4月3日朝8時に黄流を出発し、9時半に楽東黎族自治県尖峰鎮黒眉村の邢亜响さん(1923年生)の家に着いた。邢亜响さんは2023年10月に亡くなっていた。脳梗塞で倒れ海口の病院で2か月間闘病したが家に戻って亡くなったという。邢亜响さんは日本軍と戦ったときの弓矢や火縄銃を保管していたが、邢亜响さんの死後、風習にしたがって燃やしたという。
生前、邢亜响さんは、
「日本軍と何回も戦った。射って、さっと場所を変えて、射って、また場所を変えて、射った。
自分たちの銃はよくなかった。火縄銃だ。火薬を入れて使う。銃はいまもある。弓も使った。矢じりは
自分たちの銃はよくなかった。火縄銃だ。火薬を入れて使う。銃はいまもある。弓も使った。矢じりは
鉄だった。
仲間は50人くらい。みんな黒眉村の人。女性もいた。女性兵士は、炊事をした。
機関銃を持つ日本軍とたたかうのは恐くなかった。死ぬことを恐れなかった。死んでも、光栄だと思っ
仲間は50人くらい。みんな黒眉村の人。女性もいた。女性兵士は、炊事をした。
機関銃を持つ日本軍とたたかうのは恐くなかった。死ぬことを恐れなかった。死んでも、光栄だと思っ
た。日本兵を殺して銃を奪った。
7日間、連続して戦ったことがあった。戦って逃げて、戦って逃げて、戦って逃げた。歌いながら戦っ
7日間、連続して戦ったことがあった。戦って逃げて、戦って逃げて、戦って逃げた。歌いながら戦っ
た。遊撃隊は、みんな歌えた。 黒眉村は、まえは老包嶺のふもとにあった。今は人は住んでいない。
解放後、村はここに移った」
と話していた。kouniti kuromayumuraHP (hainanshi.org)
邢亜响さんの一男の邢福球さん(1959年生)に昔の黒眉村に案内していただいた。
昔の黒眉村では、多くの村人が日本軍に殺されたので、1945年にいまの場所に生き残った村人すべてが移り住んだという。
黒眉村から感恩県龍衛郷新村(現、東方市新龍鎮新村)に午後2時過ぎに着いた。
「一九四五年三月二日龍衛新村ノ戦闘」(原題は、「元号」使用)と副題がつけられた「横鎮四特戦闘詳報第五号」が東京の防衛研究所図書室で公開されている。この文書は、横須賀鎮守府第四特別陸戦隊第二大隊第二警備中隊が作製したもので、1945年3月2日に、海南島感恩県龍衛新村を襲撃したときの「戦闘詳報」である。この「戦場ノ状況」と題する個所には、
「海岸線ヨリ東方一粁ニ位置スルニシテ戸数約八〇戸人口約三〇〇ヲ有シ農業 ヲ主スル一寒村ナリ
周囲ハ高サ一乃至二米巾約二米ノ潅木ニヨル二重垣ヲ以テ防壁トナシ東西南ノ三方ニ出入門ヲ有シ
「一九四五年三月二日龍衛新村ノ戦闘」(原題は、「元号」使用)と副題がつけられた「横鎮四特戦闘詳報第五号」が東京の防衛研究所図書室で公開されている。この文書は、横須賀鎮守府第四特別陸戦隊第二大隊第二警備中隊が作製したもので、1945年3月2日に、海南島感恩県龍衛新村を襲撃したときの「戦闘詳報」である。この「戦場ノ状況」と題する個所には、
「海岸線ヨリ東方一粁ニ位置スルニシテ戸数約八〇戸人口約三〇〇ヲ有シ農業 ヲ主スル一寒村ナリ
周囲ハ高サ一乃至二米巾約二米ノ潅木ニヨル二重垣ヲ以テ防壁トナシ東西南ノ三方ニ出入門ヲ有シ
西北ノ一部ニ高サ約二米ノ石造城壁アリ」
と書かれている。日本海軍は、住民300人ほどの村を「戦場」と規定して、襲撃した。この村を襲撃したのは、横須賀鎮守府第四特別陸戦隊第二大隊第二警備中隊第七小隊長猪瀬正信(日本海軍一等機関兵曹)ら11人で、全員が「便衣」を着ていた。この11人が2組に分かれて村を襲撃したのは、1945年3月2日午前10時30分だった。
