三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

「朝鮮人労働者を虐殺した「木本事件」から90年の追悼」

2016年12月31日 | 木本事件
『週刊金曜日』1115号、2016年12月2日 
■朝鮮人労働者を虐殺した「木本事件」から90年の追悼
 歴史隠蔽の動きに危機感

 三重県発注の木本トンネル建設工事に従事していた朝鮮人2人が地域住民に殺害された「木本事件」から90年。犠牲者の李基允さん、裵相度さんを追悼する集いが11月26日、熊野市木本町の追悼碑前で開かれた。23回目を迎える今年も在日朝鮮人、日本人が集まり、植民地支配の歴史に向き合った。
 「木本事件」は、関東大震災時の朝鮮人虐殺から間もない1926年1月2日に起こった。ささいなことから口論になり、日本人が朝鮮人を刀で切りつけて重傷を負わせたできごとが発端だった。翌日、「朝鮮人が襲ってくる」との流言が飛び、木本町長の要請で出動した消防組を中心とする住民が飯場を襲い、李さんを殺害。その後、在郷軍人らに朝鮮人も応戦するなかで、裵さんが殺害された。事件後、すべての朝鮮人が町から追放された。
 事件の真相解明と責任追及をめざす「三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会」は、在日朝鮮人の歴史研究者、金靜美(キム チョンミ)さんを代表に89年に結成。資料調査や住民への聞き取りをし、『熊野市史』の「(事件は)素朴な愛町心の発露」とした記述の書き換えなどを求めた。その後、碑の建設費として市も予算計上したが、事件の行政責任など碑文を巡り会と見解が対立した。韓国在住の遺族の体調面などから建立を急ぎ、94年に会独自で碑を建てた。
 追悼集会では、安保法制定に折り重なる歴史隠蔽の動きに参加者が次々と危機感を表明、異国で生を絶たれた朝鮮人に思いを馳せた。
 翌27日は、アジア・太平洋戦争時に同市紀和町の旧石原産業紀州鉱山で働き、犠牲となった朝鮮人を追悼する集いも開催した。鉱山では、延べ1300人以上の朝鮮人が働いていたとされ、史実を知った「追悼碑を建立する会」のメンバーは、「紀州鉱山の真実を明らかにする会」を結成。死亡が確認された35人の名を刻む石を見守るように立つ追悼碑を2010年に建立した。さらに、会員らは同じ石原産業の鉱山があり、日本の南方政策の拠点とされた中国海南島における軍の加害行為の解明も続けている。会員の佐藤正人さんは「日本がアジア全域で行なった事実の真相究明を通し、私たちの歴史認識を絶えず検証していかない限り、国家の侵略の歴史に回収されてしまう」と話した。

                             山本柚・ライター
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「刻まれたのは“欠けた”名前 旧紀州鉱山に朝鮮人労働者の追悼碑建立」

2016年12月30日 | 紀州鉱山
http://www.kinyobi.co.jp/backnum/antenna/antenna_kiji.php?no=1046
『週刊金曜日』2010/4/2 金曜アンテナ 
■刻まれたのは“欠けた”名前
 旧紀州鉱山に朝鮮人労働者の追悼碑建立

 石原産業旧紀州鉱山(三重県熊野市)でアジア・太平洋戦争中、強制連行により労働を強いられ、異郷で亡くなった朝鮮人を追悼する碑の除幕集会が三月二八日、同市であった。碑は、市民団体「紀州鉱山の真実を明らかにする会」と在日本朝鮮人総聯合会県本部、在日本大韓民国民団県地方本部が結成した会が建立。碑文は、アジア各地の日本軍・企業による侵略の責任追究を誓うとともに、犠牲者の冥福を祈る。集会には、韓国の関係者をはじめ在日朝鮮・韓国人、日本人ら約一〇〇人が参加した。
  「明らかにする会」の調査では、同鉱山で一九四〇年から四五年までのべ一三〇〇人超の朝鮮人が働いていた。しかし、紀和鉱山資料館の展示では全く触れていない。同鉱山で死亡した英国人捕虜一六人の名前や年齢は墓地に明記され、合併前の旧紀和町長も参列し慰霊祭が営まれたのと対照的だ。
 追悼碑の前には、三五個の石が並び、亡くなった朝鮮人三五人の名前がひとりずつ書かれている。同会のメンバーが九六年から訪韓を重ね、生存者・遺族らから聞き取るなどして調べた。だが、うち一一人は名前の一部が欠け、出身地が判明したのは六人にすぎない。
 同会の金静美さん(六〇歳)は「当時、日本式の名にさせられていたため、(資料を探しても)本当の名前が分からない。(欠けた)名の書かれ方は、紀州鉱山の真実が明らかになっていないことの証」とし、碑の建立を、真相解明に向けた新たな出発点とすることを呼びかけた。
 
                            山本柚・ライター
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「朝鮮人虐殺「木本事件」 15回目の追悼集会」

2016年12月29日 | 木本事件
http://www.kinyobi.co.jp/backnum/antenna/antenna_kiji.php?no=434
『週刊金曜日』2008/12/12 金曜アンテナ
■朝鮮人虐殺「木本事件」 15回目の追悼集会
 三重県木本町(現・熊野市)で一九二六年、トンネル工事に従事していた朝鮮人労働者二人が在郷軍人などに虐殺された「木本事件」の一五回目の追悼集会が一一月二二日、同市であった。追悼碑を建立した「三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・ペ相度)の追悼碑を建立する会」の竹本昇さんは「事件をどのように認識するかは、今に生きる私たちの課題だ。歴史を忘れようとする社会に問い続けたい」と訴えた。
 集会の冒頭で碑の前にマッコルリ(どぶろく)が捧げられ、参加者全員で献杯しながら、事件の記憶を継承することを誓った。
 同会によると、事件は関東大震災時の朝鮮人虐殺から二年四カ月後に起こった。ささいなことをきっかけに日本人が朝鮮人を刀で切りつけた。その後、町中を「朝鮮人が復讐してくる」というデマが飛び交い、在郷軍人や消防組員が飯場を襲って、騒ぎを抑えようとした二人を殺した。
 八九年に結成された同会では、現在でも事件を「素朴な愛町心の発露」と伝える「熊野市史」の書き換えを求めている。一方で、地元の小学生が総合学習で現場に足を運ぶなど事件の教訓を学ぼうという動きも広がっている。
 紀伊半島の南端に近い人口五〇〇〇人ほど(当時)の小さな町で起こった事件だが、歴史的に持つ意味は重い。
 同会の佐藤正人さん(六六歳)は「一九二〇年代の新潟・中津川事件(水力発電所工事現場での朝鮮人虐殺)や関東大震災時の大量虐殺と根を同じくしている。植民地支配に基づく民族差別を原因とし、現在も真相や責任の所在はあいまいなままだ。(木本事件では)明らかにした事実に基づいて、行政の責任追及を続けてゆきたい」と話した。

                             山本柚・ライター
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「尽显人间真情 尽绽人性光芒」

2016年12月28日 | 個人史・地域史・世界史
http://data.chinaxwcb.com/epaper2016/epaper/d6311/d8b/201607/69650.html
http://www.hljep.com.cn/index.php?p=huodong&lanmu=17&id=32
「中国新闻出版广电报」2016/7/25 9:39:41 本报记者 李婧璇  
■尽显人间真情 尽绽人性光芒
  在近期举办的“来自日本的和平之声”丛书出版座谈会上,来自黑龙江省委宣传部、黑龙江省新闻出版广电局、黑龙江省人民对外友好协会、黑龙江省社会科学院、哈尔滨市红十字会养父母联谊会等部门领导以及日本民间友好团体ABC企画委员会的代表、“来自日本的和平之声”丛书系列图书作者、译者和相关专家学者等齐聚一堂,就该丛书的出版价值、现实意义以及今后如何继续挖掘同类题材的出版资源等话题展开座谈,建言献策。

★记录史实 共促和平
  “这套丛书的名字叫‘来自日本的和平之声’,我很钦佩像丛书作者山边悠喜子女士和宫崎教四郎先生的善行,他们代表着来自日本的和平声音。”在黑龙江出版集团董事长、总经理李久军看来,这些来自日本的普通民众能够发出和平之声,并对中国饱含感情显得弥足珍贵,“在当下的环境中,这种‘和平之声’尤为重要”。
  李久军认为,“作为出版人,要铭记自己的使命和责任,我们要把过去那段历史全面真实地记录下来,要把它告诉大众,让我们的国人,尤其是让年轻人知道那段历史到底是什么。”在他看来,比较全面地呈现这段历史,是“来自日本的和平之声”丛书出版的意义所在,“既让后人知道中国人民有反抗日本侵略者的气概,也有对侵略者留下的遗孤的真情,这体现了人性的高贵。正所谓‘一衣带水,和平友好’,我们要正确地看待历史,珍爱和平,现在需要多做这样的工作。”
  “我们这套丛书是黑龙江出版集团、黑龙江教育社在‘铭记历史、缅怀先烈、珍爱和平、开创未来’的重大主题引领下,集数十位见证了日本侵略战争后留在中国的日本遗孤、日本在华少年、中国人民解放军中的日籍女战士的真实情感记录于一身,通过编译者、编辑人员历时数月时间倾力打造而成的。”据黑龙江教育社社长赵力介绍,全书作者平均年龄超过70岁,他们仍以一己年迈之躯不停奔走于两国之间,“告诫后人珍爱和平、友好发展,实属不易。”

