三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

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植民地朝鮮における歴史認識と分断国家朝鮮における社会変革

2020年02月13日 | 海南島近現代史研究会
 以下は、2020年2月8日に開催した海南島近現代史研究会第25回定例研究会(主題:歴史認識と社会変革)での金靜美の報告(植民地朝鮮における歴史認識と分断国家朝鮮における社会変革)の要旨です。
 次回の海南島近現代史研究会第14回総会・第26回定例研究会は、9月5日に開催します。

                     海南島近現代史研究会


■植民地朝鮮における歴史認識と分断国家朝鮮における社会変革■
                                    
(一)歴史認識について
 歴史とはなにか。
 ※民衆の生と死の集積
 歴史をどのように認識するのか。
   植民地朝鮮における歴史認識と分断国家朝鮮における歴史認識とは異なるのか。
   日本の他地域他国侵略・他地域他国植民地化を肯定する歴史観はどのように形成されるのか。

(二)植民地朝鮮における歴史認識
 ■大韓帝国は、なぜ大日本帝国の植民地になったのか
 1592年~1593年:壬辰倭乱。 1597年~1598年:丁酉倭乱。
 1811年~1812年5月:平安道農民戦争(洪景来の乱)。
    洪景来(1812年5月29日〈陰暦4月19日〉戦死)、禹君則、金士用、李禧著、金昌始などが
   中心。朝鮮西北地方の大商人、郷任層、武士、流浪農民などが連合。
 1862年(壬戌) 旧暦2月~旧暦11月:「壬戌民乱」(「晋州民乱)。
    農民を主体とする民衆闘争。樵軍(晋州民衆)、郷任の柳継春の指導下に白い頭巾をかぶり
   竹槍と棍棒で官衙を壊し農村の富民たちを襲撃した後に解散。
    慶尚道丹城→慶尚道晋州→慶尚道20の郡県・全羅道37の郡県、忠清道12の郡県→京畿道、咸
   鏡道・黄海道など。
 1875年9月20日~22日:日本小型砲艦「雲揚」、朝鮮の首都に近い江華島海域に侵入
    → 1876年2月26日:朝日修好条規(江華島条約。丙子修交条約)調印・発効。
 1882年:壬午軍乱。
 1894年2月15日:朝鮮全羅道古阜で甲午農民戦争(東学農民運動。東学農民革命)開始。
 1894年6月1日:甲午農民軍、全州占領。紀綱「済世安民 逐滅倭夷 尽滅権貴」。
 1894年6月2日:日本政府、清国の「朝鮮出兵」に「対抗」し、朝鮮への日本軍侵入を決定。
 1894年6月3日:朝鮮政府、甲午農民軍を「制圧」するために清国に援兵要請。
 1894年6月8日:清国軍1500人、牙山に上陸。
 1894年6月10日:全州和約(朝鮮政府と甲午農民軍の間の和約)。甲午農民軍、自主的に全州から撤退。
 1894年7月23日:朝日戦争(日本軍、朝鮮王宮占領)。
 1894年8月20日:「日韓暫定合同条款」調印。
    ※「此度日本政府ハ朝鮮國政府ニ於テ內政ヲ改革センコトヲ希望シ朝鮮政府モ亦タ其急務タルヲ
    知覺シ其勸吿ニ從ヒ勵行スヘキ各節ハ順序ヲ追テ施行スヘキコトヲ保証ス」、「本年七月二十三
    日王宮近傍ニ於テ起リタル兩國兵員偶爾衝突事件ハ彼此共ニ之ヲ追究セサル可シ」。
 1894年10月1日:甲午農民軍、再烽起。日本軍と交戦。
 1894年10月4日:日本軍、仁川上陸。10月23日:日本軍、鴨緑江を渡り清国に侵入。11月8日:日本連合
    艦隊、大連湾占領。11月19日:日本軍、旅順攻撃開始(11月21日、占領)。11月21日~25日:日
    本軍、旅順大虐殺。
 1894年12月7日:甲午農民軍、公州で大敗。12月28日:全琫準、淳昌で日本軍に逮捕されソウルに。
 1895年4月23日:全琫準ら処刑される。
    【画像1】大芚山878 m アム峰(甲午農民戦争最終激戦地)
          忠清南道論山市・錦山郡 、全羅北道完州郡
          (撮影:趙成鳳 진달래산천 산행主催)
    【画像2】大芚山にある甲午農民軍の碑
            「19世紀末、日帝の侵略と朝鮮の腐敗した官吏たちを
           追い出すために憤然と立ち上がった……東学農民義兵……」
          (2001年2月18日建立)(撮影:趙成鳳)
     ※申東曄(1930~1969年)
           진달래산천
           길가엔 진달래 몇 뿌리
           꽃 펴 있고,
           바위 모서리엔
           이름 모를 나비 하나
           머물고 있었어요.

           잔디밭엔 장총(長銃)을 버려 던진 채
           당신은
           잠이 들었죠.
           
           つつじの山河
           野辺には つつじが いくつか
           花を咲かせている
           岩はだでは
           名前を知らない ちょうが一羽
           羽を休めていた

           くさむらでは 長銃をなげすてたまま
           あなたは
           眠りに落ちていた
 1895年~1896年:義兵戦争。
 1897年10月:朝鮮の国名が大韓帝国となる。
 1899年~1904年:活貧党(朝鮮中南部の武装集団)の闘い。
     ※大韓四民論説十三条目:農民や商人の待遇改善、防穀令実施、外国人への利権供与
     反対・外国人に奪われた利益の奪還(鉱山開発権・鉄道敷設権など)、土地再分配要
     求。監獄を襲撃し獄中者を解放し武器を奪取。
     ※反日武装烽起:日本との通商禁止要求、日本人排斥、日本人商店・日本などの外国
     資本が作った鉄道などを破壊。日本軍によって、ほとんどが処刑された。
 1904年8月:第一次韓日協約(韓日外国人顧問傭聘に関する協定書)。
 1905年1月:日本政府、独島を「隠岐島司ノ所管」し「竹島」と命名する閣議決定(2月、島根
    県知事、「竹島」が隠岐島司の所管となったと告示)。

 ■植民地朝鮮(日帝強占期朝鮮)における朝鮮民衆の抗日反日闘争・日本の国家犯罪
 1905年~1914年:反日義兵が中心になって独立戦争(抗日義兵戦争)。日本軍、朝鮮各地で虐殺。
    ※大量の武器と弾薬をもって襲撃してくる日本の軍警に、日本側文書によっても1万7千人
    を越す朝鮮民衆が殺害された(朝鮮駐箚軍司令部『朝鮮暴徒討伐誌』1913年)。
    ※「韓国暴徒を輸入せんとす 統監府の追放する暴徒を片ッ端から日本に運ぶ計画」(『大
    阪毎日新聞』1908年5月3日)。
    ※「一時猩獗ヲ極メシ全羅南道ノ暴徒ハ大討伐ノ結果逮捕及自首千三百名ニ達シタリ……強
    制労働ヲ施セハ遷善ノ見込アルヲ以テ此五百名ニ対シテハ起訴猶予処分ニ付シ此起訴猶予者
    ヲシテ……道内海南河東間三十五里ノ道路開鑿ヲ計畫シ将ニ実行ニ着手セリ」(「全羅南道
    暴徒帰順者授業ノ為道路開鑿工事起工状況」(『韓国警察最近事務概要』1910年前半?)。
 1905年:第二次韓日協約(乙巳保護条約)。
 1906年:日本政府、韓国統監府設置。
 1907年7月:第三次韓日協約。
 1909年10月26日:安重根のハルビン駅での闘い(1910年3月26日、処刑)。
 1910年8月:大日本帝国、大韓帝国を日本領土とする(韓国併合ニ関スル条約)。
    9月:日本政府、朝鮮総督府設置。
 1919年:3・1独立運動。
 1919年4月11日~1948年 :大韓民国臨時政府。
    上海→杭州→南京→長沙→広州→綦江→重慶
 1919年9月2日:姜宇奎の南大門駅での闘い(1920年11月29日、処刑)。
 1920年6月:鳳梧洞戦闘。
 1920年10月:青山里戦闘。
 1924年1月4日:義烈団員金址變の二重橋での闘い(1928年2月、獄死)。
 1926年6月10日:6・10運動。
 1929年1月~4月:元山ゼネスト。
 1929年11月:光州学生運動。
 1930年5月30日:間島5・30烽起。 8月1日:8・1吉敦闘争。
 1932年1月8日:李奉昌の桜田門外での闘い(10月10日、処刑)。
 1932年4月29日:尹奉吉の上海虹口公園での闘い(12月19日、処刑)。
 1943年3月 日本政府、「朝鮮総督府受刑者海南島出役に伴う監督職員等増員に関する件」閣議決定。
 1945年夏 「朝鮮村虐殺」(日本海軍海南警備府第16警備隊の兵士ら、「朝鮮報国隊」の朝鮮人を虐殺)。

(三)分断国家朝鮮における社会変革
 1945年8月20日ころ:アメリカ合州国とソ連が38線の南北に朝鮮を分断。
 1945年9月6日:朝鮮人民共和國、建国。10月10日、解体。
 1945年9月8日~1948年8月15日:南部朝鮮で、在朝鮮アメリカ合州国陸軍司令部軍政庁(USAMGIK)
    が占領行政。
 1945年10月3日~1946年2月8日:北部朝鮮で、ソ連民政庁が占領行政。
 1946年5月~1949年3月:朝鮮人23人・台湾人21人、「戦犯裁判」で処刑。
 1946年11月3日:戦犯を日本国および日本国民統合の象徴とする「日本国憲法」公布(1947年5月3日施行)。
 1948年2月:朝鮮人民軍、創立。
 1948年3月4日~:済州島四・三(在朝鮮アメリカ合州国陸軍司令部軍政庁支配下の済州島で)。
    【画像3】済州地域行方不明犠牲者 慰霊碑(「4.3平和公園」)(2017年5月28日撮影
    ※ドキュメンタリー『レッドハント』趙成鳳監督
 1948年8月15日:大韓民国、成立。9月9日:朝鮮民主主義人民共和国成立。9月:韓国軍創立。
 1948年10月19日~:韓国で麗水反乱。
 1948年~:韓国で、智異山パルチザン。
    【画像4】빨치산대원움막(智異山中にあるパルチザンの住居址)
          (2016年7月1日撮影)
    ※金永昇さん(1935年8月7日、全羅南道霊光郡で生まれる)のドキュメンタリー撮影に同行。
     金永昇「わたしはわたしである わたしはなぜ、パルチザンになったか」
        (2016年12月21日、22日、23日三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・
       裵相度)の追悼碑を建立する会・紀州鉱山の真実を明らかにする会のブログに連載)
     1950年9月28日:山に入り下山せず、パルチザンに。
     1954年2月20日:智異山南方の白雲山で4発の銃弾を受けて捕まる。
     1989年9月5日:清州保安監護所から非転向出獄。保護観察対象者、指定。逮捕されてから35年7か月後。
1949年6月5日:韓国政府、「国民保導連盟」設立。
1950年6月25日:朝鮮人民軍、38度線を越えて軍事行動開始。
    【画像5】朝鮮戦争時、韓国軍に虐殺された民間人の遺骨
         慶尚北道慶山市のコバルト鉱山跡から発掘された遺骨
          (2014年2月25日撮影)
    【画像6】コバルト鉱山の遺骨について説明をする張明守さん(1957年生)
         (2014年2月25日撮影)
     ※張明守さん
         「小さいとき、ここに入ってはいけないと言われていた。恐ろしいとこ
        ろだ、危険だと。坑道は20キロ~25キロ。コバルト鉱山は、日本人が来て、
        1942年から採掘された。
         ここは대원골といわれている。怨(원)が大きいところという意味だ。山の
        名前は、현성산。
         垂直坑に投げ込まれている。長い年月のあいだに土で埋まってしまった。
        3年前、発掘しようとしたとき、土で埋まって垂直坑の上からは掘り出せず、
        横から掘り進んで行って、出せる遺骨だけ出した。300余遺体。
         証言では、大邱刑務所から受刑者が大型車で連れてこられたという」。

