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三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

2012年秋の海南島「現地調査」 2

2012年10月31日 | 海南島史研究
 きょう(10月31日)、儋州市東成鎮の水流村を訪ね、夕刻、白沙黎族自治県阜龍をことし3月につづいて再訪しました。
                                      佐藤正人
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2012年秋の海南島「現地調査」 1

2012年10月30日 | 海南島史研究
 きょう(10月30日)から11月11まで13日間の、紀州鉱山の真実を明らかにする会としては22回目、海南島近現代史研究会としては9回目の海南島「現地調査」をはじめました。
 きょう、午前8時半に海口博物館を訪問し、張建平館長の案内で、ことし7月7日から開催されている“日本侵占海南時期文物史料展”を見ました。その後、張建平館長と今後の海口博物館と海南島近現代史研究会との共同作業について話し合いました。
 午後は、儋州市光村鎮の簡屋村を訪問し、夕刻、ことし3月につづいて儋州市木棠鎮美龍村を再訪しました。
                                         佐藤正人
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朝鮮人追悼碑の土地の課税に抗議するつどいでの演劇「ウリ コヒャン 朝鮮から紀州鉱山へ」に参加して

2012年10月29日 | 紀州鉱山

 紀州鉱山の真実を明らかにする会が7月8日に津市の三重県教育文化会館で開催した
朝鮮人追悼碑の土地の課税に抗議するつどいの中で、演劇「우리 고향 조선으로부터
기슈광산으로(ウリコヒャン朝鮮から紀州鉱山へ)朝鮮から紀州鉱山に強制連行された3人
の男のものがたり」を初上演しました。これは私たちの会が紀州鉱山に強制連行された人を
訪ねて韓国各地に行き、その中で強制連行された人、家族や同じ村の友人など話を聞かせて
いただき、その方たちのわずかだけを演劇という形で表現するものでした。ただ、演じる人
たちは真実を明らかにする会のメンバーなどのほぼ素人であり、しかもシナリオはありまし
たが、全体での芝居の練習もなく、舞台風景なども当日の朝に現場で手作り、衣装や小道具も
演者が各自のイマジネーションで準備するという、普通では考えられないいわゆる「無謀」
な企画でした。
 この演劇への登場人物は、紀州鉱山に強制連行されて死んだ人、紀州鉱山に強制連行され
て逃げた人、紀州鉱山に強制連行されて故郷に戻った人、江原道X郡警察署長(日本人)、朝
鮮に労働者を連れに行った石原産業労務係、石原産業紀州鉱山の労務監督など。ストーリー
としては紀州鉱山に強制連行された強制労働させられる中でそこから逃亡した朝鮮人、故郷
に戻ることのできた朝鮮人、そして過労と飢えで死んでいく朝鮮人の話で、この死んだ男が
現在の紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する碑前の石となり、なぜ石となったのか、朝鮮
人追悼碑の土地の課税の問題などを語り、ラストで皆でこの石(男)に結ばれた紺のリボン
を解くというものです。
 私が演じたのは朝鮮に労働者を連れに行った石原産業労務係でした。ある程度のシナリオは
決まっていましたが、セリフは各自に任され相手との掛け合いの中でほぼアドリブで変化し
ていくもので、一応話すセリフははじめに決めてありましたが、実際の演劇の中ではこれま
で強制連行や強制労働についての自分の中での知識や経験の中で、石原産業の労務係にな
りきった訳ではないのですが、いつの間にか「朝鮮人のことを人間と思わない卑劣な日本人」
を演じていました。おそらく他の出演者の方もそれぞれの知識や経験や思いがそれぞれの役の
中に入り込み、その思いが溢れ出ていたのではないかと思います。それが演技はさておき、
見ている人たちに強烈に伝わったのだと思います。 
                                       嶋田 実
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朝鮮人を追悼する土地への課税に抗議するつどい 2

2012年10月28日 | 紀州鉱山
 演劇のあと、丁乙權さん(江原道議会議員。紀州鉱山に強制連行された丁榮さんの孫)からのあいさつが代読され、慶尚北道議会議員のみなさんが前に出て、ひとりひとり感想を話してくれました。金昌淑さんは、
   「演劇を見ていて涙が出た。わたしたちがしなければならないことをやっていただいて
   いる。真実は必ず明らかにされると信じている。わたしたちのできることは協力をして
   いきたい。問題をできるだけ友好的に解決していきたい」
と語りました。李英植さんは、
   「前回と今回、2度日本に来ることで事実をはっきり知ることができた。皆さんとともに
   歩んでいきたい」
と語り、洪普圭さんは、
   「真実を明らかにすることに全力を尽くしている皆さんに感謝したい。韓国に帰って何
   をすることができるか考えていきたい」
と語りました。羅玄雅さんは、     
   「みなさんの情熱を知り、深く感動した。今は実現が難しくても、たとえ次世代、次々
   世代になってでも解決するように努力したい」
と話しました。
 休憩をはさんで、紀州鉱山の真実を明らかにする会の竹本昇さんが、裁判の経過についての報告しました。
 その後、参加者が活発に意見を交換しました。その意見をうけて紀州鉱山の真実を明らかにする会の佐藤正人さんが、これからの運動の進め方についての問題提起をしました。 
 佐藤さんは、
   「朝鮮人犠牲者の追悼碑の土地の税金を払うことは、日本の植民地支配と侵略戦争を肯
   定し、あらたな侵略犯罪に加担することだと思う」
と語り、ついで、これから追悼の場をどのように創造していくかについて提起し、追悼の場をみんなの力で創造・整備していく過程で紀州鉱山の朝鮮人労働者がどのような状況に置かれていたのかについてさらに調査すると同時に、この追悼の場をアジア全域の強制連行の実態を明らかにする拠点としていくことを提案しました。また、熊野市が今年も課税してきた固定資産税に対して不服申し立てをすると同時に提訴についても検討することを提案しました。
 佐藤さんの具体的な提案をめぐって討論がさらに深まるなかで、この日のつどいが終わりました。
                                        斉藤日出治
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朝鮮人を追悼する土地への課税に抗議するつどい 1