★前事不忘 后事之师
  丛书之一《难忘一家人——一个日本籍中国人民解放军战士的真实记录》是山边悠喜子女士的回忆录。作为数万日本籍东北民主联军(后改为中国人民解放军第四野战军)中的一员,山边悠喜子在书中讲述了自己16岁参加人民解放军及其在其间的快乐、宝贵与增长才干的时光。“让日本人民了解日本发动侵略战争的真相,追究深层次原因,以免再次犯下同样的错误,这是最重要的。”山边悠喜子说。
  作为“来自日本的和平之声”丛书编译者之一的高晓燕,和山边悠喜子保持了20多年的友谊,“她与中国的友好交流以及所进行的多地考察,是我们一起度过的,我们一起走过了20多年。通过与山边女士共同考察,共同生活,共同工作,我越来越深刻地认识到这位日本老人的心中有一颗中国心。她对日本的侵略战争有着深刻的反思,她身体力行地为中日友好做着贡献。”在高晓燕看来,通过这套丛书的发行,能让更多的中国人了解到这样一大批从事中日友好工作的人所做的事情和付出的努力。
  “虽然我没有亲身经历那场战争,但是通过那些见证战争人士的讲述,我认为我们日本人需要尽最大的努力来反省这段历史。”来自日本ABC企画委员会的共同代表宫崎教四郎表示,中日两国自古以来就是友好邻邦,重新追溯那段战争历史,反省那场侵略战争,“我认为这是日本人的当务之急。我们也会一如既往地做好调研,组织日本民众大力声援中国受害者,为他们讨回公道。”

★恪守职责 延续热情
  “在‘来自日本的和平之声’丛书出版的过程中,每一位作者都付出了很多心血,他们不顾年事已高,以战争亲历者的特殊身份,为和平、为中日友好奔波于两国之间。我们深深地为他们这种情怀所感动,为他们这种精神所鼓舞。”作为“来自日本的和平之声”丛书策划编辑之一的李绍楠在接受《中国新闻出版广电报》记者采访时表示,该丛书涉及编辑跟随日本来华友好团体走访中日友好园林、面对面访谈20位遗孤老人并进行文字内容整理、图片搜集、史实核对的工作,故历时5个月才得以出版。“在此期间,编辑无数次与海外的遗孤老人们通过电话、邮件、视频交流,与译者们就内文翻译和审校进行反复探讨,目的就是要确保各处史实内容准确无误,充分保障了丛书的出版质量。”
  “书本虽小,承载的却是20余位战争亲历者的真实经历。对这套丛书的出版来讲,来自日本的老人们秉承‘感恩中国养父母’‘小医治病、大医治国’‘难忘中国战友情’的正义之情,与年轻的编辑们进行了跨越国界的合作,为诠释‘不忘战争伤害、珍视和平、共创友好’的主题全身心地付出。”该丛书责任编辑之一的葛然告诉记者,丛书出版期间,老人们不惜利用休息时间全力配合编辑,编译者们也毫无保留地提供珍藏多年的图片和资料,真的非常令人感动,“年迈的长者尚以一己瘦弱之躯架构和平的桥梁,用正义和良知呼吁人们珍爱和平,生活在和平年代年纪尚轻的我们,更应珍惜并为之努力。”
  “瞻望前路,任重道远。”李绍楠对记者说道,在为数不多的战争亲历者“不忘历史、珍爱和平”的情怀感召下,“我们还将一如既往地尽我们的出版职责,延续我们的出版热情,通过这套丛书,让更多的人去‘亲历’这段历史。”



■山边悠喜子 著;高晓燕,刘伟 译『难忘一家人:一个日本籍中国人民解放军战士的真实记录』黑龙江教育出版社 / 2015-12-01
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「日籍中国人民解放军战士回忆录出版 祈盼中日友好」

2016年12月27日 | 個人史・地域史・世界史
http://www.chinanews.com/cul/2016/05-31/7889463.shtml
「中国新闻网」2016年5月31日 16:27
■日籍中国人民解放军战士回忆录出版 祈盼中日友好
  中新网哈尔滨5月31日电 (记者 刘锡菊)黑龙江教育出版社31日发布消息,反映日本侵略战争给中日两国人民带来灾难的《难忘一家人——一个日本籍中国人民解放军战士的真实记录》近日出版。该书内容全部以日本籍解放军山边悠喜子亲口讲述和调研的真实经历为依托,再现了那场战争带给人们的伤害,也表达了对反对战争、珍爱和平、祈盼世代友好的期许。
  资料显示,曾在中国人民解放战争中,诸多懂技术、有文化的日本籍青年男女及各类人士,加入中国共产党或中国国籍,为中国革命事业浴血奋战。
  《难忘一家人——一个日本籍中国人民解放军战士的真实记录》作者山边悠喜子女士1929年生于日本东京,12岁随家人来到中国,16岁参加中国人民解放军,随部队转战南下,24岁回到日本却饱受歧视,退休后频繁往返于中日两国,为日军的侵华罪行寻找证据。
  该书内容全部以山边悠喜子亲历为记述内容,讲述了她16岁参加人民解放军及其在其间的快乐、宝贵与增长才干的时光。作者所在的卫生队中既有日本籍西医,也有中国籍中医。大家不分医种、不分国籍,彼此之间相处和谐,相互爱护,结成生死与共的战友情。山边悠喜子也首次体会到了当地人民对东北民主联军(后改为中国人民解放军第四野战军)的信赖和真心支持,从而第一次学会了“军民一家人”这个词,并亲身体会到了那些号称“皇军”的日军与民主联军的差距。
  《难忘一家人——一个日本籍中国人民解放军战士的真实记录》主题为“祈盼和平,世代友好,开创未来”。全书16万字,结合作者及其团队拍摄的真实人物及图景照片,再现了那场战争带给人们的苦楚以及遗留的大量毒气弹对人们及其家属造成的巨大伤害。
  “我自1953年归国后每每遭遇困难时,都会回想中国战友的话,用在中国的宝贵经历激励自己。”山边悠喜子说,她期待通过自己的积极活动使日本政府真诚反省过去,促进中日关系发展,并期待彼此成为互相理解的“一家人”,世世代代将友好传统发扬下去。
  当88岁的山边悠喜子回答如何看待自己的那段历史时,她发自内心的答案是:“现在我为参加了中国革命而骄傲,为青春奉献给了中国而自豪!”(完)


http://www.hljep.com.cn/index.php?p=news_show&id=117&lanmu=5&c_id=4
「黑龙江教育出版社」2016-06-08
■《来自日本的和平之声》丛书出版座谈会在黑龙江举办
  2016年5月31日,黑龙江出版集团、黑龙江教育出版社在哈尔滨果戈里书店隆重举行《来自日本的和平之声》丛书出版座谈会。来自黑龙江省委宣传部、黑龙江省新闻出版广电局、黑龙江省人民对外友好协会、黑龙江省社会科学院、哈尔滨市红十字会养父母联谊会等部门领导以及日本民间友好团体ABC企画委员会的代表、《来自日本的和平之声》系列图书作者、译者和相关专家学者等齐聚一堂,就黑龙江出版集团、黑龙江教育出版社推出的“纪念中国人民抗日战争暨世界反法西斯战争胜利70周年”主题出版物——《来自日本的和平之声》丛书的出版价值、现实意义以及今后如何继续挖掘同类题材的出版资源等话题进行了座谈,提出了大量富有建设性的意见和建议。
  《来自日本的和平之声》系列丛书是黑龙江出版集团、黑龙江教育出版社在“铭记历史、缅怀先烈、珍爱和平、开创未来”这一重大主题引领下,集数十位见证了日本侵略战争的中国残留日本遗孤、日本在华少年、中国人民军队中日籍女战士的真实情感记录于一身,通过编译者、编辑人员等通力合作打造而成。全书由《日暮乡关何处是——我和我的两个故乡》《赤血残阳映黑土——一个日本少年的“满洲国”经历》《难忘一家人——一个日本籍中国人民解放军战士的真实记录》三册构成,内容全部以战争时期在华日本人亲口讲述和调研的真实经历为依托,结合难得的真实人物及图景照片,再现了中国残留日本儿童与中国养父母真挚情感的故事;回忆了日本少年在“满洲国”经历的战争苦楚;记下了日本籍中国人民解放军女战士为中日和平发展付诸的努力。
  本丛书作者均来自日本,皆为日本发动的那场侵略战争的亲历者,他们以一己年迈瘦弱之躯架构了一座增进彼此联系的桥梁,堪称是连接中日友好的坚实纽带。他们或经历与日本亲生父母骨肉分离,在懵懂中被中国养父母收养,或年幼孱弱便以劳工身份深受战争伤害,或参加中国人民解放军并与中国队友结成生死与共的战友情。如今,他们不顾年事已高,依然漂洋过海为寻求和平、共创友好而奔走于两国之间,以实际行动表达他们作为战争的亲历者以及受害者反对战争、珍爱和平、祈盼中日两国人民世代友好的心声,他们用自己的亲身经历以正义和良知警醒后人珍爱和平,共创友好发展。
  全书的出版得到了黑龙江省委宣传部出版处、黑龙江省新闻出版广电局出版管理处、黑龙江省人民对外友好协会日本处、黑龙江省社会科学院历史研究所、黑龙江省社会科学院东北亚研究所、哈尔滨市红十字会养父母联谊会等专家学者的大力支持。
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2017年2月5日に、海南島近現代史研究会第19回定例研究会を開きます

