三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

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「済州海軍基地竣工…江汀村「9年の抵抗」は平和運動へ」

2017年11月30日 | 韓国で
http://japan.hani.co.kr/arti/politics/23443.html
「The Hankyoreh」 2016.02.27 08:03
■済州海軍基地竣工…江汀村「9年の抵抗」は平和運動へ■

【写真】26日午後、済州道西帰浦市の済州民軍複合港(済州海軍基地)で竣工式が開かれ、停泊していたイージス艦が祝砲を撃っている。海軍基地は艦艇20隻余と15万トン級のクルーズ船2隻が同時係留できるよう設計された =西帰浦/イ・ジョンヨン先任記者//ハンギョレ新聞社

 凄絶に戦ってきた村人は虚脱 
 「阻止できると信じていたのに…」 
 「従北」の汚名に数十億円の損害賠償請求まで

 反対運動を平和運動に昇華させ
 「住民の涙はまだ乾かない
 私たちの村が平和のアイコンになることを」

 済州(チェジュ)民軍複合港(済州海軍基地)が26日竣工した。 2007年に韓国政府と済州道が西帰浦市江汀(カンジョン)マウル(村)を海軍基地建設地に確定してから9年だ。 政府は国家安保事業であることを前面に掲げ一方的に基地建設を強行し、これに対抗した江汀マウルの住民と活動家の抵抗は凄絶だった。 農作業と漁労作業しか知らなかった住民たちは、国家安保事業を妨害する「従北勢力」という非難を浴びせられた。
 「足かけ10年だ。初めは基地建設を阻止できると思った。 基地が竣工したのを見て虚脱感に襲われる。 闘争して苦労したことに対する悔しさ、政府と官、軍に対する不信と敵がい心が住民たちの心に残っている」。チョ・ギョンチョル江汀マウル会長(59)はこう話した。 住民たちの政府と軍に対する不信は相当期間続くと思われる。

【写真】26日未明、海軍基地工事現場の入口で江汀マウル住民と市民団体会員が沈黙デモをしている間、喪服姿の住民が三歩一拜をしている =西帰浦/イ・ジョンヨン先任記者//ハンギョレ新聞社

■ 「これで終わりではない」…平和運動に発展させる
 この日、済州海軍基地が完工したことにより、住民の海軍基地反対運動はこれで全て終わりになるのだろうか。
 住民たちは虚しいと言いながらも「基地が完工したからと言って終わったわけではない」として、基地反対運動は平和運動に発展していると説明した。 竣工式が開かれたこの日午後1時、海軍基地正門の向い側に立つ忠魂碑の前では、マウル住民と活動家が「生命平和文化の村、江汀」を宣言した。
 住民たちは宣言文を通じて「今までもそうだったように江汀は生命と平和の文化がうねる村として生きていくし、生命と平和を愛する人々の故郷になる」と宣言した。 済州軍事基地反対汎道民対策委員会のホン・ギリョン執行委員長は「住民たちの涙はまだ乾かない。 基地建設阻止がシーズン1だとすれば、シーズン2は平和運動をどのように展開するかだ。 江汀マウルは平和のアイコンになるだろう」と話した。
 江汀マウル海軍基地反対対策委員会のコ・グォンイル委員長(53)も「未来の世代の平和への感受性を育て、自然を愛する心を持てるようにする。 平和に関連した文化芸術活動を発展させる」と話した。
 カトリックの生命平和ミサも続いた。 この日午前、海軍基地前で開かれたミサでキム・ヨングン神父は「これからは本格的に平和運動を始める。 軍事文化に染まらないよう警戒し、生命平和を愛そう」と訴えた。 ムン・ジョンヒョン神父は「9年間、江汀を訪ねてきた人々のことを考えてみなさい。 すでに江汀の基地反対運動は平和運動に発展している」と話した。
 海軍基地の正門前にはカン・ウイル主教(天主教済州教区長)が2011年に生命平和ミサで話した言葉が翻っていた。 「江汀よ、あなたはこの地で一番小さい村だが、あなたから全国に平和が広がり始めるだろう。

【写真】2014年5月、海軍基地建設阻止運動で罰金刑を受けた平和活動家が江汀村に賦課される過度な罰金を糾弾して自主労役を決議する記者会見をソウル中央地裁前で開いている//ハンギョレ新聞社

■連行、裁判、罰金…イバラの道の基地反対運動
 2007年4月、江汀マウル会が当時のマウル会長ユン・テジョン氏ら一部の住民だけが参加した臨時総会で海軍基地誘致決定を下すと、済州道と国防部は待ってましたと一瀉千里に基地建設の手続きを進めた。 後にこれを知った住民たちが反対対策委員会を設け、同年8月にはマウル会長を解任し、カン・ドンギュン氏(59)をマウル会長に選出した。 カン会長は海軍基地に対する賛否を問う住民投票を行い、圧倒的な反対票が出ると本格的に反対運動を展開した。
 基地建設を巡る9年間の闘争は住民たちを闘士に育てた。 基地建設反対運動で延べ700人余に及ぶ住民と活動家が警察に連行され、裁判に付され賦課された罰金だけで3億7970万ウォンに及ぶ。 建設会社は住民と活動家の反対で工事が遅れたとし数百億ウォンに及ぶ賠償金を海軍に請求し、海軍は求償権行使の手続きを進めているという。
 コ・グォンイル委員長は「9年間も戦ってきたことを誇りに思う。 たとえ海軍基地ができても、私たちはこれまで通り江汀マウルを守って生きていく」と話した。

■賛否葛藤で傷ついたマウル共同体
 政府と海軍が軍事基地建設地を済州に決定し建設を推進したことは多くの社会的論議と共に韓国内外の関心も呼び起こした。 1948年に済州4・3事件が勃発して以来、初めて済州以外の地域から大規模な警察力が江汀マウルに投入され、住民が激しく抗議した。 政府と保守メディアは済州基地建設に反対する住民や活動家を「従北勢力」に追い立てた。
 2009年8月には当時のキム・テファン済州知事に対する住民リコール投票まで実施された。 米国の著名な革新系学者のノーム・チョムスキー氏が基地建設反対の立場を表明し、『プラトーン』でアカデミー賞を受賞した米国の映画監督オリバー・ストーンも江汀マウルを訪問したし、外信も済州海軍基地問題を集中的に報道した。 済州海軍基地を扱ったドキュメンタリーなども多く作られた。
 海軍基地が完工したこの日、江汀マウルの住民たちは基地建設を巡る村内の賛否葛藤で傷ついたマウル共同体を心配していた。 ある住民は「今年の旧正月にも村の合同新年挨拶行事に海軍基地に積極的に賛成する住民たちは来なかった」と話した。 コさん(82)は「人口が増え静かだった村が騒々しい村になるだろう」と心配した。
 チョ・ギョンチョル江汀マウル会長は「海軍軍人の父親と島に来て転校してきた生徒から、村のある小学生が『私たちは(敵対的な一族である)ロミオとジュリエットだ』と言われたという話を聞いて、とても苦々しく思った」と話した。 チョ会長は「政府と海軍が住民間の葛藤を助長しているが、時間が経てば自然にしこりが解けるだろう。 9年間に積もった沈殿物が一気に解けることはないではないか」と語った。

【写真】2105江汀生命平和大行進に参加した人々が昨年7月27日から8月1日まで済州市庁を出発して海軍基地建設現場の江亭村まで歩いている=済州/キム・ポンギュ記者//ハンギョレ新聞社

済州/ホ・ホジュン記者
韓国語原文入力:2016-02-26 21:00
http://www.hani.co.kr/arti/society/area/732346.html
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「海軍基地反対委員会「米原子力潜水艦、済州から出ていけ」」

2017年11月29日 | 韓国で
http://japan.hani.co.kr/arti/politics/29066.html
「The Hankyoreh」 2017.11.24 08:49
■海軍基地反対委員会「米原子力潜水艦、済州から出ていけ」
 江汀村対策委・汎対委「ユネスコ指定の江汀沖合に原子力潜水艦を入れるな」

【写真】済州海軍基地反対団体が今月23日、西帰浦市江汀村海軍基地の前で米原子力潜水艦ミシシッピー艦の入港を非難し、即時撤収を要求している。済州軍事基地阻止と平和の島実現に向けた汎島民対策委員会提供//ハンギョレ新聞社

 米国の原子力潜水艦が済州(チェジュ)海軍基地創設以来初めて入港したなか、海軍基地反対団体が即時撤収を要求して反発した。
 江汀(カンジョン)村海軍基地反対対策委員会と済州道軍事基地阻止と平和の島実現に向けた汎島民対策委員会は23日昼12時、済州海軍基地前で記者会見を開き、「済州は米軍の戦略戦術のための拠点ではなく、4・3の苦しみを克服するための世界平和の島にならなければならない。米国は、朝鮮半島と北東アジアの平和を脅かす攻撃型原子力推進潜水艦のミシシッピー鑑を即時撤退させよ」と要求した。
 米国が建造した最新型原子力潜水艦とされるミシシッピー鑑は、22日午前10時、軍需品の積載と乗組員の休憩のため済州海軍基地に入港した。
 彼らは「今回のミシシッピー鑑の済州海軍基地の入港は、米国の利害によって米軍の最先端戦略的資産が勝手に出入りできる場所だという点を確認したものだ。『平和の島』済州に軍事的緊張を高める米国の原子力潜水艦ミシシッピー鑑は、済州から直ちに出ていけ」と要求した。
 済州海軍基地全国対策会議もこの日午後、声明を出し「政府は海軍基地の建設を推進しながら米軍とは無関係だという立場を明らかにしてきたが、現実は全くそうではなかった。基地の完工以後、米海軍のイージス駆逐艦、掃海艦などが継続して江汀の海に入ってくるなど、米軍基地への活用が次第に拡大されている」とし、ミシシッピー鑑の撤収を主張した。
 対策会議は「米国の戦略資産が江汀の海に出入りするのは、朝鮮半島危機の緩和に役立たないだけでなく、北東アジア地域で軍事的対立と葛藤をさらに高めかねない。済州道庁と済州道議会は海軍基地に原子力潜水艦が入港するのを防ぐため、あらゆる努力を傾けなければならない」と主張した。
 昨年2月に完工した済州海軍基地には、3月に米イージス駆逐艦ステダム艦の入港をはじめ6隻の外国軍艦が入港した。