2012年10月27日 | 紀州鉱山
 このブログに7月12日に掲載した「朝鮮人追悼碑の土地の課税に抗議するつどいの報告」を、紀州鉱山の真実を明らかにする会『会報』12号に掲載するにあたって、つぎのように加筆しました。
                                         斉藤日出治

■朝鮮人を追悼する土地への課税に抗議するつどい
 조선인 추도비 부지에 대한 과세에 항의한다
   우리는 왜 기슈광산 조선인 「추도 터」의 세금을 지불하지 않는가
 朝鮮人追悼碑の土地の課税に抗議する
   わたしたちは、なぜ、紀州鉱山朝鮮人「追悼の場」の税金を払わないのか

 紀州鉱山の真実を明らかにする会は、7月8日午後1時から津市内の三重県教育文化会館で、朝鮮人追悼碑の土地の課税に抗議するつどいを開きました。開会に先立って、12時から同じ会場で慶尚北道の道会議員を囲む記者会見がおこなわれました。
 はじめに、ドキュメンタリー「紀州鉱山に強制連行された人たち 故郷で」が上映され、続いて「우리 고향 조선으로부터 기슈광산으로(ウリ コヒャン 朝鮮から紀州鉱山へ)」が上演されました。
 この演劇は、キムチョンミさんが作成した物語の概要と基本的な場面設定を示した脚本をもとにして、出演者がそれぞれ、衣装、セリフ、小道具を工夫して演じました。 
 観ている人たちのなかには、泪をうかべている人もいました。石原産業の労務係や紀州鉱山の労務監督や警察署長には非難のヤジがなんども飛び、紀州鉱山に強制連行されて死んだ人、紀州鉱山に強制連行されて逃げた人、紀州鉱山に強制連行されて故郷に戻った人の演技のときには、会場が静まりかえり、激励の声がかけられました。
 キムチョンミさんは、紀州鉱山と四日市工場に強制連行された人から証言をもとに構成した脚本について「わたしたちがお会いした人たちの体験を、ごくわずかだけ、表現したものである」と述べています。
 出演者は、その脚本をもとにして、出演者がそれぞれのセリフを自分で考え、まったくのぶっつけ本番で演劇がおこなわれました。
 朝鮮の江原道の村から3人の男がどこに連れて行かれるのかわからないままに、家族と離れて連行される場面から始まり、紀州鉱山での過酷な労働を強いられ、飢えと病で死に至る人、逃げようとして川でおぼれ死んだ人、逃亡を断念して鉱山に残る人、さまざまな人々の思いと行動が演じられました。最後は、紀州鉱山で亡くなり、石になった人が、その石に結ばれたリボンを解かれて、自分の思いを語り、追悼碑のある場が強制労働によって命を奪われ、故郷と家族を奪われた人の思いを表現する場であることが示されました。
 会場からの掛け声や会場とのやり取りを交えて、参加者全員が演劇に参加し、追悼碑にこめられた歴史の真実を語りだす場になったように思います。
 キムチョンミさんが最後に述べていましたが、演技がうまかったというよりも、紀州鉱山に連行された朝鮮人の運命に対するみんなの深い想像力がこの演技に表現され、みんなの熱意の結晶としてこの演劇を創造できたことが、見る人と演ずる人の一体感を生み出し、感動を引き出したように思います。
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2011年11月~2012年10月

2012年10月26日 | 個人史・地域史・世界史
■国民国家日本の侵略犯罪を追究する根拠地
 2010年3月28日に除幕された紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する碑の建立宣言のおわりに、
    「わたしたちは、この追悼碑をひとつの基点として、紀州鉱山から生きて故郷にもどる
   ことができなかったみなさん、海南島で死んだ朝鮮人、そしてアジア太平洋の各地で日
   本政府・日本軍・日本企業によって命を奪われた人びとを追悼し、その歴史的責任を追
   究していきます」
と記されている。
 1994年11月20日に除幕された李基允さんと相度さんの追悼碑のある場と同じく、紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する碑のある場も、国民国家日本の侵略犯罪を追究する運動の根拠地だという思いが、昨年11月から1年間の運動の過程で、さらに強くなってきた。