わたしたちは1945年3月2日の66年後の3月2日12時40分に、新村を訪ねた。
「横鎮四特戦闘詳報第五号」には、「敵ニ與ヘタル損害」として、「遺棄死体四(共産党第二支隊指揮中隊長及同軍需主任ヲ含ム)」と書かれているが、新村で聞きとりをして、その「共産党第二支隊指揮中隊長」が湯主良さんで、「共産党第二支隊軍需主任」が王文昌さんであることがわかった。
湯主良さんの妻の張亜香さんに話を聞かせてもらうことができた。張亜香さん(1922年2月21日、農暦1月25日生)の89歳の誕生日の9日後だった。
話を聞かせてもらった場所は、小学校の校庭の塀の内側で、その塀の向こう側には、66年前に夫の湯主良さんら4人が日本兵に包囲され爆死した地下室があった。
張亜香さんは、静かなしっかりした口調で、当時のことをつぎのように話した。その場にいたたくさんの小学生が周りを囲んで、張亜香さんの証言をいっしょに聞いた。
“夫は、一七歳のときに革命に参加した。ここにあった家の地下室で死んだとき、23歳だった。
と書かれている。日本海軍は、住民300人ほどの村を「戦場」と規定して、襲撃した。この村を襲撃したのは、横須賀鎮守府第四特別陸戦隊第二大隊第二警備中隊第七小隊長猪瀬正信(日本海軍一等機関兵曹)ら11人で、全員が「便衣」を着ていた。この11人が2組に分かれて村を襲撃したのは、1945年3月2日午前10時30分だった。
わたしたちは1945年3月2日の66年後の3月2日12時40分に、新村を訪ねた。
「横鎮四特戦闘詳報第五号」には、「敵ニ與ヘタル損害」として、「遺棄死体四(共産党第二支隊指揮中隊長及同軍需主任ヲ含ム)」と書かれているが、新村で聞きとりをして、その「共産党第二支隊指揮中隊長」が湯主良さんで、「共産党第二支隊軍需主任」が王文昌さんであることがわかった。
湯主良さんの妻の張亜香さんに話を聞かせてもらうことができた。張亜香さん(1922年2月21日、農暦1月25日生)の89歳の誕生日の9日後だった。
話を聞かせてもらった場所は、小学校の校庭の塀の内側で、その塀の向こう側には、66年前に夫の湯主良さんら4人が日本兵に包囲され爆死した地下室があった。
張亜香さんは、静かなしっかりした口調で、当時のことをつぎのように話した。その場にいたたくさんの小学生が周りを囲んで、張亜香さんの証言をいっしょに聞いた。
“夫は、一七歳のときに革命に参加した。ここにあった家の地下室で死んだとき、23歳だった。
子どもは2歳半だった。わたしは18歳のときに結婚した。夫が死んだときは22歳だった。夫が死んだ
のは、正月18日だった。
夫は、夜、ものを運んだり、情報を伝える仕事をしていた。隊長と呼ばれていた。
夫が、共産党の活動をしていることは知っていたが、具体的なことは、はっきりとは知らなかった。
夫は、夜、ものを運んだり、情報を伝える仕事をしていた。隊長と呼ばれていた。
夫が、共産党の活動をしていることは知っていたが、具体的なことは、はっきりとは知らなかった。
夫は家にいる時間は少なかった。ほとんど家を離れていた。わたしは、夫の両親と、農作業をして暮ら
していた。
夫が地下室で爆死した日、日本軍が来るというので、わたしは子どもを連れて逃げていた。あの