2016年12月26日 | 海南島近現代史研究会
 来年(2017年)2月5日に、海南島近現代史研究会第19回定例研究会を開きます。
 主題は、「証言・記録・伝達」です。
 みなさんの参加を待ってます。
                       海南島近現代史研究会

 アジア太平洋侵略戦争敗北後も、日本国家は、朝鮮戦争・ベトナム戦争・湾岸戦争・アフガニスタン戦争……に加担し、日本政府は2015年9月に「戦争法」を公布しました。日本の他地域他国侵略の時代は終っていません。
 侵略犯罪の加害者の真実の証言はあまりに少なく、日本の国家と社会が隠し消し去ろうとしている過去の侵略犯罪の事実は、犠牲者・被害者の証言によってのみ明らかにされる場合が少なくありません。
 日本は侵略犯罪を他地域他国だけでおこなったのではありません。日本国内でおこなった侵略犯罪の事実もまた十分には明らかにされていません。
 証拠資料(日本政府文書、日本軍文書を含む)と証言に基づいて日本の侵略犯罪の事実をできるだけ具体的に明らかにし、それを伝達するにはどうするのか……について共に、話し合いたいと思います。

と き:2017年2月5日(日)13時00分~17時(開場12時30分)
ところ:国労大阪会館 第二小会議室 大阪市北区錦町2-2  電話06-6354-0661
                 JR大阪環状線天満駅北口を出て右へ300メートル
参加費:500円(会員は無料です)

主題:証言・記録・伝達

■主題報告 証言を聞き、記録し、伝達する主体のありかたについて
                                    佐藤正人

■主題報告 海南島・アイヌモシリ・沖縄・日本……に連行された朝鮮人の証言
                                    金靜美

■主題報告 海南島における日本の国家犯罪と日本民衆の歴史的責任
                                    斉藤日出治

■主題報告 2002年、2003年、2006年の海南島での聞き取りのこと
                                    日置真理子

■主題報告 海南島で日本軍が爆死させた抗日戦士の妻の証言
                                    竹本昇

■主題報告 海南警備府特別陸戦隊兵士だった湊健一さんと大橋敏太郎さんの2016年の証言

■討論 日本国家の侵略犯罪の犠牲者の記憶と加害者の記憶
     日本の侵略犯罪を、被害者の証言と加害者の証言によって明らかにしていく民衆
    運動について。

■報告 加害展示を消し去った‘ピースおおさか’に対する訴訟の現段階
                                     竹本昇

■報告 『忘記過去意味着背叛』、『控訴 採訪九位海南慰安婦実録』、『海南省重要革命遺祉
   通覧』、『海南省抗日戦争時期人口傷亡和財産損失』
       
■調査報告 第17回(第30回)海南島「現地調査」(2016年11月)          
    文昌市玉堂村・秀田村・坡頭村、澄邁県永跃村・龍楼村・加丙村・排坡園村・雅頌村・
   雅頭村・新村、海口市演豊村・美良村・新橋村・美桐村、臨高県美吉村・親仁村・和伍
   村……での証言を報告します。

■2017年4月の海南島近現代史研究会の18回目(31回目)の海南島「現地調査」について

               海南島近現代史研究会 http://www.hainanshi.org/
                【事務局】 奈良市中山町200-191  斉藤日出治方
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「永遠の青年長期囚。50年ぶりに佛甲山民間人虐殺現場を発掘した金永昇」

2016年12月25日 | 韓国で
『민족21』10호 2002년 01월 01일
■"이제야 왔습니다. 용서하세요"
 영원한 청년 장기수. 50년만에 불갑산 민간인 학살 현장 발굴한 김영승

 1951년 2월 전남 함평군 불갑산에서 군경에 의한 끔찍한 민간인 학살이 있었다. 당시 불갑산 빨치산 소년병이었던 김영승 선생. 그가 죄없이 죽은 민간인들의 한을 풀어 주기 위해 50년만에 현장을 찾았다. 끝없이 쏟아져 나오는 유골들. 그리고 진실, 사죄, 용서, 화해…
글 김지형 기자 cankjh@minjog21.com 사진 유수 기자 soo@minjog21.com

 전남 함평군 불갑산의 한 능선자락. 수북히 쌓인 유골더미를 망연자실 바라보며 담배 연기를 깊숙이 빨아들이는 한 사람이 있다. 당시 열 여섯 살의 소년병으로 빨치산 활동을 했던 김영승(65) 선생.
그의 고향은 함평군 묘량면 삼학리다. 6·25전쟁이 발발하자 불갑산 위에 있는 태청산으로 입산했다. 그리고 같은 해 12월 빨치산 부대를 따라 불갑산으로 이동했다. 소년은 왜 빨치산이 되었을까?

★소년 빨치산 시절 목격한 불갑산 민간인 학살
 어린 시절 그에게 큰 영향을 주었던 존재는 다름 아닌 그의 형. 일제말 ‘유언비어’유포 혐의로 시국사범이 되어 감옥살이를 했던 형의 모습이 어린 동생의 뇌리에 깊이 남았다. 해방후 동네 야학에서 〈농민운동가〉 〈적기가〉 등을 배우면서 어린 김영승은 마을 소년단장을 맡기도 했다. 당시 그의 형은 민주청년동맹의 활동가였다. 형수 역시 마을 여성동맹위원장이었고 누나는 묘량면 여성동맹위원장이었다. 전쟁이 터지자 작은형은 의용군으로 참전했다가 희생됐다. 이런 집안 분위기에서 성장한 그가 입산한 것은 어찌보면 자연스러운(?) 일이 아닐까?
 “처음에 빨치산들은 나를 전투에 참가시키지 않았어요. 너무 어리다는 이유로 말입니다. 18살이 돼서야 전투에 참가할 수 있었습니다. 처음에는 그저 연락병 노릇만 했지요.”
 소년 연락병 시절 그가 겪은 대참화가 바로 불갑산 민간인 학살사건이었다. 인근 백운산, 지리산, 조개산, 목우산, 금성산 등지로 움직이며 빨치산 활동을 하던 그는 전쟁 이듬해인 1951년 초 이른바 ‘동계 대공세’를 맞았다. 불갑산 학살사건도 이때 빚어진 참극이다.
 같은 해 4월 화학산 전투에서 30여 명의 동료 중 그만이 구사일생으로 살아남은 가슴아픈 기억도 있다. 그후 김영승 씨는 전남도당 직속부대였던 ‘전남부대’에 속했다. 그러다가 1954년 2월 전남 백운산에서 체포되고 말았다. 당시 백운산은 전남도당, 전남사령부, 광양군당, 순천군당, 여수시당 등이 집중적으로 모여 있던 전남 빨치산의 거점이었다. 국군 5사단과 치열한 접전을 벌이다가 옥룡골 전투에서 4발의 총탄을 맞고 인사불성인 채로 생포되고 말았던 것.

