三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

「朝鮮村」1998年6月~2012年11月 11

2012年11月30日 | 「朝鮮報国隊」
■紀州鉱山の真実を明らかにする会による「朝鮮村試掘」までの道程 2
 2004年2月、「朝鮮村発掘」開始直前に、それまで「発掘」に協力していた「朝鮮村」の埋葬地域の地権者(韓国人)が突然「発掘」を拒否したため、紀州鉱山の真実を明らかにする会と民族問題研究所・太平洋戦争被害者補償推進協議会との「共同発掘」が不可能になった。
 この年の3月5日に、韓国で「日帝強占下強制動員被害などに関する真相究明特別法」が公布された。
 2003年末から、紀州鉱山の真実を明らかにする会は、日本政府・日本軍・日本企業の海南島における侵略犯罪と海南島民衆の抗日反日闘争の歴史をたどるドキュメンタリー『日本が占領した海南島で 60年まえは昨日のこと』の制作を開始し、2004年4月に完成させた。
 2004年5月に開催された「日本の過去清算を要求する国際協議会 ソウル大会」の「遺骨問題セッション」で、太平洋戦争被害者補償推進協議会の金銀植さんが、「朝鮮村」の朝鮮人遺骨について報告した。
 2004年7月21日から8月15日まで、大阪人権博物館(リバティ大阪)で、展示会『海南島で日本はなにをしたのか 侵略・虐殺・掠奪・性奴隷化』(大阪人権博物館主催・紀州鉱山の真実を明らかにする会後援)開催されることになっており、この年春から、大阪人権博物館は、「催し物のご案内」などで、この企画展の趣旨や期日を公表していた。
 紀州鉱山の真実を明らかにする会は、2002年11月から、この展示会内容にかんする綿密な打ち合わせ会議を人権博物館とくりかえしおこなっていた。
 ところが、とつぜん、5月13日に、大阪人権博物館は、紀州鉱山の真実を明らかにする会に、『海南島で日本はなにをしたのか 侵略・虐殺・掠奪・性奴隷化』という表題では「右翼」から展示が妨害されるおそれがあるので変更してほしいと、申し入れてきた。
 展示内容は変えないというので、わたしたちは、展示会の表題を『海南島とアジア太平洋戦争 占領下で何がおこったか』とすることに合意した。しかし、さらに、5月30日に、大阪人権博物館は、展示そのものを延期すると一方的に通告してきた。
 この展示会は、8年あまりたった2012年11月末の時点でも延期され続けている。

 この問題にかんして、6月14日に、紀州鉱山の真実を明らかにする会は、つぎのようなお知らせをおこなった。
★企画展「海南島とアジア太平洋戦争――占領下で何がおこったか――」(大阪人権博物館主催・紀州鉱山の真実を明らかにする会後援)延期のお知らせ

 大阪人権博物館で、7月21日~8月15日に開催する予定で準備を進めていた企画展示「海南島とアジア太平洋戦争――占領下で何がおこったか――」(大阪人権博物館主催・紀州鉱山の真実を明らかにする会後援)が、大阪人権博物館の事情で、延期されることになりました。
 5月13日、大阪人権博物館から、当初の企画展名「海南島で日本はなにをしたのか――侵略・虐殺・略奪・姓奴隷化――」が“刺激的だ”という理由で、変更を提示され、展示の内容は従来通りで、企画展名を「海南島とアジア太平洋戦争――占領下でなにがおこったか――」に変更することに合意しました。
 大阪人権博物館では、特別展「つくられる日本国民」(4月13日~6月13日)を開催中に、戦闘服姿の集団が押しかけたり、大阪市議会議員がポスターの撤去、展示の即時中止などを要求してきたそうです。
 5月30日、大阪人権博物館から、現在の状況で、企画展「海南島とアジア太平洋戦争――占領下でなにがおこったか――」を開催すると、さらに右翼の攻撃が強まることが予想され、大阪人権博物としては対処できないので、延期をしたいという「提案」がありました。これは、大阪人権博物館側では、決議を経た決定でした。
 今回の企画展は、主催が大阪人権博物で、紀州鉱山の真実を明らかにする会は後援することになっていました。この間、2002年11月から約10回にわたって、大阪人権博物館側と打ち合わせ会議をおこない、企画展の準備を進めてきましたが、紀州鉱山の真実を明らかにする会としては、主催の大阪人権博物館ができないという以上、やむをえません。
 「ヒノマル」「キミガヨ」が強制され、軍隊が海外に派兵され、排外主義が強まっているいまの日本でこそ、今回の企画展は、大切な意味を持つと考えたのですが、残念ながら、わたしたちの力が及ばず、こういう結果になりました。
 なお、海南島における日本侵略史を概観する展示は、2005年7月~8月、大阪市内で、主催:紀州鉱山の真実を明らかにする会、後援:大阪人権博物館として、おこなう予定です。
 韓国では予定通り、今年2004年9月から約3か月間、主催:民族問題研究所・独立記念館、後援:紀州鉱山の真実を明らかにする会で、独立記念館での展示をふくめ、全国巡回展示をおこないます。

 2004年6月に発行された『大阪産業大学経済論集』(第五巻第三号)に、紀州鉱山の真実を明らかにする会の会員である斉藤日出治さんは、「日本の海南島侵略(一九三九~四五年) 軍事占領から空間の総体的領有へ」を発表した。
 2004年夏~秋に、紀州鉱山の真実を明らかにする会は、和歌山市内、京都大学、大阪人権博物館、熊野市内などで、『日本が占領した海南島で 60年まえは昨日のこと』の上映会をおこなった。
 2004年9月に、紀州鉱山の真実を明らかにする会は、日本政府(総理大臣、法務大臣、厚生労働大臣)に、「朝鮮報国隊」関係文書(朝鮮の監獄から海南島に連行された朝鮮人全員の名簿など)の公開と真相究明を要請した。これにたいして、10月6日に、厚生労働省職業安定局総務課から、「厚生労働省では“南方派遣報告(ママ)隊” に関する資料がないため、要請に対してお答えすることができません」という「回答」が来た。
 2004年10月1日~10月10日に、西大門刑務所歴史館で、特別展『해남도에서 일본은 무엇을 했는가?  침략・학살・약탈・성노예화(海南島で日本はなにをしたのか  侵略・虐殺・掠奪・性奴隷化)』(主催:民族問題研究所、獨立紀念館。後援:紀州鉱山の真実を明らかにする会)が開催された。続いて同じ内容の展示会が、10月15日~11月21日に韓国独立紀念館で開催された。この韓国での展示会の内容は、日本の大阪人権博物館が7月21日から8月15日まで開催を予定していながら、開会50日前の5月30日に突然延期した展示会「海南島とアジア太平洋戦争――占領下で何がおこったか――」の内容とほぼ同一であった。
 紀州鉱山の真実を明らかにする会は、この韓国での展示の準備を、2003年秋からすすめていた。この特別展の構成は、つぎのとおりであった。
  Ⅰ、総論:海南島で日本はなにをしたのか
  Ⅱ、軍事侵略、抗日闘争
  Ⅲ、経済侵略:土地略奪・資源略奪・労働強制
  Ⅳ、「朝鮮村」虐殺
  Ⅴ、海南島における日本軍隊性奴隷制
  Ⅵ、侵略犯罪に時効はない!
                                         佐藤正人
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「朝鮮村」1998年6月~2012年11月 10

2012年11月29日 | 「朝鮮報国隊」
■紀州鉱山の真実を明らかにする会による「朝鮮村試掘」までの道程 1
 2003年のはじめから、紀州鉱山の真実を明らかにする会は、韓国の民族問題研究所、太平洋戦争被害者補償推進協議会と共同で、「朝鮮村」で科学的な「発掘」を慎重におこなう準備を開始した。専門家に参加してもらい、遺骨、「副葬品」の分析などをつうじて、死因、死者の年齢などをできるだけはっきりさせ、埋められているのが誰であるのかを明らかにしようとしていた。
 その準備を進める過程で、紀州鉱山の真実を明らかにする会は2003年5月5日に盧武鉉大統領に「発掘」への協力を求めると共に、民族問題研究所、太平洋戦争被害者補償推進協議会と協議を重ねた。
 2003年11月28日に韓国国民大学校で開催された学術会議『解放後 中国地域에서 韓人帰還研究』で、金靜美さんは、「하이난섬에서의 조선인 귀환에 대해서――식민지 국가에서의 출국, 국민 국가로의 귀환――(海南島からの朝鮮人帰還について――植民地国家からの出国、国民国家への帰還――)」と題する報告をおこなった(『解放後中国地域韓人의 帰還問題研究)、国民大学校韓国学研究所、2003年11月28日)。

