939年~1945年~2018年
    2018年2月:1869年9月から148年5か月、1939年2月から79年。
    ※戦後?  日本国家の他地域他国侵略の時代は、終わっていない。
              侵略。戦争。占領。領土化。植民地化。併合。不等価交換。
    ※現在の侵略
       天皇制を前提とした「平和憲法」下の日本国家・日本軍の他地域・他国侵略。
       朝鮮戦争、ベトナム戦争、湾岸戦争、アフガニスタン戦争に実質参戦。
       1999年8月13日、侵略の旗「ヒノマル」を国旗に、天皇賛歌「キミガヨ」を国歌に。
           8月25日、他地域・他国軍事侵略のための「周辺事態法」を施行。
       2001年12月2日、日本海軍軍艦が、アラビア海で作戦行動中のアメリカ合州
           国軍艦に燃料を洋上補給。アフガニスタン侵略戦争・アフガニスタン民
           衆殺戮に直接荷担。このとき、アジア太平洋戦争後はじめて、日本正
           規軍が侵略戦争に参戦。
       2004年1月から日本政府は日本軍を、アメリカ合州国のイラク侵略戦争に参戦
           させた(2004年1月、日本軍サマワに侵入)。日本は、ファルージャ
           やバスラなどイラク各地でのアメリカ合州国軍の民衆虐殺に間接的に
           荷担。
       2011年11月から日本軍南スーダンに侵入(2015年12月から「第9次要員(基幹:
           第10師団)が侵入。2017年5月撤退開始)。
       2015年9月30日、戦争法(「平和安全法制整備法」+「国際平和支援法」)公布。
           「周辺事態法」を「重要影響事態法(重要影響事態に際して我が国の平
           和及び安全を確保するための措置に関する法律)」に改名・改悪
       2016年3月29日、戦争法施行。
       2017年7月11日、「共謀罪法(改正組織犯罪処罰法)」施行。

■アジア太平洋の民衆にとって、日本の侵略の時代は抗日反日闘争の時代
 その時代は、全世界的規模で、まだ、終わっていない

■個人史のなかの世界史・地域史のなかの世界史
    現在の、日常のなかの世界史。
    侵略の世界史⇔抵抗の世界史。

■日本ナショナリズムとの対決
    日本民衆(労働者、農民、会社員、漁民、商人、官吏、医者、看護婦、店員、
   教師、主婦……)は、なぜ天皇制を支持し、他地域他国侵略を実行したのか。して
   いるのか。
    なぜ、日本国民(「臣民」)は、他地域・他国侵略を悪だとする、あたりまえ
   の倫理を社会的に確立できなかったのか。
 ※他地域他国侵略をゆるさない日本民衆の歴史認識
   「イスラエル国」の歴史は、USA……日本国……の歴史。
 ※解放のインターナショナリズム ⇔ グローバリズム、ナショナリズム

■抗日反日闘争
   朝鮮の義兵戦争:1895~96年、1905~14年。
   台湾の抗日反日戦争(1895~  霧社烽起:1930年10月~12月  )。
   三・一運動。
   青山里戦闘;1920年10月。
   シベリアの抗日パルチザン。
   中国東北部の抗日パルチザン。
   中国の抗日戦争。
     百団大戦:1940年8月~12月。
     拉孟・騰越の戦い:1944年6月~9月。
   フクバラハップ(Hukbalahap。Hukbong Bayan Laban sa mga Hapon。抗日人民軍)。
   自由タイ運動( カブアンカン・セーリー・タイ):1941~1945年。
   ベトナム独立同盟会Việt Nam Ðộc Lập Ðồng Minh Hội(ベトミンViệt Minh):
       1941年5月19日結成。

■国民国家日本史。国民国家という暴力
   アイヌモシリ領土化。ウルマネシア領土化。「千島列島」植民地化、台湾植民地化。
  カラフト南部植民地化。朝鮮植民地化。「南洋」植民地化。中国東北部・モンゴル東南
  部植民地化。中国本土侵略。海南島植民地化。東南アジア・太平洋侵略。

■国民国家日本の成立。日本国民(「臣民」)の成立
   他地域他国侵略による国民国家形成
       国家主権、国民、領土・領域、貨幣、「国語」、神道・天皇制、日本国民
      (「臣民」)、戸籍(戸籍制度は徴兵制度の前提)、徴兵、軍隊・軍備、警
      察・監獄、日本史・日本文化〈教科書、……〉。
   日本国民(臣民)を形成する装置:博物館、学校、神社、象徴、勲章、ヒノマル、キ
      ミガヨ、国章、国花、国鳥。
   国民(臣民)統合。「民族」差別。人種差別。

   1889年2月11日:「大日本帝国憲法」発布(「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」、
     「日本臣民ハ法律ノ定ムル所ニ従ヒ兵役ノ義務ヲ有ス」)。
   1890年10月30日:「教育ニ関スル勅語」発布(「我カ臣民克ク忠ニ克ク孝ニ億兆心ヲ一
     ニシテ……常ニ国憲ヲ重ジ国法ニ遵ヒ一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壌無窮ノ
     皇運ヲ扶翼スヘシ」。
   1945年8月15日:「大東亜戦争終結ノ詔書」放送(「朕……茲ニ忠良ナル爾臣民ニ告ク」、
     「尚交戰ヲ繼續セムカ終ニ我カ民族ノ滅亡ヲ招來スルノミナラス延テ人類ノ文明
     ヲモ破却スヘシ」、「朕ハ茲ニ國體ヲ護持シ得テ忠良ナル爾臣民ノ赤誠ニ信倚シ常
     ニ爾臣民ト共ニ在リ」、「擧國一家子孫相傳ヘ確ク神州ノ不滅ヲ信シ……國體ノ精
     華ヲ發揚シ……」、「爾臣民其レ克ク朕カ意ヲ體セヨ」)。

■出会いと別れ
 周学勤さん(1936年~2014年) 「朝鮮村」(三亜市田独鎮荔枝溝郷南丁)
 朱学平さん(1933年~2011年) 万寧市万城鎮月塘村
 王鎮寧さん(1932年~2017年) 海口市永興鎮儒東村
 張応勇さん(1940年~2005年) 保亭黎族苗族自治県保城鎮
 林亜金さん(1926年~2013年) 保亭黎族苗族自治県南林郷什号村
 陳亜扁さん(1927年~2017年) 陵水黎族自治县本号敬老院宿舍
 呉育新さん(1933年~2014年) 海口市美兰区三江镇上雲村(旧、海口市咸来鎮上雲村)

 20年間に、歴史研究を職業としていないが、丹念に持続的に日本の侵略犯罪の歴史を追究し、自らが住んでいる地域の犠牲者の名を明らかにし、被害の実態を記録している人たちと出会い、おおくのことを学ばせてもらってきた。
 万寧市月塘村で、澄邁県沙土(聖眼村、欽帝村、福留村……)で、瓊海市長仙聯村で、文昌市秀田村で、文昌市昌文村で、文昌市白石嶺村で、文昌市排田村で、文昌市石馬村で、文昌市林林村で、文昌市昌美村で、瓊海市北岸村で、定安県大河村で、陵水黎族自治県后石村で、陵水黎族自治県九尾村で、東方市八所村で、東方市旦場村で、東方市新街村で…………。

■「木本隧道」の道
 三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・裵相度)の追悼碑を建立する会(1989年6月創立)。
 紀州鉱山の真実を明らかにする会(1997年2月創立)。
 海南島近現代史研究会(2007年8月創立)。

 木本トンネル → 紀州鉱山の坑道 → 海南島の日本軍用洞窟 → 太平洋の島々の日本軍用洞窟 →  硫黄島の数百本のべ18キロの地下坑道(「横穴陣地」)を朝鮮人も掘らされた。

 1998年6月 紀州鉱山の真実を明らかにする会、はじめて海南島「現地調査」。
 2007年8月 海南島近現代史研究会創立。
     9月~11月 最初の「現地調査」(紀州鉱山の真実を明らかにする会としては14回目)。
 2017年12月 紀州鉱山の真実を明らかにする会としては32回目、海南島近現代史研究会としては19回目の「現地調査」。

