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三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

「韓国の独立運動家・尹奉吉の追悼記念館 4月に金沢で開館」

2025年01月31日 | 抗日・反日闘争
「聯合ニュース」 2025.01.30 10:02
■韓国の独立運動家・尹奉吉の追悼記念館 4月に金沢で開館
【東京聯合ニュース】韓国が日本の植民地支配から解放されて今年で80年になるのに合わせ、独立運動家の尹奉吉(ユン・ボンギル)の業績を称える追悼記念館が4月29日に石川県金沢市内にオープンする。尹奉吉は1932年4月29日に中国・上海で日本軍首脳部に爆弾を投げつけて死刑判決を受け、同年、金沢市で銃殺された。
 元KBS客員研究員で記念館の設置を主導するキム・グァンマン氏が29日、聯合ニュースの取材に対し明らかにした。
 在日韓国人の協力を得て購入した金沢市内の中心にある3階建ての建物を記念館にするという。記念館には尹奉吉に関する資料などが展示される予定だ。
 尹奉吉は上海市内の虹口公園(現・魯迅公園)で行われた天皇誕生日の式典で爆弾を投げ、上海派遣軍司令官として出席した白川義則陸軍大将ら要人2人を殺害した。
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「韓国の歴史戦争、真実和解委の狂風を止めよう」

2024年03月21日 | 抗日・反日闘争
「The Hankyoreh」 2024-03-21 09:53
■[寄稿]韓国の歴史戦争、真実和解委の狂風を止めよう
 イム・ジェソン|弁護士・社会学者

【写真】国家暴力被害汎国民連帯の会員らが12日午後、真実和解のための過去事整理委員会の事務所でキム・グァンドン委員長の民間人虐殺正当化や民主化運動への蔑視発言を糾弾し、委員長との面談を要求している=シン・ソヨン記者//ハンギョレ新聞社

 尹錫悦(ユン・ソクヨル)政権の洪範図(ホン・ボムド)将軍の胸像移転の論議については、唐突だと感じた人が多かった。朴正煕(パク・チョンヒ)政権では建国勲章が授与され、朴槿恵(パク・クネ)政権では海軍の潜水艦に「洪範図号」という名称が付けられた。このように公認された独立運動家に対して尹錫悦政権は、ソ連共産党の経歴を持ちだし、国を守る陸軍士官学校には適切な胸像ではないと蔑視した。60%を越える反対世論にも関わらず、胸像の移転を決めた。いったいなぜなのか。朝鮮日報でさえ嘆いた。「今は、洪範図の胸像をめぐる論議を行うときではないのではないか」。
 論議は唐突ではない。ニューライトに掌握された尹錫悦政権の緻密な歴史戦争の過程だったからだ。国家報勲部のパク・ミンシク初代長官は同時期の昨年7月、日帝強占期(日本による植民地時代)の朝鮮人独立軍を討伐した間島特設隊で将校として服務したペク・ソンヨプについて、「ペク将軍は親日派ではない。自分の職を賭けて言える自信がある」と強く語った。長官就任から2カ月の時点で最も熱を入れたことがペク・ソンヨプの復活だった。同月、ペク・ソンヨプの顕忠院の埋葬記録から「親日行為者」の文面が削除された。
 尹錫悦政権の歴史戦争を一言で定義すると、次のようになる。共産全体主義との神聖な戦争。辞書にもない「共産全体主義」という表現を、大統領が自ら前面に押し出す。共産主義や北朝鮮と少しでも関係したと疑われれば、100年前でも50年前でも、歴史からほじくり出す。その反面、彼らに対抗したのであれば、親日でも独裁でもかまわない。ソウルの真ん中に李承晩(イ・スンマン)記念館を建てるという動きも、この時代錯誤的な反共戦士たちの聖戦の一つだ。
 この歴史戦争の最もおぞましい事件が近づいている。過去に繰り広げられた国家暴力の真実を糾明し、被害者の名誉を回復することを使命とする「真実和解のための過去事整理委員会」(真実和解委員会)が戦場だ。早ければ5月には、「共産主義者を助けたのであれば、裁判なしで殺すこともありうる」という趣旨の決定が真実和解委員会で下されると予想される。決定されるとすれば、民主化後の大韓民国の公式機関としては前代未聞の判断だ。共産主義者を抑え込むという歴史戦争が、大韓民国が勝ち取った人権と民主主義の凄惨な没落へと広がっている。
 具体的な状況は次のとおりだ。現政権のニューライト戦士の1人である真実和解委員会のキム・グァンドン委員長は、2022年に就任した直後から、「朝鮮戦争中の民間人虐殺の犠牲者から、反逆者を選り分ける」とする意向を示していた。昨年末には「朝鮮戦争のような戦時下では、裁判などできないので、赤色分子と共産主義者を(裁判なしで)軍人と警察が殺すこともありうる」という明白な嘘まで公式に表明した。
 反逆者追求の結果が、12日の委員会全体委員会に上程された。1950年10月に珍道郡義新面(チンドグン・ウィシンミョン)の住民40人あまりが、反逆の疑いをかけられて裁判もせず韓国軍警によって殺された事件(珍道事件)をめぐり、調査対象のうち4人については、「反逆者であるため、人権侵害ではない」とする「真実糾明不能」案件が上程されたのだ。幸い、委員会はこの案件に対する議決を2カ月間保留した。ここで、この寄稿の目的は、来る5月にこの案件が通過することだけは、韓国社会はなんとしても防がなければならないということだ。
 珍道事件の犠牲者4人が反逆行為をしたという証拠はきわめて脆弱だ。虐殺の19年後の1969年、加害主体である珍島警察署が作成した文書に記載された「暗殺隊員」の4文字がすべてだ。しかし、証拠の信憑性の論争は別にしておこう。犯罪者であっても、捜査過程で拷問をしたとすれば人権侵害であり、再審の理由となる。反逆行為者であっても、法が定めた手順を踏まなければならない。韓国は、善良な市民を意味する「良民」の虐殺だけでなく、「民間人」の虐殺を国家犯罪と規定している。これが文明であり法治主義だ。過去30年あまりの間、韓国社会における過去事の清算の原則だった。しかし、歴史戦争の狂風のなかでふたたび「裁判なしで殺してもかまわない」とする国家の宣言が出てくる状況になった。いまは2024年だと思っていたが、1950年と同じだ。
 「たとえ戦争中だったとしても、国家機関である警察が、非武装・非抵抗の民間人を法的根拠や司法手順を踏まずに殺害した行為は、憲法に保障された国民の基本権である生命権と適法な手続きの原則、裁判を受ける権利を侵害したものだ」。真実和解委員会の民間人虐殺決定文で繰り返された文言だ。この文言を守るべきではないのか。「国家権力は、いかなる場合であっても、合法的に行使されなければならず、逸脱に対する責任は特に重く扱われなければなりません」。盧武鉉(ノ・ムヒョン)元大統領による2006年の済州(チェジュ)4・3国家追悼式での追悼の辞だ。この原則が崩れることを見過ごすわけにはいかない。
     イム・ジェソン|弁護士・社会学者 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )

韓国語原文入力:2024-03-20 19:21


「中央日報日本語版」 2024.03.15 15:48
■「伊藤博文発言」批判して与党党舎に乱入した韓国大学生団体7人が送検
 「成一鍾(ソン・イルジョン)辞任」を要求して韓国与党・国民の力の中央党党舎に乱入した韓国大学生進歩連合(大進連)の会員らが送検された。
 ソウル永登浦(ヨンドゥンポ)警察署は15日、これら大進連の会員7人を集会及び示威に関する法律違反、共同建造物侵入など疑いで送検したと明らかにした。2人は身柄送検、残り5人は書類送検。
 大進連の会員らは9日午前11時20分ごろ、汝矣島(ヨイド)国民の力党舎に無断進入し、成一鍾議員の「伊藤博文発言」を批判しながら「成一鍾は辞任して政界を離れろ」「韓東勲(ハン・ドンフン、非常対策委員長)は謝罪して成一鍾を党から除名しろ」などと叫んだ。会員らは警察に連れ出された後にも警察の解散要求に応じずデモを続け、全員連行された。 
 永登浦警察署は11日、4人を集会及び示威に関する法律違反、共同建造物侵入などの容疑で拘束令状を請求した。ソウル南部地裁は翌日、会員2人に対してのみ逃走の懸念を理由に拘束令状を発行した。
 成議員は3日の瑞山(ソサン)奨学財団奨学金伝達式で、19世紀の伊藤博文ら日本の青年の英国留学事例を紹介しながら「伊藤博文は韓半島(朝鮮半島)にひどい事態を招いた人物であり、我々には不幸な歴史だが、(日本は)我々よりも先に人材を育成した先例だ」と述べた。
 その後、波紋を広がると、成議員は3日後の6日、フェイスブックで「奨学事業の重要性に言及する過程で趣旨と違って比喩が適切でなかった点を申し訳なく思う」と謝罪した。