【写真】米海軍の原子力潜水艦であるミシシッピー艦が22日午前、済州海軍基地に入港している。海軍は従来イージス駆逐艦などが入港する際にはさまざまな写真を提供したのと異なり、今回は米海軍の要請とし解像度が低い写真1枚だけを公開した=海軍提供//ハンギョレ新聞社

ホ・ホジュン記者
韓国語原文入力:2017-11-23 16:10
http://www.hani.co.kr/arti/society/area/820400.html


http://japanese.yonhapnews.co.kr/Politics2/2017/11/22/0900000000AJP20171122001700882.HTML
「聯合ニュース」 2017/11/22 11:58
■米原潜「ミシシッピ」 韓国・済州海軍基地に入港
【西帰浦聯合ニュース】米海軍のバージニア級攻撃型原子力潜水艦「ミシシッピ」が22日午前、韓国南部・済州島の済州海軍基地に入港した。

【資料写真】米原潜「ミシシッピ」=(聯合ニュース)

 海軍済州基地戦隊によるとミシシッピはこの日、軍需品の積載と乗組員の休息のために済州に寄港した。
 満載排水量7800トン、全長114.9メートル、幅10.3メートルのミシシッピは、最大25ノット(時速46キロ)で水深250メートルまで潜航できる。
 S9G原子炉により理論上は33年間濃縮ウランの再供給なしに航海可能で、巡航ミサイル「トマホーク」とMK48魚雷などを搭載している。乗組員は約150人とされる。
 米海軍は現在14隻のバージニア級潜水艦を運用している。
 外国軍艦艇の済州海軍基地への入港は今回が6回目。これまでに米艦艇が4回、カナダとオーストラリアの艦艇が1回ずつ入港した。


http://parstoday.com/ja/news/world-i37005
「PARS TODAY」 2017年11月23日21時10分
■アメリカの原子力潜水艦が韓国に寄航

【写真】アメリカの原子力潜水艦

 アメリカと北朝鮮の緊張が高まる中、アメリカ軍の原子力潜水艦が、韓国のチェジュ島に寄航しました。
 韓国・ヨンハプ通信によりますと、韓国駐留のアメリカ海軍の司令官は声明を発し、核攻撃能力を持つバージニア級原子力潜水艦が、22日水曜、チェジュ島に寄航したとしました。
 この潜水艦の重量は7800トンで、長さは114メートルです。
 この原子力潜水艦は、アメリカと北朝鮮の緊張が、アメリカのトランプ大統領の好戦的なアプローチによりこれまで以上に高まっている中で韓国に寄航しています。
 トランプ大統領は断固とした対応を取ると北朝鮮を脅迫し、北朝鮮は世界レベルの脅威だと強調しています。


http://japan.hani.co.kr/arti/politics/26453.html
「The Hankyoreh」 登録 : 2017.02.07 22:25 修正 : 2017.02.08 07:24
■江汀マウル、米海軍ステルス駆逐艦「ズムウォルト」の済州海軍基地配置に反対
 米海軍、韓国の国会国防委員らに 
 済州などへの配置を提案したことが分かり 
 江汀マウル会など済州海軍基地前で 
 「ズムウォルトの配置糾弾」記者会見

【写真】米海軍が済州海軍基地にステルス駆逐艦ズムウォルトの配置を提案したことが分かり、江汀マウル会と反対団体が7日、済州海軍基地正門前で記者会見を行い、韓米政府のズムウォルト配置論議を糾弾した=済州/ホ・ホジュン記者//ハンギョレ新聞社

 米海軍が済州(チェジュ)海軍基地に最新鋭ステルス駆逐艦“ズムウォルト”の配置を提案したことが分かり、江汀(カンジョン)マウル(村)会などが反対に立ち上がった。
 江汀マウル会と「済州軍事基地阻止と平和の島実現のための汎道民対策委員会」、「済州海軍基地全国対策会議」は7日午前、西帰浦市(ソギポシ)江汀マウルの済州海軍基地正門前で記者会見を行い、米海軍のステルス駆逐艦と呼ばれるズムウォルトの配置論議を糾弾した。
 これらの団体は「最近、ハリー・ハリス米太平洋軍司令官がズムウォルト級ステルスイージス艦を済州海軍基地に配置することを提案したという事実が知らされた」として「この駆逐艦が配置されれば、済州島は米国の対中国前哨基地になることが自明だ。韓米政府のズムウォルト済州海軍基地配置論議に反対する」と明らかにした。
 さらに「私たちは済州海軍基地が米国の対中国前哨基地として活用されることを憂慮してきたが、韓国海軍は米海軍艦艇の入出港時には政府の承認が必要だとし、これを積極的に否定してきた」として「ズムウォルトの配置は済州島全体を軍事基地化する始まりになるだろう」と批判した。
 これらの団体は続けて「朝鮮半島へのTHAAD配備に続き、済州海軍基地にズムウォルト級ステルスイージス艦が配置されれば、中国と韓国は回復不能な軍事的対決に上り詰めるほかはない。結局、米軍戦闘艦の済州配置は東北アジアの軍事的緊張を一層高める結果をもたらすことになる」と話した。
 さらに、米国はズムウォルト済州配置発言を撤回し、韓国政府は米軍のズムウォルト済州配置提案を全面的に拒否せよと要求した。

【写真】7日、米国メイン州バスで新たに就航する米海軍の最先端ステルス駆逐艦USSズムウォルトがバス造船所を離れケネベック川を下っている。最先端の自動化を通じて乗務員数を既存の半分である150人あまりに減らしたこの駆逐艦は、米海軍艦隊に合流する予定だ=バス/AP聯合ニュース

ホ・ホジュン記者
韓国語原文入力:2017-02-07 11:49
http://www.hani.co.kr/arti/society/area/781614.html
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「慰安婦像設置「尊重を」=唐津市の懸念に反論-韓国・麗水市」

2017年11月28日 | 日本軍隊性奴隷
https://www.jiji.com/jc/article?k=2017112300553&g=pol
「時事ドットコムニュース」 2017/11/23-17:32 
■慰安婦像設置「尊重を」=唐津市の懸念に反論-韓国・麗水市
【ソウル時事】韓国南部・麗水市で慰安婦問題を象徴する少女像が設置されたことに対し、姉妹都市の佐賀県唐津市から懸念を示す親書が届いたとして、麗水市の朱哲鉉市長は23日、「平和の少女像設置を尊重してほしい」と理解を求めるコメントを発表した。
 麗水市では3月と10月、市民団体が寄付を募り、広場や中学校に少女像を設置。唐津市は今月21日、「友好に影を落としかねないと危惧する」と指摘し、慰安婦問題をめぐる日韓合意が「誠実に履行されることを期待する」という内容の峰達郎市長名の親書を朱市長に送っていた。


http://japanese.yonhapnews.co.kr/headline/2017/11/23/0200000000AJP20171123002500882.HTML
「聯合ニュース」 2017/11/23 15:02
■少女像設置巡る唐津市の懸念表明 韓国姉妹都市「交流は別問題」
【麗水聯合ニュース】佐賀県唐津市が姉妹都市の韓国南部の全羅南道麗水市に旧日本軍の慰安婦被害者を象徴する「平和の少女像」が設置されたことに懸念を表明したことについて、麗水市の朱哲鉉(チュ・チョルヒョン)市長は23日、「市民と学生らが間違った歴史を立て直すために設置した像により、唐津市と麗水市の35年間の交流協力が揺れないことを望む」として、「像の設置と姉妹都市間の交流は別問題」との認識を示した。

【写真】3月1日、李舜臣広場で行われた少女像の除幕式=(聯合ニュース)

 また、「慰安婦問題は歴史の教訓として記憶されるべきで、このための麗水市民の自発的な努力について唐津市が言及することは両都市の交流発展に役立たない」と指摘。「純粋で自発的な市民意識と歴史意識から始まった少女像設置を尊重してほしい」と表明した。
 唐津市の峰達郎市長は今月、少女像の設置は双方の友好交流に影を落としかねないと懸念する親書を麗水市長宛てに送った。
 市民団体「麗水平和の少女像建立推進委員会」は3月、9カ月間にわたり約1万人から集めた募金で麗水市内にある李舜臣広場に少女像を設置した。10月には三一中学校の生徒や卒業生、保護者らが募金を行い、校内に少女像を建てた。


http://japanese.joins.com/article/804/235804.html?servcode=A00§code=A10&cloc=jp|main|top_news
「中央日報日本語版」 2017年11月24日13時11分
■麗水市長「少女像設置で唐津市との35年間の交流が揺らがないことを願う」
 佐賀県唐津市が、姉妹都市関係にある全羅南道麗水市(チョルラナムド・ヨスシ)に対して「平和の少女像」の設置に懸念を示したことに関して、麗水市側は「少女像の設置と国際姉妹都市間の交流は別問題」と23日、明らかにした。
 麗水市の朱哲鉉(チュ・チョルヒョン)市長は「市民と学生が誤った歴史を正そうと設置した『平和の少女像』で唐津市と麗水市の35年間の交流協力が揺らがないことを願う」とし「平和の少女像設置と慰安婦合意問題は国際姉妹都市間の交流協力とその出発地点が違う」と明らかにした。
 朱市長は「慰安婦問題は歴史の教訓として記憶されなければならず、このため麗水市民の自発的な努力に対して唐津市が言及することは両都市の国際交流の発展に何の役にも立たないと考える」とし「純粋かつ自発的な市民意識と歴史精神から出発した平和の少女像設置を尊重してもらえるよう願う」と付け加えた。
 唐津市は最近、峰達郎市長名義で麗水市長に宛てた書簡で「少女像の設置は(唐津市と麗水市の)友好交流に影を落としかねない」と明らかにしていた。
 麗水市中央洞(チュンアンドン)にある李舜臣(イ・スンシン)広場には、ことし3月1日に市民の寄付によって平和の少女像が設置された。
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「日本の執拗な反対を押して…サンフランシスコが慰安婦記念碑設置を公式化」

2017年11月27日 | 日本軍隊性奴隷
http://japan.hani.co.kr/arti/international/29060.html
「The Hankyoreh」 2017.11.23 22:05
■日本の執拗な反対を押して…サンフランシスコが慰安婦記念碑設置を公式化
 日本政府の執拗な圧力が相次いだが署名 
 安倍首相が出て「拒否権行使せよ」要求 
 大阪市、姉妹提携関係切ると威嚇

