三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

熊野市への抗議要請文つづきー紀州鉱山について

2006年02月28日 | 紀州鉱山
紀州鉱山について

紀州鉱山の真実を明らかにする会は、紀州鉱山への朝鮮人強制連行の事実などを明らかにするために、朝鮮人と日本人が1997年2月に結成した民衆組織です。
紀和町での聞き取り調査、および植民地朝鮮から強制連行された人たちからの聞き取りによって、アジア太平洋戦争中に、紀州鉱山で1000名を越える朝鮮人が強制連行されており、そのうち20名近い朝鮮人が紀州鉱山で死亡しているという事実が明らかになりました。
 この調査を踏まえて、会は1998年4月1日に紀和町と教育委員会に対してつぎのような要請をおこないました。
 一 紀和町と紀和町教育委員会は、紀州鉱山への朝鮮人強制連行の歴史的事実を早急に調査し、『紀和町史』にその事実を明記すること。
 二 紀和町鉱山資料館には、紀州鉱山への朝鮮人強制連行に関する事実を示す展示がない。紀和町と紀和町教育委員会は、紀和町鉱山資料館に紀州鉱山への朝鮮人強制連行に関する資料・文書を展示すること。
 三 紀和町と紀和町教育委員会は、紀州鉱山への朝鮮人強制連行に関する資料を探索し開示すること。
 四 紀和町と紀和町教育委員会は、紀州鉱山に強制連行され亡くなった朝鮮人の追悼碑を建立し、定期的に追悼式をおこない、また追悼碑の維持・管理に責任をもつこと。
また、追悼式に、遺族および紀州鉱山に強制連行された朝鮮人の参加を保証すること。

 この要望に基づき紀和町との話し合いがおこなわれ、紀和町は次の点を約束しました。
 一については、紀和町は歴史的事実の調査の必要性を認めて、当時の久保幸一教育長はご自分で関連資料をファイルし資料収集作業を進められました。
『紀和町史』における朝鮮人強制連行の記述の書き直しについては合意を得られていませんが、現行の記述がきわめて不十分なものであることは紀和町も認めています。
 二について、紀和町は鉱山資料館に朝鮮人の強制連行に関する資料の展示に同意し、会のほうで石原産業が内務省に提出した朝鮮人の名簿、会の調査資料集、韓国のテレビ局(安東文化放送)が1998年に制作したドキュメンタリー『紀伊半島に隠された真実』(紀州鉱山の真実を明らかにする会協力)などを提供しました。すでにこれらの資料は鉱山資料館に展示されています。
しかし、紀州鉱山への朝鮮人強制連行に関して、わたしたちの会が作成した解説文を送ったにもかかわらず、いまだに鉱山資料館に掲示されていませんので、早急に掲示していただくよう要望いたします。

 三については、紀和町から
「石原紀州鉱山、三重県町、県史編纂室などに出向いて資料収集に努めたが、入手できなかった。今後とも努力していきたい。強制連行についての事実確認はそちらでやっていただきたい。また資料、情報等があれば提供していただきたい」(2002年1月29日付)という旨の回答をいただいています。
みずから調査をするという約束をしておきながら、「調査はそちらでやっていただきたい」という回答がどうしてできるのか理解できません。
当時の紀州鉱山で就労経験のある人に聞き取り調査をすることは、紀和町としてすぐにでもできることであり、すべきことです。この調査について再度要望します。
 四については、追悼式を紀和町としてやることはできない、と回答しています。
しかし、紀州鉱山に捕虜として強制連行され死亡した16人のイギリス人については、紀和町は1987年に町の指定文化財「史跡 外人墓地」としています。
また「紀南国際交流会」が主催して「慰霊祭」を開催しています。朝鮮人の強制労働による犠牲者についても、紀和町はどうして碑の建立や追悼式をすることができないのでしょうか。
  わたしたちは紀和町とのこれまでの話し合いの経過を踏まえて、上記の四つの質問をあらためて熊野市に対して行います。
         *           *           *
 「木本事件」における朝鮮人虐殺と紀州鉱山における朝鮮人の強制労働は、近代日本によるアジア植民地支配の歴史の一環として熊野地域に起きたもので、その歴史的事実を明らかにし、未来に向けて教訓化することは、当該地域の行政機関である熊野市に課せられた責務であると考えます。当時の存命者がしだいに少なくなっていく中で、事実の調査を早急に進める必要があります。


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熊野市への公開抗議要請 

2006年02月27日 | 木本事件
私たちの会では、これまで熊野市と行政交渉や文書での熊野市への質問、抗議要請を行ってきました。
2005年12月からの「抗議要請」について、公開で行うこととしました。
下記が私たちの会から熊野市への「公開抗議要請文」です。

2005年12月3日

熊野市長    河上敢二 殿
熊野市教育長  鈴木昶三 殿

三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・?相度)の追悼碑を建立する会
紀州鉱山の真実を明らかにする会
12回目の追悼集会の参加者一同

