三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

海南島近現代史研究会第23回定例研究会

2019年01月01日 | 海南島近現代史研究会
 今月(2019年1月)26日の集会「海南島で日本は何をしたのか 住民虐殺・略奪・労働強制・性奴隷化、抗日反日闘争」につづいて、2月9日に、海南島近現代史研究会の23回目の定例研究会を開きます。
 主題は、「証言、史料(文書・映像、音声、遺物、遺跡)」です。
 みなさんの参加を待っています。
      1月26日の集会については、このブログの2018年12月13日の「海南島で日本は何を
     したのか 住民虐殺・略奪・労働強制・性奴隷化、抗日反日闘争」、および設置理念に
     則ったピースおおさかを取り戻す会のブログの「【集会案内】海南島は日本で何をした
     のか」 http://regainpeace.blog.fc2.com//blog-entry-17.html をみてください。

                 海南島近現代史研究会  http://www.hainanshi.org/


■海南島近現代史研究会第23回定例研究会
 海南島だけでなく、アジア太平洋への国民国家日本の侵略犯罪の歴史的事実を示す証拠のおおくは犯罪者によって抹消・隠蔽されていますが、証言、史料(文書、映像・音声、遺物、遺跡)を証拠とする民衆の歴史研究によって明らかにすることができます。
 2017年2月9日の定例研究会で、「証言・記録・伝達」を主題として証言と証拠文書に基づいて日本の侵略犯罪の歴史的事実を明らかにし、それを伝達する道筋を話し合いました。その2年後の定例研究会で、証言と史料を民衆の力で集め分析する方法についてさらに討論を深めたいと思います。
 日本の侵略犯罪、抗日反日闘争にかかわる証言、史料の「確保」と分析は、海南島に限っても容易ではありません。証言者が少なくなっています。日本軍が海南島侵略を開始した1939年に10歳であった人は、2019年には90歳です。日本が敗北した1945年に10歳であった人は、2019年には84歳です。
 日本軍の海南島奇襲上陸(1939年2月10日)から80年。侵略犯罪の証拠を民衆の力で保存し、侵略犯罪の歴史的責任をとるべきものに具体的にとらせていく、個々の民衆のありかたについて話し合いたいと思います。
      
と き:2019年2月9日(日) 13時20分~17時(開場12時30分)
ところ:国労大阪会館 1階ホール  JR大阪環状線天満駅北口を出て右へ300メートル     
参加費:500円(会員は無料です)

主題:証言、史料(文書、映像・音声、遺物、遺物)
■主題報告 証言の客観性を保証する聞き手の主体のありかたについて    佐藤正人
■主題報告 海南島「朝鮮村」の朝鮮人虐殺現場での証言             金靜美
■主題報告 海南島での証言を聴いて  問う側から問われる側へ        斉藤日出治
■主題報告 極東国際軍事裁判文書に記録されている日本軍の海南島侵略犯罪 3
                                                  日置真理子
■討論 日本軍の海南島侵入から80年。これからどうするか。
        日本のアイヌモシリ植民地化から150年。日本の海南島侵略から80年。国民国家
       日本の他地域他国侵略の歴史を終らせるこれからの民衆運動について。

■報告 「設置理念に則ったピースおおさかを取り戻す会」のこれまでの活動   竹本昇
■報告 資本主義への抗い方  一人の生活者の実践報告             小田伸也      
■調査報告 第20回(第33回)海南島「現地調査」(2018年10月)           佐藤正人
     海口市三江鎮古橋村、東寨村、羅梧村、眼鏡塘村、闘門村、龍泉鎮仁合村、雲龍鎮
    北橋村、甲子鎮文池村、龍興村、咸来鎮木石村、美蘭区桂林洋、陵水黎族自治県光坡
    鎮港坡村、提蒙郷礼亭村、本号鎮三十笠村・放馬村、保亭黎族苗族自治県保城鎮、新
    政鎮番雅村、三亜市崖州区(前、崖城鎮)水南村、領海村、長山村、楽東黎族自治州楽
    羅村、望楼港村、瓊中黎族苗族自治県紅毛鎮羅坦村、黎凑村、榮根鎮水潮村での証言
    を報告します。
■2019年春の海南島近現代史研究会の21回目(34回目)の海南島「現地調査」について
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2018年10月の海南島「現地調査」の行程

2018年11月03日 | 海南島近現代史研究会
 先月(2018年10月)19日朝から30日夕刻まで、紀州鉱山の真実を明らかにする会としては33回目、海南島近現代史研究会としては20回目の海南島「現地調査」をおこないました。その行程は、つぎのとおりです。
                                        佐藤正人

 18日:海口市着。
 19日:海口市三江鎮の古橋村と東寨村を訪問。
 20日:海口市三江鎮羅梧村と眼鏡塘村、海口市龍泉鎮仁合村を訪問。
 21日:陵水黎族自治県光坡鎮港坡村を訪問。
 22日:陵水黎族自治県提蒙郷礼亭村、陵水黎族自治県本号鎮三十笠村・放馬村、
     保亭黎族苗族自治県保城鎮を訪問。
 23日:保亭黎族苗族自治県新政鎮番雅村、三亜市を訪問。
 24日:三亜市崖州区(前、崖城鎮)水南村、領海村、長山村を訪問。
 25日:楽東黎族自治州楽羅村、望楼港村を訪問。
 26日:瓊中黎族苗族自治県紅毛鎮羅坦村と黎凑村、榮根鎮水潮村を訪問。
 27日:海口市内の海南省図書館で資料閲覧。
 28日:海口市三江鎮闘門村、海口市雲龍鎮北橋村を訪問。
 29日:海口市甲子鎮文池村と龍興村を訪問。
 30日:海口市咸来鎮木石村(現、福沢村)、海口市美蘭区桂林洋を訪問。
 31日:海口市発。
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海南島近現代史研究会第22回定例研究会・第12回総会(2018年8月18日)

2018年10月27日 | 海南島近現代史研究会
  「海南島近現代史研究の軌跡と現状、そして未来」を主題にしました。
 1998年6月にわたしたちは初めて海南島を訪問し、以来20年にわたって海南島の現地で日本の侵略犯罪、および民衆の抗日反日闘争に関する証言を聴かせてもらってきました。そして、今日に至るまで続いている日本の他地域および他国家の侵略の時代を終わらせるための民衆運動を追求してきました。この20年間でわたしたちが何をなしえたのか、これからどうすべきなのか、について話し合いました。
 2009年6月から9年間、海南島で共に調査、聞きとりをおこなってきた海南島人で海南島近現代史研究会の会員である邢越さんから「回顾和海南岛近现代史研究会共同走过的日子和今后的期待」が寄せられました。各報告のテーマと討論の要旨はつぎのとおりです。

■佐藤正人 「20年間に何ができたか,何ができなかったか」

■金靜美 「植民地朝鮮から海南島に連行された朝鮮人」

■斉藤日出治 「海南島における日本の国家犯罪と日本人の「戦後」責任」
 日本政府は、1941年12月8日に開始したにアジア太平洋戦争をその4日後に「大東亜戦争」と規定し、「アジアの植民地を解放し、大東亜細亜共栄圏を設立する」を戦争目的とし、その地域の資源を略奪し住民の生活を蹂躙し文化を破壊し人びとの生命を奪いました。
 海南島の軍事侵略下で日本がおこなった資源略奪、強制連行、強制労働、食糧の略奪の実態は、この「大東亜戦争」がどのようなものであったのかを示しています。
 日本の「戦後」は、「大東亜戦争」における犯罪を否認することから成り立っています。海南島における日本の国家犯罪はまるでなかったかのごとくにされています。わたしたちの運動は、この「戦後」社会の根底にある国家犯罪の否認を許さない闘いでもあります。

■竹本昇 「海南島における侵略の事実を伝える」

■日置真理子 「極東国際軍事裁判文書に記録されている日本軍の海南島侵略犯罪 2」
 「A級極東国際軍事裁判記録(和文)」の№50には、オーストラリアのW・エイケン医師の供述があります(アンボン島で捕虜になり、1942年11月に海南島に到着。不衛生な仮小屋で、食物がとても不足していた。よろめいている病人も労働を強制され、たびたび殴打された。多くが脚気、赤痢、飢餓、マラリア等で死んでいった)。
 この記録のなかの捕虜の証言に、日本が侵略して各地での暴行、殺人などが示されています。