【写真】サンフランシスコ市に設置されている慰安婦記念碑。22日、市長が民間団体の寄贈を受け入れる形で慰安婦記念碑の設置を公式化する文書に署名した=スティーブン・ワイアット氏のフェイスブックより//ハンギョレ新聞社

 サンフランシスコ市長が日本政府の執拗な妨害にもかかわらず慰安婦被害者を象徴する慰安婦記念碑の受け入れを公式化する文書に署名した。
 サンフランシスコのエドウィン・リー市長は22日(現地時間)、サンフランシスコ市内のセント・メリースクエア公園に9月に設置された慰安婦記念像を市が公式に受け入れるという文書に署名したと共同通信など日本のマスコミが報道した。
 これに先立って今年9月、サンフランシスコに暮らす中国系アメリカ人を中心に結成された慰安婦正義連帯(CWJC)が中心となり、慰安婦記念碑を市に寄贈する形式で設置した。サンフランシスコ市議会は14日、記念碑と維持費用の寄贈を受け入れる決議を採択し、市長がこれを最終的に承認した。慰安婦記念碑は、韓国、中国、フィリピンの少女が互いに手を取り合う姿で囲まれていて、これを韓国居住慰安婦被害者として初めて被害の事実を実名で証言したキム・ハクスンさんが眺めるデザインだ。彫刻家のスティーブン・ワイアット氏が製作し、題名は「女性の強靭さの柱」だ。現地マスコミの「サンフランシスコ・クロニクル」によれば、ワイアット氏はこの彫刻を作る時、1000通を超える抗議メールと電話を受けたという。
 日本政府は安倍晋三首相までが乗り出して、サンフランシスコ慰安婦記念碑の設置を最後まで阻もうとした。安倍首相は21日、日本の国会でサンフランシスコ市議会が慰安婦記念碑の設置を承認する決議案を通過させたことに対して「日本政府の立場と相容れずきわめて遺憾」とし、サンフランシスコ市の市長が市議会の決議に対して拒否権を行使してほしいという要請を日本政府がした事実も明らかにした。サンフランシスコ市長には、市議会の決議に対して10日以内に拒否権を行使できる権限がある。だが、市長は日本政府の要求を受け入れなかった。
 サンフランシスコ市と60年にわたる姉妹都市の関係にある大阪市の吉村洋文市長は、サンフランシスコ市長が慰安婦記念碑の設置承認に対し拒否権を行使しなければ、姉妹都市関係を切るとまで述べた。サンフランシスコ市長が慰安婦記念碑の設置公式化文書に署名したために、両都市の姉妹都市関係が終わることもありうる。
 ただし、大阪市議会の自民党と公明党の議員は、サンフランシスコ市との姉妹都市関係を切ることに対しては反対している。議員たちは「歴史問題は中央政府が解決する問題」または「姉妹都市関係を終わらせることは、米日分裂策に巻き込まれることになる」と主張している。

東京/チョ・ギウォン特派員
韓国語原文入力:2017-11-23 16:02
http://www.hani.co.kr/arti/international/japan/820382.html


http://www.recordchina.co.jp/b221139-s0-c10.html
「Record china」2017年11月23日17時20分
■慰安婦像受け入れ、米サンフランシスコ市長が承認=「大阪市の脅しを無視」と中国報道

【写真】米サンフランシスコ市が受け入れを決めた慰安婦像。

 2017年11月23日、米サンフランシスコ市のエドウィン・リー市長が22日、市内に設置された慰安婦を象徴する女性像について、民間団体からの寄贈を受け入れるとした同市議会の決定を承認する文書に署名したことについて、中国メディアの環球網は「(サンフランシスコ市は)大阪市長の両市の姉妹都市関係を解消するという脅しを無視した」と伝えている。
 記事によると、この慰安婦像は今年9月、中国系アメリカ人の団体がサンフランシスコ市内に設置したもので、同市議会は今月14日、この像と像の最低20年間の維持費用として約20万8000ドル(約2300万円)の市への寄贈を受け入れる決議案を、全会一致で可決した。
 記事は「市長が拒否権を発動できる10日間の猶予があるため、日本は米側に圧力をかけていた」とし、大阪市の吉村洋文市長がリー市長に対し議案の執行への拒否権を行使するよう求める手紙を送り、姉妹都市提携を解消する考えを示していたこと、安倍晋三首相も「極めて遺憾」と述べ、リー市長に対し拒否権行使を申し入れたことを紹介している。 (翻訳・編集/柳川)


http://japanese.joins.com/article/742/235742.html?servcode=A00§code=A10&cloc=jp|article|ichioshi
「中央日報日本語版」  2017年11月23日10時17分
■サンフランシスコ市長、日本の圧迫にもかかわらず「慰安婦記念碑」承認

【写真】ことし9月、サンフランシスコのセント・メリーズ公園に設置された慰安婦記念碑(写真=米州版中央日報)

 米国サンフランシスコのエドウィン・リー市長が22日(現地時間)、市内のセント・メリーズ公園に設置された慰安婦記念碑の寄贈受け入れを公式化する文書に署名したと共同通信が報じた。
 今月14日、市議会の全員一致で慰安婦像寄贈受け入れ案が通過する中、日本各界はリー市長が拒否権を行使するよう圧迫を加えた。サンフランシスコの日本姉妹都市である大阪は、吉村市長が書簡を送って拒否権行使を申し入れ、安倍首相も21日の衆議院本会議で「わが国政府の立場と相いれない極めて遺憾なことだ」と述べていた。
 これに対して「慰安婦正義連帯(CWJC)」のジュリー・テン共同代表は21日、米州中央日報のインタビューで「現実的にエドウィン・リー市長が市議会決議案に拒否権を行使するのは難しい状況」とし「安倍首相は真実から目を背けようとせず、歴史の前に堂々と出てきて誠意のある謝罪をするべきだ」と述べた。
 日本の圧迫にもかかわらず、サンフランシスコの慰安婦記念碑寄贈受け入れ案が通過したことに対し、大阪市長をはじめ日本政府がどのような反応を示すのか注目されている。


http://www.recordchina.co.jp/b219745-s0-c30.html
「Record china」 2017年11月21日16時20分
■サンフランシスコの慰安婦像、設置期間は最低20年か
 2017年11月21日、中国新聞網によると、米サンフランシスコ市に設置されている旧日本軍の従軍慰安婦を象徴する少女像で、同市議会はこのほど、中国系米国人団体から像と碑文の寄贈を受け入れる決議案を全会一致で採択した。今後最低20年は設置が続く見通しだと記事は伝えている。
 米紙・世界日報によると、寄贈した民間団体は、合わせて少女像と碑文のメンテナンス費用約20万8000ドル(約2360万円)も寄付した。像はサンフランシスコ市芸術委員会の所有となる。新たに建設された公立公園の敷地内に設置され、一般市民にも開放されているという。
 記事によると、寄贈した民間団体の代表は「公共の場所に設置され、一般市民に公開されることで、アジアの複数の国の女性たちが人権を踏みにじられた歴史を知らしめたい」と話しているという。(翻訳・編集/大宮)
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「旧日本軍50人が列をなして入った」シンガポールの韓国人慰安婦の実態を公開

2017年11月26日 | 日本軍隊性奴隷
http://japanese.joins.com/article/769/235769.html?servcode=a00§code=a10&cloc=jp|main|top_news
「中央日報日本語版」 2017年11月23日15時32分
■「旧日本軍50人が列をなして入った」シンガポールの韓国人慰安婦の実態を公開

【写真】先月、公開された旧日本軍慰安婦映像の韓国人慰安婦。(写真=ソウル市・ソウル大人権センター)

 韓国研究陣の現地調査を通じてシンガポールの旧日本軍慰安所の実態が公開された。韓国日報は23日、現地調査の結果を引用してシンガポールの韓国人慰安婦被害者は約600人に達していたものと推算されたと伝えた。
 韓国女性政策研究院によれば、シンガポール国立文書保管所とアーカイブなどを通して日帝強占期に旧日本軍が慰安所の設立と管理に組織的に関与したことを立証する史料約140件を見つけた。
 メディアは東南アジア地域にも韓国人慰安婦が存在していたという証言と写真などが公開されたことはあるが、具体的な資料が韓国研究陣によって確認されたのは初めてだと伝えた。韓国人慰安婦被害者は約8万~20万人と推算されるが、政府が公式確認された被害者は238人だけだ。
 韓国女性政策研究院の「旧日本軍慰安婦記録物発掘・整理・解除」の報告書によると、日本がシンガポールを占領・統治した1942~1945年に運営していた慰安所は約10カ所と把握されている。旧日本軍が組織的に慰安所を設立したこともあり、ブローカーが「料亭」の形で運営したりした。記録上、第2次大戦が終わるごろまでシンガポールに居住していた韓国人慰安婦は600人余りと推定される。
 シンガポール国立文書保管所に保管されている口述資料で1981年、ヨギニ・ヨガラジャさんは「l旧日本軍慰安婦を乗せてミャンマーに行く途中、汽車には少女がぎっしりと埋まっていた。水道施設の前で裸になって入浴しなければならない戦争捕虜だった」と話した。
 当時の実状を目撃した証言も相次いだ。中国系シンガポール人であるリウ・カンさんは1946年に出版した画集で旧日本軍が慰安所を運営する姿を描いたが、彼は「慰安所は旧日本軍にとって欠かせない付属品であり、彼らが一番最初にした仕事は売春婦を募集した後、将校と一般軍人にサービスを提供するようにそれぞれの等級を分けること」と説明した。
 1983年、タン・ベンルアンさんは「家の近くに部隊が多くあったが、旧日本軍は日曜日に慰安所に行ってクーポンや票を持って待っていた」とし「旧日本軍は食べ物も食べず飲み物も飲まず、ひたすら女と楽しむばかりだった」と回想した。1984年ロウ・レイレンさんも「シンガポールのケンヒルロードの慰安所の前にはいつも旧日本軍が50人程度列をなして入ろうと待っていたが、映画館の列のようでとてもおかしかった」と記憶した。
 日本占領期にタントクセン病院の歯科助手として勤めていたマーク・オン・ウェンウェイさんは2000年、インタビューで「マンダレーの街にある慰安所の韓国人慰安婦は主に性病伝染で治療を受けた」とし「韓国人慰安婦は日本語ができなかったし、彼女ら同士に韓国語を使っていた」と話した。
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「朝鮮人労働者の冥福祈る 旧紀州鉱山 追悼集会に50人」