公 開 抗 議 要 請

 2005年12月4日、わたしたちは1994年11月に李基允氏と?相度氏の追悼碑を建立して以来12回目の追悼集会を追悼碑の前で催しました。
この追悼集会に参加した全員、および三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・ペ相度)の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会の連名で、抗議要請文を公開で送ります。

 また昨年11月に熊野市と紀和町が合併しました。そのため、これまで紀和町に申し入れていた問題についても、この抗議要請文に加えさせていただきます。
 わたしたちの会は1989年に「木本事件」についての調査活動を始めましたが、その頃、この「事件」に関して熊野市で発表されていたものは、『木本小学校百年誌』、『奥熊野百年誌』、『熊野市史』、『ふるさと物語』における事件の記述にかぎられていました。これらの記述は、お二人を殺害した住民の行動を弁明し正当化する姿勢に貫かれていました。

わたしたちが運動を始める前には、熊野市においては、『熊野市史』などにおける「事件」の記述について、何の疑念も抱かれず、それらが当然のものとみなされ放置されていました。
また、極楽寺には、お二人の「墓石」が残されていましたが、わたしたちが調査をはじめたころには、階段状の無縁墓地の上部に離ればなれに置かれ、容易に見ることができなくなっていました。この「墓石」にはお二人の本名は刻まれておらず、お二人の日本名と「鮮人」という蔑称と四文字の差別戒名が刻まれていました。
 わたしたちはこの「墓石」と『熊野市史』などの記述に疑問を投げかけるところから運動をはじめました。
1994年秋、わたしたちは、生きてふたたび朝鮮の故郷に帰ることのできなかったお二人の無念の心をわずかでもなぐさめ、熊野市民による朝鮮人労働者虐殺の歴史的原因と責任をあきらかにするための第一歩として、追悼碑を木本トンネル前に建立しました。
 碑の建立運動は、それに呼応しようとするさまざまな動きを呼び起こしました。
三重県は『三重県史』の新たな編纂に当たって、社会運動編において「事件」に関する資料を収録しました。
 また大阪の人権博物館(リバティおおさか)では、極楽寺にあるおふたりの「墓石」を、日本社会の朝鮮人差別を物語るものとして展示し、さらに1999年には、企画展《木本事件-熊野から朝鮮人虐殺を問う》を開催しました。その後、人権博物館は展示施設改造のため休館し、昨年12月5日にリニューアル・オープンしましたが、「在日コリアン」のコーナーを充実させ、そのコーナーに「墓石」が説明文とともに再展示されています。
 また1996年に設立された三重県人権センターも、やはり「木本事件」に関する写真パネルを人権コーナーに展示しています。
 また三重県内のいくつかの図書館(県立図書館、名張市図書館など)や和歌山県の新宮図書館などは、わたしたちが収集した事件に関する資料一式をまとめて購入し、県民がいつでも閲覧できるようにしています。
 また地元の熊野市では、追悼碑が建立されて以降、自発的に碑の付近の草をむしり、花を捧げて下さる住民の方もおられます。
 また極楽寺の現在のご住職は、差別戒名が刻まれている「墓石」があることに大変心を痛められ、2000年に、ご自分の手でおふたりの本名を刻んだ墓石を境内に建てられました。
 四日市の小学校の教師は、この「事件」を人権教育の教材としてとりあげ、みずから教材を作成して、授業で生徒と対話しました。
 2004年9月には東大阪市立太平寺夜間中学校の生徒さんたちが、わたしたちの会の案内で追悼碑を訪れ、「木本事件」について熱心な学習に取り組んでくれました。
 熊野市はこのようなさまざまな試みをどのように受けとめているのでしょうか。事件を「あってはならぬこと」としながら、事件を二度と引き起こさないために、一体どのような努力をされてきたのでしょうか。わたしたちは、熊野市が行政の当事者としてこの事件に深く責任を負うものであると考えます。
 地元住民が朝鮮人をふくむトンネル工事の労働者を襲撃し虐殺したことを「誠に素朴な愛町心の発露」として正当化する記述が『熊野市史』の中でいまもなおそのままに放置されています。わたしたちが15年間にわたって、記述の訂正を要求し続けてきたにもかかわらず、貴職は、それを一貫して拒み、話し合いにも応じようとしません。
 昨年1月27日に貴職から回答をいただきましたが、「協議の余地なし」という回答は、「木本事件」に対して熊野市はどう対応すべきか、という当会の質問に対する回答にはなっておりません。したがって、再度以下の要望と質問をいたします。
1 『熊野市史』の事件に関する記述を、文言の部分的な削除ではなく、全面的に書き換えることを要求します。
2 遺族に対する熊野市の公式の謝罪を要求します。
3 熊野市はこのような事件を二度とおこさないようにするために、どのようなことをなさろうと考えているのでしょうか。
4 熊野市が追悼碑の建立予算として計上した200万円弱をなぜ執行せずに市の財政にもどしたのでしょうか。
5 事件を歴史教材としてとりあげることについて、「教育委員会として一律的に取り上げる意志はありません」と答えておられますが、「一律的に」ではなく、どのような取り上げ方をするつもりなのでしょうか。三重県では、実際に小学校の歴史の教材として「木本事件」ととりあげ授業をおこなった教員もいます。具体的に地元の学校教育で事件を取り上げることがどのようにして可能であるのかをお答えください。
6 新屋英子さんのカンパの扱いについてですが、新屋さんが「何か慰霊のために役立ててほしい」と言われたのは、わたしたちの会に対してではなく、熊野市に対して言われているのです。
わたしたちの会が新屋さんのカンパ金を使うことは新屋さんの意志ではありません。そのことを貴職はどうお考えになるのでしょうか。昨年1月の回答はこの質問に答えておりません。「会が受け取らなければ新屋さんに返す」という回答は熊野市の責任を放棄するものです。熊野市の誠意ある回答を要望します。