■蒲豊彦 「三竈島と沖縄」
 日本海軍は日中戦争が激化する中で航空基地を建設するために1937年12月から香港近くの三竈島に侵入しその後7年近くにわたって占領を続けました。1938年4月にはその占領に反対する島の多くの住民を虐殺します。9月に航空基地がほぼ完成した後、1939~1941年に沖縄から三竈島に約350人の移民が侵入しました。
 日本敗北後、三竈島は中国の内戦の際に、中華民国政府が台湾に撤退するための撤退センターになりました。そのため、抗日ゲリラとして活躍したひとびとが、共産軍によって粛清を受け虐殺されました。

■竹本昇 「ピースおおさか改悪リニューアル裁判上告と「取り戻す会」の発足」
 このブログの2018年10月24日の「ピースおおさか改悪リニューアル裁判報告5」と10月25日の「「設置理念に則ったピースおおさかを取り戻す会」について」を見てください。

■全体討論  海南島近現代史研究の意味と今後の課題
 日本国家の政治的・経済的・社会的・文化的侵略構造は、19世紀後半から現在まで変わっていません。日本の他地域他国侵略の構造を破壊する民衆の歴史認識について討論しました。
 会場の参加者から、自分の家族の戦争体験、あるいは自分が取り組んでいる活動、さらには日本の現状における歴史認識のありかたなどについてたくさんの発言ありました。ごく一部ですが、紹介します。

Mさん 最近、私の母が亡くなりました。その関係で戸籍謄本を取り寄せたところ、私の父親の本籍地を調べたら、南満州南東、今は丹東だったことがわかった。私の父親は戦争体験世代だが、何も語りませんでした。話が聞けたら、今のおかしな日本の現状などが見えてくるのではないか。安倍晋三の祖父の岸信介は「満州は私の作品だ」と言ったが、その「作品」で、どれだけ、日本が、中国・朝鮮の人たちに迷惑をかけたか、考えなければなりません。

Yさん 海南島のことは、ぜんぜん知らなくって、日本の当時の侵略というのは、全面的であらゆるところで、あらゆるとんでもないことをしでかしてしたんだな、と思います。けれど、その調査されていない所がいっぱいある。この調査は、戦争なり侵略なり、そういう反人権的なおこないが将来にわたって繰り返されないようにするためですが、現在の時代の流れは、全く逆の方向に流れています。この流れに抗するためには、具体的に事実を僕ら自身が学び、とくに若い人たちが、学ぶ機会を持っていかんなあかんと思います。そのためにどうしたらいいのか、考えていきたいです。

Nさん わだつみ会で活動してきて、1970年ごろから、天皇制の問題と戦争責任の問題を大きい課題としてきました。それを、もっと、地についた形でやりたいと思って参加しました。

Mさん 母が先日、亡くなりました。自分と海南島は全く関係ないと思っていたのですが、生前の母の話しでは、戦時中に海軍でフィリピンに行き、フィリピンから逃げる時にアメリカ軍の潜水艦にやられて4隻しか残らず、その1隻が海南島で避難したと聴きました。

Bさん 自分の父は戦争中,中国の青島で小学校の教師をして,敗戦の末期に海軍に召集されたけれど、当時のことをほとんど話さない。でも、自分が今戦争をいやだと発言しなかったら父と同じことになるのではないか。今日の集会はとても勉強になりました。

■2018年秋の海南島近現代史研究会の20回目の海南島「現地調査」について
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海南島近現代史研究会第21回定例研究会(2018年2月3日)

2018年10月26日 | 海南島近現代史研究会
 紀州鉱山の真実を明らかにする会が海南島における日本の侵略犯罪の「現地調査」を始めたのは1998年6月でした。2007年8月に、紀州鉱山の真実を明らかにする会のメンバーが中心になって海南島近現代史研究会を創立しました。
 わたしたちは、海南島で日本の侵略犯罪の実態を調査するとともに、海南島における抗日反日闘争の軌跡をたどってきました。その20年間のあゆみを前提にして、今回の定例研究会の主題を「日本の侵略犯罪・アジア太平洋民衆の抗日反日闘争」とし、アジア太平洋全域における国民国家日本の侵略犯罪を明らかにし抗日反日闘争の歴史を追究する実証的な民衆史の方法について話し合うことにしました。
 各報告のテーマと討論の要旨はつぎのとおりです。

■佐藤正人 「二〇年間(1998年―2017年),32回の海南島訪問の途上で」

■金城馨(関西沖縄文庫) 「琉球処分は続いている」 
 沖縄の青年が仕事を求めて大阪に来ても、彼らを待ち受けていたのは「朝鮮人・琉球人お断り」という差別と排除であった。
 この日本社会で生きていくために青年たちは自己防衛として1975年から「エイサー祭り」を始めた。「エイサー祭り」は沖縄の文化と民族としてのアイデンティティーを保持するものである。ところがそれが沖縄の先輩たちから「恥さらし」と批判を受けた。その背景には、現在も「琉球処分」が続いていることがある。1879年の「琉球処分」は、日本に同化することと迎合することを強要するものであり、これは、今も同じである。
 また、1903年の「人類館事件」のとき、本当の意味で事件化するのではなく、沖縄は日本人であるのに、アイヌモシリ・台湾・朝鮮・インド・ジャワ・マレーと同列に置いたことを問題にした。これは、日本人への同化を志向した負の歴史である。
 1924年には沖縄県民会を結成し差別に抗してきた。しかし、差別する側の日本人が、差別することをやめないなかで少数である沖縄人は、差別される側から差別する日本人の側に身を置くことで、生き延びるようになった。
 今、それを現在に当てはめると沖縄基地の「県外移設」がある。
 日本の平和運動が、すべての基地をなくすといいながら、沖縄に米軍基地が集中させてきた歴史がある。基地を押し付ける者と押し付けられた者との関係性と責任性を明確にするべきである。同じ日本人だから手を取り合ってアメリカの基地撤廃を闘う、というのではなく、日本人が沖縄に押し付けた基地をまず自分らで引き取ってから基地撤廃をいうのが、「県外移設」の意味だ。
 単なる権力と闘って基地が撤去できるのではなく、自分らが押し付けた基地を引き取ることによって、沖縄に基地を押し付ける暴力の共犯化を拒否することは、日本人、一人ひとりが自分の意志でできる基地反対闘争である。
 沖縄人には、人類館事件を事件にしなかった責任がある。植民地として支配されながら、植民地主義を克服できない責任がある。
 沖縄人はこの問題を問い直すなかで、アジアと、どう、つながっていくかを考えていかなければならない。

■金靜美 「海南島に連行された朝鮮人と台湾人の歴史」

■斉藤日出治 「海南島における日本の侵略犯罪と「大東亜戦争」」
 日本は1930年代から中国、モンゴル地域を侵略し、1940年代末からアジア太平洋地域を侵略する「大東亜戦争」を開始し、アジア太平洋地域の資源を奪いました。
 この方針が海南島はじめアジアの南方進出を図った日本軍の戦略のなかに明示されています。 
 海南島における住民虐殺、強制労働、資源・食糧・各種産業・家財の略奪、性暴力、住民の虐待、村落の破壊は、この奪い尽くし利用し尽くすそうとする戦略がもたらした帰結です。


■日置真理子 「極東国際軍事裁判文書に記録されている日本軍の海南島侵略犯罪 1」 
 「A級極東国際軍事裁判記録(和文)№50に、日本海軍によってインドネシアのアンボン島から海南島に連行されたオーストラリア兵捕虜の証言(同じ区域に中国人労働者が多数宿泊していた。約20人の中国人労働者が掘った穴に、120人ほどの中国人労働者がトラックで連れていかれ、その後悲鳴を聞いた)をふくむ記録があります。
 極東国際軍事裁判文書に記録されている日本政府と日本軍(特に日本海軍)の海南島侵略犯罪の分析はこれからの課題です。

■竹本昇 「「ピースおおさか」の侵略の事実隠しに対抗する裁判闘争」
 このブログの2017年11月2日の「ピースおおさか改悪リニューアル裁判報告4」と一昨日(10月24日)の「ピースおおさか改悪リニューアル裁判報告5」を見てください。