「The Hankyoreh」 2024-03-13 08:52
■[社説]「日本軍性奴隷をとやかく言うな」…こんな人物が韓国の人権委員なのか

【写真】11日午後、ソウル中区の人権委全員会議室で開催された第5回人権委全員委員会に出席したキム・ヨンウォン国家人権委員会常任委員=キム・ヨンウォン記者//ハンギョレ新聞社

 国家人権委員会のキム・ヨンウォン常任委員が「日本軍性奴隷制問題は誰もが知っているのに、何度も(話を)持ち出して我々は何を得ようとしているのか」と述べたという。人権委員会が国連女性差別撤廃委員会に提出する報告書の内容を審議する11日の全員委員会で、韓国政府が日本軍「慰安婦」被害者に対する日本の公式謝罪と法的賠償を求める必要があるという部分を問題にして、そのように述べたというのだ。人権委員会の言葉とは信じられないほどの妄言だ。
 日帝が犯した「慰安婦」の蛮行が女性の人権を蹂躪した反人道的犯罪だということは、動かすことのできない歴史的真実であるだけでなく、それにともなう日本の法的賠償責任も、裁判所の相次ぐ判決で確認された。被害者や遺族が日本政府を相手取って起こした損害賠償訴訟では、2021年に勝訴判決が確定し、昨年末にも改めて日本政府の損害賠償責任を認める判決が下された。にもかかわらず、日本政府は誠意ある過去の歴史問題の解決の努力をまったく示さず、韓国政府も対日外交において一貫して屈辱的な姿勢を見せている。
 このような状況のもとで「政府は日本政府に謝罪と法的賠償を求めなければならない」という指摘は、常識的な最小限の要求だ。国連女性差別撤廃委員会は5月に韓国政府を対象とする審議を進めるが、ここに提出する報告書にこうした要求が加えられることも、極めて当然のことだ。同委員会は、2016年の日本政府に対する審議でも「公式の謝罪と犠牲者が満足できる完全かつ効果的な賠償と補償を提供しなければならない」と勧告している。
 しかし、キム常任委員は「韓国をとりまく国際情勢は北朝鮮、中国、ロシアからなるブロックがあり、それに効率的に対抗するためには日本という国が韓国には必要だ」として、報告書にこのような内容が含まれることに反対した。イ・チュンサン常任委員も同調した。外交状況を口実に、残酷な人権蹂躪を覆い隠そうとする反人権的な発想だ。国民の常識にも至らないだけでなく、人権擁護を最優先の責務とする委員会の要人としてはなおのこと低い水準の認識だ。
 人権委員会は11人の人権委員のうち3人を常任委員とする。キム常任委員は大統領が指名し、イ常任委員は与党「国民の力」が推薦した。これに先立ち両委員は、公式会議の席上でさまざまな嫌悪・差別発言をしたという理由で、人権団体から国民権益委員会に告発されたこともあった。人権委員会の中心に位置しなければならない常任委員の席をこのような人物らが埋めているとは、嘆かわしいことだ。
(お問い合わせ japan@hani.co.kr )
韓国語原文入力:2024-03-13 01:39


「The Hankyoreh」 2024-03-13 06:47
■[独自]尹大統領の指名した人権委員「日本軍性奴隷をとやかく言うな」
 キム・ヨンウォン、国連に提出する報告書への「日本への賠償要求」記載に反対

【写真】11日午後、ソウル中区の人権委全員会議室で開催された第5回人権委全員委員会に出席したキム・ヨンウォン国家人権委員会常任委員=キム・ヨンウォン記者//ハンギョレ新聞社

 国家人権委員会のキム・ヨンウォン常任委員が11日に、国連女性差別撤廃委員会に提出する報告書の内容を審議する過程で、「日本軍性奴隷制問題は誰もが知っているのに、何度も(話を)持ち出して我々は何を得ようとしているのか」と述べていたことが明らかになった。
 キム委員は、韓国政府は日本軍「慰安婦」被害者に対する公式謝罪と法的賠償を日本に対して求める必要があるとする報告書の内容を問題視し、「日本軍性奴隷制をとやかく言うなら中国による性奴隷制、反人倫的犯罪も指摘すべきだ」と述べたのだ。
 キム委員らが最後まで反対したため、11日には報告書は議決されなかった。女性団体は「非常に不適切な発言」だと批判している。
 人権委は11日午後に全員委員会を開き、人権委が国連女性差別撤廃委員会への来月提出を目標としている独立報告書について審議した。この報告書は韓国の国連女性差別撤廃条約の履行状況を点検し、それに関する人権委の意見をまとめた文書で、国連女性差別撤廃委員会は5月13~31日に韓国政府を交えて第9回審議を実施する。
 人権委事務処が全員委に報告した報告書の内容には、韓国は日本政府に日本軍性奴隷制問題の真相究明と、日本軍「慰安婦」被害者に対する公式謝罪と法的賠償を行うよう求める必要がある、との内容が含まれている。
 キム委員はこれについて、「韓国をとりまく国際情勢は北朝鮮、中国、ロシアからなるブロックがあり、(韓国が)それに効率的に対抗するためには日本という国が韓国には必要だ。このように反日感情を刺激し、日本軍性奴隷制問題は誰もが知っているのに、何度も(話を)持ち出して我々は何を得ようとしているのか」と述べ、報告書にこのような内容を入れることに反対した。
 同氏はまた、中国の「処女供出」問題にまで言及しつつ、「我々大韓民国の国民に対する『性奴隷』という非常に苛酷な形態、残酷な反人倫的な罪は、日本より中国の方がはるかに多く犯した。日本軍性奴隷制問題はわずか100年あまりしかたっていない」とし、「なぜ中国が犯した蛮行に関しては、我々大韓民国では口も開かないのか」とも述べた。
 国家人権委員会法によると、委員会は委員長1人と常任委員3人を含む11人の委員で構成されるが、キム委員は3人の常任委員のうち大統領の指名を受けて任命された人物だ。与党「国民の力」に推薦されたイ・チュンサン常任委員も、日本軍性奴隷制に関する部分は報告書から削除すべきだとしてキム委員に同調した。

【写真】11日午後、ソウル中区の人権委全員会議室で開催された第5回人権委全員委員会に出席したイ・チュンサン国家人権委員会常任委員=キム・ヨンウォン記者//ハンギョレ新聞社

 イ常任委員は、報告書に記載された「外国人家事労働者」に関する内容にも異議を唱えた。報告書には「外国人家事労働者を最低賃金より低い賃金で雇用しようという韓国での立法議論および政府の政策の方向性は、移住女性労働者に対する差別」だとの内容が記載されている。イ常任委員は「韓国は人口の絶壁のせいで国全体が滅びようとしている」と述べ、報告書の内容に反対した。同委員は「香港、シンガポールなどでは一カ月に70数万ウォン、100万ウォンで東南アジアの女性たちを家事労働者として使っているが、その東南アジアの女性たちは喜んで行っている」とも述べた。
 2人が反対したことで、結局この日は報告書は議決されなかった。報告書は今月25日に全員委に再度上程される予定だ。
 女性団体は、2人の発言は反人権的だと批判した。韓国女性の電話のソン・ランヒ常任代表は、「今も(日本軍『慰安婦』)被害生存者が(日本軍性奴隷制)問題の解決を求めている中、(キム常任委員の発言は)非常に不適切だ。国家関係、国の利益によって、ある人の人権は保護されなければならず、ある人の人権は保護されなくてもよいという認識をあらわにしたもの」と批判した。
オ・セジン記者 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )
韓国語原文入力:2024-03-12 11:31


「The Hankyoreh」 2024-03-11 09:25
■韓国大学生団体、与党本部に無断進入…「伊藤博文発言の国会議員は辞任せよ」

【写真】与党「国民の力」のソン・イルジョン議員が昨年10月18日、ソウル市汝矣島の国会疎通館で医学部定員増員と国軍医務士官学校の設立を求める記者会見を行っている/聯合ニュース

 韓国の大学生たちが、奨学金の伝達式で朝鮮統監府の初代統監だった伊藤博文を「日本が育てた人材」の先例として言及した与党「国民の力」のソン・イルジョン議員の辞任を要求し、与党「国民の力」の中央党事務所に侵入した容疑で、9日に警察に逮捕された。
 ソウル市の永登浦(ヨンドゥンポ)警察署は、韓国大学生進歩連合(大進連)のメンバー7人を建造物侵入などの容疑で逮捕した。
 大進連のメンバーはこの日午前11時20分頃、ソウル市永登浦区にある「国民の力」の中央党事務所に無断で進入し、「ソン・イルジョンは辞任して政界を去れ」というシュプレヒコールを叫んだ。警察が事務所から退去させたが、メンバーらは警察の解散要求に応じず座り込みを続け、現行犯で逮捕された。
 これに先立ち、ソン・イルジョン議員は3日、瑞山奨学財団奨学金の伝達式で、伊藤博文について「朝鮮半島にひどい事態を引き起こした人物であり、それだけに私たちにとっては不幸な歴史だが、(日本が)私たちより先に人材を育てた先例」だと述べた。この発言に対する批判が強まると、ソン議員は6日、自身のフェイスブックに「奨学事業の重要性に言及する過程で比喩が適切でなかった点については申し訳ない」と投稿した。