夫が地下室で爆死した日、日本軍が来るというので、わたしは子どもを連れて逃げていた。あの
ころわたしも子どももほとんど家に戻らなかった。
わたしの家では、ときどき共産党の人たちが休憩や会議をした。しかし、安全な場所ではなか
わたしの家では、ときどき共産党の人たちが休憩や会議をした。しかし、安全な場所ではなか
ったので、なにかあったらすぐ隠れる地下室をつくってあった。家の中では、食事や話ができるが、急
になにか変なことがあったら、すぐに地下室に入る。狭いが、2~3人はゆっくり入れるほどの広さだっ
た。
あの日、日本軍が来たとき村にいた六人のうち、文昌からきていた党員は日本軍を見て逃げた。
あの日、日本軍が来たとき村にいた六人のうち、文昌からきていた党員は日本軍を見て逃げた。
愚かなことに、逃げて、地下室の方に戻ってきた。この党員を日本軍が追いかけてきた。逃げる
ときには、絶対に自分の同志の方に行ってはならないのに……。この人は逃げるのが遅かったので、
日本軍につかまってしまった。つかまって、少し聞かれてから、すぐに、中のことを日本軍に教えた。
日本兵は、地下室に声を掛けたが、誰も返事をしなかった。
地下室の天井には板がはってあってその上に土をのせて床にしていた。その床の土を掘っていくと板に
日本兵は、地下室に声を掛けたが、誰も返事をしなかった。
地下室の天井には板がはってあってその上に土をのせて床にしていた。その床の土を掘っていくと板に
ぶつかる。日本兵は、村人に命令して、土を掘らせた。
その音を聞いて、地下室にいた4人は、自殺することにした。地下室から出て日本兵と銃撃戦で闘っ
その音を聞いて、地下室にいた4人は、自殺することにした。地下室から出て日本兵と銃撃戦で闘っ
たら、あとで村民たちがひどい目にあうと判断したようだ。日本兵は、このとき平服で七~八人だったか
ら、闘うこともできたが、4人はそうせずに、自死の道を選んだ。
日本軍と直接戦うことをやめ、もっていた銃と手りゅう弾で地下室の中で自殺した。銃を自分に撃った
日本軍と直接戦うことをやめ、もっていた銃と手りゅう弾で地下室の中で自殺した。銃を自分に撃った
人がいた。手榴弾を爆発させた人もいた。
日本兵は、村人に地下室で倒れている4人を掘り出させた。
ひとりはまだ生きていたので、村人が息をしているのが日本兵にわからないように顔を下に向けさせた。
しかし、日本兵は顔を見て生きているのがわかったので、拳銃で頭を何発も撃って殺した。脳が砕けて
日本兵は、村人に地下室で倒れている4人を掘り出させた。
ひとりはまだ生きていたので、村人が息をしているのが日本兵にわからないように顔を下に向けさせた。
しかし、日本兵は顔を見て生きているのがわかったので、拳銃で頭を何発も撃って殺した。脳が砕けて
飛び散ったという。三人の遺体は手も足も爆弾で砕かれていた。
日本兵は、家に火をつけてからすぐ帰った。
朝8時ころに爆弾の音が聞こえ、煙が上がるのが見えた。わたしは、日本軍がいなくなってから、村
日本兵は、家に火をつけてからすぐ帰った。
朝8時ころに爆弾の音が聞こえ、煙が上がるのが見えた。わたしは、日本軍がいなくなってから、村
に戻り、死んだ4人の遺体を見た。夫の頭に弾の穴があいており、手が無かった。
そのあと日本兵は、2~3日ごとに村に様子を見に来た。
隠れ家を教えた文昌出身の党員は同志を裏切ったということで、あとで共産党に処刑された”
