三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

「70年过去了 这些伤痛就在我们身边」

2015年11月30日 | 海南島史研究
http://ngdsb.hinews.cn/html/2015-08/16/content_6_1.htm
『南国都市报』 2015年8月16日  南国都市报记者王燕珍 敖坤 /文 刘孙谋 /图
■70年过去了 这些伤痛就在我们身边
  时间定格在1939年,从那年起色迷雾笼罩在海南岛上方,直到日本投降。
  1939年4月,日军入侵海南的第三个月就已经设立慰安所。到1941年止,日军在琼设立的慰安所至少有三百余家,他们掳掠了很多中国的妇女,包括当地的黎族、苗族、汉族妇女,甚至还有岛外的朝鲜妇女,海南也因此成了抗战时“慰安妇”制度的受害重灾区之一,“慰安妇”事件受害者总数在万人以上。

  日本鬼子来了。6年多的侵略,奸淫掳掠,犯下滔天罪行。
  70年过去了,那些伤痛依然延续,在一个个老人深陷的眼窝里,在一个个老人不愿触碰的记忆深处,在一个个老人一生的病痛里。
  这些老人中有一群特殊的人——慰安妇。日军践踏琼岛时,她们风华正茂;残酷的日本侵略者,将无情的魔爪伸向了她们,肆意摧残、灭绝人性。
  70年过去了,曾经的伤痛依然延续。这些伤痛,不是僵硬的历史文物,不是冷冰冰的文字记录,不是无情的漠然旁观。这些伤痛就在我们身边,在全岛依然健在的9名老人的记忆深处。
  如今,海南仅有9名“慰安妇”幸存者,分布在陵水、保亭、澄迈、临高等市县。南国都市报记者近日先后前往9位“慰安妇”幸存者家中探访,了解老人们的过去和现在的生活。


http://ngdsb.hinews.cn/html/2015-08/16/content_6_2.htm
『南国都市报』 2015年8月16日
■李美金
 心脏疼痛一直持续至今 自己能活着回来,已算是命大

     【相片】李美金老人目前居住在澄迈县中兴镇东岭村委会土龙村一间简陋的
        瓦房里面。

  澄迈县中兴镇土龙村,92岁的李美金,有些驼背,眼睛也有些花,可听力很好。8月13日上午10时许,李美金正在隔壁邻居家打纸牌。老人头上戴着色发箍,整洁干净,神采奕奕,让人不禁纳闷,她真是那位当初被日军强征做“慰安妇”,经历多重磨难的李美金老人吗?
  当记者用海南话与她聊起过往那段被日军强占当“慰安妇”的日子,一直笑容满面的李美金老人,脸上的笑意突然褪去,沉默了好久。
  李美金的娘家在澄迈和岭,与儋州交界,“日军刚来时开着飞机四处轰炸,当时村民躲在大树底下,谁知炸弹把树都给炸裂开了,村民纷纷抱头逃跑。”
  当年才16岁左右的李美金被日军抓去修机场,“白天让我们在又高又陡的山坡上干活,我人小力气小,一干活慢日军就拿枪头敲我的后脑勺,腰部也被狠狠敲打,到现在阴天还隐隐作痛。”李美金讲到这里,沉默了许久。
  晚上就是李美金的噩梦,伤害持续近乎一年。趁着一次一名死去的劳工被家属抬走的机会,她混在人群里跑回了家。当靠近家门时,李美金高喊着“阿爸阿妈”,闻讯出来的李父都不敢相信,以为女儿已经死了,没想到活着回来了。
  “我算是命大的,能活着回来。”被迫当“慰安妇”给李美金造成的伤害持续至今,当年逃出魔窟的她心脏一直隐隐作痛,直到现在,她的心脏仍不时会疼。
  “前几年晚上太,我有些害怕一个人住,就轮流在几个儿子家住,不过现在社会好了,想起日军我再也不怕了,只有对他们的恨。”李美金说。
  李美金养育了三儿三女,孩子们都建在,丈夫7年前去世,如今家里是四代同堂。
  李美金一个人住在老屋里,政府每月给150元补贴,再加上一些零星的民间捐款,生活过得也清淡。子女们每天都给母亲买点肉和菜,老人喜欢吃软饭和软菜,不习惯和年轻人一起吃,有时她自己煮点稀饭,烧柴熬烂五花肉和芋头梗,就能吃一天。
  谈及那段被日军抓去当“慰安妇”的过往,李美金的大儿子张太深说,在他10多岁时,母亲就跟他讲了日军当初的暴行,只要看到电视中播放的抗日的电视剧,老人还不忘教育孙子们,别忘了日军的暴行,要珍惜现在的生活。



http://ngdsb.hinews.cn/html/2015-08/16/content_6_3.htm
『南国都市报』 2015年8月16日
■王志凤
 家人凑9块大洋把她救出来 从此以后,她害怕天出门