2017年11月25日 | 紀州鉱山
『毎日新聞』2017年11月20日朝刊 熊野版   汐崎信之 
■朝鮮人労働者の冥福祈る 旧紀州鉱山 追悼集会に50人
 第二次世界大戦までに旧入鹿村(現熊野市紀和町板屋)の旧紀州鉱山で働き、亡くなった朝鮮人労働者と家族計35人を追悼する集会が19日、同町板屋の朝鮮人追悼碑前であった。10回目の式には約50人が参列し、一人一人の名が記された石に赤いカーネーションなどを献花し、冥福を祈った。
 2007年にできた「紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する碑を建立する会」主催。追悼式は08年に始まり、碑は10年に建てた。同会の調査で同鉱山で1300人以上の朝鮮人が働き、経営していた会社の労組名簿や地元の寺の記録から亡くなった35人の名が判明した。
 式では、同会代表者の金靜美(キムチョンミ)事務局長はじめ、栃木や大阪などの在日の朝鮮人と中国人、支援者らがろうそくに点火した。
 会設立時からのメンバーで伊賀市下郡の竹本昇さん(67)は、「参列者が増え、運動の広がりを感じる。侵略、植民地支配の事実確認を進めたい」と話した。
 
【写真】朝鮮人追悼碑に献花する参列者=熊野市紀和町板屋で   

                    

『中日新聞』2017年11月21日朝刊 くろしお版   木造康博
■戦中の歴史 記憶する  紀和 朝鮮人労働者を追悼
 熊野市紀和町の旧紀州鉱山で戦時中に労働を強いられたとされる朝鮮人労働者を追悼する集会が十九日、同町板屋の追悼碑前であった。
 紀州鉱山の真実を明らかにする会(和歌山市海南市)が催し、メンバーや在日の朝鮮人ら五十人が参加。死亡者の名が記された自然石にカーネーションなどを献花したり、日本酒を注いだりして冥福を祈った。
 同会によると、鉱山で働いていた朝鮮半島出身の労働者は約千三百人で、家族を含め亡くなった三十五人の名が分かっているという。事務局の佐藤正人さん(七五)は「名前の分らない人が数多くいる。日本の侵略の歴史を明らかにしていきたい」と話した。

【写真】献花したり日本酒を注いだりする参加者=熊野市紀和町板屋で
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「温州华盖山举行悼念仪式」

2017年11月24日 | 国民国家日本の侵略犯罪
http://www.china918.net/news/read?id=12639
「中国918爱国网」2017-09-27 13:18:17  来源:来稿(作者:刘建国 黄爱盛)
■温州华盖山举行悼念仪式
 今天上午由温州市公园管理处、温州市历史学会、东瀛惨案史研究中心主办的《东瀛惨案受害华工、王希天义士悼念仪式暨赴日祭祖交涉活动进展说明会》在温州市华盖山公园温处两地蒙难华工纪念碑处举行。温州市外侨办朱玉贵副主任、温州市侨联陈晓军秘书长、温州市历史学会刘建国会长、温州市外侨办领事管理处李毅处长、温州市公园管理处党总支书记胡朝明、温州市公园管理处华盖公园党支部书记周琼、东瀛惨案史研究中心、温州日报、温州晚报、温州商报、社会各界爱国友好人士和遗属代表共50多人参加了纪念活动。

【相片】温州市历史学会会长刘建国主持悼念仪式

★温州市历史学会东瀛惨案史研究中心副主任兼秘书长黄爱盛讲话
  尊敬的各位领导、尊敬的各位来宾、女士们、先生们:大家好!
  今天,温州市历史学会、温州市公园管理处、东瀛惨案史研究中心共同举办‘东瀛惨案受害华工、王希天烈士追悼活动,缅怀94年前在关东被日本军、警、暴徒无辜屠杀的华工先辈,以及为调查被屠杀华工情况惨遭毒手的烈士王希天。向无辜死难先辈致以深切的哀悼!
  1923年9月,日本关东地区发生了里氏7.9级的大地震,造成了巨大的人员伤亡和经济损失。当时在东京谋生的700多名温处同胞虽然躲过了天灾,但却遭受了人祸,一些受军国主义思想蛊惑、排外情绪高涨的军、警、暴徒故意制造借口,对无辜华人进行了有预谋的屠杀。700多名华工被害,大约有6000名不幸的朝鲜人被日本军国主义暴徒屠杀,史称“东瀛惨案”。
  当时的中国政府非常重视这个事件,抗议日本政府,要求彻底查明事件的真相,向日本派遣了以曾任职国务院总理在内的9名成员的调查团,迫于压力日本当时政府在1924年作出了‘五大臣决议’的赔偿方案,但由于种种原因,至今仍未落实赔偿方案。
  “东瀛惨案”发生后的几十年来,由于种种原因,真相一直尘封在历史的冰河中,受害华工的遗属、后裔也一直不了解先人的悲惨遭遇。直到1982年,日本宋庆龄基金会副会长仁木富美子女士发现了这段史实,真相才大白于世。
  自2013年起,以林伯耀先生为代表的旅日华侨华人和以田中宏先生为代表的日本各界有良知的友好人士为还原历史真相,做了大量工作,奔走于中日两国之间,收集证据,同着受害华工遗属每年与日本政府交涉。
  广大受害者遗属的5方面诉求,如下:
    1、 日本内阁政府必须负起作为国家的责任,承认这个历史事实,向1923年关东大地
     震时被屠杀的旅日华工、华商以及他们的遗属谢罪;
    2、 根据1924年日本政府内阁决定的赔偿方针按照现行国际惯例,物价水平和遇难者
     人数修正后实施赔偿;
    3、 为了以史为鉴,向下一代传达这个历史事实,在遇害当地建立纪念碑及建设包括
     中国人和朝鲜人被屠杀历史纪念馆;
    4、 写入日本的历史教科书,让日本年青一代知道这段历史,从中吸取教训;
    5、在温州建立东瀛惨案纪念馆,并且写入温州地方历史和中国历史。
  近几年来,遗属的维权、悼念活动在日本、温州分别活动,活动取得了一定的成果,但无论从社会的认知度,还是与日本政府交涉结果,还需付出更多的努力,我们深感任重而道远。
  2014年,遗属向日外务省递交了请愿书,2015/16年递交了敦促书,今年9月4日东京的追悼会上,中国驻日大使馆田培良参赞说,希望日方正视历史,妥善处理历史遗留问题,切实担负政治和道义责任,以实际的行动体现反省历史的承诺。日本社民党副党首福岛瑞穗参加追悼仪式上表示,针对关东大地震时,众多中国和朝鲜劳工被残忍屠杀,日本社会必须正视这段历史,追究事实真相,并通过谢罪或赔偿手段解决遗留问题。
  在日本内阁府,代表团向社民党副党首、国会议员福岛瑞穗递交了《致日本社民党函》,《致日本原首相村山富市函》,遗属希望透过社民党和原首相村山富市能推动以法律形式监督日政府履行关于‘1924年的赔偿方案’;2促进日政府能派出代表走访遇害华工后裔情况,以便日政府了解当时在日华工被屠杀后,造成对其家庭的影响;3、帮助策划筹建‘东瀛惨案’受害华工遇害地建纪念馆一事;4促进东京都政府设立‘东瀛惨案劳工遇难日’,警示后人,以避免日后发生类似事件。

  今年赴日活动,在中国驻日大使馆大力的支持下,得到了央视4套华人栏目头条新闻、人民日报、新华社、新华网、参考消息、国防部新闻、凤凰新闻、新华网络电视等众多国内权威媒体的报道,日本、韩国部分媒体也进行报道,媒体的广泛关注,使得传播这段历史起到了关键作用,特别在日本现政府、部分政客不断否认侵华战争、南京大屠杀的前提下,显得格外有意义,4月份,日本内阁府从其官方网站删除东瀛惨案文件,按照惯例,东京都知事每年会在‘关东大屠杀’悼念仪式上致悼词,但今年东京都知事小池百合子打破惯例,拒致悼词。赴日祭祖活动代表团团长黄爱盛在接受《东京新闻》记者采访时,被问及‘作为遗属,对于小池百合子不再致悼词’一事时表示,‘无论政治家如何操弄历史,历史事实本身就是证明,我希望与爱好和平的日本人士一道奋斗下去’。
  与日本政府态度形成鲜明对比的一位叫‘小川瑠美子’的日本老妇人,她今年71岁,我们在东京横纲町公园‘朝鲜人被屠杀纪念碑’前献花悼念时,恰遇老人也来悼念,简单交谈后得知,她父亲是一位反战人士,被日本政府关押过,她听她父亲讲起‘东瀛惨案’被屠杀的中国人与朝鲜人,在被屠杀日特来悼念。在各自走散,过了约10分钟,老人重新找到我们,给我们后裔捐赠了5000日元,数目虽然不大,但是它代表了日本社会普通百姓爱好和平、正视历史的一种态度与认识。
  目前阶段,如下几项是我们的工作重点:1、继续寻找受害华工遗属,在700多名受害华工,其遗属还只找到300多位,这700多遗属大部分集中在瓯海泽雅、鹿城藤桥、瑞安湖岭陶山、青田油竹麻宅等地;2、希望历史学者把这段历史作为研究课题;3、推动每年9月份在温州大学和温州市博物馆展出‘东瀛惨案’史实材料;4、为建立东瀛惨案纪念馆进行各方面的筹备;5、想方设法申请写入温州历史教科书。
  最后,再次向无故被屠杀的先辈以及王希天烈士表示深切的哀悼!