張亜香さんは、夫の湯主良さんらが死んだのは、正月18日だと話した。「横鎮四特戦闘詳報第五号」には、横須賀鎮守府第四特別陸戦隊第二大隊第二警備中隊第七小隊が龍衛新村を襲撃したのは、1945年3月2日であったと書かれている。1945年3月2日は、農暦では1月18日だった。
湯主良さんの遺児の湯祥文さん(1942年生)に、湯主良さんの墓に案内してもらった。
墓は村から一キロあまりはなれた広い墓地の中にあった。以前は、村の近くに埋葬されていたが、2006年にこの場所に改葬されたという。
高さ二メートルあまりの墓碑に、
「永垂不朽」
「生于一九二一年辛酉二月二十七日辰時為人正直思想進歩一九三八年投身革命曾任
村党支部幹事娶同村邦直公次女為妻夫妻恩愛傳男一丁女一口一九四五年正月十八日
為掩護群衆撤退被日軍囲困寧死不屈而光栄犠牲年僅廿四歳」
と刻まれていた。
そのあと日本兵は、2~3日ごとに村に様子を見に来た。
隠れ家を教えた文昌出身の党員は同志を裏切ったということで、あとで共産党に処刑された”
張亜香さんは、夫の湯主良さんらが死んだのは、正月18日だと話した。「横鎮四特戦闘詳報第五号」には、横須賀鎮守府第四特別陸戦隊第二大隊第二警備中隊第七小隊が龍衛新村を襲撃したのは、1945年3月2日であったと書かれている。1945年3月2日は、農暦では1月18日だった。
湯主良さんの遺児の湯祥文さん(1942年生)に、湯主良さんの墓に案内してもらった。
墓は村から一キロあまりはなれた広い墓地の中にあった。以前は、村の近くに埋葬されていたが、2006年にこの場所に改葬されたという。
高さ二メートルあまりの墓碑に、
「永垂不朽」
「生于一九二一年辛酉二月二十七日辰時為人正直思想進歩一九三八年投身革命曾任
村党支部幹事娶同村邦直公次女為妻夫妻恩愛傳男一丁女一口一九四五年正月十八日
為掩護群衆撤退被日軍囲困寧死不屈而光栄犠牲年僅廿四歳」
と刻まれていた。
3月2日午後3時半に東方市新龍鎮新村を離れ、5時半に東方市八所鎮新街村に着いた。わたしが新街村の倪定平さん(1936年生)にはじめて会ったのは2003年春だった。その時、新街村の日本語学校のあった場所や横須賀鎮守府第4特別陸戦隊司令部司令部のあった場所などに案内してもらった。日本語学校にかよったことのある倪定平さんは、
「当時、生徒は160人くらいだった。1クラス40人で4クラスあった。正面に職員室があった。
左右に教室があった。日本人教師のひとりの名は、水村定男だった。
学校の後ろに、日本軍専用の病院があった」
と話した。
倪定平さんは「日本侵略期の新街小学校の生徒たち」、「新街小学校前の日本兵士と日本語教師たち」、 「新街小学校の教師たち 軍帽をかぶった日本人教師2人とかぶっていない台湾人教師2人」などの写真をもっていた(紀州鉱山の真実を明らかにする会制作『写真集 日本の海南島侵略と抗日反日闘争』(2007年2月10日発行、76頁)。
その年11月に再会し隣村の墩頭村の漁港近くにあった横須賀鎮守府第4特別陸戦隊守備隊の望楼跡、日本軍が爆撃した学校の跡などに案内してもらった。その後なんども倪定平さんに会って新街村とその周辺での日本軍の侵略犯罪についてくわしく話していただいた。
4月3日に家を訪ねると、倪定平さんは1年前(2023年4月20日)に新型冠状病毒肺炎で亡くなっておられた。わたしが最後に会ったのは2014年11月20日だった。一男の倪徳雲さんが“父は発病してから10日間ほど入院したが家で死んだ。肺が真っ白だった”と話した。
佐藤正人