     【相片】王志凤目前居住在澄迈县中兴镇东岭村委会土龙村,昏暗的小房子里,
        老人一个人坐在床上,如今她的左眼已经看不清东西。

  92岁的王志凤与符美菊、李美金同村,记者到她家时,她正躺在床上,因前两天天气变化,她腿部和关节的旧伤复发,一下床头就头晕、腿脚无力。见到记者,王志凤坚持拄着一根长木棍走到门口,她说:“外面光线好。”
  王志凤的左眼已萎缩看不见,右眼仅有一些模糊视力。因此她总觉得房间里。老人耳背,与她说话,要很大声说话才行。
  王志凤自小没了父母,为了养活两个年幼的弟弟,她常去帮人“捣米”的舅舅家借米。在王志凤16岁那年,在借米回家的路上不幸遇到了日军。之后便被抓到慰安所,白天挖战壕做苦工,夜里强迫做了“慰安妇”。
  “我一反抗就被打脸和腰,伤口还发炎溃烂,当时感觉自己快死了。”王志凤的右腿腓骨上,至今还留有一道近10厘米长的白色伤疤。
  幸好是父亲的兄弟们凑钱,花了9块大洋,才将王志凤救了出来。可那可怕的经历,也让王志凤不敢出门了。经人介绍,她嫁给了当时土龙村的一名死了未婚妻的男子当填房,丈夫比她小4岁。对于被日军抓去糟蹋的过去,老人三缄其口,从不提起。
  现在是小儿子钟天祥在照顾年迈母亲。钟天祥说,其实他也是在政府开始调查“慰安妇”状况时,才从母亲口中得知那段过去。
  过路被抓继而被日军糟蹋给王志凤留下了心理阴影,钟天祥说母亲有一些“怪”习惯,“以前出外干活时,只要天还要等别人同行才敢回,外出集也不敢太久,甚至都不太喜欢出门与人聊天。”
  为了照顾母亲,钟天祥放弃了外出打工,在家种了10亩左右的橡胶林,成了他们的主要生活来源,而王志凤每个月也有政府所给的200多元的补助,生活也凑合着过了。
  “妈,我带你去找日本人讨回公道,你去吗?”钟天祥的话说到了王志凤的心坎上,一身是病的王志凤害怕出门,担心出去了就再也回不来了。可听见这话,王志凤却瞪大了眼睛,似乎充满了渴望。



http://ngdsb.hinews.cn/html/2015-08/16/content_7_1.htm
『南国都市报』 2015年8月16日
■林爱兰
 大腿筋骨被打断致终身残疾 她看到电视里日本鬼子就恨

     【相片】林爱兰被日军俘虏后遭到毒打,造成终身残疾。她是目前已知的,
        整个亚洲唯一一名被强逼为“慰安妇”的抗日女战士幸存者。老人
        终身未嫁,最后领养一女孩。

  8月17日,就是林爱兰老人的91岁生日。养女林宝香计划给老人买个蛋糕,带着一双儿女,到南宝敬老院,给母亲庆祝生日。
  现在,早已不能走路的林爱兰,每天都会坐在一个塑料椅上,用双手挪着凳子“走”到自己房间门口,神情木然地呆坐着望向远处。
  在老人木然的表情背后,却隐藏着一段坎坷的抗战史。
  林爱兰出生在临高县南宝镇松梅村一个中医家庭。因略懂草药,林爱兰常跟着游击队出发,帮助治疗伤员,取子弹、缝伤口、洗衣做饭,有时也参加战斗。
  谈起当年抗战的事,林爱兰一把撩开前额的头发,给记者看其头皮上那个深陷的伤痕。
  “这是打日本鬼子时受的伤,子弹从头皮上擦过。”忆起往昔光荣的抗日岁月,林爱兰情绪激动。
  后来,受林爱兰游击队员身份的牵连,日军前往她家里抓人。林父和妹妹们听到风声逃跑,而在家的林母未能及时逃跑,被日本人绑至河边砍头示众,抛尸河中。林家由此家破人亡。
  不幸的是,林爱兰后来被日军俘虏。养女林宝香后来才知道,母亲在16岁那年在一场战斗中不幸被俘,随即被日军抓去修机场。在那里,母亲被迫成了一名“慰安妇”。
  在日军的营地,日军让林爱兰做“老婆”,遭到她拒绝后,将她吊起来打。为了不让她叫,日军在她嘴里塞了一个木棍。这次的毒打使她的右大腿筋骨被打断,造成终身残疾,也为后来腿部无法站立埋下祸根。
  被囚禁近一年之后,一名劳工趁日军出去扫荡的机会,将林爱兰等多名“慰安妇”放走。
  逃出后,林爱兰立誓终身“自梳”,四处流浪,以卖草药为生。
  64岁的时候,落叶归根的她抱养了一名弃婴,给她起名林宝香。
  老人的脾气刚烈,女儿很清楚,“我妈很恨日本侵略者,一看到电视里的画面都会咬牙切齿。”
  林宝香说,在当地镇政府的照顾下,每个季度母亲都能得到1千元左右的特殊补助。只要不生病打针,基本也能维持母亲的生活。不过母亲年轻时打仗风餐露宿,留下了咳嗽的病根,一旦天变冷就剧烈咳嗽不停,不能吃冷东西,她就会每天煲热汤送来给母亲。