 남원에 위치한 국군 사단 이동외과병원에서 중상자들이 수용되는 병원으로 옮겨졌다. 얼마 후 고등군법회의에서 사형 선고를 받았으나 대구교도소로 이송된 후 무기로 확정됐다. 나이관계로 김천소년형무소를 거쳐 안동, 대전, 목포교도소 등을 전전하다가 광주교도소에서 1974년 4월 28일로 예정된 만기 출소를 앞두고 있었다.
 1974년이면 감옥 내에서 이른바 대대적인 ‘전향공작’이 시작될 때다. 아니나 다를까, 만기가 됐으나 내보내지 않고 오히려 반공법으로 또다시 2년을 선고받았다. 1976년 5월이 만기. 그런데 이번에는 사회안전법에 의해 ‘감호 처분’을 받게 됐다. 또다시 긴 감옥살이를 거친 끝에 1989년 9월 5일 청주보안감호소에서 석방되었다.
 1991년 늦게나마 ‘동지 부인’의 소개로 만난 지금의 부인과 결혼식을 올렸다. 슬하에 초등학교 2학년 딸아이를 두고 행복한 가정을 꾸리고 있는 김영승 선생. 지금은 《민족21》 독자사업부에서 ‘통일잡지’ 보급에 여생을 바치고 있다. 그러나 그에게는 50년 세월 동안 가슴속 깊이 맺힌 한이 있었다. 바로 산에 있던 시절 그가 목격하고 전해들었던 악몽같은 불갑산 민간인 학살사건.
 “언젠가는 그때 억울하게 희생된 민간인들의 유골을 확인해서 진실을 밝히고 그들의 맺힌 한을 풀어주어야 한다는 결심이 있었지요. 이 결심을 실행에 옮기기 전에는 나 역시 가슴속에 맺힌 한을 풀 길이 없습니다.”
 2000년 9월 장기수 선생들의 북녘 송환 때, 그가 갈 수 없었던 이유 중 하나도 바로 이 문제였다. 고향 땅에서 빚어진 참극의 진실을 밝히고 원혼을 달래주지 못한 채 떠날 수 없었던 것이다.
출소 후 통일운동 하랴, 생계도 이어가랴 바쁜 나날을 보내다가 어느덧 10년 세월을 훌쩍 넘겨버렸다. 그러나 불갑산 학살사건을 한시도 잊은 적은 없었다. 그를 불러주는 곳이면 어디든 가서 그때의 얘기를 하고 다녔다.

★“빨치산에게 밥 해줬다고 다 쥑여부렀어…”
 2001년은 학살사건이 발생한 지 꼭 50년 되는 해. 그는 마침내 지난 11월 불갑산을 찾아갔다. 마을 사람들에게 오랜 세월 간직한 그때의 얘기를 수소문하던 중 용케도 당시 학살 현장을 목격한 마을 할아버지 한 분을 만났다. 두 사람은 눈물로 그때의 얘기를 나눴다.
 그는 학살사건의 증언자를 찾자마자 남쪽에 살고 있는 장기수 모임인 ‘통일광장’ 동료들과 논의 끝에 살아 생전 진실을 밝혀야 한다는 결심을 새롭게 했다. 그로부터 1주일 후인 11월 26일. 그와 기자 일행은 광주행 기차를 탔다. 당시 학살사건 증언자를 만나기 위해 함평군 해보면 가정리(현 광암리)로 향했다. 가정리는 당시에 가정부락, 가쟁이마을 등으로 불리던 곳이다. 학살사건의 증인 최종남(77) 할아버지 집을 방문했다.
 전쟁 이듬해 이 일대에서 끔찍한 학살사건이 있었다고 하던데요?
 “조기 엮듯이 엮어서 죽여 부렀어. 무조건 다 쏴 쥑여 부렀응께. 살아남은 사람들이 거의 없제.”
 1951년 2월 20일 군인, 경찰들이 대대적으로 마을에 몰려들었다. 당시 인근에 포진하고 있던 빨치산의 규모는 약 30∼40명 정도. 김영승 선생에 의하면 “광주 20연대와 경찰 병력 해서 약 1500여 명 정도 동원됐다”고 한다. 중과부적의 상황에서 빨치산은 후퇴하고 마을에 남은 건 민간인들과 인근 장성군 삼서·삼계면 등에서 피난 온 사람들뿐이었다.
 해보면에서 이곳 가정부락과 함께 가장 큰 피해를 당한 마을이 산안부락(현 원산리), 오도치부락(현 대각리) 등 세 마을이다. 마을들의 규모가 어느 정도였는지 최 옹에게 물었다.
 “당시 가정부락은 한 30호 가량 됐제. 그라도 산안부락이 가장 컸응께 한 50호 가량은 됐을 것이구만. 오도치부락도 40∼50호는 족히 됐고.”
 한 호당 평균 5∼6명이 거주했다면 세 마을을 합쳐 130여 호에 이른다고 할 때 최소한 600명 이상의 민간인들이 참혹한 죽음을 당했다고 볼 수 있다. 그뿐이 아니다. 최 옹에 의하면 인근 광동, 운암, 송산, 노정리에서도 많은 사람들이 죽었다는 것. 아무리 전쟁중이라지만 당시 군경은 왜 이토록 많은 민간인들을 죽였던 것일까? 김영승 선생의 얘기다.
 “불갑산 줄기 위로는 불갑면, 아래로는 함평군입니다. 불갑산 줄기는 곧 빨치산의 루트였어요. 우리는 이곳을 불갑지구로 설정하고 지구당부와 사령부를 두었습니다. 불갑지구는 영광군, 함평군, 무안군을 포괄했고 목포시당 일부도 포함됐습니다. 불갑지구의 아래쪽은 야지이기 때문에 요충지라고 할 수 있어요. 전남 서북쪽의 보루인 셈입니다. 군경은 이곳을 장악해야 광주 등을 보호할 수 있기 때문에 이 곳을 사활적인 곳으로 생각했던 겁니다.”
 최 옹의 증언은 좀더 구체적이다.
 “빨치산에게 밥 해줬다고 다 쥑여부렀어.”
 군경은 연 3∼4일간 ‘비로 쓸듯이’ 이 일대를 초토화시켰다. 2월 20일과 21일에 대부분의 민간인들이 죽음을 당했다. 다시 김영승 선생의 얘기.
 “당시 불갑지구에 수천 명의 피난민이 바글거렸는데 이들 대부분이 학살당했습니다. 최소한 1500명 이상은 죽었다고 봅니다. 군경은 민간인과 빨치산의 연계를 차단하기 위해서 아예 몰살작전으로 나간 것이라 생각됩니다. 그렇지 않고서는 그렇게 민간인들을 죽일 이유가 없지 않습니까?”
 실제로 가정리를 포함해 인근 마을에서는 지금도 한날 한시에 제사를 지내는 집이 많다. 최 옹 역시 당시 피해자 가족이었다. 부모님을 비롯해 세 살 박이 동생과 조카들도 그때 희생됐다. 최 옹 자신은 다행히 굴을 파고 숨어 지냈던 탓에 화를 피할 수 있었다. 군경의 작전이 끝나고 마을로 나와보니 온통 시체 천지였다고 한다.
 “산골짝, 밭둑이 시체로 빨래를 널어놓은 것 같았제. 길가에 괭이로 깔짝거려 다 묻었당께. 산사람(빨치산)들도 와서 묻어주고. 냄새가 얼마나 진동했는지….”
 그해 겨울이 가고 봄이 오자 얼었던 땅이 해동되면서 시체 썩는 냄새 때문에 길을 걸을 수 없을 정도였다는 게 최 옹의 회고다. “산에서 땔나무 갈쿠리로 땅을 긁으면 뼈가 섞여 나올 정도였다”는 것.