■一審判決・控訴・二審判決・上告
 昨年(2011年)12月1日に、熊野市を被告とする訴訟と三重県を被告とする訴訟で「原告の請求を棄却」するという一審判決がり、今年6月7日に「控訴を棄却する」という対熊野市二審「判決」があり、10月3日に同様の対三重県二審「判決」があった。紀州鉱山の真実を明らかにする会は、6月18日に対熊野市二審「判決」にたいし、10月12日に対三重県二審「判決」にたいし上告した。
 弁護士をたてない本人訴訟において、紀州鉱山の真実を明らかにする会は、法律と裁判手続きを自習しつつ、膨大な時間と労力を使って裁判闘争を続けてきた。訴訟提起は、日本の植民地支配の犠牲者を追悼する場に課税するという日本の行政機関の行為を許さず、課税問題の政治的・社会的・歴史的本質を伝達し、国民国家日本の侵略の構造を破壊していく民衆運動の一環であった。

■韓国江原道県議会・慶尚北道県議会
 故郷から切り離されて日本に連行され、働かされ、いのちを失わされた朝鮮人を追悼する碑の敷地に土地税を課税する三重県と熊野市の現在の行為は、朝鮮人強制連行・強制労働を現在においてくりかえす行為である。日本の地域政府(地域行政機関)の過去の他地域・他国侵略行為を、現在においてくりかえすことである。
 韓国の地域政府の議会は、三重県と熊野市の過去・現在の侵略犯罪の調査と抗議を開始し、紀州鉱山の真実を明らかにする会との共闘を具体的に開始した(このブログの2011年3月11日の「3月14日の提訴についての韓国での報道」、3月15日の「韓国江原道議会議員一同の「嘆願書」」、2012年3月16日の「韓国慶尚北道議会の議員団が調査のため訪日」、4月5日の「「道議会紀州鉱山真実糾明訪問」」、4月6日の「「紀州鉱山事件関連「真実糾明訪問団」日本現地訪問」」4月7日の「「旧紀州鉱山 韓国・道議員団が視察」」、 4月8日の「「日本紀州鉱山犠牲者追悼地課税に抗議」」などをみてください)。

■三重県紀州鉱山・海南島田独鉱山・フィリピン アンチケ鉱山
 紀州鉱山を「経営」していた石原産業は、同じ時期に、海南島、フィリピン……で鉱山資源を略奪し、その過程でおおくの民衆のいのちを奪っていた。その真相を、今後さらに究明していきたい。

■なぜ、紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する碑の敷地の土地税を払わないのか
 紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する場は、紀州鉱山への朝鮮人強制連行、紀州鉱山での朝鮮人強制労働の事実を伝え、犠牲者を追悼し、その歴史的責任の所在を明らかにする場だ。
 紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する場に対する土地税を、一円でも納入することは、日本の行政機関の侵略犯罪に加担することだ。
 7月8日の「朝鮮人追悼碑の土地の課税に抗議するつどい(わたしたちは、なぜ、紀州鉱山朝鮮人「追悼の場」の税金を払わないのか)」は、「追悼の場」をひとつの根拠地とする民衆運動のこれからの道のりを語りあうつどいとなった。
                                                  佐藤正人
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『会報』57号・12号合併号

2012年10月25日 | 『会報』
 きょう(10月25日)、三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・相度)の追悼碑を建立する会『会報』57号と紀州鉱山の真実を明らかにする会『会報』12号の合併号を発行しました。
 内容は、つぎのとおりです。