 2004年のはじめに、紀州鉱山の真実を明らかにする会は、「朝鮮村発掘」について、つぎのような文章を発表した。
    紀州鉱山の真実を明らかにする会は、韓国の民族問題研究所と太平洋戦争被害者補償
   推進協議会とともに、2004年2月、「朝鮮村」で「発掘」をおこなう。
    韓国と日本から法医学者に同行してもらい、厳密な遺骨鑑定によって、死因を明らか
   にし、埋葬状況や「副葬品」を分析することによって、新たな事実をつかみたいと考え
   ている。
    わたしたちが、1998年6月に「朝鮮村」をはじめて訪れ、村人から朝鮮人虐殺の事実を
   知らされた時から、5年半後に、ようやく、科学的に死因究明、すなわち虐殺という事実
   の証拠確定を始めることができるようになった。まだまだ道は遠いが、確実に、日本軍
   による「朝鮮村」における虐殺の責任者処罰・日本国家の謝罪・賠償をおこなわせる一
   歩をすすめることになった。
    「発掘」に参加しようと思う方は、紀州鉱山の真実を明らかにする会に連絡してくだ
   さい。
                                         佐藤正人
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「朝鮮村」1998年6月~2012年11月 9

2012年11月28日 | 「朝鮮報国隊」
■2003年11月
 わたしたちは、2003年10月末から11月はじめに韓国で、「南方派遣朝鮮報国隊」に入れられて海南島に送られながら帰郷できた方のうち二人に会って話を聞かせていただくことができた。
 また「在韓軍人軍属裁判」の原告のなかに、日本軍兵士として海南島に行ったことのある人が二人いられると聞いたので訪ねようとしたが、お一人は重病、お一人は行方がわからなかったため、会えなかった。
 第1次「南方派遣朝鮮報国隊」に入れられた柳濟敬さん(1917年2月生)は、大田の自宅で、2003年11月1日に、つぎのように語った。
    「1941年に、公州の長岐小学校の6年生を担任しているとき、“天皇もおなじ人間だ。
   2~3年たったら日本はほろびる”と言ったという理由で逮捕され、大田の裁判所で治安
   維持法違反で3年の実刑判決を受けた。25歳の5月に結婚して、7月に逮捕された。
    西大門刑務所に1年半ほど入れられたある日、薬剤課長から、もどったら釈放するか
   ら海南島に行かないか、といわれた。第1次「南方派遣朝鮮報国隊」だった。
    200人で、みんな青色の囚人服を着ていた。この服は、刑務所で着ていたのと同じだ。
    1943年春だったと思う。釜山から九州に行き、そこから昌慶丸という船に乗せられて
   海南島にいった。看守は10人ほどで、そのうち3人が朝鮮人看守だった。
    楡林に上陸し、40分ほど歩いた。そこに宿所があった。宿所はひとつで、200人全員が
   いれられた。まわりは鉄条網で囲まれていた。
    わたしは、ひとりだけ、医務の仕事をさせられた。宿所のなかで。マラリヤ患者や風
   土病の患者の面倒をみた。風土病にかかると顔が大きくはれる。薬は不足がちだった。
   薬がなくて死んだ同胞もいた。病気でしごとにいけない同胞は、宿所で寝ていた。
    一度だけ、同胞が殺されたのを見たことがある。見たというより見せられたのだ。金
   老麻という40代の人で、何回も逃亡してそのたびにつかまり、ついに、みせしめのため
   に宿所のなかで看守長に両手をしばられ、吊るされて殺された。   
    宿所のなかの者は全員がそれを見ないわけにはいかなかった。海南島にいって1年く
   らいたったころだった。
    あの日は、「祝日」だったと思う。朝、みんなが食事をしている時だった。吊るされてから
   すぐに死んだ。看守長の名は貴島。
       【注記】 朝鮮総督府法務局行刑課内治刑協会が発行していた『治刑』(1944
          年3月号)に、「南方派遣報国隊」にかんする貴島南星(本名、貞四)の
          「我等は挺身する」が掲載されている。
    許されないことだ。遺体はどこに埋められたかわからない。だれが運んだかは覚えて
   いない。病死した同胞がどこに埋められたかも知らない。
    宿所で同胞と自由時間にいろいろな話しをした。みんな英雄だ。えらい人間ですよ。
    200人のうち多くが三亜の飛行場建設で働かされた。田独鉱山で働かされた人もいたが
   あまり多くなかった。逃亡した人は多かった。
    わたしは、飛行場にも鉱山にもいったことがない。わたしだけは特別だった。故郷の
   父母に手紙をだすこともできた。
    1944年春、わたしは一人だけ、3人の日本人看守といっしょに帰国した。残された同
   胞のことは分からない。治安維持法違反の者は、わたし一人だった。
    海南島からもどってから仮釈放になったが、完全に自由ではなかった」。

 高福男さん(1917年11月生)は、仁川の自宅で、こう語った。
    「第2次“南方派遣朝鮮報国隊”に入れられて海南島に行った。2年の刑でピョンヤン
   刑務所にいたが、6か月間行ってくれば刑を停止するというから志願したのだ。志願し
   てから、銃を撃つなどの訓練を受けた。銃は持たないで、まねだけした。
    青い服に、“南方派遣報国隊”と書かれた腕章をつけ、リュックを背負い、戦闘帽をか
   ぶって釜山から下関に行って、一晩、小倉刑務所で寝た。800人が行った。輸送船に乗っ
   て、台湾、ホンコン、広東に寄って、1か月かかって海南島に着いた。
    海南島では、800人が同じ宿所にいれられた。最初、飛行機の掩戴壕をつくらされた。
   仕事に行くのは、50~60人の部隊で、他の人たちがどこでどんな仕事をするのかは知ら
   なかった。
    7人で逃げたことがあったが、つかまって、足を縛られて木にぶらさげられた。入院し
   て、からだが直ったあと、死んだ人を運んで埋める仕事をした。1日に4~5人死んで、砂
   浜に埋めた。3か月くらい、この仕事をした。爆撃で死んだ人もいる。逃げてつかまっ
   て殴られて死んだ人もいる。
    “朝鮮報国隊”の人で日本語も中国語も上手だったコバヤシが逃げていたが、解放
    後中国遊撃隊の小隊の隊長となって戻ってきて、われわれを助けてくれた。
    帰るときは、海口で船に乗った。われわれだけで、220~230人。その他に、“挺身隊”。
    広東に寄り、そこで100人くらいの光復軍が乗った。“挺身隊”の女性たちが、甲板で
   スヂェビやマンドウを作ってくれた。釜山で降り、ピョンヤンに帰った。
    アボヂは亡くなっていた。オモニに会ったが、すぐに一人で南に来た。オモニはあと
   から南に来た」。

 海南島から戻ってから、金靜美さんは「国民国家日本の他地域・他国における暴力――海南島の場合――」を執筆し、『東北亜歴史의 諸問題』(南陽洪鍾泌博士定年退任記念論叢。2003年10月)に発表した。
 紀州鉱山の真実を明らかにする会は、2003年5月5日付で盧武鉉大統領に手紙を送っていたが、2003年11月12日付で、韓国長官の名で、次のような公文書が届いた。
    「해남도를 포함, 해외에 소재한 일제시대 한국인 희생자들의 유골 봉황과 관련,우리
   부는 우선 일본현지 및 태평양 도서등을 답사하여 실태조사를 실시한 후 종합적인 계
   획이 수립된 연후에 범정부 차원에서 추진되는 것이 바람직하다는 입장을 갖고 있습
   니다(海南島をふくめ、海外に所在する日帝時代の韓国人犠牲者の遺骨奉還と関連して、
   外交通商部では、まず、日本、および太平洋各地を調査し、実態調査を実施した後、総合
   的な計画を樹立したあと、汎政府次元で推進するのが望ましいという立場です)」。