オ・セジン記者 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )
韓国語原文入力:2024-03-11 08:15
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「「反日」掲げ爆弾投げた日本人…49年たっての自首、死に際に残した言葉」

2024年02月16日 | 抗日・反日闘争
「The Hankyoreh」 2024-02-13 11:12
■「反日」掲げ爆弾投げた日本人…49年たっての自首、死に際に残した言葉
 日本の戦犯企業に対する「爆弾テロリスト」の生と死

【写真】東京の警察署前に貼ってある桐島聡の指名手配ポスター=東京/EPA・聯合ニュース

 「最期は本名で迎えたかった」。
 1970年代、「爆弾テロ」という日本の過激派武装闘争で世間を騒がせた「東アジア反日武装戦線」の組織員だった桐島聡は、指名手配から49年たって自首を選んだ。胃がんを患い、死をわずか4日後に控えた時点だった。事件当時21歳の大学生だった桐島は、「内田洋」という偽名で半世紀にわたる逃避生活をする間に70歳の老人となった。神奈川県鎌倉市のある病院に入院していた彼は、先月25日、病院関係者に自分が「桐島聡」であると知らせ、警察に通報するように頼んだ。自首の理由は、偽名ではなく自分の本名で死にたいということだった。
 「内田」という偽名を捨てた桐島は、先月29日に息を引き取った。日本の警視庁公安部は、彼が死亡する直前、医師の立ち会いのもと短い取調べを行った。桐島はその場で「(1970年代に犯した)事件について後悔している」、「他の組織員とは一切連絡せずにずっと一人で暮らした」と供述したという。
 警視庁は正確な身元を把握するために、桐島のDNAを複数の親族と照合した。結果は予想通り「親族関係であることに矛盾なし」というものだった。警察はより確実な物証を得るため、今月2日に桐島が住んでいた神奈川県藤沢市の自宅を捜索しノート1冊、証明写真、財布、月給明細書などを確保した。自宅からは半世紀前の武装戦線と関連した物品は出てこなかった。
 桐島は49年前、「日本帝国主義反対」を掲げて爆弾テロを行った東アジア反日武装戦線の組織員として活動した。この団体は、日本の植民地の責任を強く求め武装闘争に乗り出した、日本でも非常に異例な組織だ。強制動員被害者賠償問題によって韓国で「戦犯企業」と非難される三菱重工の東京本社ビルを、1974年8月14日に爆破した。8人が死亡し、376人もの人が負傷した。彼らはテロから1カ月後に発した声明で「三菱は、旧植民地主義時代から現在に至るまで、一貫して日帝中枢として機能し、商売の仮面の陰で死肉をくらう日帝の大黒柱である」と明らかにした。彼らの爆弾テロは、1975年5月に主要組織員らが逮捕されるまで、三井物産、大成建設など日本の「戦犯企業」へと続けて拡大した。組織員らは大学生や会社員など平凡な人たちだったため、さらに衝撃を与えた。
 桐島は1975年4月、東京の銀座にあった韓国産業経済研究所の爆破事件に関与した疑いで指名手配された。同研究所は1966年、日本生産性本部の傘下機関として設立された。武装戦線は、同機関が戦犯企業に韓国に関する情報を渡す拠点だと判断した。朝日新聞は「(桐島は)この事件への関与は否定し、他の爆破事件の関与を示唆した」と報じた。しかし、桐島が死亡したことで正確な事実関係は明らかにできなくなった。
 桐島の存在が世の中に知られると、世間の関心は彼が半世紀近い歳月をどのように生きたかに集中した。彼は指名手配の期間の多くを神奈川県藤沢市に暮らし、近くの土木会社に勤めた。日本各地に写真と共に「身長は160センチ、ひどい近視、唇が分厚く大きい」という人相が説明された手配リストが貼られたが、東京からさほど離れていない首都圏で平然と暮らしていたのだ。
 ただ、身元を確認しなければならない携帯電話、健康保険証、運転免許証などは所持していなかった。通帳を作ることができなかったのか、現金だけを使うなどアナログな生活をしてきたものと推定される。約1年前に胃がんの診断を受けたが、健康保険の恩恵を受けることができず、まともに治療を受けられなかったことが分かった。居住していた家もかなり劣悪だった。3坪ほどの大きさの部屋にはろくな家具もなく、使い捨ての弁当の容器などでいっぱいだったという。
 だからといって、桐島の人生が完全に孤立していたわけではない。家の近くの行きつけの飲み屋の関係者は、日本のメディアに「桐島は音楽、特にブルースが好きだった。うちの店でライブをする時は最前列に座って楽しんでいた」と証言した。銭湯の店主も「よく笑い、親切な人だった。悪い人には見えなかった」と話した。
 このような事実が知られ、桐島が自分の属していた武装戦線の1974年の教本を参考にしたのではないかという指摘も出ている。教本には爆弾製造だけでなく組織員の行動方針などが出ている。その中には「居住地で極端な秘密主義、閉鎖主義はむしろ危険だ。表面上は極めて普通の生活人として活動すること」などが記されていた。
 桐島の登場に非常に当惑したのは警視庁公安当局だ。時事通信は、「桐島は『国外に逃避した』という有力な情報があった。(公安当局は)正直日本にはいないと思っていたが、神奈川県に住んでいた。当局の大失敗」だと伝えた。これに先立ち、共犯である企業爆破事件の容疑者2人が国外に逃亡したことが確認された。しかし、容疑者らが逃亡したことで桐島は永遠に手配から逃れられなくなった。共犯の国外逃亡によって桐島の時効が停止となったからだ。
 桐島の親族は遺体の引き取りを拒否した。この場合、死亡した地域の地方自治体が火葬した後、無縁仏として寺に埋葬することになる。
 桐島の自首と死亡の火の粉は思いがけないところに飛んだ。今月1日、殺人未遂で指名手配中の暴力団幹部が匿名の通報で3年6カ月ぶりに長野県で逮捕された。今回捕まったのは警察が貼った指名手配ポスターで桐島の左隣にいた人物。日本の新聞やテレビなどは、桐島の顔が載った指名手配ポスターが連日報道されその隣りの人物も自然に露出した結果だと指摘した。日本の警視庁幹部はAERAに「指名手配された容疑者は大半が一般市民からの通報で捕まる。この逮捕は『桐島容疑者』のニュースが大きく報じられたことと関係が強い」と述べた。

東京/キム・ソヨン特派員 (お問い合わせ japan@hani.co.kr)
韓国語原文入力:2024-02-12 18:50
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「独立運動家・洪範図に最高勲章授与 韓国」 

2021年08月17日 | 抗日・反日闘争
https://jp.yna.co.kr/view/AJP20210817001400882?section=news
「聯合ニュース」 2021.08.17 11:01
■独立運動家・洪範図に最高勲章授与 韓国
【ソウル聯合ニュース】韓国の文在寅(ムン・ジェイン)大統領は17日、青瓦台(大統領府)で独立運動家・洪範図(ホン・ボムド)に最高勲章「建国勲章大韓民国章」を授与した。

【写真】京畿道・城南のソウル空港(軍用空港)で開かれた洪範図の遺骨返還式で敬礼する文大統領(右)=15日、城南(聯合ニュース)

 授与式には韓国を訪問しているカザフスタンのトカエフ大統領が出席した。
 青瓦台は洪範図に最高勲章を授与したことについて、「一生を独立運動にささげた功績に加え、全国民に独立精神を呼び起こし、国民統合と愛国心の高揚に寄与した」と説明した。
 洪範図は日本による植民地時代の1920年、旧満州で起きた鳳梧洞戦闘で日本軍と戦い、武装独立運動の歴史に残る勝利を収めた。抗日武装闘争を象徴する人物とされる。
 カザフスタンに強制移住させられ、同国に遺骨が埋葬されていた。文大統領が2019年4月、同国で行ったトカエフ大統領との首脳会談で洪範図の遺骨返還を要請。鳳梧洞戦闘から100年となる昨年の遺骨返還を計画したが新型コロナウイルスの影響などで延期となり、今回のトカエフ大統領の訪韓に合わせて実現した。
 洪範図の遺骨は解放記念日「光復節」の15日に故国に戻った。


http://japan.hani.co.kr/arti/politics/40818.html
「The Hankyoreh」 2021-08-16 08:25
■祖国解放戦闘の「独立の英雄」帰還…文大統領が空港で自ら遺骨を出迎え
 洪範図将軍、100年ぶりの帰郷 
 大韓独立軍総司令官を務め 
 「白頭山の虎」と呼ばれた抗日闘士 
 特使団、カザフへ飛び遺骨収拾 
 特別機で帰還…空軍最高の礼遇飛行 
 文大統領「独立英雄を迎えて光栄」