 1953年7月27日:国連軍と中朝連合軍、休戦協定(朝鮮における軍事休戦に関する一方国際
   連合軍司令部総司令官と他方朝鮮人民軍最高司令官および中国人民志願軍司令員との間
   の協定)。
 1956年~:朝鮮民主主義人民共和国で、千里馬運動。
 1960年4月:韓国で、四月革命。3月15日:馬山義挙。
 1980年5月:韓国で、光州民衆抗爭(5.18民主化運動)。
 1987年6月10日~10月29日:韓国で、6月民主抗争。 5月27日:民主憲法争取国民運動本部
   結成。 10月29日:大統領直接選挙制。
 1996年~2000年ころ:朝鮮民主主義人民共和国で、「深化組事件」
 2016年11月~2017年5月:韓国で、朴槿恵退陣非常国民行動

さいごに
1、各地に埋められている日本の侵略による被害者の遺骨
■進まぬ強制徴用被害者の遺骨返還  背を向ける日本と消極的な韓国
 韓国行政安全部によると、日本で発掘後に保管されている朝鮮半島出身の徴用・徴兵犠牲者の遺骨は2770柱に上る。寺や納骨堂など日本全域の約340カ所に散在する。
(「聯合ニュース」 2018/06/01 11:58)
■沖縄戦没者の遺骨返還へDNA鑑定を 韓国の遺族が日本政府に要請
 【東京聯合ニュース】日本による植民地時代だった戦時中に動員され、沖縄で死亡した朝鮮半島出身者の遺骨を遺族のもとに返すためのDNA鑑定を積極的に実施するよう、韓国の遺族が日本政府に要請した。
(「聯合ニュース」 2020.01.21 15:53)
■「韓日市民団体、日本政府に沖縄死亡の韓国人遺骨の焼却中止を要求」
 日本政府は硫黄島の戦死者が2万1900人であると把握しており、この中で韓半島(朝鮮半島)出身は今まで確認された人だけで170人に達すると伝えられた。
 両国の市民団体は遺骨を遺族に返還するように発掘された遺骨を現地で焼却することを中止してほしいと求めた。また、太平洋タラワ、硫黄島など遺骨の発掘に関連した細部事項を公式に知らせ、遺族を相手にしたDNA型鑑定比較・対照作業を拡大してほしいと付け加えた。
(「中央日報日本語版」 2020.01.22 11:52)

2、海南島「朝鮮村」の遺骨
    【画像7】2015年11月21日の「朝鮮村」で
         ガラスの展示ケース内の遺骨がない

3、紀州鉱山で亡くなった朝鮮人の遺骨
    【画像8】本龍寺本堂に残されていた朝鮮人の遺骨
         (1997年11月16日、撮影)
    ※本龍寺の兼任住職をしている宗応寺(新宮)の住職との電話で(2019年11月16日)
         「本龍寺の朝鮮人の遺骨は、いまはない、宗務庁の人権擁護推進本部
        から来て持って行った、いまどこにあるかわからない、人権擁護推進本
        部から本龍寺に感謝状が届き、いま額に入れて本堂にかけてある」
    ※曹洞宗人権擁護推進本部の工藤氏との電話で(2019年11月25日)
        「 (無縁塚から遺骨を持ちだしたのは事実か、とまず確認し、その経緯を
       尋ねると)答えられない。
         (遺骨は現在どこに置かれているのか聞くと}答えられない。
       (あなたの人権擁護推進本部での役職は何か)答えられない。本部員です。
          いま日韓関係が????なので、返還できないで、そのまま置いてある」。
コメント

皇甫康子「「慰安婦」問題をどう伝えるか」

2020年02月12日 | 海南島近現代史研究会
 以下は、2020年2月8日に開催した海南島近現代史研究会第25回定例研究会(主題:歴史認識と社会変革)での皇甫康子(ファンボ・カンヂャ)さんの報告(「慰安婦」問題をどう伝えるか)の要旨です。
 次回の海南島近現代史研究会第14回総会・第26回定例研究会は、9月5日に開催します。

                     海南島近現代史研究会

■「慰安婦」問題をどう伝えるか■   

 1991年12月、初めて元「慰安婦」だと名乗られた金学順さんの証言会が大阪で開催された。被害女性たちが語る事実に驚愕し、名乗り出た勇気に応えるためには日本を変えていかなければという機運を強く感じることができた。被害者の女性たちの話を聞くと、必ず出てくるのが「私たちのような被害者を二度と作らないでほしい」という言葉だった。

●元「慰安婦」の女性たちの願いは
 「謝罪」と「再犯防止」
 「再犯防止」には反省の歴史としての事実を残し、語り継いでいくことが必要。
 教科書に記述されることが重要。→取り組む根拠となる。

●「慰安婦」問題を教えたいがどう教えて良いかわからない。
 こんな現場の意見に答えるために制作したドキュメンタリービデオ
 1994年に制作「それでも生きた~クレドサラワッチ~」歴史編、現代編の二部構成40分
 現代編には「在日」への差別問題や性暴力の問題も入っている。
 英語版も製作し、1995年の北京世界女性大会で報告。中学校や高校、大学、女性センター、人権のつどいなど、日本全国で教材に使ってもらったり、啓発のための集会や講演会で上映されたりした。

●「少女像」バッシングの中での伝え方
 平和学習からのアプローチ
 戦時性奴隷は人間を支配するための戦略的な安い武器。地域や共同体、家族の基盤である女性たちを破壊し、根深いダメージを与えるための攻撃手段。経済的利益を得るため、加害者が罰せられずに逃げおおせる「罰せられない文化」を変革するには、被害者たちが告発できる社会にすることが必要。平和なときの差別意識が戦時には噴き出す。だからこそ、平和なときの人権教育が大切だ。(2018年ノーベル平和賞受賞コンゴのムクエゲ医師のことば)
 防災教育の中に性暴力の問題を入れ込む。(被災時に告発しにくい性暴力の被害)
 #MeToo運動から考える。→日本社会、韓国社会に存在する女性差別の問題とつなげて考える。金学順さんをはじめ、名乗り出た女性たちは先駆的存在という位置づけが若い人たちの共感を呼ぶ。

●民族学級でどのように伝えるのか、悩む民族講師たち。
 まずは、伝えられる情報を共有し、伝え方をみんなで考える。
 絵本「コッハルモニ」や漫画「草」の活用(日常的な教育活動の中に入れ込む)
 当事者につながる人間としての思い。(無力感)
 強制連行の写真、アウシュビッツの「やまのような死体」の写真
 「かわいそうな朝鮮人の女性」ではなく「生き抜いてきたことが素晴らしい」(自分も生き抜けると希望を持つ女性たちがいる)
 「名乗りでた勇気」(金学順さんの存在がドイツ強制収容所や世界の性奴隷被害者に勇気を与えた)
 「コンゴ、ウガンダ、ナイジェリア、シリアなどの紛争地の性奴隷被害者や、ベトナム戦争時の韓国軍による性暴力被害者への支援、朝鮮学校の子どもたちへの支援活動もしている尊敬できる女性」(金福童ハルモニ)
 「加害者を罰せられない文化」を変えていくために、記録し、記憶し、伝えていきたい。


■「ミリネ(朝鮮人従軍慰安婦問題を考える会)」の活動紹介■ 2020年2月8日
        「在日」女性の集まり「ミリネ」代表 皇甫康子(ファンボ・カンヂャ)

 91年に在日同胞の女性たちと「朝鮮人従軍慰安婦問題を考える会」(以下「考える会」を立ち上げた。
 朝鮮人女性が抱える女性差別、民族差別を解消するための根源的な問題として「慰安婦」問題の解決を求める活動をはじめた。最初は「従軍慰安婦問題を考える在日同胞女性の会(仮称)」が91年に発刊したパンフ、「私たちは忘れない 朝鮮人従軍慰安婦 ―在日同胞女性からみた従軍慰安婦―」を販売することからはじめた。パンフの内容は当時、挺身隊問題対策協議会会長だった、尹貞玉(ユン・ジョンオク)さんが来日し、同胞女性たちに訴えた報告内容と「慰安婦」問題をどう見るかという「在日」女性の視点がだされている。
 このパンフに刺激を受け、91年8月24日、尹貞玉さんを大阪に招いて、「朝鮮人従軍慰安婦問題を考える集い」を開催した。この時、伊丹の大阪国際空港まで尹先生を出迎えた私は車の中で、はじめて元「慰安婦」と名乗りを上げた金学順さんの話を聞かされ興奮した。沖縄のペ・ポンギさん、タイのユ・ユタさんが名乗られていたのだが、多数生存されているはずの韓国で、名乗る人が一人もいなかった。軍事独裁政権下でも地道に研究、調査はしてきたが、この先、被害者不在で真相究明や謝罪・補償を求めることは困難だと  尹先生は思われていた。集会当日は金学順さんの報道もあり、300人以上が参加し、熱気あふれる講演会となった。この時の参加者とはその後、いろいろな場面で出会い直すことになるのである。

■―91年8月24日「朝鮮人順軍慰安婦問題を考える集い」開催。
 ―91年10月から創作劇「私たちは忘れない、朝鮮人従軍慰安婦」の上演。
 尹先生を招いての講演会のあと、「慰安婦」問題や「在日」について、たくさんの人たちに知ってもらうために、創作劇を上演しようということになった。
 91年10月26日、大阪府豊中市立婦人会館のイベントで、はじめて上演することができた。その翌日の朝日新聞に「思いのこもった演技に会場から大きな拍手がわき、『こんな事二度と繰り返されてはいけない。』と涙ぐむ在日一世の女性もいた。」という一文が入った創作劇上演の記事が掲載された。その後、京都、奈良、兵庫、東京、埼玉の11ヶ所で上演することができた。構成劇の上演を通じて、たくさんの出会いがあった。92年4月、東京YWCAでの上演後、埼玉の丸木美術館に宿泊し、今は亡き、丸木位里さん、俊さんと会えたことも得難い思い出の一つだ。
 せりふを覚え、毎回、緊張が高まる劇はかなりしんどかった。だからこそ、観た人に感動してもらえたと、今でも思っている。

■―91年11月から「朝鮮人従軍慰安婦に関する六項目早期実現を求める署名運動」
 1.日本政府は朝鮮人女性たちを従軍慰安婦として強制連行した事実を認めること。
 2.そのことについて公式謝罪すること。
 3.蛮行のすべてを自ら明かにすること。
 4.犠牲となった人々のために慰霊碑を建てること。
 5.生存者や遺族たちに補償すること。
 6.こうした過ちを再び繰り返さないために歴史教育の中でこの事実を語り続けること。
という挺身隊問題対策協議会が出した6項目の早期実現を要求する署名運動を行い、5ヶ月で36、765名の署名と605の個人・団体の賛同人を得ることができた。92年3月28日には「朝鮮人従軍慰安婦問題早期解決を求める集い」を開催し、約400人が参加した。31日に「署名提出東京行動」を行い、日本政府と交渉した。同胞だけでなく、たくさんの日本人のグループや団体・個人との協力関係が生まれた。

■―91年12月11日、大韓教会婦人部と「金学順さんを囲む同胞女性の集い」開催。
 日本政府を相手に補償を求めて東京地裁に提訴するため、金学順さんが来日した。この時はじめて91年11月に関東で結成された「従軍慰安婦問題ウリヨソンネットワーク」(98年解散)と連動して東京、大阪で金学順さんの証言会を行った。各地で開かれた証言会に同行する等、「考える会」のメンバーが全力を上げて協力した。何度も証言するという緊張感の中、同胞女性たちに囲まれた時だけ、歌を歌って、くつろがれていた金学順さんの姿が今も目に焼き付いている。

■―92年2月8日、「突撃一番」は生きていた!オカモト糾弾2・8集会を開催。
 旧日本軍が「従軍慰安婦」と呼ばれた女性たちを集団強姦した際に使用されたコンドーム「突撃一番」と同じコピーが入った、コンドーム「ラバーマン」が販売されていたことが判明した。92年9月に発見した「性暴力を許さない女の会」から知らせを受け、すぐに抗議文をオカモトに送り、11月26日にはオカモトの大阪支社で「性暴力を許さない女の会」をはじめ、在阪の女性団体と一緒に話し合いを持った。あまりに誠意のない態度だったので、92年2月8日に糾弾集会を開催した。その後、満足できるものではないが、反省と商品の回収を行い、「突撃一番」の商標は廃止するという回答を得た。抗議活動を通じて、在阪の日本人女性たちのグループとの深い連帯活動が実現した。