 20年間、海南島のおおくの村や都市を訪ね、日本政府・日本軍・日本企業がおこなった侵略犯罪の犠牲者、遺族、目撃者から証言を聞かせてもらうとともに、侵略犯罪の現場を「調査」。同時に、海南島民衆の抗日反日闘争の歴史をたどってきた。

                                         佐藤正人
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日本政府に2015年12月28日の「日韓合意」の撤回を求める

2018年02月03日 | 海南島近現代史研究会
 今日(2018年2月3日)、海南島近現代史研究会は、21回目の定例研究会を開きました。主題は、「日本の侵略犯罪・アジア太平洋民衆の抗日反日闘争」でした(このブログの2018年1月8日の「海南島近現代史研究会第21回定例研究会」と1月17日の「海南岛近现代史研究会第21次定期研究会」をみてください)。
 主題報告のあと、集会参加者全員が、「国民国家の侵略犯罪と抗日反日闘争」について討論し、その中で、「2015年12月28日の「日韓合意」」についても議論を深め、「日本政府に2015年12月28日の「日韓合意」の撤回を求める」という声明を発表することを決定しました。
 以下は、その全文です。


■日本政府に2015年12月28日の「日韓合意」の撤回を求める■ 
 2015年12月28日に、日本の岸田文雄外務大臣と韓国の尹炳世外交部長官が会談し、「日韓間の慰安婦問題」・「韓日間の日本軍慰安婦被害者問題」について合意し、その合意内容を共同記者会見で発表し、公式文書を交わすことなく、「日韓合意」がなされた。
 この「12・28日韓合意」は、条約ではなく、署名のある文書でもない。日本国と韓国間で公式文書は交わされていない。
 この記者会見で、日本外務大臣は、
    「今回の発表により、この問題が最終的かつ不可逆的に解決されることを確認する」
と述べ、韓国外交部長官は、
    「今回の発表により、日本政府と共に、この問題が最終的かつ不可逆的に解決される
    ことを確認する」
と述べている。
 しかし、日本国家の侵略犯罪にかかわる「問題」が「最終的かつ不可逆的に解決される」などということは、ありえないことであり、「不可逆的」というコトバの意味も曖昧である。
  「この問題が最終的かつ不可逆的に解決されることを確認する」という「確認」を含む「日韓合意」は、日本国家の国家犯罪をコトバで消し去ろうとする悪質な日本の外務大臣と韓国の外交部長官の無署名の「政治的合意」である。
 このような「合意」は、かつて国家間の「約束」として成立したことはなかった。
 日本のマスメディアは、「日韓合意」がそもそも国家間のとりきめとして成り立たないものであることを、過去・現在の諸国家間のとりきめを分析して報道すべきであった。
 日本の首相は「合意は国と国との約束で、これを守ることは国際的かつ普遍的な原則だ。韓国側が一方的にさらなる措置を求めることは、全く受け入れることはできない」といい、日本のマスメディアは異口同音に同様のことを述べている。
 しかし、条約ではなく、署名もない外務大臣と外交部長官の「口約束」は、その約束が社会正義に反するものであるならば、ただちに解消するのは当然のことである。
 2017年5月12日に、国連の人権条約に基づく国際人権条約機関である拷問禁止委員会は、「日韓合意」の再検討を勧告する報告書をだしている。

■「日韓合意」で述べられている「この問題」の歴史性
 「この問題」は、国民国家日本の他地域他国侵略の全歴史にかかわる問題である。
 いまは亡き林亜金さんら八人の被害者を原告とする海南島戦時性暴力被害裁判は敗訴したが、事実にかんして被告の日本国はまったく反証できず、日本の裁判所は事実を認定した。
 「日韓合意」では、事実認定も明確におこなわれていない。
 国民国家日本の侵略犯罪にかかわる諸問題(「慰安婦問題」、「強制連行問題」、「住民虐殺問題」、「資源略奪問題」、「土地略奪問題」……)が、「最終的かつ不可逆的に解決されること」は、ありえないことである。
 「この問題」は、根本的には国家間の問題ではなく社会正義の問題であり、とくに歴史的責任を有する国家とその国民はナショナリズムを克服することが問われている問題である。

■「日韓合意」の問題点
(1)基本問題:事実認定とそれに基づく国家謝罪・国家賠償。
   日本政府は、「従軍慰安婦」(日本軍隊性奴隷)についての歴史事実を十分に正確に認
  識しようとしておらず、関係資料を積極的に探索公開しようとしておらず、逆に歴史事実を
  否定し隠蔽しつづけてきた。「日韓合意」においても日本政府のこの非倫理的な姿勢は変
  わっていない。客観的かつ詳細な事実認定、それに基づく真の謝罪、賠償なしには、問題
  は解決されない。
   日本政府は、事実を認定し、「日韓合意」を無効とし、公式に真の謝罪を行い、法的賠償
  を実行し、歴史事実を正確に伝達する教育を進めなければならない。
(2)個別問題:
1、「この問題が最終的かつ不可逆的に解決されることを確認する」という「確認」。
  この「確認」に、「日韓合意」の非人道性が鮮明に示されている。
  被害者が容認しない「解決」は、解決ではない。
2、10億円。
   「12・28日韓合意」時に日本外務大臣は、
      「日本政府の予算により、全ての元慰安婦の方々の心の傷を癒やす措置を講じる。
      具体的には、韓国政府が、元慰安婦の方々の支援を目的とした財団を設立し、これ
      に日本政府の予算で資金を一括で拠出し、日韓両政府が協力し、全ての元慰安婦
      の方々の名誉と尊厳の回復、心の傷の癒やしのための事業を行うこととする」
   という文章を朗読した。その後、日本政府がそのために支払ったのは、日本円で10億円で
   あった。
    わずか10億円の現金で、日本政府は「全ての元慰安婦の方々の名誉と尊厳の回復、
   心の傷の癒やし」をしようとしたのである。真摯で心の籠った謝罪もなく、事実をまともに
   認識しようとせず、事実を示す文書を開示することもないまま、日本政府は被害者の「名
   誉と尊厳」が回復されることにしていた。
3、非公開。
  韓国の政府機関、日韓日本軍慰安婦被害者問題合意検討Task Force(TF、特殊任務班)が2017年12月27日に公表した「日韓日本軍慰安婦被害者問題合意(2015.12.28.)検討結果報告書」によれば、2015年12月28日の「日韓合意」時に非公開とされた部分は、次の通りである。
    日本側は、「今回の発表により、慰安婦問題は、最終的及び不可逆的に解決されるもの
   であるから、挺対協等各種団体等が不満を表明する場合にも、韓国政府としては、これに
   同調せず説得してくれることを望む。駐韓日本大使館前の少女像をどのように移転するの
   か、具体的な韓国政府の計画を問いたい」と言及した。
    これに対し、韓国側は、「韓国政府は、日本政府が表明した措置の着実な実施がなされ
   たということを前提として、今回の発表を通じて、日本軍慰安婦被害者問題は、最終的及
   び不可逆的に解決されるものであることを確認し、関連団体等の異見表明のある場合、韓
   国政府としては、説得のため努める。韓国政府は、日本政府が駐韓日本大使館前の少女
   像に対し、公館の安寧・威厳の維持という観点から憂慮している点を認知し、韓国政府と
   しても、可能な対応方向に関して関連団体との協議等を通じ適切に解決されるよう努める」
   とした。

 わたしたちは、このような無恥の要望と問いを非公開で提出しつつ「この問題が最終的かつ不可逆的に解決されることを確認する」とした日本政府を弾劾する。
 非公開文書に、日本政府は、「挺対協等各種団体等が不満を表明する場合にも、韓国政府としては、これに同調せず説得してくれることを望む」と明記している。これは、「日韓合意」を「挺対協等各種団体等」が承認しないことを日本政府が認識していたことを示している。

■日本政府と日本のマスメディアに対して
 「日本の侵略犯罪・アジア太平洋民衆の抗日反日闘争」を主題とする海南島近現代史研究会第21回定例研究会の参加者全員は、「日韓合意」を根本的に批判し、否定する。
 日本に住むおおくの民衆とともに、わたしたちは、「日韓合意」についての日本政府や日本のマスメディアの非歴史的・非人道的な主張を承認しない。
 わたしたちは、日本政府に「日韓合意」の撤回と公式謝罪を求めるとともに、日本のマスメディアに対し、国民国家日本の他地域他国侵略犯罪にかかわる歴史事実を事実に基づいて徹底的に詳細に解明し、事実と真実を報道することを求める。