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「戦場における死」映画上映とディスカッション『日本が占領した海南島で―60年前は昨日のこと―』

2006年02月26日 | 集会
戦場における死
~その責任をめぐって~
『日本が占領した海南島で―60年前は昨日のこと―』
映画上映とディスカッション

【趣旨】九条改悪を軸とした憲法改悪への流れは、昨年の総選挙での自民党圧勝や民主党の「改憲容認」の方向性でますます強まっています。私たち「テロリストは誰?九条の会」は、設立1周年を迎え、九条改悪阻止の一点で連帯する各地の「九条の会」の取組みに連携しながら、過去の侵略と今日の自衛隊派兵という事実を踏まえ、形骸化している九条を“鍛え直す”観点で本集会を開催します。
 本集会では、?『日本が占領した海南島で―60年前は昨日のこと―』を上映し、映画を制作され、「日本軍隊性奴隷」となった女性達の日本政府への訴訟を支援するキムチョンミさんをお招きし、いまだ日本国家と日本人自身によって明らかにしていない侵略と虐殺の事実を見つめ直し、「日本人の平和」に狭められた「平和運動」の意味を問い直します。?今日の高まるナショナリズムに随伴して、新たに市民社会が戦争を支える体制に雪崩れ込んでいる実態について、靖国解体企画の山口素明さんと現代企画室の太田昌国さんより報告をいただきます。?そして「戦場における死」が、公務として賞賛される死と自己責任として蔑まれる死と二分される現在、私たちはどのような立場で「反戦平和」「九条改悪阻止」を進めてゆくのか、参加される皆さんとともに考えてゆきます。


【主催】テロリストは誰?九条の会 【共催】現代企画室 【賛同】靖国解体企画
【日時】2006年3月4日(土)14:00-17:00
【場所】東京労働会館7Fラパスホール(参加費1000円)
豊島区南大塚2-33-10(JR大塚駅、丸の内線新大塚駅、徒歩7分) 
【映画】『日本が占領した海南島で―60年前は昨日のこと―』
    『8月15日事件の記録映像』(予定)
【報告】キムチョンミさん 1949年大阪生まれ。『中国東北部における
       抗日朝鮮・中国民衆史序説』(現代企画室、1992)、『水平運動史研究―民族差別批判』(同、1992)、『故郷の世界史―解放のインターナショナリズムへ』(同、1996)山口素明さん 1966年東京生まれ。予備校講師。靖国解体企画。
『公務死を加速させる栄典制度の改革を許すな』(情況別冊特集「反派兵」2004.1月)、『バックパックの青年の殺害によって何が殺されようとしているのか』(インパクション、144号)太田昌国さん 1943年北海道生まれ。現代企画室・編集長。『「ペルー人質事件」解読のための21章』(現代企画室、1997)、『ゲバラを脱神話化する』(同、2000)、『「拉致」異論―あふれ出る「日本人の物語」から離れて』(太田出版、2003)『「国家と戦争」異説―戦時体制下の省察』(現代企画室、2004)、他。★ 映画『日本が占領した海南島で―60年前は昨日のこと―』(65分)1939年2月、天皇ヒロヒトが「裁下」し、日本軍が海南島に奇襲上陸しました。それから1945年8月まで、6年半。村を襲撃された海南島住民、植民地朝鮮の監獄から海南島へ連行され殺された「朝鮮報国隊」の人たち、アジアの各地から連行され酷使された人たち、「日本軍隊性奴隷」とされた人たちにとって、60年前の日本政府・日本軍・日本企業による虐殺・暴行・略奪・人権侵害・日本「文化」強制は、昨日のことです。アジア太平洋の民衆にとって、日本の侵略の時代は、反日・抗日闘争の時代でした。その時代は、全世界規模で、まだ、終わっていません。(DVD解説文より)
★「8月15日事件」とは?
2005年8月15日、靖国神社でおこなう軍国主義者による黙祷に反対し、戦争と軍国主義に反対するプラカードを持った50名の市民に対して重装備の警察が暴力で襲いかかり、4名の市民を逮捕した事件。
★「テロリストは誰?九条の会」とは?
アメリカのイラク侵略、自衛隊派兵に反対する首都圏の主に20~30代のメンバーが映画「テロリストは誰?」の上映会を開催したことをきっかけに今年2月結成。地域・職業・年齢・国籍を問わず参加できる。各地の九条の会や反戦平和運動と連携しながら、とくに「平和の積極的創造」を重視し、協同労働・アソシエーションなどの社会連帯の創出活動に力を入れている。現在ML会員85名。毎月の定例会議と2ヶ月ごとの企画を開催している。
 【問合せ】TEL 090-3504-0662(テロリストは誰?九条の会・鈴木剛)03-3293-9539(現代企画室・太田昌国)   
メール whats_a9@yahoo.co.jp(テロリストは誰?九条の会・事務局)gendai@jca.apc.org(現代企画室)  
ホームページhttp://whatsa9.web.fc2.com(テロリストは誰?九条の会)http://www.jca.apc.org/gendai(現代企画室)

