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三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

厚生公司曾在海南強迫村民種鴉片斂財

2010年05月31日 | 海南島
 きょう(5月31日)、海南島で出されている『国際旅游島商報』に掲載された記事です。
    http://www.hndnews.com/
    http://www.hndnews.com/News_View.asp?newsid=3725

■■日本厚生公司曾在海南强迫村民种鸦片敛财■■

  在海口市长流镇的传桂村,有一块田地种满了芝麻、花生和稻子,田埂上的牛儿埋着头,欢快地吃着草;远处,各种车辆在路上行驶着。烈日下,佐藤正人把摄像机架在三脚架上,静静地拍摄着这片稻田。60多年前,日本人在田地上种植罂粟,如今的这片稻田曾经开满了艳丽的罂粟花。
     【写真】佐藤正人先生在现场采访

■■■鲜为人知 侵琼日军曾在海南多地种植鸦片

  “当年我还小,大概十岁左右,我看过日本人逼着村里人种植罂粟,当时结出的鸦片果,像我们的本地石榴那么大。果实里面有籽,籽的颜色就像是芝麻的棕红色。”今年77岁的村民吴金用说道,“当时日本人只种了一年,就没有再种了。”
  据佐藤正人在日本查到的资料显示,当时日军在海南打出“禁止鸦片”的旗号,下发给海南海军特务部海南岛三省联络会议决议事项里明确表示要禁止鸦片。但是私下里,日本人却在海南各地偷偷地种植着鸦片。
  “当时日本在海南种植鸦片时,先做了分析调查,他们认为海南的气候很适合种植鸦片。种植鸦片需要不能太冷也不能太热的气候,降雨量也要不多不少。没想到来海南种植后,他们发现海南的天气比预计的还要热,降雨量也比原先估计的还要多,而且非常集中。在这样的天气下,罂粟的枝干都烂掉了。”佐藤正人表示,当时日本方面发现海南的气候跟金三角不同,并不适合种植罂粟,所以算是种植失败,种了一年便没有再继续种植了。
  “2007年,我采访了当时曾在海南种植鸦片的山田行夫,他介绍说,当时日本用军款在中国种植鸦片,具体由厚生公司来操作的。主要在海南的列楼、老城、白莲、金江、丰盈、土艳、那大、洛基、南丰等地种植。后来厚生公司的头目中村三郎在国际审判时被枪决了。”佐藤正人说,“种植鸦片方面受到的关注比较少,所以当时种植鸦片的资金,都回笼到了日本,流入到了日本自民党的金库里。”

■■■执着老人 要让在海南犯罪的日本人受到审判

  “日本人当年在海南做了很多坏事,杀了很多人,但是这些人都没有承担责任,打完仗回去后,只有两个日本人承担了责任,被判了刑。这两个人一个是日军的一个队长,还有一个是他的部下。”佐藤正人表示,希望通过收集到的证据,能够还原历史的原貌,让更多做了坏事的日本人受到惩罚。
  “他不仅仅去查那种比较明显、比较大的线索,他对当年侵琼日军在海南留下的任何线索都去调查,都去要揭开这些线索与日本的经济、军事存在的联系。”佐藤正人的翻译邢越表示。“他在海南这边得到线索后,又回到日本找相关的资料查证。在日本除了绝密的资料不向民众开放,其他的都可以找到。比如当时日本驻军有多少,打死多少中国人的情况等等,都可以在日本找到。”
  据佐藤正人介绍,在海南行之后,佐藤正人即将飞往珠海。“在珠海的三灶岛,日军曾建了一个飞机场。当时日军就是从珠海的三灶岛机场飞到海南,对海南进行侵略的。当时为了建这个飞机场,杀害了1200多名村民。”他表示。

■■■还原真相 佐藤希望与海南学者合作追查证据

  佐藤正人有一张当年侵华日军在海南驻军情况的地图,他时不时拿出地图研究,思考下一步将要去追寻证据的地方。“他在日本兵防卫厅研究所图书馆里,找到了这张‘陆上部队兵力配备要图’,图上记录了1943年日军海南警备府的作战详情。”佐藤先生的翻译邢越表示,“地图上的地方,十几年里,佐藤先生已经去了三分之二了。”
  说到在海南做的工作,佐藤正人表示,“这是日本人应该做的。”同时他也希望能和海南的学者进行友好互动,一同追查当时日军侵略海南的证据。
  “现在时间都折腾在寻找的路上,因为掌握的海南这边的资料不全面,对这边的情况不了解,我们调查到的东西不全。佐藤正人本人也年纪大了,这个工作要与时间赛跑。”邢越表示,这次到长流传桂村就是通过网友青龙剑和gushuifc的帮助,很准确也很快速地找到了人证物证,高效地完成了收集证据的工作。“这次本是想拜访今年96岁吴国铭老人,他当年曾被日本人逼迫种植鸦片。但是他年纪大了,思维有点糊涂了。当年的见证人越来越少,所以要加快步伐去搜集证据。”
  邢越表示,在日本佐藤正人能查到很多资料,是中国的学者无法办到的,他了解的资料也很全面。“随着佐藤先生年龄的加,单枪匹马去进行查证效率不高,佐藤先生很希望能跟中国的学者互动,联手查找人证物证。

■■■走访谭口 “村里的人几乎都被日本人打过”

  从5月21日开始,佐藤先生先后去了定安、澄迈、昌江、屯昌等市县的多个村镇。5月29日,佐藤正人一行来到了琼崖抗击日本侵略者打响第一枪的地方——云龙镇的玉仙村。这是海南共产党抗日部队与日军第一次作战的地方,当时日军驻扎在此的兵力有120多人。
  在谭口渡口狙击战纪念碑的一旁,顺着200米的坡路,佐藤正人一行来到了当时作战的渡口,现在渡口正在进行修缮。“打仗的时候,我听到了枪声,但是我不敢看,躲了起来。当时村子里很多人逃到了附近的山里,因为躲藏了一年多,很多人都被饿死病死了。村里的鸡、羊也都被日本人抓去了,还烧了村里的屋子。”今年80岁的村民冼应孝说。
  “那时藏在山里,我的姐姐当年十四五岁,后来病死了,妹妹当年9岁,头发全部脱落了。”今年83岁的村民冼国生表示,“我当时曾被日本人抓过。我那时是村里儿童团的团长,专门组织儿童到渡口放哨,观察日本兵来了没有。当时我和另一个小孩被抓去关了两天两夜,怎么打我,我都没有承认我是团长,后来日本人就把我放了。”他表示,“当时日本人抓了很多村民,共产党的交通员冼开章被日本人打呆了,话都不会说了。后来他们又抓到了一个叫黎邦林的交通员,在一次审讯时,黎邦林在前往日军驻地时,趁途中需要坐船,黎邦林就跳到了河里,被日本人用手榴弹炸死了。这个村里的人几乎都被日本人打过,有一些被打得很惨。”
  据他介绍,当年村子附近的树非常茂密,为了不让山里藏人,日本人要求村民3个月砍掉周围的树。“村民冼国兴没有按日本人的要求去砍树,而是待在了家中,日本人发现后,就用扁担粗的棍子打他,打得很惨,棍子都打断成了几截。”

                                   商报记者 王巍/文 青龙剑/图
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一九一〇年・二〇一〇年 7

2010年05月30日 | 個人史・地域史・世界史
■自問
 ガザの民衆と共に、いま、わたしは生きているのだろうか。
 朝鮮北部の民衆と共に、いま、わたしは生きているのだろうか。
 他地域・他国侵略の構造を維持している日本で生活しているわたしは、日常的にこの構造を破壊していくこ となしには、ガザの民衆とも朝鮮北部の民衆とも、共に生きていくことはできない。
 わたしは、いま、国民国家日本において、日本国民と、日本の侵略の構造を破壊する闘いに共闘するが、日本の侵略の構造のなかで共に生きることは拒否する。
 世界認識・世界史認識は、侵略諸国家の他地域・他国侵略の構造を破壊していこうとする意思を前提にしないかぎり成立しないし、世界・世界史を総体として認識しようとすることなしには、侵略諸国家の他地域・他国侵略の構造を破壊する日常的な行動方針を確立・実践することはできない。
                                                 キム チョンミ
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一九一〇年・二〇一〇年 6