■―93年10月27日~11月13日ノリペ・ハントウレ「声なき挽歌」上演会を開催。 
 「慰安婦」問題を劇にしたという韓国の新聞記事を見て、日本での上演会をしようということになった。この頃、元「慰安婦」の女性たちの生活は不安定で、92年10月に仏教人権委員会が中心になって、「ナヌメチップ(わかちあいの家)」(元「慰安婦」の女性たちが、集まって生活する家)が開院された。しかし、「ナヌチップ」も移転を余儀なくされ、先行きが不安だと聞いていた。劇団と話し合って、日本公演での収益金を「ナヌメチップ」建設基金にすることにした。亡くなられた、姜徳景さん、金順徳さん、朴頭理さんたちがいらっしゃった「ナヌメチップ」を訪問し、日本公演の報告をすると、とても熱い期待を寄せて下さった。
 公演は熊本、福岡、広島、松山、香川、今治、神戸、大阪、京都、名古屋、横浜、東京の13地域で15回公演が行われ、のべ5千人が観劇した。上演会を通じて知り合った、市民団体や同胞の人たちとはその後もずっと協力関係を持ち、活動を続けることができた。96年12月には、京畿道にある現在の「ナヌメチップ」にハルモニたちは居を構えられた。私たちの活動が新しい家の建設に少しでも、役立てたことが何よりうれしいことだった。

■―朝鮮人従軍慰安婦問題 資料集 三巻の発行。
 91年5月28日、ソウルで挺身隊問題対策協議会主催による「挺身隊問題に関する講演会と詩画展が開催され、韓国ではじめての講演会として注目を集めた。その時に発行された「挺身隊問題 資料集Ⅰ」の尹貞玉さんの「挺身隊、何が問題か」という講演録の翻訳と国内外の新聞記事をまとめたのが、資料集Ⅰである。(91年発行)
 資料集Ⅱでは91年8月24日の「朝鮮人従軍慰安婦問題を考える集い」でのユン貞玉さんの講演録、12月14日、奈良での金学順さんの証言録と金慧媛さんの講演録、奈良柳本慰安所調査記、10月14日(死亡推定日)に亡くなったぺ・ポンギさんの追悼式(12月6日)が那覇市内で行われ、金伊佐子が参加した報告、韓国と日本の新聞記事などを収録した。(91年1月31日発行)
 資料集Ⅲでは「補償を求める裁判闘争支援のために」ということで、92年3月29日、アムネスティ野路菊が神戸で開催した、ユン貞玉さんの講演録「朝鮮人従軍慰安婦~証言から明かにされた実態~」、91年12月8日、在日韓国青年連合主催集会、故・金敬得弁護士の講演録「補償問題とは」と韓国、日本の新聞記事などを収録した。(92年6月1日発行)
 92年8月11日・12日、ソウルで開催された「挺身隊問題アジア連帯会議」には韓国・在日・フィリピン・タイ・台湾・香港・日本の6カ国の女性たちが集まった。その報告集を同年、10月28日に「従軍慰安婦問題行動ネットワーク」として発刊した。

■―95年4月、ドキュメンタリービデオ「それでも生きた・クレドサラワッチ」制作。
 9人のメンバーが講演や演劇上演で、「慰安婦」問題を広範囲に知らせるには限界があると考え、中学生が理解できる教材ビデオを制作することにした。内容は第一部「歴史編」と第二部「現代編」の二本立て、全体で45分の長さの中に在日問題や女性問題も入れ込んだ。1994年1月からスタートしたビデオ制作は、シナリオづくり、編集と地味な作業が続いたが、8月には関釜フェリーで釜山に、鉄道でソウルに上がり撮影を行った。恵化洞のナヌメチップで行った、ハルモニたちのインタビューで胸がいっぱいになり、「水曜デモ」では胸が熱くなった。
 「水曜デモ」で映画「ナヌムの家」のピョン・ヨンヂュ監督と撮影がかち合い、お互いにエールを送り会った。彼女とはその後97年制作の「ナヌムの家Ⅱ」の日本での記者会見、98年のナヌムの家「日本軍従軍慰安婦記念館」の開館式、2000年の「全州映画祭」、同年11月には大阪女子大学で行われた講演会で、一緒になった。拙い韓国語で話してみると、最初の出会いから全てを記憶していて、驚いた。挨拶を交わしただけのことまで覚えていて、なんて人間観察の鋭い人かと感心させられた。
 ビデオは英語版もつくり、95年8月末から開催された「北京世界女性会議」でビデオの一部を上映し、宣伝活動を行った。その場で購入する人もいて、励まされた。中学校や高校、大学、小さな集まりから大きな集会まで、いろいろな所でビデオ上映が実現し、講演に呼ばれる私たちも大忙しだった。97年に出版された「中学生マジに近現代史」(ふきのとう書房)の著者で、当時、都立中学校教諭の増田都子さんから、ビデオを観た中学生たちの感想文が届いた。
 また、96年にはドキュメンタリービデオ、「イヂェプト 今から~世代を継いで生きる在日朝鮮人女性たち」40分を制作した。この時から「ミリネ」(朝鮮語で銀河)という新しいグループ名も使いはじめた。ビデオ「イヂェプト 今から」も女性センターや人権センター、夜間中学など日本各地で上映された。2000年には韓国全州映画祭に出品され、数年前には韓国の市民団体による在外同胞映画祭でも上映された。

■―その他の活動
 93年4月には「在日」の元「慰安婦」宋神道さんが日本政府へ提訴し、「在日の慰安婦裁判を支える会」が結成された。私たちも裁判支援のため、東京に行ったり、大阪に宋神道さんを招いたりした。94年3月に東京で開催された「女性の人権アジア法廷」に参加し、95年、日本政府による「女性のためのアジア平和国民基金」への反対運動と北京世界女性会議での発表を行った。96年3月には13団体、16個人の参加・賛同を得て「『国民基金』撤回を求める関西・女のネットワーク」発足集会を行った。98年にVAWW‐NETジャパン(戦争と女性への暴力日本ネットワーク、代表・松井やより)が結成され、2000年、12月には「日本軍性奴隷制を裁く女性国際戦犯法廷」が東京で開廷された。

■2013年6月8日「橋下市長の『慰安婦』・性暴力発言を許さず辞任を求める集会共催

■2016年6月「家族写真をめぐる私たちの歴史」刊行・ 2019年3月韓国でも翻訳版出版

■<現在とこれからの活動について>
 「考える会」の活動は、「『国民基金』撤回を求める関西・女のネットワーク」の中でその後も抗議集会や証言会、講演会と活動を続けてきた。しかし、「慰安婦」問題解決のための直接的な活動も限界になってきた。92年1月から99年10月の間で29号を発刊した朝鮮人従軍慰安婦問題を考えるニュース」を発展させ、2000年からは「在日」女性の視点を発信する「ミリネ通信」と名前を変え、「考えるニュース」から数え2019年11月まで97号を発行している。「ミリネ」とは朝鮮語で「銀河」という固有語である。点在する「在日」女性たちが元気に輝けるように、という思いでつけた。
 刷新した通信は「慰安婦」問題だけでなく、「女性・人権・教育・労働」と「在日」女性たちが直面する問題を取り上げている。また「韓国女性だより」として、韓国の新聞を翻訳し、その時々の情報を提供している。記事の内容は、ミリネ「考える会」が主催した講演会や学習会の報告をはじめ、「多文化共生教育や国際交流の取り組み」「民族教育」「康由美弁護士入居差別裁判」「アイヌ・被差別部落・沖縄の女性たちや、ネパール・インドのダリットの女性たちとの活動交流」(04年10月、報告集「マイノリティ女性のエンパワメント」を発刊)「グアテマラ先住民族女性たちの活動現場を訪ねた訪問記」「ハワイの『写真花嫁』となった韓国人女性」「性暴力事件」、私たちが企画した「『在日』の家族写真展」「映画案内と図書案内」等々、多岐に渡っている。ありがたいことに「考える会」結成当時からずっと購読してくれている会員をはじめ、現在も100人以上の人に通信を届けている。毎年、必ず購読料を振り込んでくれる人、出会った時に手渡してくれる人、新規購読者になってくれる人、そんな人たちの存在を感じるたびに、これからも主張のある面白い記事を発信していきたいと思う。

■「慰安婦」問題、教科書記述
 戦後補償・「慰安婦」問題の教科書記述は1995年使用の高校教科書に、1997年使用の中学校の全教科書に記述された。しかし、2001年、「慰安婦」問題を取り上げた教科書を「自虐史観」であると批判した、新しい歴史教科書を「作る会」の教科書が中学校教科書の検定に合格した。2002年には「慰安婦」問題を記述した教科書は3つ、2005年には2つ、2013年には全て消えている。
 再犯防止として、歴史教育の中でこの事実を語り続けることが困難になっている現状は2013年の「戦時下であれば、『慰安婦制度』が必要だった」橋本暴言、2015年12月の「日韓合意」、言論弾圧を繰り返す安倍政権と繋がっている。歪んだ「歴史認識」がどんどん、流布される状況下、女性をはじめ、外国人に対する排除と差別を助長する雰囲気が強くなっている。再度、良識ある日本人たちと共に、「歴史事実を認めない」「排除や差別を助長させる」ことで、得をするのは誰なのか、しっかりと考え、行動していきたい。

■実教出版の現代社会の教科書に「慰安婦問題」の記述が。
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鄭初美「強制連行・強制労働の事実を子どもたちにどう伝えるか」

2020年02月11日 | 海南島近現代史研究会
 以下は、2020年2月8日に開催した海南島近現代史研究会第25回定例研究会(主題:歴史認識と社会変革)での鄭初美(チョンチョミ)さんの報告(強制連行・強制労働の事実を子どもたちにどう伝えるか)の要旨です。
 次回の海南島近現代史研究会第14回総会・第26回定例研究会は、9月5日に開催します。

                       海南島近現代史研究会


■強制連行・強制労働の事実を子どもたちにどう伝えるか■         

1、大阪の民族学級
  ・1948年4・24阪神教育闘争の後、「覚書」民族学級(1950年~)
  ・「長橋小学校」から始まった民族学級(1972年)
  ・生野、東成地域「自主民族学級」(1980年前後)

2、運動による民族学級の継続、広がり
  ・民族教育促進協議会
  ・後任民族講師の措置
  ・大阪市、大阪府との交渉
  ・大阪市「民族クラブ技術指導者招聘事業」の予算化(1992年)

3、大阪市の民族学級の現状
  ・2018年度から「国際クラブ」という名称になる。
   ⇒子どもたちのアイデンティティー確立の場としての意義が認識されにくい。
  ・2018年道徳の教科化による人権教育への視点の欠如傾向。2020年度からの英語
   の時間数確保のため、民族学級の時間の確保が困難になる予想。

4、教科書採択の問題
  ・大阪市小学校社会(教育出版)
  ・大阪市中学校歴史(育鵬社)

5、取り組みの難しさ
  民族学級「国際クラブ」は年間30時間~35時間程度で、殆どは複数学年合同授業を行う。
  友渕小学校では現在1.2年と3.4.5.6年の2クラスに分かれて授業を行う。このような状況から、歴史の授業は時間数にすれば極わずかしかとれない。
  また、学級でほとんど強制連行の事実を学ぶことがなく、民族学級(国際クラブ)での授業に異議を唱える保護者も存在するため、教職員も授業内容に対して過敏になる傾向がある。

6、教材の選択・作成
  ・自主教材の作成
  ・観点―歴史的事実そのものを伝えるのではなく、出来事の中で歴史的事実を知る。
  ・授業の中で子どもたちの様子
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五十嵐彰「文化財返還問題について考える」

2020年02月10日 | 海南島近現代史研究会
 以下は、一昨日(2020年2月8日)開催した海南島近現代史研究会第25回定例研究会(主題:歴史認識と社会変革)での五十嵐彰さんの報告(文化財返還問題について考える)の要旨です。
 次回の海南島近現代史研究会第14回総会・第26回定例研究会は、9月5日に開催します。

                       海南島近現代史研究会

■文化財返還問題について考える■
 1.エキゾチック
     開城 恭慇王陵 石羊 小倉コレクション 漆塗十二角盆 龍鳳紋兜
 2.戦利品
     北洋艦隊 鎮遠 捕獲品 御府 振天府 日の丸 中国人民抗日戦争紀念館
    佐野美術館 神道碑 大倉集古館 資善堂 高徳院 観月堂
 3.奪ってきた<もの>と遺してきた<もの>
     東洋拓殖株式会社釜山支店 関東軍司令部 「八紘一宇」塔
     頂上の巨岩に刻まれた「占領・井上部隊」という文字
 4.エシカル
     リサイクル フェアトレード ISO26000 SDGs CSRからSR 
     アイヌ民族に関する研究倫理指針 現地優先権