■全体討論  国民国家の侵略犯罪と抗日反日闘争
 国民国家日本の歴史はアジア太平洋侵略の歴史でした。この時代は全世界的な規模でいまも終わっていません。海南島近現代史に内包されている世界近現代史における国民国家の侵略犯罪の全容をいかに明らかにしていくかについて話し合いました。
 また、海南島近現代史研究会が提案した「日本政府に2015年12月28日の「日韓合意」の撤回を求める」集会決議案をめぐって討論がおこなわれました。以下は、そのときの発言の一部です。

Aさん 「慰安婦」について、日本軍が関与したということを知らない人が多い。日本は植民地支配しているところの女性を性奴隷にしたが、そこに軍および国が関与した。女性をそのように扱ったことを書き入れるべきだ。

Bさん 全面的に賛成します。「日韓合意」が話し合われた時点では、朴槿恵政権と安倍政権でした。ところが、連日、ソウルで100万人以上の民衆が立ち上がり朴槿恵政権を倒して、今の文在寅政権になった。民衆が立ち上がって大統領が替わった。状況が全く変わっているという認識が必要だ。元「慰安婦」にされた当事者とほとんどの民衆が反対している現状を認識するべきだ。

Cさん 全面的に賛成です。マスコミでは、国と国との合意を今さら、みたいな論調が目立っているが、国連の方では、女性差別撤廃委員会と拷問禁止委員会と自由規約委員会が、この合意はおかしい、撤廃するべきと言っており、国際的には日本政府の方が批判されている。

Dさん この案に全面的に賛成です。「不可逆的」という言葉を使うことは、反省していないということだ。侵略戦争の反省なしに合意などありえない。

Eさん 少女像のまっすぐな目つきをまともに見られないのだろう。まともに見られるようになるまで、ゴメンなさいと言い続けるべきです。世界中に少女像が建てられたらいいと思う。

Fさん 若い人と、このようなことに興味のない人に広めることが大事と思っています。

Gさん 被害者が納得していないのに加害者が一方的に押し付けるのは解決ではない。相手が納得するまで、
謝らないかん。これは、国家も個人のことも同じだ。「日韓合意」は撤回が正しい。

※ その後、この抗議要請文を集会参加者一同の合意で決議しました。
  抗議要請全文は、2018年2月3日のこのブログに掲載してあります。
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海南岛近现代史研究会第12次总会・第22次定期研究会

2018年07月24日 | 海南島近現代史研究会
■海南岛近现代史研究会第12次总会・第22次定期研究会
  查明纪州矿山真相研究会以调查石原产业在海南岛的企业犯罪为主要目的,于1998年6月在海南岛开始展开调查。海南岛近现代史研究会于2007年8月创立。
  至今为止,查明纪州矿山真相研究会共计32次前往海南岛调查,海南岛近现代史研究会前往海南岛调查的次数也达到了19次。在海南岛各地,听取日本的侵略犯罪,海南岛民众的抗日反日斗争的证言。与此同时,在韩国国内听取被强行带到海南岛的朝鲜人的证言,在日本国内寻找分析与海南岛侵略相关的历史资料,取得了与曾经入侵海南岛的日本人面谈。
  我们将国民国家日本对其他地域其他国家的侵略时代结束的民众运动基础变成确实可行。海南岛近现代史研究会的章程里,提到“本研究会具体综合地把握日本的侵略犯罪实况,查明其对海南岛的政治,经济,文化,社会结构造成的破坏,追究其历史责任”、“本研究会将查明海南岛的抗日反日斗争历史”。
  从1998年6月至今的20年里,我们向大家汇报海南岛近现代史研究会的轨迹和现状,希望和大家一起讨论今后如何更具体地展开活动。

     时间:2018年8月18日(星期六)13时00分~17时(12时30分开场)
     地点:国劳大阪会馆 1楼大厅 
             从JR天满站出口往右拐(樱之宫站方向)200米          
     参加费・资料费:500日元(会员免费)

主题:海南岛近现代史研究的轨迹,现状及未来
■主题报告  20年里,已做到的,未能达成的                     佐藤正人
■主题报告  从殖民地朝鲜强行带到海南岛的朝鲜人                金静美
■主题报告  在海南岛的地域上日本的国家犯罪和日本人的“战后”责任    齐藤日出治
■主题报告  讲述在海南岛的侵略事实                         竹本升
■报告 远东国际军事法庭的文件里记录的日本军在海南岛侵略犯罪 2    日置真理子

■讨论 研究海南岛近现代史的意义及今后的课题 
  国民国家日本在阿伊努摩西利,琉球的殖民化过程,在侵略台湾,朝鲜的过程中,不断增强军备,建设和强化经济基础构造。日本国家的政治,经济,社会,文化的侵略构造从19世纪后半期开始至今都没有改变。现在,日本政府在准备进行纪念“明治150年(2018年) ”的活动。
  我们希望讨论破坏日本之外其他地域其他国家的侵略构造的民众历史认识。

■报告  对“大阪国际和平中心”的展示恶改 法院上诉及“恢复会”的成立     竹本升
■关于2018年秋季海南岛近现代史研究会第20次海南岛“现地调查”

               海南岛近现代史研究会  http://www.hainanshi.org/
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海南島近現代史研究会第12回総会・第22回定例研究会

2018年07月23日 | 海南島近現代史研究会
 8月18日に、第12回総会・第22回定例研究会を開きます。
 主題は、「海南島近現代史研究の軌跡と現状、そして未来」です。
 みなさんの参加を待っています。
                        海南島近現代史研究会
                        http://www.hainanshi.org/

■海南島近現代史研究会第12回総会・第22回定例研究会

 紀州鉱山の真実を明らかにする会が、石原産業の海南島での企業犯罪調査を主目的として海南島を始めて訪ねたのは1998年6月でした。海南島近現代史研究会の創立は2007年8月でした。
 これまで、紀州鉱山の真実を明らかにする会は32回、海南島近現代史研究会は19回、海南島を訪ね、各地でおおくの人たちに、日本の侵略犯罪、海南島民衆の抗日反日闘争についての証言を聞かせてもらうとともに、韓国国内で海南島に連行された朝鮮人の証言を聞かせてもらい、日本国内で海南島侵略にかんする史資料を網羅的に探索し分析しつつ海南島に侵入した日本人に面会を求めてきました。
 わたしたちは、国民国家日本の他地域他国侵略の時代を終らせる民衆運動の基礎を確実なものにしようとしてきました。海南島近現代史研究会は会則で、「本会は、海南島における日本の侵略犯罪の実態を具体的・総合的に把握し、それが海南島の政治的・経済的・文化的・社会的な構造をどのように破壊したのかを究明し、その歴史的責任を追及します」、「本会は、海南島における抗日反日闘争の歴史を究明します」としています。
 1998年6月から20年間の、わたしたちの海南島近現代史研究の軌跡と現状を報告し、今後、さらに具体的になにをなすべきかについて、みなさんと話し合いたいと思います。

と き:2018年8月18日(土)13時00分~17時(開場12時30分)
ところ:国労大阪会館 1階ホール  
        JR天満駅改札口を出て右へ(桜ノ宮駅方向へ)200メートル
参加費・資料代:500円(会員は無料です)

主題:海南島近現代史研究の軌跡と現状、そして未来
■主題報告 20年間に、何ができたか、何ができなかったか            佐藤正人
■主題報告 植民地朝鮮から海南島に連行された朝鮮人             金靜美
■主題報告 海南島における日本の国家犯罪と日本人の「戦後」責任      斉藤日出治
■主題報告 海南島における侵略の事実を伝える                  竹本昇
■報告 極東国際軍事裁判文書に記録されている日本軍の海南島侵略犯罪 2  日置真理子

■討論 海南島近現代史研究の意味と今後の課題
 国民国家日本は、アイヌモシリ・琉球植民地化、台湾侵略、朝鮮侵略……の過程で、軍備を増強し、経済基礎構造を建設・強化してきました。日本国家の政治的・経済的・社会的・文化的侵略構造は、19世紀後半から現在まで変わっていません。いま日本政府は、「明治150年(2018年)」記念行事の準備をすすめています。日本の他地域他国侵略の構造を破壊する民衆の歴史認識について討論したいと思います。

■報告 ピースおおさか改悪リニューアル裁判上告と「取り戻す会」の発足    竹本昇
■2018年秋の海南島近現代史研究会の19回目の海南島「現地調査」について
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20年間、32回の海南島訪問の途上で