★遗属代表周江法赴简述日祭祖交涉活动进展
  各位上级领导、女士们、先生们,大家上午好!
  94年前的1923年9月1日,日本发生7.9级关东大地震,当时中国浙江温处两地的“永、瑞、青”三县交界处的山区地方,合法旅日华工商700人,旅居东京大岛町一带,他们虽在大地震中幸存,却无辜惨遭日本军国主义暴徒趁乱煽动的排外主义者大屠杀事件中被害,并且这一血腥的历史被长期掩盖。94年过去了,东瀛惨案,堪称“世纪的沉默”。
  2013年7月,旅日华侨“中日交流促进会”秘书长林伯耀先生率领朱弘先生、中国918爱国网吴祖康夫妇等人来到温州市瓯海区泽雅镇桂川村找到当年被害者后裔周江法等人,了解历史经过情况后,日方邀请周江法等五名后裔代表,决定9月组团赴日追悼700被害华工90周年悼念,当年8月五人组团上交办理赴日签证,后因特殊情况,唯周江法一人代表被害者后裔赴日参加90周年悼念。在林佰耀、田中宏先生等日方友人的支持组织下,于2013年9月6日在东京6000多朝鲜人被害纪念馆内举行温处两地700被害者90周年悼念活动,此时此刻,唯一后裔代表周江法在被害者灵位前祭拜鲜花悼念,这一祭拜鲜花悼念,打破了我们后裔5代人近一世纪的沉默,提醒指明了被害者后裔从此开始,踏上历年坚持组团赴日祭祖被害悼念活动,并向日本政府交涉,讨公道,索赔偿。
对于这次在日90周年悼念活动,中央电视CCTV13频道面对面栏目主持董倩等4人专程亲赴温州市区周江法家采访,并于2014年3月在本频道播放告知世人。
  2014年起,在中国外交部,驻日大使馆,温州市人民政府外事办,侨联的领导大力支持;在日方林伯耀,田中宏先生等友好人士的大力支持协助下,被害后裔从2014年9月第一次组团18人,赴日祭祖被害91周年活动,并于9月8日向日本外务省官员面对面提交请愿书,向日本政府提出诉求。
    1、日本政府必须负起国家责任,承认历史事实,向1923年关东大地震后被无辜屠杀的
     华工以及他们的遗属谢罪。
    2、依据1924年日本政府内阁决定的赔偿方针实施索赔。
    3、为了以史为鉴,面向未来,向下代传达这段惨史的事实,日本政府务必担负在被害
     地和被害者祖籍地,各建立纪念碑和纪念馆。
    4、写入日本历史教科书,促使下代牢记历史,从中吸取教训。
  2015年至2017年的三年,我们后裔始终坚持组团赴日祭祖92、93、94周年悼念活动,并连续向日本外务省官员面对面提交敦促书,耐心地向日本外务省交涉·········,可外务省几年来,对被害者后裔提出“合情、合理、合法的正当诉求”,仍然回避历史事实,至今没有一个明确的答复,我们深感遗恨。
  特别的是:今年赴日活动代表团全体成员获准9月5日,前往驻日大使馆参赞田培良先生接见了我们,田参赞诚恳地与我们交谈了一个多小时,他指示我们全体被害者后裔,始终要有身心,要有耐心继续坚持向日本政府交涉。再过几年,中国更强大了,最终胜利是必然。
  再说:中央电视CCTV4频道华人世界栏目,向全球伦翻播放,9月5日东京新闻刊登了我们活动实况,中国国家级新闻界大该多达8个单位跟踪报道了我们赴日祭祖悼念94周年的活动实况。
  由此可见,我们被害者后裔代表,历时五年的9月组团赴日祭祖悼念,坚持向日本政府交涉至今大势所趋,希望到会的各位领导,有关专家、学者,各新闻界的友好人士,继续支持我们“东瀛惨案史研究中心” 工作的乘胜开展,对此我代表全体被害者后裔向各位表示崇高的敬意和衷心的感谢。
  希望温处两地700被害者后裔团结一致,同心协力,发扬八仙过海,各显神通,为我们祖辈无辜被害,向日本政府讨公道,索赔偿,只要后裔们共同努力,鼓足身心,耐心坚持和日交涉必胜,愿700被害先辈在天之灵,安息!

★温州市公园管理处党总支书记胡朝明讲话
  尊敬的各位来宾:大家上午好!
  在举国上下共同欢庆中华人民共和国成立68周年之际,我们大家聚集在这里,借吉林义士王希天诞辰之际开展缅怀先烈的纪念活动。我们温州市公园管理处、温州市历史学会和东瀛惨案史研究中心联合举办这次纪念活动,既是为了纪念这位中华民族的优秀儿子、旅日华工爱戴的领袖,缅怀先烈,告慰英灵;同时也是我们公园管理处挖掘公园文化特色,丰富公园文化内涵,优化公园服务品质,依托公园景观和传统文化资源开展“一园一品一特色”主题活动的一项内容之一。
  华盖山是我市“九山”之一,位于温州市鹿城区中心,地理位置得天独厚,山上乔木参天,浓阴蔽日,是温州老城区中不可多得的风景名山。吉林义士王希天君纪念碑暨温处旅日蒙难华工纪念碑,位于华盖山大观亭西侧,建于1926年。1944年日军侵占温州时被毁,仅留残石。1991年日本友人、宋庆龄基金会副会长仁木富美子将华工罹难公之于世,继而发起成立日本悼念王希天及蒙难华工委员会捐资立碑。1993年,中国人民政治协商会议温州市委员会、中国浙江省温州市人民对外友好协会负责在原址重建纪念碑,并撰文纪念,祭烈士之亮节永垂。
  我们公园管理处作为属地管理单位,为了做好王希天义士纪念碑的日常管理工作,不仅定期对纪念碑及周边区域进行擦洗、清扫保洁,做好周边绿化植被的养护管理工作,同时每年还组织单位党员、职工开展纪念活动,弘扬烈士的爱国主义精神。我们希望,通过我们大家的共同努力,能让革命烈士精神发扬光大,让温州人民永远铭记那段悲惨又光荣的历史吧!
  谢谢大家!

★温州市外侨办副主任朱玉贵讲话
  各位领导、各位东瀛惨案受害华工遗属、后裔代表,女士们、先生们,大家好!
  今天,我们怀着十分沉痛和悲愤的心情在这里集会,纪念九十多年前在日本惨遭杀戮的受害华工和王希天烈士,在此,我谨代表温州市外侨办向“东瀛惨案”受害者和烈士王希天表示深切的哀悼,对受害者遗属后裔表示亲切的慰问。
  历史是一面镜子,我们今天重温这段悲惨的历史,就是要让我们的子孙后代永远记住血的教训,永远保持清醒的头脑,永远坚持正确的前进方向,借此机会,我讲三点意见:
    一、要牢记屈辱的历史,保持清醒的头脑。九十多年前的1923年9月,日本军国主义
     分子借关东大地震之际,残酷杀害手无寸铁的华工,这段历史被掩盖了几十年。王
     希天烈士的牺牲直到1970年代才被证实,回顾中国近代历史,我们饱受列强欺凌,
     正是在这样的历史背景下,发生了“东瀛惨案”,惨案的发生,不是自然因素的触发,
     而是人为制造的恐怖事件。对此,日本政府有不可推卸的责任,特别是参与杀人的,
     大多是日本的军人、警察。王希天烈士就是被日本宪兵和警察合谋杀害的。王希天
     烈士被害后,日本政府为混淆视听,还假惺惺的发文寻找,故意把真相掩盖五十多
     年,日本政府要担起军人、警察杀害无辜侨民的责任,但是,日本政府至今仍不承认
     错误、不承担责任,对此,我们要有清醒的认识。
    二、要学习先烈一心为民,不怕牺牲的精神。王希天烈士为了华人的利益,奔走呼号,
     不顾个人安危,最后被日本军警杀害,年仅27岁。
      今天,我们缅怀先烈,就是要学习他的“一心为民,不怕牺牲”的精神。对待任何
     事情,不要私字当头,不要计较个人利益得失。特别是在领事保护领域,我们不仅维
     护个人利益,更是维护国家利益,从“东瀛惨案”来看,再次证明了“弱国无外交”
     的铁律。今天的中国,不再是九十多年前的中国,今天中国的外交,也不再是九十
     多年前的中国外交。我希望日本政府对“东瀛惨案”要有一个交待,我相信这样的
     惨案不再发生。
    三、要珍惜当前,为实现伟大的中国梦而努力奋斗。党的十八大以来,在以习近平同志
     为核心的党中央正确领导下,我国各项事业蓬勃发展。特别是在国际事务中,我国承
     担起负责任大国责任,为世界和平、发展与稳定发挥了重要作用,做出了重大贡献,
     在维护我国侨民利益方面,我国更是不遗余力。在最近几天发生的加勒比多米尼克
     大撤侨中,“祖国带你回家”这句振奋人心的口号让每位海外游子倍感温暖,让每一
     个中国人倍感自豪。今天,我们在这里回顾历史,就是要珍惜当前来之不易的大好
     局面,我们要紧密地团结在以习近平同志为核心的党中央周围,坚决拥护党中央的
     坚强领导,高举中国特色社会主义伟大旗帜,为实现伟大中国梦作出应有的贡献。
  最后,祝大家身体健康,工作顺利,阖家幸福,万事如意! 谢谢

★日本关东大震灾被屠杀中国人劳动者追悼会发来的关东大震灾被屠杀中国人劳动者追悼会致辞
 亲爱的温州的朋友们:
 首先祈愿今年9月第5次来日的访日团报告会议能够顺利进行热烈的讨论并成功举办。
 今年9月在东京进行了两个集会。一个是以当地的诸位为中心,对中国人虐杀的历史事实的学习,听取并理解了遗属的证言和要求。
 另外一个是对94年前死难的受难者进行的追悼。在东京都小池知事对关东大震灾虐杀事件进行否定之计,能够在东京都慰灵堂举办慰灵式有巨大的意义。并且韩国来的遗属也来参加慰灵式,这具有划时期的意义。这是至今每次访日团的各位在荒川河川敷参加虐杀朝鮮人追悼式,表明连带责任的成果。
 虐杀的历史事实不能隐瞒,惨剧不能再次发生!
 这是理所当然的。我们将继续努力,从惨剧发生的当地进行实际行动,让我们的伙伴继续增加。
 能够参加温州的朋友今年5月召开的会议,对增加当地的伙伴具有巨大的激励作用。
 相信通过今天的会议,必将使各位更加团结,使中日间的我们的友情更加牢固。
                  日本关东大震灾被屠杀中国人劳动者追悼会
                                2017年9月27日