2010年05月29日 | 個人史・地域史・世界史
■「清算」・「和解」・「共生」
 国民国家日本の過去史と現在史における侵略犯罪は膨大である。
  「過去史清算」・謝罪・賠償が、日本国家の「国益」になると主張する言論人がいる。日本国家が侵略した諸国家と日本国家との「和解」が、日本国家の「国益」になると主張する言論人がいる。そのような主張は、「国益」のために他地域・他国侵略をおこなってきた日本の過去史を肯定するものである。
 このような主張は、二〇世紀末、一九九九年八月に、日本国家が、侵略の旗「ヒノマル」を国旗とし、天皇賛歌「キミガヨ」を国歌とし、他地域・他国軍事侵略のための「周辺事態法」を施行したころから、日本の戦争責任などを問う日本民衆の運動にかかわる言論人によってもなされはじめ、現在にいたっている。
 日本国家の現在の経済構造、軍事構造、政治構造、社会構造、文化構造は、過去の他地域・他国侵略の過程で形成されている。国民国家日本は、過去に、日本政府や日本軍や日本企業がアジア太平洋の各地で奪ったものを返済し弁償しなくてはならない。しかし、国民国家日本は、日本政府や日本軍や日本企業がアジア太平洋の各地でいのちを奪った人を蘇らせることはできない。国民国家日本の国家犯罪史は、「清算」できない。
 天皇制を維持している国民国家日本の「国益」とは、なにか。
 シオニスト集団のパレスチナ侵略を支持している国民国家日本の「国益」とは、なにか。
  「沖縄」を朝鮮戦争時・ベトナム戦争時・湾岸戦争時のアメリカ合州国軍の基地としてきた国民国家日本「国益」とは、なにか。
 アメリカ合州国のイラク侵略、アフガニスタン侵略を支持している国民国家日本「国益」とは、なにか。
 日本国家の「国益」と、日本国家に侵略された諸国家と日本国家との「和解」は、まったく質の異なることである。
 日本国家の「国益」のために「和解」しようとするのは(「和解」して日本の「国益」を増大させようとするのは)、計量しえない国民国家日本の国家犯罪の膨大さを認識しようとしない日本ナショナリストの発想である。
 日本国家に侵略された諸地域・諸国家の民衆と日本民衆の関係のありかたにかかわる諸問題と、日本国家に侵略された諸国家と日本国家との歴史的諸関係の総括にかかわる諸問題は、別個のことである。
 国家犯罪の加害者と犠牲者が「和解」するということは、ありえない。
 いのちを奪われた犠牲者は、加害者・加害国・加害民族のとの「和解」をふくむいっさいの営為をおこなうことはできない。
                                                 キム チョンミ
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一九一〇年・二〇一〇年 5

2010年05月28日 | 個人史・地域史・世界史
■妄言。それを支持する者たち、それを許容しつづける者たち
 発言者の本質を示す決定的なコトバがある。
 政治家や軍人やイデオローグたちの本質を示す決定的なコトバを無視あるいは軽視して、かれらの他の発言から何かを学ぼうとすることはもちろん、その発言を分析することも無意味である。
 一九四五年八月以前において、形成期いらいの国民国家日本の国家犯罪、侵略犯罪を問おうとしないで、多くの日本人文筆者が発言してきた。その発言は、国民国家日本の国家犯罪、侵略犯罪を支えてきた。かれらは、主体的に国民国家日本の国家犯罪、侵略犯罪に加担してきた。同じことが、多くの日本人文筆者によって、一九四五年八月以後もつづけられてきた。
 国民国家日本の他地域・他国侵略の尖兵であった日本人文筆者の多くは、一九四五年八月以後も、日本国家と自分自身の侵略犯罪の実態を明らかにしようとせず、日本人が国民国家の他地域・他国侵略、植民地支配の歴史的責任を自覚することを妨害してきた。
 たとえば、竹内好は、兵士として、そして「日本文学報国会」に所属する文筆者として、アジア太平洋侵略を主体的におこなっていた。一九四五年八月以後も、竹内は、その過去の犯罪の責任をとろうとしないだけでなく、積極的に、日本人が、過去の他地域・他国侵略、植民地支配を認識しその歴史的責任をとろうとすることを妨害していた。
 一九六三年に、竹内好は、
    「朝鮮問題の場合、結果はたしかに「日韓併合」という完全侵略におわったわけだが、その過程は複雑であって、ロ
   シアなり清国なりの「侵略」を共同防衛するという一面も「思想」としてはなかったわけではない」
と言い(「アジア主義の展望」、『現代日本思想大系』第九巻、筑摩書房、一九六三年)、「今となってはチャンコロ時代がなつかしい」、と感想をのべていた(「中国問題についての私的な感想」、『世界』一九六三年六月)。
 竹内が、「チャンコロ時代がなつかしい」と公言できたのは、かれの歴史認識の方法と内容がきわめて粗雑なものであったためだけではなく、かれの言う「チャンコロ時代」に日本人がおこなっていた侵略犯罪を根本的に否定する感性も思想も、もっていなかったからであろう。竹内が「なつかしい」と言っていた一九六三年においても「チャンコロ時代」は終わっていなかった(現在においても、終わっていない)。竹内はその「時代」がいつ開始されたと考えていたのか。夏目漱石は、一九〇九年に、「チャン」・「チャンチャン」と言っていた(「満韓ところどころ」)。
 そのような発言をした竹内好を批判する日本人言論人がほとんどいなかった(いまもほとんどいない)ということは、一九四五年八月以後現在にいたる日本の言論人たちの思想と感性が、国民国家日本の国家犯罪を否定できない質のものであることを示している。「チャンコロ時代がなつかしい」という日本人にとっては、「センジン時代」・「半島人時代」も「土人時代」も「なつかしい」であろう。
 一九六七年に、竹内は、
    「日露戦争には、国際的に見て、アジアの復興と植民地の独立の機運をうながしたという一面の功績も認めなけれ
   ばならない」、
    「日露戦争で日本が負ければ、朝鮮は当然ロシアのものになったかもしれない」
と発言し(「明治維新と中国革命」、『共同研究 明治維新』徳間書店、一九六七年一一月)、さらに一九六八年に、
    「〔日露戦争が〕帝国主義戦争であろうとなかろうと、明治維新革命の有効性を立証し、それによってアジア諸国に
   復興の気運をまきおこしたことは事実であります」、
    「日露戦争で日本の軍隊がツァーの軍隊を破った。……大勝利ではなかったが、ともかく勝利をおさめた。ここまで
   はよいのです」
と語っていた(「中国近代革命の進展と日中関係」、福岡での講演、一九六八年一〇月)。
 竹内好は、「日露戦争には……アジアの復興と植民地の独立の機運をうながしたという一面の功績も……」と言っていたが、「日ロ戦争」直後、日本が朝鮮を植民地とした事実をどのように説明するのだろうか。
 国民国家日本の対ロシア戦争開戦は、日英同盟を前提としていた。
 一九〇三年秋、国民国家日本がロシアとの戦争を準備していたとき、それまで非戦を主張していた『萬朝報』は開戦論を主張しはじめた。記者であった幸徳秋水と堺利彦は非戦論を貫くために朝報社を退社し、一〇月に平民社を結成し、一一月一五日に週刊『平民新聞』を創刊した(一九〇五年一月二九日発行の第六四号で終刊)。
 竹内好の歴史認識・思想は、「日ロ戦争」に反対した幸徳秋水らの対極に位置するものであった。竹内好の思想と発言は、幸徳秋水らに敵対するものであった。
 竹内好の歴史認識は、その方法も内容も空疎であった。竹内は、確実な証拠のないことを事実であるかのように叙述し、アジア侵略を扇動した日本人イデオローグたちの思想と行動を肯定していた。
 竹内好の問題は、現象的にはささいな問題であるが、根深い問題である。この問題を社会的に克服することなしに、日本の言論人たちは、国民国家日本のさらなる侵略犯罪に加担しつづけることになるだろう。
 竹内が「アジア主義」をあらたに宣伝しはじめたのは、安保反対闘争後、韓国と日本のあいだの条約締結策動が進行していた時期だった。韓国と日本では、日本の再侵略に反対する民衆の行動が深まっていた。
 竹内好が、「侵略には、連帯感のゆがめられた表現という側面もある」、「侵略という形を通じてあらわされているアジア連帯感」(「日本人のアジア観」、共同通信配信、一九六四年一月)などと言った翌年、アメリカ合州国軍が、ベトナム北部にたいする無差別爆撃を開始した。その数十年前、日本軍は、重慶地域、蘭州地域……を無差別爆撃していた。竹内にとっては、侵略軍による上空からの無差別爆撃という侵略犯罪もまた「連帯感のゆがめられた表現」なのだろう。
  「チャンコロ時代」に兵士として中国に侵入した国民国家日本の「臣民」は、中国民衆を殺戮した。中国人を「チャンコロ」とよぶ差別意識・差別思想をもつことによって、かれらは、平気で、中国で住民虐殺・放火・略奪……をつづけることができた。
 わたしは、一九八七年に、当時日本アジア・アフリカ作家会議に所属していた栗原幸夫が、
    「一九一〇年の日韓併合条約(植民地化の最終的実現)にいたる過程に、日本と韓国の双方に対等な「合邦」をも
   とめる動きがあったこともひとつの歴史的事実にほかならない」、
    「彼ら〔樽井藤吉、内田良平、李容九ら〕の、日韓の対等合邦をテコにしてアジアを一大連邦と化し西欧帝国主義を
   一掃するという構想は……当時のアジアの現実のなかでは一つの可能な夢であった」、
などと発言していることを批判した(「侵略の構造を破壊するために」、『aala』日本アジア・アフリカ作家会議機関誌、一九九四年Ⅳ号。キムチョンミ『故郷の世界史 解放のインターナショナリズムへ』現代企画室、一九九六年、に再掲)。
  「日本と韓国の双方に対等な「合邦」をもとめる動きがあった」という「ひとつの歴史的事実」(虚偽)の最初の発見者(宣伝者)は、栗原幸夫ではなく竹内好であった(キムチョンミ「国民国家日本、二〇〇一年  日本人は、いつ、どのように日本国家主義から解放されるのか」、『飛礫』32号、二〇〇一年一〇月)。
 竹内好の言説の一部分をとりだし、「今となってはチャンコロ時代がなつかしい」などという暴言を無視して、肯定的に語る文筆者が、「大逆事件」一〇〇年後においてもなお、あとをたたないのは、日本の思想状況の悪質さを示す事例のひとつである。
 その中には、鶴見俊輔、加々美光行、松本健一、丸川哲史などの日本人だけではなく日本に「留学」したことのある孫歌のような中国人もいるのは、侵略を肯定する日本の状況の反映であろう。孫歌は、竹内好の言説について饒舌に語りながら、竹内の数々の妄言を分析しようとせず、竹内好をほぼ全肯定している(孫歌『竹内好という問い』岩波書店、二〇〇五年)。
 孫歌の日本における役割は、朴裕河などの役割と共通している(朴裕河『和解のために――教科書・慰安婦・靖国・独島』平凡社、二〇〇六年。ここで朴裕河は、「日本学を専攻する者」として「和解成立の鍵は、結局のところ被害者側にあるのではないか」と言っている)。
                                               キム チョンミ
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一九一〇年・二〇一〇年 4

