三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

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「新北市で客家の宗教イベント 抗日戦闘の犠牲者しのぶ/台湾」

2018年08月22日 | 抗日・反日闘争
http://japan.cna.com.tw/news/asoc/201808180006.aspx
「フォーカス台湾」 2018/08/18 19:16
■新北市で客家の宗教イベント 抗日戦闘の犠牲者しのぶ/台湾

【写真】宗教イベント「新北市客家義民爺文化節」の様子=同市政府提供

(新北 18日 中央社)台湾北部の客家人に伝わる「義民爺信仰」の伝統を伝える宗教イベント「新北市客家義民爺文化節」が同市三峡で18~20日にわたって行われる。同市政府客家事務局の頼金河局長によると、三峡は日本への台湾割譲が決まった1895(明治28)年に勃発した「乙未戦争」(台湾平定)の戦地の一つ。戦争123周年に当たる今年、同地で犠牲になった義勇兵を悼む意味を込め、義勇軍をモチーフにしたラッピングバスのパレードが行われるという。
 頼局長によれば、三峡では同年、義勇軍が水路で南下途中の日本軍35人を待ち伏せしてほぼ全滅させた「隆恩埔戦役」と、陸路で通過した日本軍を谷間で包囲し、ゲリラ戦術で数百人の死傷者を出した「分水崙戦役」が繰り広げられた。
 義民爺信仰は、清朝時代の1787年に起こった反清蜂起「林爽文事件」が起源。客家人が多く住む北部・新竹では、故郷を守ろうと、攻めてきた林爽文軍と戦った人々のうち200人余りが犠牲となった。慰霊のための「褒忠亭義民廟」が建立され、客家人の間で、自らを犠牲にして家や郷土を守る精神を敬う信仰として定着したという。新北市の客家人は毎年、新竹県に安置される義勇軍の霊を迎え入れて参拝し、願望成就や家内安全などを願う。1997年に始まり、今年で21年目を迎える。
 イベントでは、本尊を迎え入れる儀式や法会、パレードのほかにも、物品販売、DIY教室、パフォーマンスなどが催される。
     (黄旭昇/編集:塚越西穂)


https://udn.com/news/story/7323/3315358
「聯合新聞網」 2018-08-17 18:34 中央社 新北17日電
■新北客家義民爺文化節 緬懷乙未戰爭
  新北市客家義民爺文化節將於18日至20日,在三峽客家文化園區登場,三峽是1895年乙未戰爭時,台灣人民抗日的隆恩埔戰役、分水崙戰役的地點,特別透過祭典紀念義勇軍抗日。
  新北市府客家事務局長賴金河表示,新北市義民爺祭典自民國86年開辦邁入第21年,藉由義民爺節慶活動,以科技化、在地化、年輕化形塑新北特色文化。
  賴金河表示,義民爺信仰是祭祀西元1786年的林爽文事件,英勇保鄉衛民犧牲的義勇軍,演變成獨特的台灣本土客家信仰,也是北台灣客家人重要祭典。
  延續200多年的「奉飯」習俗,是當年義勇軍出征前,地方老少挑擔奉飯供應酒食,慰問征戰的義勇軍。
  林爽文事件平定後,鄉民撿集新竹死難的客家人200多具骨骸,合葬於新竹縣新埔鎮枋寮,興建褒忠亭義民廟祭祀。每年新北市客家鄉親都會南下迎請義民爺北上祭拜,並以挑擔奉飯祭祀祈福。
  賴金河說,清廷因甲午戰爭戰敗,簽馬關條約將台灣、澎湖割讓給日本。1895年在三峽三角湧河畔所發生的乙未戰爭,包括隆恩埔戰役、分水崙戰役,是義勇軍抵抗日本的第一勝。
  1895年7月13日,日軍在推進到桃園、新竹的過程中,在隆恩埔遭遇以三峽客家籍為首的三角湧抗日義勇軍伏擊,幾乎全軍覆沒。
  在乙未戰爭中,分水崙戰役也因為義勇軍實施袋形戰術圍擊,客家義民軍由於熟悉山地地形,且採取游擊戰術,是日軍入主台北城後,規模最大,戰鬥最慘烈的一役。
  賴金河說,隆恩埔、分水崙兩戰役,是讓日本人知道台灣人民抗日決心的決定性戰役。今年是乙未戰爭123週年,新北市客家義民爺文化節將邀集高中生以彩繪公車與遊行,緬懷隆恩埔戰役犧牲的義勇軍,讓今年義民爺文化節除維持傳統,也融入青春氣息。
  18日、19日除安座、祭祀大典,還有酬神大戲、DIY活動及在地藝文表演、客家義民信仰展,闖關打卡換精美義民爺平安符。20日為陣頭送神。


https://www.nownews.com/news/20180818/2802963
「今日新聞」記者邱嘉琪╱嘉義報導 2018/08/18 16:40
■客獅傳承 中埔義民爺文化祭開鑼

【圖】嘉義縣客家文化協會義民爺文化祭百人踩街挑擔遊行,熱鬧滾滾。(中埔公所提供 , 2018.08.18)

  嘉義縣客家文化協會18日舉辦義民爺文化祭,除了傳統的義民爺文化祭儀,現場更有百人踩街挑擔遊行及大小客獅傳承,而客家會館也展出客家文化產業發展的成果,讓長輩重温昔日風華,年輕世代及非客籍鄉親身歷其境體驗客家文化與精神。
  客家對於義民信仰,最早可以溯源到清康熙60年的朱一貴事件,到了乾隆51年的林爽文事件之後,鄉民正式建廟祭祀這些為保衛鄉土社稷捐軀殉國的客家勇士,追念其忠肝義膽的精神。
  相較於早期清朝時期移民來嘉義地區定居的客家人不同,中埔地區的客家人多是北部客家人二次移民而定居於此,而在嘉義的「北部客」所信奉的神明中,「義民爺」是十分廣泛且重要的信仰。
  由於嘉義縣內並無興建義民廟,因此義民祭活動都是於嘉義市南田里的「嘉義褒忠義民廟」進行,而嘉義褒忠義民廟正是由新埔褒忠義民廟分香而來,信徒範圍包含嘉義縣市以及雲林縣、台南縣的一部份,分五區輪值值守祭典區,多數信徒為嘉義縣民,其中中埔鄉因客家居民較多,不僅分屬其中三區,還獨立負責第五區,因此,義民爺信仰可謂是嘉義縣非常重要的客家信仰文化。
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「独立運動家・安重根の遺骨 「南北共同での発掘推進」=文大統領」

2018年08月17日 | 抗日・反日闘争
http://japanese.yonhapnews.co.kr/headline/2018/08/14/0200000000AJP20180814002200882.HTML
「聯合ニュース」 2018/08/14 15:05
■独立運動家・安重根の遺骨 「南北共同での発掘推進」=文大統領
【ソウル聯合ニュース】韓国の文在寅(ムン・ジェイン)大統領は14日、初代韓国統監を務めた伊藤博文を1909年に暗殺して翌年死刑になった独立運動家、安重根(アン・ジュングン)の遺骨を見つけられずにいることを指摘し、「3・1(独立)運動と大韓民国臨時政府樹立から来年で100周年を迎えるのに合わせ、政府は安重根義士の遺骨発掘事業を北と共同で推進する」と表明した。光復節(8月15日、日本による植民地支配からの解放記念日)を翌日に控え、青瓦台(大統領府)で催した独立有功者やその遺族との昼食会で述べた。