*1:中内 康夫2011「日韓間の文化財引渡しの経緯と日韓図書協定の成立」『立法と調査』第319号:22.「…国会審議の中では、相互の文化交流・文化協力という協定の趣旨からすれば、日本側が一方的に図書を引き渡すのではなく、韓国にある日本由来の貴重な図書の日本への引渡しを求めるべきであるとの主張が繰り返された。これに対し松本外務大臣は、日韓図書協定は日本が統治していた期間に朝鮮総督府を経由してもたらされた図書に限定してそれらの引渡しを行うことを定めたものであり、その意味において、韓国国内に存在する図書の問題はこれと同列に論じられるべきものではなく、別途検討される性質の話しであるとの認識を示した。」
*2:先住民族の権利に関する国際連合宣言 (2007年9月採択)
 第11条-1 先住民族は、その文化的伝統および慣習を実践し、再活性化させる権利を有する。この権利には、過去・現在・未来にわたる先住民族の文化的表現(例えば、考古学的歴史的遺跡、工芸品、デザイン、儀式、技術、視覚的芸術、舞台芸術、文学)を維持し保護し発展させる権利を含む。
 第11条-2 国は、先住民族の自由で事前の情報に基づく同意なしに、又は先住民族の法・伝統および慣習に反して奪われた文化的、知的、宗教的および精神的財産に関して、当該先住民族と連携して設けた効果的な仕組み(原状回復を含む)を通じた救済を行なう。


※五十嵐彰さんには、2008年8月3日に開催した海南島近現代史研究会の第2回総会・第2回定例研究会で報告してもらいました。
 海南島近現代史研究会第2回総会・第2回定例研究会の内容はつぎのとおりでした。

■1年間の会の活動報告
■あいさつ 王建成(海南省民族学会副会長)
■研究報告Ⅰ
 金山「社会転型期的黎族伝統文化(社会転形期における黎族の伝統文化)
 海南島の先住民族である黎族の伝統文化は、改革開放後、とくに中国最大の経済特区である海南省が設立されたあと、大きく変貌しています。年中行事、伝統宗教、生活文化という三つの角度から、その変化を考察します。
■海南島近現代史研究会制作『海南島 2007年秋』、『海南島 2008年春』、『月塘三・廿一惨案紀念碑掲碑儀式』上映
■研究報告Ⅱ
 五十嵐彰「「日本考古学」と海南島」
 ある文化を認識するには、一定の時間(時代)を区切らざるを得ないと同時に、一定の空間(地理的範囲)を区切らざるを得ません。ある時間的空間的範囲を区切るためには、区切られた内部の均質性と外部との異質性が成立要件として求められます。「日本考古学」が区切っている時間的空間的範囲のいびつさ・歪みを、海南島という定点から検討します。
■研究報告Ⅲ
 水野明「海南海軍特務部編『海南島三省連絡会議決議事項抄録』について」
 1939年2月の海南島侵略直後から海南島の「政務」をおこなった三省(日本外務省、日本海軍省、日本陸軍省)連絡会議は、1942年11月に廃止され、以後、海南海軍特務部(前、第5艦隊情報部)が、海南島を政治支配しました。海南島三省連絡会議にかんする極秘文書を解析します。
■質疑・討論 参加者の発言・討論
■こんごの研究主題・研究課題
■月塘村全村民の日本政府に対する要求について
■日本軍の海南島奇襲攻撃70年後(2009年2月)に
■「会則」改定  


※以下は、五十嵐彰さんのブログ「第2考古学」に2020年1月31日に掲載された記事です。

https://2nd-archaeology.blog.ss-blog.jp/2020-01-31
■海南島近現代史研究会 第25回定例研究会、そして「アイヌ民族と博物館」[研究集会]■
海南島近現代史研究会 第25回定例研究会(予告)
日時:2020年 2月 8日(土)13時10分~17時
場所:国労大阪会館 1階ホール(大阪環状線 天満駅 徒歩5分)
主催:海南島近現代史研究会
主題:歴史認識と社会変革
・アジア大平洋における日本の国家犯罪 -アジア大平洋民衆の抗日反日闘争-(佐藤 正人)
・文化財返還問題について考える(五十嵐 彰)
・強制連行・強制労働の事実を子どもたちにどう伝えるか(鄭 初美)
・軍隊性奴隷の事実を子どもたちにどう伝えるか(皇甫 康子)
・植民地朝鮮における歴史認識と分断国家朝鮮における社会変革(金 靜美)
・討論:他地域・他国を侵略した国家犯罪、他地域・他国を植民地化した国家犯罪を認識しようとしない日本国家の政治・社会・文化・経済状況を解析し、民衆の歴史認識の方法を探求し、社会変革の具体的な道すじを討論の中で少しでも明らかにしていきたいと思います。

 私の発表では、エキゾチック-戦利品-エシカル-社会的責任をキーワードに現在考えていることをお話しいたします。大阪近辺にお住まいの方で文化財返還問題に関心のある方は、是非ご参加ください。皆さんのご意見をお聞かせください。

アイヌ民族と博物館 -文化人類学からの問いかけ- 日本文化人類学会 公開シンポジウム(報告)
日時:2020年1月26日(日)13時~17時30分
場所:法政大学 市ヶ谷キャンパス 富士見ゲートG401教室
主催:日本文化人類学会
共催:法政大学国際日本学研究所、日本人類学会、日本考古学協会、北海道アイヌ協会
後援:文部科学省
・アイヌ工芸における博物館の役割(山崎 孝治)
・研究成果の還元と博物館活動 -収蔵資料のデータベース化を中心に-(斎藤 玲子)
・いま、世界の博物館で起こっていること -資料の管理と展示、その返還-(出利葉 浩司)
コメント(佐藤 宏之、篠田 謙一、阿部 一司、佐藤 幸雄)

 前半2時間は発表3本(司会:太田 好信)、休憩後の後半2時間はコメントと討論(司会:窪田 幸子)だったが、後半の司会者が最後にいみじくも述べていたように、ここまで白熱・緊迫した討論も近年珍しいのではないか。
 ラウンドテーブルを契機とした「研究成果の促進と公開」を目的とした研究集会も4回目となるが、こうした新たな状況の出現は、昨年からラウンドテーブルに参加した文化人類学会の主催だからなのか、公開を目前に控えた象徴空間あるいは研究倫理指針といった状況の故なのか。

 討論の場で鋭く問われたのは、いったい何のために研究しているのか、という学問の根本的な問題である。
 そうした問いに対して、当時の入手方法が全て遺法とは思わないといった論点を回避する応答、ある意味で開き直りの対応がなされていた。まず当事者としては、「遺骨を今まで放置してきた責任を、あなたはいったいどのように考えているのか」という問いかけに対する自分なりの応答ではないのか。このことは、すでに4年前に明確に指摘されていたはずである。

 糾弾された側の応答としては、最後の「閉会のご挨拶」において、現在の見方で過去は裁けないといったよく聞く論法も示されたが、これが2020年のことなのか、ほとほと呆れるばかりである。問われているのは、「研究倫理」なのである。
 同じ人類学の名称を頂く「文化」と「形質」の研究者の間で、「火花が散る」場面も目にした。
 本件を巡っては、こうした「バトル」の<場>が無さ過ぎた。
 アメリカでもオーストラリアでも、こうした修羅場をいくつも潜り抜けて、今があるのではないか。

 糾弾された側は、「研究対象となる個人や社会の権利は、科学的及び社会的成果よりも優先されなければならず、いかなる研究も先住民族であるアイヌ民族の人間としての尊厳や権利を犯してはならない」という「研究倫理指針(案)」の文言を今一度心に刻むべきであろう。
コメント

アジア太平洋における日本の国家犯罪・アジア太平洋民衆の抗日反日闘争

2020年02月09日 | 海南島近現代史研究会
 以下は、きのう(2020年2月8日)開催した海南島近現代史研究会第25回定例研究会(主題:歴史認識と社会変革)での佐藤正人の報告(アジア太平洋における日本の国家犯罪・アジア太平洋民衆の抗日反日闘争)の要旨です。
 次回の海南島近現代史研究会第14回総会・第26回定例研究会は、9月5日に開催します。

                       海南島近現代史研究会

■アジア太平洋における日本の国家犯罪・アジア太平洋民衆の抗日反日闘争■
                           佐藤正人
☸Ⅰ 民衆の歴史研究、民衆の歴史認識、民衆の歴史思想
■歴史認識の手段としての歴史研究
  民衆の歴史研究の方法。
  事実を知ること。事実について考えること。
  歴史学・考古学(考現学)・経済学・法律学、哲学、認識学、宗教学、自然科学(数学、天文学、生物学、物理学、化学……)。
  社会科学としての歴史学・考古学。実証を基礎とする歴史認識。
  
  海南島近現代史研究会の歴史研究の方法。
  民衆史=民衆の歴史・民衆の歴史研究。
  日本の国家犯罪を総体として認識し伝達する方法。
  国民国家日本の海南島における侵略犯罪を総体として認識する方法。
  「現地調査」(侵略と植民地支配の事実究明、抗日反日闘争史探求の調査)。必然的な偶然の出会い。

  被害者・目撃者からの聞きとり(死者からは、聞きとりできない)。証言を聞く者のありかた。
  加害者からの聞きとり。犯罪の「記憶」。犯罪者の沈黙・証言(告白)拒否。沈黙のままの自然死。
  聞きとって、どうするのか 。
      侵略犯罪の解明 → 責任追及(犯罪の責任・犯罪を隠しつづけてきた責任)→ 国家
     謝罪・国家賠償、責任者(最悪の犯罪者ヒロヒトら)処罰。アジア太平洋に侵入し
     た日本企業の過去と現在の侵略犯罪解明・責任追及。

■歴史認識の主体  歴史の主体
  歴史認識は認識者の道徳・価値観、想像力、生き方(生活)に規定される。
  認識者の道徳・価値観、想像力、生き方(生活)は、認識者の歴史認識に規定される。
  歴史意識。歴史思想。歴史観。

■歴史認識における遠近法
  核心的な事実はなにか。事実の核心はなにか。
  一つの歴史事実に世界史が内包されている。細部が全体を構成している。
  諸事実の諸関係のなかで、個々の事実を解明できる。
  認識主体のありかたと思想によって事実の内容が規定される。
  事実の内容は、その事実を示すコトバに表現されている(同じコトバが対立する思想を示している場合もある)。
    ※壬辰丁酉戦争、壬辰戦争、「文禄・慶長の役」、「朝鮮征伐」(『広辞苑』1973年
     8月15日第2叛第7版)。
    ※三・一独立運動、「万歳事件」。
    ※アジア太平洋戦争、太平洋戦争、Pacific War、「大東亜戦争」(1941年12月12日、
     東條内閣「閣議決定」。「大東亞新秩序建設を目的とする戰爭」)、「太平洋・大
     東亜戦争」。
    ※「平和」をかかげる戦争法(「平和安全法制整備法」+「国際平和支援法」)公布
     (2015年9月30日)・施行(2016年3月29日)。
    ※地名。 オキナワ。ウルマネシア。琉球弧。琉球。琉球・八重山。ウチナァ。ウチ
     ナーチン。沖縄県。
    ※強制連行。強制労働。   被強虜赴日。 「特殊工人」。
    ※「従軍慰安婦」。「慰安婦」。「日本軍性奴隷」。「日本軍隊性奴隷」。
      韓国挺身隊問題対策協議会(挺対協 한국정신대문제대책협의회)。
      日本軍性奴隷制問題解決のための正義記憶連帯(正義連。일본군성노예제문제
      해결을위한정의기억연대)。
    ※アイヌ。「旧土人」。
     イヌイット。イヌビアック。ユッピック。カラーリット。イト。「エスキモー」。
 