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追悼碑とともに

2006年02月23日 | 木本事件
 これから私たちはこの追悼碑を足掛かりとして、熊野市に遺族に対して誠意あ
る謝罪をさせるとともに、「木本事件」の真相をさらに究明し、それを熊野市民に明らかにしていくなどの運動を進めていかなければならない。追悼碑を建立することよりも、これからの運動を展開していくことの方がむしろ大変な作業になるであろう。昨年十一月二十日に追悼碑の除幕式を無事終えた時も、正直な気持ちとしては、追悼碑を建立した喜びよりも、これから今まで以上にしんどくなるだろうなという気持ちの方が強かった。
 今後取り組まなければならない課題は多いが、まず熊野市に対して二人の虐殺の責任をはっきりと認めさせ、相度氏のご遺族に誠意ある謝罪をさせなけらばならない。また今までの熊野市の不誠実な態度や追悼碑建立の際にマスコミにより明らかになった「国が侵略戦争を認めていないのに、自治体が独自の判断はできない」などという熊野市の歴史認識のとんでもないあやまちを徹底的に糾弾していかなければならない。そのための一つの手段として熊野市に追悼碑はなく、
一、なぜ熊野市(旧木本町)で「木本事件」が起こったのか、つまりその背景にある当時の日本の侵略による朝鮮の植民地支配とそこからつくりだされた朝鮮人差別が原因であったこと、二、李基允氏と相度氏が殺されたことに市が最も責

任があることを認める、三、殺された二人とその遺族に対して謝罪の気持ちを表す、以上の三つのことを明記した碑を熊野市に建てさせることが考えられる。
 また、熊野市民に「木本事件」とはどういうものだったのか正しく伝え、何が
今なお問題になっているのかを知ってもらわなけばならない。そのために「木本事件」を「愛町心の発露」と記述した『熊野市史』の訂正を求めるほか、もっと熊野市民の中に切り込んで行くことが必要になるであろう。三重県の教育関係者の手助けが必要になるが、「木本事件」のことを地元の小学校、中学、高校などの教育の場で取り上げてもらい、将来を担う今の子供や若者たちに自分たちの町で「木本事件」がおこったことを知ってもらいたい。その時、教材として李基允氏と相度氏の追悼碑を実際に自分たちの目で見てもらった時、追悼碑はとても意味のあるものになるであろう。そのような日が一日も早く来ることを切に望まずにはいられない。

  これまで熊野の極楽寺に置かれていた二人の「墓石」は、大阪歴史人権資料館のご協力で、この資料館に移転し、展示されることになります。「墓石」は日本社会の朝鮮人差別を物語る歴史的な資料として永久的に保存されることになったのです。多くの人々に「鮮人」の文字と四文字の戒名の刻み込まれた「墓石」をじかに見てもらうことにより、当時の日本人の朝鮮人差別がどういうものだったのか、「木本事件」とは何を意味するのかといったことを肌で感じてもらいたいと思います。
 この「墓石」がただ単に過去の日本人の朝鮮人差別をあらわすものだけでなく、現在もそのような朝鮮人差別や外国人労働者に対する排外意識が根強く残っていることを二人の「墓石」が語っているように思えてならない。
 李基允氏と相度氏を虐殺したのも、この「墓石」を建てたのも私と同じ日本人である。このことを決して忘れてはならない。しかし、「木本事件」の時、朝鮮人労働者とともに闘った日本人労働者や朝鮮人労働者の家族をかくまった日本人住民がいたことも事実である。そういう生き方ができるよう二人の追悼碑と共に歩んで行きたいと思う。