 盧武鉉大統領あての手紙の日本語訳文は、次のとおりであった。

  わたしたちは今年3月24日から4月6日まで、海南島で「現地調査」をおこないました。これは、1998年6月いらい、6回目の「現地調査」でした。
 5回目の海南島「現地調査」は、昨年10月におこないました。このときの「調査」は、韓国挺身隊研究所の海南島「現地調査」に、わたしたち紀州鉱山の真実を明らかにする会が協力したものです。 
 韓国挺身隊研究所が海南島・沖縄における朝鮮人軍隊性奴隷について調査するというプロジェクトに韓国女性部が支援し、この「調査」がすすめられました。その報告書は、昨年12月に韓国女性部から出されています。
 昨年の韓国外交通商部東北亜一課からの返信以来、1年が過ぎました。その後、返信で言及されている “韓国人遺骨に対する全体的な調査・発掘計画” を韓国政府がどこまで進めたのかを知りたいと考え、わたしたちは、4月8日に韓国外交通商部東北亜一課を訪ねたところ、キムヨソッソプ氏は海外勤務だということで、業務を引き継いだイサンニョル氏と会いましたが、具体的な作業が進められていないことを知りました。
 韓国では、独立運動や民族運動に参加した人たちとその遺族にたいしては、韓国国家報勲処をつうじて、手厚く配慮されていると聞いています。日本の植民地下朝鮮において、「朝鮮報国隊」として海南島に送られた人たちは獄中に捕らわれていた人たちでしたが、多くのばあい「軽犯罪」を起こしたとして捕らわれることになった思われます。
 2001年4月、韓国で、「朝鮮報国隊」のうち、幸いに故郷に帰ることができた3人の方がたに、わたしたちは当時の体験を聞かせていただきました。
 この方たちの証言と、幸いに故郷に帰ることができ、“仮釈放”された217人の書類(朝鮮総督府行刑課京城刑務所制作。ソウルの韓国政府記録保存所に保管されている)に記載されている内容から推測すれば、「朝鮮報国隊」に入れられた方がたは、民族の尊厳を否定され、生活の手段をもつことができず、生き抜くためにいたしかたなく、些細な「事件」をおこしたか、あるいは「事件」そのものが民族差別によって引き起こされたものであったり、あるいは民族差別にもとづく不当な裁判で刑を課せられた場合が多かった、と思われます。
 植民地下朝鮮で、「朝鮮報国隊」に入れられた人たちもまた、独立運動や民族運動に参加した人たちと同じく、19世紀末から20世紀中半にかけて朝鮮民族が体験した歴史とともにあったのです。かれらは、植民地朝鮮の矛盾を身に背負わされ、このような悲惨な運命を強いられたのです。この方たちが遺骨となって、約60年間、打ち捨てられたままです。当然にも、この歴史的責任は、日本政府が負うべきなのは、いうまでもありません。しかし、さしあたって、この方たちの復権を、韓国政府が考慮しないで誰ができるのでしょうか。

 現在まで聞いた証言によれば、海南島には、「朝鮮村」だけでなく、他の数箇所でも朝鮮人が埋められていると思われます。多数の朝鮮人が虐殺され埋められたために付近の住民が名づけた「朝鮮村」には、約50メートル×150メートルの広さにわたって、朝鮮人の遺骨が埋められていると考えられます。
 「朝鮮村」をふくめ、海南島各地に埋められている朝鮮人遺骨の調査・発掘は、一市民団体ができるものではなく、韓国政府が具体的に立案し、実行することによってこそ可能になるものと考えます。
 しかし、そのためには、関連予算策定などが必要であり、ただちに着手できないのはやむをえないでしょう。
 そこで、わたしたちは、さしあたり、つぎの2点にかんして、韓国政府にお願いしたいと思います。
 1、遺族が高齢化し、南方に位置する海南島の気候のために、海南島各地に埋められている朝鮮人遺骨の発掘は急を要します。
   それで、わたしたちは、来年2004年2月に、「朝鮮村」の数体の遺骨だけでも発掘し、死因を特定し、埋葬の状況などを調査する予定です。
   この発掘・調査に要する費用を補助していただけないでしょうか。
 内訳:
    ①専門的鑑定人(法医学者、現代考古学者など)の海南島渡航費・滞在費、および鑑定に必要な諸経費など。
    ②「発掘」のための諸経費など(表層土を取り除く労賃など)。
 2、日帝時代、朝鮮の刑務所から海南島に連行され、幸いに故郷に帰ることができて「仮釈放」された人たち217人分の書類(朝鮮総督府行刑課京城刑務所作製)は、ソウルの韓国政府記録保存所に保管されています。
   しかし、2000人を越えると考えられる「朝鮮報国隊」(「南方報国隊」ともいわれました。海南島に連行された人たちにつけられた名称)の名簿は発見できていません。したがって、「朝鮮村」に埋められている人たちの名前は、ひとりとして明らかになっていません。
   わたしたちはこれまで、韓国政府記録保存所をはじめ、日本東京にある日本防衛図書館、矯正図書館(日本の行刑関係の資料が保管されている)などを調査しましたが、発見できていません。 
   この名簿を所蔵している可能性があるのは、日本の厚生労働省あるいは法務省です。
   ご存知のように、日本の官庁は、このような名簿の捜索にかんしてまったく非協力的であり、また、実在していても、隠匿あるいは非公開の立場をとっているので、わたしたちが見ることはむずかしいと考えられます。
   1991年に、盧泰愚大統領が日本政府に要求し、韓国に渡された軍人、軍属、被連行者の名簿も、日本では公開されていません。
   そこで、韓国政府が、日本政府にたいして、一日も早く「朝鮮報国隊」(「南方報国隊」)として海南島に送った人たちの名簿を捜索して韓国に引き渡すように、強硬に要求してください。
                                            佐藤正人
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「朝鮮村」1998年6月~2012年11月 8

2012年11月27日 | 「朝鮮報国隊」
■2003年7~8月 韓国KBS取材スタッフとともに
 紀州鉱山の真実を明らかにする会は、海南島で撮影した映像をもとに、2003年7月始めに、ドキュメンタリー『海南島で日本人はなにをやったか! 日本軍の海南島侵略と抗日闘争“田独鉱山・「朝鮮村」”』(23分)を制作していた。
 そのすぐ後、紀州鉱山の真実を明らかにする会は、2003年7月末から8月始めにかけて、10日間、海南島で7回目の「現地調査」をした。韓国KBSの取材班といっしょだった。
海南島についてまもなく、田独鉱山で、当時働かされていた王亜二さん(黎族。1927年生)から話を聞かせていただいた。犠牲となった労働者が埋められている「万人坑」のすぐ近くに住んでいる王亜二さんは、つぎのように話した。
    「11歳のときから8年間、ここで鉱石を運ぶ仕事をした。朝鮮人が、1000人くらいいた。
   鉱石を水で洗うしごとを主にしていた。上着は青色で、下は白。みんな同じ服を着ていた。
   朝鮮人の大きな宿所のうしろに日本兵が駐屯していた。30~40人の日本兵が、仕事をする
   人たち全体を、刀を持って、監視していた。
    朝鮮人は、半分くらい死んでしまった。飢え死にした人が多かった。残った朝鮮人は、
   三亜や荔枝構に行った。
    この近くに住んでいた人たちはみんな、強制的に働かされた。逃げたら、毎日家に探
   しに来た。朝鮮人が日本兵に殺されるのは見なかったが、村の人たちが殺されるのは、
   おおぜい見た。仕事ができない人は、刀で突き殺して、焼いた」。

 1942年末から、日本軍は、不足している労働力を補うために、朝鮮の刑務所から獄中者を海南島に強制連行する策動を開始した。海軍の要請に応じた朝鮮総督府法務局は、朝鮮各地の刑務所から残る刑期が2年~3年の獄中者を選んで、「南方派遣朝鮮報国隊」を組織し、刑期を短縮するという条件で、1943年3月から海南島に送り出しはじめた。
 「南方派遣朝鮮報国隊」は、1944年3月ころまでに、8回組織され、2000人以上の朝鮮人獄中者が、海南島に連行されたが、そのうち帰国できた人はわずかだった。
 海南島で「南方派遣朝鮮報国隊」の人びとは、青色の囚人服を着せられていた。王亜二さんが、田独鉱山で、みた青色の服を着ていた朝鮮人とは、「南方派遣朝鮮報国隊」の人びとのことだろう。
 「朝鮮村」には、、朝鮮人虐殺を目撃した村びとが何人もいる。
 2003年7月30日に自宅の近くで、林瑞章さん(70歳)は、「子どものころ、牛追いをしながら、朝鮮人が道路をつくったり洞窟を掘ったりするのを見た。日本兵は、朝鮮人を、鉄条で胸をしばって、木にぶらさげて、“バカヤロウ”と言いながら殴った。腹が減ってしごとができない人を、そうして殴って殺した」と話した。
 董亜花さん(70歳)は、「朝鮮人は青い服を着ていた。殴られて殺されるところを見た。焼かないで、埋めた。日本人は恐くて、近づけなかった」と言った。
 蘇亜呑さん(90歳)は、日本軍が棒で朝鮮人を殴っているのを見たと証言した。

 海南島全土を支配するためには、鉄道・港湾・道路・橋梁を建設しなければならない。
 海南島最長の河である南渡江の河口は、首都海口から南に行く交通の要衝であった。この河口域で、坑日部隊の攻撃をうけ、しばしば軍需物資を奪われた日本軍は、1940年6月に鉄橋建設をはじめ、1943年3月に完成させた。基礎工事は、清水組が朝鮮人・台湾人を働かせておこなった。