【写真】カザフスタンから洪範図将軍の遺骨を運んできた特別輸送機が15日夕方、ソウル空港に到着した。遺骨が祭壇に運ばれている=大統領府写真記者団//ハンギョレ新聞社

 祖国解放に生涯身を捧げ、「鳳梧洞(ポンオドン)戦闘」(1920)を勝利に導いた大韓独立軍総司令官、洪範図(ホン・ボムド)将軍(1868~1943)が光復節の15日、太極旗とともに故国に帰還した。
 洪範図将軍の遺骨を乗せた特別機はカザフスタンのクズロルダを出発し、この日夕刻、ソウル空港に到着した。文在寅(ムン・ジェイン)大統領はソ・フン国家安保室長、ソ・ウク国防部長官らと共に空港で将軍の遺骨を自ら出迎えた。この日の特別機は、防空識別区域(KADIZ)進入後、韓国空軍の6機の戦闘機の援護飛行を受けて着陸した。1921年の沿海州移住から100年ぶりに故国に帰還する将軍を最高位の礼遇で迎えるために、大韓民国空軍が運用する戦闘機種がすべて投入された。洪将軍の遺骨は、軍楽隊の声楽兵が「オールド・ラング・サイン」を独唱する中、儀仗隊の護衛を受けながら特別輸送機から降ろされた。「オールド・ラング・サイン」はスコットランド民謡に愛国歌の歌詞をつけた曲で、1896年11月の独立門の定礎式で培材学堂の学生たちが合唱して以降、独立運動家たちの間で国歌のように歌われた。

【写真】洪範図将軍の遺骨が15日、韓国に返還されるためにカザフスタンのクズロルダ空港で国軍の儀仗隊によって特別輸送機(KC-330)に移されている。洪将軍の遺骨は前日にクズロルダの墓域で収拾され、仮の棺に収められてカザフスタン国旗に包まれ、現地の病院に仮安置された。この日、正式な棺に移され、太極旗に包まれて特別輸送機に乗せられた=クズロルダ/聯合ニュース

 洪将軍の遺骨返還は、2019年4月の韓国-カザフスタン首脳会談で文大統領がカシムジョマルト・トカエフ大統領に要請したことで本格的に進められ、16日のトカエフ大統領の訪韓で実を結んだ。
 ファン・ギチョル報勲処長を団長とし、汝千(ヨチョン。洪範図将軍の号)洪範図将軍記念事業会理事長のウ・ウォンシク議員や、映画俳優のチョ・ジヌンさんらからなる大統領特別使節団は14日(現地時間)、カザフスタンの洪範図将軍の墓域で追悼式を行った。追悼式後、国防部遺骨発掘団と葬儀指導士が将軍の遺骨を収拾し、棺に納めた。その後、高麗人協会の主管で祭礼儀式が行われた。将軍の遺骨はカザフスタンの洪範図通り、文化会館などを経てクズロルダ州病院に仮安置された。その後、太極旗に包まれ、輸送機に乗せられて数千キロを飛行し、故国に到着した。
 将軍の遺骨は国民追悼期間を経て、18日に大田(テジョン)顕忠院に埋葬される。国家報勲処は15日から20日まで、国家報勲処ウェブサイトに「将軍の帰還」と題してオンライン追悼空間を設けている。また16日からの2日間、大田顕忠院に「国民焼香所」を設置する。
 文在寅大統領は15日の光復節演説の冒頭で「光復76周年を迎えた本日、ついに洪範図将軍の遺骨が故国に到着する」とし、「独立の英雄たちを祖国にお迎えすることは、国と後の世代が当然果たすべき責務であり光栄と考え、最後まで最善を尽くす」と語った。
 平壌(ピョンヤン)で生まれた洪範図将軍は、日帝治下で義兵闘争に身を投じた。大韓独立軍総司令官となり、間島と沿海州で「白頭山の虎」と呼ばれ、日本軍を討伐した。洪将軍は1937年、旧ソ連スターリン政権の韓人強制移住政策でカザフスタンのクズロルダに移住。現地で75歳で死去した。
ソ・ヨンジ記者 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )
https://www.hani.co.kr/arti/politics/bluehouse/1007786.html
韓国語原文入力:2021-08-15 21:37


https://jp.yna.co.kr/view/AJP20210816001100882?section=news#none
「聯合ニュース」 2021.08.16 12:04
■独立運動家・洪範図の遺骨返還 文大統領「意味ある帰還」 
【ソウル聯合ニュース】韓国の文在寅(ムン・ジェイン)大統領は、日本による植民地支配からの解放記念日「光復節」の15日夜、京畿道・城南のソウル空港(軍用空港)で開かれた独立運動家・洪範図(ホン・ボムド)の遺骨返還式に出席した後、遺骨が埋葬されていたカザフスタンに派遣された特使団の黄基鉄(ファン・ギチョル)国家報勲処長や俳優のチョ・ジヌン氏らと懇談し、遺骨の返還は「大変意味のある帰還だ」と述べた。青瓦台(大統領府)の朴ギョン美(パク・ギョンミ)報道官が16日、伝えた。

【写真】政府の特別輸送機で韓国に到着した洪範図の遺骨(資料写真)=(聯合ニュース)
【写真】骨に対して敬礼する文大統領(右)=15日、城南(聯合ニュース) 

 文大統領は、洪範図記念事業会の広報大使として活動する予定のチョ氏に対し「国民の中には洪範図将軍について十分に知らない人もいるため、記念事業会を中心に抗日独立運動の先頭に立った方の生涯と高貴な志を積極的に広めるよう努力してほしい」と呼び掛けた。
 韓国映画「暗殺」や「大将金昌洙(キム・チャンス)」(原題)で独立運動家を演じたチョ氏は、今回の遺骨返還に当たり特使団の一員としてカザフスタンを訪問した。

 文大統領が洪範図の遺骨発掘について尋ねると、黄氏は「全ての過程が順調だった」としながら、6尺(約182センチ)を超える長身だったとみられると説明した。

 独立軍を率いた洪範図は1920年、旧満州で起きた鳳梧洞戦闘で日本軍と戦い、武装独立運動の歴史に残る勝利を収めた。


http://japan.hani.co.kr/arti/politics/40794.html
「The Hankyoreh」 2021-08-13 07:10
■掘っ立て小屋で死んでいった「独立の英雄」洪範図、78年ぶりに故国へ
 親日派を処断し、「飛ぶ洪範図」の異名 
 武装闘争勝利の歴史「鳳梧洞戦闘」を率いる 
 「一兵卒姿に日本軍を狩る銃だけを持った将軍」  
 高麗人強制移住でカザフスタンへ 
 劇場の警備員として働き、生活苦の晩年 
 文大統領の2019年からの返還努力が結実

【写真】1922年のモスクワ極東民族大会に参加した洪範図将軍/聯合ニュース

 「鳳梧洞(ポンオドン)戦闘の英雄」洪範図(ホン・ボムド)将軍の遺体が、今年の光復節を機に、逝去から78年ぶりに故国に戻る。洪範図将軍は1943年、祖国の光復(独立)を見ることなく、ソウルから5000キロ離れた中央アジアはカザフスタンのクズロルダに埋葬された。
 大統領府は12日、カザフスタンのクズロルダに埋葬されている洪範図将軍の遺体が、光復76周年を迎える15日夜にソウルに到着すると明らかにした。旧韓末の1868年、平壌(ピョンヤン)で貧しい農夫の息子として生まれた洪範図将軍は、国運が傾きつつあった1895年、江原道淮陽(フェヤン)で蜂起して日本兵を射殺し、抗日運動を開始した。猟師として生活していた洪将軍は、大韓帝国が乙巳条約や丁未条約などで事実上、日本の属国に転落すると、1907年に猟師を集めて義兵部隊を結成した。その後、30人あまりの日本兵を殺傷した厚峙嶺(フチリョン)戦闘などで、数十回にわたって日本軍と激戦を繰り広げた。親日派の官吏や富豪などを処断し、日本人の金鉱を襲撃して金塊を奪い軍資金とするなど、大胆不敵な活動を繰り広げ、「飛ぶ洪範図」と呼ばれてもいる。
 1910年8月に庚戌国恥(キョンスルククチ)で国権を奪われた後、洪将軍は間島と沿海州に舞台を移して活動を続けた。洪将軍は3・1万歳運動の翌年の1920年、独立武装闘争史で最も輝かしい勝利の一つとされる鳳梧洞戦闘を率いた。当時、洪将軍は「いつも階級章もない一兵卒のような姿で、指揮刀や拳銃の代わりに日本軍を狩る長銃2丁を持ち歩いていた」(『間島独立運動小史』)という。
 しかし、独立勢力の拠点だった満州と沿海州地域に対する日本の軍事的圧迫が強まると、洪将軍は独立軍の勢力を拡大するためロシア領土に移動したが、韓人武装勢力同士の紛争で多くの死傷者が発生した「自由市惨変」を経験した。ソ連共産党はこの事件以降、韓人武装勢力を強力に統制した。1937年にはスターリン政権の強制移住政策により洪将軍ら9万6000人あまりの高麗人がカザフスタンに強制移住させられた。洪将軍は、カザフスタンのクズロルダでは掘っ立て小屋に住み、高麗劇場の警備員として生計を立てるほど苦しい晩年を過ごし、75歳で死去した。
 国権侵奪とそれに続く武装独立闘争、高麗人強制移住まで、韓国現代史の痛みがそのまま刻まれている洪将軍の遺体の返還は、これまで政府の宿願だった。政府は1992年のカザフスタンとの国交樹立後、洪将軍の遺骨返還を推進してきた。金泳三(キム・ヨンサム)政権時代の1995年に一度返還が試みられたが、北朝鮮がカザフスタン政府に対して将軍の故郷が平壌であることを挙げて反対したという。遺骨をどこに返還するかをめぐり南北の意見の相違が表面化すると、カザフスタン政府と現地同胞社会は苦しい立場に立たされざるを得なかった。