http://ngdsb.hinews.cn/html/2015-08/16/content_7_2.htm
『南国都市报』 2015年8月16日
■符美菊
 谎称治病逃离魔窟,怕日军追 父女俩奔跑几十里才停下来

     【相片】符美菊如今跟孙子生活在一起,老人已经无法行走,出门都要靠
        孙子王财强抱在轮椅上推出来。

  2年多前,88岁的符美菊因腿部严重的风湿已经完全不能走路,家人不在时,她就自己双手撑在地上,一点点挪出卧室,来到路边的树荫下乘凉。如今,老人跟着唯一的孙子25岁的王财强生活。
  老人的房间里异味重。王财强拿起一块大木板,放到台阶上,将奶奶一把抱上轮椅推出外面晒太阳,符美菊顿时开心地笑了。
  符美菊大半个人生都充满苦难。十六岁那年,她被日军以招工修建营房和机场为名,抓至大成镇附近的慰安所。白天要挖土搬石头,晚上则成为“慰安妇”,只要她不顺从就会遭到毒打。
  很快,疲劳、虐待和病痛,让符美菊差点死去。“我躺在床上都动不了,也吃不下东西。”符美菊说,直到一个多月后,她父亲向他人借了几十个大洋送给慰安所的“头头”,谎称将她带回家治病再送回去,这才将她救了出来。
  出来时,父女俩害怕有日军追,拔腿就跑,奔跑了几十里才停下来。
  符美菊嫁到澄迈后,生下6个孩子,其中3个因病夭折,仅剩下一儿两女。不幸的是,唯一的儿子外出打井触电身亡,留下了遗腹子王财强。
  王财强从小跟着奶奶符美菊过着贫困生活。后来为了孙子着想,符美菊将孙子送到大女儿家。一心想改变家里贫困现状,还没到16岁的王财强辍学回家,一边照顾奶奶,一边打工挣钱。
  10年前,符美菊祖孙俩要靠帮人清洗装橡胶的塑料桶挣钱。“现在生活算不错了。”王财强说,如今社会上的爱心人士关心和帮助“慰安妇”越来越多,有的人还会上门探望。去年年末,奶奶收到中国慰安妇问题研究中心为慰安妇幸存者筹措的5000元捐款,今年4月,来自香港的爱心人士为每位慰安妇幸存者送去3000元善款和衣服等爱心物品,这些关爱也让奶奶笑容越来越多。
  2013年符美菊腿部的病情开始加重,这两年病痛的持续折磨,让老人身体越来越虚弱。这让王财强很担心。
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海南省立図書館地方文献区

2015年11月29日 | 海南島近現代史研究会
 きょう(11月29日)、2007年10月に開館した海南省立図書館の地方文献区で資料を探索しました。
 1951年4月に出版された『奮戰二十三年的海南島』などを閲読しました。 
 ここには、残念ながら、海南省・海南島の各市・各県の政治協商会議が1980代末から発行している『文史資料』が、5分の1ほどしか揃っていません。
 『紅色蘇尋三』(2012年8月)もありませんでした。

 午後9時に海南島を離れました。

                               佐藤正人
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屯昌県新興鎮三媽溝市村、詩礼村、定安県富文鎮潭陸村で

2015年11月28日 | 海南島近現代史研究会
 きょう(11月28日)朝10時に屯昌県北東の新興鎮の中心部に着きました。鎮人民政府の高台が、日本海軍舞鶴鎮守府第1特別陸戦隊新興守備隊の望楼・兵舎のあった場所でした。
 そこから3キロあまり南下し、博文村(三媽溝市村)に着きました。博文村はかつての卜文村です。この地域で日本海軍は多くの住民を殺しました。三媽溝市村の隣の詩礼村で、謝国語さん(1923年生)とその妻の呉月連さん(84歳)に当時のことを話してもらうことができました。その後、三媽溝市村の林学良さんに村人が押しこめられて殺された教会址と村人が殺され埋められた場所、日本海軍の望楼・兵舎址に案内してもらいました。村人が殺され埋められた場所に建てられていた追悼碑は、数年前に近くの池を整備したときに無くなってしまったとのことでした。そのすぐ近くに、2003年に拡大移築された「海瑞廟」がありました。