★최소한 1500명, 이제는 풀어야…
 최 옹을 따라나섰다. 그가 기억하고 있는 학살의 현장으로 가보기로 했다. 집 맞은 편 야산을 막 오르기 시작할 무렵, 벌써 초입에 1∼2구의 시신이 묻혀 있다고 귀띔한다. 50년 전 이 길을 따라 수백 명의  민간인들이 줄줄이 엮여 죽음의 행진을 벌였을 것이 아닌가? 당시는 늦겨울, 오늘보다 더 추웠을 것이다. 산안부락 윗 능선을 타고 집단 암매장 된 장소를 찾아 걸음을 재촉했다. 40분 가량 걷자 길다란 능선에 이르렀다. 안내하던 최 옹이 발걸음을 멈췄다. 원산리와 가정리의 경계지점, 바로 이곳이다. 마을사람들은 ‘산안(리)뒷산’이라고 부르는 곳이다.
 빨치산들이 영마루를 지키기 위해 길게 전호를 파놓았는데, 군경이 오목한 이 전호속으로 민간인들을 몰아넣고 집단 학살했다는 것. 일단 파보기로 했다. 몇 군데 팔 곳을 정해 술을 따라 부은 후 일행은 묵념을 올렸다. 김영승 선생이 나직한 목소리로 말했다.
 “아직 빛을 볼 날이 멀었지만 여기 묻힌 영령들을 확인하러 왔습니다. 용서하세요.”
 낙엽을 걷어내고 10∼15㎝ 정도 흙을 파내자 쉽게 유골이 나오기 시작했다. 집단 학살한 후 흙조차 제대로 덮어주지 않았던 것이다. 해골을 비롯해 정강이뼈, 골반뼈, 척추뼈, 턱관절, 이빨 등이 그대로 나왔다. 여자 고무신, 거울, 돋보기, (은단)쇳곽, 고무줄 등도 보였다.
 촘촘한 간격으로 뼈들이 무더기 채 발굴됐다. 뼈들이 각기 다른 방향으로 마구 뒤섞여 있고 머리뼈와 정강이뼈가 붙어서 나오는 점 등을 볼 때 마구 뒤엉킨 시신들 위에 흙을 덮었던 것으로 보인다. 사람들을 집단으로 몰아넣고 학살했다는 증거다.
 유골들 사이에서 M1탄피들도 함께 나왔다. 위에서 아래를 향해 근접사격을 가했던 것으로 추측됐다. 파면 팔수록 유골들이 끝없이 쏟아져 나왔다. 김영승 선생은 아무 말이 없었다. 곁에서 물끄러미 발굴 현장을 지켜보던 최 옹이 연신 담배를 입으로 가져가면서 불쑥 한마디했다.
 “아무 죄도 없는 사람들이여. 여기 있는 사람덜은…. 줄줄이 묶여 끌려와 당한 것이여. 동리 나이 든 사람들은 다 알 것이구먼.”
 불과 1평도 못되는 곳에서 정강이뼈로 추정되는 것만 열 댓 개가 나왔다. 도대체 얼마나 많은 사람들이 이곳에서 죽었단 말인가? 시신들이 묻혀있는 전호의 길이는 한 100m쯤 돼 보였다. 어림잡아 1m당 5명이 묻혔다고 치더라도 100m면 500명 정도가 이 곳에 묻혔다는 얘기가 된다.
 일단 유골들을 모아놓고 간단한 제를 지냈다. 흩뿌리는 눈발 속에서 삽시간에 발굴한 유골더미를 아무말없이 바라보고 있는데 어디선가 산까치들이 끼익끼익 구슬프게 울어댔다. 어느새 김영승 선생의 눈가에 이슬이 어려 있다. 반세기동안 가슴속 깊은 곳에 담아두었던 응어리가 북받쳐 오르는 것일까.
지금 심정이 어떠세요?
 “출소한 지 12년만에 당시 격전지에서 아무 죄없이 희생당한 민간인들의 한을 풀기 위한 첫 걸음을 내디뎠다는 생각입니다. 이제부터가 시작입니다. 본격적인 조사, 발굴, 증언작업이 이뤄져야 합니다.”
 왜 이런 비극이 생겼다고 보십니까?
 “모든 게 분단 때문에 생긴 일 아닙니까? 누가 누구를 벌주자는 게 아니라 일단 진실은 밝혀져야 합니다. 아직도 피해자 가족들이 남아 있습니다. 그들에게 사죄하고 보상해 주어야 합니다. 그후에는 용서하고 화해해야겠죠. 남과 북도 화해하자고 하지 않습니까?”
자꾸 산까치들이 울어댔다.
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「少年が銃を持って山に上った理由 非転向長期囚金永昇先生が経験した解放と戦争」

2016年12月24日 | 韓国で
http://www.vop.co.kr/A00000250463.html
『민중의소리』입력 2009-04-28 수정 2009-05-19 김경환 기자
■소년이 총을 들고 산에 오른 까닭
 비전향 장기수 김영승 선생이 겪은 해방과 전쟁
 
 일제강점기에서 벗어난 우리 민족은 남과 북이 나뉜 반쪽짜리 해방을 맞았다. 남에는 미군정이 들어섰고, 북에는 소련군이 진주해있었다. 미군정은 이승만을 앞세워 남한만의 단독정부 수립을 밀어붙였다. 그 과정에서 좌우대립이 격하게 벌어졌다.
 어느 개인의 인생이든 그의 삶속에는 역사가 투영돼 있게 마련이다. 일제강점기에 태어나 해방과 분단, 전쟁을 겪었던 비전향장기수 김영승 선생의 삶도 마찬가지였다. 그가 어린 나이에 총을 들고 산에 올라 '빨치산'이 된 사연 속에 한국 근현대사의 한 단면이 고스란히 녹아있다.

★해방, 변한 것은 없었다
         【사진】'소년 빨치산'이라 불렸던 비전향 장기수 김영승 선생.
 오랜 일제강점기 시절은 나라 잃은 설움도 설움이었지만 대다수 민중에게는 혹독한 시련의 계절이기도 했다. 먹을 것 입을 것 하나 변변치 못한 채 일제에 수탈되는 것도 모자라 지주에게도 소작료를 바치고나면 그나마 가족들 입에 풀칠하기도 버거웠다.
 해방이 되면 나라를 되찾았으니 무언가 바뀐게 있어야 할 터였지만 '소년' 김영승 선생의 눈에 비친 나라꼴은 일제강점기 그대로였다. 면서기들의 행패도 그대로였고, 순경들도 일제 순사들의 패악질 그대로였다.
 선생은 1935년 8월7일, 전라남도 영광군 묘량면 삼학리 신성부락에서 7남매 중 3남으로 태어났다. 당시 선생의 아버지는 홍경호라는 이웃집 지주의 머슴살이를 20여년 하면서 10여명에 달하는 가족을 부양했다. 머슴살이 댓가로 산골짝에 10여 마지기 농토를 소작할 수 있었다. 소작을 짓는다고 해도 남는 건 거의 없었다. 관에 '공출'을 바치고 지주에게는 '선자'(미리내는 선이자. 소작료)를 내고 나면 일년 먹을 식량을 마련할 길이 없었다. 해가 짧은 겨울이면 아침밥을 해먹고 남은 식은밥을 솥에 넣고 물을 잔뜩 부은다음 끓여서 한그릇씩 먹고 견뎌야 했다.
 옷도 변변한 게 있을리 만무했다. 그당시 선생은 '광목천'은 꿈도 꿀 수 없었다. 그나마 베를 짜서 옷을 해입었지만 선생에게 새옷을 입어본 적이 없었다. 위로 형님들이 입었던 옷을 줄여서 입어야 했다. 신발은 더했다. 한국전쟁이 일어날 적까지도 고무신 한 번 신어본 적이 없었다. 짚신이나 '와라지'라고 부르던 짚으로 삼은 슬리퍼 비슷하게 생긴 신발을 신는게 전부였다.
 선생은 그나마 나은 편이었다. 끼니조차 제대로 잇지 못하는 집들이 수두룩했다.
 일제말기, 선생은 초등학교에 들어가려고 했으나 번번히 실패했다. 당시만 해도 초등학교에 들어가려면 입학시험을 치러야했다. 입학시험을 치는 날 일본인 시험관은 '요시'라며 잘쳤다고 칭찬을 아끼지 않았다. 그러나, 결과는 낙방이었다. 세번 시험을 쳤지만 결과는 달라지지 않았다. 보다못한 이웃이 "그러지 말고 선생한테 술 한 병하고 닭 한마리라도 갖다주면 되지 않겠냐"고 했지만 큰형이 "그런일은 있을 수 없다"고 거절했다.
 그때부터 초등학교를 다니겠다는 꿈은 접어야했다. 대신, 산골에 있던 서당을 다녔다. 머리가 좋았던 선생은 천자문을 비롯해서 한문을 익히고 한글도 배우게 됐다.
 "명심보감을 읽다가 해방을 맞았어. 서당 훈장이 그래도 민족적 양심을 가진 양반이었지. 그 양반 영향을 받고, 국문을 그때 다 뗄 수 있었어."

 해방되기 전 큰형이 '유언비어' 때문에 순사들에게 붙들려 감옥살이를 했다. 큰형이 '김일성 장군' 얘기를 퍼뜨린다고 누군가가 모함을 했다. 큰형은 45년 8월15일 해방을 맞이하고서야 평양감옥에서 나올 수 있었다.
 감옥에 붙들려간 큰형이 집에서 그나마 가까운 목포감옥에 수감돼 있을 때도 선생의 아버지, 어머니는 면회를 가려면 며칠동안 걸어야 했다. 끼니는 당연히 지나는 곳마다에서 얻어먹어야 했다.
 나이는 어렸지만 이 사건으로 일제에 대한 증오감은 자연스레 싹텄다.
 해방이 되자 그는 드디어 초등학교에 입학할 수 있었다. 나이 때문에 선생은 2학년으로 들어갔다.
 그런데, 해방이 됐다고 해도 일제강점기때와 사정은 별반 달라지지 않았다.
 "해방이 됐는데도 일제 때 있던 공출도 그대로 있었고, 면서기들의 행패나 순경들의 행패는 일제 때와 똑같았어. 없이 사는 사람들은 한없이 가난하고 끼니도 못 떼워서 사는 형편이었고. 우리 집보다 더 못사는 사람들이 매우 많았어."