【写真】鳳梧洞戦闘の英雄、洪範図将軍の遺体が光復節の15日夜、韓国に帰って来る。写真はカザフスタンのクズロルダにある洪範図公園の洪範図将軍の胸像=クズロルダ/聯合ニュース

 同胞たちが遺体返還に快く取り組めなかったもう一つの理由は、将軍の存在がカザフスタン高麗人社会で「精神的求心点」の役割を果たしていたからだ。彼らはクズロルダに将軍の墓を建て、「民族指導者」として称えてきた。カザフスタン政府も1994年に「洪範図将軍通り」を宣言するほど将軍を尊重してきた。遺体返還に同意すべき将軍の子孫がみな亡くなっていることも現実的な困難として作用した。
 このような中、文在寅(ムン・ジェイン)大統領は2019年4月にカザフスタンを訪問し、遺体返還に向けた外交的努力を傾けたという。こうした努力が実を結び、文大統領は昨年の3・1節記念演説で遺体の返還が決まったことを明らかにできた。大統領府の関係者は「鳳梧洞戦闘戦勝100周年(6月7日)を期して洪将軍をお迎えするために努力してきたが、残念ながらコロナ禍で返還が延期されてきた。今回のカザフスタン大統領の訪韓を機に実を結ぶことになった」と説明した。
 文大統領は遺体返還に向けて、14日にファン・ギチョル国家報勲処長を特使とする特使団をカザフスタンに派遣する予定だ。特使団には共に民主党のウ・ウォンシク議員(洪範図将軍記念事業会理事長)と、「暗殺」や「大将キム・チャンス」などの複数の独立運動映画に出演した俳優のチョ・ジヌンさんが国民代表として参加する。15日夜に故国に到着する洪将軍の遺体は、16~17日の国民追悼期間を経て、18日に大田(テジョン)顕忠院に埋葬される予定だ。
イ・ワン記者 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )
https://www.hani.co.kr/arti/politics/diplomacy/1007492.html
韓国語原文入力:2021-08-12 17:39


https://japanese.joins.com/JArticle/281867?servcode=400&sectcode=400
「中央日報日本語版」 2021.08.13 08:52
■「鳳梧洞戦闘」を率いた独立活動家・洪範図将軍の遺骨、光復節に返還…78年ぶりに故国へ

【写真】洪範図将軍

 日帝強占期の「鳳梧洞(ポンオドン)戦闘」を大勝に導いた洪範図(ホン・ボムド)将軍の遺骨が死後78年ぶりに故国に戻る。
 青瓦台(チョンワデ、大統領府)のパク・ギョンミ報道官は12日、「カザフスタンのカシムジョマルト・トカエフ大統領が文在寅(ムン・ジェイン)大統領の招待で16、17日両日間、わが国を国賓訪問する予定」とし「トカエフ大統領の訪韓を機に洪範図将軍の遺骨を迎える予定」と明らかにした。
 文大統領は遺骨返還のために14日、黄基鉄(ファン・ギチョル)国家報勲処長を特使とする特使団をカザフスタンに派遣する。パク報道官は「特使団には洪範図将軍記念事業会の理事長を務めるウ・ウォンシク民主党議員と『国民代表』の資格の俳優チョ・ジヌンさんが参加する」と伝えた。チョ・ジヌンさんは、映画『暗殺』と『隊長キム・チャンス』で独立闘士役を演じて深い印象を残した点が考慮された。
 洪範図将軍は、日帝強占期の独立活動家で満州で独立軍を率いた人物だ。1920年崔振東(チェ・ジンドン)将軍とともに独立軍を率いて鳳梧洞の谷間で日本の正規軍「越江追撃隊」と戦闘を繰り広げて大きな勝利をおさめた。沿海州に居住していた1937年、スターリンの韓国人強制移住政策によってカザフスタンに移住し、1943年10月25日現地で生涯を終えた。カザフスタンのクズロルダに安置されていた彼の遺骨は光復節である15日韓国に到着し、16~17日国民追悼期間を経て、18日大田(テジョン)顕忠院(ヒョンチュンウォン)に埋葬される。
 文大統領は2019年4月カザフスタン国賓訪問の際、洪範図将軍の遺骨返還を要請し、その後カザフスタン政府が協力することを約束して両国が実務協議を進めてきた。政府は今回の遺骨返還に合わせて洪範図将軍に愛国心の鼓吹および民族アイデンティティの育成などの労をねぎらって1等級勲章である建国勲章大韓民国章を贈ることにした。
 トカエフ大統領の訪韓で実現する両国首脳会談は2016年ナザルバエフ大統領以降5年ぶりで、トカエフ大統領の就任後初めての訪韓だ。パク報道官は「カザフスタンは中央アジア内の韓国最大の貿易国であり、投資対象国として新北方政策推進の核心協力国」と紹介した。韓国は来年、カザフスタンと修交30周年を迎える。


https://www.donga.com/jp/List/article/all/20210813/2852407/1
「東亞日報」 August. 13, 2021 08:24
■洪範圖将軍の遺骨、光復節に戻ってくる
 日本による植民地時代に青山里・鳳梧洞(チョンサンリ・ボンオドン)戦闘を戦勝に導いた独立運動家洪範圖(ホン・ボムド)将軍(1868〜1943)の遺骨が、死去から78年ぶりに光復節(クァンボクチョル、独立記念日)の15日、祖国に帰ってくる。
 大統領府の朴炅美(パク・ギョンミ)報道官は12日のブリーフィングで、「カザフスタンのカシムジョマルト・トカエフ大統領が、文在寅(ムン・ジェイン)大統領の招待で16日と17日、韓国を国賓訪問する予定だ」とし、「トカエフ大統領の訪韓と連携して、カザフスタンのクズロルダに埋葬されている洪範圖将軍の遺骨を運んで来る予定だ」と明らかにした。さらに、「15日午後に到着する洪将軍の遺骨は、16日と17日の2日間、国民追悼期間を経て18日に大田(テジョン)顕忠院に埋葬される予定だ」と明らかにした。
 文大統領は遺骨奉還のため、14日、黃基鐵(ファン・ギチョル)国家報勲処長を特使とする特使団をカザフスタンに派遣する予定だ。特使団には、洪範圖将軍記念事業会理事長である与党「共に民主党」の禹元植(ウ・ウォンシク)議員と、国民代表の資格で新興武官学校事業会広報大使である俳優の趙震雄(チョ・ジンウン)氏が参加する。これに先立って、文大統領は2019年4月のカザフスタン国賓訪問で、洪将軍の遺骨返還を要請し、その後政府がカザフスタン側と実務協議を進めてきた。政府は昨年、鳳梧洞戦闘戦勝100周年を迎え、遺骨返還を推進したが、新型コロナウイルス禍の影響で先送りになった。
 カン・シンチョル大統領国防改革秘書官は、「洪将軍は、沿海州に居住した1937年、スターリンの韓国人強制移住政策に従ってカザフスタンに移住し、翌年カザフスタンのクズロルダに定着後、1943年にこの世を去った」とし、「洪将軍は1921年に沿海州に移住してから100年ぶりに祖国に戻るだけに、今回の遺骨奉還の意味はなおさら大きい」と語った。さらに「洪将軍は、民族精気の宣揚と国民愛国心の向上、高麗人の民族アイデンティティの向上だけでなく、韓国とカザフスタン間の友好増進に貢献した功績も新たに認められ、今回建国勲章最高等級である大韓民国章が授与されるため、遺骨奉還の意味はさらに大きい」と述べた。洪将軍は1962年、建国勲章2等級の大統領章を受けている。
 一方、トカエフ大統領の訪韓は、2016年以降5年ぶりのことだ。昨年1月に新型コロナ禍が始まって以来、海外首脳の初の国賓訪韓となる。朴報道官は、「カザフスタンは中央アジアで韓国の最大貿易国であり、投資対象国として新北方政策推進の中心的協力国だ」とし、「交通・インフラ・建設、情報通信技術(ICT)、保健、環境など多様な分野で両国の実質協力を拡大する案を論議する予定だ」と説明した。両国は来年、国交正常化30周年を迎える。


https://jp.yna.co.kr/view/AJP20210812003500882?section=news
「聯合ニュース」 2021.08.12 17:04
■独立運動家・洪範図の遺骨 解放記念日にカザフから返還=韓国
【ソウル聯合ニュース】韓国青瓦台(大統領府)は12日、日本による植民地支配からの解放記念日「光復節(15日)」に独立運動家・洪範図(ホン・ボムド)の遺骨返還が行われると発表した。14日に洪範図の遺骨が埋葬されているカザフスタンに黄基鉄(ファン・ギチョル)国家報勲処長を特使として派遣する。