2018年02月04日 | 海南島近現代史研究会
■場・地域

■記憶、証言(声・ことば)→記録(文字・映像)
   日本の国家犯罪を総体として認識し伝達する方法。
   国民国家日本の海南島における侵略犯罪を総体として認識する方法。
   「現地調査」(侵略と植民地支配の事実究明、抗日反日闘争史探求の調査)。

   被害者・目撃者からの聞きとり(死者からは、聞きとりできない)。
       証言を聞く者のありかた。
   加害者からの聞きとり。犯罪の「記憶」。
       犯罪者の沈黙・証言(告白)拒否。沈黙のままの自然死。
       「現地調査」・必然的な偶然の出会い。
   聞きとって、どうするのか 。
       侵略犯罪の解明 → 責任追及(犯罪の責任・犯罪を隠しつづけてきた責任)→
      国家謝罪・国家賠償、責任者処罰(最悪の侵略犯罪者ヒロヒト)。
       アジア太平洋に侵入した日本企業の過去と現在の侵略犯罪解明・責任追及。
   ★「残されている時間は、限られている」と自覚してから10年以上が過ぎた。
       符介育敗(フ・カイヨパイ)さん(1923年?~2016年4月25日)
            昌江黎族自治県七叉鎮重合村(旧、楽東県重合)

■民衆の世界史(世界史規模の民衆史・民衆の画く世界史像)
   民衆の歴史認識
   歴史を偽造する者たちとのたたかい。権力者の歴史とのたたかい。
   侵略と開発、ポストコロニアリズムという虚偽。
   歴史を知ること。事実を知ること
   事実はひとつ。実証。ことば。文字。
   事実をどのように評価するか(歴史意識。歴史観。歴史思想)。記憶は「継承」できない。

   全世界的規模の反侵略民衆闘争の時代。
   諸地域・諸国家の近現代史は、世界近現代史に規定され、世界近現代史を規定してきた。
   歴史認識深化の過程は、絶えざる歴史意識変革の過程。
   侵略諸国家・諸民族の侵略の世界史は、被侵略諸国家・諸民族の抵抗の世界史。

■海南島近現代史・アジア近現代史・世界近現代史
 海南島近現代史のなかの世界近現代史  海南島近現代史⇔世界近現代史。
 1939年2月に、日本政府・日本軍が海南島侵略を開始する以前に、日本国民のほとんどが、他地域・他国侵略に反対する思想・感性・倫理を喪失していた。
 1939年~1945年~2018年
    2018年2月:1869年9月から148年5か月、1939年2月から79年。
    ※戦後?  日本国家の他地域他国侵略の時代は、終わっていない。
              侵略。戦争。占領。領土化。植民地化。併合。不等価交換。
    ※現在の侵略
       天皇制を前提とした「平和憲法」下の日本国家・日本軍の他地域・他国侵略。
       朝鮮戦争、ベトナム戦争、湾岸戦争、アフガニスタン戦争に実質参戦。
       1999年8月13日、侵略の旗「ヒノマル」を国旗に、天皇賛歌「キミガヨ」を国歌に。
           8月25日、他地域・他国軍事侵略のための「周辺事態法」を施行。
       2001年12月2日、日本海軍軍艦が、アラビア海で作戦行動中のアメリカ合州
           国軍艦に燃料を洋上補給。アフガニスタン侵略戦争・アフガニスタン民
           衆殺戮に直接荷担。このとき、アジア太平洋戦争後はじめて、日本正
           規軍が侵略戦争に参戦。
       2004年1月から日本政府は日本軍を、アメリカ合州国のイラク侵略戦争に参戦
           させた(2004年1月、日本軍サマワに侵入)。日本は、ファルージャ
           やバスラなどイラク各地でのアメリカ合州国軍の民衆虐殺に間接的に
           荷担。
       2011年11月から日本軍南スーダンに侵入(2015年12月から「第9次要員(基幹:
           第10師団)が侵入。2017年5月撤退開始)。
       2015年9月30日、戦争法(「平和安全法制整備法」+「国際平和支援法」)公布。
           「周辺事態法」を「重要影響事態法(重要影響事態に際して我が国の平
           和及び安全を確保するための措置に関する法律)」に改名・改悪
       2016年3月29日、戦争法施行。
       2017年7月11日、「共謀罪法(改正組織犯罪処罰法)」施行。

■アジア太平洋の民衆にとって、日本の侵略の時代は抗日反日闘争の時代
 その時代は、全世界的規模で、まだ、終わっていない

■個人史のなかの世界史・地域史のなかの世界史
    現在の、日常のなかの世界史。
    侵略の世界史⇔抵抗の世界史。

■日本ナショナリズムとの対決
    日本民衆(労働者、農民、会社員、漁民、商人、官吏、医者、看護婦、店員、
   教師、主婦……)は、なぜ天皇制を支持し、他地域他国侵略を実行したのか。して
   いるのか。
    なぜ、日本国民(「臣民」)は、他地域・他国侵略を悪だとする、あたりまえ
   の倫理を社会的に確立できなかったのか。
 ※他地域他国侵略をゆるさない日本民衆の歴史認識
   「イスラエル国」の歴史は、USA……日本国……の歴史。
 ※解放のインターナショナリズム ⇔ グローバリズム、ナショナリズム

■抗日反日闘争
   朝鮮の義兵戦争:1895~96年、1905~14年。
   台湾の抗日反日戦争(1895~  霧社烽起:1930年10月~12月  )。
   三・一運動。
   青山里戦闘;1920年10月。
   シベリアの抗日パルチザン。
   中国東北部の抗日パルチザン。
   中国の抗日戦争。
     百団大戦:1940年8月~12月。
     拉孟・騰越の戦い:1944年6月~9月。
   フクバラハップ(Hukbalahap。Hukbong Bayan Laban sa mga Hapon。抗日人民軍)。
   自由タイ運動( カブアンカン・セーリー・タイ):1941~1945年。
   ベトナム独立同盟会Việt Nam Ðộc Lập Ðồng Minh Hội(ベトミンViệt Minh):
       1941年5月19日結成。

■国民国家日本史。国民国家という暴力
   アイヌモシリ領土化。ウルマネシア領土化。「千島列島」植民地化、台湾植民地化。
  カラフト南部植民地化。朝鮮植民地化。「南洋」植民地化。中国東北部・モンゴル東南
  部植民地化。中国本土侵略。海南島植民地化。東南アジア・太平洋侵略。

■国民国家日本の成立。日本国民(「臣民」)の成立
   他地域他国侵略による国民国家形成
       国家主権、国民、領土・領域、貨幣、「国語」、神道・天皇制、日本国民
      (「臣民」)、戸籍(戸籍制度は徴兵制度の前提)、徴兵、軍隊・軍備、警
      察・監獄、日本史・日本文化〈教科書、……〉。
   日本国民(臣民)を形成する装置:博物館、学校、神社、象徴、勲章、ヒノマル、キ
      ミガヨ、国章、国花、国鳥。
   国民(臣民)統合。「民族」差別。人種差別。

   1889年2月11日:「大日本帝国憲法」発布(「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」、
     「日本臣民ハ法律ノ定ムル所ニ従ヒ兵役ノ義務ヲ有ス」)。
   1890年10月30日:「教育ニ関スル勅語」発布(「我カ臣民克ク忠ニ克ク孝ニ億兆心ヲ一
     ニシテ……常ニ国憲ヲ重ジ国法ニ遵ヒ一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壌無窮ノ
     皇運ヲ扶翼スヘシ」。
   1945年8月15日:「大東亜戦争終結ノ詔書」放送(「朕……茲ニ忠良ナル爾臣民ニ告ク」、
     「尚交戰ヲ繼續セムカ終ニ我カ民族ノ滅亡ヲ招來スルノミナラス延テ人類ノ文明
     ヲモ破却スヘシ」、「朕ハ茲ニ國體ヲ護持シ得テ忠良ナル爾臣民ノ赤誠ニ信倚シ常
     ニ爾臣民ト共ニ在リ」、「擧國一家子孫相傳ヘ確ク神州ノ不滅ヲ信シ……國體ノ精
     華ヲ發揚シ……」、「爾臣民其レ克ク朕カ意ヲ體セヨ」)。