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追悼碑建立の取り組みについて

2006年02月20日 | 木本事件
私たち「三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・相度)の追悼碑を建立する会」は、一九八八年九月から二人の追悼碑建立のために活動を始め、一九九四年十一月にようやく追悼碑を建立することができた。この六年間の活動の中で多くのことを私たちは学んできたと思う。
 この運動が始まった頃、追悼碑建立の呼びかけを他の人たちにした時に、「そんな昔のことを今やってもどうしようもないのではないか」とか、「今、起こっている問題に取り組んだほうがいいのではないか」などということをよく言われた。しかし、本当に「昔のこと」で、「現在取り組むべき問題ではない」のだろうか。 
 私たちが追悼碑建立の運動を熊野市で進めていく中で、地元熊野市(旧木本町)には「木本事件」に直接かかわった人たちとその家族がまだ多く生活していることから、追悼碑に対する反発や拒絶は非常に根強いものがあった。また、二人を虐殺したことに対して反省や謝罪をするどころか、自分たちのしたことを「愛町心の発露」などとして正当化する人たちまでいる。事実、二人の虐殺に最も責任のある熊野市は、韓国釜山におられる相度氏のご遺族である敬洪(ペギョンホン)氏にいまだに一言の謝罪も行っていない。このこと一つをとっても、「木本事件」は過去のことではなく、まさに「今、取り組まなければならない問題」なのである。
  二人の追悼碑に反発したり、これを受け入れることのできない熊野市民の感情は、何かことあるごとに日本全国で吹き出してくる日本人の朝鮮人に対する差別感情や外国人労働者に対する排外意識を凝縮したものなのである。
そのような中で建立された李基允氏と相度氏の追悼碑は、熊野市においても、日本においてもとても大きな意味を持つものだと思う。熊野市や「木本事件」を正当化しようとしている人々は、もはや事実をねじ曲げ、ごまかすことができないはずだ。それは「木本事件」がなぜおきたのか、住民が二人をどのように殺したのかという事実を熊野市民に明らかにするものが、自分たちの目の前に突きつけられたからである。
 活動の当初、私たちはこの追悼碑を熊野市とともに建立することを目標として運動を進めてきました。「木本事件」に最も責任のある行政と熊野市民がこの事件の歴史的意味を自ら問い直すということに碑を建立する意味があると考えたからです。しかし、今回私たちは自分たち独自で追悼碑を建立しました。熊野市が一時期、追悼碑の建立に前向きな姿勢をみせ、追悼碑建立のために二〇〇万円の予算を市議会に計上し、市議会でも承認されたにもかかわらずです。
 これは追悼碑の魂である碑文の検討を熊野市と進めていく中で、熊野市が自らの責任を明らかにしようとせず、殺された二人やその遺族に対する謝罪の気持ちさえないことが明らかになったからです。「行政とともに建てることに意味があるのだから、妥協してもよい」といった意見もありましたが、そのような碑を建てたとしても殺された二人を追悼することになるのでしょうか。私たちはこのような追悼碑を到底建てることなどできるはずがありません。遺族の敬洪さんも「謝罪の気持ちがない碑は建てる意味がない」として熊野市の態度を厳しく告発しました。
 果たして、私たちは熊野市をともに追悼碑を建立していく相手として考えるべきだったのだろうか。今の日本社会を見渡すとまだまだとてもそのような状況にはなっていないように見える。見えるというよりも自分たちの力だけで碑を建立しようと決心した時から、とても共同で碑を建てるような相手ではなかったと痛切に感じるようになった。これは六年間の活動の中で最も反省しなければならないことの
一つだと思う。私たち独自で追悼碑を建立した今、熊野市に対して今まで以上に厳しく虐殺の責任を追求していくことになるであろう。