 佐藤正人「2011年12月~2012年10月」
 「李基允さんと相度さんを追悼する18回目のつどい」
 「紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する4回目のつどい」
 「伝統舞踊家が追悼の舞」、『伊勢新聞』2011年11月28日
 「旧紀州鉱山 労働に従事 朝鮮人追悼」、『中日新聞』朝刊(くろしお版)2011年11月29日
 小久保久子「イ・ギユンさん、ペ・サンドさんを追悼する集いに参加して」
 黒川裕之「熊野随想」
 上田 理奈「仲間との連帯」
 「日本鉱山犠牲者追悼地課税に抗議  金昌淑慶北道議員紀州は紀州鉱山強制労働犠牲者
追悼地課税強硬対応!」、『新民主新聞』2012年2月24日
 キムチョンミ「慶尚北道議会の決議と議員団の紀州鉱山「現地調査」」
 「‘日本 紀州鉱山 真相究明 要求’本日 決議」、『ハンギョレ』2012年3月22日
 「紀州鉱山事件関連「真実糾明訪問団」日本現地訪問」、慶尚北道議会ウェブサイト2012年
4月2日
 「道議会紀州鉱山真実糾明訪問」、『慶州インターネット新聞』2012年4月5日
 「慰霊碑敷地課税撤回を要求 韓国の訪問団、熊野市議会議長らと面談」、『伊勢新聞』2012年4月4日
 「旧紀州鉱山 韓国・道議員団が視察 熊野市長と面談も」、『朝日新聞』朝刊(三重版)2012年4月4日
 「韓国道議会、紀州鉱山追悼碑を訪問」、『中日新聞』朝刊(三重版)2012年4月4日
 「真実究明と解決を 紀州鉱山 韓国の道議会訪問団」、『中日新聞』朝刊(三重版)2012年
4月5日
 「旧紀州鉱山で韓国・道議員団 「具体的解決策ない」 市議や県議らと面談」、『朝日新聞』
朝刊(三重版)2012年4月5日
 竹本昇「裁判報告 裁判の経過と論点」
 佐藤正人「裁判報告 最高裁への上告までの経過」
 「紀州鉱山の追悼碑課税訴訟 原告の主張退ける 津地裁判決」、『伊勢新聞』2011年12月
2日
 「朝鮮人慰霊碑課税 原告側の訴え却下 津地裁判決」『中日新聞』朝刊(三重版)2011年12月2日
 「朝鮮人追悼碑 熊野の訴訟 原告訴え 地裁棄却」『朝日新聞』朝刊(三重版)2011年12月
2日
 佐藤正人「名古屋高裁がどのような「判決」をだそうとも」
 「紀州鉱山追悼碑で控訴審」、『中日新聞』朝刊(社会面)2012年4月11日
 紀州鉱山の真実を明らかにする会「名古屋高裁の審理不十分なままの「弁論終結」・「判決」
に抗議する」
 「追悼碑課税訴訟 熊野の原告敗訴 名高裁が控訴棄却」、『中日新聞』2012年6月8日朝刊
 斉藤日出治 「朝鮮人を追悼する土地への課税に抗議するつどい」
 郭政義 「 “ウリ コヒャン 朝鮮から紀州鉱山へ”に出演して」
 李在一 「歴史認識」とは?」
 嶋田実「演劇“우리 고향 조선으로부터 기슈광산으로 ウリコヒャン 朝鮮から紀州鉱山へ”
に参加して」 
 キムチョンミ「慶尚北道議会議員訪問団の7月の訪問」
 「慶北道議会、日紀州鉱山追悼碑報告会参席」、『大邱=ニューシス』2012年7月9日
 紀州鉱山の真実を明らかにする会「朝鮮人を追悼する土地への課税継続に抗議する」
 「会計報告」

 B5版 36頁。 定価200円(送料80円)。
 連絡先 三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・相度)の追悼碑を建立する会
                     大阪府大東市中垣内3 大阪産業大学 斉藤日出治方
       紀州鉱山の真実を明らかにする会
                     和歌山県海南市日方1168
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鄧玉民さん、陳亜扁さん

2012年10月24日 | 海南島
 8人の海南島戦時性暴力被害訴訟原告のうち譚玉蓮さんが2003年12月に、黄玉鳳さんが2004年9月に、譚亜洞さんが2010年9月8日に、陳金玉さんが2012年9月22日に亡くなられました。
 以下は、陳亜扁さん、鄧玉民さんの近況を伝える最近の海南島の記事です。
 林亜金さんの近況を伝える記事は10月18日のブログに、黄有良さんの近況を伝える記事はきのうのブログに掲載しました。
                                    佐藤正人

■海南慰安妇幸存者:只要活着就要控诉日本侵略者
  http://news.hainan.net/newshtml08/2012w10r18/906482f0.htm
  海南在线、海南新闻  时间:2012-10-18 20:23:00 来源:人民网海南视窗
             