2010年05月27日 | 個人史・地域史・世界史
■海南島で
 一九八〇年代から、中国の各地の政治協商会議は、組織的に日本侵略期の地域の歴史を聞きとりし記録しはじめ、それらを集約した『文史資料』を、抗日戦争勝利五〇周年を記念して一九九五年に出版した。
 海南島では、海南省政協文史資料委員会編『海南文史資料』11(『鉄蹄下的腥風血雨――日軍侵瓊暴行実録』上下)、 中国人民政治協商会議海口市委員会文史資料研究委員会編『海口文史資料』11(抗日戦争時期専集)、中国人民政治協商会議三亜市委員会編『三亜文史』5(『日軍侵崖暴行実録』紀念中国人民抗日戦争勝利50周年)、『昌江文史』政協海南省昌江黎族自治県委員会文史資料組編6(暴行与反暴行専輯)、政協陵水黎族自治県委員会文史学習委員会編『陵水文史』7(日軍侵陵暴行実録)、『陵水文史』8(陵水抗日史料専輯)、政協臨高県文史資料研究委員会編『臨高文史』10(日本侵臨暴行史料専輯)、澄邁県政協文史資料委員会編『澄邁文史』10(日軍侵澄暴行実録)、海南省屯昌県政協文史資料委員会編『屯昌文史』4、海南省瓊山市政協文史資料委員会編『瓊山文史』8(『侵略与反抗』紀念抗日戦争勝利50周年専輯)、政協楽東黎族自治県文史委員会編著『楽東文史』6(『血泪烽烟』紀念抗日戦争勝利50周年専輯)、政協海南省保亭黎族苗族自治県委員会文史資料工作委員会編『保亭文史』9(紀念抗日戦争勝利50周年)、万寧県政協文史辧公室編『万寧文史』5(『鉄蹄下的血泪仇(日軍侵万暴行史料専輯)』)、海南省儋州市政協文史資料委員会編『儋州文史』8(儋県抗日史料専輯)、『瓊海文史』瓊海市政協文史資料研究委員会編6(日軍暴行録専輯)、政協白沙黎族自治県委員会文史資料委員会編『白沙文史』8(日軍侵白暴行史料専輯)、政協海南省瓊中黎族苗族自治県委員会文史組編『瓊中文史』5(『瓊中境域日軍暴行実録』)が出版された。
 これらの書物によって、日本占領期の海南島における日本の犯罪の一部が、広く明らかにされたが、日本では、その後も、海南島における日本政府・日本軍・日本企業による犯罪事実が語られることはほとんどなかった。

 「三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・相度)の追悼碑を建立する会」(一九八九年結成)は、三重県木本(現、熊野市)に隣接する紀和町にあった紀州鉱山での朝鮮人強制連行・強制労働などにかかわる調査を一九九三年から開始し、その過程で、一九九七年に「紀州鉱山の真実を明らかにする会」が結成された。
 紀州鉱山を「経営」していた石原産業は、海南島やフィリピンの鉱山でも労働者を酷使し、資源を略奪していた。「紀州鉱山の真実を明らかにする会」は、その調査のために海南島とフィリピンに行くことにした。
 海南島に行く準備をしているとき、四川大学から発行されていた『抗日戦争』に引用されている海南省政治協商会議文史資料委員会編『海南文史資料』11(『鉄蹄下的腥風血雨――日軍侵瓊暴行実録』上下)を読んだ。
 そこには、石原産業が海南島の田独鉱山で、上海、広州、香港、アモイ、汕頭、厦門などと海南島各地から連行してきた人たちや朝鮮人やインド人を働かせていたと書かれており、また、三亜市荔枝溝鎮三羅二村に「一千余名朝鮮籍的政治犯」が埋められており、村人たちが、村の名を「朝鮮村」に変えたと書かれていた。
  『鉄蹄下的腥風血雨――日軍侵瓊暴行実録』に書かれている「朝鮮村」での朝鮮人虐殺は、韓国では、『朝鮮日報』(一九九八年三月二日号)で、はじめて報道された(朴雅蘭記者「中國하이난島서 한국인 학살」)。
 日本では、『民族時報』(一九九八年三月一一日号)で、はじめて報道された(「旧日本軍が朝鮮人連行者一〇〇〇人を虐殺」)。
 「紀州鉱山の真実を明らかにする会」は、一九九八年六月に、はじめて海南島に「現地調査」に行った。会員の一人であるわたしも参加した。
 翌七月に、韓国KBS取材班が、海南島にいき、「朝鮮村」の虐殺現場のわずかな一部分を「発掘」し、七人の遺骸に対面した。その人たちは、「朝鮮報国隊」の隊員として、朝鮮各地の刑務所から海南島に強制連行され酷使されたあと日本兵に殺された人たちであった。取材班は遺骸を埋めもどし、祭祀をおこなった。その後、KBS取材班は韓国で、「朝鮮報国隊」の生存者などの証言を聞いた。八月に、KBS取材班は、日本で、加害者である旧日本兵たちに面会を求めた。しかし、ほとんどが面会を拒否した。八月三一日夜、KBSは、ドキュメンタリー「海南島に埋められた朝鮮の魂」を放映した。これは、「朝鮮報国隊」にかんする多くの新しい情報を伝達するものであった(この番組制作に、紀州鉱山の真実を明らかにする会の会員がコーディネイターとして参加した)。