 선생이 5학년이던 1948년 여수에 주둔하던 14연대가 제주 4.3항쟁을 진압하라는 명령을 거부하고 봉기를 일으켰다. 제주도에서는 '남한만의 단독정부 수립'을 반대하는 항쟁이 벌어지고 있었다. 여수 14연대 소속 일단의 군인들이 이 진압명령을 거부하고 총을 든 것이다. 국군과 경찰에 밀린 이들 중 30여명이 선생이 살던 마을 인근에 있던 불갑산에 근거지를 꾸리고 무장활동을 했다.
 유격대원들은 장성의 태청산과 불갑산을 왔다갔다하면서 작전을 폈다. 경찰은 유격대의 활동 통로를 차단하기 위해 '밀재'에 출장소를 지었다. 그러자, 유격대는 밀재를 피해 선생이 살던 동네로 우회해서 움직였다. 경찰은 다시 '내촌'부락에 있는 야트막한 동산에 출장소를 또 지었다.
 1949년, 선생의 의식에 결정적인 영향을 끼치는 사건이 벌어졌다. 가난하게 살던 막내 작은 아버지가 경찰이 몰던 짚차에 치어 허벅다리 뼈가 부서지는 사고를 당한 것이다. 당시 땅뙈기 하나 없던 작은 아버지는 도로가에 물내려가는 조그만 땅에 벼를 한포기씩 심어서 겨우 먹고 살았다. 그런데 하루는 돌아오는 길에 굽은 길에서 짚차에 치인 것이다. 그 차에는 영광경찰서 보안과장이 타고 있었다. 잘못은 경찰이 했는데 죄는 옴팡 작은 아버지가 뒤집어썼다. 허벅다리 뼈가 부서지도록 다치고도 아무런 보상을 받을 수가 없었다. 되려 죄인처럼 끽소리 하지 못했다.
 "그때는 경찰 앞에서 꽥 소리도 못하던 시절이었어. 우리 형님이 경찰서에 갔는데 똑똑하게 답변도 못했다고. 내가 그 장면을 보고, '아 우리 집안에 사람이 없구나. 내가 커서라도 반드시 복수해야겠다'고 결심한 거지."

 작은 아버지 사건을 겪으면서 선생은 "앞으로 정치가나 혁명가가 돼서 세상을 바꾸는 일에 앞장서자"는 결심을 굳혔다.
 "우리집은 아무리 가난하다고 해도 우리집보다 똥구녕 찢어지게 가난한 집이 많았을 뿐더러 '빽' 있는 사람들은 잘 살고 없는 사람들은 두들겨 맞고.. 이런 세상이 뒤집어지지 않으면 나도 공부를 마음대로 할 수 없겠구나하는 생각을 하게 된 거지."

 경찰이라는 존재는 사람들의 '생사여탈권'을 쥔 무소불위의 권력이었다.
 "우리 학교에 정태성이라는 담임선생이 있었는데 하루는 이 담임이 지서 경찰과 술을 먹다가 의견이 삐걱댔어. 그러니까 경찰이 담임을 '빨갱이'로 몰아서 총살을 시킨 거야. 경찰은 그 시체를 도로가에 멍석 한 장 덮어놓고 전시했어. 오죽했으면 가족들이 6.25가 날 때까지 시체도 못찾아갔어."

 경찰이든 기동대든, 서북청년단이든 툭하면 마음에 안드는 사람들을 '빨갱이'로 몰아서 죽였다. 사람들은 살기 위해 숨죽일 수밖에 없었다.

★"'빨갱이'로 몰리면 죽는 거지"
 그해는 한국전쟁이 발발하기 전이었다. 그런데 그때부터 이승만 정권은 마을 청년들을 남녀 가릴 것없이 동원해 매일같이 '죽창훈련'을 시켰다. 전쟁연습에 동원한 것이다. 선생이 살던 마을에서도 17세부터 45세까지 처녀들과 부녀자들을 총동원해서 죽창훈련을 시켰다. 청년들도 '대한청년단'이라면서 훈련을 시켰다. 훈련을 감독한 경찰들은 면단위로 사람들을 모아 소대,중대,대대로 편성했다. 마침, 농번기였지만 젊은 사람은 모두 죽창훈련에 동원되다보니 정작 농사를 지을 사람이 없을 지경이었다.
 유격대의 이동통로를 차단하기 위해 지은 '밀재'출장소에서 매일같이 순경들이 아침 9시면 버스를 타고 내려와서는 동네 옆 산삼부락에 있는 산삼초등학교(묘량면 분교)에서 훈련을 시켰다.
 그러다가 이 정보가 빨치산 유격대에 흘러들어갔다. 빨치산 유격대는 태청산에서 연정대 골짜기를 타고 내려와 연암리에 있는 다리 근처에 매복하고 있다가 경찰들이 탄 버스를 습격했다. 버스에 타고 있던 7명의 경찰 가운데 6명이 죽었다. 버스를 습격한 빨치산 유격대는 다시 불갑산으로 후퇴했다.
 얼마후 현장에 출동한 영광 경찰기동대가 유격대를 쫓아 불갑산으로 몰려갔다. 이게 화근이었다. 불갑산에서 숯돌을 캐던 선생의 아버지가 경찰기동대에 붙잡힌 것이다.
 "당시 우리 아버님이 없이 살다보니까 산에서 숯돌을 캤어. 숯돌을 캐서는 장날에 짊어지고 가서 팔고, 식량 한되라도 얻어서 식구들을 먹여살린 거야. 그런데, 경찰이 불갑산을 올라가다 보니까 굴 안에 어떤 영감이 한 명 있거든. 나오라고 해서는 '경찰기동대 버스 정보를 네가 제공한 것 아니냐'면서 안죽을만큼 두들겨팬 거야. 총소리가 날 때 나와서 동네로 돌아왔으면 됐는데 무서워서 동굴안에 있다가 잡힌 거지."

 아버지는 순식간에 '밀고자'가 되어 총살에 처해질 위기에 몰렸다. 경찰들이 아버지의 몸을 묶고 두 눈을 수건으로 가렸다. 총살을 하려던 찰나, 밀재출장소 주임이 나타났다. 밀재출장소 주임이 '누군지 얼굴이나 보게 수건을 내려보라'고 했다. 천만다행이었다. 밀재출장소를 지을 당시 부역에 동원됐던 아버지를 주임은 기억하고 있었다.
 "주임이 아버지를 아니까 '이 영감은 이럴 사람이 아니다. 내가 잘 안다'고 해서 살아난 거야. 아주 두드려 맞아서 담가에 싣고 연암리 도로가 주막에 모셔놓고 통지를 했어. 가서 보니까 초죽음이 됐어. 약도 없고 아무것도 없지. 동네에 있는 똥간에 가서 '얼'을 푼다고 휘휘 저어서 똥물을 먹여서 겨우 살렸어."

 그해 가을부터는 선생이 다니던 삼학초등학교에 광주20연대가 주둔했다. 광주20연대는 매일같이 빨치산 토벌작전에 동원됐다. 그런데 그게 마을 사람들에게는 또하나의 고역이었다.
 "그때 당시 토벌대에 동원된 사람들 식사대접을 동네에 배당했어. 밥을 스무상 만들어라, 닭을 몇마리 잡아라, 돼지를 몇 마리 잡아라 그러면 자기네는 못먹고 굶더라도 그걸 만들어서 내다 바쳐야되는 거야."

 밤이 되면 빨치산 유격대원들이 '식량'을 구하기 위해 마을로 내려왔다. 밥을 안해 줄 수가 없어서 밥을 해주면 그걸 밀고하는 사람들이 꼭 있었다. 그 이튿날 마을로 달려온 경찰들은 온동네 사람들을 모두 들판에 내몰고는 사정없이 두들겨팼다. 실컷 두들겨 팬 다음엔 움직일 힘조차 없는 젊은이들을 따로 구르마에 싣고서 지서에 싣고 갔다. 끌려간 젊은이들은 2~3일이 지나서야 초죽음이 된 몰골로 돌아왔다.
 이런 일도 있었다. 선생의 이웃집에 살던 19살난 김영아라는 청년이 입산을 했다가 불갑산 용천사골에서 토벌대로부터 기습을 당하고 선생이 살던 동네로 두 명이 피신했다. 새벽녘 동네를 향해 경찰들의 기총소사가 계속됐다. 숨죽여 바짝 엎드려있다 아침이 되자 경찰과 군인들이 몰려왔다. 토벌대는 이웃집 지주 홍경호 댁 마당에 온동네 사람들을 모아놓고 가족별로 앉으라고 했다. 김영아라는 청년은 빨치산 생활로 햇빛을 제대로 못봐서 얼굴빛이 유난히 희었다. 그 청년은 차마 자기 가족과 함께 있지 못하고 지주 홍경호 댁 머슴이라며 그쪽에 앉아있다가 빨치산이라는 사실을 들켜 체포됐다. 그뒤 그는 토벌대에 끌려다니면서 토벌작전의 '앞잡이'를 해야 했다. 그 청년은 어느날 밤 어디론가 도망을 쳤고, 그 이튿날 마을에 들이닥친 경찰기동대는 그 청년의 가족을 마당에 모아놓고 마구 두들겨팼다.
 그때즈음 경찰이 마을을 수색하다 선생의 집 헛간에 쌓인 재 속에서 수류탄 한 발과 단도를 발견했다. 김영아라는 청년과 함께 마을로 피신했던 빨치산 유격대원이 숨겨둔 것이었다. 그 사실을 알리 없는 선생의 아버지와 형들은 실컷 두들겨 맞을 수 밖에 없었다.