  编者按:她们是一个特殊的群体,一个历史永远不能回避的特殊群体。近日,随着状告日本政府的海南省“慰安妇”黎族老人陈金玉病逝的消息传播开来,这一特殊群体再度引起各界的广泛关注。
        【照片】邓玉民老人
  2001年7月,在中日律师的帮助下,陈金玉与7名受害的黎族、苗族姐妹一起,于日本东京地方法院以日本政府为被告提起诉讼,要求判令日本政府在中、日两国媒体上公开赔礼道歉,并赔偿每位原告2300万日元。2008年12月,陈金玉老人还远赴日本作证,希望打赢这场官司,以讨回公道。然而,日本法院罔顾历史事实,先后两次驳回原告要求日本政府谢罪并给予赔偿的诉求。
  2012年9月22日,这位两次站在日本的法庭,要求日本政府谢罪,坚称“只要活着就上诉到底”的老人走完了她86年的人生历程,带着遗憾去了另外一个世界。
  有报道说,陈金玉老人去世后,当年状告日本政府的8名黎族、苗族“慰安妇”中,已有4人抱憾离世。
  有人说,每一位慰安妇都是“活着的历史”,她们每个人的离去,都将带走一段弥足珍贵历史。但遗憾的是,这些“活着的历史”却几乎已经被这个社会遗忘。而我们翻开这段历史,是为了让更多的人关注她们的生存现状,以及她们身后那段不该忘记的历史。
  10月15日,记者到保亭县响水镇什月村委会什齐村时,已经是傍晚时分,暮色四合下,乡村这个小村庄显得十分幽静。这是一个典型的苗村,全村子也就几十户人家。86岁的邓玉民老人就住在这个村子。
  志愿者陈厚志在路上告诉记者,邓玉民老人的身体还可以,生活条件比起林亚金老人,要好很多。在一处苗族民宅前,裹着彩色条纹头巾的邓玉民老人,坐在椅子上吃稀饭。得知有人来看望她,一边与记者等一行打着招呼,一边紧将稀饭吃完。
  据陈厚志介绍,日军侵略海南岛后,邓玉民所在村子的60多位苗族男女都被汉奸骗到县城做劳工,其中就包括16岁的她。先是一个叫松木的日军军官凌辱了她,后来日本兵也多次凌辱她。这样的生活一直持续到1945年8月。后来,日本人忙着撤退,劳工无人看管,邓玉民她们才侥幸地逃了出来,后在她1949年嫁给当地一青年,生育了一个女儿。
  在《真相:慰安妇调查纪实》一书中,邓玉民回忆了自己被强迫成为慰安妇的惨痛经历:“1943年秋天,我和姐姐当了日本人的劳工,劈山开路,种烟草和水稻。陈金玉:1941年初,日本人在我们这里建据点的时候,我16岁。当时日本人把我抓去当劳工。开始我被派去种水稻、蔬菜,不久就被编入了“战地后勤服务队”,那时我根本不知道“战地后勤服务队”是干什么的,只以为当了服务队队员比其他劳工要轻松一些。
  劳工里还有其他几个姑娘,日军监工看我们几个年轻姑娘长得好看,就指着我们对翻译叽里咕噜说了些什么。当天傍晚,我和几个姐妹就被翻译叫了过去,要我们搬到粮食仓库那边去住,工作是筛米和装袋。
  搬下来第二天,翻译把我带到日军长官住房。那个长官翻译称他松木先生,松木说我长得漂亮,要和我交朋友。我听不懂他的话,经翻译对我说了,我也不明白他的意图,就点点头表示同意了。
  当时我刚过16岁,而松木看样子有40多岁了。那天傍晚,翻译官又来找我,说松木先生叫我去。虽然我心里非常害怕,但我也不敢不去。翻译官把我带到松木的房间后,叽叽咕咕地说了些什么就走了。松木就拉我坐在他身边,才一坐下,他就把我抱到了怀里,我们苗族姑娘穿的是包襟长衣,没有纽扣,他抱住我,就用手在我的胸和下身乱摸乱捏。我很害怕,就拼命地反抗,但没有用,很快他就把我扒光强奸了。第一次被强奸,很痛,回来后姐妹们问我发生了什么事,我只是哭,也不敢说出实情。
  这之后,松木就天天要我到他房间里去。有时白天,有时晚上。他每月都强迫我服几粒丸,说是预防病的。和我在一起的几个姑娘,她们也都和我一样……”
  2001年7月,邓玉民等8名曾沦为海南岛“慰安妇”的中国妇女向东京地方法院提起诉讼,要求日本政府谢罪以恢复她们的名誉,并给予每人2300万日元的赔偿。虽然一审、二审都败诉了,但老人始终没有放弃,她说:“只要我活着就要控诉日本鬼子!”老人的女儿也表示,“如果母亲老死,不能继续上诉,我将接受母亲委托继续申诉,直到讨回公道为止。”
  如今,老人的女儿都是年过50岁的人了,包括邓玉民老人在内,整个家族已有12口人。由于晚辈的勤劳和孝顺,邓玉民老人过着满足的生活。“一个月前,她不小心摔了一跤,一只手臂被摔坏了。”邓玉民的孙女婿告诉记者,“当时炉灶上架着锅烧热水,铁锅放偏了些,她老人不放心,却扶锅,结果不小心被地上的木柴绊倒了。她以前只吃干饭和肉,偶尔还会喝点酒,青菜很少吃的。这些天没办法,只能让她吃些稀饭。”
  因为去医院就医不太方便,而且老人也不愿意为自己的病乱花钱,家人就采集了草药给老人治疗,值得庆幸的是,这次老人的伤并不是很重,也没有伤到骨头,目前已经恢复的差不多了。
  对于老人过去的遭遇,其家人显得很坦然,其女儿蔡女士说:“是历史造成的错,老人是无辜的。我们希望她身体健康,能长命百岁。”老人现在还有一个心愿:希望自己的身份证能早日办好。因为没有身份证,很多老年人应该享受的待遇她都得不到,为此老人很着急。
  其孙女婿告诉记者,老人的材料早就送到派出所了,不知道什么原因至今没有办好。他希望记者能够帮忙催一下。 (记者宁远)


■海南幸存慰安妇:钓鱼岛千万不能被日本抢去了
  http://news.hainan.net/newshtml08/2012w10r19/906524f0.htm
  海南在线 海南新闻  时间:2012-10-19 8:20:00 来源:人民网海南视窗
     