■国民国家日本の他地域他国侵略責任
 国民国家日本は、アイヌモシリ植民地化、琉球王国植民地化、台湾侵略、朝鮮侵略の過程で、軍備を増強し、経済基礎構造を建設・強化していった。
 日本の国家権力者は、「軍人勅諭」や「教育勅語」などを使って侵略犯罪を実行する「臣民」を形成していった。日本は、他地域・他国侵略の過程で、「富国強兵」、「殖産興業」を実現していった。
 国民国家日本は、形成期から現在にいたるまで侵略国家であり続けている。日本国家の政治的・経済的・社会的・文化的侵略構造は、19世紀後半から現在まで変わっていない。
 いま日本政府は、国民国家日本の他地域他国侵略責任をとろうとすることなく、「明治の精神に学び、日本の強みを再認識する」などと称して「明治150年(2018年)」記念行事の準備をすすめている。
 2015年12月28日の「日韓合意」で日本政府がおこなおうとしたことは、国民国家日本の侵略犯罪の隠蔽であった。
 「日韓合意」問題は、国家間の外交問題ではなく、日本の国家犯罪と人道にかかわるインターナショナルな問題である。

     2018年2月3日

        「日本の侵略犯罪・アジア太平洋民衆の抗日反日闘争」を主題とする海南島
        近現代史研究会第21回定例研究会参加者一同
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20年間(1998年~2017年)、32回の海南島訪問 13

2018年02月01日 | 海南島近現代史研究会
 澄邁県橋頭鎮沙土〈聖眼村、文旭村、昌表村、美梅村、那南村、昌堂村、北山村、福留村、欽帝村、上帝村、文旭村、小美良村、木春村、扶里村)の聖眼村の入り口に、高さ12メートルほどの「史証碑」と刻まれた大きな碑が建てられています。これは、橋頭鎮人民政府が、2005年8月15日に建てたもので、その碑文の全文は、つぎのとおりです。
  槍声遠去笑声欣、時尚新潮世尚仁。
  血鋳沙土千古恨、碑留史証告来人。
  一九四一年夏、国軍臨高県遊撃大隊長黄坤新率部、于沙土海域截取了日僞軍西路総指揮林桂深営運的貨船、並殺死押運人林桂深之仔林明成。林便誣沙土人民所為、逐勾結日軍。同年閏六月十二日払暁時分、日軍二百多人、従那大、新盈、包岸等地分乗十部汽車、長駆真入沙土峒、旋即包囲了昌堂、美梅、那南、北山、昌表、上帝、聖眼、文旭、福留、欽帝等村庄。以検査「良民証」為名、強聚群衆、行槍射、刀砍、剣戮、奸殺、生埋之凶。僅両個時辰、就殺了男女老幼一千一百一十九人。后又両次来犯、再殺無辜両二百余人、焼毀民房五十八間、漁船一百多条、掠搶耕牛六百多頭。這就是瓊島史上惨絶人寰的「沙土惨案」。如此的腥風血雨、鉄証着侵瓊日寇的罪悪、銘刻着沙土人民的冤怨。特立此碑、永志不忘。

                       橋頭鎮人民政府   公元二〇〇五年八月一五日

 ここには、“1941年閏6月12日(普通暦8月4日)未明に、200人あまりの日本兵が沙土峒に侵入し、昌堂、美梅、那南、北山、昌表、上帝、聖眼、文旭、福留、欽帝等の村で、わずか2時間に、男女老幼1119人を殺し、その後さらに2回侵入してきて200人あまりを殺した”と書かれています。しかし、犠牲者の名は記されていません。

 わたしたちが、沙土をはじめて訪ねたのは、2008年10月12日でした。この日、聖眼村で「幸存者」の温国興さん(81歳)、温国照さん(78歳)、温国武さん(82歳)に話しを聞かせてもらいました。別れ際に、温国興さんは、これから聖眼村だけでも、犠牲者全員の名を書きとめていきたい、と話しました。
 その後、わたしたちは、これまでに20回近く沙土を訪ねました。

 2011年3日と6日に、わたしたちは1年8か月ぶりに沙土に行きました。そのとき、はじめて欽帝村を訪ね、日本兵に機関銃で射殺される寸前に逃げて生き残ることができた王世杰さんと王徳林さんに話を聞かせてもらうことができました。
 王世杰さん(1932年生)は、つぎのように話しました。
   “日本兵が来たとき村人は出迎えてあいさつをした。はじめ日本兵は子どもたちには優し
   くした。逃げた村人は少なかった。村に来た日本兵は50人ほどだったと思うが、はっきり
   はわからない。暑い日の昼間だった。この村に住んでいたのは130人ほどだった。そのう
   ち、76人が殺された。わたしの家族は、あのとき、みんな家にいた。
    日本兵は、子どもや年寄り以外の村人を集め、3人をどこかに連れて行き、戻ってはま
   た3人を連れていった。
    そのようにして、日本兵は3人ずつ村人を殺していった。そうしないと、村人が抵抗する
   と考えたのだろう。
    音がする銃ではなく、銃剣で刺し殺した。刺されても生き残った人もいた。逃げた人も
   いた。
    わたしの父(王元興)は30歳あまりで、母(呉氏。橋頭の人)は30歳になっていなかった。
   父と母も連れていかれて殺された。母は妊娠していた。
    わたしと7歳の妹(王不昌)と5歳の妹(王不恒)の3人は、村はずれの祠堂の前の小さな
   広場に連れていかれた。村の子どもや年寄りは、みんな、そこに集められた。
    年寄りが前列に並ばされ、後ろに子どもたちが二列に並ばされた。
    祠堂の横の大きな樹のそばの地面に機関銃が据えられ、そのそばに小銃を持った日本
   兵が立った。
    機関銃の後ろに腹ばいになった日本兵が発射し、前列の年寄りたちが撃たれて殺され
   た。二列目の人たちが撃たれはじめたとき、機関銃の弾丸がなくなった。
    日本兵が弾丸をこめているすきに、わたしはみんなに逃げようと声をかけて、逃げた。
    6、7人が逃げた。逃げた1人が頭を撃たれて何日かたってから死んだが、あとは助かっ
   た。小道を走りぬけて竹やぶの奥を通って田んぼの水草の陰に隠れた。ヒルに血を吸わ
   れたが、じっとしていた。
    日本兵は、狭い竹やぶの間を通りぬけることができなかった。
    妹二人も逃げて助かった。しかし、上の妹は、次の年に海でおぼれて死んだ。
    日本兵がいなくなってから、父と母を捜した。遺体を見つけた。わたしは子どもだったの
   で、生き残った村の人たちが埋葬してくれた。
    父も母も殺されたので、食べていくことができなかった。海岸沿いに歩いて臨高まで行っ
   て、物乞いしながら生きた。4年くらいたってから村に戻った。
    殺された76人の名前は、記録されていない。これからわたしがひとりずつ確かめて記録
   する”。