  普遍的な道徳・価値観はあるのか。被侵略者の道徳・価値観と侵略者の道徳・価値は同じではない。

■社会変革の実践としての客観的な歴史認識
  客観的な歴史認識とは?
  客観的な歴史認識=主体的歴史認識。
  主体形成の過程での客観的な歴史認識。
  史実は証拠に基づいて解明される。
  証拠:文書(記録、)、もの(遺物、遺構、遺跡、遺骨……、碑)、伝承、証言、絵画・映像・音・声。
      ※碑 アイヌモシリ江別市対雁に、「樺太移住旧土人先祖之墓」建立(1931年
       8月、津山仁蔵建之)。
       海南島楽会県(瓊海市)に、「互助郷坡村長仙三古南橋雅昌佳文風嶺吉嶺官園
       等村抗戦死難民難民衆公墓」建設(1947年7月)。
       シンガポールに、「日本佔领时期死难人民纪念碑(The Memorial to the Civilian
       Victims of the Japanese Occupation。日本占領時期死難人民記念碑)」建立(1967年2月15日)。
       海南島万寧市月塘村で、犠牲者すべての名を刻んだ「月塘三・廿一惨案紀念
       碑」除幕(2008年4月26日、農暦3月21日)。
       日本三重県熊野市紀和町で、紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する碑除幕
       (2010年3月28日)。
       海南島東方市四更鎮旦場村で、「旦場抗日遇難同胞紀念碑」除幕(2015年3月
       19日)。

■客観的な歴史認識は社会変革の過程で形成され、社会変革の力は客観的な歴史認識によって強化される

☸2 民衆史、地域史、世界史
■民衆史とは
  民衆の歴史。  民衆の認識する歴史。  民衆が追求する歴史。
  歴史認識深化の過程は、絶えざる歴史意識変革の過程。

■地域史と世界史
  地域(日常の生活空間……国家……アジア太平洋……世界)
  諸地域・諸国家の近現代史は、世界近現代史に規定され、世界近現代史を規定してきた。
  侵略諸国家・諸民族の侵略の世界史は、被侵略諸国家・諸民族の抵抗の世界史。

☸3 アジア太平洋における国民国家日本の国家犯罪
  1869年9月 アイヌモシリ領土化(アイヌモシリの一部を「北海道」と名づける)。
  1872年10月 琉球王国植民地化(琉球王国併合、「琉球処分」、琉球王国→琉球藩)。
  1874年5月 日本陸海軍台湾侵入(「台湾蕃地処分」)。         「雲揚」使用
  1875年9月 日本小型砲艦「雲揚」、朝鮮の首都に近い江華島海域に侵入。
  1876年2月 朝日修好条規(조일수호 조약。江華島条約)調印・発効。
  1877年3月「竹島外一島之義本邦関係無之義ト可相心得事」とする太政官指令。
  1879年4月 琉球王国を日本領土とし「琉球藩」を「沖縄県」と名づける(第2次「琉球処分」)。
  1895年? 八重山地域領土化。
  1895年 台湾、澎湖列島、遼東半島植民地化。
  1905年 独島領土化・大韓帝国植民地化。
  1905年 遼東半島(「関東州」)植民地化。
  1910年8月 「韓国併合」。   1910年5月~ 幸徳秋水ら逮捕(1911年1月処刑)。
  1914年 「南洋群島」領土化。
  1931年9月 日本軍(「関東軍」)中国東北部・モンゴル東南部侵略開始。
  1932年3月 日本政府、「満州国」作成。  1933年2月29日 小林多喜二虐殺。
  1939年~41年 蒙古聯合自治政府。→ 1941年~45年 蒙古自治邦政府。
  1939年~45年 海南島植民地化。

☸4 アジア太平洋民衆の抗日反日闘争
■前史
  アイヌモシリで(1457年~58年:コシャマインらの闘い。1669年~72年:シャクシャインらの闘い)。
  朝鮮で(1592年~1593年 壬辰戦争。1597年~1598年、丁酉戦争)。
■国民国家日本形成後
  台湾、朝鮮、シベリア、中国東北部、モンゴル、中国、ホンコン、シンガポール、フィリピン、インドネシア(オランダ領東インド。Dutch East Indies。蘭領東印度。蘭印)、タイ、ベトナム・カンボジア・ラオス(フランス領インドシナ。仏印)、マレーシア、ビルマ、海南島、ウルマネシア。

  1900年~1901年 義和団戦争。1906年~1914年 朝鮮独立戦争。1918年~1922年 シベリア戦争。1919年 3・1独立運動。1919年 5・4運動。1920年 青山里戦闘。1940年8月~12月 百団大戦。1942年2月~1945年8月 フクバラハップ抗日戦争。1944年6月~9月 拉孟・騰越戦闘。

☸5 民族・国家
■民族と国家
  中華民族、中華民国五族(漢・満・蒙・回・蔵。五族共和)、満州五族(和・韓・満・蒙・漢。語族協和)。
  国民、「臣民」、「皇民」、人民。  
  庶民、民衆、大衆、ピープル、マルチチュード、市民(シティズン、シトワイヤン)。
  民族。先住民族。少数民族。多数民族。国民。    国民国家。単一民族国家は実在しない。
  侵略国家、国民国家、民族国家。
  国家。国民。社会。   日本社会。
  国家。大地・海。

  アイヌ。ウチナンチュー。朝鮮人。韓国人。韓国・朝鮮人。中国人。チベット人。インド人。ネパール人。ブータン人。日本人。インドネシア人。アラブ人。シンガポール人。ノルウェー人。デンマーク人、イギリス人。イスラエル人。ユダヤ人。アメリカ人。メキシコ人。ブラジル人。

  侵略思想としてのナショナリズム・反侵略思想としてのナショナリズム。

☸6 歴史認識は、現在を認識すること
  過去を知り、いまを生き、未来を思う

☸補 
  15世紀末いらい、スペイン、ポルトガル、オランダ、イングランド、フランス、ベルギ―、ドイツ、アメリカ合州国、ロシア……は、世界各地で文化財を含む大量の財(資源、労働力)を強奪した。 
  19世紀後半から国民国家日本もその強奪をくりかえしてきた。

■文化財返還問題 ⊂ 略奪物返還問題
  文化財返還問題は侵略国家が他地域他国から略奪した財の返還問題の一環。
  遺骨の「返還問題」は、極度に重大な「返還問題」である。
  アイヌ、奄美人、沖縄人の遺骨を「研究」のために盗み、奪い続けてきたのは、児玉作左衛門、山崎春雄、金関丈生、小金井良精……ら日本の「アカデミズム」の者たち。⇔東大、京大、北大、サッポロ医科大、大阪大……。
  小金井良精らがオタルで奪ったアイヌの遺骨20体は、1888年以後、東大、北大、新潟大、サッポロ医大が奪い続けている。この遺骨は、2020年4月24日に白老に開設される「ウポポイ(民族共生象徴空間)」に移されようとしている。

■2018年10月30日~   韓国大法院判決
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海南岛近现代史研究会 第25次定期研究会

2020年01月17日 | 海南島近現代史研究会
■海南岛近现代史研究会 第25次定期研究会■
  1939年2月,日本政府・日本军队开始侵略海南岛,几个月后,日本企业入侵了海南岛。
  在开始侵略海南岛的70年前,1869年日本新政府将阿伊努莫西里沦为自己的殖民地,3年后的1872年又将琉球王国沦为殖民地。其后,国民国家日本在亚洲太平洋各地,争夺土地和海洋,破坏他们的故乡,剥夺人命,掠夺资源,破坏文化,剥夺语言,强行带走民众,将民众沦为性奴隶。
  日本政府并没有正确详细地认识自己国家犯罪的历史,没有对侵略犯罪道歉,没有公开表明应承担的责任,没有做任何的赔偿。
  现在,在历史认识相关的报道方面,让人觉得是日本和韩国这两个国家民众之间的对立宣传报道,由帮助日本政府,日本企业的隐藏侵略犯罪的日本媒体在推进。
  隐藏和否认在亚洲各地将女性作为日本陆海军,日本政府组织的军队性奴隶的历史事实是日本政府,日本的民族主义者。强行将朝鲜,中国的民众带走,强制他们劳动的是日本政府,日本企业。
  国民国家日本的侵略犯罪相关的各种问题,不是国家之间的问题,而是社会正义的问题,特别是具备历史责任感的国家的国民克服民族主义需面临的问题。
  国民国家日本的历史是侵略其他地域其他国家的历史,其国家的构造至今没有改变。
  我们认为客观的历史认识如果不与社会变革联系在一起就不能成立,社会变革的力量因客观的历史认识而强化。
  我们希望大家共同来讨论作为社会变革的实践一环的历史认识。

    时间:2020年2月8日(星期六)13时10分~17时(12时30分开场)
    地点:国劳大阪会馆 1楼大厅   
               从JR天满站出口往右拐(樱之宫站方向)200米 
    参加费,资料费:500日元(会员免费)

主题: 历史认识和社会变革
■报告 日本在亚洲太平洋的国家犯罪,亚洲太平洋民众的抗日反日斗争   佐藤正人 
■报告 考察关于文化遗产返还的问题                  五十嵐彰
■报告 如何向孩子们讲述被强行带走被强迫劳动的事实          郑初美
■报告 如何向孩子们讲述军队性奴隶的事实               皇甫康子
■报告 在殖民地朝鲜的历史认识与在分断国家朝鲜的社会变革       金静美
■讨论 不承认侵略其他地域其他国家的国家犯罪,不承认将其他地域其他国家沦为殖民地的国家犯罪,我们希望解析这样的日本国家的政治・社会・文化・经济状况,探究民众的历史认识方法,希望通过讨论能阐明一丝社会变革的具体里程。
■关于2020年3月进行的海南岛近现代史第21次(第34次)海南岛「现地调查」
               海南岛近现代史研究会  http://www.hainanshi.org/
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海南島近現代史研究会第25回定例研究会

2020年01月05日 | 海南島近現代史研究会
 2月8日に、海南島近現代史研究会の25回目の定例研究会を開きます。
 主題は、「歴史認識と社会変革」です。
 みなさんの参加を待っています。
                    海南島近現代史研究会

■海南島近現代史研究会第25回定例研究会■
 日本政府・日本軍が海南島侵略を開始した1939年2月の数か月後に日本企業は海南島に侵入しました。
 海南島侵略開始70年前、1869年に日本新政府は、アイヌモシリを領土化し、その3年後、1872年に琉球王国を領土化しました。その後、国民国家日本は、アジア太平洋の各地で、大地と海を奪い、故郷を破壊し、命を奪い、資源を奪い、文化を破壊し、コトバを奪い、民衆を強制連行し、民衆を性奴隷にしました。
 日本政府は、その国家犯罪の歴史を正確・詳細に認識しようとせず、侵略犯罪を謝罪しようとせず、責任の所在を明らかにしようとせず、まともに賠償しようとしていません。
 いま、歴史認識にかかわって、あたかも日本と韓国の民衆が対立しているかのような宣伝が、日本政府、日本企業の侵略犯罪隠蔽に協力している日本のマスメディアなどによって進められています。
 アジア各地で女性を日本陸海軍、日本政府が組織的に“軍隊性奴隷”とした歴史的事実を隠蔽・否認しているのは、日本政府、日本ナショナリストです。朝鮮や中国から住民を強制連行し強制労働させたのは、日本政府、日本企業でした。
 国民国家日本の侵略犯罪にかかわる諸問題は、国家間の問題ではなく社会正義の問題であり、とくに歴史的責任を有する国家の国民がナショナリズムを克服することが問われている問題です。
 国民国家日本の歴史は他地域他国侵略の歴史であり、その国家の構造は、現在も変わっていません。
 客観的な歴史認識は社会変革とむすびつかなければ成り立たず、社会変革の力は客観的な歴史認識によって強化されるのだと思います。
 社会変革の実践としての歴史認識について、ともに話しあいたいと思います。

と き:2020年2月8日(土)13時10分~17時(開場12時30分)
ところ:国労大阪会館 1階ホール   
      JR天満駅改札口を出て右へ(桜ノ宮駅方向へ)200メートル           
参加費:500円(会員は無料です)

主題:歴史認識と社会変革
■報告 アジア太平洋における日本の国家犯罪・アジア太平洋民衆の
   抗日反日闘争                     佐藤正人
■報告 文化財返還問題について考える
                              五十嵐彰                                      
■報告 強制連行・強制労働の事実を子どもたちにどう伝えるか 
                              鄭初美
■報告 軍隊性奴隷の事実を子どもたちにどう伝えるか  
                              皇甫康子
■報告 植民地朝鮮における歴史認識と分断国家朝鮮における社会変革    
                              金靜美                      
■討論 他地域他国を侵略した国家犯罪・他地域他国を植民地化した国家犯罪
   を認識しようとしない日本国家の政治・社会・文化・経済状況を解析し、
   民衆の歴史認識の方法を探求し、社会変革の具体的な道すじを、討論の
   なかですこしでも明らかにしていきたいと思います。
■2020年3月の海南島近現代史研究会の21回目(34回目)の海南島「現地調査」
について
          海南島近現代史研究会 http://www.hainanshi.org/
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ピースおおさか改悪再開館に対する裁判 勝訴確定