【写真】昼食会であいさつする文大統領=14日、ソウル(聯合ニュース)

 文大統領は「安重根義士が(中国の)旅順監獄で著した『東洋平和論』は東洋の平和のための日本の役割を強調し、韓中日が共同で銀行や軍隊を創設しようという時代を先取りしたビジョンも提示している。自由と平和を目指した安重根義士の偉大な精神と足跡は現在まで続いている」と業績を評価。その安重根の、解放後の故国への移葬を望むという遺言を守れずにいるとし、北朝鮮との共同での遺骨発掘に意欲を示した。
 また、「私は報勲(功勲に報いること)こそが強い国をつくる根になるとの信念を持っている」と述べ、独立運動家の子孫が安定した生活を送れるよう約1万7000人に支援金を支給していることなどを説明した。
 その上で、「二度とこうした苦しみと痛みが繰り返されてはならない。正義と真実で歴史を正し、平和により国をしっかりと守る」と約束した。


http://japanese.joins.com/article/024/244024.html?servcode=200§code=200
「中央日報日本語版」 2018年08月14日17時30分
■文大統領「来年、北と共同で安重根義士の遺骨発掘事業を推進」
 文在寅(ムン・ジェイン)大統領が14日「来年、三一独立運動と大韓民国臨時政府樹立100周年を迎え、政府は北朝鮮と共同事業で安重根(アン・ジュングン)義士の遺骨発掘事業を推進する」と明らかにした。
 文大統領は第73周年光復節(解放記念日)記念式を一日控えて国内外の独立有功者および遺族を青瓦台(チョンワデ、大統領府)に招請して昼食会を開き、このように述べた。
 文大統領は「この席に安義士の子孫の二方もおられる。108年前、死刑を控えた安義士はピレム神父と最後の面会で韓国の独立運動が抑圧から抜け出し、自由を取り戻そうとする全人類的な活動であることを明らかにした」と説明した。
 また「安義士が麗順(ヨスン)監獄で著述した『東洋平和論』では、東洋平和に向けた日本の役割を強調し、韓日中が共同で銀行と軍隊を創設しようという時代に先駆けたビジョンを提示した」とし「自由と平和に向かった安重根義士の偉大な精神と足跡は今日まで続いている」と述べた。
 文大統領は「しかし、われわれは今まで安義士の遺骨さえ探せなかった」として「金九(キム・グ)先生が孝昌(ヒョチャン)公園に用意した家廟は依然として空いている。『解放されたら故国に戻して葬儀を行ってほしい』といった安義士の最後の遺言を守れずにいる」とした。
 さらに、「報勲こそ強い国家を作る根元という信念を有している」として「国のための献身に優遇をつくすのは国家の当然な道理であり、未来のための最高の投資だ。独立活動家一族の現在の姿こそ次世代に愛国の指標になるため」と述べた。
 文大統領はまた「経済的支援を拡大するのはまともな報勲の始まり」とし「約束通りに今年から愛国の志士に差し上げる特別優遇金を50%引き上げした。独立活動家の3代まで安定的に生活することができるよう、1万7000人に支援金を提供している」と話した。
 引き続き「今年から独立有功者の子孫の自宅を訪問する報勲福祉サービスを実施している」として「海外に住まれて国内に永住帰国したすべての独立有功者の子孫には住宅を支援している」とした。


http://japanese.yonhapnews.co.kr/headline/2018/08/15/0200000000AJP20180815002100882.HTML
「The Hankyoreh」 登録:2018-08-15 23:26 修正:2018-08-16 07:34
■日本は安重根義士の伊藤狙撃をどのように描いたか?
 狙撃当時の場面を描写したリトグラフ初公開 
 原州の古版画博物館で8月18~9月23日特別展

【写真】1909年10月26日、中国のハルビン駅で安重根義士が狙撃に成功した後に捕まった状態でも、伊藤博文を鋭くにらむ姿が描かれたリトグラフ=古版画博物館提供//ハンギョレ新聞社

 73周年光復節をむかえて、安重根義士が伊藤博文を処断した歴史的事実を描いたリトグラフが初めて公開された。文在寅(ムン・ジェイン)大統領が安重根義士遺骨発掘事業を南北共同で推進すると明らかにしたこともあり、一層関心を引く。
 江原道原州(ウォンジュ)の雉岳山(チアクサン)明珠寺の古版画博物館は、今月18日から来月23日まで「版画で見る近代韓国の事件と風景」特別展を開くと15日明らかにした。今回の特別展では、安重根義士の狙撃事件を描いたリトグラフが初めて公開される。「ハルビン駅伊藤公遭難之圖」という題名のリトグラフで、1909年10月26日中国のハルビン駅で安義士が伊藤を狙撃した直後の様子を描いている。
 この図で安義士は、伊藤を狙撃して捕まった状態でも伊藤を鋭い目つきでにらんでいる。ただし、すでに三発の銃弾に当たった伊藤が正常に立っている姿で描写されているのは自然でない。この版画の隣には当時の記事も載っているが、そこから見て「報道用版画」と推定できる。この版画は、狙撃から1カ月余り後の1909年12月1日、東京の「博画館」という出版社が当時の最先端技法であるリトグラフで製作したものだ。
 ハン・ソンハク古版画博物館長は「光復(解放)は、単純に第2次世界大戦の結果として得たものでなく、先祖の絶えざる抵抗と闘争から出たことをよく見せる資料だ。このリトグラフの記事は、安義士を“凶漢”と表現しているが、安重根義士の抵抗精神が引き立って見える」と説明した。
 今回の展示会では、このリトグラフだけでなく江華島(カンファド)条約から安義士の狙撃事件まで、近代韓国の主要事件と美しい風景を描いた60点余りの作品に出会うことができる。