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海南島での朝鮮人虐殺

2006年02月19日 | 木本事件
だがそれだけではありません。紀伊半島における1926年の「木本事件」と19
30-40年代の強制的・半強制的な鉱山労働は、さらに日本の外のアジアにおける朝鮮人の虐殺行為へとつながっています。
紀州鉱山を経営していた石原産業は、紀州鉱山の開発に先立ってすでに1930年
代の初頭から東南アジアに進出し、マレー半島をはじめとして各地で大規模な鉱山開発を推し進めていました。またアジア太平洋戦争が始まり、日本軍が中国の海南島を占領するとともに、それに乗じて海南島でも鉱山開発を進めます。そこでも、島の先住民や中国人や朝鮮人が、日本の国内における強制労働と同じようにして、厳しい労働条件で労働を強いられたのです。
わたしたちは木本事件・紀州鉱山の調査に続いて、石原産業が海南島の鉱山開発で
おこなった朝鮮人・中国人の強制労働について調査するために、海南島にわたりました。そしてその調査を進める中で驚くべき事実を知りました。
石原産業が開発した鉱山(田独鉱山)の近くに海南島の先住民(黎族)が住む村が
あり、その村の名前が「朝鮮村」と呼ばれています。朝鮮人がひとりもいないその村がなぜそのように呼ばれているのかを調べてみたところ、アジア太平洋戦争中にそこで日本軍によって多くの朝鮮人が殺されたということがわかりました。日本軍は1939年に海南島を占領した後、海南島の道路工事や飛行場建設や鉱山開発を担う労働力源として、朝鮮から刑務所の服役囚を《朝鮮報国隊》として組織し、海南島に連れてきました。そして道路工事や飛行場建設の仕事をさせた後に、敗戦の直前になって、これらの朝鮮人をひそかに抹殺したのです。その数は1000人を下らないと言われています。わたしたちは先住民の当時の体験者から話を聞いて、その虐殺が事実であったことを確かめることができました。先住民の当時の体験者から日本軍の兵士が朝鮮人を殺害した場所や殺害の様子を聞くことができました。殺された朝鮮人の遺骨は今もなお朝鮮村に埋められています。その数も、身元も正確なことは何もわかってはいません。

紀伊半島の南端で起きた「木本事件」から始めて、紀州鉱山における朝鮮人労働者
の強制労働や中国海南島での強制労働および虐殺事件をたどることによって、わたしたちは「木本事件」を、20世紀前半における近代日本のアジア侵略の時間的な流れの中に位置づけ、またアジアの空間というひろがりの中でとらえることができました。
わたしたちは、今後アジアの時間と空間の広がりの中で、記憶のかなたに葬り去ら
れたこれらの歴史を掘り起こす作業を続けていきたいと考えています。また同時に、地域で歴史認識を改める運動を展開していくつもりです。「木本事件」については、事件に関する資料を熊野市の図書館に設置すること、『熊野市史』における事件の記述を書き換えること、「木本事件」を学校の人権教育における教材として利用すること、などが課題です。さらにまた紀州鉱山については、徴用された朝鮮人の犠牲者を追悼する集会や碑の建立、鉱山資料館における朝鮮人労働者の関連資料の展示、『紀和町史』における記述の書き換え、そして海南島については、遺骨の発掘もふくめた虐殺の事実に関する調査、資料集の作成など、が課題として挙げられます。これらの課題について、わたしたちのような弱小の市民運動にできることは微力ですが、今後できるかぎりの努力を重ねていきたいと考えています。
わたしたちの運動にご理解とお力添えをお願いすると同時に、読者のみなさんがそ
れぞれの地域で歴史を掘り起こす作業に取り組んでいただくことを期待しています。

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紀州鉱山の強制労働

2006年02月18日 | 木本事件
20世紀に入って、日本は朝鮮を植民地支配して、政治上・軍事上・外交上の主権
を奪いさり、朝鮮の文化や言語や生活慣習まで奪いつくす動きを推し進めます。そして日本の軍事体制を強化するために、朝鮮人を日本国内の産業に全面的に動員していきます。20世紀初頭から、紀伊半島でも、トンネル工事や道路工事に多くの朝鮮人が働いていました。木本トンネルで働く朝鮮人労働者も、そのような日本の国家が、植民地支配を基盤にして国内と国外の双方で展開する軍事的・政治的戦略の流れの中でとらえる必要があります。木本事件の後、1930年代になるとこの動きはますます加速されて行きます。日本国民を国家総動員体制へと組み込んでいく過程と、日本の産業発展とアジア太平洋地帯へのさらなる侵略のために朝鮮人労働力を全面的に動員する過程とが同時進行していきます。朝鮮人は、軍需産業の労働力として強制労働に駆り立てられ、さらには軍隊にも駆り出されて、直接に日本軍の軍事力として利用されます。
わたしたちは熊野市のすぐ近くで、このような朝鮮人の動員を裏づける事実を見つ
け出しました。熊野市から車で30分ほど山中に入った三重県と和歌山県の県境に
紀和町という町があります。この町に、かつて紀州鉱山という銅山がありました。現在はすでに閉山されていますが、木本事件が起きてからほぼ10年後に、石原産業という会社によって大規模に開発された鉱山です。そして、30年代後半から戦争が終わる45年までの間に、この鉱山で1000名以上の朝鮮人が強制的、半強制的に仕事をさせられていたことがわかりました。朝鮮人は、本人の意思に反して、またただ同然の安い賃金で鉱山労働を強いられ、その中には病気や事故でケガをしたり、死亡した人たちもいました。
わたしたちは「紀州鉱山の真実を明らかにする会」を結成し、紀州鉱山で働いてい
た朝鮮人の名簿を手に入れ、その名簿の本籍地を手掛かりにして、韓国に渡って出身地の役場の戸籍簿を調べ、生存者の何人かに直接お会いして、話をうかがうことができました。その中には、夜中に寝ている最中に連れて行かれたり、昼間畑で野良仕事の最中に連れていかれた人もいました。
しかし朝鮮人が紀州鉱山で働いていた事実について、石原産業の社史にも、紀和町
の町史にも、わずかな記述があるだけです。同じころ、マレー半島で捕らえられたイギリス軍の捕虜が300人ほど紀州鉱山に連れてこられ、働かされていましたが、この捕虜については、地元のひとびとが戦争が終わったあとで労働のさなかに病気やけがで亡くなった人達の慰霊碑を立てたり慰霊祭を行っています。ところが、朝鮮人については、石原産業も、紀和町も、調査もしなければ、慰霊や謝罪もおこなっていません。