 3月6日朝10時過ぎから1時間ほど王世杰さんに話を聞かせてもらったあと、王世杰さんが機関銃を向けられた現場に案内してもらいました。
 そこは、村の中心から200メートルほど離れた祠堂の前でした。石造の祠堂とその周りの囲いの石の壁は、ほぼ当時のままだとのことでした。この日はちょうど村の土神の祭日で、供え物が置かれ、ろうそくの火がともされていました。王世杰さんから当時のことを話してもらっているとき、爆竹が鳴らされました。
 そのとき、とつぜん、王徳林さんが来て、当時日本兵が機関銃を置いたあたりに走って行き、日本兵がどのように年寄りや子どもたちを殺そうとしていたかを、身体で示してくれました。
 王徳林さんは、つぎのように話しました。
   “ここに、日本兵は、年寄りと女の人と子どもを三列に並ばせた。前列は年寄り、二列目
   は女の人、三列目は子ども。
    日本兵は腹ばいになって機関銃を撃った。そのそばで小銃を持った日本兵が立って撃
   った。撃たれた後も生きていた年寄りを銃剣で刺して殺した。
    わたしは、王世杰たちといっしょに逃げた。妹も逃げたが、小銃で撃たれて殺されてしま
   った。
    竹やぶの間に隠れた。しばらくたってから、イ、ウオ、サン、シと言いながら、日本兵は
   去って行った。午後三時ころだったと思う。
    まもなく、遠くの村のほうから銃の音が聞こえた。
    日本兵がいなくなってから、家族をさがした。
    父(王世桐)の遺体を見つけた。背中から撃たれて殺されていた。祖父(王元享)は父か
   ら20メートルほど離れたところで殺されていた。母(王氏)の遺体はそこからすこし離れた
   ところにあった。
    わたしの家では、祖父、父、母、妹2人、伯父(父の兄)、伯父の妻、叔父(父の弟)2人、
   ぜんぶで9人が殺された。
    その後も、日本兵はなんども村に来た。井戸端で洗濯している女性を強姦してから殺した
   こともあった。その井戸はいまも残っている。
    両親が殺されてから、生きていくのに苦労した。牛の糞を拾って乾かして売ったりして暮
   らした”。 

 王徳林さんは、祖父と両親が殺されたところに連れていってくれました。
 村はずれの小道をたどって樹木がまばらに生えているところにきて、王徳林さんは、立ち止まり、“ここだ”、と言いました。そして、祖父が倒れていた地点、母の遺体を見つけた地点を示しました。そのあたりには、10人ほどの人が倒れており、銃で撃たれて殺された人も、銃剣で刺されて殺された人もいたといいます。
 その近くに石でつくられた家がありました。その家は、当時もあったとのことでした。石組みのしっかりした家で、人は住んでいませんでした。その家の前から、虐殺現場が見えました。
 そのあと、王徳林さんたちが、逃げて隠れた地点に案内してもらいました。
 祠堂の前の道を右にそれ、大きな樹が何本も茂っている樹林の間をぬけたところに細い竹が密集している竹林があり、数百メートルかなたに海(沙土湾)が見えました。王徳林さんたちは、その竹林の奥に隠れたといいます。当時は、いまより竹林の地面が低く、水があふれていたそうです。
 王徳林さんと別れて村に入っていくと、日本兵が機関銃で村人を殺害した現場から近いところにある自宅のそばの豚小屋の前で、王徳信さん(1954年生)が、
   “兄が日本兵に腹を切られ、まもなく死んだ、腹から腸が流れ出していたと、父から聞い
   た。父は銃剣で3回刺されたが生き残った。母はそのとき村にいなかったので助かった。
    姉は日本兵に強姦されて殺された”、
と話しました。

 10回目に沙土を訪ねた2013年11月2日に、温国興さんは、沙土で虐殺された人たちの名簿を見せてくれました。5年前から他の村人にも呼びかけてつくったものだとのことでした。
 それは、聖眼村、文旭村、昌表村、美梅村、那南村の犠牲者の名、性別、年齢を記したものでした(昌表村の名簿には、日本兵が村人を殺害した方法が個別に記録されていました)。
 そこに記されている聖眼村の犠牲者は温光清さん(男、54歳)、光清婢さん(女、50歳)、温那厚さん(男、10歳)、温那芝さん(男、8歳)、温那番さん(男、6歳)、温光成さん(男、48歳)、光城婢さん(女、46歳)ら197人、文旭村の犠牲者は温明道さん(男、61歳)、明道婢さん(女、58歳)、温家徳さん(男、8歳)、温家樟さん(男、8歳)、温太朗さん(男、52歳)、温太財さん(男、51歳)、温家成さん(男、21歳)さんら20人、昌表村の犠牲者は符顕明さん(男、30歳。銃剣殺)、符文瑞さん(男、10歳。銃剣殺)、符文苑さん(男、8歳。銃剣殺)、符亜昌(女、20歳。銃殺)符亜昌さんの二男(5歳。銃殺)、符亜昌さんの三男(3歳、銃殺)、符亜帝さん(女、18歳)、謝道成さん(20歳。刀殺)ら35人、美梅村の犠牲者は李華開さん(男、38歳)、李発國さん(男、18歳)、李華順さん(男、32歳)、李錦輝さん(男、30歳)、李華英さん(男、21歳)、林詩婢さん(女、20歳)ら43人、那南村の犠牲者は李太道さん(男、74歳)、太山婢さん(女、42歳)、李華美さん(男、18歳)、李華独さん(男、2歳)、李四姫さん(女、8歳)、符大烈さん(男、42歳)符明善さん(男、14歳)ら32人でした。
                                   佐藤正人
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20年間(1998年~2017年)、32回の海南島訪問 12

2018年01月31日 | 海南島近現代史研究会
 日本のマスメディアが、国民国家日本の歴史的国家犯罪を問うことなく、朝鮮民主主義人民共和国への日本人強制連行にかんして連日膨大な情報を流しているさなかの2002年10月、わたしたちは海南島に行き、8日に、はじめて文昌県重光鎮昌文村を訪ねました。
 海南省政協文史資料委員会編『鉄蹄下的腥風血雨――日軍侵瓊暴行実録』上(1995年8月)に収録されている李昌炳・林日明口述「誘騙焼殺 四村遭毀――日軍在重興郷白石嶺暴行親歴記」と李重発口述「“百人墓”前憶往事――日軍焼殺昌文村実述」に、つぎのような内容の記述があります。
   “1941年4月12日(農暦3月16日)夕刻、20戸あまり100人足らずの文昌市重興鎮(旧、文昌
   県重興郷)排田村に、日本軍部隊が来た。日本軍は、村はずれの尖嶺園に村人を集め、
   暗くなってから焼き殺した。逃げようとした人は射殺された。子どもをふくむ88人が殺さ
   れた。
    翌4月13日(農暦3月17日)、日本軍は、隣りの白石嶺村に侵入し、村人40人を殺した。
    その翌日4月14日(農暦3月18日)、朝日がのぼってまもなく、軍用車にのって40人ほど
   の日本兵が、白石嶺村の隣りの昌文村を包囲した。日本兵は、村人を銃でおどして「祠堂」
   におしこめ、まわりを焚き木で囲み、積んできた石油をまいて、火をつけた。このとき、
   人口130人あまりの村の107人が殺された。病気で寝ていた老人や赤ん坊までが焼き殺さ
   れた。
    さらにこの日、日本軍は、昌文村の隣りの賜第村で村人16人を殺した。
    隣り合った4つの村で、3日の間に、日本軍は241人を殺した。
    その20日ほど前、村の近くの軍用道路で、日本軍の車両が攻撃されて、日本兵が死ん
   でいた”。

 昌文村に着いてすぐに、「“百人墓”前憶往事――日軍焼殺昌文村実述」を口述した李重発さん(1936年生)に、村の入り口の樹齢120年以上の大きな榕樹の下で、話を聞かせてもらうことができました。
 李重発さんは、日本軍が村を襲ってきたとき、日本兵の姿をみるとすぐに逃げて助かったが、病気で寝ていた老人や赤ん坊までが焼き殺された祠堂の跡に近づくのがいまでもつらい、と話しました。
 1941年4月12日から14日までの間に、昌文村、排田村、白石嶺村、賜第村の4村を襲撃し、おおくの村人を殺戮したのは、日本海軍佐世保第8特別陸戦隊に所属する部隊でした。
 昌文村の祠堂の横の坂道を登ったところに犠牲者の墓地があり、墓碑が建てられていました。日本軍がいなくなってから、生き残った村人が遺骨を拾って、ここに埋めたといいます。
 墓碑の大きさは、横1メートル、縦2メートルほどで、南南西を向いていました。正面の上部に横書きで「血海深仇 没世難忘」、真ん中に「惨遭日寇殺戮難胞之佳城」、左に「公元一九九八歳次戊寅年四月十九日重修」、裏面には、上部に「殺戮難胞名字列下」と書かれ、その下に犠牲者の名が5段に刻まれていました。戸主と思われる名前があって、その下に、戸主との関係がわかるように名前が刻まれていました。1段目に21人、2段目には20人、3段目には20人、4段目には24人、5段目には20人の名が刻まれていました(ドキュメンタリー『日本が占領した海南島で 60年前は昨日のこと』<紀州鉱山の真実を明らかにする会企画・制作、2004年7月〉の最終部に、この碑が映し出されています)。