■出会いと別れ
 周学勤さん(1936年~2014年) 「朝鮮村」(三亜市田独鎮荔枝溝郷南丁)
 朱学平さん(1933年~2011年) 万寧市万城鎮月塘村
 王鎮寧さん(1932年~2017年) 海口市永興鎮儒東村
 張応勇さん(1940年~2005年) 保亭黎族苗族自治県保城鎮
 林亜金さん(1926年~2013年) 保亭黎族苗族自治県南林郷什号村
 陳亜扁さん(1927年~2017年) 陵水黎族自治县本号敬老院宿舍
 呉育新さん(1933年~2014年) 海口市美兰区三江镇上雲村(旧、海口市咸来鎮上雲村)

 20年間に、歴史研究を職業としていないが、丹念に持続的に日本の侵略犯罪の歴史を追究し、自らが住んでいる地域の犠牲者の名を明らかにし、被害の実態を記録している人たちと出会い、おおくのことを学ばせてもらってきた。
 万寧市月塘村で、澄邁県沙土(聖眼村、欽帝村、福留村……)で、瓊海市長仙聯村で、文昌市秀田村で、文昌市昌文村で、文昌市白石嶺村で、文昌市排田村で、文昌市石馬村で、文昌市林林村で、文昌市昌美村で、瓊海市北岸村で、定安県大河村で、陵水黎族自治県后石村で、陵水黎族自治県九尾村で、東方市八所村で、東方市旦場村で、東方市新街村で…………。

■「木本隧道」の道
 三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・裵相度)の追悼碑を建立する会(1989年6月創立)。
 紀州鉱山の真実を明らかにする会(1997年2月創立)。
 海南島近現代史研究会(2007年8月創立)。

 木本トンネル → 紀州鉱山の坑道 → 海南島の日本軍用洞窟 → 太平洋の島々の日本軍用洞窟 →  硫黄島の数百本のべ18キロの地下坑道(「横穴陣地」)を朝鮮人も掘らされた。

 1998年6月 紀州鉱山の真実を明らかにする会、はじめて海南島「現地調査」。
 2007年8月 海南島近現代史研究会創立。
     9月~11月 最初の「現地調査」(紀州鉱山の真実を明らかにする会としては14回目)。
 2017年12月 紀州鉱山の真実を明らかにする会としては32回目、海南島近現代史研究会としては19回目の「現地調査」。

 20年間、海南島のおおくの村や都市を訪ね、日本政府・日本軍・日本企業がおこなった侵略犯罪の犠牲者、遺族、目撃者から証言を聞かせてもらうとともに、侵略犯罪の現場を「調査」。同時に、海南島民衆の抗日反日闘争の歴史をたどってきた。

                                         佐藤正人
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日本政府に2015年12月28日の「日韓合意」の撤回を求める

2018年02月03日 | 海南島近現代史研究会
 今日(2018年2月3日)、海南島近現代史研究会は、21回目の定例研究会を開きました。主題は、「日本の侵略犯罪・アジア太平洋民衆の抗日反日闘争」でした(このブログの2018年1月8日の「海南島近現代史研究会第21回定例研究会」と1月17日の「海南岛近现代史研究会第21次定期研究会」をみてください)。
 主題報告のあと、集会参加者全員が、「国民国家の侵略犯罪と抗日反日闘争」について討論し、その中で、「2015年12月28日の「日韓合意」」についても議論を深め、「日本政府に2015年12月28日の「日韓合意」の撤回を求める」という声明を発表することを決定しました。
 以下は、その全文です。


■日本政府に2015年12月28日の「日韓合意」の撤回を求める■ 
 2015年12月28日に、日本の岸田文雄外務大臣と韓国の尹炳世外交部長官が会談し、「日韓間の慰安婦問題」・「韓日間の日本軍慰安婦被害者問題」について合意し、その合意内容を共同記者会見で発表し、公式文書を交わすことなく、「日韓合意」がなされた。
 この「12・28日韓合意」は、条約ではなく、署名のある文書でもない。日本国と韓国間で公式文書は交わされていない。
 この記者会見で、日本外務大臣は、
    「今回の発表により、この問題が最終的かつ不可逆的に解決されることを確認する」
と述べ、韓国外交部長官は、
    「今回の発表により、日本政府と共に、この問題が最終的かつ不可逆的に解決される
    ことを確認する」
と述べている。
 しかし、日本国家の侵略犯罪にかかわる「問題」が「最終的かつ不可逆的に解決される」などということは、ありえないことであり、「不可逆的」というコトバの意味も曖昧である。
  「この問題が最終的かつ不可逆的に解決されることを確認する」という「確認」を含む「日韓合意」は、日本国家の国家犯罪をコトバで消し去ろうとする悪質な日本の外務大臣と韓国の外交部長官の無署名の「政治的合意」である。
 このような「合意」は、かつて国家間の「約束」として成立したことはなかった。
 日本のマスメディアは、「日韓合意」がそもそも国家間のとりきめとして成り立たないものであることを、過去・現在の諸国家間のとりきめを分析して報道すべきであった。
 日本の首相は「合意は国と国との約束で、これを守ることは国際的かつ普遍的な原則だ。韓国側が一方的にさらなる措置を求めることは、全く受け入れることはできない」といい、日本のマスメディアは異口同音に同様のことを述べている。
 しかし、条約ではなく、署名もない外務大臣と外交部長官の「口約束」は、その約束が社会正義に反するものであるならば、ただちに解消するのは当然のことである。
 2017年5月12日に、国連の人権条約に基づく国際人権条約機関である拷問禁止委員会は、「日韓合意」の再検討を勧告する報告書をだしている。

■「日韓合意」で述べられている「この問題」の歴史性
 「この問題」は、国民国家日本の他地域他国侵略の全歴史にかかわる問題である。
 いまは亡き林亜金さんら八人の被害者を原告とする海南島戦時性暴力被害裁判は敗訴したが、事実にかんして被告の日本国はまったく反証できず、日本の裁判所は事実を認定した。
 「日韓合意」では、事実認定も明確におこなわれていない。
 国民国家日本の侵略犯罪にかかわる諸問題(「慰安婦問題」、「強制連行問題」、「住民虐殺問題」、「資源略奪問題」、「土地略奪問題」……)が、「最終的かつ不可逆的に解決されること」は、ありえないことである。
 「この問題」は、根本的には国家間の問題ではなく社会正義の問題であり、とくに歴史的責任を有する国家とその国民はナショナリズムを克服することが問われている問題である。

■「日韓合意」の問題点
(1)基本問題:事実認定とそれに基づく国家謝罪・国家賠償。
   日本政府は、「従軍慰安婦」(日本軍隊性奴隷)についての歴史事実を十分に正確に認
  識しようとしておらず、関係資料を積極的に探索公開しようとしておらず、逆に歴史事実を
  否定し隠蔽しつづけてきた。「日韓合意」においても日本政府のこの非倫理的な姿勢は変
  わっていない。客観的かつ詳細な事実認定、それに基づく真の謝罪、賠償なしには、問題
  は解決されない。
   日本政府は、事実を認定し、「日韓合意」を無効とし、公式に真の謝罪を行い、法的賠償
  を実行し、歴史事実を正確に伝達する教育を進めなければならない。
(2)個別問題:
1、「この問題が最終的かつ不可逆的に解決されることを確認する」という「確認」。
  この「確認」に、「日韓合意」の非人道性が鮮明に示されている。
  被害者が容認しない「解決」は、解決ではない。
2、10億円。
   「12・28日韓合意」時に日本外務大臣は、
      「日本政府の予算により、全ての元慰安婦の方々の心の傷を癒やす措置を講じる。
      具体的には、韓国政府が、元慰安婦の方々の支援を目的とした財団を設立し、これ
      に日本政府の予算で資金を一括で拠出し、日韓両政府が協力し、全ての元慰安婦
      の方々の名誉と尊厳の回復、心の傷の癒やしのための事業を行うこととする」
   という文章を朗読した。その後、日本政府がそのために支払ったのは、日本円で10億円で
   あった。
    わずか10億円の現金で、日本政府は「全ての元慰安婦の方々の名誉と尊厳の回復、
   心の傷の癒やし」をしようとしたのである。真摯で心の籠った謝罪もなく、事実をまともに
   認識しようとせず、事実を示す文書を開示することもないまま、日本政府は被害者の「名
   誉と尊厳」が回復されることにしていた。
3、非公開。
  韓国の政府機関、日韓日本軍慰安婦被害者問題合意検討Task Force(TF、特殊任務班)が2017年12月27日に公表した「日韓日本軍慰安婦被害者問題合意(2015.12.28.)検討結果報告書」によれば、2015年12月28日の「日韓合意」時に非公開とされた部分は、次の通りである。
    日本側は、「今回の発表により、慰安婦問題は、最終的及び不可逆的に解決されるもの
   であるから、挺対協等各種団体等が不満を表明する場合にも、韓国政府としては、これに
   同調せず説得してくれることを望む。駐韓日本大使館前の少女像をどのように移転するの
   か、具体的な韓国政府の計画を問いたい」と言及した。
    これに対し、韓国側は、「韓国政府は、日本政府が表明した措置の着実な実施がなされ
   たということを前提として、今回の発表を通じて、日本軍慰安婦被害者問題は、最終的及
   び不可逆的に解決されるものであることを確認し、関連団体等の異見表明のある場合、韓
   国政府としては、説得のため努める。韓国政府は、日本政府が駐韓日本大使館前の少女
   像に対し、公館の安寧・威厳の維持という観点から憂慮している点を認知し、韓国政府と
   しても、可能な対応方向に関して関連団体との協議等を通じ適切に解決されるよう努める」
   とした。