洪範図(資料写真)=(聯合ニュース)

 遺骨は15日に韓国に到着。16日と17日の国民追悼期間を経て、18日に中部の国立墓地、国立大田顕忠院に埋葬される。
 遺骨返還は16日からのカザフスタン大統領の国賓訪問に合わせる形で実現した。
 独立軍を率いた洪範図は1920年、旧満州で起きた鳳梧洞戦闘で日本軍と戦い、武装独立運動の歴史に残る勝利を収めた。
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「反日を越えて連帯へ…映画『東アジア反日武装戦線』8月20日公開」

2020年07月23日 | 抗日・反日闘争
http://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2020/07/22/2020072280084.html
「NEWSIS/朝鮮日報日本語版」 2020/07/22 14:00
■反日を越えて連帯へ…映画『東アジア反日武装戦線』8月20日公開
 キム・ミレ監督のドキュメンタリー映画『東アジア反日武装戦線』が来月20日に封切られる。
 配給会社アイエムは21日、こうしたニュースを伝えると共にメーン予告編を公開した。
 『東アジア反日武装戦線』は、1974年に東京の三菱重工業で起きた時限爆弾爆発事故(原文ママ)など、日帝戦犯企業連続爆破事件(連続企業爆破事件。1974-75)を題材にした映画だ。戦後日本社会の真の反省を求め、日本帝国主義侵略の歴史を止めて東アジア連帯に乗り出すために行動する人々を記録した。
 メーン予告編は、『東アジア反日武装戦線』という名が与える強烈で直接的なイメージとは対照的な、抒情的な自然の風景と声明書を読むある日本人の淡々とした声で始まる。「われわれは、その日本帝国主義者の子孫」と告白する声と共に、1974年8月30日の三菱重工爆破に始まって75年の間組大宮工場爆破に至るまで、韓国では知られていなかった戦犯企業爆破事件が次々と登場する。
 最後を飾る「私たちは日本を止めたかった」というコピーは、『東アジア反日武装戦線』がいまだ成し遂げられていない任務と、新たな意味を打ち立て続けていく姿を暗示する。
 配給会社側は「映画は、憤怒と単線的イメージでつづられた『反日』ではなく、暴力の根源に対する探究と国際平和、連帯への拡張に重点を置いた」とコメントした。
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「満州の高句麗遺跡一帯を揺るがした抗日闘争の記録発見」

2020年02月17日 | 抗日・反日闘争

http://japan.hani.co.kr/arti/culture/35763.html
「The Hankyoreh」 登録:2020-02-16 22:34 修正:2020-02-17 08:26
■満州の高句麗遺跡一帯を揺るがした抗日闘争の記録発見
 [ノ・ヒョンソクの時事文化財] 

 1938年日本人 七田氏の『集安行』 
 チョン・インソン嶺南大学教授が入手し公開 
 鴨緑江辺の集安の高句麗古墳群 
 現場研究者が遭遇した抗日闘争 
 中国共産党・朝鮮人のパルチザン部隊が 
 日本軍警と繰り広げた戦闘を生々しく記録 
 古墳の大棟瓦、舞踊塚の鉄釘などは 
 集安遺跡の考古学的情報を見せる

【写真】1930年代高句麗古墳の三室塚の石室内部写真。わらを敷いて作った寝場所の痕跡が見え、当時集安一帯に出没した抗日遊撃隊の仮住居だった可能性がある。高句麗の騎馬兵と神獣を描いた壁画も見える。1938年集安高句麗遺跡に対する日本の学者の現地調査報告書『通溝』より//ハンギョレ新聞社

 「父は80余年前に満州の集安の高句麗遺跡を調査して、詳細な現場日誌を残しました。その後は家で大切に保管してきました。それがこれです」。
 2019年7月、日本の福岡で考古学者の七田忠昭氏に会ったチョン・インソン嶺南大学教授は、思いがけない内容が記録された古い一冊のノートを渡された。『集安行』というタイトルの20×16センチ大の小さなノート。28枚の紙には、七田氏の父、七田忠志氏が1938年5月17日から同年7月5日まで高句麗の二番目の都である通溝県集安の高句麗遺跡を朝鮮古跡研究会の事業で調査した当時の状況が生き生きと記されていた。
 チョン教授が何よりも驚いたのは、日誌には集安の高句麗古墳群を背景に出没した抗日遊撃隊の戦果が多数記録されていたためだ。七田氏は彼らを「匪賊」と表現したが、日誌は当時中国共産党と朝鮮人パルチザン部隊の襲撃で集安一帯の治安が不安定で、日本の研究者が極めて不安に思ったことを示していた。

【写真】日誌『集安行』の本文の内容の一部。1938年5月17日の記録だ//ハンギョレ新聞社

 「城内に入り集安旅館に泊まった…門前のトラック数台に分乗した警察隊が、匪賊討伐のために出発しようとする場面に遭った。気の抜けたような警官、何を為し得るであろうか?」(5月17日)。
 「17号墳、四神塚、イシルブン工事監督。大工に命じて急ぎ古墳の扉に鍵を付け、石室への無断侵入を阻止」(6月3日)、「夜11時頃、県公署から匪賊の状況が悪化したので…軽武装し集合せよと連絡来る…軍装のまま毛布を腹にかけ就寝」(6月11日)。
 「午前1時、…緊張した声に目覚める…匪賊の襲撃が…機関銃音が騒々しい。遊撃隊あわただしく出動…再び寝つくことはできなかった…トグジャの端にある今井組が襲撃にあい、邦人多数が惨殺、拉致されたという…約6割程度が朝鮮人というが、(食事の仕度をする)老婆は腸が露出した状態で惨殺されたと…子持ちの夫人3人は哀れに思った女匪賊の同情で帰って来た…突撃隊の子供は、日本人はバカバカだと言ったという。『間島(カンド)で日本軍が…私たちの両親・兄弟を何もしないのに殺した』と、『日本人は鬼畜だ』と言ったと」(6月20日)。
 「匪賊300人、午前12時30分頃、東江(トンガン)襲撃…途方もなく騒がしいサイレン、県公署に避難、男は武装し、各自警備に臨む…匪賊は二手に分かれて…一群は将軍塚の後方に、他の群れはトンデジャからケア江綱渓谷に出てきて逃走。機関銃と小銃の音が激烈だ」(6月24日)。「大城に匪賊襲撃」(7月1日)。

【写真】日誌『集安行』の本文の内容の一部。1938年5月17日の記録だ//ハンギョレ新聞社

 記録に出てくるトクジャ、東江など見慣れない地名は、すべて高句麗遺跡付近の村だ。内容が現場ルポを見るように具体的で迫力にあふれている。抗日遊撃隊と推定される勢力が、満州の高句麗遺跡付近で行った戦闘の現場記録が出てきたのは、七田氏の記録が初めてだ。チョン教授は「調査団が治安の悪化で撤収する直前に“大成”自体が襲撃を受けたという日誌の記録が出てきて、集安を遊撃隊が解放区にして占領した可能性もある」として「七田氏が1938年に日本の考古学雑誌に載せた報告書で、彼らを“共産匪賊”と書き、満州東邊道に主力が移動してきたと明らかにし、共産系列の武装勢力が1938年頃に集安に移ってきたという意味と見ることができる」と解釈した。
 日誌を公開した七田忠昭氏は、佐賀博物館の元館長で、韓国の学界では日本の世界的な古代住居遺跡「吉野ヶ里を調査した主役として知られている。2007年から北東アジア歴史財団のプロジェクトで、日本国内の高句麗関連遺物・記録を調査してきたチョン教授が、現地学者のほのめかされて彼に接触し、思いもしなかった近代史料を確保することになった。

