三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

対熊野市訴状 「結論」

2011年05月31日 | 紀州鉱山
 約1万5千字の熊野市を被告とする訴状の「(四) 結論」の全文は、つぎのとおりです。

■(四) 結論 「追悼碑建立の地」には、二つの公共性がある 
  2010年3月28日に、紀州鉱山で亡くなった朝鮮人の追悼碑が除幕された。
  「朝鮮の故郷から遠く引き離され、紀州鉱山で働かされ、亡くなった人たち。父母とともに来て亡くなった子どもたち。わたしたちは、なぜ、みなさんがここで、命を失わなければならなかったかを明らかにし、その歴史的責任を追究していきます」と記された追悼碑の前には、犠牲者35人の名前を記した35個の石が置かれていた(甲第6号証の1)。
  紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する碑を建立したのは、朝鮮人と日本人である。
  本件原告も朝鮮人と日本人である。
  朝鮮の故郷から強制連行され、紀州鉱山で命を失った朝鮮人を追悼する意味は、朝鮮人と日本人では同じではない。しかし、朝鮮人も日本人も、共に、「なぜ、みなさんがここで、命を失わなければならなかったかを明らかにし、その歴史的責任を追究していきます」と犠牲者に約束している。
  本件土地の公共性は、朝鮮人と日本人の歴史的諸関係にかかわっている。韓国江原道議会議員一同が、「追慕碑の敷地にたいして、“公共性がない”と言う理由で課税したという話に接しました。これは、非常に不当な処分であり、残念に思います」と述べているのもそのためである。

  当該地紀和町(当時は板屋町)の了解の上で、1300人以上の朝鮮人が紀州鉱山に連行され、劣悪な生活環境の下で、過酷な労働を強いられた。石原産業の元職員の証言によれば、「彼らは銃や日本刀を持った軍人に監視されていた」のである。その歴史的事実を後世に語り伝え、その歴史的責任を追究するためのひとつの基点として、「鉱山資料館」の斜め前に当たるこの地に、本件「強制連行された朝鮮人の追悼碑」は公共性を帯びて建立されたものである。 
  当該市長がこの追悼碑建立について「何らの義務も責任もない」として宅地並みに課税して良いはずはないのである。
  本件追悼碑は、熊野市(旧紀和町)の「紀州鉱山における真実の歴史を刻み、その責任を問い続けるモニュメント」として今後も末永くここに在り続けるであろう。本件追悼碑のある空間には、その歴史的意義において金銭では計りえない価値がある。

  紀州鉱山で亡くなった朝鮮人の追悼碑の除幕集会には、100人を超える方がたが参加し、地元の方々は元より、日本各地から、韓国からも、沢山の老若男女が集い、新聞を見て参加した人も複数あったのである。正に不特定かつ多数の多彩な参列者に囲まれ、70年間忘れられて来た強制連行の朝鮮人犠牲者へのはじめての追悼式が、本件土地で行なわれたのである。
  「墓地」が訪れる人を拒まない、不特定多数の人々に開かれた空間としての公共性を持つのと同様、本件「紀州鉱山で亡くなった朝鮮人の追悼碑建立の地」もまた訪れる人を拒まない、不特定多数の人々に開かれた「公共性ある空間」であったことを証明するような集会であった(甲第6号証の2・3)。
  繰り返すが、熊野市が文化財指定するほどに公共性を認めて管理している「英国人墓地」は、そこに英国人捕虜の遺骨は存在しないのであるから、実質は「英国人捕虜の追悼碑の土地」であり、「朝鮮人の追悼碑建立の地」と「追悼の場」であることにおいては異なるところがないのである。どちらも、「戦時下の紀州鉱山で何があったか」その歴史的事実を後世に伝えるモニュメントとしての碑を持つ空間である。
  異なるのは、追悼される対象と、その対象がそれぞれに問う「歴史的責任」である。「英国人墓地」が問うのは、日本政府と日本軍が国際法(ジュネーヴ条約32条ほか)を無視して、俘虜を危険な労働に使役し、1年の内に16名を死に至らしめた事実である。
  英国人捕虜の犠牲者には石原産業が早々に墓地を建て、地元老人会が手厚く「慰霊祭」を続けているという情報が、英国人と結婚した紀和町出身の一女性から元捕虜達に伝えられて、王立英連邦墓地委員会から感謝の意が表されるなどしている。
  本件「強制連行された朝鮮人の追悼碑」が問い続けるのは、日本国と日本軍と日本企業と地方行政が植民地朝鮮の人びとを強制的に連行し、過酷な鉱山労働に就かせ、その本名を名乗らせずなどして人権を踏みにじり、35名を死に至らしめた事実である。それゆえ、本件追悼の場には、本名を記した35個の石が置かれねばならなかったのである(甲第4号証の2)。
  三重県だけでなく、日本の多くの地域に植民地朝鮮から強制連行された人びとが、採鉱、鉄道・道路敷設、ダム建設、工場などで、過酷な労働条件の下で働かされ、命を奪われた人も多い。その犠牲者に対する地域自治体の対応は、その歴史に対する責任の取り方を表している。
  2010年11月7日、相生市長参列の下で「第16回目の追悼式」を行った兵庫県相生市では、播磨造船所に強制連行された「朝鮮人犠牲者の追悼碑建設」のために、市営墓地の一部の土地を無償提供する議案に議会が全会一致で賛成した事実がある(甲第7号証の1)。
  岐阜県(甲第7号証の2)では、1956年6月、元岐阜市長が委員長を務める中国人殉難者慰霊県実行委員会が、強制連行された県内5現場(瑞浪市・各務原市ほか)で死亡した72人の合同慰霊祭を行い、日本赤十字の船で遺骨を中国に送還した。以後1990年まで県内各地の慰霊事業に岐阜県から助成金が支出されている。
  同様な事例として、2011年2月12日の『北海道新聞』によれば、上川管内東川町で戦時下の朝鮮人強制動員を調べている町民有志のグループが同月17日から韓国を訪ね、同町内の遊水池建設に動員された90歳の男性2人に聞き取り調査を行う予定であり、調査に協力している東川町が費用の半額を助成した(甲第7号証の3)。
  このほか、強制連行された犠牲者の追悼の場に、群馬県(甲第7号証の4)は県立公園の一部を提供し、大牟田市(甲第7号証の5)でも市立公園を提供するなど、自治体がその責任において協力的に関わっている。
  このように、他県・他市において、強制連行された犠牲者の追悼碑建設用地として自治体が公有の土地を提供しているのは、「歴史の真実を刻み、その責任を忘れさせないモニュメントである追悼碑の建立」等に公共性を認めているからである。民間有志の想いが実って建設・建立に至った場合においても、それぞれの自治体は、強制連行・強制労働という過去の負の歴史を想い、その反省を迫られて設置・建設に協力したのであり、議会の承認を得て、住民の税金を用いて「現地で生存者からの聴き取り調査」に、あるいは、犠牲者の「納骨堂」建設や「慰霊祭」等に、堂々と補助金を支出することができるのは、「追悼の場」に「歴史の真実を刻み、その責任を問い続けるモニュメント」としての存在意義があるからで、行政と住民が大いに公共性を認めているからである。言い換えればそこには地域の住民と行政がともに承認する公共性の共通認識が存在するからである。