 日本軍は、昌文村を襲う前日(農歴3月17日)、隣の白石嶺村を襲い、村人40人を殺しました。わたしたちは、昌文村で李重発さんに話を聞かせてもらったあと、白石嶺村を訪ね、祖父母を殺された林さんに案内されて虐殺現場に行きました。
 白石嶺村の犠牲者の墓地には堂が建てられていました。墓の前には、1957年5月20日に追悼碑が建てられていました。

 2003年3月25日に、わたしたちは、昌文村と白石嶺村を再訪し、排田村をはじめて訪問しました。
 排田村の自宅で、李昌光さん(1937年生)は、
   “日本兵が襲ってくる前、村の近くで日本兵が3人殺された。日本軍が来たとき、父と母と
   わたしは逃げることができたが、9歳と6歳の兄は殺されてしまった。日本兵は子どもも殺
   した”
と話しました。話を聞かせていただいたあと、李昌光さんに虐殺現場につれていってもらいました。村の中心部から細い坂道を30分あまり歩いたところがその場でした。虐殺の22年後の1963年農歴3月16日に追悼碑が建てられていました。
 碑の中央に「顕祖 孝妣 八十八位之坟」、向かってその右に「惨遭日寇焚烙難民」、左に「血海深仇永世不忘」と刻まれていました。
 碑の裏面上部に「倭乱遇難枯骨之墓」、右に「公元一九四一年三月十六日殉難」、左に「公元一九六三年三月十六日」、中央に、犠牲者88人の名がすべて刻まれていました。碑の高さは約1メートル、幅約45センチ、厚さ約7センチで、南西を向いていました。

 2014年11月3日にわたしたちは、はじめて、重兴镇賜第村を訪問しました。賜第村に着いたのは、朝9時半でした。
 村の入り口に住む李佩瓊さん(1938年生)は、つぎのように話しました。
   “日本兵がきたとき、母は、わたしと兄と姉の3人を連れて山に逃げた。父は南洋に働きに
   行っていた。
    子どものときだったが、家が焼かれて人が殺されたのを覚えている。人数は、後から聞
   いた。
    日本軍は、村人40人くらいを3か所の家に閉じ込めて焼き殺した。ほかの人は逃げた。
    日本軍がいなくなって、村に戻ってきた。兄の文楊は7歳上で、2~3年前に亡くなった。姉
   の美霞は2歳上だ。
    逃げたのは遠くの山。近くだとあぶない。捕まって殺される。母は夜、山から下りて、田や
   畑から食べるものを持ってきた。ナベとか食器とかは持って逃げた”。

 そのあと、賜第村の隣の昌文村と排田村を久しぶりに訪ねました。
 昌文村に着いたのは10時半でした。11年ぶりに会う李重発さんはお元気でした(はじめて会ったのは2002年10月、2度目に会ったのは2003年3月でした)。
 自宅で李重発さんは、つぎのように話しました。
   “1941年3月18日(普通歴4月14日)に日本軍が村にきた。日本人は残酷だ。生まれたばか
   りの赤ん坊も刺し殺した。
    日本軍は祠堂に村人たちを集めた。人数が多かったので、日本軍が見ていないとき、母
   が妹を抱いて逃げた。
    妹は生まれて40日。わたしもいっしょに逃げた。108人が3月18日に殺された。当時の村
   の人口はわからないが、生き残ったのは20人くらいだった。いくつかの家では、家族全員
   が殺された。
    わたしの家族は、6人が祠堂で殺された。父(李運杞)。上の妹(李愛琴)。父の兄の妻、
   ふたり。いとこの兄の妻、ふたり。
    山に逃げていたので、祠堂で焼き殺された父や妹の遺体を見ていない。
    いとこの弟が日本兵に捕まって連れていかれたが、後ろの方を歩いているとき、その日
   本兵は、ほかの兵士が見ていないとき、分かれ道で逃がしてくれた。その日本兵は台湾人
   だったかもしれない。
    日本兵は、歩けなくて寝ている年寄りにガソリンをかけて焼き殺した。名前は、李運浩。
    あの年は豊作だった。夜、みんな山から下りてきて、収穫した。逃げていた期間はわか
   らない。田植えをしなくても、2、3か月たったらまた生えてきて助かった。山に隠れてい
   たことも親戚のところに身を寄せたこともあった。ときどき、移動した。親戚のところに
   は、こっそりと、短い期間だけ。見つかると殺される。 
    日本軍は何回もこの村に来た。大虐殺のとき山に逃げた村人に、日本軍は何回も“安全
   です。山から下りてきてください”と言ってきた。さいしょは恐くて下りなかったが、何
   回も言ってくるので、少しずつ村に戻った。山から下りてきたあと、良民証をもらった。
   それからしばらくして、日本は降参した。
    妹は子どもがいない夫婦に育ててもらった。その養父が日本軍に殺されたので、また妹
   を引き取った。2年間くらい育ててもらった。
    骨を集めて埋めたのは1946年になってからだ。犬などが遺体を食べて、骨が祠堂のなか
   や付近に散らばっていた。集めて一か所に埋めた。
    3月18日には、毎年村で祭祀をおこなう。
    日本軍が降参した次の年に追悼碑を建てた。
    碑は小さかった。遺族が金を出して作った。村人がみんなで殺された人の名を調べ、殺
   された村人すべての名を刻んだ碑を作った。
    その碑が壊れたので、一族10人あまりを殺された陳という人が費用をぜんぶ出して、あ
   たらしく作り直した。
    20年以上前のことだ。壊れた碑はどうしたか知らない。
    陳はマレーシアの華僑だった。陳の息子は、シンガポールに住んでいる。
    さいしょの碑は、李姓が上段だったが、新しく作ったのは、陳という人が費用を全部出し
   たので、陳姓が上段になった。村には李姓が多いので、文句をいう人もいたが、作ったもの
   はしかたない。場所は同じだ。
    あの日に生き残った人で、いまもの元気なのは、李文尧、李昌滋、李文忠とわたしの4人
   だ。李昌滋と李文忠は海口に住んでいる。
    この村は、南北にわかれていて、わたしは北で、ほかの3人は南の村の人だ”。

 李重発さんは、ノートに、1941年3月に日本軍に殺害された村人の人数を記録していました。そこには、
    16日、排田村、88人
    17日、白石村、40人
    18日、昌文村、108人
    21日、賜第村、20人
と記されていました。
                                         佐藤正人
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20年間(1998年~2017年)、32回の海南島訪問 11

2018年01月30日 | 海南島近現代史研究会
 2003年春、「大量破壊兵器がある」という虚偽を口実にしてUSA軍・英軍を主力とする侵略軍が大量の破壊兵器を使ってイラクに侵入し、日本軍がその侵略軍の補給を担当しであらたな戦争犯罪を実行し、おおくのイラク民衆が殺され傷つけられているさなか、わたしたちは、60年前の日本の侵略犯罪を「調査」するために海南島にいきました。
 海南島東北部の文昌市秀田村で、日本軍が住民虐殺をおこなったのは、1945年7月30日(農暦6月22日)でした。
 その秀田村を、わたしたちは、2003年3月27日に、はじめて訪ねました。海南日報社の陳超記者と許春媚記者が同行しました。
 村の入り口の大きな樹の下で、陳貽嶠さん(1925年生)、陳明宏さん(1928年生)、陳貽芳さん(1933年生)から話を聞かせていただくことができました。3人の方がたにとって、両親や妻、子、兄弟が殺されたのは、昨日のことのようでした。祖母、母、妻、そして4か月の子を焼き殺された陳貽嶠さんは、話をしている間、ずっと泣いていました。
 当時12歳だった陳貽芳さんは、
    「父母、兄、嫂、姉、弟、甥の7人が殺された。わたしと陳貽宏は稲藁を積み上げてい
    るところに隠れて見ていた。八か月のおいが日本兵にゆりかごから連れ去られて、火
    の燃えている中へ投げ入れられた。あのころは日本人をすごくうらんだ。家を破壊して
    だれもいなくしてしまった。わたしは、このようなことをやった日本兵を殺せなかったこ
    とがくやしかった」
と、話しました。陳貽嶠さんは、
    「この事件のことを日本人民に知らせなければならない。日本政府に、賠償をさせなけ
    ればならない。ただただ日本の軍国主義を恨む」
と語りました。
 話を聞かせてもらったあと、陳貽僑さんらに村内や犠牲者の墓地を案内してもらいました。日本軍に住民がおしこまれ焼き殺された家の跡が、当時のまま残されていました。村はずれの大きな墳墓のまえの碑に刻まれた「秀田村惨案記略」には、つぎのように書かれていました。
    「1945年6月22日明け方、舗前基地から出動してきた日本軍は、52戸、男女老少200人
    ほどのわたしたちの村を襲い、農作業にでていた者を除く村人全員を2軒の民家に閉じ
    込め、ガソリンをかけ、生きたまま焼き殺した。140人が殺された。老人47人、青壮年24
    人、児童53人、妊婦9人、よその村から来ていた者7人であった。日本軍敗北の前夜で
    あった。
     生きのこった者が骨灰を集め村の西の野に埋めてから40年あまりが過ぎた。
     海外の親族などが資金を、このたび墓園を重建した。 
                              1989年12月10日」。