 博文村から定安県富文鎮潭陸村に向かいました。間に南渡江の支流である龍州河が流れているのでかなり迂回しなければなりませんでした。
 1942年2月27日(農歴1月13日)早朝、国民党軍の定安県遊撃后備第一大隊長王志發さんが指揮する定安県雷鳴郷(現、雷鳴鎮)賓文郷(現、富文鎮)后備中隊の兵士70人余りが潭陸村で日本軍と戦い、王志發さん、王定貴さん、蔡煥声さん、王瑞福さん、利業成さん、呉秀昌さん、林宏仁さん、符詩禄さん、呉儒禄さん、林茂梅さん、陳明芬さん、陳裕信さん、陳定邦さん、王利斗さん、王利高さん、王徳爵さん、陳明哲さん、莫登詩さんらが戦死しました。1942年1月下旬に、海南島の共産軍が国民党軍を襲撃したことから開始され、双方の兵士が数百人死亡した「大水戦闘」の1か月後のことでした。
 1946年春に、瓊崖国民党軍政局は、雷鳴郷公所門の前に日本軍と戦って戦死した国民党軍将兵の追悼碑(「雷鳴郷抗倭殉国忠烈官兵紀念碑」)を建立しました。その表側の面の中央には、広東省第九区行政督察専員兼保安司令丘岳宋さんが書いた“為国犠牲”という文字が、向かって左には「爲王烈士志發題」という文字が刻まれ、裏面には、瓊崖守備司令中将王毅さんが書いた碑文が刻まれています。潭陸村で日本軍と戦って戦死した王志發さん、王定貴さんらの名は、ここに記録されています。この碑は、1951年の台風の時に傾いたので、近隣の雷鳴鎮南曲村の村民が、南曲村に運びました。2005年に、この碑は、村の広場に建てられました(このブログの2013年4月9日の「雷鳴鎮で 3」、2014年12月8日の「王昭成「南曲村热血青年英勇抗」」、2015年6月7日の「抗倭殉国忠烈官兵纪念碑」をみてください)。

 潭陸村に着いたのは、午後4時40分でした。1942年2月当時のことを知って1いる陳家法さん(1935年生)、張輝志さん(1934年生)、張暉徳さん(1936年生)に話を聞かせていただき、張輝志さんと張暉徳さんに、戦闘の現場に案内してもらいました。そこは潭陸村民委員会のある村の中心部から3キロあまり南の龍州河の河岸でした。日本軍は爆弾をつかって国民党軍を攻撃し、そのとき河岸にいた村人2人(陳伯経さんとその妻)が爆死したそうです。

 潭陸村から雷鳴鎮を通って定安鎮に行き、夜8時に王昭成さんに会いました。王昭成さんは、「抗倭殉国忠烈官兵纪念碑」と潭陸村戦闘についてわたしたちに話してくれたことのある人です(このブログの2013年4月9日の「雷鳴鎮で3」、2014年12月8日の「王昭成「南曲村热血青年英勇抗倭」」をみてください)。

                             佐藤正人 
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林詩棟さんの証言

2015年11月27日 | 海南島近現代史研究会
 きょう(11月27日)朝8時半から3時間、海口の娘さんの家で林詩棟さん(1922年生)に話を聞かせてもらいました。
 林詩棟さんを訪ねたのは、ことし9月3日の「南海網」の記事「海南抗战老兵林诗栋:解救盟军60人 自己曾被细菌战伤害」に、
   日本軍の飛行機が海南島澄邁県の六芹山地域で細菌を撒いた”
と林詩棟さんが証言していると書かれていたので、くわしく話を聞かせてほしいと思ったからです(このブログの9月24日の「海南抗战老兵林诗栋:解救盟军60人 自己曾被细菌战伤害」をみてください)。
 記事には「細菌」と書かれていましたが、直接林詩棟さんに聞くと、日本軍が撒いたのは「細菌」ではなく「毒性の薬品」であったと思われます。  
 娘さんが編集協力したという中共海口市委党史研究室・海口市中共党史学会・紅色蘇尋三編輯委員会編『紅色蘇尋三』(2012年8月)を贈られました。

 午後、海口市内の新華書店などで、海南省委党史研究室編『海南省抗日戦争時期人口傷亡和財産損失』中共党史出版社(2015年8月)、中国人民政治協商会議三亜市委員会編『三亜市史』人民出版社(2015年9月)、『海南歴史文化』第5巻、社会科学文献出版社(2015年8月)、王艾甫・戴姝瑤・張基祥『鉄証 日軍侵華罪証自録』新世界出版社(2015年6月)、張双兵『『慰安婦』調査実録』江蘇人民出版社(2015年3月)、陳墨『口述史学研究:多学科視角』人民出版社(2015年8月)、中共中央党史研究室科研管理部編『日軍侵華罪行紀実 1931ー1945』中共党史出版社(1995年9月第1版、2015年7月第3次印刷)、法制晩報社編著『甲午遺証 赴日尋訪甲午戦争清軍遺物紀実』現代出版社(2014年9月)などを購入しました。