  本件「紀州鉱山に強制連行された朝鮮人の追悼碑建立の地」も「他県・他市の追悼碑の地」も、「英国人墓地」という名の「英国人捕虜の追悼碑の地」も、同様に二つの意味で公共性がある。
  既に述べて来たことを繰り返すが、その一つは、「不特定多数の人々に開かれた空間」としての公共性であり、今一つは「歴史の真実を刻み、その責任を問い続けるモニュメント」としての公共性である。
  紀州鉱山で亡くなった朝鮮人の追悼碑建立の土地に熊野市が固定資産税を課すことは、朝鮮人を紀州鉱山に強制連行し強制労働させた過去の歴史に向き合うことをせず、加担した当該自治体がその歴史的責任をとろうとしていないためである。
  「英国人捕虜の追悼碑の地」を保持し続けてきた熊野市が、紀州鉱山に強制連行された朝鮮人にかかわる諸事実を隠蔽し、紀州鉱山で命を奪われた朝鮮人を追悼しようとしないばかりか、その追悼の場に課税するという不公平な処分をすることは赦し難い不正義である。それは未来に向けて「歴史の真実を語り継ぐこと」への妨害行為を行政が行うことである。歴史を歪曲し、隠蔽・改竄する地方行政の権力の濫用である。

  本件「追悼碑建立の土地」は、地域の特殊事情とその用途における特異性から、通常の宅地とは比べ難い特別の事情ある事案であり、「歴史の真実を刻み、その責任を未来に語り継ぐ存在」として在り続ける「本件追悼碑建立の土地」に、形式的な所有者の名において通常の住宅としての評価に基づく固定資産税を賦課することは相当ではなく、被告熊野市の「処分」及び「決定」は、公共性・公平性の観点からみて、極めて不当な判断であり、不公正な処分である。

  よって、原告らは、公正・妥当な司法の判断によって、本件「紀州鉱山に強制連行された朝鮮人の追悼碑建立の地」に対する2010年度固定資産税の賦課に対して、原告が求めた「異議申立」を棄却した被告熊野市長の「決定」を取り消し、本件土地への「固定資産税減免不承認処分」及び「固定資産税の賦課処分」を取り消し、本件不動産は「免税」とするのが相当であることを確認する判決を求めて、本件裁判を提起するものである。
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対三重県訴状 「結論」

2011年05月30日 | 紀州鉱山
 1万8千字あまりの三重県を被告とする訴状の「(三) 結論」の全文は、つぎのとおりです。

■結論 「追悼碑建立の土地」には、二つの公共性がある
   2010年3月28日に、紀州鉱山で亡くなった朝鮮人の追悼碑が除幕された。
  「朝鮮の故郷から遠く引き離され、紀州鉱山で働かされ、亡くなった人たち。父母とともに来て亡くなった子どもたち。わたしたちは、なぜ、みなさんがここで、命を失わなければならなかったかを明らかにし、その歴史的責任を追究していきます」と記された追悼碑の前には、犠牲者35人の名前を記した35個の石が置かれていた(甲第6号証の1)。
   紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する碑を建立したのは、朝鮮人と日本人である。
   本件原告も朝鮮人と日本人である。
   朝鮮の故郷から強制連行され、紀州鉱山で命を失った朝鮮人を追悼する意味は、朝鮮人と日本人では同じではない。しかし、朝鮮人も日本人も、共に、「なぜ、みなさんがここで、命を失わなければならなかったかを明らかにし、その歴史的責任を追究していきます」と犠牲者に約束している。
   本件土地の公共性は、朝鮮人と日本人の歴史的諸関係にかかわっている。韓国江原道議会議員一同が、「追慕碑の敷地にたいして、“公共性がない”と言う理由で課税したという話に接しました。これは、非常に不当な処分であり、残念に思います」と述べているのもそのためである。