 韓国KBSスタッフは、7月下旬から8月上旬にかけて、日本の関西で4日間、海南島で10日間(「朝鮮村」・田独鉱山・陵水「慰安所」跡、五百人碑、黄竹虐殺現場、石碌鉱山・八所港・黄流飛行場跡など)、取材し、ドキュメンタリー『해남도 대학살  “조국은 그들을두번 버렸다”(海南島大虐殺 “祖国はかれらを二度見棄てた”』を制作した。紀州鉱山の真実を明らかにする会は、この取材行程を起案し、全行程に同行した。
 その過程でわたしたちは、海南島における日本政府・軍・企業による侵略犯罪が、いまなおほとんど隠されたままであることを、あたためて痛感した。
日本占領下の海南島でいのちを奪われた人びとの名前はおろか、その数も、はっきりしていない。「日本鬼子」の犯罪は、過去のことではない。
 2003年8月5日に黄流飛行場に行ったとき、旧日本軍司令部跡と思われる建物の屋上に「日本鬼子」と書かれていた。

 海南島の石碌鉱山を経営していたのは日本窒素であり、鉱山関係施設建設をおこなったのは西松組(現、西松建設)であった。西松組は、日本窒素が全額出資した鴨緑江の水豊ダム建設工事を担当していた。
 日本では、滋賀県木本の土倉鉱山を日窒鉱業が経営し、西松組が関係施設の建設をおこなっていた。日窒鉱業は、朝鮮の鉱物資源を奪うために1929年に設立された朝鮮鉱業開発が1940年に改名した植民地企業であった。
 韓国KBSは、『해남도 대학살  “조국은 그들을두번 버렸다”(海南島大虐殺 “祖国はかれらを二度見棄てた”』制作のさいに、紀州鉱山・「木本トンネル」・土倉鉱山・石原産業本社などでも取材した。
石原産業大阪本社の資料室には、田独鉱山に関係する書類はほとんどなかったが、写真帖が一冊残されていた。また、当時だされていた『石原産業社報』に、田独鉱山に関する記事がいくつか掲載されていた。
 『해남도 대학살  “조국은 그들을두번 버렸다”(海南島大虐殺 “祖国はかれらを二度見棄てた”』は、9月6日夜の韓国KBSの土曜定例ドキュメンタリー番組“追跡60分”で放映された。
 このドキュメンタリーは、「南方派遣朝鮮報国隊」の人びとの軌跡を追跡するとともに、日本が海南島でなにをやったのかを明らかにするものであり、「朝鮮村」での虐殺に焦点を合わせつつ日本の海南島侵略の全体に迫ろうとし、さらに日本軍に殺害された同胞の遺骨を放置したままにしている韓国政府の無為を追求するものであった。
                                        佐藤正人
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「朝鮮村」1998年6月~2012年11月 7

2012年11月26日 | 「朝鮮報国隊」
■2003年3~4月
 アメリカ合州国軍・英国軍を主力とする侵略軍に日本軍が加担してイラク攻撃が強行され、おおくのイラク民衆が殺され傷つけられているさなか、わたしたちは、60年前の日本の侵略犯罪を調査するために海南島にいった。紀州鉱山の真実を明らかにする会として6回目の海南島「現地調査」であった。
 海南島南部の三亜市の中心街から海岸沿いに3キロほどに、日本軍は軍用飛行場をつくっていた。その飛行場跡のすぐ近くに回新村がある。回新村の住民はほとんどが回族で、モスクがふたつある。
 2003年3月24日に、わたしたちは、回新村の小さな食堂で、三人の70代の男性から、日本軍がいた時の話を聞かせていただくことができた。海慶杰さん(74歳)は、
    「4、5歳のとき日本軍が来て、6年いた。朝鮮人も見た。おおぜいいた。道をつくって
   いた」
といい、近くにあった日本軍の病院で、洗濯や消毒のしごとをしたという金万慶さん(74歳)は、
    「診てもらうのはみんな日本人だった。朝鮮人は道路工事など、重い仕事で、ひどく働
   かされていた。みんな同じ青い服を着ていた」
と話した。哈秉堯さん(74歳)は、日本人が、朝鮮人を「朝鮮報国隊」の人たちだというのを聞いたという。
 わたしたちは、その宿所跡に、案内してもらった。朝鮮人は、飛行場建設や、道路建設をさせられ、殴られて死んだ朝鮮人もいたという。その現場も教えてくれた。哈秉堯さんは、子どものころ毎日のように朝鮮人が大ぜい死ぬのを見たという。
 回新村の食堂で話を聞かせていただいているとき、わたしたちに声を掛けてくる女性がいた。最初はなんと言っているのかわからなかったのだが、「アメリカは悪い」と繰り返していることがわかった。そのことがきっかけとなって、「アメリカのイラク攻撃」について、みんなが話しはじめた。わたしたちは「反対だ、日本政府・日本軍の協力を阻止できないのが残念だ」と答えた。村人は「反対米国。米国は良心がない」と、イラク民衆が殺されていることに心を痛め、怒っていた。

 その翌日、「朝鮮報国隊」の軌跡を尋ねて、わたしたちは、「朝鮮村」北方の南林にいった。前年にそこで「朝鮮報国隊」が掘らされていたという3本のトンネルを見たが、さらにくわしく聞きとりをするためだ。
 わたしたちは、雨のなか、前回見ていなかった2本のトンネルを、前もいっしょにトンネルを探した青年たちの案内で見た。近くに住む吉明和さんは、
    「3本目のトンネルと2本目のトンネルの間に朝鮮人の宿舎があった。朝鮮人は大ぜい
   いた。1944年ごろから1年くらいいた。服は藍色。
    まもなく一人もいなくなった。どこにいったのかは分からない。インド人が銃を持って
   監視していた。
    殺された人もいた。朝鮮人たちの遺体はここから南の方にある東方村に埋められてい
   る。日本軍の司令部の近くに‘慰安所’があった」、
と話した。

 2003年3月末~4月上旬の、14日間の紀州鉱山の真実を明らかにする会の海南島「現地調査」の前半に、『海南日報』の記者陳超さんと許春媚さんが同行した。毎日、宿所に戻るのは夜8時過ぎだったが、記者たちはそれから記事をつくって本社に送信していた。許春媚さんは海南島文昌の人だ。文昌各地で聞きとりするとき、文昌方言がわかる許春媚さんにずいぶん助けられた。陳超さんには、しばしば証言を「普通語」で筆記してもらった。
 その記事は、『海南日報』2003年3月28日号(「日韓学者調査日軍侵瓊史証 見証血泪歴史」)、3月31」日号(「沈黙的物証」・「滄桑老人的君子情懐」)、4月4日号(「千名朝鮮冤魂長眠三亜」・「我省“日軍侵瓊史”研究零砕」)に連載された。
 また、2003年3月29日の中国新聞网で3月28日の『海南日報』の記事の一部が報道された(「日韓学者第六次赴海南調査日軍侵略史証)。

■日韓学者第六次赴海南調査日軍侵略史証
  http://www.jrj.com.cn/NewsRead/Detail.asp?NewsID=189748
  中新社海口三月二十八日电 两名日本、韩国学者三月二十五日前往海南省陵水、万宁、文昌等地,寻访当年被日军掳到海南岛的朝鲜劳工的分布轨迹。这是日韩学者第六次来琼调查日军侵琼史证。
  据此间《海南日报》报道,来访学者分别是日本国朝鲜史研究所学者佐藤正人和韩国学者金静美。佐藤正人说,他们二十四日来到三亚,找到了当年日军劳工的当地幸存者哈秉尧(七十七岁)、金万庆(七十四岁)和吉明和(八十二岁)等人,他们不仅亲身经历了被日军强迫进行的繁重而残酷的劳作,更亲眼目睹了一批被日军从朝鲜监狱强行运送来的朝鲜劳工所受的严刑折磨和杀害。
  日韩学者此行的目的,除了解朝鲜劳工分布轨迹外,还为了获取日军对海南进行军事侵略和占领,建立军事基地,对海南资源进行掠夺,建立慰安妇制度和海南军民所进行的抗日斗争等方面的史证及资料。
  佐藤正人和金静美从一九九二年开始研究日本侵略亚洲的历史,从一九九八年开始研究日本侵略海南岛的历史。此前,两人先后对三亚“田独”万人坑、石碌万人坑等当时有日军侵占、并以“朝鲜报国队”名义强制朝鲜人及中国人劳动的地方进行现场走访调查。


 海南島から戻ってまもなく、2003年4月下旬に、わたしたちは、韓国高陽市に住む朴奎秉さんを訪ねた。2001年1月に海南島の「朝鮮村」ではじめて会って以来、2回目であった。朴奎秉さんたち3兄弟は、京城刑務所から海南島に連行され、解放後も戻ってこない父の朴聖南さん(1914年生まれ)の消息をつきとめようとしていた。
 2003年4月29日の『朝鮮日報』と5月30日の『ハンギョレ新聞』に「海南島の朝鮮人虐殺」にかんする記事が掲載された。