2019年08月28日 | 海南島近現代史研究会
 以下は、2019年8月24日に開催した海南島近現代史研究会第13回総会・第24回定例研究会での竹本昇の報告(ピースおおさか改悪再開館に対する裁判 勝訴確定)の要旨です。
                     海南島近現代史研究会

■ピースおおさか改悪再開館に対する裁判 勝訴確定■
 ピースおおさか改悪再開館に対する裁判は、2019年5月24日に最高裁が上告を棄却し、大阪高裁の判決が確定しました。
 大阪高裁の判決は、大阪府と大阪市がピースおおさか改悪再開館についての情報を原告に非公開にしたことを違法と認定し、大阪府と大阪市に賠償を命じるものでした。
 ピースおおさかは、1991年9月に「1945年8月15日に至る15年戦争において、戦場となった中国をはじめアジア・太平洋地域の人々、また植民地下の朝鮮・台湾の人々にも多大な危害を与えたことを、私たちは忘れません」を設置理念として、大阪城内の一角に開設されました。しかし、2011年に大阪府・市議会で第1党となった大阪維新の会の府議らが議会でピースおおさかの展示物にたいして「偏向した展示物が多すぎる」と追及し、松井一郎前知事(現大阪市長)と橋下徹大阪市長(当時)が、植民地支配・侵略戦争の実相を隠すために展示内容の企画に不当な干渉をして、加害の展示物を一切撤去させてしまいました。
 私は、ピースおおさか改悪再開館について情報の公開請求を(公財)ピースおおさか・大阪府・大阪市に行いましたが公開を拒否されました。市民に情報を公開せず、戦争の加害の事実を示す展示物を撤去したことを容認できませんでしたので、(公財)ピースおおさか・大阪府・大阪市の3者を相手にしてそれぞれ、損害賠償請求の裁判を起こしました。その結果、(公財)ピースおおさかの裁判は敗訴したものの、大阪府・大阪市の裁判は勝訴しました。その内容は次のとおりです。

◆1 改悪再開館と裁判の経過
(一)裁判に至るまで
  2013年4月 ピースおおさかが「リニューアル構想」を発表
         (「リニューアル構想」発表以後、個人・市民団体から意見がピースおおさかに寄せられ、93件中72件が「設置理念の尊重」、「加害展示撤去に反対」の意見でした。)
  2015年1月 原告が、(公財)ピースおおさか・大阪府・大阪市に対して、改悪再開館について文書の情報公開を請求
       2月 (公財)ピースおおさか・大阪府・大阪市・が、原告に対して情報公開を拒否
       2月~3月 原告が、(公財)ピースおおさか・大阪府・大阪市・の情報公開審査会に対する異議申し立てを行ったが、3者は情報公開審査会に諮問しなかった。 
       4月 戦争加害を示す写真パネルを撤去しただけではなく、広島・長崎の被爆など戦争被害を示す写真パネルなどを撤去、さらに、今までの空襲体験者の絵画は通路などに移されて10数点のみの展示となったピースおおさかとして改悪再開館された。
(二)裁判の経過
 (1)(公財)ピースおおさかを訴えた裁判
  2015年8月 4日  訴訟提起(大阪地裁)
  2017年6月15日  判決(原告、敗訴)
       6月26日  原告、控訴(大阪高裁)
  2018年2月16日  判決(控訴人、敗訴)
       3月 1日  (控訴人、上告)
  2019年5月24日  最高裁上告棄却決定(大阪高裁の判決が確定
 (2)大阪府を訴えた裁判
  2015年8月11日  訴訟提起(大阪地裁)
  2016年12月8日  判決(原告敗訴・大阪府の異議申立てについての条例違反のみ認める)
       12月8日  原告、即日控訴(大阪高裁)
  2017年11月30日 判決(控訴人、勝訴)
       12月14日 大阪府、上告
  2019年5月24日  最高裁上告棄却決定(大阪高裁の判決が確定)
 (3)大阪市を訴えた裁判
  2015年8月14日  訴訟提起(大阪地裁)
  2016年12月8日  判決(原告敗訴・大阪市の異議申立てについての条例違反のみ認める)
       12月8日  原告、即日控訴(大阪高裁)
  2017年9月1日   判決(控訴人、勝訴)
       9月14日  大阪市、上告
  2019年5月24日  最高裁上告棄却決定(大阪高裁の判決が確定)

◆2、裁判で明らかになったこと
(一)公開しなかった理由は市民の意見を無視するため
 情報を非公開にした理由は、市民の要望を無視したことが明らかになることを隠すためであったことが次の元ピースおおさか館長の証言(相手方から出された陳述書)で明らかになりました。
 (大阪高裁口頭弁論 2017年6月20日付け被控訴人提出の書証乙第48号陳述書(岡田重信元ピースおおさか館長)
「大阪府知事が、リニューアルオープン前に、展示の詳細な内容にかかわる当該資料について情報公開に応じていれば、各種団体の意見、要望、提案がリニューアル後の展示内容にほとんど反映されていないことが明らかになります。」
(二)松井一郎前大阪府知事と橋下徹元大阪市長の不当な干渉について
(1)相手方が裁判所に出した証拠書類
 〇2013年12月1日 『毎日新聞』
  ■同館は、松井一郎知事が「自虐的な部分があった」として、リニューアルを指示
 〇2014年10月11日、『産経新聞』)
  ■「南京事件」ナレーション原案をめぐる経緯
  ピースが原策作成→大阪府が教科書どおりの記述を要請→ピースが原案変更→橋下・松井が干渉
  ■橋下氏が「財団の定款から逸脱している」と表情をこわばらせたのだ。
  ■財団や府・市の担当者「これでダメだと言われると非常に難しい」。財団や府・市の担当者は橋下氏の反応に口をそろえる。
  ■松井一郎知事も異議を唱えた。「(通州事件に比べて)感情的に誘導されるような表現になっている」
  ■府市と財団では展示内容について「府内の中学校で広く使われている教科書に準拠する」と決めていた。
 〇2015年5月1日『朝日新聞』
  ■大阪維新の会の府議が議会で「変更した展示物が多すぎる」と追及。    
  ■橋下徹前知事が、「展示内容が不適切となれば、廃館も考える」と議会答弁。
  ■ピースおおさかの関係者は「施設を存続させるには従来の加害展示をなくすしかなかった」
(2)原告側が裁判所に出した証拠書類
 〇ピースおおさかの展示・イベントなどの事実上の責任者であった元専門職員(学芸員)の意見書
  ■「2008年に大阪府知事となった橋下徹という人は、そのような為政者の姿勢(為政者なら本来持っているべき“文化に対する姿勢”)、には全く無頓着であり、自らの政治的強権により大阪府の出資法人(ピースおおさかもその一つです)を支配し、2012年に大阪市長となってからは、私を中心に部内で作りつつあったピースおおさかのリニューアル案を突然、一方的に中止させ、いわゆる加害展示の撤去というプランを押し付けてきたのです。その過程は、まさに有無を言わさない、独裁的なものでした。

◆3 裁判の判決の内容
 (公財)ピースおおさか・大阪府・大阪市が裁判所に提出した証拠書類は、大阪府知事と大阪市長の展示内容に不当な干渉したことを証明するものでした。ところが、大阪府は裁判において、ピースおおさかの展示内容に不当に干渉してはならないと主張し、裁判所もこれを認めました。そのことを判決文には次のとおり明記されており、今回の改悪再開館が正当性のないことを表しています。
〇大阪府の裁判 大阪高等裁判所・判決文(2017年11月30日)
 ■大阪府の主張
  ◇「本件センターは、被控訴人と大阪市の出資による法人であるが、被控訴人とは別の独立した法人であるから、被控訴人はその自立的な運営等に十分な配慮をしなければならない(甲17 大阪府の出資法人等への関与事項等を定める条例3条)」(11ぺージ)
  ◇「展示内容の選択や展示前に展示内容をどの程度明らかにするかについては本件センターに裁量権があり、そのこと自体が本件センターの正当な利益に該当するから、本件文書を開示することは、上記裁量権を害し、被控訴人が不当な干渉をすることになる。」(11ページ~12ページ)
 ■裁判所の認定 
  ◇「キ 被控訴人は,展示内容の選択や展示前に展示内容をどの程度明らかにするかについて,本件センターに裁量権があり,そのこと自体が,本件センターの正当な利益に該当すると主張する。しかし,本件センターに上記のような裁量権を肯定する余地があるとしても,それが本件センターの正当な利益として保護されるためには,本件文書を公開しないことが本件センターの正当な裁量権の行使として是認されることを要すると解すべきである。しかるところ,本件文書に記録された情報の性質や本件センターの高い公共的性格など前記説示に係る諸事情に鑑みると,これを公開することにより害されると被控訴人が主張立証する本件センターの利益の性質及びその内容,程度等を考慮しても,本件文書を公開しないことが本件センターの正当な裁量権の行使として是認されるものとは解されない。 」(26ページ)


※2019年5月24日に大阪府・大阪市の敗訴が確定しました。そのことについてのマスメディアの報道は、このブログ2019年5月28の「「ピースおおさか」戦争展示巡る文書非公開 府と市の敗訴確定」をみてください。
  https://blog.goo.ne.jp/kisyuhankukhainan/e/70534cfb9e8efe7f9cc9e8cf6d927c24
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証言から学ぶ海南島の抗日闘争

2019年08月27日 | 海南島近現代史研究会
 以下は、2019年8月24日に開催した海南島近現代史研究会第13回総会・第24回定例研究会(主題:侵略戦争⇔抗日戦争、植民地支配⇔抗日反日闘争)での斉藤日出治の報告(証言から学ぶ海南島の抗日闘争)の要旨です。

                         海南島近現代史研究会

■証言から学ぶ海南島の抗日闘争■
                                
■はじめに
 海南島における日本の侵略犯罪の調査活動を通して、わたしたちはこの侵略に抗する島民の抗日戦争・抗日反日闘争についても、多くの証言を聴きました。その証言が語り出すものを自分なりに整理してみました。

■一 日本による海南島の軍事占領と抗日闘争
 1 日本は何のために海南島を軍事占領したのか
 一九三九年二月一〇日、日本はこの「南進」政策のための軍事的拠点とすべく海南島を占領しました。日本にとって海南島は、「南進」のための中継拠点であると同時に、「大東亜戦争」遂行のための「戦略資源の供給地」でもありました。この島には、鉄鉱石、錫、水晶、タングステンなどの鉱物資源が豊富に埋蔵されていたからです。防衛研究所所蔵の『海南警備府戦時日誌』を読むと、たとえば一九四二年一月の「一般情勢」には、こう記されています。
 「大東亜戦争ハ不敗の戦略的体制ヲ完整シ南方諸域ニ於ケル友軍ノ戦果拡充ニ伴ヒ本島ハ其ノ中継基地並ニ戦略資源供給源トシテ繁忙且重要ナル使命ヲ担当スル事トナレリ」。

 2 海南島民衆は暮らしと生命を守るために闘った
 日本は、みずからの侵略戦争を推進するという目的のために、海南島に住むひとびとの暮らしを利用しようとしたのです。日本軍は海南島の農地を奪い、村を襲撃して、家を焼き払い、食糧・家財道具・家畜・家屋を奪いました。女性に乱暴し、乳幼児、女性、若者、高齢者を無差別に殺害し、村人を日本の軍事施設、軍用道路、飛行場、トンネルなどの建設に駆り出しました。
 この日本軍の破壊活動に対して、海南島の民衆はみずからの暮らしと生命を守るために立ち上がります。この抗日の闘いは、日本による海南島の統治が経過するとともに沈静化するどころか、その逆にますます勢いを増していきます。