  1300人以上の朝鮮人が紀州鉱山に連行され、劣悪な生活環境の下で、過酷な労働を強いられた。石原産業の元職員の証言によれば、「彼らは銃や日本刀を持った軍人に監視されていた」のである。その歴史的事実を後世に語り伝え、その歴史的責任を追究するためのひとつの基点として、「鉱山資料館」の斜め前に当たるこの地に、本件「強制連行された朝鮮人の追悼碑」は公共性を帯びて建立されたものである。三重県知事がこの追悼碑建立について「何らの義務も責任もない」として宅地並みに課税して良いはずはないのである。
  本件追悼碑は、熊野市の紀州鉱山における真実の歴史を刻み、その責任を問い続けるモニュメントとして今後も末永くここに在り続けるであろう。本件追悼碑のある空間には、その歴史的意義において金銭では計りえない価値がある。

  紀州鉱山で亡くなった朝鮮人の追悼碑の除幕集会には、100人を超える方がたが参加し、地元の方々はもとより、日本各地から、韓国から、沢山の老若男女が集い、新聞を見て参加した人も複数あったのである。
  まさに不特定かつ多数の多彩な参列者に囲まれ、70年の間忘れられて来た強制連行の朝鮮人犠牲者へのはじめての追悼式が本件土地で行われたのである。「墓地」が訪れる人を拒まない、不特定多数の人々に開かれた空間としての公共性を持つのと同様、本件「紀州鉱山で亡くなった朝鮮人の追悼碑建立の地」もまた訪れる人を拒まない、不特定多数の人々に開かれた公共性ある空間であることを証明するような集会であった。
  繰り返すが、熊野市が文化財指定するほどに公共性を認めて管理している「英国人墓地」は、そこに英国人捕虜の遺骨は存在しないのであるから、実質は「英国人捕虜の追悼碑の土地」であり、「朝鮮人の追悼碑建立の地」と「追悼の場」であることにおいては異なるところがないのである。どちらも、「戦時下の紀州鉱山で何があったか」その歴史的事実を後世に伝えるモニュメントとしての碑のある場である。
  異なるのは、追悼される対象と、その対象がそれぞれに問う「歴史的責任」である。「英国人墓地」が問うのは、日本政府と日本軍が国際法(ジュネーヴ条約32条ほか)を無視して、俘虜を危険な労働に使役し、1年の内に16名を死に至らしめた事実であり、本件「強制連行された朝鮮人の追悼碑」が問い続けるのは、日本国と日本軍と日本企業と地方行政が植民地朝鮮の人々を強制的に連行し、過酷な鉱山労働に就かせ、その本名を名乗らせないなど人権を踏みにじり、35名を死に至らしめた事実である。それゆえ、本件追悼の場には、本名を記した35個の石が置かれねばならなかったのである(甲第4号証の2)。

   他県・他市において、「強制連行の犠牲者の追悼碑」等に自治体が公有の土地を提供している例があるのは、こうした歴史の真実を刻み、その責任を忘れさせないモニュメントである追悼碑の建立等に公共性を認めているからである。民間有志の想いが実って建立に至った場合においても、それぞれの自治体は、強制連行・強制労働という過去の歴史について、反省を迫られて協力したのであり、議会の承認を得て住民の税金を用いて「納骨堂」の建設や「慰霊祭」等に補助金を支出することができるのは、歴史の真実を刻み、その責任を問い続けるモニュメントとしての存在意義を多くの県民・市民が認めているからである。そこには地域の住民と行政がともに承認する公共性が存在するからである。

  本件紀州鉱山に強制連行された朝鮮人の追悼碑建立の地も他県・他市の追悼碑の地も、「英国人墓地」という名の「英国人捕虜の追悼碑の地」も、同様に二つの意味で公共性がある。
  既に述べて来たことを繰り返すが、その一つは、「不特定多数の人々に開かれた空間」としての公共性であり、今一つは「歴史の真実を刻み、その責任を問い続けるモニュメント」としての公共性である。
  三重県知事は、かつて、紀州鉱山を含む三重県内の鉱山などに朝鮮人を強制連行し強制労働させることに加担した。被告三重県知事が、その行政責任をとろうとしないで、被告処分庁の裁量権の逸脱・濫用や不公平な処分を黙認し、「追悼碑建立の土地」に不動産取得税を課すことは、被告処分庁の手続き的違法に加えて一層赦し難い不正義である。それは未来に向けて「歴史の真実を語り継ぐこと」を妨害することであり、歴史の隠蔽・改竄を黙認する地方行政の権力の濫用を意味する。
  本件「追悼碑建立の土地」は、地域の特殊事情とその用途における特異性から、通常の宅地とは比べることのできない用途に属する事案である。
  歴史の真実を刻み、その責任を未来に語り継ぐ存在として在り続ける本件「追悼碑建立の土地」に、形式的な所有者の名において通常の住宅としての評価に基づく不動産取得税や固定資産税を賦課することは相当ではなく、被告三重県知事の「裁決」は、公共性・公平性の観点からみて、極めて不当な判断で、不公正な処分であったと言わざるを得ない。

  よって、原告らは、公正・妥当な司法の判断によって、先ず、本件「紀州鉱山に強制連行された朝鮮人の追悼碑建立の土地」の取得に対する「不動産取得税賦課処分」を取り消し、原告が求めた不服審査請求を棄却とした被告三重県知事の「裁決」を取り消し、本件土地取得には免税が相当であることを確認し、被告処分庁が「差押え」によって原告から強制徴収した金額を返還するよう、判決されることを求めて、本件裁判を提起するものである。
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対熊野市訴状 「請求の趣旨」