 その後、「紀州鉱山の真実を明らかにする会」は、二〇〇七年までの九年間、海南島、韓国、日本で、海南島における日本の侵略犯罪の調査をすすめた。その過程で、日本軍兵士が住民を殺した村を五〇か所ちかく訪ねて、生き残った人びと(幸存者)や遺族から話を聞かせていただいた。
 日本政府・日本軍・日本企業は、住民虐殺、村落破壊、土地・資源略奪、強制連行・強制労働、暴行、軍隊性奴隷化強要……など、毒ガス大量使用、組織的生体解剖以外の侵略犯罪のほとんどすべてを海南島でおこなっていた。日本軍は、抗日軍の兵站を破壊しようとして、海南島内各地の村落を襲撃し、住民虐殺と略奪をくりかえしていた。抗日武装部隊と民衆は、重装備の日本軍にたいして、持久的に戦いぬいていた【註】。

 二〇〇七年八月、それまでの海南島における日本の侵略犯罪にかかわる諸事実を解明してきた「紀州鉱山の真実を明らかにする会」の運動を前提にして、「海南島近現代史研究会」が結成された。「海南島近現代史研究会」は、「会則」で目的をつぎのように明記している。

一、本会は、とりわけ日本の海南島占領期(一九三九年二月~一九四五年八月)の侵略犯罪の実態を解明します。
 日本政府と日本軍は、海南島をアジア太平洋侵略の基地とし、さらに台湾や朝鮮や中国東北部と同じ植民地としようとしました。そのため、日本軍は、海南島各地で、抵抗・反撃する抗日反日武装部隊の兵站をつぶそうとして、海南島各地で住民虐殺や略奪などの暴虐な侵略犯罪をくりかえしました。
 また、日本政府と日本軍は、日本企業を海南島に呼び入れ、飛行場、港湾、道路、橋梁、鉄道などの軍事施設を整備・新設し、鉱山資源、森林資源、漁業資源を奪いました。日本政府と日本軍は、海南島各地に「慰安所」を設置し、性的暴行をくりかえしました。
 日本政府と日本軍と日本企業は、アジア太平洋民衆を海南島で強制労働させ、多くの人のいのちを奪いました。日本政府と日本軍は、「軍票」を乱発しました。
本会はこの海南島における日本の侵略犯罪の実態を具体的・総合的に把握し、それが海南島の政治的・経済的・文化的・社会的な構造をどのように破壊したのかを究明します。
 本会は、海南島における日本の侵略犯罪の実態を可能なかぎり総体的に把握し、その歴史的責任を追及します。
二、日本の海南島侵略の時代は,海南島民衆の抗日反日闘争の時代でした。
  本会は、海南島における抗日反日闘争の歴史を究明します。

 創立一年後の二〇〇八年八月に創刊した会誌『海南島近現代史研究』の序言には、
   「国民国家日本は、他地域他国を侵略して経済を成長させてきました。
    国民国家日本の近現代史は、他地域他国侵略の歴史です。
    この侵略の歴史を終わらせるためには、侵略の歴史を総体として認識しなければならないのだと思います。
    海南島近現代史に内包されている世界近現代史の認識を共同で深めていくことは、国民国家日本の侵略の歴史を終わらせる
   ひとつの民衆運動だと思います」
と書かれている。

 「海南島近現代史研究会」は、二〇〇七年にドキュメンタリー『海南島月塘村虐殺』を制作した(二〇〇八年に、追悼碑建立にいたる日々の記録を加えた新版制作)。
 日本敗戦わずか三か月半前、「沖縄戦」のさなか、一九四五年五月二日(農暦三月二一日)、海南島万寧市万城鎮月塘村を、日本海軍佐世保鎮守府第八特別陸戦隊万寧守備隊の日本兵が襲い、多くの住民を銃剣や銃で殺傷した。
 二〇〇八年四月二六日(農暦三月二一日)、月塘村で、「月塘三・廿一惨案紀念碑掲碑儀式」がおこなわれた。この日除幕された追悼碑の左側面には、六三年前の同じ農暦三月二一日に殺された一九〇人の村人すべての名が刻まれていた。
 同じ日に、月塘村の全村民は、日本政府につぎのことを要求する文書(「致日本国政府要求書」)を作成した。
   一、月塘村村民虐殺を行った日本軍人の名を公布せよ。
   二、われわれ月塘村村民に、国際社会に公開で謝罪せよ。
   三、受傷して生き残った幸存者と犠牲者家族に賠償せよ。
   四、月塘村に犠牲者を追悼する記念館を建設し、追悼式をおこなえ。
   五、焼失した家屋、強奪した財産を弁償せよ。

 佐世保鎮守府第八特別陸戦隊に所属する日本兵は、一九四一年五月一三日未明、楽会県の波鰲村など三つの村を襲って住民を殺し、さらにその翌月、六月二四日に、楽会県北岸郷の北岸村と大洋村を襲撃し、数日間に、多くの村人や通行人を殺した。いま、北岸村に、そのときの犠牲者を追悼する「五百人碑」が建てられている。
 北岸郷の西隣りの楽会県互助郷でも、七七七人が佐世保鎮守府第八特別陸戦隊の日本兵によって殺された(曹靖『日本法西斯“三光”政策罪行録 回顧長仙聯村“三・一”血泪史』新版、二〇〇八年五月、参照)。日本敗戦の四か月まえ、月塘村での住民虐殺の二〇日前の一九四五年四月一二日(農暦三月一日)であった(その四年後、一九四九年農暦三月一日に、虐殺現場の燕嶺坡に、犠牲者の名を刻んだ追悼碑が建てられた)。
 日本敗戦のわずか半月前、一九四五年七月三〇日朝、海南島北東部の秀田村を、日本海軍第一五警備隊(呉鎮守府特別陸戦隊所属)の日本兵が襲撃し、村びと一四〇人を殺害した。村のすぐ近くの墓のまえには、犠牲者全員の名を刻んだ碑が建てられている。
 占領期に日本軍が海南島の村落を襲って殺害した住民の名も数も、明確にされていない。
 海南島各地で住民虐殺を命令した日本軍将校の名も、直接住民を虐殺した日本兵の名前も、ほとんど隠されたままである。
 日本敗戦後、一九四六年三月に、海南島で約一〇〇人の日本人が戦犯容疑者として中国国民党軍に拘留されたが、それ以外の日本人(軍人、官吏、警察官、日本企業関係者、日本語教師、「農民」など)は、一九四六年四月中旬までにほとんどが日本に「帰還」した。
 その後、かれらは、海南島での犯罪を隠しつづけて暮らした。海南島に侵入していた日本企業は、日本軍とともに多くの人の命を奪った責任をとろうとせず、略奪した労働力、資源を賠償しないまま、経営をつづけている。
 海南島における日本政府・日本軍の犯罪の責任を戦犯裁判でとることになったのは、最悪の侵略犯罪者であるヒロヒトではなく、海南警備府司令長官伍賀啓次郎でもなく、少数の中級将校たちだけであった。
 元海南警備府第一五警備隊文昌中隊長兼石績、元文昌中隊長冨田堯人、元文昌中隊小隊長望月為吉が、海南島文昌地域で住民を虐殺したとして、広東の戦犯裁判で死刑判決を受け、一九四七年七月に処刑されている。
 海南島から日本に「帰還」した日本軍人のうち、海南島における戦争犯罪(海南島八所の俘虜収容所におけるオランダ兵やオーストラリア兵にたいする「虐待致死」、海南島紅土坎におけるアメリカ合州国軍捕虜斬首、「連合国人俘虜に対し、故意に餓死政策をとり、その多数を死に至らしむると共に、彼等に精神的肉体的苦痛を与え虐待した」、「俘虜虐待、致死、俘虜の作戦関係作業への使役」、など)によって逮捕され起訴された者がいた。住民虐殺によって逮捕された者はいなかった(引揚援護庁復員局第二復員局残務処理部・法務調査課横浜出張所「海南島第十六警備隊能美事件合同戦犯裁判記録」一九四八年一〇月。法務大臣官房司法法制調査部豊田隈雄『静岡地方出張調査報告書(戦争裁判関係)』一九五二年度。「公判記録 海南島第十六警備隊事件(起訴番号三四八)」、司法法制調査部豊田隈雄『神奈川(横浜)地方出張調査報告書(戦争裁判関係)』一九五二年三月。官房調査課豊田隈雄『岐阜名古屋地方出張調査報告書(戦争裁判関係)』一九五八年三月など)。