★소년이 총을 들고 '빨치산'이 된 이유
 선생이 초등학교를 졸업하고 영광중학교에 입학한 뒤 얼마 지나지 않은 1950년 6월 전쟁이 터졌다. 전쟁이 난 지 한 달이 채 못된 그해 7월22일, 담양에 주둔하던 경찰기동대가 인민군에 밀려 미처 후퇴를 못하고 선생의 고향 마을 인근 삼학출장소에 모여들었다. 인민군 척후병 두명이 경찰기동대에 투항을 요구했다 사살당했다. 그러자, 그날밤 인민군이 쏜 로켓포로 마을은 불바다가 됐다.
 빨치산 유격대의 연락을 받고 미리 전투가 벌어질 것을 알고 있던 마을 주민들은 피난을 가기 위해 짐을 쌌다가 조명탄이 터지고 로켓포가 터지는 상황에 어찌 할 바를 모르고 숨어있었다.
 "우리는 전투 날 것을 알고 도망갈 준비를 하고 있었는데 조명탄 터지고 그러니까 아궁이에 숨은 사람도 있고, 뒷산에 올라간 사람도 있고 그랬지. 그때 나는 작은형님이랑 불갑산 꼭대기까지 올라갔어. 날이 밝은 뒤에 보니까 마을 곳곳에서 연기가 나고 인민군대가 구르마에 대포를 끌고 진주해 있더라고."

 인민군이 진주한 뒤 두 달간의 상황은 이전과 크게 달랐다. 수시로 마을주민들의 목숨을 앗아가던 경찰기동대와 달리 인민군은 사람을 해치지 않았다고 했다. '반동'들은 내무서에 구치했지만 개별적으로 사살하지 않았다.
 인민군은 심사를 통해 옛날부터 활동하던 사람들은 '구당원'으로, 새로운 사람들은 '신입당원'으로 받아들였다. 군과 면, 리 등 행정구역 단위로 당이 건설됐다. 선생은 면에서 소년단장을 맡았다. '민청'의 지시를 받던 소년단은 노래보급과 함께 궐기대회를 열기도 했다.
 마을별로는 '치안대'가 조직됐다. 인민군에 패해 불갑산에 숨어있던 국군,경찰 패잔병들이 밤이 되면 무장을 하고 마을로 내려왔다. 이들은 식량을 빼앗고는 마을주민들까지 죽이고는 했다. 치안대는 이들로 부터 스스로를 지키기 위해 만들어졌다.
 평온했던 시절도 두어달에 그쳤다. 유엔군이 한국전쟁에 참전하면서 전세는 뒤바뀌었다. 인민군은 후퇴를 해야 했다. 날마다 미군 비행기가 하늘을 날아다니면서 폭격을 해댔다.
 "왜 입산을 했냐고? 소위 미군을 '침략군'이라고 했어. 그 사람들이 들어온 데마다 살인,방화,강간, 약탈 이 네가지는 안하는 데가 없었어. 그것(미군)만 걸렸다하면 여자들은 씨도 안남았어. 그렇게 집단학살도 일어나고, 부락에 있다간 다 죽을판이니 동네사람들이 다 입산한 거지."

 피난민들이 몰려든 태청산은 장성군당, 무안군당, 면당부(면단위 당조직) 뿐만 아니라 피난민으로 바글거렸다. 매일같이 전투가 벌어졌다. 지형상 오래 버틸 수 없다고 판단한 면당부에선 입산한 피난민들에게 '산에 있으면 죽는다, 부락으로 내려가라'고 설득했다. 그때 선생은 산에 남았다.
 "우리 집과 동네사람들도 부락에 내려갔는데 나는 남아 있었어. 그러니까 면당 위원장이 나보고 '나이가 어리니까 학교 다니는 것이 어떠냐'고 했어. 나는 '안내려간다, 동지들하고 죽으면 죽고 같이 싸우겠다'고 했어."

 그뒤 선생은 '소년 빨치산'이 됐다.
 1954년 2월 선생은 전투중 세 발의 총알을 맞고 견갑골이 부러졌다. 붙잡힌 빨치산들은 남원 뒷산을 깎아 만든 수용소에 수용됐다. 2백여명이 되는 빨치산들이 거기에 포로로 있었다.
 재판에 회부된 선생은 빨치산 3중대 부중대장을 지냈던 김원섭이라는 이의 '밀고' 때문에 사형언도를 받았다. 54년 9월10일 선생은 무기징역으로 형이 확정됐다. 이때 사형이 확정된 12명은 54년 12월24일에 총살을 당했다.
 감옥살이도 투쟁의 연속이었다. 1973년 4월28일 선생은 만기출소가 예정돼 있었으나 전향을 안했다는 이유로 깡패들에게 구타를 당했다. 그 사건으로 오히려 그에게 '반공법'이 적용됐고, 다시 2년을 더 옥살이를 해야했다. 다시 만기가 되자 이번엔 '사회안전법'으로 감호처분을 받고 청주보안감호소로 끌려갔다. 그와 함께 감호처분을 받은 이가 150여명 가량 됐다. 그중 10여명은 옥안에서 숨졌다. 1988년 올림픽이 치러지던 해부터 노인과 환자들이 한두명씩 풀려났다. 서준식씨가 청주보안감호소를 나와 세상에 '장기수'들의 존재를 알린 것도 이때쯤이다. 여소야대 정국을 이룬 1989년에야 사회안전법이 철폐되면서 선생은 감옥 밖의 세상을 만날 수 있었다.
 "감옥에서 36년 살았는데, 어렸을 때 생각이나 지금 생각이나 본질적으로 변한게 하나도 없어. 지금도 어릴 때 생각이 옳다고 봐. 거기에 자부심을 갖고 있어."

 선생은 '민족적 관점'으로 살아야 한다고 강조했다.
 "옳은 것이기 때문에 ‘민족적 관점’으로 살아야 돼. 민족적 관점을 갖고 6.15선언과 10.4선언에 입각해서 남과 북이 하나돼서 통일 이루는 방향으로 가야 된다는게 소신이야. 이 땅의 외세를 철저히 배격하고, '우리민족끼리'라는 이념을 갖고 끝까지 살아야 한다는 일념으로 살고 있는 거지."
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「わたしはわたしである わたしはなぜ、パルチザンになったか」 2

2016年12月23日 | 韓国で
■わたしはわたしである わたしはなぜ、パルチザンになったか

                               金永昇

(6)軍警の無慈悲な弾圧と虐殺は憎しみと怒りを湧きあがらせた
 わたしの父は春窮期を無事に超すために、山で砥石にする石を掘って磨いて、市で売って‘糊口之策’を維持していた。
 そのころ、밀재出張所にいた機動隊7人が、戦争準備のために、三鶴里산산学校運動場で毎日女性たちに竹槍訓練をさせていた。
 機動隊が毎日光州から霊光邑に来るバスに乗ってくるのを知って、パルチサンたちは道路角の연암橋で待ち伏せしてバスを転覆させ、警察6人を射殺した後、佛甲山に後退した。1人は負傷したまま生還した。その後一人だけ生き残ったと銃殺されたという話も聞いた。
 何時間か後、霊光の機動隊が出動し、追撃する中、父は外から聞こえる銃声に驚いて砥石を掘った穴にうずくまっていたところを見つかった。
 機動隊は、父がパルチサンが待ち伏せ攻撃をする道案内をしたと言い張り、死ぬほど殴ったあと白状しないといってタオルで目かくしをして森の中に引っ張っていき銃殺しようとした。
 ちょうど밀재出張所長がそれを見て、どんな人間かみてみようとタオルをとったとき、“この人はそのような人でない。밀재出張所が石垣を積むときも仕事をした人で、ここで長い間砥石にする石を掘っている人だ。 銃殺してはいけない“といった。父は生き残った。
 このことを伝え聞いたわたしたちの家族は惨憺たる思いを押えることができなかった。
 まず担架を作って父を家に運んだ。殴られた傷を治すため、当時農村で治療法とされていた人糞をろ過して飲みながら、数か月を患った。当時青年たちはある青鉛団を作って竹槍訓練をさせるような状況であった。