パク・スヒョク記者
http://www.hani.co.kr/arti/society/area/857728.html
韓国語原文入力:2018-08-15 16:20


http://japan.hani.co.kr/arti/opinion/31375.html
「The Hankyoreh」 2018-08-16 23:05
■[コラム]“消えた”安重根記念館
 中国のハルビン駅に安重根記念館ができたのは2014年1月だった。1909年、伊藤博文を射殺した現場の直ぐ前の貴賓用待合室を改造して作ったものだった。ハルビン駅舎は、20世紀に何回もの増改築をたどりながら、当初ロシアの東清鉄道時期の姿はほとんど失った状態だった。1988年に現代的建物に変貌した新しい駅舎も、2014年に安重根記念館を迎える頃にはすでにかなり古くなっていた。
 そのためか記念館は相当に引き立って見えた。古いロシア式建築をそっくり模した黄色い壁の入口を新たに作った。草緑色の文字で「安重根義士記念館」と書かれた黒い看板が訪問客を迎え、記念館入口の低い垣根も高級感を添えた。
 記念館の内部には、安重根の生涯とハルビン駅の挙事、彼の思想などに対する説明が写真と共に韓国語と中国語で展示されていた。安重根が遺した筆文字も懸かっていた。何よりも圧巻は、展示館の奥の全面ガラス窓から見える外の光景だった。安重根が伊藤を射殺した1番ホームだった。床には安重根と伊藤が立っていた場所が表示され、上には現場を知らせる表示板が「1909年10月26日」という日付とともに懸かっていた。
 わずか4年余り前に作られたハルビン駅の安重根記念館の話を持ち出して、すべての文章を「過去型」で書いたのは、この施設が今はなくなっているためだ。ハルビン駅舎がまた大々的な増改築をすることになり、記念館は昨年3月に休館され、後に撤去された。1番ホームも撤去された。今月5日に訪ねたハルビン駅で職員に尋ねたところ、目隠し幕が張られた工事現場を指さして「記念館と義挙の現場はそこだと言った。今はすべて撤去され見ることはできない」とのことだった。
 ハルビン駅の駅舎は、100年余り前のロシア時期の姿に変身中だ。外観は伝統的だが、屋内は現代的に整え、中国が誇る高速鉄道に相応しい東北地方の中心駅を目標にしている。
 今年末には工事が終わると言っていた新駅に、安重根記念館も帰って来るだろうか?当初ハルビン駅に安重根記念館ができたのは、2013年6月に中国を訪問した朴槿恵(パク・クネ)大統領の要請に習近平主席が快く同意して実現した。黒龍江省党史研究所のキム・ウジョン元所長は「習主席が自ら指示したことなのでうまくいくだろう。韓国と中国の約束であり、習近平と朴槿恵のひそかな約束ではなかった」と話した。中国当局がハルビン駅の改築後に記念館を2倍に拡張することにしたという報道もあった。
 だが「行って見なければ分からない」という反応もある。韓中日の力学関係が変わったためだ。韓中はTHAAD軋轢以後に関係が微妙になった反面、中日は慎重ではあるが接近する局面だ。朴槿恵政府の時のような「韓中反日歴史共助」を期待することは難しい状況だ。その上、ハルビンに安重根記念施設を作ろうとの試みは、日本の反対ですでに数回失敗した。中国が日本からの外資誘致を推進していた時期だった。
 ハルビン駅記念館にあった胸像、彫刻品、説明資料などは、現在ハルビン市内の「朝鮮民族芸術館」に別に空間を用意して展示中だ。当初2006年からハルビン駅施設ができるまで、記念館の役割をした所だ。芸術館関係者は「駅にあった時は行き来する中国人も多数参観したが、ここに再び来てからは以前のように韓国人ときわめて一部の北朝鮮の人だけが訪れる」と話した。
 韓中関係の風景かと思い苦い味がした。ハルビン駅記念館を再び見られない可能性もあるという不安を抱くのは私一人だけであろうか。是が非でも今度は新装なった記念館再開の便りを伝えたい。

キム・ウェヒョン北京特派員
http://www.hani.co.kr/arti/opinion/column/857921.html
韓国語原文入力:2018-08-16 20:05
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「日帝が作った“4858人のブラックリスト カード”文化財に指定」

2018年08月10日 | 抗日・反日闘争
http://japan.hani.co.kr/arti/culture/31286.html
「The Hankyoreh」 2018-08-07 22:26 
■日帝が作った“4858人のブラックリスト カード”文化財に指定
 旧唐沙島灯台、尹逢春日記とともに文化財への登録予告 
 島山 安昌浩日記、關東倡義録は文化財登録確定

【写真】日帝が作成した主要監視対象者人物カードの一部分。抗日志士の金瑪利亞の写真と人物情報が記載されている=文化財庁提供//ハンギョレ新聞社

 日帝強制占領期間に総督府や警察が抗日志士など主要監視対象者4858人について作成した人物カードが、韓国の公式文化財になる。
 文化財庁は、日帝の主要監視対象人物カードと映画監督の尹逢春(ユン・ポンチュン 1902~1975)日記、全羅南道、莞島(ワンド)所安面(ソアンミョン)の旧唐沙島(タンサド)灯台を近代文化財として7日登録予告した。また、独立活動家の島山 安昌浩(アン・チャンホ 1878~1938)の日記と、19世紀末の義兵長である閔龍鎬(ミン・ヨンホ 1869~1922)の日記・書簡を集めた關東倡義録は文化財登録を確定した。

【写真】日帝が作成した島山 安昌浩の人物カード=文化財庁提供//ハンギョレ新聞社

 主要監視対象者の人物カードは、1910年から1940年代まで日帝の警察と行刑機関が作ったものと推定される。安昌浩、李奉昌(イ・ボンチャン)、尹奉吉(ユン・ボンギル)、金瑪利亞(キム・マリア)、柳寛順(ユ・グァンスン)など、日帝に抵抗した独立活動家が多数含まれている。写真、出生年月日、出生地、住所、身長など個人基本情報の他に、活動、検挙、受刑に関する事実が記録された。特にカードに貼られた人物写真は、世間に知られていない珍しい画像が多く、当代の民族運動や独立運動を調査する際の最も信憑性ある資料と言われる。
 旧唐沙島灯台は、白色円筒状の近代期建築様式で建てられたコンクリート施設だ。所安島住民と義兵が1909年に義挙を起こした歴史的場所という点で、建築遺産としてだけでなく抗日遺産としての価値も重く評価された。
 尹逢春の日記は、抗日運動に加担して民族的指向の映画を作った故人が、1935~37年に書いたもので、当時の映画製作過程と映画界の実情に関する内容が詳細に述べられていて、日帝強制占領期間の芸術分野の貴重な記録物だ。
 登録文化財になった島山 安昌浩の日記は、島山が1919年の3・1運動以後、中国の上海で臨時政府内務総長兼首相代理を務めた時期の活動を記録したものだ。1920年1月14日から8月20日まで、1921年2月3日から3月2日までの記録を全3冊にまとめた。臨時政府草創期の活動と組織運営、参加した人々などを研究するのに必須の史料だ。關東倡義録は、1895~96年江原道、咸鏡道一帯の義兵抗戦史実の大切な史料で、閔龍鎬が国権回復を叫んで書いた長文の国漢文混用歌詞ものせられている。

【写真】文化財登録が確定した島山 安昌浩の日記の一部分=文化財庁提供//ハンギョレ新聞社

 日帝が作った主要監視対象者人物カードなど文化財登録が予告された3件は、30日間各界の意見を聞いた後に文化財委員会の審議を経て登録可否が最終確定する。

ノ・ヒョンソク記者
http://www.hani.co.kr/arti/culture/culture_general/856569.html
韓国語原文入力:2018-08-07 20:36
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「進まぬ強制徴用被害者の遺骨返還  背を向ける日本と消極的な韓国」