【註】
※金靜美「侵略の共同体と抵抗の共同体――故郷と他郷のかなたに」、『ほるもん文化』八、新幹社、一九九八年一二月。
※「일본점령하 중국海南島에서의 강제노동)、朴慶植先生追悼論文集『近現代韓日関係와 在日同胞』、서울大学校出版部、一九九九年八月。日本語版は、金靜美「日本占領下の海南島における強制労働――強制連行・強制労働の歴史の総体的把握のために――」①・②、『戦争責任研究』二七・二八、日本の戦争責任資料センター、二〇〇〇年三月・六月。
※金靜美「海南島の場合――とくに「朝鮮村」と「朝鮮報国隊」について――」、二〇〇〇年五月二四日、ソウルでの第九次国際歴史教科書学術会議における報告(「日帝期의 強制連行 問題에 関하여」のなかで)、『各国의 歴史教科書에 비친 過去清算問題』国際教科書研究所、二〇〇〇年五月。
※佐藤正人「日本占領下の海南島における朝鮮人虐殺 アジア民衆共同の東アジア近現代史認識をめざして」、二〇〇一年一〇月二四日、上海での第10次国際歴史教科書学術会議における報告、『亜細亜諸国의 歴史教科書에 비친 抗日運動』国際教科書研究所、二〇〇一年一二月。
※金静美・佐藤正人「海南島에 있어서의 日本軍隊性奴隷制度와 強制連行・強制労働 二〇〇二年一〇月 海南島“現地調査”報告」、韓国挺身隊研究所『二〇〇二年国外居住日本軍‘慰安婦’被害者実態調査』韓国女性部権益企画課、二〇〇二年一二月。
※金靜美「国民国家日本の他地域・他国における暴力――海南島の場合」、『東北亜歴史의 諸問題』(南陽洪鍾泌博士定年退任記念論叢)、二〇〇三年一〇月。
※金靜美「海南島からの朝鮮人帰還について――植民地国家からの出国、国民国家への帰還」、『解放後中国地域韓人の帰還問題研究』、国民大学校韓国学研究所、二〇〇三年一一月。
※金靜美「일본점령하 하이난섬에 있어서의 조선인」、独立紀念館韓国独立運動史研究所編『일제하 국외 한인피해 실태조사보고서 Ⅰ 중국 해남도지역』独立紀念館、二〇〇五年四月。
※佐藤正人「海南島에 있어서 日本政府・日本軍・日本企業의 侵略犯罪調査」、同上『일제하 국외 한인피해 실태조사보고서 Ⅰ 중국 해남도지역』。
※斉藤日出治「日本の海南島侵略(一九三九~四五年) 軍事占領から空間の総体的領有へ」、『大阪産業大学経済論集』第五巻第三号、二〇〇四年六月。
※紀州鉱山の真実を明らかにする会編『海南島で日本は何をしたのか 虐殺・略奪・性奴隷化、抗日反日闘争』写真の会パトローネ、二〇〇五年五月。
※紀州鉱山の真実を明らかにする会企画・制作ドキュメンタリー『海南島で日本人はなにをやったか! 日本軍の海南島侵略と抗日闘争“田独鉱山・「朝鮮村」”』二〇〇三年七月。
※紀州鉱山の真実を明らかにする会企画・制作ドキュメンタリー『日本が占領した海南島で 60年まえは昨日のこと』二〇〇四年四月。
※紀州鉱山の真実を明らかにする会企画・制作ドキュメンタリー『「朝鮮報国隊」』二〇〇六年七月。
※紀州鉱山の真実を明らかにする会制作『〈写真集〉日本の海南島侵略と抗日反日闘争』写真の会パトローネ、二〇〇七年二月。
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一九一〇年・二〇一〇年 3

2010年05月26日 | 個人史・地域史・世界史
■国民国家日本の侵略の構造
 一九一〇年までの数十年間に、日本は、アイヌモシリ・ウルマネシア・台湾・遼東半島南端部(「関東州」)・朝鮮を植民地としていた。その後、日本は、「南洋群島」・中国東北部・群島長沙(「新南群島」)・海南島を植民地とした。
 国民国家日本の国民(一九四七年五月二日までは「臣民」)のほとんどは、日本領土の拡大を支持した。他地域・他国を侵略し、自国の領土を拡大するということは、他地域・他国の民衆から大地と海、山と川を奪うことであり、資源と生産物を奪うことであり、その地に住む人びとのそれまでの生活をこわすことである。
 侵略の過程で、日本国民(「臣民」)は、他地域・他国民衆のいのちを奪ってきた。
国民国家日本形成いらい、アジア太平洋の各地で、日本国民(「臣民」)は、どれほど多くの民衆を殺し、傷つけ、家を焼き、略奪してきたか。
 国民国家日本は、一九世紀後半以後、他地域・他国侵略によって、「経済」を成長させて、軍事力を増強し、さらに侵略を継続した。日本の「文化」は、他地域・他国侵略を支えてきた。他地域・他国を侵略しつづける日本国民(「臣民」)の多くは天皇制を肯定し天皇制を支えてきた。
 国民国家日本の他地域・他国侵略の時代は、いまも、終わっていない。
 日本の他地域・他国侵略の政治的・経済的・軍事的・社会的・文化的構造をうちこわすためには、これまでの日本の他地域・他国侵略の歴史を総体として認識し、そのような侵略犯罪が継続的におこなわれてきた原因を解明しなければならない。
 しかし、日本の「臣民」が「国民」となってから現在までの六〇年あまりにおいても、そのための基礎作業の進行は、のんびりとしか進められてこなかった。
 それどころか、そのような基礎作業の深化を妨害する言論人が現れ、それを支持するものが現れていた(その事例については、後述する)。
 他地域・他国に侵入し、その地を占領し、その地の生産物や資源を奪い、抵抗する民衆を殺傷することは、犯罪である。それが、人道に反する犯罪であることを、一九四五年八月以前の日本民衆のほとんどは、自覚していなかったのだろう。だから、コトバでは表現できない凶悪な侵略犯罪を、当時の日本民衆は、継続していたのだ。
 一九四五年八月ののちに、日本民衆は、国民的規模で、侵略犯罪をくりかえさないという倫理を回復しただろうか。
 最悪の侵略犯罪者ヒロヒトを病死するときまで天皇としつづけ、いまなお「紀元節」やヒロヒトの誕生日を日本国民の祝日としている日本国民は、侵略犯罪をくりかえさないという倫理を確立できていないのではないか。
 あたりまえのことだが、国民国家日本の侵略犯罪の犠牲者遺族、同じ村の住民、同じ地域・国家の民衆は、その犯罪事実を知っている。
 しかし、加害を命令した日本人・加害を実行した日本人・その犯罪を目撃した日本人以外の日本人の多くは、その犯罪事実を詳細には知ることが少なかった。
 それは、当事者たちがかれらの犯罪行為を隠しつづけてきたからであり、日本人の多くが国民国家日本の近現代史、すなわち国民国家日本の侵略犯罪史を深刻に追究しようとしてこなかったからである。
 アジア太平洋の各地で、日本兵がおこなった犯罪行為の詳細を具体的に知ることは、当時もいまも、知ろうとする意思がない日本人には難しいことだろう。しかし、個々の犯罪行為の内容を具体的に知ることはできなくても、わずかの想像力があれば、わずかのモラルがあれば、日本兵の犯罪行為の内実を了解できただろう。
 いま、パレスチナにおけるシオニスト兵(「イスラエル兵」)の犯罪行為は、映像や文字で、伝達されている。日本兵のアジア太平洋での犯罪行為が、映像や文字で伝達されることは、相対的に多くはなかった。だが、たとえば、重慶地域(成都地域などを含む)への上空からの無差別戦略爆撃で、日本軍が、多くの人びとを殺し、傷つけ、住居を破壊したことは、そのことを直接伝達する映像や文字がなくても、容易に想像できることであった。それにもかかわらず、約5年間続けられたこの爆撃に、当時、ほとんどの日本人は同意していた。
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「18次来瓊調査日軍暴行」 2