■‘일제의 하이난섬 학살’ 추적 김정미· 사토 씨
 하이난섬 조선인 학살…왜 정부는 침묵하나
  http://cafe.daum.net/1392royal/5KsT/377?docid=57CR5KsT37720030429132144

 ‘하이난 섬의 진실’을 밝히는 데 인생을 건 재일교포 역사학자 김정미(金靜美·54)씨와 일본인 시민운동가 사토 쇼진(佐藤正人·61)씨의 방한 발걸음은 이번에도 무겁다.
 두사람은 이달초 보름간 일정으로 중국 하이난섬(海南島)을 다녀왔다.
 일제 말기 이곳에 징용으로 끌려왔다가 1945년 패망 직후 집단학살당한 조선인 1000여명의 억울한 죽음을 규명하기 위해서다.
 『하이난 섬 산야(三亞)시 교외의 난딩(南丁)촌 ‘천인갱(千人坑)’이란 집단묘지에선 당시 학살당한 조선인들의 제복단추, 군대수첩, 침통 등 유품들이 무수히 발굴되고 있습니다.
 산야시 정부에서도 1990년대 말 70세 이상 노인 50여명의 구술을 토대로 당시 숨진 1000여명이 모두 조선인이란 자료를 발간했습니다. 그런데 왜 그들의 조국인 대한민국 정부는 침묵하고 있는 겁니까?』
 ‘하이난섬의 비극’이 국내에 알려진 것은 극히 최근이다. 일제말기 서대문형무소 등 전국 형무소에 수감돼 있던 한국인들이 형기 단축이란 조선총독부의 감언이설에 속아 하이난섬에 끌려왔다.
 명칭은 「조선보국대」(朝鮮報國隊). 비행장 건설, 항만 공사, 철도 공사, 철광 채굴 등에 동원됐다가 패망 직후 일본군에 의해 학살된 것으로 드러났다.
김씨와 사토씨는 일본 미에(三重)현에 있는 기슈(紀州)광산의 조선인 강제노역을 규명하기 위해 1997년 설립된 시민단체「기슈(紀州) 광산의 진실을 밝히는 모임」에서 함께 활동했다.
 김씨는 오사카에서 태어난 교포 2세로 우리 민족사에 관심을 갖고 현대사 연구에 뛰어들어 「중국동북부의 조선·중국인 항일민중사 서설」등을 썼다.
 프리랜서 잡지 편집자인 사토씨는 20여년전 재일교포 역사가 박경식씨의 일본 제국주의 비판에 공감, 시민운동에 뛰어들었다. 이들은 1998년 기슈광산을 운영한 이시하라(石原) 광산이 하이난섬에서 경영한 티앤두(田獨) 광산 실태 파악을 위해 현지 답사에 나섰다가 조선인 학살 사건을 접하게 됐다.
 이후 조선총독부와 방위청 문서 등을 샅샅이 뒤진 결과, 1943년 3월부터 패망 직전까지 2500여명 정도가 조선보국대로 하이난섬에 끌려갔고 이중 217명 만이 무사귀환했다는 기막힌 사실을 밝혀냈다.     金基哲기자    
  【写真】하이난섬 조선인 학살사건을 추적하고 있는 재일교포 김정미씨(왼쪽)와 일본인
     사토 쇼진씨.  채승우기자
  【写真】 산야시 난딩촌 조선인 집단묘지에서 발굴된 군대수첩.  김정미씨 제공

■‘하이난섬 징용’ 유족 찾습니다
 재일교포·일 시민운동가 “학살 진상규명에 필요
 『한겨레』2003年5月30日
http://legacy.www.hani.co.kr/section-005000000/2003/05/005000000200305302145177.html

  “일제시대 때 하이난 섬에 강제로 끌려간 사람들의 유족들을 꼭 찾아주세요”
  지난 29일 저녁 〈한겨레〉를 찾아온 재일교포 김정미(54)씨와 일본인 시민운동가 사토 쇼진(61)이 어눌한 한국말로 건넨 첫마디다.
  이들은 지난 1998년부터 현재까지 ‘하이난섬의 학살’로 알려진 일제 강제 징용·학살사건을 파헤쳐 널리 알려왔다.
  일제는 1943년께 중국 최남단에 위치한 하이난 섬에 2천여명이 넘는 한국인들을 강제로 끌고 갔다. 이들 중 1천여명은 일제 말기 서대문형무소 등 전국 형무소에 수감돼 있던 사람들이며, 위안부들도 상당수 포함된 것으로 알려졌다. 일제는 강제 징용된 이들을 ‘조선보국대’라는 이름으로 비행장 건설, 항만공사, 철도 공사 등에 투입했으며 1945년 패망 뒤 이들을 집단학살했다는 것이 김씨 등의 오랜 조사결과였다.
  김씨 등은 조선총독부 자료 등을 뒤져 당시 하이난으로 끌려간 2천여명 중 ‘가석방’된 217명만이 한국으로 돌아왔다고 전했다. 김씨는 “학살된 한국인들을 파묻은 매장터가 현지에선 ‘조선촌’이라는 이름으로 불려지고 있을 정도”라며 “조선촌에서는 당시 학살당한 조선인들의 제복단추, 군대수첩 등 유품들과 유골들이 계속 발굴되고 있다”고 말했다.
  이들이 소속된 일본 시민단체 ‘기슈광산의 진실을 밝히는 모임’은 98년 이래 지난 3월까지 총 6번의 현지조사를 마쳤고 내년 2월 국내의 민족문제연구소와 함께 7차 조사를 진행할 예정이다. 사토는 “7차 조사에서는 이들이 한국인임을 명백히 밝히기 위해 유골들을 채취해 법의학적 감정에 맡길 계획”이라고 말했다. 그러나 이들의 연구가 진척되기 위해서는 유족들의 증언이 중요한데 이들과 연락된 유족은 현재까지 당시 강제징용자의 아들 박아무개(72·고양시)씨 1명뿐이다.
 “일본 정부로부터 사과를 받아낼 때까지 끝까지 진실을 밝힐 것입니다.” 이들의 다짐이었다.(이메일 주소 pada@syd.odn.ne.jp
    양선아 기자 anmadang@hani.co.kr


 2003年はじめから、紀州鉱山の真実を明らかにする会は、韓国の民族問題研究所、太平洋戦争被害者補償推進協議会と共同で、「朝鮮村」で「発掘」をする準備を開始した。専門家に参加してもらい、遺骨、「副葬品」の分析などをつうじて、死因、死者の年齢などをできるだけはっきりさせ、埋められているのが誰であるのかを明らかにしようとしていた。
                                         佐藤正人
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「朝鮮村」1998年6月~2012年11月 6