2018年06月03日 | 抗日・反日闘争
http://japanese.yonhapnews.co.kr/headline/2018/06/01/0200000000AJP20180601002200882.HTML
「聯合ニュース」 2018/06/01 11:58
■進まぬ強制徴用被害者の遺骨返還  背を向ける日本と消極的な韓国
【壱岐聯合ニュース】日本による植民地支配からの解放後、70年以上がすぎたが、植民地時代に強制的に徴用または徴兵され命を落とした朝鮮半島出身者のうち、死後も故国に戻れずにいる人が少なくない。

【写真】終戦直後に玄界灘周辺で遭難した帰還船に乗っていて亡くなった朝鮮半島出身の徴用犠牲者と家族の遺骨131柱が5月31日、埼玉県所沢市の金乗院から長崎県壱岐市の天徳寺に移され法要が営まれた=31日、壱岐(聯合ニュース)

 韓国行政安全部によると、日本で発掘後に保管されている朝鮮半島出身の徴用・徴兵犠牲者の遺骨は2770柱に上る。寺や納骨堂など日本全域の約340カ所に散在する。
 犠牲者の遺骨返還は、2004年12月の韓日首脳会談で当時の盧武鉉(ノ・ムヒョン)大統領が小泉純一郎首相に問題を切り出したことがきっかけとなり、進展を見せた時期もあった。
 東京・目黒の祐天寺に保管されていた遺骨423柱が08年から10年にかけて韓国に返還される成果があったが、12年に当時の李明博(イ・ミョンバク)大統領が独島を訪問後、韓日政府間の関連協議が中断されてからは進展がない。
 政府間の協議が中断されている間、両国の市民団体の働きかけにより遺骨返還が実現したケースもあった。15年9月、韓日の民間人を中心に遺骨の帰郷事業を進めてきた「強制労働犠牲者追慕および遺骨帰郷推進委員会」 の努力により、植民地時代に北海道に強制連行され亡くなった115人の遺骨が韓国に返還された。
 両国の市民団体などによると、太平洋戦争の最激戦地だった沖縄や南太平洋、東南アジアなどには収集されずに埋まっている朝鮮半島出身の軍人・軍属の遺骨が最低でも2万2000体に上ると推定される。
 日本では16年3月に「戦没者遺骨収集推進法」が成立し、国レベルで第二次世界大戦の戦没者の遺骨発掘作業が進められている。遺族からDNAを採取し、収集された遺骨との照合を行うが、朝鮮半島出身者は対象から外されている。
 遺骨問題が一向に解決しないのは日本政府が背を向け、韓国政府が消極的に対応しているためだ。
 日本政府は、寺などに保管されている朝鮮半島出身者の遺骨返還、戦没者の遺骨収集・DNA照合の対象に朝鮮半島出身者を含める問題はいずれも韓国政府の正式な要請が必要だとしており、責任を韓国側に押し付けている。
 韓国政府は実務者レベルで日本政府と接触はしているが、まだ正式な要請は行っていない。そのため、日本側に口実を与えているとの批判も出ている。
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「黄金容:儋县革命“第一人”」

2018年03月17日 | 抗日・反日闘争
http://ngdsb.hinews.cn/html/2018-01/15/content_7_1.htm
『南国都市报』 2018年1月15日 南国都市报记者 张宏波 文/图
■黄金容:儋县革命“第一人”
 他第一个把马列主义带入儋县,建立琼岛上首个县级革命政府

【相片】年轻时的黄金容
【相片】位于儋州泊潮新村的黄金容烈士纪念碑

  泊潮新村位于儋州市光村镇一个羊角形的半岛上,与临高隔海相望。岛上密密麻麻地分布着一栋栋一两层的民房,其间一处小花苑格外显眼。花苑中,有一座约十米高的石碑,上面镌刻着“黄金容烈士纪念碑”八个大字。
  黄金容,1902年出生于泊潮新村,他在短暂的革命生涯中创下了多个第一:他向家乡的工农群众宣传讲解马列主义,这是马列主义第一次在儋县传播;他领导成立了儋县第一个农村党支部——泊潮村党支部;他还参与领导了“十月暴动”,并参与建立了海南第一个县级革命政府。
  在1940年的一次战斗中,黄金容不幸中弹牺牲,年仅38岁。如今,革命年代的血雨腥风早已烟消云散,但泊潮新村人并没有忘记这位英年早逝的革命先烈。对于这位儋县革命“第一人”,人们仍怀有深深的崇敬与缅怀。

★他是在儋县传播马列主义的第一人
  在这座儋州北端的小半岛上,泊潮新村的村民们世世代代生活在这里。顺着村村通公路来到村里,没几分钟就看到了“黄金容烈士纪念碑”。碑体是花岗岩,碑的最顶端是一颗金灿灿的五角星,蓝天白云下,阳光照耀,闪烁着光芒。纪念碑正前方100多米处,是北部湾海域。1902年,伴随着这片大海的海浪声,黄金容出生了。
  黄金容幼年时随父亲在私塾读书,1916年考入儋县第一高小,1919年到广州读书,先后考入广州市第一中学和广州法政大学。在革命思潮的影响下,他胸怀救国救民大志,追求真理,接受马列主义,于1923年加入中国共产党。
  当时,对于以打鱼为生的泊潮村民而言,黄金容是一位文化人,村中很多人都叫他“黄先生”。“在他的带领下,儋县的革命之火开始燃烧了起来。”居住在泊潮新村的符庆义说,“黄先生”的故事在当地村民中流传很广。
  1925年,黄金容利用暑期回乡的机会秘密携带马列主义书籍,向家乡工农群众宣传讲解马列主义,这是马列主义首次在儋县传播。
  第二年,黄金容又在儋县、临高等地开展建立党组织和农会的工作。经过几个月的培养和组织工作,一批农民骨干入党,儋县第一个农村党支部——泊潮村党支部也随之成立,黄金容任支部书记。
  之后,黄金容还创办了泊潮村农民协会,800多名农民入会。泊潮村农会在党支部领导下建立了一支80多人的农军队伍,自造和捐款购买步枪和土炮,全乡参加军事训练的农民自卫军队员有300多人,黄金容担任教练。1926年,黄金容领导这支农民自卫军围剿了一股200多人的土匪。

★参与建立琼岛第一个县级革命政府
  在那个年代,革命之路布满荆棘。1927年“四一二”反革命政变后,白色恐怖开始蔓延,儋县党组织被迫转入地下。黄金容等人潜回光村地区,继续领导人民群众进行斗争。
  同年10月,黄金容与当时的儋县县委书记一起领导革命武装参加儋县“十月暴动”,在县城新州成立了儋县临时革命政府。“十月暴动”后,国民党反动派开始进行疯狂报复。儋县共产党员和革命群众或被捕或被杀,甚至变节。儋县党组织也与上级断绝了联络,无法继续领导斗争。
  困境中,黄金容表现出了共产党人的革命气节,坚持进行秘密斗争。他一方面化装为商人到陵水县找特委机关,另一方面以教书先生的身份为掩护,在抱舍、东田村和上坊境各村庄秘密活动,发展了一批农村党员,并建立几个农村支部。
  儋州市党史研究室史学副研究员唐卓昌说,“十月暴动”中建立的儋县临时革命政府,是海南岛上第一个县级革命政府,也是中共领导琼崖人民武装夺取政权的第一次尝试。
  机智的黄金容甚至还在敌人眼皮子底下做起了生意,以此发展党组织。1932年,广东军阀陈济棠派遣陈汉光率领警卫旅到海南“围剿”红军,在儋县选择抱舍一带为军垦基地,以解决军队的给养。黄金容利用这个机会,以法人代表资格,向国民党当局办理了建设万安农场垦荒的合法手续。
  万安农场周围的村庄有党组织,既便于秘密活动,又易于接近群众。黄金容将自家的水田献出,并发动党员和群众投资,使农场在极度困难的情况下维持了下来。后来,农场成为交通联络、培训党员的基地。唐卓昌说,黄金容这种做法让敌人始料不及,这个农场在后来恢复和发展儋县党组织、指导革命斗争中起了积极作用。