2010年05月25日 | 海南島
■■■佐藤正人請定安県雷鳴鎮梅种村的村民,回忆当年許如梅烈士被抓和英勇就義的情景
■■■到墓地祭奠海南抗日女英雄英灵

■抗日巾帼英雄事迹引起日本学者興趣
  定安県雷鳴鎮梅种村村口,有两座烈士的坟墓安放在显眼处,宁静,粛穆。
  5月23日上午,烈日高照。佐藤正人和許如梅烈士家属走近烈士墓,前面摆着一台三角架,架上的摄像机記録着眼前的一切。
  佐藤正人浑身湿透,脖子上挂着一条白毛巾,用来随時擦掉脸上的汗水。脚旁放着他的背包,里面装着他收集整理的日軍侵略海南的部分資料。
  “佐藤先生的翻訳是我儿子的朋友。在一周前左右,邢越翻訳聯系到我儿子。”許如梅烈士的女儿符如来説,“邢翻訳跟我儿子説,他有一个日本朋友,正在收集日本殺害中国人的資料。他们把我母親的資料发了过去,佐藤先生看到了我母親的資料后,非常感興趣,就特地過来了。”
  佐藤先生的翻訳邢越先生介紹,佐藤先生来海南的费用都是由他自己負担的。至今他已来海南18次,非常不容易。”邢越表示,“一方面我是海南島近現代史研究会海南分会的会員,一方面我覚得这是非常有意義的事,所以只要他有需要,我就会義務過来給他做翻訳工作。”

■許如梅曾任琼崖随軍服務団副団長
  許如梅的女儿符如来説,1919年,母親出生在文昌県一个知識分子家庭,外祖父是文昌有名的律師。由于家庭环境的熏陶,她从小思维敏捷,具有较丰富的知识。中学時期,参加了中国共産党的外国組織“前哨社”,积极参加抗日宣传活动。后来,母親不顾家庭反対,毅然到部队参加抗戦。1938年底加入中国共産党。
  1939年2月,日本軍国主義的鉄蹄踏进了海南島,海南到处血雨腥風。1939年,許如梅参加琼崖抗日独立総隊,后任総隊随軍服務団副団長,帯領団員深入琼山、文昌等地宣伝抗日。1939年8月,許如梅与紅軍干部,当時任琼崖抗日独立総隊一大隊政委的符哥洛在独立隊総部結為伉俪。1940年,中共琼崖特委、独立総隊部在澄迈美合建立抗日根据地,随軍団撤销,許如梅调任中共琼崖特委婦委会委員。她的丈夫符哥洛去万宁,任独立総隊第三支隊政委。1940年12月,国民党发动反共高潮,総隊被迫撤上山与敌周旋,后又被迫东返琼文抗日根据地。
  符如来説:“根据組織安排,母親留在澄迈花場等待分娩,我刚满月,母親就急于帰隊,把我托给澄迈桥头一位老乡收养。那位老乡害怕报复,又把我放到另一位老乡家中。就这样直到母亲牺牲,我也没有見過母親一面。海南解放后,父親几经周折才找到我。”
  符如来説,1943年,日军实行“三光”政策,向抗日游撃区进行疯狂的扫荡。一天夜里,母亲宿于文昌东阁乡流坑村一位革命群众家里,突遭敌人包围,她和300多名群众一起被押到村边大榕樹下实行集体屠杀。日军先用机关枪扫射,再用刺刀逐个在尸体上乱刺,母親身受7处刀伤。当夜幕降临,泡在血泊中的母親奇迹般地苏醒过来,爬出尸体堆脱险。

■身負重傷被日軍抓到遭斩首英勇就義
  符如来说,1943年10月间,母亲伤愈后赴万宁六连岭归队,途经定安县雷鸣镇梅种村与定安县中共县委书记周春雷会合。村里有一名汉奸向日军告密,深夜被日军包围,日军拿起机关枪向周春雷、许如梅等人扫射。突围时周春雷等同志不幸中弹牺牲,許如梅被子弹打中肩部,负伤突围躲进稻田里。
  “当时村里死了多少人,他们被杀的地方可以带我们去看看吗?许如梅烈士是如何被抓到的?”佐藤正人通过翻译向当时见证者问到。
  佐藤正人对面坐着的几位80岁以上的老人。他们都是当时的见证者,亲眼看到了许如梅烈士被抓、英勇就义的情景。
  今年86岁的梅种村村民王广觉当时是一名地下工作者。他说,许如梅躲在稻田里,水深到腰间,鲜血把旁边的水都染红了,天将亮时被日军沿着血迹找到而被捕押回村中。许如梅被绑在村边一棵大树上,并被撕光衣服进行拷打,逼迫她供出其他共产党员。”王广觉说:“我的母亲看到她光得身子,就拿来一件衣服想让她穿上,但日本人不同意。”
  80岁的王广端老人说,日本人怎么打,许如梅都是一声不吭,宁死不屈,凶残的日军于是找来一把杀猪刀,将她残酷地斩首,时年24岁。之后,日军将周春雷、许如梅两位烈士的首级悬挂于定安县城门示众。日军走后,村里的群众将两人的尸体埋了。
  “母亲的墓里一直都没有首级。”站在许如梅烈士墓前,符如来哭着说。

■■■搜集日本侵琼历史资料被日政府打击
■■■他曾举横幅支持8名海南慰安妇

■日本侵琼历史不能泯灭
  佐藤正人表示,日本在中国做了这么多坏事,是日本政府和企业共同犯下的罪。关于日本侵琼的历史,日本政府一直不承认,一直在尽力隐瞒。他们在教科书只字未提,很多日本人都不知道这段历史。 日本政府希望随着时间的推移,中国人能淡忘这段历史,虽然证人会随着时间消失,但他希望中国人千万不要忘记历史,不要让历史泯灭,希望海南的民间团体,跟日本的民间团体能一起研究历史,最大程度地还原历史的原貌。
  据他了解,也有一些日本军人的后人来琼拜祭过烈士。“军官当事人和他们的子女都来忏悔过,不过我没同他们一起来过。”佐藤正人表示,他也经常跟自己的子女讲起这段历史。
  一路上烈日当头,一会又突然下起了雨。在这样的天气下,佐藤正人一直忙收集资料,到下午2时多,拜祭过许如梅烈士后,佐藤正人才吃上了午饭。据翻译介绍,他在海南的日子都非常的忙碌,任何与日军侵占海南岛有关的资料他都不放过。

■“在日本,我是反动派”
  据介绍,在日本,佐藤正人是反动派,政府对他的这种行为是打击的。《日本占领下的海南岛》影片曾在日本京都大学和大阪人权博物馆放映,每人仅收取300日元的门票钱,价值相当于一杯咖啡的钱。影片免费在熊野市民会馆上映时,3次共4场的放映,总共才接待了200多名日本观众。后来举办的《在海南岛上进行的太平洋战争》图片展,经日本右翼组织阻挠,也提前结束。
  “我希望通过我们的努力,能把以前的历史交代清楚,让日本人清楚到底发生过什么,然后能够给中国人民谢罪,并给予赔偿。”他表示,这个工作希望能由民间这些组织完成,能成功让日本政府给予中国赔偿。
  佐藤正人表示,自己一直很关心这段历史,海南岛的8位慰安妇到大阪状告侵华日軍時,他曾在法庭处举着支持海南人民的横幅。
  “海南研究文史的学者给了我很多帮助,给我看了很多相关书籍,看了之后,我根据这些线索去调查,去了昌江等比较出名的日軍侵略地,像在定安,許如梅烈士和周春雷烈士头颅被吊在城门口三天,就是指证日軍当時侵略的有力鉄証。”
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「18次来瓊調査日軍暴行」 1

2010年05月24日 | 海南島
 きょう(5月24日)、海南島で出されている『国際旅游島商報』に掲載された記事です。
   http://www.hndnews.com/
   http://www.hndnews.com/News_View.asp?newsid=3375
 午前9時に、新華網に、3回にわけて転載されました。 
   http://big5.xinhuanet.com/gate/big5/www.xinhuanet.com/chinanews/2010-05/24/content_19863939.htm
   http://big5.xinhuanet.com/gate/big5/www.xinhuanet.com/chinanews/2010-05/24/content_19863939_1.htm
   http://big5.xinhuanet.com/gate/big5/www.xinhuanet.com/chinanews/2010-05/24/content_19863939_2.htm