★親愛なる温州の友人の皆さまへ
 本年9月に来日された第5回目となる訪日団の報告会議において活発な討論が行われ成功することを祈っています。
 本年9月に東京では二つの集会を行いました。一つは、地元の皆さんを中心にして中国人虐殺という歴史事実を学び,遺族の皆さん方の証言と要求を知ることです。
 もう一つは94年前に難死した受難者の皆さんを追悼することです。東京都の小池知事が関東大震災の虐殺事件を否定しようとしているときに、東京都の慰霊堂で慰霊式を開いたことは大きな意義がありました。慰霊式に韓国から遺族が参加されたことも、画期的なことでした。これは今までの訪日団の皆さんが荒川河川敷で開かれる朝鮮人虐殺の追悼式に参加され連帯を表明してきた成果です。
 虐殺の歴史事実を隠蔽させず、再び繰り返させてはならない! この当然なことを、惨劇の地元から実践するために仲間を増やす努力を続けます。
 温州の皆さんが本年5月に開いた会議に参加できたことは、地元で仲間を増やしていくために大きな激励となりました。
 本日の会議が皆様の団結を強くし、日本の私たちとの友情を固めることを信じています。

           関東大震災で虐殺された中国人労働者を追悼する会
                               2017年9月27日
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「90年前东瀛惨案:关东大地震后 中国人遭屠杀」

2017年11月23日 | 国民国家日本の侵略犯罪
http://www.chinanews.com/cul/2014/09-16/6594014.shtml
「中国新聞網」 2014年09月16日 08:43   来源:文汇报
■90年前东瀛惨案:关东大地震后 中国人遭屠杀
  “这份档案太令人震惊了。”9月8日下午,日本东京的参议院议员会馆B102会议室,当1924年5月27日由时任清浦内阁的外务大臣松井庆四郎发给驻中国公使芳泽的电报,呈现在日本社会民主党副党首福岛瑞穗面前时,这位日本政治家不禁惊住了:“我是第一次知道档案的内容,一定会向国会如实反映。”
  这份尘封了90年的档案,明确记录了1923年9月关东大地震引发屠杀中国人、朝鲜人的“东瀛惨案”后,日本内阁裁决:因为无法满足中国提出的检举及处罚负责人的要求,决定用支付赔偿费20万日元的方式来平息愤怒。在这一盖有“私”字印章的机密电文后,附有560名死亡、失踪、受伤者的名单,其中90%来自当时中国的温处地区(今温州、丽水)。
  令人愤慨的是,当时日本政府见北洋政府软弱无能竟未按时赔付,而后来面临内忧外患的国民政府也无力追讨这笔赔偿,导致千百户丧失了顶梁柱的中国家庭生活在不堪想象的苦难之中。更令人遗憾的是,随着时间的流逝,这段痛彻心扉的往事逐渐被湮没,已鲜为人知。
  为了讨还公道,自去年夏天起,中日两国的热心人士开始奔波寻找遗属。目前,已找到近300名亡者后裔。9月6日,来自温州、丽水两地18名遗属代表抵达东京,探访当年祖辈惨遭无情虐杀的所在地,敲响地震纪念公园中的“幽冥钟”祭祀祈福,他们还与日本议员、外务省等政要代表恳谈,提出希望日本政府向遇难者及其后裔谢罪赔偿、为逝者建立纪念碑、将这段往事写入教科书等要求。
  旅日华侨中日交流促进会会长林伯耀认为,以往包括掳日劳工、“慰安妇”制度受害者等中国国民与日本政府打的官司都输了,“此次请愿将有可能成为中日历史遗留问题诉赔的转折点,因为这是日本内阁白纸黑字通过的赔款协议,还有什么理由推卸责任?!”
  尽管前一天深夜才从老家温州赶到上海,坐在上海飞往东京的早班机上,心情复杂的黄建丰却一刻没睡。快降落时,坐在中间位置的他尽力伸长脖子,想看看舷窗外的东京是什么模样。这是他从未到过的城市,却也是他从记事起便熟知的地名。
  92年前,他的两位祖爷爷黄芝连、黄芝森兄弟,和5000多名来自温州、丽水的劳工,先后从家乡来到上海,再一路赶往东京。只是,一年后发生的关东大地震中,黄芝森命丧东瀛,黄芝连重伤而归,还带来了令国人震惊的消息……

★大地震后,突发惨案
  中国是最早捐助日本关东大地震的国家,但中国国民却在关东地区遭大量虐杀。
  1923年10月12日,奄奄一息的黄芝连从东京坐船驶抵上海十六铺码头。当时他还不知道,就在这个码头,一个月前曾陆续开出多艘装满大量国人捐赠物资的轮船驶向东京,救济遭受9月1日“关东大地震”之害的日本灾民。
  大地震发生当天,日本驻上海总领事向中国媒体表示:“灾情重大,为亘古以来所罕有,除建筑物及财产等损失之数,一时尚难调查确实计算外,生命之丧失,约计几及二十余万口。”
  北洋政府旋即组织赈灾救济委员会,并支出库银20万元(当时1元能买40斤大米)用于救灾,还下令暂免食品、服装、药品、卫生材料等出口日本的关税。上海总商会“购办面粉一万包,米三千包”,并垫付611万元,由招商局免费运送,成为日本接受到的第一笔国际援助。中国红十字会也成为到达日本灾区的第一支国际医疗救援队伍。同时,社会各界纷纷捐款,由京剧艺术家梅兰芳发起的赈灾义演筹集了5万元大洋。
  当月23日出版的《民国日报》写道:“希望日本在这次震灾中,领略人类同情心的福音,上下交勉,和中国做一个道义上的朋友”。可黄芝连带回的消息,却远不是“道义上的朋友”该做的事。黄芝连的老家在温州市永嘉县二十三都坑源村(今温州市瓯海区泽雅镇五凤垟村),在他的老乡为日本慷慨解囊捐赠45.4万元物资之时,远在关东地区的700多名温州、处州侨胞,却被受排外主义煽动的军、警、民众用刀剑、铁棒等肆意击杀。
  头部遭受重创、一只耳朵被乱刀砍下的黄芝连,在上海接受了《民国日报》的采访,第一个将“东瀛惨案”的消息传回国内,也成了第一个公开的受害者直接证人。黄建丰从族人口耳相传的故事中,拼凑出了祖爷爷黄芝连死里逃生的往事:那是大地震后的第三天,黄芝连搬到东京江东区大岛町八丁目的林合吉客栈,与173名衣衫褴褛的温处老乡挤在一起避难。中午时分,数百名日本“青年自警团”(相当于联防队)团员、警察和军人手持枪械,冲进了这家小小的客栈。在时不时的余震中,他们威逼这些手无寸铁的华人指认财物储藏之处,并勒令华人跟他们走出客栈。到了店外一片空旷的荒地,有日本人突然高喊“地将复震,必须俯伏”。没怎么经历过地震的174名中国人乖乖卧倒,他们身后的日本人蜂拥而上,斧劈、刀砍、剑刺、钩扎!顿时,惨嚎震天,血流成河。重伤的黄芝连昏死过去,当晚苏醒时,发现自己被同伴的尸首遮盖,成了174人中唯一的幸存者。
  现在,这片荒地上已建成了江东区东大岛文化中心,低矮的灌木围起了一片停车场。18名遗属在这里举行了简单的追悼仪式,为先辈献上鲜花。即将离去时,黄建丰跪下,抓了两把土放进一个随身携带的崭新烟灰盒里。
  9月3日后至黄芝连回国前的事,现存于台湾“中央研究院”近代史研究所的《日本震灾惨杀华侨案(第一册)》,其中有如下记录:苏醒后的黄芝连匍匐着爬到遇难地边上的荷池旁躲藏,到了9月5日晚才逃到七丁目。一整天没有吃喝的他,出门觅食又遇上日本暴徒被捆打,而后被当地街警绑送到小松川警署,再由军队押往千叶习志野收容所拘禁了一个月。在这个收容所,聚集了1600余名从大岛町区域来的华人。这些华人处境如“在狱之囚”,“食蛋大之饭团三枚,不足抵平时一餐之量,夜则枕石卧板苦趣犹不堪言,且天气寒热不常,疾病滋生,守卫兵士又极凶残,稍不如意鞭棍立下。间有华人携来物件均被取去,兼有能操华语之侦探在旁监视。”直到10月5日,收容所中的幸存者才被遣送回国。

  事后,日本政府曾狡辩对华人的虐杀是“误杀”,因为当时日本警视厅(警察局)告诫民众,时为日本“二等公民”的朝鲜人要趁大地震暴动、向水井投毒等,很多日本人因为相信谣言大肆杀戮朝鲜人,而中国人则是被误以为是朝鲜人遭杀害。
  “日本人早就传要杀中国人了。”赴日遗属周南清说,他的曾祖父和祖父早在地震发生次日就听到针对华人的杀戮传言,逃到山中躲藏才幸免于难,“村里去了20个,死了18个。我的三爷爷不相信传言,就惨死在那里。日本暴徒其实都知道被杀的是中国人,不是什么‘误杀’。”

★悲惨境遇,几代人的痛
  如果先辈没有遭到日本暴徒的残杀,他们的命运和他们后代的命运也许都将截然不同。
  命大如黄芝连,回国后一年,也因伤口感染看不起病,撒手人寰。
  在黄建丰的温州老家,黄芝连的墓是座破破烂烂的孤坟。“那时候哪有钱给他办丧事?到现在也只是把家里前两代人的外债还清,还没钱修墓。”黄建丰说,黄芝连遭虐杀时,他身边携带30枚银元被日本暴徒搜去。而那时,他在日本打工每天赚取的不过是两三日元的血汗钱。
  “祖爷爷们要去日本,是因为山区老家太穷了。”黄建丰说,浙江虽是鱼米之乡,却有“七山一水二分田”之称,而这“七山”就集中在浙南的温州等地,农田极少,只能靠造纸、做伞等手工业糊口。一战后,日本经济飞速发展,数千名温州人先后漂洋过海前往日本打工。黄芝连、黄芝森当年都是村里的能人,有手艺、脑子活,和另三名村民于1922年闰五月赴日本做工。
  “去了5个,死了4个。”黄建丰说,特别是他们家一走就是两兄弟,不像有些人家留一个儿子在老家,所以打击更大,“当年像这样青壮年的离世,给家庭带来的都是灭顶之灾。”
  赴日时,黄芝连未娶,惨死在日本的黄芝森已有两个女儿和一个儿子黄顺兵,全靠黄建丰的祖奶奶和几个亲戚帮忙拉扯大。黄顺兵结婚后生下女儿,因无力抚养不幸夭折,靠亲戚家过继了一男一女延续香火。黄建丰的父亲被抱过去时10岁,已懂事。黄建丰的奶奶含辛茹苦养大一双儿女,在黄建丰9岁时过世,丧事全靠亲戚凑钱来办。
  今年5月,当日本友好人士、旅日华侨中日交流促进会代表林伯耀,日本一桥大学名誉教授田中宏等人前往温州农村调查时,遗属黄爱盛告诉他们,曾祖父遇害后,曾祖母终日以泪洗面,原本身体健朗的她被活活气死,三个孩子全靠给人放牛为生,没钱念书。“这种痛苦,往往需要几代人承受。”
  黄爱盛翻出族谱,在祖爷爷黄元友那页写着“公去日本经商未知卒于何处”。林伯耀等人对照被害名单,找到是在“大岛町八丁目林合吉客栈”,应是与黄芝连同时被害。“这是我们温州的痛苦、民族的痛苦,可悲的是,村里的多数先祖同时遇害,以至于我们这些后辈都说不清当时的情况。”他说。