 3 日本は「治安」の確保のために抗日闘争を徹底的に弾圧した
 日本軍は、「南方」侵略の拠点化と「戦略資源供給」という2つの目的を推進するために、抗日闘争の広がりを抑え込まねばなりませんでした。そのために、「共産軍ノ捕捉殲滅」および「徹底的治安ノ確立」のための軍事作戦を強化せざるをえなくなります。
 1942年11月1日に開始された「Y7作戦」には、日本のこの方針が明記されています。 「Y7作戦」を遂行するために発せられた海南警備府司令部「Y7作戦ニ関スル参謀長口述書」には、次のように記されています。 『海南島近現代史研究』4/5号130頁
 「Y7作戦の目的は・・・海南島北東部に蟠踞蠢動(ばんきょしゅんどう)シツツアル敵共産軍ヲ捕捉殲滅スルヲ主眼トシ、・・速ニ本島内全域ニ亘ル徹底的治安ノ確立ヲ期スルニ在ル」。
 「共産部落及ビ敵匪ノ行動セシ部落ニ関シテハ次ノ要領ニ依リ処理アリ度
   (イ) 共産部落ハ之ヲ清掃ス
   (ロ) 敵匪ト通ゼシ者ハ厳重処分ス」。

 「清掃」とは「共産部落」の拠点となっている村を襲い、村人をすべて殺害し、村を焼き払い、すべてのものを奪う、ということを意味します。
 村民虐殺と村の焼き討ちや略奪は、日本が海南島に侵入した当初から行われていました。しかし、このような日本軍の蛮行は、海南島の住民の反発と抵抗を強め、抗日闘争をますます拡大したために、日本軍は「民心ノ安定」のためその蛮行を控えるように、という指令を出さざるをえなくなります。
 たとえば、1942年6月「海南警備府戦時日誌」の「作戦指導」の項目では、「占領地ノ粛清強化」の課題として、「基準工作の実施宣伝宣撫民心ノ安定」のため、「民家ノ焼討等ハ実施セザルコトトセリ」、という指令が下されました。<民家の焼き討ちは控えるように>という指令を出さざるをえないほどに、日本軍に対する海南島民衆の反発と抵抗が高まっていることがわかります。
 ところが、「Y7作戦」では、「焼き討ちを控える」ことができないほどに海南島民衆の抗日闘争が高揚したため、日本軍は「共産部落ハ之ヲ清掃ス」、「敵匪ト通ゼシ者ハ厳重処分ス」というジェノサイドの方針を出さざるをえなくなります。日本軍が残した公式の文書記録には、海南島民衆の抗日闘争の高揚とその高揚に海南島民衆のジェノサイドで応じた日本軍の行動が押し隠されているのです。

■二 抗日・反日闘争の諸相
 わたしたちは海南島の各地の村で、村民の抗日・反日闘争のさまざまな闘い方について多くの証言をいただきました。その証言を以下に紹介します。

◆村を守る闘い-共産党の村に対する日本軍の襲撃
 楊兆経さん、1928年生、儋州市和慶鎮和慶村 2012年3月21日聞き取り
 「17歳共産党に入党、抗日闘争に参加、村人に勧められて入った。当時、みんな共産党に入党した。第8団に所属し、海南島各地の山の中を転々とした。機関銃と歩兵銃が武器で、自分は歩兵銃をもった.山の防衛の仕事、上官の世話が中心で、戦闘への参加はなかった
米は村人が運んでくれた」。    斉藤日出治『アジアの植民地支配と戦後日本の歴史認識』31頁

 黄伯木さん1931年生、儋州市蘭洋鎮羊龍村 2012年3月21日聞き取り
「1944年2月6日、日本軍が70-80名で村を襲撃し、村のほとんどのひとが殺された。
老人6人と子ども20人が一つの部屋に閉じ込められ、全員が焼き殺された
残った若者50人は食糧を谷古嶺の軍営まで運ばされた後、全員が刺し殺されて井戸に投げ込まれた。殺された理由は、日本軍が敗戦間近になったために起こした大虐殺であり、もうひとつは、この村が共産党の村だったことだ」。
                 斉藤日出治『アジアの植民地支配と戦後日本の歴史認識』33頁

 林道林さん、1930年生 (脳梗塞のためにお話しが聴けず)ご子息の話、瓊海市白石嶺村にて、2011年10月30日聞き取り
 「日本軍は明け方に村を襲って、7人を焼き殺した。日本軍は村に入ると、家捜しをして、家に塩や肉があるのを見つけると、共産党のためにそれが用意されたと判断して、7人を焼き殺した。日本軍は、そのあと近辺の家をすべて焼いた。村の村長の家だけは焼かれずに残された。次女は銃剣で刺され、火の中に投げ込まれた。家の中のものはすべてが奪われ、それから火がつけられた。山に逃げた人は共産党が多かった。村に戻ると、また襲われるので、山で暮らした。日本軍は共産党のことを察知してこの村に侵入してきた。米や塩を余分に持っていたり、銃を掃除する者が見つかると、共産党の支持者として疑われた」。
                 斉藤日出治『アジアの植民地支配と戦後日本の歴史認識』17-18頁

◆村人と抗日部隊との協力関係
 洪仁瑞さん1927年生 昌江黎族自治県昌化鎮浪炳村、2013年3月28日聞き取り 『海南島近現代史研究』4/5号、76頁
 「日本軍が来た時には共産党の軍隊に入っていたので、村にはいなかった。1942年ころ共産党の部隊に入隊したので、それまでは村にいた。部隊は、那大、臨高、昌江など、あちこちを回った。
 日本軍と待ち伏せ攻撃で戦ったこともあった。そのときは、機関銃を二台奪い、日本兵を10-20人ほど殺した。国民党と共産党がいっしょになって、日本軍と戦った。中国軍は準備が十分に整っていたので、待ち伏せ攻撃をすることができた。
 日本軍が村に入ったとき、日本軍ははじめに李宏欣の家を焼き、李宏欣を昌城に連行して殺した。妻は李宏欣の目の前で犯された。その後「慰安婦」にさせられた。また、目の見えない80歳の女性が強姦されたこともあった。
 わたしが共産党に入ったのは、日本軍の蛮行を知って憤ったためである。日本軍は村人に橋をつくらせたり、道路工事をさせた。場所は昌城の近くだった。12-13歳くらいの少女が馬のえさのために草刈りをさせられ、そのあと強姦されたことがあった。鍾秀妹という人で、殺されなかったが、そのために病気になってまもなく死んだ。
 村では、婦人会、青年団、児童団などが組織された。これらの組織は情報収集などの仕事をした。遊撃隊の武器は拳銃で、弾は十数発しかなかった。・・・日本が負けた時は五指山にいた。・・日本軍に勝利してから村に戻った。それまでは一度も村に戻らなかった。」
 
◆遊撃隊による日本軍の炮楼攻撃-村と遊撃隊が一体となった闘い
 陳徳興さん1931年生、昌江黎族自治県海尾鎮白沙村、2013年3月28・29日聞き取り 『海南島近現代史研究』4/5号、77頁
 「日本軍は「鶏籠坡」に炮楼を建設した。朝、遊撃隊が炮楼建設の労働者のかっこうをして稲のところに隠れていた。時が来て襲撃して、炮楼にいた日本兵13人を殺した。
 遊撃隊が使う武器は短いので、稲わらで隠していた。レンガとセメントをつくる労働者のふりをして、炮楼の近くまで行って隠れて、急に襲撃したので、日本軍は驚いた。銃のない遊撃隊は、日本兵の銃を奪った。日本兵の銃をすべて奪って山のほうに逃げた。
戦いはすぐに終わった。長くても30分くらい。・・短い時間で攻撃を終えて山に逃げた。
 わたしはこのとき、炮楼の中にいた。遊撃隊が日本兵を射殺するときも見ていた。炮楼の床に倒れている日本兵を12,3人見たが、確かに死んでいたかどうか、わからない。
 遊撃隊は8人か9人。しごとで炮楼にきたとき、遊撃隊がいることはわかっていたが、ゆっくり炮楼に入りなさいといって、遊撃隊の大人が先に炮楼に入って、「キリ」と言って、つぎつぎと銃で殺した。・・日本軍が海尾からトラックでやってきたが、着いたときは、遊撃隊はみんな山に逃げてしまっていた。
 このあと日本軍が村を襲って、村の若い男の人をみんなつかまえていった。白沙の村は2日間にわたって包囲された。村では猟銃で少し抵抗したが、日本軍は山地砲も撃ってきたので、村民は山に逃げた。女性も、赤ん坊を抱いてみんな逃げた。日本兵が捜索するので、赤ん坊の口を押さえて息ができなくなり、ひとり死んだ。
 保長が日本軍を案内して入ってきたが、村にはだれもいなかった。村は、一軒残らず焼かれてしまった。
遊撃隊の家族は、かゆとかさつまいものスープをかついで、山に逃げた遊撃隊に届けた。・・遊撃隊のリーダーは、この村の人。李芝茂。(案内してくれた)符克民さんの母の兄。日本軍が来たら山に逃げ、もどったら帰ってくる。そういう生活を繰り返していた。何年も続いた。日本軍が海南島から撤退したあと、村に戻ってきた。」
              
◆子どもたちが児童団として抗日闘争に参画する
 王進良さん1931年生、文昌市南陽鎮老王村、2015年4月2日聞き取り  
 「児童団に入った。香港から来た人が厚い歌の本を持ってきて、指揮もして唄を子どもたちに教えた。この先生は後に日本軍と戦って死んだ。張緒江。もともと南陽郷の人で香港に行っていて、ここに戻ってきた。20代か30代。習った唄は、「土地はわれわれの土地」。これは日本軍と戦って死んだ人の葬式のときに歌った。
 小さくて銃を担ぐことができないので、村の学校で勉強をした。教科書はなく、先生が黒板に書いたのを、帳面に書いて覚えた。歌を教えたのと同じ先生。南陽地区には児童団が勉強する場所が何カ所もあった。先生は何人もいたが、歌を教えたのは張先生だけ。今日はどこそこの村、明日はどこそこの村、と先生が回る。・・
 児童団は20人から30人。女の子もいたが、すくなかった。・・・仕事は、道案内。昼も夜もした。ほかに、よそからくる見慣れない人を見張る。遊撃隊の活動地域に市場が4つあった。そういう人が来ると、声をかけて、どこから来たか、どこへ行くのか、何しに行くのか、聴く。もう一人は、遊撃隊に知らせに行った。共産党地域の市は、一日ごとに開く。開市のときはかならず市に出て、外から来る人を監視した。金花村、羅廊村、老村坡。市の場所はときどき替わる。共産党支配地域の住民たちの市場。わかれば日本軍に攻撃されるので、ときどき替える。」

◆強制労働に対する抵抗
 陳桂春さん、1924年生、屯昌県新興鎮ト文村、2012年3月22日聞き取り
 「村の近くの山の上の望楼の工事に村人が駆り出された。道路工事・望楼建設に駆り出された村人が夜にみんなで酒を飲んだときに、望楼を攻撃しようという話をして、それが日本軍の耳に入り、工事が終わった後、日本軍は村人200-300人を集めて、高齢の女性7人を見せしめに殺した。私の母を含む7人の女性は銃剣で刺し殺された後、村人に穴を掘らせてその場で埋められた。6名の遺族はのちに遺骨を掘り出して、村でお墓をつくったが、わたしは貧しくてお墓がつくられず、いまだここに小石を置いて毎年お参りに来ている。」
                     斉藤日出治『アジアの植民地支配と戦後日本の歴史認識』34頁
◆先住民黎族の抗日闘争
 邢亜响さん、1923年生 楽東黎族自治県尖峰鎮黒眉村  『日本の海南島侵略と抗日反日闘争』40頁 
 「日本軍と何回も戦った。射って、さっと場所を変えて、射って、また場所を変えて、射った。自分たちの銃はよくなかった。火縄銃だ。火薬を入れて使う。・・弓も使った。矢じりは鉄だった。
仲間は50人くらい。みんな黒眉村の人。女性もいた。女性兵士は、炊事をした。機関銃をもつ日本軍と戦うのは恐くなかった。死ぬことを恐れなかった。死んでも、光栄だと思った。日本兵を殺して銃を奪った。日本兵を殺して、銃を奪った」。
 2度目の訪問、2011年3月1日の聞き取り
 「わたしはこの村の共産党員からなる20名ほどの遊撃隊のグループの組長で、何回も抗日の戦闘に参加した。村には住んでいられなかったので、山の中に洞窟を掘って住み、日本軍が来ると逃げた。日本軍のスパイが居て、われわれの部隊の居所を日本軍に教えたため、山を包囲されたこともあったが、その洞窟に逃げ込んで難を逃れた。7日間連続で闘ったこともあった。
遊撃隊を元気づける歌「おれたち中国人は亡国の奴隷にはなりたくない」という共産党が作った歌を歌った」。
                   斉藤日出治『アジアの植民地支配と戦後日本の歴史認識』7頁 