■■日“反動派”18次来瓊調査日軍暴行■■
  5月23日上午,日本友人佐藤正人在抗日巾帼英雄許如梅烈士家属的随同下,来到革命老区定安県雷鳴鎮梅种村,向当地老人求证当年侵琼日軍犯下的暴行,聆听老人讲述亲历的惨况。从1998年至今,他已经是第18次到海南岛調査日本侵琼史。
  佐藤正人是日本北海道人,大学毕业后进入出版社工作,一边从事出版工作,一边进行历史研究。他的职业是日本国朝鮮史研究所学者,将英文版的朝鮮历史、经济类资料翻译成日文,还专门研究日本人侵占朝鮮和中国东北历史。1998年,为了解朝鮮劳工在海南的情况,他第一次来到了海南島。在对海南島进行实地調査中,收集了许多海南島各地人民抗日斗争史料和日本侵略軍的犯罪事实。后来,他的研究方向转向了日本侵占海南島歴史,同时创立了海南島近代史研究会,12年間已经18次来琼調査。

 【写真】当地村民告訴佐藤正人:当年許如梅受傷逃到这里,日本军沿着血迹找到她藏身地方 商报记者 李雪冬 摄
 【写真】日本友人佐藤正人向許如梅烈士墓鞠躬 商报记者 李雪冬 摄
 【写真】許如梅烈士像

■■■日本国海南岛近代史研究会主要负责人之一佐藤正人
■■■12年自费来琼搜集日軍侵琼史料
   1939年2月,日本开始占领位于亚洲太平洋地区中心位置的海南島。
 “为了把海南島作为侵略东南亚、太平洋的军事基地,日本政府、军队及企业开始修建飞机场、港口、桥梁和铁路,掠夺资源。为了压制民众的反抗,日本军队火烧村庄,残杀当地民众,还有一些妇女被迫成为日本军队的性奴隶。”佐藤正人说,日本是通过侵略别国而使经济得以成长起来,日本的近代史是侵略别国的历史。
 “不要忘记歴史。”他说,这些掠夺资源、残杀暴行和侵犯人权的罪行就像是发生在昨天的事情一样。对于亚洲太平洋的民众来说,日本的侵略时代就是这些国家抗日、反日斗争的时代。要让那段侵略历史不再发生,就必须深刻反省那段歴史。

■12年坚持不懈搜集日軍侵琼史料
  1998年第一次来琼时,佐藤正人来到海南的田独鎮。在田独鎮铁矿,他了解到了万人坑的相关历史。“在那之前,我一点都不了解日本人在海南的这段历史。”佐藤正人表示,“从1998年开始,我跑了海南很多地方,三亚、陵水、琼海、文昌、儋州等地。这已经是我第18次来到海南岛,每次大概都会待两个星期到1个月的时间,夏天热的时候停留的時間就短些,秋天凉快就多待些时日。”
  他表示,记录收集到的资料,他都发表在海南島近代史研究会的会刊上。作为日本的民间組織,海南岛近代史研究会在不久之前成立, 佐藤正人是主要的负责人之一。佐藤正人熱情地送了两本会刊给记者。
  在杂志的中文版目录上,记者看到,这本杂志的导言用粗体写着:在海南島日本干了什么?残杀、掠夺、性奴隶。杂志中,有《关于日本政府、日本军、日本企业所犯下的侵略罪行的(当地调查)报告》、《60年前日本军队的残杀如同昨天的事情》等文章。
  佐藤正人告诉记者,对于日本侵略海南島的历史,他将收集到的资料制作成了光碟,制作了《海南岛月塘村虐杀》、《日本占领下的海南島 60年前如昨昔》等。“杂志不定期出刊,每次印刷2000本,在日本对外发行。我希望把战争时期所有发生过的事情能够完整地呈现出来,让所有人都知道。”他表示,在日本像这样的民间组织很多。“他们很多都是研究山东、东北、731部队的历史,海南这边的侵略历史还是一片空白,在日本很少有人研究海南这段历史。”
  “第一次来海南后,我发现了一些线索。回到日本进行了调查,又发现有一些不清晰之处,所以又来到海南实地调查。就这样,来来回回的,这次已经是第18次来到海南。”平均每年都要来一两次海南,佐藤正人住宿和交通设备方面,总是挑选最便宜的。他常常搭载拖拉机、摩的、三轮车在乡间来回颠簸。

■調査日本侵略者在海南犯下的罪行
  1998年夏,田独万人坑、石碌万人坑、八所万人坑、朝鲜村;2000年春,朝鮮村、后石村、大坡村、羊角岭水晶矿山;2001年1月,挖掘惨遭日本海軍第16警備隊殺害的朝鮮人的遗骨……
  这是佐藤正人在海南調査的部分記録。
  这些记录的背后,都是一段段日本侵略军残杀海南群众的惨痛歴史。
  2008年3月21日,是月塘村惨案63周年纪念日,海南岛近代史研究会的会员出席了“月塘惨案追悼碑揭幕式”。“这座由朝鮮人、日本人共同协助海南島人民建立起来的追悼碑,将永远記録下日本侵略者制造的月塘村惨案的事实,成为要求日本政府谢罪、赔偿和处罚责任者的佐证。”佐藤正人说。
  据佐藤正人介绍,海南島近代史研究会会员还参加了琼海市中原镇燕领坡举行的追悼集会。设立在燕领坡的“乐会县互助乡坡村長仙三古南桥雅昌佳文凤岭吉岭官园等村抗战死难民众公墓”的墓碑上刻着:在1945年3月1日被日本海軍佐世保第8特別陸戦隊殺害的村民名单。
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一九一〇年・二〇一〇年 2

2010年05月23日 | 個人史・地域史・世界史
■なぜ、日本人は「韓国併合」に反対しなかったのか
 なぜ、日本人は他地域・他国植民地化に反対しなかったのか

 国民国家日本の韓国植民地化(一九〇五年)、「韓国併合」(一九一〇年)は、台湾侵略戦争(台湾における抗日反日戦争)のさなかにおこなわれた。このとき、アフリカ南東部では、ヘレロ族の人びとがドイツ侵略者と戦っていた(一九〇四~一九〇八年)。
 日本は、一八八〇年四月に朝鮮に設置した領事館警察を、一九〇五年一二月に理事庁警察に改変した(一九〇五年一一月二三日に、「韓国ニ統監府及理事庁ヲ置クノ件」が「公布」され、統監府がソウルに、理事庁がソウル、仁川、釜山、元山、鎮南浦、木浦、馬山などに設置された)。理事庁は、統監府とともに、朝鮮を支配する日本の機関であった。
 一九〇七年一一月に理事庁警察は、韓国内部警察に「吸収」された。
 朝鮮で日本警察は、台湾やエジプトにおける住民弾圧の「経験」を踏襲しようとしていた。一八八二年九月以後イギリスはエジプトの軍事占領をつづけ、一九一四年に「保護国」とした。一九二二年二月にエジプトは独立したが、イギリスの間接支配は一九五三年の王政廃絶のときまでつづいた。
 一九〇七年八月から「韓国内部警務局長」だった松井茂が一九一〇年二月二一日に統監曾禰荒助に提出した「韓国警察ニ関スル意見書」には、
    「台湾ニ於テハ軍政ノ下ニ警察機関ヲ設備シタルハ一八九五年八月ノ事ナリシカ当時暴徒蜂起ノ報頻リニシテ警
  察ハ軍隊及憲兵ト共ニ之カ討伐ニ全力ヲ注キ警察ハ殊ニ巡邏偵察ニ努力シタリシカ仝年十二月三十日夜半俄然銃
  声ハ四方ニ達シ暴徒ハ台北附近ノ警察署ヲ包囲シ僻陬ノ警察署ノ如キハ署長以下殆ント全滅ノ惨状ヲ見ルニ至レリ」、
   「新領土ニ於ケル警察官ハ文力ト共ニ武力ノ素養ヲ必要トシテ傍ラ警察官ニ操練的教育ヲモ施ス事トナレリ是レ蓋
  シ韓国警察ニ於テモ大ニ参考ノ料ニ供スヘキ事柄ニシテ埃及〔エジプト〕ニ於テモ亦此方策ヲ採リ頗ル成功シタルモノヽ
  如シ」
と書かれている(原文は元号使用。『韓国「併合」期警察資料』第八巻、ゆまに書房、二〇〇五年、二一一~二一二、二一五~二一六頁)。
 朝鮮民衆の反日抗日闘争を制圧するために、日本は、正規軍、憲兵隊、警察隊を朝鮮に送りこんだ。
 日本軍、憲兵隊、警察隊は、単独で、あるいは連携して、朝鮮各地で、住民を虐殺し、略奪し、村を破壊した。
 韓国内部警務局が一九〇八年にだした『隆煕二年警察事務概要』には、一九〇八年一月~一一月の「警察官ノ干與セシ討伐」において、殺害した「賊徒」は四四一三人、「捕獲」した「賊徒」は八〇六人であったと書かれているが(九七~九八頁)、この数字には、この一一か月の間に、日本軍、日本憲兵隊によって殺された人たちすべての数字がふくまれているのではない。
 朝鮮駐箚軍司令部が一九一三年三月にだした『朝鮮暴徒討伐誌』には、一九〇八年一月から一一月間での一一か月に、日本軍守備隊が「殺戮」した「暴徒」は九三七一人、憲兵が「殺戮」した「暴徒」は一六〇四人、警察官が「殺戮」した「暴徒」は二六三人であり、一九〇六年五月から一九一一年一二月までの間に、日本軍守備隊が「殺戮」した「暴徒」は一三八七九人、憲兵が「殺戮」した「暴徒」は三五七一人、警察官が「殺戮」した「暴徒」は三二九人、総数一七七七九人だったとされている。