2011年05月29日 | 紀州鉱山
 2011年3月18日に津地方裁判所に提訴した熊野市を被告とする訴状の「第1 請求の趣旨」の全文は、つぎのとおりです。このブログの3月13日の「訴状の構成」を参照してください。
 三重県は、紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する場の土地にたいして不当課税した不動産取得税の全額を強制徴収(差し押さえ)しましたが、熊野市は、現時点では、2010年度固定資産税を強制徴収(差し押さえ)していません。
 この訴訟の第1回裁判(口頭弁論)は、対三重県訴訟開始の30分前、8月4日午前11時に津地方裁判所302号法廷で開始されます。
 
■2010年度固定資産税賦課処分及び減免不承認処分等取消請求事件
    訴訟物の価格  16、200円
    貼用印紙代     1、000円

第1 請求の趣旨
1. 処分行政庁が2010年5月6日付けで原告らに対してした、別紙2「不動産目録」記載の土地に係る2010年度固定資産税賦課決定を取り消す。
2. 処分行政庁が2010年6月2日付けで原告らに対してした、別紙2「不動産目録」記載の土地に係る2010年度固定資産税の減免不承認決定を取り消す。
3. 処分行政庁が,2010年9月22日付けで、原告らに対してした,別紙2「不動産目録」記載の土地に対する2010年度固定資産税賦課決定及び、2010年度固定資産税減免不承認処分に対する異議申立てを棄却する旨の決定を取り消す。
4. 原告らが取得した別紙2「不動産目録」記載の土地の2010年度固定資産税は、免税が相当であることを確認する。
5. 訴訟費用は、被告の負担とする。
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対三重県訴状 「請求の趣旨」

2011年05月28日 | 紀州鉱山
 2011年3月18日に津地方裁判所に提訴した三重県を被告とする訴状の「第1 請求の趣旨」の全文は、つぎのとおりです。このブログの3月13日の「訴状の構成」を参照してください。
 三重県は、紀州鉱山の真実を明らかにする会のキム チョンミに対し14,000円、竹本昇に対し13,800円、計27、800円を強制徴収(差し押さえ)しています。この27、8000円は、紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する場の土地にたいして三重県が不当課税した不動産取得税の全額です。
 この訴訟の第1回裁判(口頭弁論)は、8月4日午前11時半に津地方裁判所302号法廷で開始されます。
 
■不動産取得税賦課処分等取消請求事件
   訴訟物の価格  27、800円
   貼用印紙代     1、000円

第1 請求の趣旨
1. 処分行政庁三重県紀州県税事務所長が、2010年6月1日付けで原告らに対してした、別紙2「不動産目録」記載の土地に係る不動産取得税賦課決定を取り消す。
2. 処分行政庁三重県知事野呂昭彦が、2010年10月13日付で原告らに対してした、別紙2「不動産目録」記載の土地に係る不動産取得税賦課処分の取り消しを求める不服審査請求を棄却する旨の裁決を取り消す。
3. 処分行政庁三重県紀州県税事務所長が2009年11月2日付で課税し、2009年11月25日付けで減額し、2010年6月1日付けで原告らに対して不動産取得税賦課決定をした、別紙2「不動産目録」の土地は、免税が相当であることを確認する。
4. 被告三重県は、原告 金靜美 (キム チョンミ) に対し、14、000円を支払え。
5. 被告三重県は、原告 竹本昇 に対し、13、800円を支払え。
6. 第4項、第5項について、仮執行宣言を求める。
7. 訴訟費用は、被告の負担とする。
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海南島における日本の侵略犯罪と抗日反日闘争

2011年05月27日 | 集会
 以下は、神戸・南京をむすぶ会の勉強会のお知らせです。

■神戸・南京をむすぶ会・勉強会■
 神戸・南京をむすぶ会は、1997 年から毎年中国を訪問しています。南京ともう一ヶ所、日本軍の侵略の跡地を訪ねることにしています。
 今年の第15 回目の訪中団(2011年8月12日~ )は、南京と海南島を訪ねます。
 以下のような事前学習会を開きます。
 訪中できない方ももちろん自由にご参加いただけます。訪中団の案内がご希望の方は、下記連絡先までお問い合わせください。
■日 時:2011 年6月10日(金)午後6時開会
■スケジュール
  ●午後6時~午後7時5分 ビデオ上映
     ドキュメンタリー『日本が占領した海南島で 60 年まえは昨日のこと』上映
                 (紀州鉱山の真実を明らかにする会企画・制作65分)
  ●午後7時10分~午後8時10分
      講演「海南島における日本の侵略犯罪と抗日反日闘争」
             佐藤正人さん(海南島近現代史研究会)
  ●午後8時10分~午後8時30分
      質疑応答
■会 場:神戸学生青年センター  TEL 078-851-2760  http://ksyc.jp/map.html
       (阪急六甲下車徒歩3分、JR 六甲道下車徒歩10分)
■参加費:500円
主催:神戸・南京をむすぶ会(代表・宮内陽子)
    〒657-0064 神戸市灘区山田町3-1-1 神戸学生青年センター内
    TEL 078-851-2760  FAX 078-821-5878
    ホームページ http://ksyc.jp/nankin/  e-mail hida@ksyc.jp
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「紀州鉱山の真実を明らかにする会 碑建立地の課税取り消しを求める」