                        佐藤正人
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海口市永興鎮儒東村、純雅村で

2015年11月26日 | 海南島近現代史研究会
 きょう(11月26日)朝8時に海口市内を出発し、はじめに海口市秀英区永興鎮儒東村の王鎮寧さん(1932年生)を訪ねました。わたしたちが前回お会いしたのは、今年4月7日でした(南海出版公司編写組『真相 海南島近現代史研究会17年(27次)調査足跡』2015年8月、225~226頁をみてください)。
 はじめてお会いしたのは、2004年12月21日でした。このとき、王鎮寧さんが「無情砍伐 瘋狂掠奪」、「殺人放火 無悪不作」、「日寇推行奴化教育明謀的破産」などを発表している瓊山市政協文史資料委員会編『侵略与反抗』(1995年10月)を贈られました。そして、翌日、日本軍が住民に掘らせた長い洞窟が残っている雷虎嶺に案内していただきました(紀州鉱山の真実を明らかにする会編『海南島で日本は何をしたのか 虐殺・略奪・性奴隷化、抗日反日闘争』2005年5月、36頁)。その後、王鎮寧さんには保亭黎族苗族自治県文史資料工作委員会の張応勇さんとともに、紀州鉱山の真実を明らかにする会制作『〈写真集〉日本の海南島侵略と抗日反日闘争』(2007年2月)の制作に協力していただきました(同書62頁、奥付をみてください)。
 きょう訪ねると、王鎮寧さんは、長椅子に寝ていました。病状が重く、午後か明日に海口の病院に入院することになっているとのことでした。
 
 午後、儒東村の向かいの純雅村で、王澤新さん(1920年生)に話を聞かせてもらいました。

 午後4時に符和積さん(1949年生)の自宅を訪ねました。
 わたしたちは、1998年6月に海南島をはじめて訪ねた日に、当時海口の中心部にあった飛行場から新華書店に行き、『海南文史資料』第11輯(『鉄蹄下的腥風血雨――日軍侵瓊暴行実録』上下、1995年8月)と第13輯(『鉄蹄下的腥風血雨――日軍侵瓊暴行実録』続、1996年8月)を購入したあと、直ちにその主編者である符和積さんに会いに海南省政治協商会議文史資料委員会に行きました。
 わたしたちはこのとき漢語をほとんど話せなかったので符和積さんとは、主として筆談で意見を交換したと思います。
 写真集『日本の海南島侵略と抗日反日闘争』(紀州鉱山の真実を明らかにする会制作、2007年2月)のあとがき「証言(ことば) ・「場」・「物」・記録」に、わたしたちは、つぎのように書いています。
    「わたしたちは、1998年6月下旬、海南島に到着した日に、海南省政治協商会議文史
    資料委員会を訪ね、『鉄蹄下的腥風血雨――日軍侵瓊暴行実録』を主編した符和積
    さんに会った。
     符和積さん、抗日戦争勝利50周年を記念して、海南島各地の政治協商会議文史
    資料委員会が、日本占領下に受けた「暴行」の聞き取り調査をおこない、それを省の
    政治協商会議文史資料委員会がまとめたのが『鉄蹄下的腥風血雨』であると話した。
     同書編集当時、海南省の行政区は、4黎族自治県(陵水、楽東、昌江、白沙)、3黎
    族苗族自治県(保亭、瓊中、東方)、4県(臨高、屯昌、澄邁、定安)、 8市(海口、三亜、
    瓊山、儋州、通什、瓊海、文昌、万寧)に分けられており、それぞれの地域に文史資
    料委員会が組織されていた。

     その後、わたしたちは、2002年10月までに、海南省のすべての政治協商会議文史資
    料委員会を訪問し、各地域での聞き取り調査・報告執筆を担当した人たちから話を聞
    かせていただいた。
     そのさい、とくに、政治協商会議三亜市委員会の羊杰臣さんと蔡文恵さん、昌江黎
    族自治県文史工作室の趙志賢さんと文宇光さん、陵水黎族自治県文史資料委員会の蘇
    光明さんと馮少雄さん、保亭黎族苗族自治県文史資料工作委員会の張応勇さん、臨高
    県文史資料研究委員会の王碧中さん、楽東黎族自治県文史委員会の邢華冑さん、万寧
    県政協文史弁公室の蔡徳佳さんには、わたしたちの「調査」に同行していただくなど、
    多大な協力をしていただいた。
     わたしたちは、侵略と抵抗の歴史を具体的に追及する共同作業が実践的にも思想的
    にも可能となる道を求めていった。
     残念ながら、その途上で、趙志賢さんは2000年秋に、羊杰臣さんは2003年7月に、
    張応勇さんは2005年12月に病死された」。