★与日军战斗中不幸牺牲,年仅38岁
  随后,抗日战争爆发了,斗争形势愈发严峻。1938年春,儋县县委举办了党员训练班,黄金容参加了训练班工作。训练班以党的统一战线政策以及全民抗战、持久抗战方针武装党员骨干。训练结束后,黄金容又和其他战友分头到各区乡进行扩军工作。同年9月,县委成立了武装委员会。
  1939年2月,日军入侵海南。光村地区进步青年举起了抗日旗帜,建立了三支抗日游击队。为统一领导三支抗日游击队,时任儋县县委书记的黄金容亲自与各游击队领导人协商,最终达成协议,成立光村地区军事经济委员会,黄金容担任主任委员。
  同年12月,为实现琼崖国共两党联合抗日,黄金容等人带领150多名儋县红军武装力量奔赴琼山直接参加改编,这就是颇具历史意义的琼崖工农红军云龙改编。而黄金容带领的儋县红军武装力量占改编后整个抗日独立队一半以上。
  面对侵略者,黄金容义无反顾地投入到抗日战争中。1940年3月初,上级为扩大抗日武装力量,根据光村地区的工作基础,决定将三支游击队合编为琼崖独立总队第六大队,黄金容兼大队政训员。计划一旦实现,琼崖西北部的儋县将有一支劲旅,可独当一面,转战沿海、内地打击侵略者,惩办奸伪,与侵略者血战到底。
  同年4月上旬,黄金容等20多名干部、战士及军械人员,背负组建革命武装的使命前往光村地区。然而,在行经抱舍墟郊外时遭遇日军,战斗中黄金容不幸中弹牺牲,时年38岁。

【旧事新说】短暂的战斗生涯 灿烂的革命人生
  从参加革命到牺牲,黄金容17年的革命生涯辉煌灿烂。他为当时儋县的劳苦工农启蒙了马列主义,像一个“老师”一样,在家乡的热土上播下了革命的种子,又像一个“园丁”一样,苦心浇灌发展着革命萌芽,直至长成“大树”。他是当时儋县名副其实的革命“第一人”。
  但是,黄金容的革命生涯却又如此短暂。38岁英年早逝,从此琼岛少了一名优秀的革命工作者。
  “黄金容烈士纪念碑”旁,符庆义久久凝望,感慨着英雄早逝。“如果没有牺牲,那他以后一定是一个大人物。”快50岁的符庆义,小时候经常听祖辈们提起这位烈士。
  沧海变迁,静谧的小渔村里,人们来来往往,为今天的幸福生活而奔波。但无论何时何日,人们却不曾忘记昨日的故事。满怀着对黄金容的崇敬与缅怀,村民每天都会自发将这里扫得干干净净,纪念碑旁没有一片落叶。
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「亀尾に「平和の少女像」設置」

2018年03月03日 | 抗日・反日闘争
http://japanese.joins.com/article/163/239163.html?servcode=A00§code=A10&cloc=jp|main|inside_left
「中央日報日本語版」 2018年03月02日11時02分  
■亀尾に「平和の少女像」設置…モデルはトランプ大統領が抱擁した慰安婦被害者

【写真】昨年11月7日、青瓦台(チョンワデ、大統領府)迎賓館で開かれた夕食会で、韓国を国賓訪問したトランプ大統領が李容洙さんとあいさつしている。(青瓦台写真記者団)

1日、亀尾(クミ)駅の裏の広場に大邱(テグ)・慶北(キョンブク)地域で9件目となる「平和の少女像」が設置された。

 この日、亀尾平和の少女像建立推進委員会(建推委)は大邱に暮らす慰安婦被害者の李容洙(イ・ヨンス)さん(91)と市民団体の約200人が出席した中、平和の少女像の除幕式を開いた。建推委は市民を対象に5カ間にわたり募金活動を行い、約3500万ウォン(約350万円)を集めた。募金活動にはオン・オフラインを通じて市民1100人が参加した。
 亀尾の平和の少女像は李容洙さんをモデルにしている。李容洙さんは昨年11月のトランプ大統領の国賓訪韓当時、トランプ大統領と抱擁してあいさつをした慰安婦被害者だ。
 少女像は高さ160センチの青銅素材で、少女像の隣には丸太の椅子、脱いだ履き物一足の彫刻品も設置された。
 チェ・インヒョク建推委事務局長は「人権を保護し、平和な世の中をつくることに寄与するため、市民と共に少女像を設置することになった。慰安婦被害者の人権と名誉を回復し、苦痛の歴史を記憶していこうと思う。戦争のない平和な世の中をつくるのに参加するという約束だ」と話した。


http://japanese.joins.com/article/286/236286.html
「中央日報日本語版」 2017年12月8日6時23分
■韓国の亀尾にも「平和の少女像」…来年3月か

【写真】釜山日本総領事館前に設置された慰安婦平和の少女像。(写真=中央フォト)

 韓国の慶尚北道亀尾(キョンサンブクド・クミ)にも平和の少女像が設置される。 
 「亀尾平和の少女像建立委員会」は7日、亀尾市役所で発足総会を行い、来年3月1日までに平和の少女像を設置することを決めた。設置に向けて6000万ウォン(約615万円)を募金する。
 設置場所は亀尾市役所、亀尾駅広場などを検討しているが、最終判断は市民の意見や亀尾市役所との協議を通して決定することにした。
 委員会は発足宣言文で「歴史を忘れた民族に未来はない。35年の日帝植民地時代は韓民族の半万年の歴史に恥辱を与えた。日本軍慰安婦はわれわれ民族と人類に対する暴力であり、人権蹂躙(じゅうりん)だった」とし「過去をしっかり記憶してそのような過去を繰り返さないために努力することだけが、同じ不幸を繰り返さない道だ」と明らかにした。