【写真】1930年代の満州国時期、通溝県集安一帯の地図//ハンギョレ新聞社

 1930年代の間島と鴨緑江辺で、中国と朝鮮の共産主義者が力を合わせて東北抗日連軍を結成しパルチザン遊撃活動を行った事実は、北朝鮮の首席だった金日成の抗日闘争経歴とも直結する。当時、金日成が関与したパルチザン闘争の最も有名な成果が、1937年鴨緑江周辺の普天堡襲撃戦闘だ。発掘された日誌は、中国と北朝鮮の史料には出ていないが、普天堡戦闘に匹敵するほど激しかった抗日遊撃隊の活躍像を日本人の記録で実証されたという点で、歴史的価値が大きい。七田氏の日誌が発見され、満州、高句麗遺跡は20世紀始めに抗日闘争の舞台としての意味も持つことになったわけだ。

【写真】1930年代、日本の調査団が撮った当時の鴨緑江辺の通溝集安の入り口の風景。高句麗城を基に作った城壁がよく残っていて、左側に出入りする城門と楼閣が見える//ハンギョレ新聞社

 チョン教授が確認した七田氏の日誌と、彼が当時日本に持ってきた集安出土遺物は、今まで分からなかった集安高句麗遺跡の考古学的情報も相当数示している。太王陵の南西側の建物跡に多量の赤瓦無地の建物跡があるという記録からも、高句麗の王陵級古墳に使われた大棟瓦、舞踊塚から出土したという鉄釘4点は特に注目される。そのほかに日本の奈良県にある天理大付属図書館に保管された高句麗壁画模写の先駆者、小場恒吉の平南(ピョンナム)眞坡里古墳調査関連史料を発見し紹介して、日本所蔵の高句麗瓦の全貌を評価し分析した点も成果だ。詳細な内容は、財団が最近出した『日本所在高句麗遺跡-日帝強制占領期間高句麗遺跡調査研究V』に掲載され公開される予定だ。

ノ・ヒョンソク記者 (お問い合わせ japan@hani.co.kr ) 写真:チョン・インソン嶺南大教授提供
http://www.hani.co.kr/arti/culture/culture_general/928412.html
韓国語原文入力:2020-02-16 18:16
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「明東学校を監視した100年前の日帝機密文書発掘」

2020年02月17日 | 抗日・反日闘争
http://japan.hani.co.kr/arti/culture/24920.html
「The Hankyoreh」 2016-08-16 13:45
■明東学校を監視した100年前の日帝機密文書発掘
 金躍淵記念事業会のキム・ジェホン事務総長が公開
 1912年の憲兵司令部「在外不良鮮人言動」
 強制併合の直後の満州・沿海州の抗日運動史料
 1919年の北間島領事分館の外務省報告
 尹東柱・宋夢奎の親など明東学校教師として確認

【写真】12年11月、朝鮮駐在憲兵隊司令部で作成した報告書「在外不良鮮人言動」の表紙//ハンギョレ新聞社

 映画「東柱」で、尹東柱(ユンドンジュ)や宋夢奎(ソンモンギュ)が生まれ育った明東村など北間(ブクカンド)と沿海州一帯の韓人共同体を、日帝が朝鮮支配初期から「不良鮮人本拠地」として集中的に監視した事実が確認できる秘密文書が100年ぶりに公開された。
 圭巌・金躍淵(キムヤクヨン)記念事業会のキム・ジェホン事務総長は15日の光復節を迎え、1912年11月に朝鮮駐在憲兵司令部、1919年6月に北間島頭道溝(トゥドグ)の日本領事館分館で、本国外務大臣に送った「機密公信」を発掘しハンギョレに知らせた。
 明治天皇の子で裕仁(ひろひと)の父の嘉仁(よしひと)が王位を継承した大正元年(1912年)11月の朝鮮駐在憲兵司令部の「在外不良鮮人言動」によると、強制併合された朝鮮本土とは違って民族精神教育と独立運動の勢いを衰えていない北間島の韓人たちの活躍ぶりを逆説的に確認できる。

【写真】「機密公信21号」の目次。露領(ウラジオストク一帯)、豆満江(北間島)、鴨緑江(西間島)、ハルビンから奉天(瀋陽)方面、米国地方に分け朝鮮人の抗日独立運動の動向を詳細に整理していた//ハンギョレ新聞社

 北間島キリスト教民族運動史が専門のソ・グェンイル韓神大教授(国史学科)は「文書の目次を見ただけで、露領(ウラジオストク一帯)、図們江(北間島)、鴨緑江(西間島)、ハルビン~奉天(瀋陽)方面、米国地方まで網羅されており、当時、朝鮮本土以外に広まっていた韓人共同体の国権回復と抗日闘争運動の様相を広範囲かつ総体的に表している」と史料価値を高く評価した。例えば、日付別に整理された文書には、浦潮(沿海州)で韓人らが真っ先に定着したゲチョン里で朝鮮人70人余りが決死隊を組織し、日本帝国の朝鮮侵奪を糾弾する檄文5千枚を配布して日本人に投石をしたという「報告」がされている。また、韓人学校で演説会を開き、異国の地で不幸にも病死した李儁(イジュン)烈士の妻や家族を助けると話され、安重根(アンジュングン)義士の殉国1周忌を迎え、義士の家族を助けるとする演説会が開かれたという記録もある。

【写真】1919年6月、北間島頭道溝の日本領事館分館から本国外務大臣内田康哉に送った「機密公信21号」//ハンギョレ新聞社

 ソ教授は「米国で結成された大韓人国民会議の安昌浩(アンチャンホ)、鄭在寬(チョンジェグァン)らがロシア領に来て黄公達(ファンゴンダル)や崔寬屹(チェグァンフル)らと会ってキリスト教信者中心の国権回復運動を議論する内容などは、キリスト教と独立運動の関係を究明するうえで貴重な手がかりとみられる」とキリスト教民族運動史の観点から新たなアプローチが必要かもしれないと指摘した。
 また他の文書は、1919年6月に日本の頭道溝領事館分館の主任・諏訪光瓊が外務大臣子爵の内田康哉に送ったもので、「朝鮮独立運動ニ関スル情報送付件、本件ニ関スル情報中ノ重ナルモノ別紙写ノ通リ一括御参考迄ニ差進矣間御査閲相成度」と書かれている。さらにこの公信の写本には、鈴木領事と木島主任に先に送付したと明らかにしている。

【写真】在外不良鮮人言動に載る1919年現在の明東学校職員名簿。詩人尹東柱の父ユン・ヨンソクは会計と教師、宋夢奎の父ソン・チャンヒも教師と記されている//ハンギョレ新聞社

 この文書には特に明東村にあった明東学校の初期の教師陣と第1~5回の主要卒業生のリストと動向を具体的に明らかにしている。1919年の明東中学校の現役職員のリストを見ると、校長・金躍淵、校監・崔ジェ鶴(チェジェハク)、学監・朴景チョル(パクキョンチョル)、総務・朴光ソプ(パクグァンソプ)、会計・尹永錫(ユンヨンソク)、教師にキム・ヨンオン、朴・景チョル、崔ジェ鶴、イ・ギュシク、ヨ・ボンガプ、ヨ・ボンウン、チェ・シンハク、ユン・ヨンソク、ソンチャンヒ、ラ・ホンなどとなっている。また「明洞イエス協学校同窓録」という題名で第1~5回小学校と中学校卒業生の一部の名前はもちろん、年齢、出身地、卒業後の活動まで一目瞭然に整理されている。
 キム・ジェホン事務総長は「これまで初期の明東学校の教師と生徒名簿は、生存者らの口述や証言に依存して部分的に把握されていたにすぎなかったが、日帝の監視記録のおかげで正確に確認できるようになった」と説明した。
 たとえば詩人の尹東柱の父ユン・ヨンソクと文益煥(ムンイクファン)牧師の父ムン・ジェリンが中学校の第2回卒業同期だと明らかになっており、ユン・ヨンソクは卒業後に会計として学校で勤務しており、ムン・ジェリンは北京留学をしたという事実が分かる。また、宋夢奎の父ソン・チャンヒをはじめ、イ・ドンフィの娘イ・ウィスンも女学校教師の名簿に載っている。今までイ・ボンウンとされていた「東亜日報」記者出身教師はウ・ボンウンであることが確認された。
 ソ・グェンイル教授は「卒業生の出身地を見ると、北間島4県の和竜県、延吉県、琿春県、汪清県地域だけでなく、国内の咸境北道鍾城、会寧、穏城、羅南、吉州、慶興、慶源、清津と忠清南道舒川からも留学にきており、ロシア領の秋風、水靑、海参威地域の出身もいる」と明東学校が当時の先進教育機関として早くから名声と信望を得ていたことが分かると語った。また、日帝の文書はムン・ジェリンをはじめ、キム・ソククァン、ムン・ソンリン、キム・ジョンフンなど北京留学生らが戻ってきて北間島地域の民族教育運動と青年運動の先頭に立った事実も確認される。
 明東村は漢学者の金躍淵先生が1899年に咸鏡北道会寧からムン・ビョンギュ、キム・ハギュ、ナム・ジョンギュなど4家門142人とともに豆満江を渡って北間島和竜県ジシン郷に開拓した村だ。1908年に明洞書塾として発足した明洞学校は、翌年に明東中学校となり、1911年に明東女子学校が増設され、25年間で1200人の人材を輩出して間島独立運動の拠点になった。