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地域行政の責任

2006年02月17日 | 木本事件
地域住民による集団的な襲撃は、住民の手だけによっておこなわれたわけではあり
ませんでした。この襲撃は、警察や行政が住民と一体となっておこなわれたのです。というよりも、たんなる個人的ないさかいを地域住民による朝鮮人への集団的な襲撃にまで発展させたのは、行政だったのです。行政は、「治安」という名目で住民の不安意識をあおり、すでに収まったいたトラブルにふたたび火を注ぎ、住民を武装集団として組織することによって、地域住民を集団的な襲撃へと導いていきます。行政がこの事件の責任を負うべきである、と私たちが考える最大の理由はそこにあります。
映画館でのトラブルは仲介者によっていったん和解しかけていました。しかしその
翌日、加害者の日本人を逮捕しないことに不満をもった朝鮮人が木本神社に集まり、住民との小競り合いも生じました。そのために朝鮮人が町を焼き払うといった流言飛語がとびかうようになり、この流言飛語に呼応するようにして木本町長が先頭に立って在郷軍人会や消防組の出動を要請したのです。在郷軍人会は軍事訓練を受け、地域の「治安維持」のために組織された組織で、日本刀や銃剣を備えています。消防組も、とび口など火消しに使う道具をもっています。このように武器をもって武装した住民集団が、流言飛語にかりたてられて、朝鮮人が住んでいる宿舎を襲いバラックの建物をぶちこわします。そして中で寝ていた人たちを袋だたきにし、備品や食料を踏み荒らしました。
ふたりが殺害された後も、木本町が招集した武装集団が山狩りをして朝鮮人をとら
え、全員を町から追放したのです。たんなる個人的なけんかを武装集団による襲撃事件にまで発展させ、二人の死者まで出すに至った責任は、木本町の行政が下した判断と行動にある。これは否定することのできない事実ではないでしょうか。