http://news.joins.com/article/22187884
「뉴시스」 2017.12.08 15:34
■경북 지자체, 평화의 소녀상 건립 추진 잇따라
【대구=뉴시스】이통원 기자 = 경북 자치단체와 대학이 평화의 소녀상 건립을 잇달아 추진한다.
 8일 경북 영천시에 따르면 김영석 시장을 비롯한 영천시 공무원, 영천여중 학생 등 영천시민이 1500명이 참여 모금을 통해 평화의 소녀상을 건립한다.
 5000여 만원의 모금액을 들여 제작한 '평화의 소녀상'은 오는 10일 영천시립도서관에서 제막식을 열고 시민들에게 공개할 예정이다.
 제작은 '평화의 소녀상'을 조각한 김서경, 김운성 부부가 맡았다.
 구미시와 영주시도 소녀상 건립추진위원회를 통해 3·1절 소녀상 제막식을 계획하고 장소, 현재 모금활동을 하고 있다.
 이밖에도 경북지역 23개 지자체 가운데 소녀상이 건립된 지역은 포항·안동·상주·군위 등 4곳이다.
 한 지자체 관계자는 "시민들의 역사에 대한 의식이 높아져 자발적인 소녀상 건립이 지자체 별로 나타나고 있다"며 "소녀상 설치는 단체장의 역사의식을 보여주는 대표사업이 되고 있다"고 말했다.
 특히 지자체 차원의 소녀상 건립뿐 아니라 경북 경산시에 있는 대구대 학생들도 건립에 나섰다.
 대구대 학생회는 지난 9월19일부터 지난 4일까지 모인 성금 1176만 원으로 소녀상을 제작해 이달 중순 학생회관 인근 '빛 광장'에서 제막식을 한다.
 이번 대구대 소녀상은 학생들의 자발적인 참여로 이뤄져 그 의미를 더한다는게 총학생회 관계자의 설명이다.
 김성팔 대구소녀상추진위 공동대표는 "전국에서 소녀상을 세우는 것은 정의로운 의식이 깨어나고 있는 것"이라며 "생각만 가지고 있다가 행동으로 옮길 수 있는 정상적인 사회로 가는 첫걸음으로 보인다"고 말했다.


http://japan.hani.co.kr/arti/politics/28403.html
「The Hankyoreh」 2017-09-07 07:00
■亀尾の高校生ら「平和の少女像」建立のため募金運動
 昨年6月から約10万円集め 
 市民団体、10月中に推進委員会を結成

【写真】亀尾地域の高校生たちがドンナク公園で平和の少女像を建てるために募金運動を行っている=亀尾YMCA提供//ハンギョレ新聞社

 「日本政府に必ず謝罪してもらわねばなりません」
 亀尾(クミ)地域の高校生らが平和の少女像を建てるために募金運動に乗り出した。今月2日午後1時から4時間の間、亀尾市真坪洞(チンピョンドン)ドンナク公園で、市民に「亀尾に少女像を建てるのに参加してほしい」と訴えた。同日の募金運動には慶亀高校や亀尾高校、亀尾女子高校、沙谷高校、仁同高校、荊谷高校などから、亀尾地域の高校生約110人が参加した。彼らは「亀尾青少年YMCA連合会」のメンバーだ。高校生らはドンナク公園で、日本軍慰安婦関連知識を伝える「○×クイズ」や慰安婦被害者ハルモニ(おばあさん)を象徴する「平和の蝶のブレスレットと蝶扇作り」、「少女像ポップアップカード作り」など、子供から大人まで簡単に参加できるプログラムを市民たちと一緒に進め、30万ウォン(約2万9千円)を募金した。高校生らは今年6月から学校別に校内で募金運動を展開し、100万ウォン(約9万6千円)を集めた後、「平和の少女像を作るのに役立ててほしい」として、亀尾YMCA事務局に渡した。亀尾青少年YMCA連合会会長のホ・インフェさん(17・亀尾高校)は「亀尾は抗日義兵長を務めた旺山許ウィ(ホ・ウィ)先生が生まれた場所だ。日本から謝罪してもらうためには、少女像を建てて市民たちに日本の戦争犯罪を広く知らせなければならない」と話した。
 少女像建設基金を受け取った亀尾YMCAは亀尾地域の市民団体と共に10月中に「少女像建設推進委員会」を立ち上げる計画だ。亀尾YMCA側は「来年の三一節に合わせて少女像を建設する計画で、建設場所は亀尾市と協議しなければならないが、現在としては、市民が多く集まるドンナク公園などが挙げられている」と明らかにした。亀尾YMCA青少年部のチェ・ヒョンウク部長は「亀尾を保守の都市と言うが、抗日義兵長を輩出した場所でもある。高校生たちが募金をして平和の少女像を建てるというのが意義深い」と話した。
 来年三一節に亀尾に平和の少女像が建てられると、浦項(ポハン)と尚州(サンジュ)、安東(アンドン)に続き、慶尚北道地域で4番目になる。

ク・デソン記者
http://www.hani.co.kr/arti/society/area/809879.html
韓国語原文入力:2017-09-06 21:30
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「「乃台事件」をご存じですか?」

2018年02月23日 | 抗日・反日闘争
http://japan.hani.co.kr/arti/politics/29059.html
「The Hankyoreh」 2017.11.23 22:03
■「乃台事件」をご存じですか?
 1940年、釜山抗日学生義挙…1929年の光州学生義挙以後、最大規模 
 23日釜山オリニ大公園の釜山抗日学生義挙記念塔で記念式

【写真】釜山抗日学生義挙77周年記念式が23日、釜山釜山鎮区のオリニ大公園内の釜山抗日学生義挙記念塔で開かれた=釜山報勲庁提供//ハンギョレ新聞社

 1940年11月23日、釜山市西区(ソグ)西大新洞(ソデシンドン)の釜山公設運動場(九徳運動場)で「第2回慶南学徒戦力増強国防競技大会」が開かれた。日帝の戦時体制強化を目的として釜山・慶尚南道の学生が参加する大会だった。第1回大会では韓国人の学校である東莱(トンネ)中学(現、東莱高)が優勝した。第2回大会では前大会の優勝教である東莱中学が最初に入場する筈だった。だが、日本人の学校が先頭で運動場に入場した。
 日帝は大会でも韓国人の学校に不利な不公平な判定を繰り返した。東莱中学は最後の長距離行軍で失格したが、2位の日本人の学校より総点で上回っていた。優勝は確実だった。当日午後の閉会式で、釜山兵たん基地司令官で大会審判長だった乃台兼治陸軍大佐は、日本人の学校を優勝校として発表した。
 東莱中学と釜山二商(現、開成高)の教師と学生は抗議した。だが、乃台は「審判の判定は神聖で絶対不可侵であるから従え」と強要した。大会に参加した韓国人学生1000人余りは、怒って運動場から釜山市中区宝水洞(ポスドン)方向に「アリラン」を歌いながら行進した。学生たちは中区瀛州洞(ヨンジュドン)にある乃台の官舎に押しかけ石を投げた。
 これに対し学生200人余りが連行され、15人が拘束、70人余りが退・停学処分を受けた。彼らのうち2人は、監獄から出た後に拷問の後遺症で亡くなった。いわゆる「乃台事件」と呼ばれる釜山抗日学生義挙だ。
 釜山抗日学生義挙77周年の記念式が23日午前、釜山鎮区のオリニ(子供)大公園内の釜山抗日学生義挙記念塔で開かれた。この日は、釜山市が昨年定めた「釜山抗日学生の日」だ。記念式には地域の愛国志士と遺族、市教育監、東莱高校・開成高校の在学生らが参加した。オリニ大公園の学生教育文化会館では記念写真展が、慶星大の建学記念館では全国学術セミナーが開かれた。