  编者按:她们是一个特殊的群体,一个历史永远不能回避的特殊群体。近日,随着状告日本政府的海南省“慰安妇”黎族老人陈金玉病逝的消息传播开来,这一特殊群体再度引起各界的广泛关注。
      【照片】医生为老人检查身体
      【照片】在医疗所打点滴的老人
  2001年7月,在中日律师的帮助下,陈金玉与7名受害的黎族、苗族姐妹一起,于日本东京地方法院以日本政府为被告提起诉讼,要求判令日本政府在中、日两国媒体上公开赔礼道歉,并赔偿每位原告2300万日元。2008年12月,陈金玉老人还远赴日本作证,希望打赢这场官司,以讨回公道。然而,日本法院罔顾历史事实,先后两次驳回原告要求日本政府谢罪并给予赔偿的诉求。
  2012年9月22日,这位两次站在日本的法庭,要求日本政府谢罪,坚称“只要活着就上诉到底”的老人走完了她86年的人生历程,带着遗憾去了另外一个世界。
  有报道说,陈金玉老人去世后,当年状告日本政府的8名黎族、苗族“慰安妇”中,已有4人抱憾离世。
  有人说,每一位慰安妇都是“活着的历史”,她们每个人的离去,都将带走一段弥足珍贵历史。但遗憾的是,这些“活着的历史”却几乎已经被这个社会遗忘。而我们翻开这段历史,是为了让更多的人关注她们的生存现状,以及她们身后那段不该忘记的历史。
  “浑身都是病。”10月16日,陵水黎族自治县本号镇祖关村医疗所,87岁的陈亚扁老人一边等待着医生为她检查身体,一边指着身上的头、颈腰、腿等多个地方述说自己的病痛,她说这都是当年日本侵略者给她留下的。
  医疗所的王医生告诉记者,老人前些年的身体还算不错,能够自己拄着拐杖步行几里路到医疗所来看病,但现在随着年纪的长,身体已经大不如前,需要村子里的年轻人用摩托车带她来。老人目前患有高血压、支气管炎、风湿关节炎、颈椎病等多种疾病,因为条件有限,目前主要还是靠药物维持。
  据志愿者陈厚志介绍,前些年,陈亚扁老人还喜欢抽烟、喝酒、嚼摈榔,但后来因为身体每况愈下,而且经济条件有限,不得不舍弃了烟和酒,现在只剩下嚼摈榔这一爱好,虽然她的牙齿并不是很好,但老人觉得,摈榔苦涩的味道可以让人不那么容易忘记过去。
  有关史料记述了老人那段惨痛的经历:“1942年春天的一个中午,未满15岁的陈亚扁正在家中的堂屋里织着桶裙,嫂子和姐姐则在一旁舂米。突然,几个端着枪的日本兵闯进屋来,姑嫂三人吓得扔下了手中的活,惊慌失措地呆在那,不知如何是好。“如虎似狼的日本兵堵住门,叽哩咕噜地一阵乱嚷,眼睛在我们姑嫂3人的身上扫了一遍又一遍,最后停留在我身上。日本兵把我姐姐和嫂子出门,然后用匕首割断我身上系着的连着纺车的缠带,把我拉起来,用手在我身上乱抓乱捏,并粗野地剥光了我的衣裙,又把我按倒在地上……不管我怎样哀叫、挣扎,他们都不停下来,还兴奋地狂叫……直到我昏死过去。”
  从那以后,日本兵就经常来找陈亚扁,直接在马背上或村寨外面施暴,陈亚扁稍有不从,就会遭到毒打。
  后来,日本兵索性把她抓到军营,一同被抓去的还有同村的其他漂亮姑娘。她们被关在两间简易的木屋内,成了固定的‘慰安妇’,由日军士兵日夜轮班看守。每天晚上都要遭受日本官兵奸淫,遇到轮奸时至少是二三个,多时有四五个不等。”
  在军营中,她们白天给日军食用的大米挑砂子,收拾房子,夜里则供日本兵发泄性欲,有时白天也会遭到日军官兵的强暴。
  “3个月后,砧板营日军奉命把我押送到百里之遥的崖县藤桥慰安所。在藤桥慰安所里,我被关在盒子式的第二层木楼上,楼下还关着其他姊妹。由于当时我年纪小,不来月经,奸淫我的日军官兵人来人往,整夜不断……我还听到姊妹们的呼救声和啼哭声,也听到日本官兵嚎叫和狂笑声。”
  一年后,陈亚扁从藤桥慰安所又被弄回砧板营军营,关在一间房子里,相连的房子里还关住着同村的其他姑娘。“我在日军不同地方的慰安所中遭受的折磨近4年之久,从未满15岁的黄花少女到浑身创伤的18岁的大姑娘,其间受到数以千计的日军官兵蹂躏,直到1945年8月15日日军投降,才得以逃离魔窟与亲人团聚。”
  由于遭受日军长时间的心灵与肉体上的摧残,陈亚扁虽然逃脱了魔窟,但却已无法像正常人那样生活,她一个人躲到深山里,过起了与世隔绝的野人般的生活。建国以后,政府把她从山里找回来,分给土地,给了她自由生活的权利。
  1957年12月,30岁的陈亚扁嫁给了同村的一男子,然而不到一年,丈夫便去世了。3年后,陈亚扁再次嫁人,并生有一女。几年前,陈亚扁老人的第二任丈夫也已去世,现在老人和女儿一起生活。
  日本侵略者的兽行在陈亚扁老人身上留下了深深的痛楚,她先后9次怀孕,其中8次或流产或死产。她一再强调:“这是最痛苦的”。
  2006年8月,在日本东京地方法院驳回陈亚扁等8名海南慰安妇的要求日本政府道歉并赔偿的起诉后,陈压扁在被记者问及如何看待日本法院的判决时,她说,“法律上的事情,我不懂。但是我知道,一个人做错了事,就应该认错、道歉;一个国家做错了事,更应该认错、道歉。”“只要我活着,(这个官司)我就会一直打下去!”“虽然很难,但只要不放弃,总会有找回公道的一天!”
  时隔多年,陈亚扁对于记者同样的问题,依然是同样的回答,她说,只要有机会,她就会继续起诉日本政府,要求其为当年的罪行负责,同时她也想用赔偿的钱来治疗自己的病痛。如果以后还需要她去日本出庭作证,她还是会去。
  “钓鱼岛千万不能被日本人抢去了!”在记者采访过程中,听到王医生和其他村民在讨论钓鱼岛的话题,老人也急忙插话。这些年,陈亚扁老人的视力和听力都下降得比较厉害,但她还是喜欢看看电视,通过电视了解外面的世界。有关钓鱼岛的新闻她就是从电视上看到的,只要有机会她就会表达自己的观点,尽管翻来覆去也就只有一两句话,但人们都喜欢听到她这样说。 (记者 宁远)
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「海南慰安婦幸存者:只要没死就要継続討回公道」