2011年05月26日 | 紀州鉱山
 2011年5月25日付『統一日報』(統一日報社、週刊)4面に、つぎの記事が掲載されました。
 事前に『統一日報』記者から紀州鉱山の真実を明らかにする会への取材はありませんでした。
 この記事は、5月17日聯合ニュース(日本語版)で報道された記事(「紀州鉱山の朝鮮人追悼碑、日本自治体が私有地課税」)をほぼ原文のまま抜粋し、中間に、「その後、裁判所からの訴状訂正申立書などに応じ、5月9日付で第1回裁判(口頭弁論)が開かれることが明らかになったが、期日は未定。裁判は合議制で、津地方裁判所302号法廷で開かれる」という文章を加筆したものです。
 この加筆部分には「裁判所からの訴状訂正申立書などに応じ……」と書かれていますが誤記です。「裁判所からの訴状訂正申立書」などというものは、ありません。また、「5月9日付で第1回裁判(口頭弁論)が開かれることが明らかになった」というのも誤りです。くわしくは、このブログの5月9日の「担当裁判官が決まりました」を見てください。
 5月25日付『統一日報』には「期日は未定」と書かれていますが、このブログの5月19日の「第1回裁判(口頭弁論)の期日」でお知らせしているように、第1回裁判(口頭弁論)は8月4日11時に開廷します。
                                       佐藤正人

■紀州鉱山の真実を明らかにする会
 碑建立地の課税取り消しを求める

 「紀州鉱山の真実を明らかにする会」は昨年3月、三重県熊野市の紀州鉱山に強制動員され、死亡した朝鮮人35人を追悼する碑を建立したが、三重県と熊野市は「公共性のない私有地」として、建立地に不動産取得税2万6300円と固定資産税1万6200円を課税した。
 これに対し、「土地は朝鮮人強制動員事実を伝え、歴史的責任所在を明らかにする公共的場所」と主張する同会は、「行政機関が侵略犯罪に加担することだ」と、課税に強く反発、今年3月18日に、三重県と熊野市の課税取り消しを要求する訴状と証拠説明書などを津地方裁判所に提出したという。
 その後、裁判所からの訴状訂正申立書などに応じ、5月9日付で第1回裁判(口頭弁論)が開かれることが明らかになったが、期日は未定。裁判は合議制で、津地方裁判所302号法廷で開かれる。
 同会は当初、鉱山を運営した石原産業と熊野市に土地提供や資金などの支援を要請したが、断られ、在日韓国人有志らから資金を募り、2009年7月に土地を直接購入し、建立した。
 碑文は「朝鮮の故郷から遠く引き離され、紀州鉱山で働かされて、亡くなった人たち。父母とともに来て亡くなった幼い子たち。わたしたちは、なぜ、みなさんがここで命を失わなければならなかったのかを明らかにし、その歴史的責任を追及していきます」と書かれている。
 紀州鉱山は1934~1978年に運営され、1940~1945年に江原道を中心に朝鮮人1000人余りが強制労働を強いられた。当時、鉱山に強制動員されて死亡した英国人捕虜16人の墓地は、熊野市の史跡と指定して管理されているが、朝鮮人死亡者に対しては何の措置も取られていない。
 http://news.onekoreanews.net/detail.php?number=60914&thread=01r04
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海南島における日本軍隊性奴隷制度と強制連行・強制労働 9

2011年05月25日 | 海南島史研究
五、今後の課題
②、「海南島戦時性暴力被害裁判」:名誉回復・損害賠償
 今回わたしたちがお会いした黄玉鳳さん、陳金玉さん、玉民さん、陳亜扁さんは、黄有良さん、林亜金さん、譚玉蓮さん、譚亜洞さんとともに、8人で、日本国を被告として、「名誉及び尊厳の回復のための謝罪」と「名誉及び尊厳の回復がなされてこなかったことにたいする賠償」を要求し、2001年7月に訴状を東京地裁に出した。
 陳亜扁さんと、黄有良さんは、2000年12月に東京で開催された女性国際戦犯法廷の原告であったが、出廷できなかった(陳亜扁ささんはビデオで証言)。
 2001年11月28日の「海南島戦時性暴力被害裁判」第1回口頭弁論のさい、原告のひとり黄有良さんは、
  「わたしがあのような性暴力を受けたのは、自分の意思ではなく、日本兵によって無理矢理だったのに、わたしの子どもたちまでが“お前の母親は慰安婦だった”と忌わしいことを言われ続けて辱められなければならなかったことは、親として耐えられないことだった。
   すべてを打ち明けて信頼して結婚した夫にまで、私の過去のことを非難され続けるのはとても辛く、死んでしまいたいと思ったことも何度もあった」
と証言した。
 「海南島戦時性暴力被害裁判」は、2003年1月22日の第6回、3月19日の第7回口頭弁論のあと、5月中旬から原告証言、証拠調べが開始される予定である。

③、朴来順氏ら海南島で日本軍隊性奴隷とされた女性すべての名誉回復

④、さらなる事実調査。海南島における日本の国家犯罪を明るみに!

⑤、民衆史としての海南島における抗日反日闘争史
 今回の調査のさい、舞鶴鎮守府第1特別陸戦隊の司令部があった那大(現、儋州)で、わたしたちは、「慰安所」の跡地に建てられた憺州市政府第2招待所に宿泊した。翌朝7時、わたしたちは、その中庭で、朝食中の年配の男性を見かけた。偶然であったが、その人は、わたしたちが会いたいと思っていた林良材さんだった。林良材さんは『儋州文史資料』に、那大の「慰安所」について書いている。
 林良材さん(1923年2月20日生まれ)は、
  「ここにあった‘慰安所’は、日本軍部隊が利用した。
   ‘慰安婦’は、はじめは十数名だったが、あとでは数十名になり、さらに多くなった。
   ‘慰安婦’がどこの人だったかは知らない。当時、‘慰安所’は知っていたがが、中のことはわからなかった。
    一昨年に亡くなったが、‘慰安所’で働いていた人がいて、その人から‘慰安所’の話を聞いた。
    那大に日本軍が入ってきたとき、自分は学生だった。
    海口にいた国民党の部隊に参加して、抗日運動をした。山にはいり、日本兵が通り過ぎるのを待ち伏せて攻撃したりした。
    われわれは、猟銃で戦った。
    日本軍から逃げてきた台湾人兵士やインド人をなんども助けた。
    インド人は労働者だった。助けた台湾人は18人。インド人は50人以上だった。
    インド人は武器を持っていなかったが、台湾人は銃を持って、それを高く掲げて、投降してきた」、
と話した。