(7)討伐の時の横暴
 その後、村の青年たちがパルチサンとなって入山した。
 1949年秋、パルチザンは佛甲山の龍泉(ヨンチョン)寺で討伐隊の奇襲にあい、村の金ヨンハという青年が山を越えて村に入ってきた。これを追撃してきた討伐隊は、村の裏山を完全包囲し、夜が明けるとともに各種重火器で集中射撃を加えながら村に押し入ってきた。討伐隊が一軒づつまわり、洪家の庭に集結せよとの命令を伝え、村の人たちはわけも分からないまま出て行った。
 討伐隊は一軒づつ捜索する過程で、わたしの家の納屋の灰の中から軍服と短刀、手榴弾を探し出し、長兄に、隠したことを正直に言えといって、死ぬほどなぐりつけた。この光景を目撃し、幼な心に火(천불)が出るほど(煮えたぎる)怒りが込み上げてきた。その服は隣家の金ヨンハの服だった。
 当時、わが家の納屋の灰の中に服を埋め、農民が着るパジチョコリを着て牛のまぐさ籠と鎌を持って、変装した姿で集合場所に出てきたとはまったく知らなかった。結局金ヨンハは逮捕されてしまった。
 集結した村の人たちのうち、青年たちはひどく殴られ、車やリヤカーで、支署留置場に運ばれ一週間程度留置されたあと、解放された。このようなことは一度や二度ではなかった。
 こうした弾圧はことばで言い尽くすことができないほど、多い。このことはわたしを社会改造運動に立ち上がらせた。

(8)叔父の惨状を見て
 1948年の秋、下の叔父が警察署保安課長が乗ったジープに轢かれ、太ももの骨がつぶれる重傷を負った。 この話を伝え聞いた長兄が話をつけに行ったが、臆して一言も発することができないのを見て、わが家に人がいないと切に感じ、早くおとなになり、かならず復讐しようと二つのこぶしをぎゅっと握って誓った。
 結局叔父は障害者になり、補償は当時アール・ラン米(輸入米)5升程度をもらっただけだった。当時は警察弾圧の恐怖のもと、ただ震えている状態だった。

(9)学校の教師にたいする支署巡査の虐殺蛮行を見て
 1950年6月初め、わたしが通っていた学校の体育担当チョン・ビョンテ先生が支署の巡査と居酒屋で酒を飲んで言い争いになったあげく、“赤だ”とその場で撃ち殺された。
 遺体はかますで覆われて支署の前の道路に置かれた。家族は遺体を家に連れていくことができなかった。夏だったので、道路周辺を通りすぎるとき腐った臭いが強烈だったが、結局7月23日、人民軍によって解放をむかえてはじめて遺体が収容された。この光景を見て、当時、警察軍隊の虐殺蛮行に歯がみをした。

(10)ようやく解放の世で
 1950年7月23日、人民軍によって解放され、わたしたちの世を迎えた故郷は、苦痛を受け弾圧された世紀の風がようやく成就したと思えた。
 農民は土地を無償で分配され、女たちは男と平等の権利をもつことになり、貧しさのために学ぶことができなかった子どもや少年も学びの道がはじめて開かれることになったという喜びで、新しい社会建設に一つの心一つの志で動員されていった。こうして、わたしは少年団活動と里党細胞委員会(行政単位の里にできた組織)で面党部(行政単位の面にできた組織)と連絡事業を熱心にする過程で9.28後退(註)をむかえることになった。

【訳者註】1950年9月15日、韓国軍と国連軍が仁川に上陸し、6月28日から人民軍の支配下にあったソウルに9月28日に入った。人民軍は後退を始めた。

(11)9.28後退後、入山してパルチサンになった
 9.28後退後、米軍をはじめとするいわゆる国連軍は侵攻して占領する場所ごとに、殺人、強姦、略奪、放火などをおこなった。
 隠れていた右翼勢力が立ち現われ牛耳っている状況で、家族は村の人たちといっしょに入山した。
 結局わたしは下山しないで残り、4年余りのパルチサン闘争の中で、地雷50か所にあたり、最後には銃3発にあたって重傷を負って捕虜となり、死刑、無期、反共法2年、社会安全法13年、合計35年9か月を服役して非転向者として出獄して、今日も変わりなく汎民族統一運動のイバラの道の中で残った人生を捧げているところだ。
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「わたしはわたしである わたしはなぜ、パルチザンになったか」 1

2016年12月22日 | 韓国で
■わたしはわたしである わたしはなぜ、パルチザンになったか

                               金永昇
(1)故郷の春
 わたしは1935年8月7日、全羅南道霊光郡畝良面三鶴里신성村235番地で、7人兄弟姉妹の3男として生まれた。
 故郷の村はパルチサン闘争の戦跡地の一つ、佛甲山(불갑산。プルガプサン)の霊峰にそって伸びた안개봉우리(霧が峰)のふもとにあるこぢんまりした村だった。
 村の入り口には、村の安全と平和を見守る守護神のように、今も堂山木(神木)が枯れ木となってそびえている。
 村には16世帯が住んでいた。
 村には20人余りの青年がいたが、ほとんどが無学者であった。 これは社会が産んだ貧困の結果であった。
 村には、富裕な土地持ちである洪一家が地主として住んでいた。わたしの父は、地主の洪一家のもとで、20年余り作男暮らしをして得た10余マヂギ마지기(訳注:2千坪余り)の小作地を耕して生きてきた、貧農であった。
 わたしの家族は10人余の大家族だった。そのため、一年間農作業をしても、春窮期をやりすごすには、ことばでは語れない苦難を体験しなければならなかった。このような貧しい生活環境の中で、わたしは幼年期を送った。
 学校は5年間しか通えず、書堂に3年通った。 この間、1950年6月に戦争が起き、7月23日ころに、大田の攻防戦で大韓民国軍が朝鮮民主主義人民共和国人民軍に敗北し、人民軍が西海岸を南下していた。

(2)反日意識が芽生えた契機
 日帝末期の10才の時、長兄が流言飛語に問われ日本の警察に逮捕された。
 長兄は、警察支署、警察署、木浦監獄、大邱監獄、最後には平壌(ピョンヤン)監獄で8.15解放を迎えて出獄することができた。
 長兄の逮捕・投獄によって、日本人にたいする憎悪心がうまれた。
 この憎悪心が解放後もそのまま引き継がれた。 解放後の政局はアメリカの占領統治のもと、日本の植民地時代となんら違うところがなかった。

(3)パルチサンとの接触
 解放後の政局で、村の青年たちが左翼運動に立ち上がり、自然と青年たちの影響を受けるようになった。そのようななかで、1948年の麗水14連隊の烽起後、佛甲山にも30人余りの武装部隊が49年末まで活動していた。この武装部隊はときどき村に降りてきて食事を用意させた。感受性が鋭敏な年ごろのわたしにとって、かれらとの接触はあまりにも自然なことだった。

【訳者註】麗水14連隊の烽起:1948年10月19日、全羅南道麗水郡駐屯の国防警備隊第14連隊が、済州島で の4・3烽起鎮圧のための出動命令を拒否して烽起した。
 順天郡に駐留していた第14連隊の部隊も合流し、烽起軍の活動地域は周辺に拡大していったが、27日に政府軍に鎮圧された。この後、烽起軍に協力したとみなされた住民は正式な裁判もなく連行され、殺害された。その数は、数千人とされる。烽起軍のなかには智異山に入り、パルチザン活動をした人たちもいた。
    
(4)パルチサン隊長との約束
 わが家でもパルチサン隊長の食事を用意したことから、自然と影響を受けることになった。
 あるときパルチサン隊長に、パルチサンになりたいというと、‟君はまだ幼いから一生懸命勉強して、将来わたしたちの後をつぎなさい”といわれた。そうすると誓った記憶がまだなまなましい。そのとき、姉が接触していて、姉の影響で、手伝いもした。銃の撃ち方をそのとき習った。

(5)村の青少年少女に文字を教えた
 村の子どもたちは、貧しさのために学校に入ることができず、いくつかの家庭を除いては家族に文字を知っている人はいなかった。
 わたしは書堂に通い、知識の豊かな先生から国文を体得したので、村の夜学の先生となって、国文と数学(足し算、引き算、掛け算)などを、学校にかようことができなかった青少年少女たちに教え、文字を読み書きできるようにするのに寄与した。そして夜学を通じて村の青年たちから赤旗の歌、農民歌を習った。
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