2012年10月23日 | 海南島
 黄有良さんについての今日の「海南在线」に掲載された記事です。黄有良さんについては、このブログの2008年1月12日の「原告の黄有良さんが海南島から来て証言します」、2011年8月24日、25日の「「海南島戦時性暴力被害訴訟」」1、2をみてください。
                                    佐藤正人

■海南慰安妇幸存者:只要没死就要继续讨回公道
  http://news.hainan.net/newshtml08/2012w10r23/907243f0.htm
  海南在线 海南新闻 宝岛民生 时间:2012-10-23 7:57:00 来源:人民网海南视窗


  编者按:她们是一个特殊的群体,一个历史永远不能回避的特殊群体。近日,随着状告日本政府的海南省“慰安妇”黎族老人陈金玉病逝的消息传播开来,这一特殊群体再度引起各界的广泛关注。

  2001年7月,在中日律师的帮助下,陈金玉与7名受害的黎族、苗族姐妹一起,于日本东京地方法院以日本政府为被告提起诉讼,要求判令日本政府在中、日两国媒体上公开赔礼道歉,并赔偿每位原告2300万日元。2008年12月,陈金玉老人还远赴日本作证,希望打赢这场官司,以讨回公道。然而,日本法院罔顾历史事实,先后两次驳回原告要求日本政府谢罪并给予赔偿的诉求。
  2012年9月22日,这位两次站在日本的法庭,要求日本政府谢罪,坚称“只要活着就上诉到底”的老人走完了她86年的人生历程,带着遗憾去了另外一个世界。
  有报道说,陈金玉老人去世后,当年状告日本政府的8名黎族、苗族“慰安妇”中,已有4人抱憾离世。
  有人说,每一位慰安妇都是“活着的历史”,她们每个人的离去,都将带走一段弥足珍贵历史。但遗憾的是,这些“活着的历史”却几乎已经被这个社会遗忘。而我们翻开这段历史,是为了让更多的人关注她们的生存现状,以及她们身后那段不该忘记的历史。