 わたしたちは、このような無恥の要望と問いを非公開で提出しつつ「この問題が最終的かつ不可逆的に解決されることを確認する」とした日本政府を弾劾する。
 非公開文書に、日本政府は、「挺対協等各種団体等が不満を表明する場合にも、韓国政府としては、これに同調せず説得してくれることを望む」と明記している。これは、「日韓合意」を「挺対協等各種団体等」が承認しないことを日本政府が認識していたことを示している。

■日本政府と日本のマスメディアに対して
 「日本の侵略犯罪・アジア太平洋民衆の抗日反日闘争」を主題とする海南島近現代史研究会第21回定例研究会の参加者全員は、「日韓合意」を根本的に批判し、否定する。
 日本に住むおおくの民衆とともに、わたしたちは、「日韓合意」についての日本政府や日本のマスメディアの非歴史的・非人道的な主張を承認しない。
 わたしたちは、日本政府に「日韓合意」の撤回と公式謝罪を求めるとともに、日本のマスメディアに対し、国民国家日本の他地域他国侵略犯罪にかかわる歴史事実を事実に基づいて徹底的に詳細に解明し、事実と真実を報道することを求める。

■国民国家日本の他地域他国侵略責任
 国民国家日本は、アイヌモシリ植民地化、琉球王国植民地化、台湾侵略、朝鮮侵略の過程で、軍備を増強し、経済基礎構造を建設・強化していった。
 日本の国家権力者は、「軍人勅諭」や「教育勅語」などを使って侵略犯罪を実行する「臣民」を形成していった。日本は、他地域・他国侵略の過程で、「富国強兵」、「殖産興業」を実現していった。
 国民国家日本は、形成期から現在にいたるまで侵略国家であり続けている。日本国家の政治的・経済的・社会的・文化的侵略構造は、19世紀後半から現在まで変わっていない。
 いま日本政府は、国民国家日本の他地域他国侵略責任をとろうとすることなく、「明治の精神に学び、日本の強みを再認識する」などと称して「明治150年(2018年)」記念行事の準備をすすめている。
 2015年12月28日の「日韓合意」で日本政府がおこなおうとしたことは、国民国家日本の侵略犯罪の隠蔽であった。
 「日韓合意」問題は、国家間の外交問題ではなく、日本の国家犯罪と人道にかかわるインターナショナルな問題である。

     2018年2月3日

        「日本の侵略犯罪・アジア太平洋民衆の抗日反日闘争」を主題とする海南島
        近現代史研究会第21回定例研究会参加者一同
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20年間(1998年~2017年)、32回の海南島訪問 13

2018年02月01日 | 海南島近現代史研究会
 澄邁県橋頭鎮沙土〈聖眼村、文旭村、昌表村、美梅村、那南村、昌堂村、北山村、福留村、欽帝村、上帝村、文旭村、小美良村、木春村、扶里村)の聖眼村の入り口に、高さ12メートルほどの「史証碑」と刻まれた大きな碑が建てられています。これは、橋頭鎮人民政府が、2005年8月15日に建てたもので、その碑文の全文は、つぎのとおりです。
  槍声遠去笑声欣、時尚新潮世尚仁。
  血鋳沙土千古恨、碑留史証告来人。
  一九四一年夏、国軍臨高県遊撃大隊長黄坤新率部、于沙土海域截取了日僞軍西路総指揮林桂深営運的貨船、並殺死押運人林桂深之仔林明成。林便誣沙土人民所為、逐勾結日軍。同年閏六月十二日払暁時分、日軍二百多人、従那大、新盈、包岸等地分乗十部汽車、長駆真入沙土峒、旋即包囲了昌堂、美梅、那南、北山、昌表、上帝、聖眼、文旭、福留、欽帝等村庄。以検査「良民証」為名、強聚群衆、行槍射、刀砍、剣戮、奸殺、生埋之凶。僅両個時辰、就殺了男女老幼一千一百一十九人。后又両次来犯、再殺無辜両二百余人、焼毀民房五十八間、漁船一百多条、掠搶耕牛六百多頭。這就是瓊島史上惨絶人寰的「沙土惨案」。如此的腥風血雨、鉄証着侵瓊日寇的罪悪、銘刻着沙土人民的冤怨。特立此碑、永志不忘。

                       橋頭鎮人民政府   公元二〇〇五年八月一五日

 ここには、“1941年閏6月12日(普通暦8月4日)未明に、200人あまりの日本兵が沙土峒に侵入し、昌堂、美梅、那南、北山、昌表、上帝、聖眼、文旭、福留、欽帝等の村で、わずか2時間に、男女老幼1119人を殺し、その後さらに2回侵入してきて200人あまりを殺した”と書かれています。しかし、犠牲者の名は記されていません。

 わたしたちが、沙土をはじめて訪ねたのは、2008年10月12日でした。この日、聖眼村で「幸存者」の温国興さん(81歳)、温国照さん(78歳)、温国武さん(82歳)に話しを聞かせてもらいました。別れ際に、温国興さんは、これから聖眼村だけでも、犠牲者全員の名を書きとめていきたい、と話しました。
 その後、わたしたちは、これまでに20回近く沙土を訪ねました。

 2011年3日と6日に、わたしたちは1年8か月ぶりに沙土に行きました。そのとき、はじめて欽帝村を訪ね、日本兵に機関銃で射殺される寸前に逃げて生き残ることができた王世杰さんと王徳林さんに話を聞かせてもらうことができました。
 王世杰さん(1932年生)は、つぎのように話しました。
   “日本兵が来たとき村人は出迎えてあいさつをした。はじめ日本兵は子どもたちには優し
   くした。逃げた村人は少なかった。村に来た日本兵は50人ほどだったと思うが、はっきり
   はわからない。暑い日の昼間だった。この村に住んでいたのは130人ほどだった。そのう
   ち、76人が殺された。わたしの家族は、あのとき、みんな家にいた。
    日本兵は、子どもや年寄り以外の村人を集め、3人をどこかに連れて行き、戻ってはま
   た3人を連れていった。
    そのようにして、日本兵は3人ずつ村人を殺していった。そうしないと、村人が抵抗する
   と考えたのだろう。
    音がする銃ではなく、銃剣で刺し殺した。刺されても生き残った人もいた。逃げた人も
   いた。
    わたしの父(王元興)は30歳あまりで、母(呉氏。橋頭の人)は30歳になっていなかった。
   父と母も連れていかれて殺された。母は妊娠していた。
    わたしと7歳の妹(王不昌)と5歳の妹(王不恒)の3人は、村はずれの祠堂の前の小さな
   広場に連れていかれた。村の子どもや年寄りは、みんな、そこに集められた。
    年寄りが前列に並ばされ、後ろに子どもたちが二列に並ばされた。
    祠堂の横の大きな樹のそばの地面に機関銃が据えられ、そのそばに小銃を持った日本
   兵が立った。
    機関銃の後ろに腹ばいになった日本兵が発射し、前列の年寄りたちが撃たれて殺され
   た。二列目の人たちが撃たれはじめたとき、機関銃の弾丸がなくなった。
    日本兵が弾丸をこめているすきに、わたしはみんなに逃げようと声をかけて、逃げた。
    6、7人が逃げた。逃げた1人が頭を撃たれて何日かたってから死んだが、あとは助かっ
   た。小道を走りぬけて竹やぶの奥を通って田んぼの水草の陰に隠れた。ヒルに血を吸わ
   れたが、じっとしていた。
    日本兵は、狭い竹やぶの間を通りぬけることができなかった。
    妹二人も逃げて助かった。しかし、上の妹は、次の年に海でおぼれて死んだ。
    日本兵がいなくなってから、父と母を捜した。遺体を見つけた。わたしは子どもだったの
   で、生き残った村の人たちが埋葬してくれた。
    父も母も殺されたので、食べていくことができなかった。海岸沿いに歩いて臨高まで行っ
   て、物乞いしながら生きた。4年くらいたってから村に戻った。
    殺された76人の名前は、記録されていない。これからわたしがひとりずつ確かめて記録
   する”。