 林秋華さん、板橋鎮高園村  『日本の海南島侵略と抗日反日闘争』38-39頁
 「1943年に、瓊崖従隊に入った。妻は村の民兵だった。遊撃隊の前は、紅軍にいた。日本軍が来た時、女が2人、男が4人殺された。家も燃やされた。この村は50戸だった。羊、牛、豚、とりは全部奪われた。みんな山に逃げた。子どもを背負って逃げた。日本軍が引き揚げたら、また村に戻ってきた。
 日本軍とも国民党とも戦った。攻撃されたから戦ったのだ。感城での戦闘がいちばん激しかった。わたしたちは、300人。こっちが勝った。日本軍は30人。日本軍から機関銃を奪った」。
これに対して、『横鎮四特戦闘詳報』(1945年6月5日)には、林秋華さんたちの抗日闘争を裏付けるつぎのような報告が記されています。
 「高薗村に通ずる道路側の部落はほとんど共産化され、治安悪化、討伐のたびに射撃を受ける、10:30-12:00に高薗村の焼却をはじめ、全部焼却」。
             
◆女性戦士の抗日闘争
 周瓊波さん1923年生、海口市東山鎮
 「15歳のとき、地下組織に入り、宣伝工作や連絡工作を担当した。1941年8月分遣隊の道路に地雷を仕掛け、尊譚炮楼の日本兵2人と偽軍兵士1人を殺したことがある。撃隊員として日本軍の車を9台襲撃したこともあった。屯昌、万寧、文昌、舗前など各地で闘った。各地の村人に助けてもらったので戦い続けることができた」『日本の海南島侵略と抗日反日闘争』41頁

 孫家田さん1922年生、三亜市、梅山鎮  『日本の海南島侵略と抗日反日闘争』41頁
 「1941年共産党に入党、入党後まもなく、日本軍に殴られ、足を傷つけられた」
                  
 蘇景親さん 1919年生  『日本の海南島侵略と抗日反日闘争』41頁
 「1941年に共産党に入党し、日本軍が来たとき山に入り、抗日軍ノ一員として、炊事などを担当した」

 王愛花さん 東方市板橋鎮 2011年3月1日-2日聞き取り
 「母がすでに亡くなっていて、父と兄弟3人が共産党だった。1937年に共産党の児童団に入った。これも極秘で、知られると家族が殺された。1942年に入党して、遊撃隊の衛生員として働いた。当時、薬はほとんどなく、消毒剤として赤チン、あるいは漢方の薬草を使った。1942-1943年ころに日本軍を奇襲したことがある。道路に穴をあけて、そこに日本軍を落として、銃を発射した。そのとき4人を殺害し、4台の機関銃を奪った。そのために、自分たちは2台の機関銃をよその部隊から借りていたが、その2台を返すことができた。
 「兄は20歳の時に抱利村で包囲されて闘ったが、撃たれて死亡した。弟は14歳でそのとき逃げたがつかまり、身代金を出せば返してやる、と言われて、父がお金を用意してもっていったところ、父も捕まり、二人とも殺された。自分はそのとき八所にいたので、父と兄弟の死を知ったのは一ヶ月後だった。」
 「日本軍への攻撃は何度もおこなった。新街に日本軍が駐屯していたところを襲撃し、そのときは二人がけがした。海岸嶺の戦闘では多くの死者を出した。遊撃隊の4隊がいっせいに攻撃したが、隠れる場所がなく、望楼から攻撃されて、多くの死者を出した。新街の近くで闘ったときは、自分は手榴弾でけがをした。そのほか、小さな戦闘は無数にある。
日本が敗北したときは、ちょうどサツマイモを食べていて、連長が、日本が負けたから、これからは米を3度食べられる、と言ったことを覚えている」。
                     斉藤日出治『アジアの植民地支配と戦後日本の歴史認識』8-9頁

 張景秋さん、1920年生、海口市長流鎮 2011年3月3日聞き取り
 王愛花さんと同じ遊撃隊の女性兵士の証言です。
 「日本が侵入する前、16歳のときに共産党の児童団として革命運動に参加した。日本が侵入してくることが分かった1938年に板橋鎮の村では13名が共産党に入党した。指導的な人物は、黄国栄さんで、この人の家で会議をやっていて、自分も参加して、革命運動の進め方、党員の勧誘の仕方などを話し合った.日本軍はスパイを通してそのことを知り、黄さんの父と兄と妹を捕まえて共産党の名簿を出すように迫った。答えなかったので、日本軍は黄さんと兄の首を切り、妹は腹を切り裂かれて内蔵を取り出された。このとき日本軍の司令官は「自分は中国人を殺さないと手足の力が抜ける。中国人を殺すと元気が出る」と言った。母親はこの処刑を見て、悲しみのあまり死んでしまった。黄国栄さんの妻の陳秋月さんは黄さんの死後に革命運動に参加して、1943年の戦闘で片目を撃たれて失明した」。
 「わたしは1941年に遊撃隊に加入して、衛生員として活動した。総計で70-80回ほどの戦闘にたずさわった。手と足に銃弾を受けて、傷跡が今も残っている。手の指は曲がってしまった。石碌の近くでも負傷し、黒眉村の戦闘では、日本軍に包囲され、日本軍が投げた爆弾の破片で負傷した。」
 「板橋鎮の北辺村の家も焼かれた。両親は日本軍が来る前に亡くなっていたので、身寄りがなく、さらにこの村で13人が共産党員に入ったために村がひどい目に遭い、村人からも白い目で見られたこともあり、1940年に板橋鎮を出て以来、村にはずっと戻らなかった。兄が一人いたが、兄も共産党に入り、日本軍につかまって殴られて死んだ。私が解放後村に戻ったのは2004年になってからだった。北辺村にも日本軍の炮楼があり、銃撃隊がその炮楼を攻撃したこともあったが、この攻撃に自分が参加すると村に迷惑がかかると思い、そのときは参加しなかった。」
 「海南島の遊撃隊は五つの団から編制されていた。一団は文昌、二団は五指山、三団は万寧、四団は臨高、五団はすくなくて、ときどきは四団に組み込まれていた.私は五団に所属し、ときに四団にいたこともあった。わたしは衛生員の拝長をして、看護婦として仕事をした。活動範囲は海南島の全域だった」
 「6年間の戦闘は大変だった。食べるものも着るものもなかった。とくに1941-43年が一番苦しいときで、食べるものがなくて、木の葉やバナナの葉を食べてしのいだ。しかし、五指山のふもとで誕生した共産党の勢力は、最初は弱かったが、年ごとに強くなり。指導者は闘って必ず勝つ、と激励してくれた。・・そしてその通りになった」。
                     斉藤日出治『アジアの植民地支配と戦後日本の歴史認識』9-10頁

■むすび
 これらの証言から明らかとなるのは、海南島の民衆による抗日戦争、抗日反日闘争が、日本軍による海南島民衆の暮らしの破壊に抗して、海南島民衆がみずからの暮らしと生命を守る闘いだった、ということです。日本はこの暮らしと生命を守る民衆の闘いに対する攻撃を「討伐」と呼んで、村民の無差別殺戮をくりかえしました。
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日本の植民地支配に抗した朝鮮民衆と海南島民衆

2019年08月26日 | 海南島近現代史研究会
 以下は、2019年8月24日に開催した海南島近現代史研究会第13回総会・第24回定例研究会(主題:侵略戦争⇔抗日戦争、植民地支配⇔抗日反日闘争)での金靜美の報告(日本の植民地支配に抗した朝鮮民衆と海南島民衆)の要旨です。

                        海南島近現代史研究会


■日本の植民地支配に抗した朝鮮民衆と海南島民衆■

㈠ 朝鮮
 1894-1895 甲午農民戦争
        □以降、義兵戦争が継続→朝鮮から中国東北部へ
 1895    甲午改革   
 1897    大韓帝国の成立
 1904.10   目賀田種太郎が財政顧問。11月、硬貨の鋳造を行っていた典圜局を閉鎖。
 1905. 7    大阪造幣局で大韓帝国の貨幣鋳造
 1905.11   乙巳保護条約(第二次日韓協約)
        ※統監府
        ※外交権は日本が掌握
 1906     日本占領下の大韓帝国で、反日義兵が中心になって独立戦争開始。
       日本側文書によっても1万7千人を越す朝鮮民衆が殺害された(朝鮮駐箚軍司令部『朝鮮暴徒討伐誌』1913年)。
 1907. 7   第三次日韓協約
        ※軍事権は日本が掌握(8.1.大韓帝国軍隊の武装解除)
 1910. 8   「韓国併合ニ関スル条約」
       ※朝鮮総督府
        □以降、農民運動、労働運動、社会主義運動、独立運動が持続
 1919    三・一独立運動
 1919    大韓民国臨時政府(上海)
 1929.11~ 光州学生運動 
 1939. 7.28 「朝鮮人労務者内地移住ニ関スル方針」・「朝鮮人労務者募集要項」公布
 1944. 4   朝鮮人に徴兵制実施
 1945. 8.14 朝鮮解放 

証言 趙萬濟さん(1924年生) 2014年5月26日、ソウルで
 「(徴兵のときは)身体検査に合格したら赤紙が来る。1944年、甲種合格を受けて……。行ったら生きて帰る保証はない。
 1945年1月1日。いつ徴兵が来るかわからない。ほとんど満洲に行かされた。赤紙が来る前に逃げなくてはいけない。赤紙が来てしまうと、逃げるのはむずかしいし、逃げると家族に何がおこるかわからない。父が勝手に決めた結婚がいやだから、逃げたということにした。家族に害がおよばないように。
 人の目に触れないし、水があるところ。それで、俗離山に逃げて、8か月間隠れ住んだ。
 だれも知らなかった。
 夜は寝て、昼は山をあちこち移動する。食べ物は自分でなんとかする。山には食べ物がたくさんあった。草の根とか木の実とか。健康が保てた。
 俗離山に人がいるということは役場でも知っていた。薬草取りや炭焼きは役場が免許を与えるが、その人たちが山に来て、情報を渡すのだ。一度、警察と消防団に襲撃された。このとき、たまたま山裾の村に田植えの手伝いに行っていて助かった。
 終戦も知らなかった。日本の敗戦は、20日くらいたってからわかった。
 わたしの貴いいのちをなぜ人にために捨てるのか、なぜ天皇のために捨てなくてはならないのかと思った。死ぬ前にやることがある。政府がこしらえる死に場所を逃げるということは、死ぬか生きるかだった。
 徴用を逃げてきた人と一度だけ、いっときいっしょに山で暮らした。ほかにも日本の兵隊に行きたくなくて逃げた人はいるだろう」。

㈡ 海南島
 1911-1912 辛亥革命
 1912    中華民国の成立
 1912. 2   広東軍政府、瓊崖(海南島のこと)の民政事務をおこなう。
 1913    瓊崖鎮守府が成立し,軍政と民政をおこなう。
 1926    国民革命軍(国民党の軍隊)、広東省政府管轄下に瓊崖行政区委員会を設立。
 1932    広東省政府、瓊崖綏靖委員会公署を設立、海南島の軍民行政をおこなう。
 1936    海南島、広東省の第9行政督察区になる。
 1939. 2 日本軍上陸、占領。
 1939. 7.15 日本軍(海南海軍特務部)、傀儡「海南島臨時政府(瓊崖臨時政府)」設立。
※1932. 3. 1日本政府、傀儡「満洲国」をつくる。長春を新京と改名して「首都」に。
※1937.12.14日本政府、北京で傀儡「中華民国臨時政府」をつくり、河北省、山東省、河南省、山西省の華北四省、北京市及び天津、青島市などを支配。中国聯合準備銀行券(聯銀券)を発行、華北自治軍という軍事組織をもつ。
※1939. 9. 1 日本政府、張家口に傀儡政府「蒙古聯合自治政府」をつくって、モンゴル南部・河北地域を支配。

㈢ 海南島で出会った朝鮮民衆と海南島民衆
 朝鮮女性と海南島女性
 「朝鮮報国隊」と海南島民衆
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