2012年11月25日 | 「朝鮮報国隊」
■2002年10月:第5回「現地調査」(韓国挺身隊研究所とともに)
 2002年10月に、紀州鉱山の真実を明らかにする会は、韓国挺身隊研究所と共同で、海南島における日本の侵略犯罪の「現地調査」をおこなった。これは、紀州鉱山の真実を明らかにする会にとっては、5回目の「現地調査」だった。
 日本軍が海南島に侵入を開始したのは、1939年2月だったが、はやくも翌3月に、海口の海軍情報部長は、台北の海軍武官室を通じて台湾拓殖会社本社に「慰安所」設置を依頼した。これは、日本外務省・日本海軍・日本陸軍の三省連絡会議の決定に基づくものであった。台湾拓殖会社は、ただちにこれに応じ、5月に海口に「慰安所」を竣工させた。
 海南島に侵入した日本軍の主力は海軍であった。日本海軍は、海南警備府本部を海口におき、海南島全域を5つに区分し、第15警備隊、第16警備隊、佐世保鎮守府第八特別陸戦隊、舞鶴鎮守府第一特別陸戦隊、横須賀鎮守府第四特別陸戦隊の5部隊に軍事支配させた。第15警備隊の司令部は海口に、第16警備隊の司令部は三亜に、佐世保鎮守府第八特別陸戦隊の司令部は嘉積(現、瓊海)に、舞鶴鎮守府第一特別陸戦隊の司令部は那大(現、儋州)に、横須賀鎮守府第四特別陸戦隊の司令部は北黎におかれた。日本軍は、司令部をおいた嘉積、海口、那大、三亜、北黎以外の各地でも性的暴行をおこない、「慰安所」を設置した。
 今回の「共同調査」のときに、わたしたちは、嘉積、海口、那大、三亜、新村、新盈、白馬井、石碌、保亭、加茂、陵水、后石の「慰安所」跡を訪れた。
 海口では、黄礼分さん(1922年生まれ)に、「慰安所」跡を案内してもらった。黄礼分さんは、日本侵略時に、「富乃屋」という「慰安所」を経営していた50歳くらいの日本人“みやざき”が同じく経営していた氷菓子屋で働いていたという。黄礼分さんは、“みやざき”がいつも「富乃屋」にいるので、売上金を持っていくときに、「慰安婦」にされていた女性たちも見たことがあるという。女性は十数人いて、朝鮮人か日本人かはわからないという。「富乃屋」、香港人が経営していた「双美楼」のあった場所を教えてもらったが、当時の建物は残っていなかった。海南警備府本部の場所は、これらの「慰安所」のすぐ近くだった。
 新盈では、朝鮮人女性も収容されていたという「慰安所」とされていた建物のある紅民南街で聞きとりをした。その建物は、取り壊されかけていた。その2軒隣りに住んでいる陳偉さん(1926年生まれ)は、「ここの慰安所は日本人だけが利用した。経営していたのは60歳くらいの日本人だった」と話した。
 保亭では、張応勇さんを再訪し、日本軍隊性奴隷とされていた朝鮮人女性朴来順さんについて、くわしく話しを聞かせてもらった。張応勇さんは、
    「日本の罪悪史を調査していて、朴来順さんのことを知った。なんども訪ねて、ようやく
   すこしづつ話しを聞かせてもらうこができた。故郷に帰りたかったら、領事館を通じて話
   してあげようといったが、ここで長い間暮らしたのだから、ここで死ぬといった」
と話した。朴来順さんは、日本の軍艦にのせられて、1942年2月に海口につれてこられ、「慰安所」にいれられ、1943年1月に、三亜紅沙の「慰安所」に移された。そこには、田独鉱山の近くで、日本軍人だけでなく石原産業の関係者もきたという。
 張応勇さんに、朴来順さんが死ぬときまで住んでいたところ(保亭亭県公路局宿舎)に案内してもらった。また、張応勇さんに、朴来順さんと親しかったという林玩香さん(1939年生まれ)を紹介してもらった。
 海南島に連行され、「慰安婦」とされられた朝鮮人女性の数は、はっきりしない。これまでのわたしたちの調査と『文史史料』などの記述を総合すれば、海口、三亜、石碌、藤橋、陵水などの「慰安所」に収容されていた朝鮮人女性は70~80人となる。今後、調査をすすめれば、この数はさらに増えるかもしれない。1845年に「三亜航空隊」の第二中隊長であった楢原留次氏によれば、飛行場近くの「つばさ荘」という名の「慰安所」には、朝鮮人女性15人が「収容」されていたという(楢原留次「海軍経歴と海南島勤務」、『三亜航空基地』三亜空戦友会事務所刊、1980年)。

 海南島占領直後から、日本軍は、飛行場、港湾、道路などを整備して、海南島の軍事基地化を進めた。同時に、日本軍は、海南島の資源を奪うために、日本企業とともに鉱山開発、電源開発、鉄道・道路・港湾建設などを進めた。
 そのために、日本軍と日本企業は、海南島の住民(先住民族黎族・苗族、および漢族の人たち)だけでなく、中国大陸や香港や台湾や朝鮮の民衆、マラヤやシンガポールなどで「捕虜」としたオーストラリア軍兵士やイギリス軍兵士(当時イギリスの植民地とされていたインドの民衆がおおかった)なども強制労働させた。1942年5月18日付けで、海南警備府司令長官砂川兼雄は、第16警備隊司令に、「印度人俘虜三〇〇名」の香港から三亜までの「護送警戒」を命令している。 
 今回の「共同調査」の初日に、わたしたちは、「朝鮮村」から10キロほど北の紅花村で、陳亜娘さんに出会った。90歳をこえているという陳亜娘さんは、
    「日本人が来たときには、ここに住んでいた。2番目の弟が遊撃隊に入っていった。日
   本人が来て、共産党がどこにいるのかしきりに聞きくので、恐くて山に逃げた。日本軍
   は、娘を見れば、みんな捕まえていった。日本人が来ると、女は顔に土を塗った。
   朝鮮人が道をつくったりする仕事をしているのを見た。人数は多かった。朝鮮人は、青
   い服を着ていた」
と話した。
 当時のことをよく知っている周亜時さんが、「朝鮮村」で小学校教師をしている息子のところにいっている、と村人が教えてくれたので、訪ねた。
 周亜時さん(90歳)は、
    「黎族の人たちがおおぜい強制的に日本軍のもとで働かされた。わたしも働いた。一
   戸にひとり、連れていかれた。わたしが住んでいた紅花で朝鮮人は、紅花山で石を切り
   出して運んだり、道を作ったりしていた。南丁でも見た。三亜飛行場でも朝鮮人をおお
   ぜい見た。わたしが見た朝鮮人は、みんな青い服を来ていた。朝鮮人といっしょに仕事
   はしなかった。朝鮮人は、とても辛い思いをしているようだった。日本兵が大きな木に
   朝鮮人をつるして殺したという話しを聞いたことがある」
と話した。

 2002年10月の紀州鉱山の真実を明らかにする会と韓国挺身隊研究所と共同「現地調査」のあと、11月1日に、三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・相度)の追悼碑を建立する会は、『紀伊半島・海南島の朝鮮人――木本トンネル・紀州鉱山・「朝鮮村」――』を発行した。
 この年12月に発行された韓国挺身隊研究所編『二〇〇二年国外居住日本軍‘慰安婦’被害者実態調査』(韓国女性部権益企画課)に、金静美・佐藤正人「海南島에 있어서의 日本軍隊性奴隷制度와 強制連行・強制労働  二〇〇二年一〇月 海南島“現地調査”報告」が掲載された(このブログの2011年5月13日~25日の「海南島における日本軍隊性奴隷制度と強制連行・強制労働」1~9をみてください)。
                                         佐藤正人
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「朝鮮村」1998年6月~2012年11月 5

2012年11月24日 | 「朝鮮報国隊」
■2002年4月~6月:金大中大統領への要請と回答
 2002年春の4回目の海南島「現地調査」を終えてからまもなく、紀州鉱山の真実を明らかにする会は、韓国の金大中大統領に、4月17日付で要請書を送った。
 その主内容は、①韓国政府が「朝鮮村」に埋められている朝鮮人の遺骨の「発掘」をしてほしい、②韓国政府が主体となって「発掘」できないばあいは、民間の「発掘」に協力してほしい、③日本政府に「朝鮮報国隊」の名簿を要求してもらいたい、というものであった(この要請文の朝鮮語全文とその日本語訳全文は、このブログの2009年5月30日~6月3日の「日帝強占下強制動員被害真相糾明委員会との「交流」」18~23に掲載してあります)。
 これにたいして、6月20日に、キムヨソップ韓国外交通商部東北アジア1課1課外務官から回答が電子メールで送られてきた。その主要部の日本語訳文はつぎのとおりであった。

    「日帝時代に強制徴兵・徴用で連行された韓国人は数十万人にのぼり、このうちの相
   当数が祖国に帰れず、海外で犠牲になったものと推定されます。
    これら遺骨の韓国への奉還は、貴下の要請のとおり、国家的次元で、わが国の政府に
   よって遂行するべき課題だと判断します。
    このために、海外に散在する遺骨の所在の調査、および発掘作業が先行されなければ
   なりませんが、現在では、関連予算の不在などにより、これに着手することができない
   実情です」。
    「貴下が要請した中国海南島「朝鮮村」に埋められている遺骨の解剖(ママ)は、上記
   したように、まず海外所在韓国人遺骨にたいする全体的な調査・発掘の計画が樹立された
   あと、同計画の一環として検討され可能になるものと思われますが、われわれとしては、
   今後関連予算の確保のためにさまざまな努力を傾注しつづける予定であることをお知ら
   せします」。 

 原文の全文は、つぎのとおりであった。
  1. 귀하께서 2002.4.29(월) 대통령비서실에 접수시킨 민원(제204-1076호)에 대한 회신입니다.
  2. 먼저 귀하께서 일제의 강제징용 등으로 해외에서 억울하게 희생된 분들의 유골 봉환문제에 깊은 관심을 갖고 있는데 대하여 감사의 말씀을 드립니다.
  3. 일제시대에 강제징병.징용으로 연행된 한국인들은 수십만명에 이르며 이들중 상당수는 조국으로 돌아오지 못하고 해외에서 희생된 것으로 추정되는 바, 이들의 유골의 한국으로의 봉환은 귀하의 요청과 같이 국가적 차원에서 우리 정부에 의하여 수행되어야 할 과제라고 판단됩니다.
   이를 위하여는 해외에 산재한 유골의 소재 조사 및 발굴작업이 선행되어야 할 것인 바, 현재로서는 관련예산의 부재 등으로 이에 착수하지 못하고 있는 실정입니다.
  4. 귀하께서 요청하신 중국 해남도 '조선촌'에 묻혀 있는 유골의 해부는, 상기와 같이 먼저 해외소재 한국인 유골에 대한 전체적인 조사.발굴 계획이 수립된 이후에 동 계획의 일환으로서 검토 가능할 것으로 보이는 바, 우리부로서는 금후 관련예산의 확보를 위하여 계속 모든 노력을 경주해 나갈 예정임을 알려드립니다.
  5. 귀하의 건승을 기원합니다.
         외교통상부 동북아1과 외무관 김요섭
                                         佐藤正人
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「朝鮮村」1998年6月~2012年11月 4