       【照片】黄有良老人

  “我恨(日本鬼子),一直都恨!怎么会不恨呢?”10月16日,陵水县田仔乡架马村一间破旧的民房内,85岁的黄有良老人坐在床沿上,默默地看着门口外的阳光。在被问及有关日本和慰安妇的话题时,老人有些激动起来。她说,只要有机会她还会起诉日本政府,要求他们对那段惨无人道的罪行负责。
  1941年,日本侵略军占领了黄有良的家乡——陵水县田仔乡架马村。从此,这里的人们结束了世外桃园般的宁静生活。在《真相:慰安妇调查纪实》一书中,黄有良回忆了自己被强迫成为慰安妇的惨痛经历:
  “那年我刚15岁。记得是农历十月初五的那天早上,我挑着稻笼,往村外的水田走。忽然听到一声叫‘站住!’我抬头一看,只见前面不远处,站着一队日本兵,我吓得扔下稻笼,拔腿就往山里跑,后边10多个日本兵喊叫着追过来。最后我实在跑不动了,就被他们抓住了。一个日本人叽哩瓜啦地对我说着什么,我脑袋发胀,什么也听不懂。一个日本兵就把我抱住,在我脸上乱亲;还有日本兵就饿狼似地在我浑身上下乱摸乱捏,还剥开了我的衣服和裙子……我抓住捏我乳房的那只手,狠狠地咬了一口,被我咬的这个日本兵就拔出军刀,朝着我的头要往下劈……
  这时有一个军官模样的日本人朝着那个日本兵大叫了一声,那个日本兵就放下了刀退到了一旁。我已经被刚才发生的一切吓呆了,这个军官看了看我光着的身子,又向那些日军士兵叽哩咕噜地说了一番,然后他手一挥,日本兵便都走开了。那些日本兵走开后,这个军官就走过来搂我,还亲我。我挣脱后,又拼命逃跑,这次他们没有追过来。过了很长时间,我以为没事了,便回到田里穿好衣服,把稻谷挑回家。谁知道这个军官竟悄悄地跟在我的身后,一直来到了我家里。这时他就一把将我拦住,把我抱进卧房,然后按在床上,撕开裙子,强奸了我。
  下午,我把事情的经过告诉了母亲,母亲伤心地哭了一场。我的母亲双目失明,我们一家3口人,全靠父亲一个人干活维持全家生活,家境十分贫寒。那天晚上,因为害怕日本兵再来,我就躲到邻居家住。那一夜我哭了一个通宵。
  第二天那个军官又带着几名士兵来到了我家。他走进卧房找不到我,就让我父母手脚着地趴着,对我的父母拳打脚踢,父母被打得昏倒在地上,躲在别人家里的我,听说父母被日本兵打昏过去了,就只好回家。
  见我回来了,那个叫‘九壮’的军官就又强行把我拉到房里,将我脱得赤条条的,玩弄,最后把我按在床上强奸。
  ‘九壮’他们以后夜夜来我家。为了不让父母再被毒打,我只好任凭他们对自己糟蹋。
  1942年4月的一天,“九壮”带了几名日本兵开着军车来到我家,把我押上车,送到藤桥,关进了警戒森严的军营当‘慰安妇’。
  在慰安所里,我们不停地被轮奸,日子很难熬。当时暗中想过许多办法,想逃走,但日军看得很严,逃不出去。有一位姐妹趁天出门方便时逃走了,结果又被抓了回来,日本兵把她打得死去活来,然后又把她禁闭了起来。以后,我们就不敢再有逃走的念头了。
  和我一起被抓来的妇女都被关在一个大的房间里,比我们先抓来的妇女被关在另一个房间里。房间里有床,有被,有席子,有蚊账,房间门口都有哨兵把守,不准我们随便走动。白天,勤务兵安排我们做杂工,如扫地、洗衣服等,夜间逼迫我们陪日本兵睡觉,经常受到几名日军轮流糟蹋,还强迫你做各种动作,直到他们满足为止,根本不把我们当人看待……”

■海南慰安妇幸存者:只要没死就要继续讨回公道
  http://news.hainan.net/newshtml08/2012w10r23/907243f1.htm
  海南在线 海南新闻 宝岛民生时间:2012-10-23 7:57:00 来源:人民网海南视窗

▼说起有关日本人的话题,老人的眼里写满伤痛
  1944年,一乡亲来探望黄有良,谎称黄父病逝,日军官出于无奈,才同意放行,黄有良逃出魔掌后出逃他乡。
  2001年6月,黄有良正式向日本东京地方裁判所起诉日本政府。同年11月28日,黄有良老人走进了东京地方裁判所,代表8名海南妇女在日本侵华战争中所受到的终身伤害出庭作证。黄有良作为原告代表,站在日本的法庭上,当庭痛陈了日军侵占海南岛期间对海南妇女犯下的滔天罪行,并代表原告在诉讼要求中提出:要求日本政府正视过去的侵略事实;要求日本政府向中国人民正式道歉、公开谢罪;要求日本政府向每位原告提供经济赔偿。
  2006年8月30日下午,日本东京地方法院作出一审判决,驳回了黄有良等中国海南岛“慰安妇”事件一案原告要求日本政府谢罪并给予赔偿的诉求。之后,日本最高法院作出的终审判决也驳回了老人的起诉。
  “每走一步都很痛。”黄有良老人指着自己的腿告诉记者。那段不幸经历给黄有良老人的身体和内心都造成了巨大的创伤,至今她都无法忘却对日本侵略者的仇恨。由于年事已高,她的身体每况愈下,腿部、腰部、颈部也经常发病,在大多数时间里,她只能躺在床上度日,很少外出走动。
  “(官司输了)我不甘心。只要我没死,我就要继续讨公道!”2008年1月,在再次赴日作证时,黄有良说,只要她动得了,就要去日本打官司。官司打不赢,她死了都闭不上眼。这一次在接受人民网记者采访时,她再次表达了同样的观点。 (记者 宁远)

      【照片】老人栖身的小屋
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紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する追悼するつどい

2012年10月22日 | 紀州鉱山
李基允さんと裵相度さんを追悼するつどいの翌日に、紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する5回目のつどいを開きます。
 ぜひ、参加してください。
 昨年に続き、李陽雨さんがふたつの追悼集会でうたいます。
     在日朝鮮人の歴史を語るうた。在日朝鮮人が故郷を想ううた。

 と き:2012年12月2日(日) 午後1時開会。
 ところ:紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する碑の前の広場。
     熊野市紀和鉱山資料館(三重県熊野市紀和町板屋110―1)のななめ前。

 <宿泊のご案内
   12月1日(土)の宿泊先は、紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する碑のある熊野市
  紀和町の「湯元山荘 湯ノ口温泉」です。
   宿泊をご希望の方は、下記の連絡先に連絡してください。 
   宿泊費、夕朝食費をふくめて、5000円ほどです(懇親会費は別です)。

     紀州鉱山の真実を明らかにする会
        連絡先 和歌山県海南市日方1168
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