【写真】明東村の設立者、金躍淵先生のひ孫に当たるキム・ジェホン圭巌記念事業会事務総長//ハンギョレ新聞社

 金躍淵先生のひ孫にあたるキム氏は、航空業界に従事したため30年間、米国、カナダ、日本など世界各国を回りながら明東村だけでなく北間島や沿海州付近の韓国人独立運動資料を収集してきた。これをもとに記念事業会は報勲処とともに満州抗日運動資料集20冊の編纂作業を進めている。
 キム氏は「編纂作業のために植民地支配下の陸海空軍のマイクロフィルム文書などを確保する過程で、今回の外務省秘密文書を発掘した」と話した。

キム・ギョンエ記者(お問い合わせ japan@hani.co.kr )
韓国語原文入力:2016-08-15 23:31
http://www.hani.co.kr/arti/culture/religion/756834.html
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「米メリーランド州議会、柳寛順決議案を全会一致で採択」

2020年01月26日 | 抗日・反日闘争
http://www.donga.com/jp/List/article/all/20200123/1959921/1/米メリーランド州議会、柳寛順決議案を全会一致で採択
『東亞日報』 January. 23, 2020 08:07,
■米メリーランド州議会、柳寛順決議案を全会一致で採択
 米メリーランド州議会は13日(現地時間)、柳寛順(ユ・グァンスン)烈士の死去100周年を記念して、独立運動を公認する決議案を全会一致で採択したと、グローバル韓国人連帯が明らかにした。この決議案は、中国系スーザン・リー上院議員(16地区)と韓国人2世のマーク・チャン議員(32地区)が上下院にそれぞれ発議した。決議案は、韓国の独立運動である3・1運動100周年を記念して、平和デモを導いた柳寛順烈士の自由に向けた献身を称える内容を盛り込んでいる。
 今回の決議案採択は、韓国人が請願に積極的に乗り出した結果だと連帯は説明した。米韓国人の日だった当日の記念行事で、パク・チュンギ元連邦特許庁行政判事は、「自由と民主主義に向けた柳寛順烈士の献身が、今回の決議案によって浮き彫りになり嬉しい」と感想を明らかにした。アン・ビョンユン駐米大使館公使参事官、リンダ・ハン・グローバル会長などの韓国人会の団体長たちも同日の行事で功労章を受章した。
 米州における韓国人の日は、韓国人がハワイに初めて到着した1903年1月13日を記念する日だ。2005年、米連邦上下院で法案を可決後、毎年、全米で記念行事が開かれる。
            任寶美 bom@donga.com
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「李儁烈士と安重根義士が経たウラジオストク駅」

2020年01月26日 | 抗日・反日闘争
http://www.donga.com/jp/List/article/all/20200118/1955479/1/李儁烈士と安重根義士が経たウラジオストク駅
「東亞日報」 January. 18, 2020 08:57,
■李儁烈士と安重根義士が経たウラジオストク駅
 ウラジオストク市の中心にある中央革命広場から徒歩で10分の距離にあるウラジオストク駅は韓国人との縁が深い。1893年、ウラジオストクとウスリースク区間が開通して以降、使われ始めたこの駅は、世界最長のシベリア横断列車(9334キロ)の終着地として有名だ。また、沿海州と満州を舞台に独立戦争を繰り広げた抗日闘士が利用した場所でもある。
 縁の開始は1907年。ハーグ特使が万国平和会議に参加するためにこの駅を訪れた。「第二次日韓協約(1905年)の不当さと日帝の侵略を世界に伝えよ」という高宗(コジョン)皇帝の密旨を持って、李相卨(イ・サンソル)と李儁(イ・ジュン)は同年5月21日、ウラジオストク駅からサンクトペテルブルクに向かう列車に乗った。15日後の6月4日にサンクトペテルブルクで李瑋鍾(イ・ウィジョン)と合流した特使は、オランダ・ハーグに到着し、日本の侵略行為を糾弾した。 
 1909年10月26日、ハルビンで伊藤博文を刺殺した安重根(アン・ジュングン)もこの駅を利用した。安重根は同年2月7日(陰暦)、ロシア領土での韓国人の初期の定着地である延秋下里で12人の同志と共に左手の薬指を切って、太極旗に「大韓独立」と血で書き、国のために命を捧げることを決心する。その後、ウラジオストクの韓国人の定着地である開拓里で、伊藤博文が満州を視察しに来るという消息を聞くや、暗殺することを決心する。この時、開拓里の韓国人社会の指導者、崔在亨(チェ・ジェヒョン)は、安重根ために拳銃「ブローニング」を手に入れるなど、偉業を支援した。ついに10月21日午前8時50分、ウラジオストク駅で安重根は同志禹徳淳(ウ・ドクスン)と共に偉業を実行した。この他にも多くの無名の独立闘士がウラジオストク駅を利用して独立運動を行った。
 ロシアの韓国人独立運動史の最後の場面もこの駅で繰り広げられた。1937年にスターリンが実施した韓国人強制移住政策により、何も知らずに汽車に乗った韓国人は、中央アジアなどロシア各地に散らばった。鳳梧洞戦闘の主役、洪範図(ホン・ボムド)もこの時、カザフスタンに連れて行かれた。水原(スウォン)大の朴桓(パク・ファン)教授は、「中央革命広場がウラジオストクの象徴なら、ウラジオストク駅は韓国人独立運動の象徴に挙げられる」と指摘した。
       ウラジオストク、ウスリースク=アン・ヨンベ記者 ojong@donga.com
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「姜宇奎義士の取調べを見守った日本新聞「本当に老人か」」

2019年12月04日 | 抗日・反日闘争
http://www.donga.com/jp/List/article/all/20191128/1913683/1/姜宇奎義士の取調べを見守った日本新聞「本当に老人か」
「東亞日報」 November. 28, 2019 15:20,
■姜宇奎義士の取調べを見守った日本新聞「本当に老人か」
 「爆弾犯人の姜宇奎(カン・ウギュ)は検事局に護送された後、鍾路(チョンノ)警察署の未決監に入れられているが、獄中では非常に穏やかだった。検事局で取り調べを受けるときは、何か楽しく感じられることがあれば哄然と笑い、時事を語るに至っては傲慢な態度になり、志士であるかのようにテーブルを叩きながら語る光景は高齢者とは思えないほどだった」。
 3・1運動後の1919年9月2日、新たに赴任する斎藤実朝鮮総督に爆弾を投げた姜宇奎義士(1855〜1920・写真)。彼の取調べの過程を描いた日本の大阪朝日新聞の同年10月7日付けの記事だ。記事は、「もし気に入らないことがあれば、口を堅く閉じて一言も言わず、一般の犯人とは雰囲気が全く違って取り調べが難しかった」と伝えた。日本新聞にも関わらず、記事の行間から姜義士の気概と強い力を感じることができる。
 姜宇奎義士記念事業会(会長=チャン・ウォンホ)は姜義士の殉国99周期の29日、ソウル鍾路区の北朝鮮5道庁で義挙100周年記念学術会の「姜宇奎義挙の歴史的存在感と性格」を開催する。
 韓国独立運動史研究所のキム・ヒョンモク研究委員は発表文で、大阪朝日新聞を中心に姜宇奎義挙について日本メディアの報道を調べた。キム研究委員は、「姜義士が耐えがたい拷問を受ける最中、日本のメディアは独立運動を貶め、姜義士を現実に不満を抱く過激派や『無頼漢』と罵倒した」と明らかにした。
 民衆が姜宇奎義挙をどれほど痛快に思ったかは、当時の日本側の取調べの資料からもわかる。水原(スウォン)大学史学科の朴桓(パク・ファン)教授は発表文で、「姜宇奎義士の民族運動」で1919年10月21日、平安北道(ピョンアンブクド)知事が報告した「爆弾犯人姜宇奎についての感想」の段落を紹介した。
 「平安北道鉄山郡(チョルサングン)地方の有識者階級者の間で、犯人の姜宇奎は…60歳を超えた老躯を率いながら、遠く離れたウラジオストクから京城に潜入して…その勇猛は壯者を超えており、吾人朝鮮民族が全く快く思っており、仮に極刑に処されて刑場の露に消えても、その偉勲は朝鮮民の脳裏に深い印象を長く、秘史上の一つの美談として伝えられるだろうし、これを上揚する(称える)ような言動をする者がいる」
 朴教授は、「姜宇奎の義挙はその後、国内外の民族運動の大きな起爆剤となった」と評価した。学術会では、キム・ジュンウィ記念事業会顧問(元国会議員)が基調講演を行い、「姜宇奎評伝」の著者であるウン・イェリン氏とハン・ドンミン水原博物館長がパネリストとして参加する。
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