 碑の裏面に、140人の犠牲者それぞれの家の名と、その家の犠牲者の数が刻まれていました。
 陳貽嶠さんは、秀田村虐殺の52年後、1997年農歴6月22日付けで「文昌市羅豆農場秀田村歴史惨案記実」を書いていました(『海南陳氏譜』第二巻 秀田村分冊、1999年)。その要旨は、つぎのとおりです。
    “秀田村の幸逃者は、わずか56人だった。1945年農歴6月22日早朝、日本軍の部隊は、
    16人づつの2隊に分かれて村に侵入した。
     この日午後4時過ぎ、日本軍がいなくなってから、村にもどった。村のなかの家はまだ
    燃えていた。人影はなかった。父母や子どもに呼びかけたが、答える声は返ってこなかっ
    た。村の西に行くと2軒の家に、焼き殺された遺体があった。どの遺体も、誰なのか見分
    けることができなかった。
     苦しみ嘆き、ものを食べることも眠ることもできなかった。3日後、140人の遺骨を集め、
    ふたつの穴に埋めた”。

 2004年12月、わたしたちは、秀田村虐殺をおこなった日本軍部隊が「駐屯」していたという舗前に行き、その部隊の痕跡を調査しましたが、舗前守備隊本部があった場所以外は、確認できませんでした。舗前守備隊は、日本海軍海南警備府第15警備隊(呉鎮守府特別陸戦隊)に所属する部隊でした。
 秀田村の住民虐殺にもかかわったと思われる兼石績第15警備隊文昌中隊長(大尉)、冨田堯人文昌中隊長、望月為吉文昌中隊小隊長は、海南島で住民を虐殺したとして、広東裁判で死刑判決をうけ、1947年7月26日に銃殺されました。最悪の侵略犯罪者ヒロヒトを「日本国の象徴」兼「日本国民統合の象徴」とする「日本国憲法」が施行されてから2か月あまり後のことでした(「被抑留者(戦犯容疑者)」〈『海南警残務処理報告綴(別冊)』第二復員局残務処理部資料課、防衛研究所戦史研究センター史料室蔵)。『本邦戦争犯罪人裁判関係雑件』日本外交史料館蔵)。『外地における本邦人の軍事裁判関係』(日本外交史料館蔵)。巣鴨遺書編纂会編『世紀の遺書』1953年12月。今井豊平『嗚呼天哉命哉』海南海軍警察隊戦友会、1978年。岩川隆『孤島の土となるとも―-BC級戦犯裁判』講談社、1995年6月)。
 「被抑留者(戦犯容疑者)北部地区」には、兼石績大尉の「被抑留ノ理由(中国側)」として「民国三十四年〈1945年〉七月文昌県羅豆村秀田村ニテ一百八十余人を惨殺ス(以上中国側理由)」と書かれています。兼石績大尉は処刑されましたが、海南警備府第15警備隊司令吉田喜一大佐は、いったんは逮捕され、数日後に釈放され日本に戻りました。

 2016年11月7日に、わたしたちは久しぶりに陳貽嶠さんに会いました。陳貽嶠さんは舗前に引っ越してました。陳貽嶠さんは、つぎのように話しました。
    “あの日わたしは祠堂にいたので逃げることができた。羅豆市まで逃げて、夕方もどっ
    た。午後4時か5時ころだったと思う。
     祖母、母、妻、息子の4人が殺された。
     襲ったのは、鋪前からきた16人の日本兵だった。
     どうして16人だとわかるかというと、鋪前を出発した32人の日本兵が、鋪前と秀田村
    の間を流れる河を渡るとき、16人づつ2組に別れたからだ。このことは、あとで渡し船の
    船頭から聞いた。
     あとの16人は、西沟村に行った。西沟村にも国民党の兵士がいたことがあったが、こ
    のとき日本軍は家を2~3軒焼いただけだったらしい。
     この村の周辺では、国民党の遊撃隊が活動していた。わたしは、ときどき見たことが
    ある。夜、2~3人がいっしょに行動していた。
     日本軍が村を襲ったのは、秀田村に国民党軍の陳文軒がいると考えたからではない
    か。陳文軒は秀田村の人で、母と妻と幼い子どもふたりいたが、家にいることはなかっ
    た。
     日本軍は、秀田村からニワトリ、アヒル、羊、コメなどを奪って、よその村の人たちに鋪
    前まで運ばせた。
     日本が敗けたあと、1950年代に、陳文軒は、共産党に殺された。錦山で人民大会が開
    かれ、銃殺された”。
                                        佐藤正人
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20年間(1998年~2017年)、32回の海南島訪問 10

2018年01月29日 | 海南島近現代史研究会
 月塘村をはじめて訪ねたのは、2007年1月17日でした。
 その前日、月塘村で生まれ育ち万寧市内に住む朱深潤さん(1933年生)が連絡しておいてくれた朱学平さん(1933年生)が、農作業にでかける時間を遅らせて家にいてくれたので、話を聞かせてもらうことができました。朱学平さんは、かたい表情をくずすことなく、こう語りました。
    “わたしは、一二歳だった。朝はやく、日本兵がとつぜん家に入ってきて、なにも言わ
    ないで、殺しはじめた。一〇人家族のうち、わたしだけが生き残った。
     母、兄二人、姉、叔母二人、いとこ二人、そして六歳だった妹の朱彩蓮が殺された。
     わたしは、柱のかげに倒れるようにして隠れて助かった。妹は腹を切られて腸がとび
    だしていたが、まだ生きていた。こわかった。血だらけの妹を抱いて逃げた。途中なん
    ども妹が息をしているかどうか確かめた。激しい雨が降った。村はずれに隠れた。妹は
    瀕死だったが、三日ほど生きていた。
     半月ほどたって家に戻ってみたら家は焼かれ、遺体も火にあっていた。骨になりきっ
    ておらず、くさっていた。まもなく、偽軍や漢奸が来て、遺体を近くに運んで埋めた。
     母呉洋尾は五〇歳だった。
     日本軍が負けていなくなってから、その場所を掘って遺骨を探した。なんども探した
    が見つからなかった。焼けた骨は土のなかで砕けてしまったのだと思う。
     父の朱開廉は、1940年11月28日に近くの東澳村に魚を買いに行き、日本軍に銃で撃
    たれて殺されていた”。

 朱学平さんは、むかしの家に案内するといって立ち上がりました。月塘村の集会場の前を通り過ぎると、まもなく大きな池が見えてきました。むかしは、月塘村の中心は、月のかたちをしているその池のそばにあったといいます。
 日本軍が襲撃した朱学平さんの家の跡には、土台石が残っているだけでした。その一隅を指さしながら、ここが家の門だった、と朱学平さんが言いました。その向かいの家では七人家族全員が殺されたといいます。そこも、土台石が残っているだけでした。