  赴日遗属、来自丽水青田的邱长听在与福岛瑞穗的恳谈中说到,当时村里去了18个人,无一生还,最后15个寡妇改嫁。“如果我们的先辈没有遭到日本暴徒的残杀,他们的命运和我们这些后代的命运都将截然不同。”赴日遗属苏忠海说。
  1986年,当时在上海华东师范大学任教的日本宋庆龄基金会副理事长仁木富美子,在翻阅材料时偶然找到了与这一事件有关的只言片语。在与温州数位文史工作者联系后,她前往温州实地调研。到1993年,也就是“东瀛惨案”发生70年后,这一史实终于大白于天下。
  “但当时没有形成有规模的遗属团体,从更大范围来看,依然有很多人不知道它的存在。”中国918爱国网总编吴祖康说,去年,一批关注中日遗留问题的友好人士在日本横滨开港资料馆发现了关于“东瀛惨案”华侨被虐杀的资料,又查到了当时同意赔款的协议,“决定再次找到这些遗属,争取他们应有的权利。”
  去年夏天,吴祖康夫妇与旅日独立电视人朱弘来到丽水、温州采证。丽水青田县档案馆提前查找出了记有170人的受害者名单,并于去年8月5日给各街道、乡镇、村发了遗属寻访通知。8月6日,就在吴祖康夫妇、朱弘抵达档案馆时,巧遇了特地骑摩托车到档案局咨询的小口村被害者陈法弟的孙子和孙女婿,第一位遇害者的遗属找到了。
  在之后的五天里,寻访工作得到了很多温州、丽水老乡的支持。不仅村委会积极提供信息,还有村民主动带领他们去遗属家探访,当场联络到十数位后人。

★失落90年,惊现突破口
  对这笔赔偿,无辜被害的先人已经等了90年,总不能让遗属们再等90年。
  在日本友人的帮助下,去年9月,温州市瓯海区泽雅镇桂川村村民周江法前往东京,在“关东大地震”祭奠之时,第一次带去了家乡亲人的悲悯与思念。
  今年,包括周江法在内的18名遗属自费前往东京,他们是今年5月25日在温州成立的总数千余名“关东大地震被害中国旅日华工联谊会(筹)”成员的代表。在今年9月7日“关东大地震”纪念日当天,华工遗属集会悼念的场景第一次出现。“这个行动每多10个人,不是多了10倍的力量,而是多了100倍。”周江法说,他希望明年可以聚起200人的队伍,像从1983年起在日本祭奠先祖的朝韩团体一样,成规模地告慰祖上。
  在关东大地震死伤最惨重的横纲公园,18名遗属在上海富商1923年捐赠给关东灾民的幽冥钟前,摆上家乡带来的瓜果,洒上花雕酒,烧纸默哀,撞钟祈福。“希望先人在天之灵能保佑我们国家强盛。”赴日遗属林学进说,91年前,就是因为中国积贫积弱,才会备受欺凌。
  除了祭奠先祖之外,在所有的悼念时刻,遗属们都会自发怀念一位叫王希天的人。这名来自长春的公费留学生,“在日本的中国人没有不知道他的”,他与周恩来曾是莫逆之交。家境优越的他致力于维护华工权益,还聘请日本律师为华工讨要工资,申请成立“留日中华劳动同胞共济会”。震后,他听闻“东瀛惨案”,只身一人骑自行车去出事地点访查,再也没有回来。此后,任由同学怎样寻找询问,日方上下都一口咬定他是“失踪人士”。
  王希天的死讯,直到1972年才被正式爆出。刚从《东京时报》离职的自由撰稿人田原洋,1970年意外发现了当年在龟户地区执勤的野战重炮兵第一联队六中队一等兵久保野茂次的日记,揭开了王希天遇难的真相。在1923年10月18日这天,久保野茂次写道:“当时王希天君来我们中队访问中队官长们,对护送中国人一事,愿为工人们出一些力……有一天,我们走到税务署卫兵处,听说王希天已被某官长斩了。”10月19日他写道:“今天报纸上又注销了前途有为、对社会事业鞠躬尽瘁的王希天君的消息。其真相,我听某人详尽地说过。以中队长为首,诱骗王希天,说:‘你的中国同胞在骚动,你去训诫训诫吧!’说着把他带了出去,来到逆井桥旁边的铁桥处,伺候在那边的垣内中尉来了,向六中队的官长们说,你们往那儿去,休息一下吧!随后,从王希天背后,齐肩一刀斩去,并把面庞、手、脚都斩碎,烧了衣服,掠走了身上的10元7角钱和自来水笔。就这样,杀人的事,在官长们之间,成了秘密。人们从杀人现场的步哨那里听到了详情。”负责执行这次残杀任务的是队中剑术最高超的垣内八洲夫中尉,1981年,他在临终前确认了斩杀王希天之事。
  9月7日,18名遗属来到东京逆井桥畔祭奠这位为他们祖先而死的烈士。“大地常在,英灵长存。”林江都说,在温州华盖山,有一座纪念王希天的石碑,碑正面写着:吉林义士王希天君纪念碑;反面写着:温处旅日蒙难华工纪念碑。1944年,这座纪念碑被日寇捣毁;1993年9月关东大地震70周年纪念时,由日本友好人士捐资重建。
  今年5月,日本“关东大地震中国人受难者追悼会”实行委员会事务局长川见一仁与林伯耀、田中宏等一行日本友人,前往华盖山祭拜王希天。82岁的日本陶艺家关谷兴仁特地用陶瓷制作了一块长、宽约40厘米的“悼”字纪念碑,今年70岁的川见一仁将这块重达约15公斤的纪念碑一路从东京扛到温州泽雅镇,又用头顶着送到华盖山的纪念碑前。
  “义士的血不能白流,祖先的血也不能白流。”遗属周松权说,“我们来不是为了挑起仇恨,而是为了让日本政府负起作为国家的责任,让中日两国人民真正理解对方。”通过日本友人的联络,遗属团一行18人于9月8日来到日本国会前,高举“日本政府必须实行90年前内阁决定的赔偿以向中国遇难者谢罪”、“追究日本政府的历史罪行,追索回历史之公道和正义”的横幅,呼喊口号示威。
  而后,他们来到参议院,与日本社会民主党副党首福岛瑞穗、外务省中国蒙古第一课课长辅佐猪口奈津子、文部科学省教科书课检定调查第一系长村山嘉雷进行恳谈。周松权代表遗属宣读并向日本政府正式递交了《请愿书》。
  遗属们提出日本必须负起作为国家的责任,向1923年关东大地震时被屠杀的中国遇难者及遗属们谢罪。“我们的祖辈都是合法打工者,日本政府有义务在其领域内保障外国人的身体财产安全,日本有国家赔偿责任。”周江法说。
  遗属们认为,日本政府理应根据1924年内阁决定的赔偿方案,按现行国际惯例、物价水平和遇难者人数进行修正后赔偿。林伯耀说,档案上清楚地印有当时外务大臣、内务大臣、司法大臣、陆军大臣、大藏大臣等重要官员的亲笔签名,铁证如山,不容抵赖。当时是北洋政府执政时期,并不受中华人民共和国1972年与日本签订的《中日友好公报》约束,可以追诉日本政府的赔偿责任。“我们希望日本政府的答复越快越好,我们的祖先已经等了90年,总不能让我们再等90年吧?”赴日遗属周春蕾说。
  遗属们要求日本政府还应向下一代传达这一历史事实,在遇害当地建立纪念碑以及建设包含中国人和朝鲜人被屠杀历史的纪念馆。在横纲公园地震纪念馆旁,已有日本政府出面竖立的一座“追悼关东大震灾朝鲜人牺牲者碑”,中国遗属们希望不久后也能看到专为他们祖先建立的纪念碑。“在纪念馆中,日本政府记录美国红十字会对关东大地震灾民的援助,却忽略了第一个到场的中国救援队,应该补上这一笔。”朱弘说。
  最后,遗属们要求将华人遭虐杀的历史写入日本教科书,让日本年轻一代从中吸取教训。日本友好人士木野村间一郎提出,现在日本教科书对于关东大地震后发生的虐杀事件提法越来越暧昧,“不是使用虐杀,而是说在地震中惨死”,对于日本军、警参与暴行也都删除,原本高中教科书中提及的“王希天”现也被删去。“这不是正视历史的态度,是在倒退。”他说。
  林伯耀感到,多年来对日诉讼无果的突破口,或许就在这些关东大地震被虐杀华人的遗属身上。“过程一定是艰辛漫长的,但至少我们已经走出了第一步。 本报记者 单颖文
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「来年4月、ベトナム戦民間人虐殺「市民法廷」開催」

2017年11月22日 | 韓国で
http://japan.hani.co.kr/arti/politics/29034.html
「The Hankyoreh」 登録 : 2017.11.21 22:52 修正 : 2017.11.22 05:54
■来年4月、ベトナム戦民間人虐殺「市民法廷」開催
 被害者遺族が原告、韓国政府が被告 
 ベトナム戦民間人虐殺9千人余りと推定 
 調査資料集め正式国家訴訟を準備

【写真】韓国挺身隊問題対策協議会のユン・ミヒャン共同代表が9月、ソウル三清洞の駐韓ベトナム大使館前で、ベトナム戦争に参戦した韓国軍人による民間人虐殺、性暴行などの戦争被害者問題について、ベトナムの政府と国民に謝罪する内容のプラカードを持って立っている=資料写真//ハンギョレ新聞社