 きょう、符和積さんと3時間半話し合いました。符和積さんが主編した『鉄蹄下的腥風血雨――日軍侵瓊暴行実録』3冊を、わたしたちは28回の海南島「現地調査」のとき、いつも基本図書として携行しています。
 符和積さんが朴来順さんと会ったことがあるということは、きょうはじめて知りました。朴来順さんについては、このブログの2011年5月20日「海南島における日本軍隊性奴隷制度と強制連行・強制労働5」、2011年6月26日の「朝鮮から海南島への朝鮮人強制連行5」、2013年7月7日の「日本政府・日本軍・日本企業の海南島における侵略犯罪「現地調査」報告2」をみてください。
 符和積・朱寒松・範暁軍主編『中国地域文化通覧 海南巻』(2013年10月、中華書局)を贈られました。この本の記述は「清代」まででした。

                             佐藤正人
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海口市遵譚鎮美万舖で

2015年11月25日 | 海南島近現代史研究会
 きょう(11月25日)午前9時から3時間、11月18日に続いて、南海出版公司で、こんごの共同作業について話し会いました。

 午後、海口市遵譚鎮美万舗を訪ねました。日本海軍海南警備府の文書には、第15警備隊の守備隊がおかれていた場所として美万舖という地名が書かれているのですが、1990年以後に発行された海南島の地図には載っておらず、特定できていませんでした。
 最近、偶然、美万舗が海口市龍華区の遵譚鎮にあったということを知り、訪ねました。
 遵譚鎮人民政府の敷地のすぐ裏の通りに、「美万舗街」と書かれた道路標識があり、この通りの両脇の住宅の住所は美万舗でした。
 近くに住む王啓林さん(1941年生)に案内してもらいました。日本軍守備隊の兵舎は、遵譚鎮人民政府の筋向かいの一角にあったそうです。そこにあった大きな樹のそばで、殺された日本兵を火葬したことがあったといいます。
 美万舖街から50メートル離れた地点を指さして、王啓林さんはあそこに日本軍の望楼があったと言いました。そこには公衆便所が建っていました。

 夜7時ころ海口市内にもどり、黄流出身の江真さん(1967年生)に、孫恢堯が作詞した「抗日救国民歌」を歌ってもらいました。
 
                          佐藤正人
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海口市三門坡鎮大水村、龍馬坡で

2015年11月24日 | 海南島近現代史研究会
 きょう(11月24日)9時すこし前に大水村に着きました。
 大水村には、ことし4月6日にはじめて行きました(このブログの5月12日の「2015年春 海南島「現地調査」報告1」をみてください)。
 2015年5月14日から6月14日まで、このブログに「1942年1月の「大水戦闘」について」を断続的に19回連載しました。しかし、「大水戦闘」については不明のことが多いので、再訪しました。
 大水村で生まれ育ち、「大水戦闘」のとき数え年で8歳だったという雲維召さん(1935年生)に長時間話を聞かせてもらい、大水村の村内と近くの羅馬嶺の日本軍の望楼跡などに案内してもらうことができました。
 「大水戦闘」のときの犠牲者は、共産党軍の犠牲者も国民党軍の犠牲者も、いっしょに村人が大水村のはずれの石切り場の穴に埋葬したといいます。その現場は、数10年まえにつくられた貯水池のそばでした。深い穴ですが、遺骨が残されたまま、いつか水没するかもしれません。
 共産党軍と国民党軍の「大水戦闘」を傍観していた日本軍は、「大水戦闘」のあと、近隣の龍發、龍發嶺、龍馬坡、東路などに守備隊本部を設営し望楼・兵舎をつくりました。日本海軍の『海南警備府戦時日誌』に含まれている「陸上部隊兵力配備要図」(1943年3月1日現在)には、龍發守備隊の兵員数は41、龍發嶺守備隊の兵員数は8、羅馬坡守備隊の兵員数は84、東路守備隊の兵員数は52と書かれています(羅馬坡は龍馬坡の誤記だと思います)。
 龍馬坡守備隊の望楼跡は、胡椒畑やゴムの樹の林になっていました。望楼のそばに「慰安所」があったそうです。日本軍が望楼をつくるとき、大水村の村民も働かされ、少年だった雲維召さんも雑用をさせられたそうです。 

 抗日戦争時期に倒れた英烈7981人の名前と略歴が個別に記されている中国共産党海南省委党史研究室編『海南英烈譜』(海南出版社、2000年12月)に記録されている「大水戦闘」のときに戦死した共産党軍の兵士は、403人です。
 しかし、2011年10月に海南省人民政府によって整備された大水村の「大水革命烈士陵園」の背面の人工石に刻まれている「大水戦闘英烈名録」に示されている「大水戦闘」のときに戦死した共産党軍の兵士は、346人です。「大水戦闘英烈名録」は、厳密な調査によって作成されたとは信じがたいものです。