2012年11月23日 | 「朝鮮報国隊」
■2002年春
 2002年3月下旬から4月始めにかけて、紀州鉱山の真実を明らかにする会は、海南島で4回目の「現地調査」をおこなった。このとき、わたしたちは、「朝鮮村」(当時は、南丁村)に駐屯していた日本軍(日本海軍海南警備府第16警備隊南丁進駐隊)が1945年の敗戦直後に作成した文書に含まれている日本軍関係建造物の配置図をもって「朝鮮村」を数回訪れた。この文書のなかには、「引渡目録 南丁村(朝報隊)ノ部」という表題の文書があるが、これが、「南丁村」に「朝報隊」(=「朝鮮報国隊」)が存在していたことを示す唯一の日本軍関係文書である。ほかに、「朝鮮報国隊」について記述している日本軍関係文書には、1944年11月4日から日本敗戦時まで日本海軍海南警備府司令長官だった伍賀啓次郎(1951年4月8日、日本で死亡)の「帰還報告書」(1946年4月10日)がある。

 日本海軍海南警備府第16警備隊南丁進駐隊が作成した日本軍関係建造物の配置図には、「工員宿舎」、「職員宿所」、「警務室」、「警戒員宿舎」、「発電所」などの位置が示されている。
 わたしたちは、その地図を周学勤さんにも見てもらい、朝鮮人の収容所や井戸などがあった場所に、これまでよりも正確に案内してもらうことができた。1935年生まれの周学勤さんは、朝鮮人強制労働や日本軍による朝鮮人虐殺を目撃している。
 周学勤さんには、当時の朝鮮人の炊事場跡にも案内してもらった。そこはいまは、周学勤さんの幼なじみ林瑞章さんの畑になっていた。林瑞章さんも、朝鮮人が木に吊るされているところや、朝鮮人が日本人から鉄条網の鉄条で殴られているのを、子どものころに見たという。また、食べるものがないので、朝鮮人は炊事場に接した土地で野菜を作っていた、と話した。
 わたしたちは、南丁村のとなりの中村に行って、「朝鮮報国隊」が掘らされた洞窟と軍用施設を見たあと、南丁嶺に登った。山頂から、楡林港、三亜港が見えた。日本軍は、南丁地域を、楡林や三亜を放棄したあとの軍事的拠点にしようとしたのではないか。

 朝鮮各地の監獄から「朝鮮報国隊」の隊員として海南島に強制連行され、労働を強制され、暴行され、虐殺され、埋められていた朝鮮人は、2001年1月に「発掘」され、遺骨が、海南島の陽に照らされ、風にさらされた。
 その後、遺骨のほとんどは、韓国曹渓宗の役員僧侶の助言にしたがって砕かれ、小さな壷に分けられ、虐殺現場近くのコンクリート作りの建物の中に置かれた。個別にDNA鑑定などをすれば、犠牲者の名がわかるばあいがあるかもしれない。慎重に「発掘」された遺骨を法医学鑑定すれば、拷問の痕や死因を特定できるだろう。
わたしたちはどうすることもできなかったが、遺骨をひとまとめにして砕いてしまってはならなかった。

 5体の遺骨だけが、砕かれずに、ガラスケースに入れられ、「遺品」(衣服の一部、ボタンなど)や、いっしょに出てきた「軍隊手帳」、薬莢などとともにべつのレンガ作りの建物のなかで「展示」された。死者の名がわかり、遺骨が家族のもとに帰る日が、2001年の「発掘」によっては、近づかなかった。
 遺骨も「遺品」もこのままでは、気温が高く湿気のおおい海南島では、まもなく崩れ去っていくだろう。「遺品」や虐殺の証拠品(「軍隊手帳」、薬莢、らせん状のはりがねなど)の「保存処理」を急ぎたい。

 わたしたちは、日本参謀本部地理測量部が1940年に作成した「朝鮮村」周辺の5万分の1の地図を手がかりに、旧道を通って南丁から北方に向かい、紅花を経由して、羅逢に行った。
 羅逢で、わたしたちは、1945年ころ、朝鮮人が300人くらい働いているのを見たという石明さん(98歳)から話を聞くことができた。石明さんによれば、朝鮮人は南丁から来て、みんな青い服を着ていた、井戸を掘ったり道路をつくっていた、という。
 複数の人たちの証言によれば、「朝鮮報国隊」の制服は青色だったから、石明さんが見たという南丁から来た朝鮮人は「朝鮮報国隊」の人びとだったと思われる。当時、石明さんも日本軍によって強制的に石を運ぶしごとなどをさせられたという。

「朝鮮報国隊」の人びとの軌跡を尋ねて、わたしたちは、羅逢からさらに北に行った。
 南林の中心で青年たちに尋ねると、日本軍の洞窟が7本残っているという。青年たちの案内で、そのうちの3本を見ることができた。
 そのあと、案内してくれた青年の祖父の吉明和さん(1923年生)に自宅の庭で話を聞くことができた。
 日本軍に道路工事や建築作業をさせられたことがあるという吉明和さんによれば、洞窟を掘ったのは、台湾人、朝鮮人、香港人、「本国人」などで、洞窟までの道路工事もさせられていたという。吉明和さんは、
    「朝鮮人は1000人以上いたように見えた。青色の服を着ており、門のついた囲いの中
   に住み、日本人が指揮して朝鮮人が朝鮮人を監視していた、
    場所はこの近くだ、いま南林郷政府のある場所に日本軍司令部があった……」。
 吉明和さんは、「メシ」という日本語を覚えていた。
    「朝鮮人はわずかしか‘メシ’を食べておらず、体が弱って何人も死んだ。
     日本人に殴られて死んだ朝鮮人も多かった。
     朝鮮人が首を切られて殺されるのを見たことがある。
     死んだ朝鮮人は近くに埋められたが、いまは畑になっていて跡はもうない」。
 南林の行政区は、三亜市に北接している保亭黎族苗族自治県に属している。
 わたしたちは、この県の県都保城鎮で張応勇さんから話を聞いた。
 保亭文史資料工作委員会主任であった張応勇さんの調査によれば、南林の洞窟を掘らされた労働者の5分の1は中国人、5分の1は朝鮮人で、5分の3はベンガル人(孟加拉人)だったという。

 1943年末、海南警備府は、三亜港西方40キロメートルの新村港に特攻艇基地をつくりはじめた。「海南警備府第32部隊軍用施設略図」には、特攻艇「震洋」の格納トンネルが、12本示されている。
 この地図をもって新村に住む趙向盈さんといっしょにトンネルを探した。趙向盈さんは、トンネルが掘られていたころ、新村の「治安維持会」副会長兼秘書長だった。趙向盈さんによれば、この基地の工事をさせられたのは、田独鉱山と石碌鉱山の労働者で、香港、台湾、朝鮮、大陸から連れてこられた人たちだったという。

 その後、わたしたちは、昌江黎族自治県石碌鎮に行った。
台湾から強制連行され、石碌鉱山や八所で働かされ、日本敗戦後も石碌に残った白川さん(1921年生)は、
    「自分の県から110人がここに強制的に連れてこられた。20歳のときだった。西松組の
   平井班に入れられ、火力発電所の地盤を造成する爆破隊で働いた。西松組は、すぐ殴る。
   (給料は)軍票でもらった。
    解放後、八所で、台湾人と朝鮮人がいっしょに会をつくった。
    台湾人と朝鮮人は、仲がよかった。八所には、台湾人がおおぜいいた。
    当時、朝鮮人といっしょにしごとをした。李という女性に、八所で会った。
    朝鮮人は、潜水夫のしごとをしていた。海の中の状況をつかむ役割だった。
    石碌で朝鮮報国隊の人たちを何人も見た。ふたり1組で、1メートル半くらいの鉄の
   鎖でつながれていた。あの人たちは朝鮮で日本に反対した人たちで、政治犯だと、友人
   が教えてくれた。大ぜいが、マラリアにかかったりして死んだ。
    台湾人もおおぜい死んだ。鉄道のトンネルを作るときに、落盤でおおぜい死んだ。自
   分といっしょに海南島に来たうち、生きのこったのは50人ほどだ」
と証言した。石碌の自宅で、馬霖さん(86歳)は、
    「1942年2月に香港から三亜に来た。翌年あんまりしごとがきつくて逃げた。つかまっ
   て共産党員と思われて、3か月間、木の足かせをはめられた。足の親指を縛られ、頭を下
   にして吊るされて殺された人もいた。三亜の中山路で‘朝鮮報国隊’と縫いつけた青い
   服を着ている人たちを何度も見た。20人くらいで、道路を修理していた。‘コラー’
   と、日本の兵隊がどなっていた。わたしは、‘朝鮮報国隊’は朝鮮共産党の人たちだと
   思っていた」
と話した。向全さん(1917年生)は、「朝鮮報国隊」について、馬霖さんの家の近くの自宅でつぎのように話した。
    「石碌から八所間の鉄道工事の途中で、‘朝鮮報国隊’を見た。同じ青色の制服を着
   ていた。日本軍は、他の労工に、報国隊に近づくなと言っていた。‘朝鮮報国隊’の人
   たちは、ほんとうに苦労をした。周りにだれもいないときに、タバコをあげたことがあ
   る。日本帝国主義に反対した人たちだと聞いていた」。
                                        佐藤正人
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「朝鮮村」1998年6月~2012年11月 3