 わたしたちは、今回の調査の最後の日(10月23日)、三亜市の自宅で羊杰臣さん(82歳)を訪ね、その夫人の張引穠さん(82歳)とともに話を聞いた。羊杰臣さんは、三亜地域の日本侵略史を長年調査している。筆者らは1998年6月、羊杰臣さんに、紅沙の「慰安所」に案内してもらったことがある。張引穠さんは、次のように証言した。
   「日本軍が入ってきたときは、結婚していた。
    住んでいた故郷の村で、女性たちが捕まっていくのを見た。
    わたしたちは捕まらないように、家族全員で山に隠れて住んだ。
    村にいた日本兵はあまり多くなかった。
    山に隠れて暮らしていたが、日本軍がいないすきに、ちょっと家に戻ることもあった。
    日本の兵士たちが村の女性をひざまづかせて、首を切って殺すのを見た。
    村人全員を座らせて、それを見せた。
    その女性の夫が県長で、夫は山に行って遊撃隊に加わったので殺されたと聞いた」。

 【写真】15 羊杰臣さんと張引穠さん。
 【写真】14 林良材さん。

 海南島では、証言する人も、調査する人も、年配の人たちは、日本の侵略の時代を生き抜いてきている。その時代は、反日・抗日闘争の時代でもあった。そして、それは、朝鮮民族においても同じであった。今後、海南島の人びととともに、侵略と抵抗の歴史を統一的にまた具体的に追及していきたい。
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海南島における日本軍隊性奴隷制度と強制連行・強制労働 8

2011年05月24日 | 海南島史研究
五、今後の課題
①、「朝鮮村」発掘
 2002年4月17日付で、金大中韓国大統領に、紀州鉱山の真実を明らかにする会は、韓国政府として、「朝鮮村」に埋められているの遺骨を発掘し、死因を特定し、ひとりでも、その遺骨の身元を明らかにし、息子あるいは夫あるいは父が、どこで、どのようにして亡くなったかも知らないであろう家族のもとに、遺骨を返すようにしてほしいという手紙と、資料を送った。
 これにたいして、6月20日に、韓国外交通商部東北亜1課外務官キムヨソプ氏から、つぎのような返事が来た。

  1、貴下から2002年4月29日(月)大統領秘書室で接収した民願(第204―1076号)について、回信します。
  2、まず、貴下が日帝の強制徴用などで海外で無念にも犠牲になった方がたの遺骨奉還問題に深い関心を持っていることにたいして、感謝します。
  3、日帝時代に強制徴兵・徴用で連行された韓国人は数十万人になり、これらのうち相当数は祖国に戻ることができず、海外で犠牲になったものと推定されますが、これらの遺骨の韓国への奉還は、貴下の要請のように、国家的次元で、わが政府によって遂行されなければならない課題だと判断されます。
  このためには、海外に散在する遺骨の所在調査、および発掘作業が先行されなければならないところですが、現在としては、関連予算の不在などで、これに着手できないでいる実情です。
  4、貴下が要請した中国海南島「朝鮮村」に埋められている遺骨の解剖は、上記したように、まず、海外所在韓国人遺骨にたいする全体的な調査・発掘計画が樹立されたのちに、同計画の一環として、検討が可能なものと思われますが、わが部署として、今後関係予算の確保のために、継続して、すべての努力を傾注していく予定であることをお知らせします。
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海南島における日本軍隊性奴隷制度と強制連行・強制労働 7

2011年05月23日 | 海南島史研究
四、「朝鮮村」虐殺(「海南島派遣朝鮮報国隊」)
 2001年1月12日~2月11日、「朝鮮村」の南丁小学校裏の広場のごくわずかな部分を発掘しただけで、百体を越える遺骨が現れた。全身の姿を留めた遺骨。ふたつの頭蓋骨がくっついたもの。銃弾と思われる穴があいた頭蓋骨。手足や体が不自然に曲がった遺骨。
 このときの 発掘で、黎族の村人たちの証言通り、多くの朝鮮人が残酷な方法で殺害されたことがはっきりした。このとき、遺骨とともに、薬莢、日本軍のものと様式が酷似した“軍隊手帳”、ボタン、布きれ、金歯、角型の鉄枠などが出た。

 ここに埋められているのは、「朝鮮報国隊」の「隊員」として、アジア太平洋戦争末期に、日本軍の命令と管理下で、京城刑務所、西大門刑務所、平壌刑務所、新義州刑務所、鎮南浦刑務所、海州刑務所、大邱刑務所、大田刑務所、清州刑務所、光州刑務所、元山刑務所など、朝鮮の刑務所から連行されて、働かされ殺された朝鮮人である。
 かれらは、刑期の短縮という条件を示されて、どこに行くかも知らされずに船に乗せられた。着いたところが海南島だった。かれらは、三亜飛行場、黄流飛行場、三才鎮后石村飛行場、英州鎮大坡村飛行場、八所港湾工事、三亜―八所間の鉄道工事(以上は、日本軍の施設)、田独鉄鉱山(石原産業経営)、石碌鉄鉱山(日本窒素経営)、関連の土木工事(西松建設)で強制労働させられた。

