三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

東黎族自治県尖峰鎮尖峰で

2006年09月27日 | 海南島
東黎族自治県尖峰鎮尖峰で

尖峰(ジェンフォン。旧、水馬田)で、符○○さん(1923年生。漢族)は、つぎのように話した。
「昔は山に住んでいた。11、2歳のとき、日本軍につかまった。16、7歳まで5、6年間、仕事をさせられた。
殴られなかったが、食べ物は少ししかくれなかった。仕事は、朝から晩まで。逃げようと思ったが、逃げられなかった。抗日戦争に参加したかったが、家には子どもはわたししかいなかったので、できなかった。
軍人以外には、通訳がいた。 
2、300人が働かされていた。この村からは、4、5人が11、12歳から働かされた。男も女も。働かされた。
王子製紙の森林鉄道工事をやらされた。鉄道は、15キロ作った。働きに行かなかったら殴られた。逃げた人がいた。何人逃げたかはわからない。つかまったら、殺された。死体は焼かれた。病気のときでも言えなかった。

八所に行かされたことがあったが、そのときには、工場の宿舎で寝泊りし、2、3か月に一回、家に帰った。朝7時から夜中の12時まで働かされた。おなかはいつもすいていた。
日本軍の兵士だった台湾人が機関銃を盗んで兵舎の鉄条網から出してくれた。
姉、台湾人とわたしは、日本軍の機関銃を、黒眉村にいた共産党員に届けた。姉はその台湾人と結婚した。その人は、あとで日本軍と戦って戦死した。黒眉村は共産党の根拠地だった。
わたしは、黒眉村の戦闘には参加しなかったが、米や野菜など食料を運んだ」。
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楽東黎族自治県尖峰鎮風田で

2006年09月23日 | 海南島
楽東黎族自治県尖峰鎮風田で

風田(フォンディエン)で○○さん(1929年生。黎族)から話しを聞かせてもらった。○○さんは、こう話した。

「日本軍が来るまでは、農業をしていた。小さいときから、苦しい生活だった。両親は日本軍に殺された。両親が殺されてから、遊撃隊に参加した。隊長は張克治。武器は拳銃。

黒眉村にいたとき、日本軍から攻撃を受けた。村は全部焼かれた。日本軍の基地は近くの嶺頭にあった。黒眉村でおおぜいが殺され、生き残った人は山のほうに逃げた。日本軍の飛行機が尖峰嶺に爆撃しに来たことがあった

解放軍の志願軍の隊員として、命令を受けて朝鮮戦争にも参戦した。朝鮮人と人民解放軍は連合して戦った」。
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楽東黎族自治県尖峰鎮尖峰で

2006年09月14日 | 海南島
楽東黎族自治県尖峰鎮尖峰で 尖峰(ジェンフォン。旧、水馬田)で、符○○さん(1923年生。漢族)は、つぎのように話した。 「昔は山に住んでいた。11、2歳のとき、日本軍につかまった。16、7歳まで5、6年間、仕事をさせられた。殴られなかったが、食べ物は少ししかくれなかった。仕事は、朝から晩まで。逃げようと思ったが、逃げられなかった。抗日戦争に参加したかったが、家には子どもはわたししかいなかったので、できなかった。 軍人以外には、通訳がいた。  2、300人が働かされていた。この村からは、4、5人が11、12歳から働かされた。男も女も。働かされた。 王子製紙の森林鉄道工事をやらされた。鉄道は、15キロ作った。働きに行かなかったら殴られた。逃げた人がいた。何人逃げたかはわからない。つかまったら、殺された。死体は焼かれた。病気のときでも言えなかった。 八所に行かされたことがあったが、そのときには、工場の宿舎で寝泊りし、2、3か月に一回、家に帰った。朝7時から夜中の12時まで働かされた。おなかはいつもすいていた。 日本軍の兵士だった台湾人が機関銃を盗んで兵舎の鉄条網から出してくれた。 姉、台湾人とわたしは、日本軍の機関銃を、黒眉村にいた共産党員に届けた。姉はその台湾人と結婚した。その人は、あとで日本軍と戦って戦死した。黒眉村は共産党の根拠地だった。 わたしは、黒眉村の戦闘には参加しなかったが、米や野菜など食料を運んだ」。
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楽東黎族自治県尖峰鎮黒眉で

2006年09月10日 | 海南島
楽東黎族自治県尖峰鎮黒眉で

 昨年8月、抗日戦争勝利と世界反ファシスト戦争勝利60周年を記念して、海南省政協文史資料委員会編『海南文史』第20輯がだされた。そこには、“1941年はじめ、黒眉村に民兵武装中隊が結成され、ここに海南島西部の抗日根拠地が形成された。日本軍は黒眉村を10数度襲撃したが、黒眉村の民兵は反撃した”(シンリーシン「黒眉反撃戦」より要訳)と書かれている。