                          佐藤正人
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文昌市潭牛鎮昌美村、海口市甲子鎮土卜嶺村、慶雲村で

2015年11月23日 | 海南島近現代史研究会
 きょう(11月23日)午前8時50分に、文昌市潭牛鎮昌美村に着きました。前回昌美村を訪ねたのは2014年3月27日でした。
 昌美村は、1942年10月31日(農歴9月22日)に日本海軍海南警備府第15警備隊が住民50人あまりを殺害した村です(このブログの2013年11月24日~26日の「文昌県新橋鎮で3~5(“昌美村九・二二惨案”1~3)」、11月27日の「文昌県新橋鎮で6」、2014年2月1日の「真相与和解1」をみてください)。
 昌美村の魏学策さん(1938年生)にはじめて会ったのは、2013年10月25日でした。日本軍に母、姉、伯母を殺された魏学策さんは、2013年8月10日にに昌美村委員会に、告発状「記九廿二惨案  控告日本侵略者的三光政策」をだしていました。
 農歴1942年9月22日朝5時ころ、魏学策さんの家に入ってきた日本兵は、母が、魏学策さんを背負っていた紐を軍刀で切ったので地面に落ちたそうです。日本兵は、母と伯母と姉と魏学策さんを庭につれていって銃剣で刺したそうです。母、姉、伯母は殺されましたが、魏学策さんは生き残りました。当時4歳でした。魏学策さんの右胸、背中の右側と左側、腹部(胃のあたり)、下腹部の5箇所に傷跡がのこっています。とくに右胸の傷跡が深く、銃剣が左にそれていたら即死したと思われます。

 きょう自宅で魏学策さんは、去年2014年5月11日にあらためてだした告発状「記九廿二惨案  控告日本侵略者的三光政策」と今年2015年1月18日に潭牛鎮委員会と昌美村委員会にだした申請書「関于樹立遇難者紀念碑的申請書  記一九四二年日本侵略者大屠殺九廿二”惨案」をみせてくれました。この申請書には、農歴1942年9月22日に日本軍に殺害された昌美村の住民の名が記されていました。

 きょう午後、海口市甲子鎮土卜嶺村を訪ねました。
 わたしたちがはじめて土卜嶺村を訪ねたのは2012年11月11日で、再訪したのはことしの4月6日でした(このブログの2015年4月6日の「大水村、土卜嶺村で」、5月12日の「2015年春 海南島「現地調査」報告1」、南海出版公司編写組『真相 海南島近現代史研究会17年(27次)調査足跡』〈2015年8月〉224~225頁をみてください)。
 再々会した梁振三さん(1925年生)からさらに詳しく話を聞かせてもらったあと、梁振三さんの息子さんに土卜嶺村内を案内してもらいました。国民党がつくった井戸が2個所のこっていました。
 そのあと、隣の慶雲村を訪ねました。梁振三さんは、「(土卜嶺村の)祠堂の手前の公室で隣村の慶雲村の村人17人が殺された」と証言しています。
 慶雲村で邢維英さん(1924年生)から詳しく話を聞くことができました。

                               佐藤正人


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万寧市万城鎮月塘村、文昌市文城鎮南陽老王村で

2015年11月22日 | 海南島近現代史研究会
 きょう(11月22日)朝、万寧の蔡徳佳さんに会ったあと、月塘村に行きました。
 わたしたちが蔡徳佳さんにはじめて会ったのは、2002年4月4日でした。それいらい、これまで13年あまり、わたしたちは、蔡徳佳さんとともに海南島近現代史研究をつづけてきました(紀州鉱山の真実を明らかにする会編『海南島で日本は何をしたのか 虐殺・略奪・性奴隷化、抗日反日闘争』2005年5月、18頁をみてください)。
 月塘村の追悼碑の前に9時40分に着きました。わたしたちがはじめて月塘村を訪ねたのは、2007年1月17日でした。月塘村で追悼碑が除幕されたのは、月塘村虐殺の63年後、2008年農歴3月21日(普通歴4月26日)でした。
 きょう、月塘村で、朱振華さん、朱学基さん、朱健華さんと2時間半、話し合いました。
 月塘村の人びとは、昨年8月に出版された『血和泪的记录 海南万宁月塘村三月廿一日惨案专辑』(朱振华捜集整理)を基礎にして、されに詳細に月塘村虐殺にかんする事実を記録しようとしています(このブログの2014年4月22日の「「万宁月塘村纪念“三·廿一”惨案69周年」」、4月28日の「「万宁月塘村自发纪念被日军杀害的先人 那是一段 无法忘却的惨痛」」、6月5日の「「村民约定公祭日 永远铭记惨痛史」」、6月16日の「「苦心搜证编《血和泪的记录》」」、7月7日の「「海南多地村民力图对日诉讼」」、2015年1月19日の「『血和泪的记录』」をみてください)。
 