 【写真】12 “朝鮮村”全景。
       南丁村南東の南丁嶺(標高約300M)頂上付近で(2002年 3月 26日撮影)。
 【写真】13・14 「朝鮮村」に埋められていた朝鮮人の遺骨(2001年1月撮影)。

 日本の敗戦近くまでに生き残っていた「朝鮮報国隊員」は、三亜市郊外の南丁村に集められた。かれらはそこで、日本軍の監視のもとに道路工事やトンネル掘りなどの仕事をさせられたあと、殺された。その数は、1000人以上と推定されるが、その名は、一人も明らかになっていない。
 海南島に強制連行され、幸いにも帰郷することができて仮釈放された217人の書類(朝鮮総督府行刑部作成)は、ソウルの韓国政府記録保存所に保管されている。
日本占領下の海南島に強制連行され、命をなくした人は多い。石碌鉱山、八所港、石碌―八所間鉄道の建設現場で殺害された人は、数万人であった(河野司編著『海南島石碌鉄山開発誌』石碌鉄山開発誌刊行会、1974年)。
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広島安野の中国人受難者の追悼集会に参加して

2011年05月22日 | 紀州鉱山
 5月14日(土)に、広島の中国電力安野発電所に強制連行された中国人を追悼する集い「中国人受難者を追悼し平和と友好を祈念する集い」があり、参加してきました。
 安野に強制連行された中国人による西松建設に対する提訴は、広島高裁で勝訴判決が出たものの、最高裁で逆転敗訴し、そのあと裁判所の調停で西松建設と遺族の間で和解が成立し、遺族に2億5000万円の和解金が支払われました。この和解金で遺族に補償金の支払いと追悼碑の建立や追悼行事の費用が賄われることになり、「基金運営委員会」がつくられました。これまでに360人のうち連絡が取れた186名の遺族に補償金が支払われたとのことです。
 追悼碑の除幕式は2010年10月23日におこなわれ、このときに故地参観の第1回訪日団として中国から40名が参列しました。
 今回は第2回訪日団として30名の遺族および家族が訪日しましたが、これらのみなさんはほぼ全員が初来日だということです。今後は、毎年5月と10月に30名程度の遺族を招いて、5回で3年半にわたって現在判明しているすべての遺族を招待する計画だとのことでした。
 この日は、日本側の主催者や参加者も含め数十名が2台のバスに分乗して、広島市内から40キロほど離れた安野(現在は安芸太田町)に向かいました。

 安野の発電所の工事は西松建設が請け負い、1944年8月から日本の敗戦までに360名の中国人が河北省、山東省から連行され、発電所建設のための過酷な労働を強いられました。
 この発電所は太田川の上流からトンネルを掘ってそのトンネルに水を導いて高いところから落下させ発電するという方式で、一番の難工事の導水トンネルを掘る仕事を中国人がさせられたそうです。導水トンネルの掘削は、4箇所からそれぞれ左右に掘り進んでたがいに貫通させるという方式をとり、そのため掘り口になっている4つの地区に中国人の収容所が建てられました。それが坪野、津浪、加草、土居という地区です。

 この日は、まず安野発電所の追悼碑のある場所に行き、10時から追悼集会を行いました。
碑の前で、まず基金運営委員会や遺族の代表があいさつし、続いて安芸太田町、中国大阪総領事館などの来賓が挨拶し、最後に献花を全員で行いました。そのあと、発電所の一番上まで歩いて登り、説明を聞きました。
 それから近くの集会所で昼食を食べた後、当時の住人から証言を聞きました。地下足袋が壊れたはだしの中国人に地下足袋や水をあげたという話がありました。裁判ではこれらの地元民の証言が採用され、これが中国人の証言を裏付けるものとなって、二審の勝訴が得られたという話です。
 そのあと、バスで津浪、加草、土居の順番で回り、収容所の跡を見て、住民から当時の状況を聞きました。収容所の建物はバラックで、悪臭が漂い、ふとんも、着るものも、まったく不足していた。食べ物は小麦粉のまんとうが1回に2個、一日に3回出されただけで、野菜もおかずもまったくなかった。水を飲んで腹を膨らませた。最後はドングリの粉を食べた、といった話を聞きました。

 安野発電所にある碑には、正面に「安野中国人受難者之碑」と書かれ、その裏面に漢語と日本語で安野・中国人受難者及び遺族と西松建設株式会社の連名による以下のような碑文が刻まれています。

  第二次世界大戦末期、日本は労働力不足を補うため、1942年の閣議決定により約4万人の中国人を日本の各地に強制連行し苦役を強いた。広島県北部では、西松組(現・西松建設)が行った安野発電所建設工事で360人の中国人が苛酷な労役に従事させられ、原爆による被爆死も含め、29人が異郷で生命を失った。
  1993年以降、中国人受難者は被害の回復と人間の尊厳の復権を求め、日本の市民運動の協力を得て、西松建設に対して、事実認定と謝罪、後世の教育に資する記念碑の建立、しかるべき補償の三項目を要求した。以後、長期にわたる交渉と裁判を経て、2009年10月23日に、360人について和解が成立し、双方は新しい地歩を踏み出した。西松建設は、最高裁判決(2007年)の付言をふまえて、中国人受難者の要求と向き合い、企業としての歴史的責任を認識し、新生西松として生まれ変わる姿勢を明確にしたのである。
  太田川上流に位置し、土居から香草・津浪・坪野に至る長い導水トンネルをもつ安野発電所は、今も静かに電気を送りつづけている。こうした歴史を心に刻み、日中両国の子々孫々の友好を願ってこの碑を建立する。
      2010年10月23日
            安野・中国人受難者及び遺族
                   西松建設株式会社