キム・ヨンドン記者
韓国語原文入力:2017-11-23 14:57
http://www.hani.co.kr/arti/society/area/820384.html


http://www.chosunonline.com/m/svc/article.html?contid=2016081201215
「朝鮮日報日本語版」 2016/08/12 10:43
■日本人審判の不公正判定に憤慨、1940年「釜山抗日学生事件」の新資料発見
 1929年の光州学生事件以降、植民地時代に起きた抗日学生運動としては最大規模だった釜山抗日学生事件(1940年)。この事件の参加者名簿や、処罰内容を細かく記録した学籍簿が発見された。行政自治部(省に相当)国家記録院は11日、釜山事件に参加した学生のリストが含まれる「退学生学籍簿」など資料12点を発見・公開した。
 これまで釜山事件は、一部の参加者の回顧録やいくつかの短い記事を通して知られているにすぎなかった。
 釜山事件は1940年11月23日、東莱高等普通学校(現在の東莱高校)と釜山第二公立商業学校(現在の開成高校)の生徒合わせて1021人が起こした。この日、釜山の公設運動場で行われた学生体育大会で、日本人審判の乃台兼治大佐が日本人学校を優勝させるため不公正な判定を行い、朝鮮人学生を侮辱するという事件が起きた。これに憤慨した学生たちが通りに出て街頭デモを繰り広げ、一部は乃台大佐の自宅を襲撃した。この事件でおよそ200人が検挙され、14人が実刑判決を受けたほか、83人が退学などの処分を受けた。
 新たに発見された学籍簿には「審判が不公平だと声を上げ、東莱中学の生徒や本校の生徒など多数と共に配属将校の乃台大佐の官舎に侵入し、石を投げてガラス窓を壊した」という退学事由が登場する。また、これまで知られていなかった、釜山第二公立商業学校の生徒8人と東莱高等普通学校の生徒2人の参加が新たに確認された。
 国家記録院は、釜山事件について「1929年の光州学生事件の後では最大規模という点から、学界の注目を集めてきた」とコメントした。
                                チャン・ヒョンテ記者
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「釜山の市民団体“アベ、祝宴の場に来て妄言”糾弾」

2018年02月18日 | 抗日・反日闘争
http://japan.hani.co.kr/arti/politics/29796.html
「The Hankyoreh」 登録:2018-02-14 21:45 修正:2018-02-15 06:48
■釜山の市民団体「安倍首相が世界の祝祭に来て妄言」糾弾
    부산 시민단체 “아베, 잔칫집 와서 망언” 규탄
 少女像・徴用労働者像の撤去要求を批判 
 「辛い歴史を繰り返さないという決意」

【写真】14日、釜山市東区草梁洞の日本総領事館前で、釜山の市民団体が安倍首相の妄言を糾弾する記者会見を行った=釜山/キム・ヨンドン記者//ハンギョレ新聞社

 釜山の市民団体が釜山平和の少女像撤去と強制徴用労働者像に対する“適切な”対応を要求した安倍日本首相の妄言を糾弾した。
 統一運動団体である「我が民族は一つ釜山運動本部」など16の市民団体は14日、釜山東区草梁洞(チョリャンドン)の日本総領事館前で記者会見を行い、「全世界の祝祭の場である平昌(ピョンチャン)冬季五輪に来て妄言を繰り返した安倍日本首相を糾弾する」と強く批判した。釜山運動本部は「9日に開かれた韓日首脳会談で、安倍首相は釜山の日本総領事館前にある少女像の撤去を要求した。日本総領事館前の強制徴用労働者像建設推進も阻もうとした。また、韓米合同軍事訓練も予定通り進めなければならないとまで言った。宴席に招待された日本の首脳として偏狭で無礼だ」と糾弾した。さらに「少女像と強制徴用労働者像は、平和を願い、辛い歴史を再び繰り返さないという決意だ。歴史的な問題に安倍首相は分不相応な口出しをするな」と警告した。
 パク・チョル牧師(チョブンキル教会)は「失敗や誤りを全く反省せずに、これを覆い隠そうとする人が最も悪い人だ。安倍首相はその頂点に立っている。平昌冬季五輪の開幕を翌日に控えて、安倍首相が文在寅(ムン・ジェイン)大統領に会って、韓日慰安婦合意(12・28合意)を早急に履行してほしいと言った。妄言だ。5月1日、強制徴用労働者像も必ずここに建てよう。それが歴史を正しく立て直すこと」と話した。チョン・ハンチョル全教組釜山支部長も「南北が共に日本に謝罪賠償(要求)運動をしなければならない。南北が第2の6・15体制を作らなければならない」と強調した。これらの団体は、記者会見の後、安倍首相の発言を糾弾するパフォーマンスを繰り広げた。

釜山/キム・ヨンドン記者
http://www.hani.co.kr/arti/society/area/832253.html
韓国語原文入力:2018-02-14 15:03


https://www.jiji.com/jc/article?k=2018021800307&g=prk
「時事通信」 2018/02/18-16:24
■安倍首相は「招かれざる客」=五輪開会式出席を非難-北朝鮮紙
【ソウル時事】18日付の北朝鮮の朝鮮労働党機関紙・労働新聞(電子版)は、平昌冬季五輪の開会式出席のため訪韓した安倍晋三首相について、「同族間の和解の雰囲気に冷や水を浴びせようとした招かれざる客」と決め付け、非難した。また、文在寅大統領との会談で、五輪後に米韓合同軍事演習を再開するよう求めた首相の発言を「妄言だ」と批判した。
 さらに、慰安婦問題をめぐる日韓合意に関し、「国家と国家の合意で、最終的かつ不可逆的だ」と迫った安倍首相に対し、文大統領が「交渉でやりとりして解決できる問題ではない」と反論したことを紹介。「日本軍の性奴隷問題を隠蔽(いんぺい)しようとした安倍(首相)の計画は水泡に帰した」と主張した。日韓間の対立を際立たせ、連携を乱す狙いがあるとみられる。
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「大田の抗日現場を訪ねる「平和の足跡」第一歩」

2017年11月12日 | 抗日・反日闘争
http://japan.hani.co.kr/arti/politics/20815.html
「The Hankyoreh」登録 : 2015.05.28 23:21 修正 : 2015.05.29 08:02
■大田の抗日現場を訪ねる「平和の足跡」第一歩
 30日に大田駅を出発…4時間踏査
 日本軍事大国化の野心警戒を契機に
 「歴史性と現場性を結合した平和人文学」

【写真】ユ・ヨンジェ「大田・忠清 平和と統一を開く人々」常任運営委員(右)が28日、大田市・中央路の旧朝鮮殖産銀行大田支店前でメンバーたちと平和の足跡行事日程を相談している=大田忠清平和と統一を開く人々提供//ハンギョレ新聞社