2012年11月22日 | 「朝鮮報国隊」
■2001年1月:「朝鮮村」の遺骨「発掘」
 1998年後半から2000年末まで、わたしたちは、日本の防衛研究所図書館、矯正図書館、外務省外交資料館、国会図書館など、韓国の政府記録保存所などで、「朝鮮報国隊」にかんする文書を探索した。
 防衛研究所図書館で、「朝鮮村」虐殺に直接かかわったと思われる日本兵の名やその上宮の名(日本海軍海南警備府第16警備隊司令能美実)を発見した。また、旧日本海軍戦友会の名簿から「朝鮮村」虐殺の事実を知っていると思われる人びとの名を見つけた。
 矯正図書館で、「朝鮮報国隊」に直接関係した藤間忠顯、諸岡亀吉ら日本人行刑官僚の名を探し出した。
 だが、かれらのうちあるものはすでに死に、生き残っている者は、面会を拒否し、事実を隠しつづけようとした。
 2000年春に海南島に行き、「朝鮮村」をくりかえし訪問し、「朝鮮報国隊」に入れられた朝鮮人の足跡をたどったあと、金靜美さんは、2000年5月24日に、ソウルで開かれた第9次国際歴史教科書学術会議でおこなった報告「日帝期의 強制連行 問題에 関하여」のなかで「朝鮮村」と「朝鮮報国隊」について述べた(『第9次国際歴史教科書学術会議《各国의 歴史教科書에 비친 過去清算問題》(綜合報告書)』国際教科書研究所、2000年11月)。

 2001年1月、徐在弘さんが中心となって「朝鮮村」の遺骨を「発掘」し、韓国MBC(文化放送)が、3・1独立運動記念日に、「朝鮮村」虐殺にかんする特別番組を放映することになった。
 紀州鉱山の真実を明らかにする会は、MBCから協力を依頼され、金靜美と佐藤正人が、1月12日に海南島に行った。「発掘」はこの日に始められた。
 「発掘」の作業は、「朝鮮村」の村人の協力をえて、韓国から来た忠北大学校遺骸発掘センターの大学院生3人が中心になってすすめられた。
 1月13日午後、遺骨のそばから白いボタンが出てきた。白いボタンは、1月17日までに、2つ穴のもの30個、4つ穴のもの1個が「発掘」された。また「朝鮮報国隊」の「制服」の断片と思われる布きれもみつかった。
 1月14日午前10時ころ、頭蓋骨に穴があいている遺骨が「発掘」された。また、別の場所からは、遺骨といっしょに弾丸が出てきた。遺骨の頭部のそばに太い針金製のものが埋められていた。
 1月14日午後4時ころ、遺骨頭部の右側から「軍隊手帳」が出てきた。
遺骨は、地表から、30~80センチのところに、①一体ずつ横たえられて、あるいは、②穴にまとめて放り込まれるようにして、あるいは、③手足と胴体だけが積み重ねられた状態で、発見された。
 1月15日朝から、遺骨を1体ずつアルコールにひたし、2時間ほどたってから、土をおとして拭く作業がつづけられた。12日から14日までに35体が「発掘」された。
 1月16日、遺骨が埋められている所に建てられている「日冦時期受迫害朝鮮同胞死亡追慕碑」の前で、韓国からきた約20人の僧侶が主導して、追悼式(「天導祭」)が行われた。太平洋戦争犠牲者遺族会の人たちも参席した。
 この日、朴奎秉さんら3兄弟とその妻が、「朝鮮村」を訪れた。朴奎秉さんらの父朴聖南さん(1914年生)は、1943年初め治安維持法違反容疑で逮捕され、海南島に送られ、その後連絡がとだえたという。朴奎秉さんらは、父がつれていかれた海南島に1月15日に行くてはずを済ませたあと、1月9日の『中央日報』で1月16日に追悼式があることを知って、旅程をかえてここにきたのだという。朴聖南さんが、「朝鮮村」で殺されたのかどうかはわからない。
 夫の帰りを待ちながら10年まえに亡くなった兄弟の母は、夫のことを、「風のように出ていき、風のように帰ってくる人だ。また風のように帰ってくる」といっていたという。
 「朝鮮報国隊」の人びとは、「朝鮮村」周辺で、道路工事、井戸ほり、トンネルほり、軍用施設建設などをやらされた。
 わたしたちは、1月15日に、「朝鮮村」の隣の中村へ行った。中村の裏山には、旧日本軍のトンネル跡のそばにコンクリート製の建造物が残されていた。
 同じ日、わたしたちは、三亜市郊外の羊蘭に残されている旧日本軍の三亜飛行場跡や、田独鉱山に行った。そこでも朝鮮人が働かされていた。
 韓国MBCは、2001年初めから、「朝鮮報国隊」にかんする情報を求めるテロップをながしていた。それに応えて、かつて「京城刑務所」で看守をしていた人の子息、「朝鮮報国隊員」として海南島に強制連行されながら幸い帰国できた人、日本軍海南警備府第16警備隊に所属していた元朝鮮人兵士たちが、連絡をよせ、協力したという。
 わたしたちが「朝鮮村」を離れたあとも「発掘」が2月11日まで続けられ、さらに85体が「発掘」されたという。
 3月1日に、韓国MBCは、3・1独立運動記念特別ドキュメンタリーとして、『하이난섬의 大虐殺(ハイナン島の大虐殺)』を放映した。

 この年10月24日に、佐藤正人は上海で開かれた第10次国際歴史教科書学術会議で「日本占領下の海南島における朝鮮人虐殺  アジア民衆共同の東アジア近現代史認識をめざして」と題する報告をした(『第10次国際歴史教科書学術会議《亜細亜諸国의 歴史教科書에 비친 抗日運動》(綜合報告書)』国際教科書研究所、2001年12月)。
                                         佐藤正人
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「日韓学者来瓊調査日軍侵瓊史」

2012年11月21日 | 海南島史研究
■日韩学者来琼调查日军侵琼史
  人民网 2012年10月31日13:14 来源:海南日报
  http://theory.people.com.cn/n/2012/1031/c40531-19450856.html

  今天早上8时,海口市博物馆《日本侵占海南时期文物史料展》大厅来了3位日、韩学者,其中,日本的佐藤正人先生和韩国的金静美女士研究海南岛近现代史、尤其是日本侵琼史多年。海口博物馆史料中的不少日文书刊引起佐藤正人兴趣,他在仔细辨认、小心翻看之后表示,很大一部分他只看过书目,或在日本国家图书馆见过,但已腐烂得不能翻动。
  在海口市博物馆,佐藤正人等人认真观看一本本有关海南岛的日文书籍和杂志,以及日本人留下的上百张素描作品和拍摄的70多张海南风光、人物照片。佐藤正人对《广东福建读本》、《海南岛的农业》等书刊兴趣甚浓,在征得博物馆工作人员同意后,他戴上白手套小心翼翼地翻看起来。
  佐藤正人说:“很多资料在日本都难得一见,像《南支派遣军》这些书,我只见过书目,有些只能在日本的国家图书馆看到,但已经烂得不能翻阅,有些在私人手中,但很昂贵,都在5万日元(约合人民币4000元)以上,我个人买不起。海口市博物馆珍藏的这些日本侵琼资料种类丰富,而且具有很高的文化、历史和文物价值。”佐藤正人告诉记者,这些书刊大多数都是日军1939年2月登陆海南岛之前出版,说明日本在侵琼前已对海南地质、物产和矿产做了深入、全面的研究,这些书是在日本或台湾印刷的;像《新天地海南岛写真集》这类书,是在侵琼后出版的,一般就在海口印刷。
  据了解,从今天开始至11月12日,佐藤正人和金静美以及日本大阪产业大学的齐藤日出治教授,还将前往陵水、保亭、三亚、东方和临高等地,实地调查日军侵琼史实,尤其是寻访对那段历史的知情者,做好文字和音视频记录。(记者陈耿)
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