 強制連行された360名の中国人全員の名前が、追悼碑の両側の石に刻まれており、遺族・家族の方々は自分の父親や祖父の名前を指でなぞって涙を流していました。少なくとも、氏名と人数が判明していることは、朝鮮人の場合と大きく異なっています。
 この安野でも、朝鮮人の労働者はいたようですが、その数や氏名、また犠牲になった朝鮮人の数や氏名はほとんどわかっていないようです。
 わたしたちが取り組んでいる熊野の紀州鉱山における朝鮮人労働者についても、就労者の氏名と人数、犠牲者の氏名の人数はきわめて不正確です。安野の朝鮮人労働者の強制連行と強制労働についても、中国人受難者と同様の調査が求められていると思います。
 この追悼のつどいでひとつ気になったのは、この集会に西松建設が会社として参列していないことでした。集いには、西松の会社からは誰も参加せず、代理人弁護士も出席予定でしたが、この弁護士も都合で出席しませんでした。運営委員会のほうは、そのことをとくに問題視する様子はありませんが、「企業としての歴史的責任」を果たす、というのであれば、西松建設は基金運営委員会にも参加して、追悼の活動にもっと積極的に取り組む姿勢が必要だと思うのですが、どうやら西松建設は和解金を支払っただけのようです。
 この中国人受難者之碑は、したがってここで強制労働をさせられた朝鮮人の追悼につながっていかなければならないと思うし、さらには西松建設がアジアの植民地支配と侵略戦争の過程で国外の各地でおこなった強制労働の犠牲者に対する追悼にもつながっていく必要があると思います。
 わたしたちは、紀州鉱山における朝鮮人の犠牲者を追悼する碑を建立するにあたって、つぎのような宣言文を朝鮮語と日本語で記しました。

  追悼碑建立宣言
  1940年から1945年までに、のべ1300人を超える朝鮮人が、紀州鉱山に強制連行され強制労働させられました。1940年以前にも、家族とともに紀州鉱山にきて働いていた朝鮮人がいました。
  これまで、わたしたちが知りえた紀州鉱山で亡くなった朝鮮人は35人ですが、そのなかには、朝鮮の故郷から連行されて、わずか1か月後に命を失った人もいました。わたしたちは、その人たち一人ひとりを思う石をここに置きました。
  紀州鉱山で、1941年5月に、朝鮮人130人は、米穀の増配を要求してストライキをおこないました。1944年秋には、紀州鉱山の坑口に、「朝鮮民族は日本民族たるをよろこばず。将来の朝鮮民族の発展を見よ」と、カンテラの火で焼きつけられてあったといいます。
  紀州鉱山を経営していた石原産業は、日本占領下の海南島で、田独鉱山を経営していました。田独鉱山で強制労働させられた朝鮮人は、「朝鮮報国隊」として朝鮮各地の監獄から日本政府・日本軍・朝鮮総督府によって海南島に強制連行された人たちでした。海南島で亡くなった朝鮮人の数もその名も、まだわかっていません。
  田独鉱山に建てられている「田独万人坑死難工紀念碑」には、「朝鮮・インド、台湾、香港、および海南島各地から連行されてきた労働者がここで虐待され酷使されて死んだ」と記されています。
  1942年から石原産業は、フィリピンのカランバヤンガン鉱山、アンチケ鉱山、シパライ鉱山、ピラカピス鉱山などで、日本軍とともに資源略奪を開始し、多くのフィリピン人を強制的に働かせました。そのなかには、日本軍と戦って「捕虜」とされた人たちもいました。
  わたしたちは、この追悼碑をひとつの基点として、紀州鉱山から生きて故郷にもどることができなかったみなさん、海南島で死んだ朝鮮人、そしてアジア太平洋の各地で日本政府・日本軍・日本企業によって命を奪われた人びとを追悼し、その歴史的責任を追究していきます。
      2010年3月
          紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する碑を建立する会
                   在日本大韓民国民団三重県地方本部
                   在日本朝鮮人総聯合会三重県本部
                   紀州鉱山の真実を明らかにする会

 この追悼碑建立宣言では、紀州鉱山の朝鮮人労働者がたんなる被害者であるだけでなく、日本企業による強制労働に抵抗し、自らの権利を守るために闘ったことを記しています。さらに紀州鉱山の強制労働は、同じ石原産業による海南島の田独鉱山におけるアジアの民衆に対する強制労働と密接につながっていること、フィリピンの各鉱山におけるフィリピン人の強制労働ともつながっていることを指摘しています。さらに日本軍によって海南島に連行された朝鮮人(「朝鮮報国隊」と呼ばれる)がいることも刻んでいます。紀州鉱山の追悼碑は、海南島の田独鉱山の紀念碑とひとつながりになって始めてその歴史的な意味が明らかになります。
 その意味で、安野の中国人受難者の碑も、安野の朝鮮人の受難者の調査や追悼、そしてアジアの強制労働の受難者の調査と追悼につながっていくべきものだと思います。
 西松建設は、日本占領下の海南島で、石碌鉱山や発電所建設に従事し、やはり多くのアジアの虐待し死に至らしめています。その意味で、西松建設の歴史的責任を安野の中国人にとどめていくことはできないと思うのです。
                                   斉藤日出治
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