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事件の根にある地域住民の差別意識

2006年02月16日 | 木本事件
事件が起きたのは、今から75年前の1926年の正月のことでした。現在の熊野
市(当時は木本町と呼ばれていました)には、木本トンネルの工事作業のために多くの朝鮮人労働者が関西方面からやってきて、トンネルの近くの宿舎(当時は《飯場》と言いました)で暮らしていました。当時の日本は朝鮮の主権を奪って植民地にして、朝鮮の土地をわがものとし、朝鮮人の生活を破壊しつつありました。そのために朝鮮で暮らすことのできなくなったひとびとが日本の移住して道路工事や建設工事に従事するようになっていました。木本町にやってきた朝鮮人もそのようなひとたちだったのです。
正月にこの労働者のひとりが映画館に入ろうとして、酒に酔った日本人といさかい
になり、日本刀で切りつけられ重症を負います。このまったく個人的ないさかいが、その翌日以降、地元住民集団による朝鮮人労働者への集団的な襲撃へと発展していきます。住民は武装して無抵抗の朝鮮人が住む宿舎を襲い、宿舎を破壊して、かれらを山に追いやります。そしてこの襲撃の中で、李基允さんと 相度さんという二人の朝鮮人の若者が町民の手によってなぶり殺されるという痛ましい結末が引き起こされたのです。
たんなる個人的ないさかいが、町ぐるみの町民による朝鮮人労働者への集団的な
襲撃へと発展してしまったのは、なぜでしょうか。
事件を引き起こした最大の原因は、地域住民による朝鮮人の民族差別意識が地域の
日常生活の中に根づいていたということです。わたしたちは、そのことを事件が終
わった後の新聞報道や、この事件について地元の記者や住民が残した文書から、うかがい知ることができます。新聞報道では、ふたりの朝鮮人を殺害した木本町の住民が「わが民衆の先駆者」とされ、記者はかれらを「町の義人」と呼んでいます。これらの記述の中では、殺人事件の犯人が、「平和な郷土生活を脅かす」朝鮮人から《郷土を守った救済者》であるかのように扱われています。また地元の別の住民は、事件についての手記の中で、住民による二人の殺害を、「あながち無理と言えない」と弁護し、その理由を朝鮮人の《日頃の態度に目に余るものがあり、住民は不安を抱いていた》ということに求めています。日頃の態度の善し悪しは個人の問題であり、地域住民についても言えることですが、朝鮮人をひとまとめにして《日頃の素行の悪さ》をあげつらい、それを理由にして《朝鮮人を殺してもかまわない》存在とみなすとしたら、それはもう差別意識以外のなにものでもありません。
またそこには、朝鮮と日本の生活慣習や文化のちがいから生ずる理解不足もあった
ものと思われますが、このちがいは地元の住民にとって排除されるべきよそ者の生活慣習や文化としてとらえられていたものと推測されます。
住民が朝鮮人にうとましさや不安を感ずるのは、朝鮮人に対する差別の裏返しの表
現にほかなりません。住民は何かあればこの感情を攻撃的なエネルギーに転じて朝鮮人を襲撃する可能性をつねにもっていたわけです。逆に地域の住む朝鮮人のほうが、トンネル工事の仕事にたずさわりながら、地域住民のこの不安感という名を借りた差別意識を浴びながら、いつ襲われるかもしれないという極度の不安に脅えて暮らしていたのです。
「木本事件」の三年前の1923年、関東大震災のさなかに、「朝鮮人が井戸に毒
を投げ投げこんだ」という流言飛語から端を発して、数千名もの朝鮮人・中国人が
関東地域の住民によって殺されましたが、この事件もやはり、日本の地域住民が日常的に抱く差別感情がその根にあります。差別感情が不安意識を支え、その不安意識が何かの出来事をきっかけとして朝鮮人に対する集団的な攻撃へと転ずる。この図式は「木本事件」においても、同じようにくりかえされました。その意味で、当時の日本の地域社会は、無数の「関東大震災」や無数の「木本事件」が生み出される可能性をつねにはらんでいたということができます。
地元住民のこの意識を公式に代弁したのが、『熊野市史』における「木本トンネル
騒動」です。そこでは、地域住民がとった行動が、「まことに素朴な愛町心の発露」である、と述べられています。ふたりを殺害した行為を「郷土愛」の表現であると言いくるめる理屈は、たんに事件の後でこの事件を弁明するための記述であるだけではなく、実はこの事件を生み出した根本原因でもあるのだと思います。ふたりは住民によって「殺されてもやむを得ない存在」である、と日ごろみなされていたからこそ、殺されたのです。事件後の弁明が、事件の原因をもっとも端的に語り出しているのです。地域住民の子供たちは当時書き残した手記の中で「殺されたのが朝鮮人であるとわかってほっとした」と述べています。このような地域住民の意識の中で、朝鮮人はつねに日常的に「殺害」されていたのではないでしょうか。木本事件はこの日常的な「殺害」が具体的な形をとってあらわれたものにすぎません。このような差別意識は、地域の中だけで自然発生的に生み出されたわけではありま
せん。この差別意識は、近代日本が朝鮮を植民地として統治し、その主権を奪って
従属下に置く、という国家戦略と並行して深まっていきます。地域住民による朝鮮人の集団的な襲撃は、日本国家による朝鮮半島の主権の剥奪行為が、日本の地域社会において地域住民による朝鮮人の生命と生活権の剥奪として具体的にあらわれたものであるということができます。



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ふたりはなぜ殺されたのか-熊野から朝鮮人虐殺を問う- 

2006年02月15日 | 木本事件
このホームページで私たちが紹介しているのは、アジア太平洋戦争を20年ほど
さかのぼる1926年に、紀伊半島の南端にある熊野地域で起きた、地元住民によ
る朝鮮人労働者の殺害事件です。この事件は地元でもほとんどかえりみられること
なく、殺害されたふたりの無縁仏の墓石と郷土誌の記述の中にわずかに事件の痕跡
を見ることができるだけでした。わたしたちはこの痕跡をたどり調べる中で、この
事件が今日の日本の地域社会の中で今もなお深く根を下ろし、再生産されているこ
とを知ったのです。70年以上も前に日本の地方の諸都市で起きたこの事件を今日
のわたしたちが掘り起こそうとする意味はそこにあります。わたしたちはこの事件
をたどり直し、地元に残された痕跡を調べる中で、地域社会に根深くしみこんだ
民族差別の根を探り出し、地域の歴史を再認識して、差別をのりこえた新しい地域
社会のきずなを築き上げなければならないことを知りました。
ここでもういちど事件の経過を振り返りながら、なぜこの悲惨な事件をうみだし
てしまったのか、その根本原因について、私たちの会の考えを述べてみたいと
思います。また「木本事件」を掘り起こすわたしたちの運動が、紀州鉱山における
朝鮮人の強制徴用や、中国の海南島での日本軍による朝鮮人の大量虐殺に関する調
査の運動へと発展していった経緯についても、述べたいと思います
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