 一九〇六年から開始された抗日義兵闘争(第一次朝鮮独立戦争)で「捕虜」とされた人のなかに、日本に連行され、働かされた人もいたようである(「韓国暴徒を輸入せんとす 統監府の追放する暴徒を片ッ端から日本に運ぶ計画」、『大阪毎日新聞』一九〇八年五月三日)。
一九一〇年前半ころ出されたと思われる「韓国警察最近事務概要」の「全羅南道暴徒帰順者授業ノ為道路開鑿工事起工状況」という部分には、
   「一時猩獗ヲ極メシ全羅南道ノ暴徒ハ大討伐ノ結果逮捕及自首千三百名ニ達シタリ……強制労働ヲ施セハ遷善ノ
  見込アルヲ以テ此五百名ニ対シテハ起訴猶予処分ニ付シ此起訴猶予者ヲシテ……道内海南河東間三十五里ノ道路
  開鑿ヲ計畫シ将ニ実行ニ着手セリ」
と書かれている(『韓国「併合」期警察資料』第7巻、ゆまに書房、二〇〇五年、四五六~四五七頁)。
 日本政府は、朝鮮で、「捕虜」とした人たちを、朝鮮と日本で、道路建設、鉄道建設などの現場で強制労働させていた。二〇世紀はじめに、日本政府・日本企業は、釜山から新義州までの朝鮮縦断鉄道の建設を開始したが、それは、朝鮮・中国東北部に日本軍、日本人植民者を送りこむためであり、朝鮮・中国東北部から資源や牛やコメなどを日本に運びこむためであった。

 一八七五年九月に日本軍艦「雲揚」が江華島海域に侵入し、朝鮮軍兵士ら三五人を殺害し、民家をふくむ建物を焼き、略奪をおこなった。その五か月後、一八七六年二月に、日本政府は朝鮮政府に不平等条約(「朝日修好条規」)を調印させた。一八九四年六月に、日本政府は海軍陸戦隊を朝鮮の首都漢城に侵入させた。その一か月後の七月に、日本軍は朝鮮王宮(景福宮)を占領した。一八九五年一〇月、駐朝鮮日本公使三浦梧楼を首謀者とする日本人集団が朝鮮王宮に侵入し国王高宗の妻や宮内大臣らを残虐な方法で殺した。
 『東京日日新聞』(一九四三年以後『毎日新聞』)と『郵便報知新聞』が創刊されたのは一八七二年であり、『讀賣新聞』の創刊は一八七四年、『朝日新聞』の創刊は一八七九年であった。
 日本人は、一八七〇年代からの国民国家日本の朝鮮侵略という事実を知っていた。
 しかし、それに反対する日本人はほとんどいなかった。
 日本人は、アイヌモシリ植民地化、ウルマネシア植民地化以後、国民国家日本が他地域・他国侵略を続けているという事実を知っていた。
 しかし、それを批判し、その政治的・経済的・社会的・文化的原因を解明し、それを阻止しようとする日本人はほとんどいなかった。
 それは、国民国家日本の国民(「臣民」)の、歴史意識、思想、感性の根本にかかわる問題である。
                                               キム チョンミ
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一九一〇年・二〇一〇年 1

2010年05月22日 | 個人史・地域史・世界史
 『悍』4号に掲載された、キム チョンミ「一九一〇年・二〇一〇年」を7回にわけて連載します。

■一九一〇年
 一七八九年の「市民革命」によって国民国家を形成したフランスは、一八三〇年にアルジェリアに軍隊を侵入させ、植民地化を開始した。アルジェリア(ジャザーイル)が独立したのは、一三二年後の一九六二年であった。
一八六八年の「維新クーデタ」後、アイヌモシリ、ウルマネシア植民地化の過程で国民国家を形成しはじめた日本は、一八九五年に台湾を植民地とし、「日ロ戦争」終戦一か月後(一九〇五年一一月)に朝鮮(大韓帝国)を植民地(「保護国」)とした。朝鮮が国民国家日本の支配から解放されたのは、その四〇年後であった。朝鮮を植民地とする数か月前、日本とアメリカ合州国は相互に朝鮮の支配権とフィリピンの支配権を承認しあい、日本とイギリスは相互に朝鮮とインドの支配権を承認しあっていた。フィリピンがアメリカ合州国から最終的に独立したのは一九四六年であり、インドとパキスタンが独立したのは、一九四七年であった。
 一九〇五年の「乙巳勒約」(「日韓交渉条約」)は、一九一〇年の「韓国併合条約」などとともに、一九六五年に締結された「日韓国交を正常化する日本国と大韓民国との間の基本関係に関する条約」で、「もはや無効」であることが確認されたが、朝鮮民主主義人民共和国との間では「無効」とされていない。
 「日ロ戦争」開始七か月後、一九〇四年八月二二日に、朝鮮を軍事占領していた国民国家日本は、日本政府の推薦者を大韓帝国政府の財政・外交顧問とすることを強制した。「日ロ戦争」時、日本は、朝鮮人を「人夫」として「徴発」し、食料などを略奪した。日本は、朝鮮を兵站基地とすることなしには、「日ロ戦争」を継続できなかった。
 「日ロ戦争」開始後まもなく、日本人は朝鮮の土地を大規模に買い占めはじめた。たとえば、群山地域で一九〇四年末に日本人が買い占めていた土地は四千ヘクタールであり、一九〇五年には八千ヘクタールであったが、一九〇七年には二〇〇人の日本人地主が、一万数千ヘクタールの土地を所有していたという(青柳綱太郎『韓国殖民策』輝文館、一九〇八年、六八頁)。
 一九〇八年九月に日本政府は「対外経営」についての「方針」を閣議決定した。そこでは、清国とロシアに対抗するために日本民族を「東亜方面」に集中的に送りこんで、その勢力を「確立維持」するという基本方針がだされていた。同年一二月に、朝鮮で拓殖事業を営むことを目的とする東洋拓植株式会社が設立された。
 一九〇九年二月に日本帝国議会で、外務大臣小村寿太郎は、日本民族を、朝鮮、中国東北部、カラフト南半部に集中的に送りこみ、日本民族に植民地の「経営」をさせるという外交方針を示し(『官報号外』一九〇九年二月三日、三二~三三頁)、その五か月後、一九〇九年七月に日本政府は、朝鮮を日本に「併合」する以前にできるだけ多数の日本人を朝鮮に「移植」するという方針を閣議決定した(「対韓施設大綱」、外務省『日本外交文書』第四二巻第一冊、一八〇頁)。
 一九一〇年はじめに、外務大臣小村は、日本帝国議会衆議院予算委員会で、「日ロ戦争」に勝利して日本は「大陸国」になったといい、中国東北部と朝鮮に「大和民族」を集中することを主張した(『第26回帝国議会衆議院予算委員第1分科会議録』五、一七頁)。
 一九一〇年八月、日本政府は、「韓国併合条約」を発表した。その五年前に、朝鮮は日本の植民地とされていた。
 その三か月後、一九一〇年一一月に、メキシコ革命が開始された。
                                               キム チョンミ
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