 3月6日朝10時過ぎから1時間ほど王世杰さんに話を聞かせてもらったあと、王世杰さんが機関銃を向けられた現場に案内してもらいました。
 そこは、村の中心から200メートルほど離れた祠堂の前でした。石造の祠堂とその周りの囲いの石の壁は、ほぼ当時のままだとのことでした。この日はちょうど村の土神の祭日で、供え物が置かれ、ろうそくの火がともされていました。王世杰さんから当時のことを話してもらっているとき、爆竹が鳴らされました。
 そのとき、とつぜん、王徳林さんが来て、当時日本兵が機関銃を置いたあたりに走って行き、日本兵がどのように年寄りや子どもたちを殺そうとしていたかを、身体で示してくれました。
 王徳林さんは、つぎのように話しました。
   “ここに、日本兵は、年寄りと女の人と子どもを三列に並ばせた。前列は年寄り、二列目
   は女の人、三列目は子ども。
    日本兵は腹ばいになって機関銃を撃った。そのそばで小銃を持った日本兵が立って撃
   った。撃たれた後も生きていた年寄りを銃剣で刺して殺した。
    わたしは、王世杰たちといっしょに逃げた。妹も逃げたが、小銃で撃たれて殺されてしま
   った。
    竹やぶの間に隠れた。しばらくたってから、イ、ウオ、サン、シと言いながら、日本兵は
   去って行った。午後三時ころだったと思う。
    まもなく、遠くの村のほうから銃の音が聞こえた。
    日本兵がいなくなってから、家族をさがした。
    父(王世桐)の遺体を見つけた。背中から撃たれて殺されていた。祖父(王元享)は父か
   ら20メートルほど離れたところで殺されていた。母(王氏)の遺体はそこからすこし離れた
   ところにあった。
    わたしの家では、祖父、父、母、妹2人、伯父(父の兄)、伯父の妻、叔父(父の弟)2人、
   ぜんぶで9人が殺された。
    その後も、日本兵はなんども村に来た。井戸端で洗濯している女性を強姦してから殺した
   こともあった。その井戸はいまも残っている。
    両親が殺されてから、生きていくのに苦労した。牛の糞を拾って乾かして売ったりして暮
   らした”。 

 王徳林さんは、祖父と両親が殺されたところに連れていってくれました。
 村はずれの小道をたどって樹木がまばらに生えているところにきて、王徳林さんは、立ち止まり、“ここだ”、と言いました。そして、祖父が倒れていた地点、母の遺体を見つけた地点を示しました。そのあたりには、10人ほどの人が倒れており、銃で撃たれて殺された人も、銃剣で刺されて殺された人もいたといいます。
 その近くに石でつくられた家がありました。その家は、当時もあったとのことでした。石組みのしっかりした家で、人は住んでいませんでした。その家の前から、虐殺現場が見えました。
 そのあと、王徳林さんたちが、逃げて隠れた地点に案内してもらいました。
 祠堂の前の道を右にそれ、大きな樹が何本も茂っている樹林の間をぬけたところに細い竹が密集している竹林があり、数百メートルかなたに海(沙土湾)が見えました。王徳林さんたちは、その竹林の奥に隠れたといいます。当時は、いまより竹林の地面が低く、水があふれていたそうです。
 王徳林さんと別れて村に入っていくと、日本兵が機関銃で村人を殺害した現場から近いところにある自宅のそばの豚小屋の前で、王徳信さん(1954年生)が、
   “兄が日本兵に腹を切られ、まもなく死んだ、腹から腸が流れ出していたと、父から聞い
   た。父は銃剣で3回刺されたが生き残った。母はそのとき村にいなかったので助かった。
    姉は日本兵に強姦されて殺された”、
と話しました。

 10回目に沙土を訪ねた2013年11月2日に、温国興さんは、沙土で虐殺された人たちの名簿を見せてくれました。5年前から他の村人にも呼びかけてつくったものだとのことでした。
 それは、聖眼村、文旭村、昌表村、美梅村、那南村の犠牲者の名、性別、年齢を記したものでした(昌表村の名簿には、日本兵が村人を殺害した方法が個別に記録されていました)。
 そこに記されている聖眼村の犠牲者は温光清さん(男、54歳)、光清婢さん(女、50歳)、温那厚さん(男、10歳)、温那芝さん(男、8歳)、温那番さん(男、6歳)、温光成さん(男、48歳)、光城婢さん(女、46歳)ら197人、文旭村の犠牲者は温明道さん(男、61歳)、明道婢さん(女、58歳)、温家徳さん(男、8歳)、温家樟さん(男、8歳)、温太朗さん(男、52歳)、温太財さん(男、51歳)、温家成さん(男、21歳)さんら20人、昌表村の犠牲者は符顕明さん(男、30歳。銃剣殺)、符文瑞さん(男、10歳。銃剣殺)、符文苑さん(男、8歳。銃剣殺)、符亜昌(女、20歳。銃殺)符亜昌さんの二男(5歳。銃殺)、符亜昌さんの三男(3歳、銃殺)、符亜帝さん(女、18歳)、謝道成さん(20歳。刀殺)ら35人、美梅村の犠牲者は李華開さん(男、38歳)、李発國さん(男、18歳)、李華順さん(男、32歳)、李錦輝さん(男、30歳)、李華英さん(男、21歳)、林詩婢さん(女、20歳)ら43人、那南村の犠牲者は李太道さん(男、74歳)、太山婢さん(女、42歳)、李華美さん(男、18歳)、李華独さん(男、2歳)、李四姫さん(女、8歳)、符大烈さん(男、42歳)符明善さん(男、14歳)ら32人でした。
                                   佐藤正人
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20年間(1998年~2017年)、32回の海南島訪問 12

2018年01月31日 | 海南島近現代史研究会
 日本のマスメディアが、国民国家日本の歴史的国家犯罪を問うことなく、朝鮮民主主義人民共和国への日本人強制連行にかんして連日膨大な情報を流しているさなかの2002年10月、わたしたちは海南島に行き、8日に、はじめて文昌県重光鎮昌文村を訪ねました。
 海南省政協文史資料委員会編『鉄蹄下的腥風血雨――日軍侵瓊暴行実録』上(1995年8月)に収録されている李昌炳・林日明口述「誘騙焼殺 四村遭毀――日軍在重興郷白石嶺暴行親歴記」と李重発口述「“百人墓”前憶往事――日軍焼殺昌文村実述」に、つぎのような内容の記述があります。
   “1941年4月12日(農暦3月16日)夕刻、20戸あまり100人足らずの文昌市重興鎮(旧、文昌
   県重興郷)排田村に、日本軍部隊が来た。日本軍は、村はずれの尖嶺園に村人を集め、
   暗くなってから焼き殺した。逃げようとした人は射殺された。子どもをふくむ88人が殺さ
   れた。
    翌4月13日(農暦3月17日)、日本軍は、隣りの白石嶺村に侵入し、村人40人を殺した。
    その翌日4月14日(農暦3月18日)、朝日がのぼってまもなく、軍用車にのって40人ほど
   の日本兵が、白石嶺村の隣りの昌文村を包囲した。日本兵は、村人を銃でおどして「祠堂」
   におしこめ、まわりを焚き木で囲み、積んできた石油をまいて、火をつけた。このとき、
   人口130人あまりの村の107人が殺された。病気で寝ていた老人や赤ん坊までが焼き殺さ
   れた。
    さらにこの日、日本軍は、昌文村の隣りの賜第村で村人16人を殺した。
    隣り合った4つの村で、3日の間に、日本軍は241人を殺した。
    その20日ほど前、村の近くの軍用道路で、日本軍の車両が攻撃されて、日本兵が死ん
   でいた”。