 蔡徳佳・林国齋「日本占領万寧始末――制造“四大屠殺惨案”紀実」(万寧県政協文史弁公室編『万寧文史第5輯 鉄蹄下的血泪仇(日軍侵万暴行史料専輯)』1995年7月)には、1939年10月14日の龍滾狗匙石洞虐殺、1939年10月19日の和楽西戴村虐殺、1940年11月28日の東澳豊丁村虐殺、1945年5月2日(農歴3月21日)の万城月塘村虐殺が、万寧における日本軍の四大虐殺だと書かれています。わたしたちが、蔡徳佳さんに月塘村を訪ねたいというと、蔡徳佳さんは、“日本人が月塘村に行くとどのようなことが起こるかわからない”と言って、朱深潤さんを紹介してくれました。
 2007年1月17日の4か月後、5月に、わたしたちは、再び月塘村を訪ねました。月塘村での日本軍の犯罪を映像で残さなければと考え、6月から、わたしたちは、ドキュメンタリー『海南島月塘村虐殺』の制作をはじめました。10月はじめから11月上旬にかけて、連日、月塘村を訪ねました。

 わたしたちたが、朱学平さんから、瀕死の妹の朱彩蓮さんを抱えて「坡」まで逃げたことを聞いたのは、朱学平さんにはじめて会った、2007年1月17日でした。その後、5月に再会し、10月に月塘村に毎日のように行って、なんども朱学平さんに会いました。約束しているわけではないのに、月塘村で、なんどとなく、会いました。
 わたしたちには、1月には、月塘村虐殺にかんするドキュメンタリーを制作するという発想はありませんでした。
 5月に、月塘村で朱進春さんや朱振華さんなどと話し合っているとき、いっしょにドキュメンタリーを制作しようということになりました。
 数日後、わたしたちは、その準備作業として、月塘村の風景の撮影を始めました。月塘のそばの太陽河ぞいの三叉路にカメラを固定し、遠景を撮影していると、遠くから鍬をかついだ人が歩いてきました。その人が近づいてくるのを撮影しつづけました。その人は、朱学平さんでした。畑から帰る途中だとことでした。
 その後も、このような偶然の出会いが何度となく、ありました。
 何度会っても、朱学平さんは、笑うことがありませんでした。その朱学平さんを見ているとき、しばしば、わたしは、1926年1月に、4歳のとき、三重県木本町(現、熊野市)で父裵相度さんを虐殺された裵敬洪さんのことを思い出しました。
 裵相度さんは、「父が殺されてから、わたしは心の底から笑ったことは一度もない」と言っていました(三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・相度)の追悼碑を建立する会編刊『紀伊半島・海南島の朝鮮人――木本トンネル・紀州鉱山・「朝鮮村」――』〈2002年11月〉を見てください)。

 わたしは、朱学平さんの妹、朱彩蓮さんを、映像で表現したいと考えました。
 もちろん、朱学平さんの記憶のなかの朱彩蓮さんを撮影することはできません。しかし、朱彩蓮さんを記憶している朱学平さんを撮影することはできます。
 2007年10月末、わたしは、思い切って、朱学平さんに、あの日、朱彩蓮さんを抱いて逃げた「坡」まで行きたいと言いました。
 朱学平さんは、「坡はすっかり変わってしまった」と言いました。
 11月6日に、わたしは、朱学平さんと「坡」に向かいました。その道は、以前にも歩いたことのある道でした。
 しかし、朱学平さんといっしょに歩いていると、違った道のように感じました。
 以前に行った地点を通り越して、道がなくなったところをさらに100メートルほど行ったところで朱学平さんは立ち止まりました。すぐそばを太陽河が流れていました。
 そこで、朱学平さんは、つぎのように話しました。
    “あのとき、わたしは、妹を抱いて、前を走っていく人について、逃げた。
     妹が痛いというと、いったん下におろし、また抱えて走るようにして逃げた。
     雨が降りそうになったので急いだ。
     ここまで逃げてきて隠れた。
     あの日、午後3時ころだったと思うが、大雨が降った。夜には止んだ。
     ここにはすぐには食べるものがなかったが、まもなくさつまいもを探して掘って煮
    て食べた。鍋は、‘坡’に住んでいた人に借りた。水は太陽河から汲んできた。
     3日後、妹は、静かに目を閉じて死んだ。なにも食べようとしないで、水だけ飲んで
    死んでしまった。
     妹は、ただ、痛い、痛いと言って、水だけを欲しがった。妹のからだは、年寄りに助
    けてもらって近くに埋めた。いまでは、どこなのかはっきりしない。
     叔父(朱洪昆)が日本兵に10か所あまり刺された。からだに虫がわいて、何日もしな
    いうちに死んだ“。

 こう話したあと、朱学平さんは、樹と草の茂みに入って行きました。
 そして、とつぜん泣き出しました。
 そのあと、朱学平さんは、仕事があると言って、一人で戻りました。
 近くを岩場の多い太陽河が、光って流れていました。その水辺に映る揺らめく太陽を撮影しました。
 太陽河の左岸に沿って下流の月塘村に向かいました。銀白色のススキが風に大きく揺れていました。
 すぐに道が川辺をはずれ、ビンロウジュの畑にでました。遠くに牛がいました。
 夕方、帽子を返しに、朱学平さんの家に行きました。朱学平さんは不在でした。連れ合いさんが、「午後、坡から戻ってから、夫はずっと泣いていた」、と話しました。
 
 11月6日に、朱学平さんの姿と証言を撮影したわたしは、11月中旬に、『海南島月塘村虐殺』のシナリオを書き換えました。
 ドキュメンタリーシナリオという形式での記録・歴史叙述は、撮影してきた映像および撮影しようとする映像に規定されますが、同時に、撮影できない映像をも前提としなければ、書きあげることができません。
 『海南島月塘村虐殺』のシナリオを書いていく過程は、わたし自身が、月塘村虐殺を認識しているのかを確かめる過程でもありました。ドキュメンタリーのシナリオは、証言を文字で記録しているという意味では記録ですが、映像を前提とし数百個のクリップを編集しているという意味では歴史叙述です。わたしにとって、『海南島月塘村虐殺』のシナリオを書くということは、歴史を認識すると同時に歴史を叙述するということでした。
 ナレーションという形式の歴史叙述を書くためには、依拠する文献史料の史料批判を厳密におこなわなければならないのは当然です。
 ナレーションは、現在の証言映像に示されている過去の歴史的事実、現在の廃墟の映像に示されている過去の歴史的事実をことばによって「解説」するものでもあります。ナレーションは、文献史料と影像史料を結びつける役割を果たすものだと思います。

 『海南島月塘村虐殺』新版(2008年制作)のシナリオの構成はつぎのとおりです(シナリオ全文は、海南島近現代史研究会のウェブサイトをみてください。http://www.hainanshi.org/yuetan%20sinn%20sinario.htm)。 
   Ⅰ、月塘村
   Ⅱ、証言
   Ⅲ、「要求日本国政府賠償請願書」
   Ⅳ、戦犯を「象徴」とする日本国で
   Ⅴ、海南島における日本軍の住民虐殺
   Ⅵ、月塘村追悼碑
   Ⅶ、要求賠償
   Ⅷ、掲碑儀式
   Ⅸ、朱彩蓮さん
                                           佐藤正人
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20年間(1998年~2017年)、32回の海南島訪問 9

2018年01月28日 | 海南島近現代史研究会
 以下は、1月15日にこのブログに掲載した「20年間(1998年~2017年)、32回の海南島訪問 8」に続くものです。