 午後、文昌市文城鎮南陽に着きました。はじめに、南陽人民革命斗争紀念館を訪ねました。日曜日でしたが、館長が来て鍵をあけてくれ、館内を案内してくれました。
 その後、老王村を訪ね、王進良さん(85歳)の自宅で話を聞かせてもらいました。王進良さんは、「南陽抗日民謡」などを歌ってくれました。

                            佐藤正人
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「朝鮮村」、英州鎮大坡村で

2015年11月21日 | 海南島近現代史研究会
 きょう(11月21日)朝9時半に「朝鮮村」に着きました。
 はじめて「朝鮮村」を訪ねたときには木造だった村の小学校は、数年前から鉄筋コンクリートの3階建てになっていました。校長の許可を得て、その3階に登りました。
 窓から朝鮮人が埋められている地点がみえました。遺骨が保管されていた建物は無くなっていました。
 小学校を出て、朝鮮人が埋められているところに行きました。
 前回「朝鮮村」に行ったのは、去年(2014年)3月25日でしたが、その時には草が茂っていましたが、草が刈り取られさつまいもとカリンの苗木が植えられていました。
 周学勤さんの家を訪ねました。前回、周学勤さんはベットから起き上がれませんでしたが、わたしたちが会った1か月後の4月に亡くなられていました。
 そのあと、周学勤さんの家の隣の符亜輪さんの家を訪ねました。符亜輪さんはお元気でした。ほとんど昔のことは忘れているようでしたが、わたしたちのことは覚えていてくれました。
 周学勤さん(1936年生)も符亜輪さん(1916年生)も、「朝鮮村」での朝鮮人強制労働、朝鮮人虐殺についておおくのことを証言してくれた人です(紀州鉱山の真実を明らかにする会編『海南島で日本は何をしたのか 虐殺・略奪・性奴隷化、抗日反日闘争』2005年5月、8、11、14、39頁、紀州鉱山の真実を明らかにする会制作『〈写真集〉日本の海南島侵略と抗日反日闘争』2007年2月、92、93頁、および、このブログの2007年1月4日の「「朝鮮村」で」、2011年1月4日の「日本政府・日本軍・日本企業の侵略犯罪「現地調査」報告 2」、2011年6月16日の「の「朝鮮村」2011年2月 3」、2012年11月19日の「「朝鮮村」1998年6月~2012年11月 2」、2012年11月23日の「「朝鮮村」1998年6月~2012年11月 4」、2013年7月7日の「日本政の府・日本軍・日本企業の海南島における侵略犯罪「現地調査」報告2」、2013年7月14日の「日本政府・日本軍・日本企業の海南島における侵略犯罪「現地調査」報告8」、2013年9月3日の「日本政府・日本軍・日本企業の海南島における侵略犯罪「現地調査」報告51」などをみてください)。
 
 午後、陵水黎族自治県英州鎮大坡村を訪ねました。
 大坡村をはじめて訪ねたのは、15年半前の2000年春で、再訪したのは2003年春でした。2度とも、胡京宏さんに話を聞かせてもらいました(『海南島で日本は何をしたのか』7、23頁、写真集『日本の海南島侵略と抗日反日闘争』57頁、このブログの2011年1月4日の「日本政府・日本軍・日本企業の侵略犯罪「現地調査」報告 2」をみてください)。2度目のときは、『海南日報』の記者2人が同行し、2003年3月28日の『海南日報』で「日韓学者調査日軍侵瓊史証」という題で報道されました(『海南島で日本は何をしたのか』26頁をみてください)。
 12年8か月ぶりに訪問したのですが、胡京宏さんは2008年に亡くなられていました。
 胡京宏さんの息子さん(胡林海さん。1960年生)に、日本軍の望楼跡に案内してもらいました。そこにトーチカが残っていました。そこで、陳内田さん(86歳)に証言を聞かせてもらうことができました。
 その後、胡林海さんに、万人坑に案内してもらいました。
 そこには、「英州日軍殺害八千同胞遺址」と刻まれた2メートルほどの大きな石の追悼碑が建っていました。それは英州鎮大坡村委員会など5組織が2012年に建立したものでした。
 その碑の向かって左横に、「受難同胞永垂不朽」と刻まれた石碑が置かれていました。それは、中国人民解放軍駐海南島部隊87分隊が1967年4月に建立した追悼碑でした。
 2012年に建てられた追悼碑から左すこし離れたところにあるステンレス製の説明板には、
   「虐殺された朝鮮、南洋諸国および中国労工八千余名がこの万人坑”に埋められて
   いる」、
と書かれてありました。
 「八千同胞」の名前は、ほとんど明らかにされていません。

                             佐藤正人
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