 ベトナム戦争当時、韓国軍による民間人虐殺の惨状を糾明する市民法廷が開かれる。
 ベトナム戦争時期の韓国軍による民間人虐殺真相究明のための市民平和法廷準備委員会(準備委)は21日、ソウル市中区のプレスセンターで記者会見を行い、「ベトナム戦争民間人虐殺50周年の来年、4月20日から3日間ソウルでベトナム戦争民間人虐殺を糾明し韓国政府に責任を問う市民平和法廷を開催する」と明らかにした。市民平和法廷は、1968年ベトナム中部クアンナム省のフォンニィ・フォンニャットの村とハミ村で発生した代表的な民間人虐殺事件に集中する。同年2月12日、フォンニィ・フォンニャットの村で74人が、10日後にはハミ村で135人が韓国軍により命を奪われた。両事件をはじめベトナム戦当時の民間人虐殺被害者は9千人余りに達すると推定される。
 裁判は、当時韓国軍によって被害をこうむったベトナム人被害者と遺族が原告になり、大韓民国政府が被告になって国家賠償訴訟の形態で進行される。市民法廷は正式な法廷ではなく、判決に強制力はないものの国家の犯罪責任を問うために広範囲に活用されてきた。日本軍「慰安婦」被害に対する日本政府の責任を問うために東京で開かれた市民法廷が代表的だ。準備委は、市民平和法廷に集まった資料に基づいて、来年下半期には実際に韓国政府を相手に損害賠償訴訟も提起する予定だ。国家機関が保有している資料を公開し、真相調査を実施しなければならないという内容の立法運動も準備している。
 準備委は12人の弁護士で構成された法律チームと、10人余りの研究者により構成された調査チームに分かれる。調査チームは、参戦軍人の証言を収集し韓国政府が保管している資料を確保する予定だ。調査チームはこれに先立って、国家情報院が1969年当時に中央情報部がベトナム戦民間人虐殺問題と関連して調査した資料を保有している事実を公式に確認し、これについて情報公開を請求した。
 民主社会のための弁護士会のチョン・ヨンスン会長(準備委共同代表)は「ベトナムでの良民虐殺が知らされて20年が過ぎたが、政府の公式的な真相調査さえ実施されていない。記憶しなければ忘却され、忘却された歴史は繰り返される。過去の過ちを忘れないために、ベトナム良民虐殺の真相を糾明し、これを土台に政府が公式に謝罪しなければならない」と説明した。

コ・ハンソル記者
韓国語原文入力:2017-11-21 21:11
http://www.hani.co.kr/arti/society/society_general/820023.html


★このブログの2017年4月12日の「「ベトナム虐殺」大韓民国が被告席に座るか 法の前に立った「ベトナム戦民間人虐殺」」、4月15日の「韓国軍のベトナム虐殺を扱った『最後の子守歌』、ベトナム国営VTVドキュメンタリー賞」、4月21日の「「ベトナムピエタ」像、済州に建設される」、4月25日の「「ベトナムピエタ」像の除幕によせて」、4月28日の「「ベトナムピエタ」像、江汀村の懐に抱かれる」、4月29日の「韓越平和財団、韓国・済州島に「ベトナム・ピエタ像」を建立」、4月30日の「クアンガイ省:戦争中の虐殺事件50周年、韓国人団体が謝罪」、5月1日の「元従軍慰安婦、ベトナム戦争時の韓国軍による虐待行為を調査」、6月27日の「「ベトナム虐殺被害者のための市民法廷」が第一歩を踏み出す」、7月11日の「ベトナム戦争に対する省察なしに真の先進国になれるのか?」、7月11日の「ベトナム戦争に対する省察なしに真の先進国になれるのか?」、9月17日の「挺対協、ベトナム大使館前で「韓国軍の戦争犯罪を謝罪します」」などをみてください。
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「韓国初の慰安婦被害者追慕館開館…実際に行ってみると」

2017年11月21日 | 日本軍隊性奴隷
http://japanese.joins.com/article/624/235624.html?servcode=400§code=400&cloc=jp|main|top_news
http://japanese.joins.com/article/625/235625.html?servcode=400§code=400
「中央日報日本語版」2017年11月20日14時37分~14時39分
■韓国初の慰安婦被害者追慕館開館…実際に行ってみると

【写真】京畿広州「ナヌムの家」内に今月18日に開館した「遺品展示館と追慕記録館」内の遺品展示館。

 19日午後、京畿道広州(キョンギド・クァンジュ)にある福祉施設「ナヌムの家」。旧日本軍慰安婦被害女性たちが集まって暮らしている場所だ。現在生存中の被害女性33人のうち、単一施設では最も多い9人が暮らしている。
 この「ナヌムの家」で今月18日、旧日本軍慰安婦被害被害者「遺品展示館と追慕記録館」開館式が行われた。慰安婦被害者「遺品展示館と追慕記録館」が建設されたのは全国で初めてだ。ここは外部の造景など最終工事が終わる来年1月に正式開館し、一般に公開される。正式開館を前に、中央日報の記者が施設内部を見学させてもらった。
 地上2階建ての韓国式家屋(韓屋、ハノク)として設計された同施設は、遺品展示館(430平方メートル)と追慕記録館(126平方メートル)で構成されている。1階の遺品展示館は企画展示・遺品および遺物の展示、被害女性の図展示空間と収蔵庫施設を備えている。開館企画の展示作品として、ダンス振付け師のポッピン・ヒョンジュンが女性たちの悲しみとその物語を込め、その佇まいが忘れられることがないようにと願って描いた肖像画作品10点(各112X145センチ)が掛けられている。
 絵画に描かれた女性たちは皆、日本からの公式の謝罪と法的賠償を受けることができないままこの世を去った。
 その横には被害者が描いた絵画20点余りとナヌムの家を経て亡くなった被害者17人が生前に残した言葉を整理した資料と遺品が展示されている。ナヌムの家に保管中の被害者による絵画原本370点余りも順次展示される。ことし7月23日、91歳でその生涯を閉じた故・金君子(キム・クンジャ)さんの写真と遺品も整理されている。金さんは辛い人生の中でも寄付を通じて経済的に苦しい学生を助け、日本の戦争犯罪を証言することに一生を捧げた人物だ。金さんの写真には「葬儀費500万ウォン(約51万円)だけを取っておいて、残りはすべて必要な人に使ってほしい」と、生前残した遺言が書かれている。
 江原道平昌(カンウォンド・ピョンチャン)で生まれた金さんは10代に両親と死別した後、親戚の家で暮らしていたところ、17歳で中国吉林省琿春の日本軍慰安所に強制動員された。金さんは2007年2月、マイク・ホンダ米国連邦下院が主催した米国議会の旧日本軍慰安婦聴聞会で「解放後、38日間歩いて祖国に帰ってきた」とし「慰安所で一日約40人の相手をし、死ぬかと思うほど殴られた」と証言した。日本政府からの公式の謝罪と正当な賠償を受ければ社会に寄付する計画だった金さんは、韓国政府から受けた賠償金などを集めて美しい財団に1億ウォン、ナヌムの家に1000万ウォン、ある天主教団体に1億5000万ウォンなどを寄付した。

【写真】19日、京畿広州「ナヌムの家」にある「遺品展示館と追慕記録館」内の遺品展示館で会った李容洙さん。

 遺品館に展示された自身の美術作品の前で会った李容洙(イ・ヨンス)さん(89)は感激しながらも、まだ解決されていない問題に対する気持ちを吐露した。李さんは「(ここが開館したのを見て)『日本が今や(誤りを)認める時が来たんだ』という気がする」とし「私たちの正しい歴史を皆さんが知るべき。たくさんの方に訪問してほしい」と呼びかけた。李さんは「日本が(公式に)謝罪をして賠償する時まで、多くの方々が(ここを訪れて被害女性の努力に)参加してくれるよう願う」と述べた。
 ナヌムの家の安新権(アン・シングォン)所長は「恨(ハン)が深く刻まれた生活を送りながら、日本政府から謝罪と賠償を受けるために、そして歴史的な問題を解決するために国内外で多くの活動をされながらも、ついに思いを成し遂げられずに亡くなった旧日本軍性的奴隷被害女性の方々を記憶するために施設を作った」と紹介した。安所長はまた、「おばあさん方が残された遺品や写真・映像は、忘れられた歴史ではなく現在も進行している歴史」とし「ここは正しい歴史と人権・平和を実現しようとした被害者の魂を込めて記録を展示した場所」と付け加えた。
 2階の追慕記録館の中央壁面は社会的な差別や冷遇を克服して堂々と日本の戦争犯罪を告発した勇気ある国内外の被害者名簿と写真が展示されている。旧日本軍慰安婦被害者105人(韓国人97人、外国人22人)の写真を壁面中央に展示した。両側には写真のない人々を含めた慰安婦被害者280人(韓国人242人、外国人38人)の名前をハングルと英文で記してある。
 「ナヌムの家」幹事のキム・グァンヨルさんは「被害者のハンドおよびフットプリンティング作品30点余りと啓明(ケミョン)大学学生のキム・ウンジさんが慰安所前で暴行を受ける慰安婦被害者の姿を描いた大型の絵画『慰安婦』もここに展示してある」と紹介した。
 人権と歴史、平和の大切さを学ぶ出発点となる「記憶と記録」のこの施設は、慰安婦被害女性が暮らす生活館の後方の空き地1300平方メートルに昨年2月に着工した後、1年9カ月かけて建設された。事業費23億ウォンは、国費と道費に加え、慰安婦被害女性を支援する後援者による寄付金でまかなわれた。
 「ナヌムの家」代表理事のソン・ウォンジュ僧侶は、18日の開館式で代読挨拶の言葉を通じて「この施設は旧日本軍性的奴隷被害の歴史を見せる記憶と記録の展示館」としながら「この施設を通じて全世界の人々に被害者の人権と歴史の大切さを正しく知らせて性的奴隷の問題を早期に解決していきたい」と述べた。
 韓国女性家族部の鄭鉉栢(チョン・ヒョンベク)長官は「歴史は未来を見る鏡だと言われている。この記念館が悲しい韓国の歴史を振り返り、記憶できるような追慕の空間になり、特に未来世代の青少年に戦時の女性人権問題に対する学習の場になることを願う」と話した。
 ナバネセム・ピレイ(南アフリカ共和国)元国連人権高等弁務官は「苦痛を受けた性的奴隷被害者のために私たちができる最大の献詞は、未来世代が彼女たちを尊重し尊敬できるように記憶すること」と述べた。続いて「人権意識を持つ全世界の人々は被害女性に代わって日本に謝罪と賠償の要求を続けている」と強調した。
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