 昌文村に着いてすぐに、「“百人墓”前憶往事――日軍焼殺昌文村実述」を口述した李重発さん(1936年生)に、村の入り口の樹齢120年以上の大きな榕樹の下で、話を聞かせてもらうことができました。
 李重発さんは、日本軍が村を襲ってきたとき、日本兵の姿をみるとすぐに逃げて助かったが、病気で寝ていた老人や赤ん坊までが焼き殺された祠堂の跡に近づくのがいまでもつらい、と話しました。
 1941年4月12日から14日までの間に、昌文村、排田村、白石嶺村、賜第村の4村を襲撃し、おおくの村人を殺戮したのは、日本海軍佐世保第8特別陸戦隊に所属する部隊でした。
 昌文村の祠堂の横の坂道を登ったところに犠牲者の墓地があり、墓碑が建てられていました。日本軍がいなくなってから、生き残った村人が遺骨を拾って、ここに埋めたといいます。
 墓碑の大きさは、横1メートル、縦2メートルほどで、南南西を向いていました。正面の上部に横書きで「血海深仇 没世難忘」、真ん中に「惨遭日寇殺戮難胞之佳城」、左に「公元一九九八歳次戊寅年四月十九日重修」、裏面には、上部に「殺戮難胞名字列下」と書かれ、その下に犠牲者の名が5段に刻まれていました。戸主と思われる名前があって、その下に、戸主との関係がわかるように名前が刻まれていました。1段目に21人、2段目には20人、3段目には20人、4段目には24人、5段目には20人の名が刻まれていました(ドキュメンタリー『日本が占領した海南島で 60年前は昨日のこと』<紀州鉱山の真実を明らかにする会企画・制作、2004年7月〉の最終部に、この碑が映し出されています)。

 日本軍は、昌文村を襲う前日(農歴3月17日)、隣の白石嶺村を襲い、村人40人を殺しました。わたしたちは、昌文村で李重発さんに話を聞かせてもらったあと、白石嶺村を訪ね、祖父母を殺された林さんに案内されて虐殺現場に行きました。
 白石嶺村の犠牲者の墓地には堂が建てられていました。墓の前には、1957年5月20日に追悼碑が建てられていました。

 2003年3月25日に、わたしたちは、昌文村と白石嶺村を再訪し、排田村をはじめて訪問しました。
 排田村の自宅で、李昌光さん(1937年生)は、
   “日本兵が襲ってくる前、村の近くで日本兵が3人殺された。日本軍が来たとき、父と母と
   わたしは逃げることができたが、9歳と6歳の兄は殺されてしまった。日本兵は子どもも殺
   した”
と話しました。話を聞かせていただいたあと、李昌光さんに虐殺現場につれていってもらいました。村の中心部から細い坂道を30分あまり歩いたところがその場でした。虐殺の22年後の1963年農歴3月16日に追悼碑が建てられていました。
 碑の中央に「顕祖 孝妣 八十八位之坟」、向かってその右に「惨遭日寇焚烙難民」、左に「血海深仇永世不忘」と刻まれていました。
 碑の裏面上部に「倭乱遇難枯骨之墓」、右に「公元一九四一年三月十六日殉難」、左に「公元一九六三年三月十六日」、中央に、犠牲者88人の名がすべて刻まれていました。碑の高さは約1メートル、幅約45センチ、厚さ約7センチで、南西を向いていました。

 2014年11月3日にわたしたちは、はじめて、重兴镇賜第村を訪問しました。賜第村に着いたのは、朝9時半でした。
 村の入り口に住む李佩瓊さん(1938年生)は、つぎのように話しました。
   “日本兵がきたとき、母は、わたしと兄と姉の3人を連れて山に逃げた。父は南洋に働きに
   行っていた。
    子どものときだったが、家が焼かれて人が殺されたのを覚えている。人数は、後から聞
   いた。
    日本軍は、村人40人くらいを3か所の家に閉じ込めて焼き殺した。ほかの人は逃げた。
    日本軍がいなくなって、村に戻ってきた。兄の文楊は7歳上で、2~3年前に亡くなった。姉
   の美霞は2歳上だ。
    逃げたのは遠くの山。近くだとあぶない。捕まって殺される。母は夜、山から下りて、田や
   畑から食べるものを持ってきた。ナベとか食器とかは持って逃げた”。

 そのあと、賜第村の隣の昌文村と排田村を久しぶりに訪ねました。
 昌文村に着いたのは10時半でした。11年ぶりに会う李重発さんはお元気でした(はじめて会ったのは2002年10月、2度目に会ったのは2003年3月でした)。
 自宅で李重発さんは、つぎのように話しました。
   “1941年3月18日(普通歴4月14日)に日本軍が村にきた。日本人は残酷だ。生まれたばか
   りの赤ん坊も刺し殺した。
    日本軍は祠堂に村人たちを集めた。人数が多かったので、日本軍が見ていないとき、母
   が妹を抱いて逃げた。
    妹は生まれて40日。わたしもいっしょに逃げた。108人が3月18日に殺された。当時の村
   の人口はわからないが、生き残ったのは20人くらいだった。いくつかの家では、家族全員
   が殺された。
    わたしの家族は、6人が祠堂で殺された。父(李運杞)。上の妹(李愛琴)。父の兄の妻、
   ふたり。いとこの兄の妻、ふたり。
    山に逃げていたので、祠堂で焼き殺された父や妹の遺体を見ていない。
    いとこの弟が日本兵に捕まって連れていかれたが、後ろの方を歩いているとき、その日
   本兵は、ほかの兵士が見ていないとき、分かれ道で逃がしてくれた。その日本兵は台湾人
   だったかもしれない。
    日本兵は、歩けなくて寝ている年寄りにガソリンをかけて焼き殺した。名前は、李運浩。
    あの年は豊作だった。夜、みんな山から下りてきて、収穫した。逃げていた期間はわか
   らない。田植えをしなくても、2、3か月たったらまた生えてきて助かった。山に隠れてい
   たことも親戚のところに身を寄せたこともあった。ときどき、移動した。親戚のところに
   は、こっそりと、短い期間だけ。見つかると殺される。 
    日本軍は何回もこの村に来た。大虐殺のとき山に逃げた村人に、日本軍は何回も“安全
   です。山から下りてきてください”と言ってきた。さいしょは恐くて下りなかったが、何
   回も言ってくるので、少しずつ村に戻った。山から下りてきたあと、良民証をもらった。
   それからしばらくして、日本は降参した。
    妹は子どもがいない夫婦に育ててもらった。その養父が日本軍に殺されたので、また妹
   を引き取った。2年間くらい育ててもらった。
    骨を集めて埋めたのは1946年になってからだ。犬などが遺体を食べて、骨が祠堂のなか
   や付近に散らばっていた。集めて一か所に埋めた。
    3月18日には、毎年村で祭祀をおこなう。
    日本軍が降参した次の年に追悼碑を建てた。
    碑は小さかった。遺族が金を出して作った。村人がみんなで殺された人の名を調べ、殺
   された村人すべての名を刻んだ碑を作った。
    その碑が壊れたので、一族10人あまりを殺された陳という人が費用をぜんぶ出して、あ
   たらしく作り直した。
    20年以上前のことだ。壊れた碑はどうしたか知らない。
    陳はマレーシアの華僑だった。陳の息子は、シンガポールに住んでいる。
    さいしょの碑は、李姓が上段だったが、新しく作ったのは、陳という人が費用を全部出し
   たので、陳姓が上段になった。村には李姓が多いので、文句をいう人もいたが、作ったもの
   はしかたない。場所は同じだ。
    あの日に生き残った人で、いまもの元気なのは、李文尧、李昌滋、李文忠とわたしの4人
   だ。李昌滋と李文忠は海口に住んでいる。
    この村は、南北にわかれていて、わたしは北で、ほかの3人は南の村の人だ”。

 李重発さんは、ノートに、1941年3月に日本軍に殺害された村人の人数を記録していました。そこには、
    16日、排田村、88人
    17日、白石村、40人
    18日、昌文村、108人
    21日、賜第村、20人
と記されていました。
                                         佐藤正人
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