 大田の随所に遺っている日帝強制占領期間の痕跡と抗日独立闘争史の現場を訪ねる「第1回大田平和の足跡」行事が30日午前10時、大田駅を出発して始まる。 「歩いて感じて学ぶ大田平和散歩」というサブタイトルがついたこの行事は、「大田・忠清 平和と統一を開く人々」が主催する。光復(解放)70周年を迎えて大田で強行された日帝の抑圧と収奪、これに対抗した民衆の歴史を顧みて、現在、軍事大国化を指向する日本の野心を警戒し東アジアの平和を考えるための場だ。
 平和の足跡行列は、約4時間かけて日帝強制占領期間の本町通りと呼ばれた大田市の中央路(チュンアンノ)一帯を踏査する。大田駅前を出発し大田魚菜市場(中央市場)路地を見て、朝鮮殖産銀行大田支店(現ダビチメガネ店)を経て旧漢城(ハンソン)銀行大田支店(現、新韓銀行大田駅支店)と東洋拓殖株式会社大田支店(現、東洋タイル百貨店)を見て巡る。
 行列は抵抗の現場へと向かう。東に曲がり3・1運動の現場である仁洞市場と大田公立商業補習学校同盟休校の現場(仁洞小学校廃校跡)、郡是(グンゼ)製糸大田工場同盟ストライキの現場(現、仁洞現代アパート)で記録として遺された先賢の痕跡を訪ねる。
 大田忠清平和と統一を開く人々は、大田平和足跡行事を歴史性と現場性が結合した平和人文学と規定し、歴史を基に大田の大地と建物でどんなことがあったのかを説明する場とする。 大田駅の象徴であり大田民主化運動の拠点だった広場の歴史も付け加えられる。鉄道が持つ収奪の歴史だけでなく「大田発0時50分~」という歌詞のように、列車が汽笛を鳴らしてプラットホームを出る時に涙があふれる恋人のシルエットがちらつく歌『大田ブルース』も歌う予定だ。 オーマイニュース記者のシム・ギュサン氏が解説を務める。
 ユ・ヨンジェ「大田忠清平和と統一を開く人々」常任運営委員は、「丹齋・申采浩(シン・チェホ)先生は『歴史を忘れる民族には未来がない』で言った。歴史は繰り返される。 この行事が日帝強制占領期間の歴史を振り返り、現在の朝鮮半島の状況を見渡す契機になることを願う」と明らかにした。

ソン・インゴル記者
韓国語原文入力:2015-05-28 21:42
http://www.hani.co.kr/arti/society/area/693381.html
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「日帝の横暴に対抗し、自らの手で船を就航させた済州島民」

2017年11月11日 | 抗日・反日闘争
http://japan.hani.co.kr/arti/politics/17952.html
「The Hankyoreh」2014.08.05 23:17
■日帝の横暴に対抗し、自らの手で船を就航させた済州島民

【写真】大阪在住の済州島出身労働者たちが設立した<東亜通航組合>の船舶、鮫龍丸の初出航を知らせる記事。「東亜通航組船、鮫龍丸出航、我らの渡航は我らの船で、済州渡航労働者団結」というタイトルで1930年11月7日付『東亜日報』2面に報道されている。鮫龍丸は月2回済州島-大阪間を運航した。

 1930年 最大規模の<東亜通航組合>
 「我らは我らの船で!」

 1930年11月7日午後6時。 日本の大阪築港から、<東亜(トンア)通航組合>の鮫龍丸(745t)が黒い煙を噴き出しながら済州島に向かった。船は大阪などで労働者として働き帰郷しようとする済州島民たちで満員だった。汽笛を鳴らし徐々に港を離れていく旅客船を見守っていた朝鮮人たちは、感極まって「同胞万歳」「団結万歳」を叫んだ。『東亜日報』1930年11月7日付の記事は、日本植民地時代に日本の海運業界を驚愕させた<東亜通航組合>鮫龍丸の出港をこのように描写した。
 日本の船会社の運賃横暴と朝鮮人不当待遇に対抗して済州島民らが協同組合を作り、済州と大阪を結ぶ航路に旅客船を就航させた。1920年代末から1930年代初め、大阪に行く済州出身の労働者は月平均1000人を超えた。1934年、日本に居住する済州島出身者は当時の済州島の全人口24万人の20%に当たる5万人を超えていた。 済州-大阪航路を行き来していた朝鮮郵船、尼崎汽船、鹿児島郵船などの船賃は10円60銭~12円で、済州出身の労働者たちが利用するには負担が大きかった。

 1920~30年代に大阪-済州を往来した
 済州労働者 月平均1000人
 高い船賃のために旅客船協同組合を結成
 1万2000人が参加して6000円を募金
 既存の運賃の半値で船を利用

 大阪に居住していた済州島民は、1928年4月大阪天王寺公会堂で済州島民大会を開き、尼崎汽船と朝鮮郵船などに運賃の引き下げおよび乗客の待遇改善などを要求することを決議したが、これらの会社は交渉に応じなかった。
 これに対し、済州出身で大阪において労働運動を主導していたキム・ムンジュンらが中心になって、1929年4月「我らは我らの船で」というスローガンの下、<済州通航組合準備会>を組織した。翌年4月、協同組合形式の<東亜通航組合>が設立された。
 一口5円ずつを出資して組合員として参加した済州島民は1万2000人に達し、募金額は6000円に達した。この“旅客船協同組合”は、日帝強制占領期における最大の協同組合のひとつとして記録された。
 <東亜通航組合>は、基金が集まるや日本の会社から鮫龍丸をチャーターし就航させた。就航当日、日本の船舶会社では既存運賃12円を3円に引き下げ、優待券まで与えるなどして乗客を奪おうと妨害したが、済州島民たちは、組合の規定どおり6円50銭を出してこの船を利用した。
 当時、ムン・チャンネ東亜通航組合長は雑誌『別乾坤』(第36号、1931年1月)で、鮫龍丸の就航の意義について、「我々朝鮮人はまだ我々の国際的通航船が無く、他人の船に乗っているために、金は金で出しながら、あらゆる蔑視、あらゆる搾取を受けてきた」と話した。彼は「何人かの個人が資本を集めて自分の利益だけのためにやろうというものではない。済州人全体のことであり、延いては朝鮮人全体のことと考えている。今年も我々はこの航路開拓のために一層奮闘するつもりだ。言ってみれば、海戦だ」と明らかにした。
 1931年11月には北日本汽船会社からチャーターでなく伏木丸(1300t)を買い入れ就航させた。しかし、1934年以降、船舶の座礁と日本の船会社との競争などで衰退し、結局1936年に廃業に追い込まれた。1936年6月21日付『朝鮮中央日報』は、東亜通航組合の解散後、尼崎汽船が大阪-済州航路を独占して横暴を働き運賃を値上げした結果、済州島民が大打撃を受けたと報道した。

済州/ホ・ホジュン記者
韓国語原文入力:2014/07/27 20:27
http://www.hani.co.kr/arti/society/area/648707.html
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