黒眉(ヘイメイ)を訪れたわたしたちに、○○さん(1923年生。黎族)は、こう話した。「日本軍が村に来たとき、18歳だった。わたしは、銃を持って、山に逃げた。何日間か逃げて、戻ってきたら、家が全部焼かれていた。逃げられなかった人は、殺された。家を建てなおすと、また日本軍が来て焼いた。建てなおしては焼かれ、何回も建てなおした。当時の家は、草葺でかんたんだから。
日本軍と何回も戦った。射って、さっと場所を変えて、射って、また場所を変えて、射った。自分たちの銃はよくなかった。火縄銃だ。火薬を入れて使う。銃はいまもある。弓も使った。矢じりは鉄だった。
仲間は50人くらい。みんな黒眉村の人。機関銃を持つ日本軍とたたかうのは恐くなかった。死ぬことを恐れなかった。死んでも、光栄だと思った。日本兵を殺して銃を奪った。老包嶺で7日間、連続して戦ったことがあった。戦って逃げて、戦って逃げて、戦って逃げた。歌いながら戦った。遊撃隊は、みんな歌えた。

戦わないときは、農業をして、家族を養っていた。日本軍が来ないときは、家族といっしょに暮らしていた。でもあまり家に帰ることができなかった。漢奸がいるから。50人の中には、女性もいた。女性兵士は、炊事をした。

黒眉村は、まえは老包嶺のふもとにあった。今は人は住んでいない。大陸から来た人がバナナ園にしている。解放後、村はここに移った。
日本が敗けた後、日本人を見るのは、はじめてだ。いい日本人だったら友好的にする。いい人でなかったら、戦う」。

○○さんの「党員証」には、「1993年7月1日 共産党参加五十年」と書かれてあった。別れるとき、わたしたちに、「さようなら、同志よ」といって手を振って見送ってくれた。

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東方市板橋鎮高園で

2006年09月02日 | 海南島
東方市板橋鎮高園で

日本東京の防衛研究所図書館に、横須賀鎮守府第四特別陸戦隊がおこなった戦争犯罪の記録(「感恩県高園村附近討伐戦戦闘詳報」)がある。そこには、嶺頭分遣隊の海軍少尉太田良知ら43人が、1945年5月22日未明から高園村地域を襲撃し、「高園村三0戸全部焼却ス」と、書かれている。
高園(カオユアン)は黎族の村である。日本侵略時には、感恩県に編入されていた。周○○さん(1921年生)は、高園の自宅でこう話した。

「日本軍は家を壊して、火をつけた。にわとりや豚や牛を奪い、女性を強姦した。村びとを道路工事に行かせた。行きたくないといったら、殴った。石碌鉱山に送られた人もいた。病気になって仕事ができなくなったら、焼かれた。

共産党の張應煥が、よくこの村に来て泊まった。もし共産党の組織がなければどうなるか、といって、共産党に入るように誘った。仕事を積極的にする人、秘密を守れる人は、地下組織に入ることができるといった。張應煥は、30歳代だった。
わたしが志願して地下党員になったのは、18歳ころ。
嶺頭で日本軍と戦ったことがあった。火薬銃で。火薬銃は先祖から伝わったもの。村の人はほとんど持っていた。火縄銃がなかったら、弓で戦った。小さい弓、太い弓。太いのは、腕くらいの太さ。弓は、いのししを捕まえたりするのにみんな持っていた。
わたしが共産党に入ったことは、妻も子ども知らなかった。共産党に加入したら、党費を納めなくてはいけない。金がなくて、マッチを党費として納めた。

張應煥は、非常に勇気がある人だった。戦場では勇ましかったが、部下にはやさしかった」。

周○○さんの妻、王○○さん(1920年生)は、「生まれたのは、黒眉村の近くの村。夫が共産党員だと、まったく気づかなかった。解放後に知った」、周○○さんに案内されて、近くの林○○さんの家を訪ねた。

林○○さん(1916年生。黎族)は、こう話した。
「1943年に、瓊崖従隊に入った。妻は村の民兵だった。遊撃隊の前は、紅軍にいた。日本軍が来たとき、女が2人、男が4人殺された。家も燃やされた。この村は50戸だった。羊、牛、豚、とりは全部奪われた。
みんな山に逃げた。子どもを背負って逃げた。日本軍が引き上げたら、また村に戻ってきた。日本軍と国民党と戦った。攻撃されたから戦ったのだ。感城での戦闘がいちばん激しかった。わたしたちは、300人。こっちが勝った。民兵として参加した。日本軍は30人。日本軍から機関銃を奪ったこともあった」。

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