 わたしたちがはじめて海南島を訪ねたのは、1998年6月23日でした。この日朝、海口に着いてすぐに、海口で一番大きい書店だと聞いた解放路の新華書店に行き、日本ではどうしても入手できなかった海南省政治協商会議文史資料委員会編『海南文史資料』第11輯(『鉄蹄下的腥風血雨――日軍侵琼暴行実録』上・下(1995年、海南出版社刊)を購入しました。
 そのあと、昼過ぎに、海南省政治協商会議文史資料委員会を訪ね、『鉄蹄下的腥風血雨』を主編した符和積さんに会いました。
 突然訪ねてきたわたしたちを符和積さんは快く迎えてくれ、抗日戦争勝利50周年を記念して、海南島各地の政治協商会議文史資料委員会が、日本占領下に受けた「暴行」の聞き取り調査をおこない、それを省の政治協商会議文史資料委員会がまとめたのが『鉄蹄下的腥風血雨』であると話し、中華書店では入手できなかった『鉄蹄下的腥風血雨』続(1996年刊)を寄贈してくれました。
 わたしたちのつたない漢語に筆談を加えてなんとか意志を伝えることができました。その後20年の間に何度となく符和積さんを訪ね、親交を深めてきました(2015年11月26日に符和積さんの自宅を訪問したときのことは、このブログの2015年11月26日の「海口市永興鎮儒東村、純雅村で」をみてください)。
 1998年6月24日には、三亜に行き、政治協商会議三亜市委員会を訪ねました。そこで政治協商会議三亜市委員会編『三亜文史』5(『日軍侵崖暴行実録』紀念中国人民抗日戦争勝利五十周年、1995年8月)の副主編者である蔡文恵さんに会い、「朝鮮村」に案内してもらいました。
 黎語を知る蔡氏の通訳によって、朝鮮人を木につるして日本人が虐殺したのを目撃した周亜細さん(83歳)から話を聞かせていただくこともできました。周亜細さん自身も日本兵によって左足に傷を負わされ、歩き方が自由ではありませんでした。
 朝鮮人が埋められているという場所は、村の小学校に隣接している広場でした。そこは、畑になっていました。その小学校のあった所に日本軍の兵舎と日本軍用の井戸があり、その傍の大樹に朝鮮人がしばしばつるされたといいます。
 蔡文恵さんにもらった『三亜文史』5(『日軍侵崖暴行実録』)には、日本軍と石原産業が田独鉱山の鉄鉱石を略奪した6年間に、病死、餓死、殴殺、生き埋め、銃殺された労働者は1万人以上であった、と書かれていました。
 「朝鮮村」を訪ねた翌日、崖県の旧日本軍司令部跡と「慰安所」跡を蔡文恵氏に案内していただき、さらにその翌日、石原産業が経営していた田独鉱山と紅沙の「慰安所」跡を蔡文恵氏と三亜地域での日本軍の残虐行為について長年調査してきた羊杰臣さんに田独鉱山、および紅沙の「慰安所」跡に案内していただきました。田独鉱山跡には、露天掘りの跡に水がたまっており、近くの万人坑に、海南鉄礦田独礦区の労働者よって「日冠時期受迫害死亡工友紀念碑」が1958年4月に建てられていました。
 田独鉱山に行った翌日、三亜から海南島西部の石碌と八所に向かいました。
 日本占領当時、石碌鉱山の鉄鉱石を日本に運び出すために、日本軍・西松組・日本窒素は、山中の鉱山から海岸まで約50キロの鉄道と積出港(八所港)を急造しました。この工事でも多くの人命が奪われました。八所港の「万人坑」には、1964年に「日軍侵瓊八所死難労工紀念碑」が建てられていました。碑の裏面に、
    「八所港投入労工二萬三千餘人,公元一九四二年,工程結束時僅存労工一千九百六
   十餘人……是抗日戦争時期日本侵略者屠殺埋葬三萬餘労工的地点……。 
                        海南省人民政府 一九九四年一一月二日公布」
と書かれてありました(犠牲者の白骨が埋められている土地の上に建てられていたこの碑は、2012年7月に破壊されました。このブログの2015年3月30日の「八所と海頭で」、2015年4月22日の「东方市八所中国死难劳工“万人坑”纪念园和纪念碑被毁」、2015年4月23日の「东方劳工纪念碑被拆 谁之殇? 谁之耻? 谁之责?」、2015年6月17日の「日军侵琼“劳工纪念碑”被推倒盖酒店」、2015年6月18日の「东方 日军侵琼八所死难劳工纪念碑塔」、2015年6月19日の「日军侵琼死难劳工纪念碑被拆遭质疑」をみてください。その後、この碑のあった場所のすぐ近くに、犠牲者の白骨の上に、高層マンションが建てられています)。

 石碌鉱山のある石碌では、政治協商会議海南省昌江黎族自治県文史資料組の趙志賢さんに、石碌鉱山・追悼碑・万人坑跡・慰安所跡・日本軍望楼跡・日本軍石碌派遣隊本部跡などを案内していただきました。数万人が生命を奪われた石碌鉱山には、1965年に「石碌鉄鉱死難鉱工紀念碑」が建てられていました。

 わたしたちは、はじめて海南島を訪ねた日から、各地の政治協商会議の人たちにじっくり話を聞かせていただいただけでなく、「現地調査」に大きな便宜を図っていただきました。
 証言を聞かせていただいた村人も含め、わたしたちは、あらかじめ連絡をとることなく、突然海南島の人びとを訪問しました。
 そして、海南島に来た理由・目的を話し、多くの場合、初対面の時から数分後に古くからの知己であるかのように接してもらうことができました。
 わたしたちには、あらかじめ連絡し、承諾を得て、日時を約束してからら訪問することはほとんど不可能なことでした。漢語の力の足りないわたしたちにはたとえ電話番号を知ることできても面会の約束をきちんとすることができませんでした。
 はじめて訪ねる村には、行くまで、証言を聞かせてもらえる人がいるかどうかもわかりませんでした。
 まれに、証言を聞かせていただく人にあらかじめ約束をしてから訪問できたこともありました。

                                          佐藤正人
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海南岛近现代史研究会第21次定期研究会

2018年01月17日 | 海南島近現代史研究会
  查明纪州矿山事实真相研究会于1998年6月开始在海南岛进行日本侵略犯罪的现地调查。2007年8月创立的海南岛近代史研究会、于同年9月~11月进行了最初的海南岛现地调查。这个时期对查明纪州矿山事实真相研究会来说,已经进行了第14次现地调查。2017年12月为止,查明纪州事实真相研究会已经进行了32次现地调查,海南岛近现代史研究会则进行了19次现地调查。
  至今为止的20年里(1998年~2017年),我们在海南岛调查日本的侵略犯罪实况的同时,也在追踪海南岛的抗日反日斗争的轨迹。
  我们希望和大家一起探讨如何用实证的民众史的方法,在亚洲太平洋地区,查明国民国家日本的侵略犯罪事实,追究抗日反日斗争的历史。

  时间:2018年2月3日(星期六)13时~17时(开场时间12时30分)
  地点:国劳大阪会馆 1楼大厅   JR天满站出口右拐200米(往樱之宫站方向)           
  参加费用:500日元(会员免费)

主题:日本的侵略犯罪・亚洲太平洋民众的抗日反日斗争

■报告 20年(1998年~2017年)、第32次访问海南岛的路途上       佐藤正人
■报告 琉球处分在继续                     关西冲绳文库 金城馨       
■报告 被强行带到海南岛的朝鲜人和台湾人的历史             金静美
■报告 在海南岛的日本侵略犯罪和“大东亚战争”              齐藤日出治
■报告 极东国际军事审判文书里记载的日本军在海南岛的侵略犯罪  日置真理子
■报告 对抗“和平大阪”的隐瞒侵略事实的审判斗争             竹本升
                    
■讨论 国民国家的侵略犯罪和抗日反日斗争
  国民国家日本的历史是侵略亚洲太平洋的历史。这个时代涉及全世界范围,至今仍未结束。我们希望和大家一起讨论如何查明涵盖在海南岛近现代史的世界近现代史里的国民国家侵略犯罪的整体全貌。

■调查报告 第19次海南岛的“现地调查” (2017年12月)          佐藤正人
  报告在海口市新海地区,海口市三江镇上云村,咸宜村,攀丹村,苏民村,北会铺村,澄迈县仁兴镇灵地村,仁坡村,石鼓村,岭仑村,屯昌县乌坡镇四角园,美华村,田浩村,坡田村,尖石村,乌石坡村,屯昌县枫木镇岭仔木村,琼中黎族苗族自治县中平镇报南村,土平村,五指山市男圣镇文化市,什赤村,保亭黎族苗族自治县加茂镇,保城镇,新政镇番雅村,三亚市回新村,琼海市中原镇长仙村等证言。

■关于2018年3月海南岛近现代史研究会将进行的第20次海南岛“现地调查”

              海南岛近现代史研究会 http://www.hainanshi.org/
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