三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

海南島近現代史研究会 第2回定例研究会

2008年12月26日 | 集会
 1939年2月10日に、日本は宣戦布告することなしに海南島戦争を開始しました。その7か月後、1939年9月に、ポーランドに、ドイツ軍が西方から、ソ連軍が東方から侵入して分割占領し、第2次世界戦争が開始されました。
 日本政府と日本軍中枢が2月10日に日本軍を海南島に奇襲上陸させたのは、「紀元節」である2月11日に海南島の首都、海口を占領することを計画していたからでした。
 その70年後、海南島近現代史研究会は、研究集会を開催します。
 みなさんの参加をまっています。    

 と き:2009年2月8日(日) 13時~17時 (12時半に開場します)
 ところ:大阪産業大学 梅田サテライト・レクチャーA室 (大阪駅前第三ビル19階)
 参加費:500円(会員は無料です)                                    

◆◆プログラム◆◆

【研究報告Ⅰ】 天皇制国家日本のアジア侵略への国家総動員  紀元節・神武天皇陵・八紘一宇
                                                 久保井規夫
 日本が海南島侵略を開始していたころ、日本国内では「神武天皇御陵」や「橿原神宮」が国策として拡張され、「八紘一宇」というアジア侵略への国威高揚のスローガンが掲げられ、国家総動員の仕上げがおこなわれていました。

【研究報告Ⅱ】 1939年2月10日の世界史的意味                   佐藤正人
 国民国家日本が1869年にアイヌモシリの一部(「北海道島」)を植民地としてから70年後、1939年2月に、天皇ヒロヒトと日本政府は、海南島に日本軍を奇襲上陸させました。それからさらに70年が過ぎました。海南島近現代史のなかの日本近現代史と世界近現代史を認識する意味を、みなさんと共に考えたいと思います。
 
【研究報告Ⅲ】 1939年2月、マスメディアは海南島侵略をいかに報道したか    竹本昇
 1939年2月10日に、大阪毎日新聞社は、「今暁・海南島へ奇襲上陸 直ちに猛進撃を開始 宛ら無人の野を征く」という号外を出しました。その「無人の野」における日本軍の犯罪を報道したマスメディアはありませんでした。

【研究報告Ⅳ】 2009年、マスメディアは海南島をどのように報道しているか    日置真理子       
 70年前、日本人がどのような目的で海南島に上陸したか。そして何をしたのか。まったく振り返ることがないまま、海南島をリゾート目的で利用する日本の報道を取り上げてみます。

【研究報告Ⅴ】(予定)  海南島捕虜収容所のオーストラリア軍ガル・フォース
                      飢えと疫病と重労働  生き証人に聞く    西里扶甬子 
              
■「月塘村虐殺」・月塘村村民の対日本政府要求について

■「朝鮮村」の現状報告と「朝鮮村虐殺」の真相究明について

■第2回総会(2008年8月)以後の会の活動報告と2009年春の第4回海南島「現地調査」について

  海南島近現代史研究会 http://www.hainanshi.org/
     【事務局】 大阪産業大学経済学部 斉藤日出治研究室 
            大阪府大東市中垣内3 電話090-9712-3991
コメント

「海南島戦時性暴力被害訴訟」控訴審、結審

2008年12月25日 | 海南島
 きょう、「海南島戦時性暴力被害訴訟」の控訴審が結審しました。

 2001年7月16日に、黄玉鳳さん、陳金玉さん、玉民さん、陳亜扁さん、黄有良さん、林亜金さん、譚玉蓮さん、譚亜洞さんは、日本国を被告として、「名誉及び尊厳の回復のための謝罪」と「名誉及び尊厳の回復がなされてこなかったことに対する損害賠償」を求めて、訴状を東京地裁にだしました。
 2001年11月に、東京地裁で第一回口頭弁論が開かれ、黄有良さんが証言しました。
 その後、原告が出席しないまま口頭弁論が続けられましたが、2005年3月8日の第13回口頭弁論のとき、林亜金さんと証人張応勇さんが証言し、2006年3月8日の第14回口頭弁論のとき、陳亜扁さんが証言しました。
 2006年8月、5か月ぶりで再び来た原告の陳亜扁さんが見まもるなかで、東京地裁民事24部の裁判官(矢尾渉、梶智紀、亀村恵子)は、海南島における日本軍の性犯罪事実とその不法性を認定しながら日本政府を免罪し、「原告らの請求をいずれも棄却する」という不当判決をだしました。
 原告と弁護団は直ちに控訴しました。中国人戦争被害賠償請求事件弁護団・海南島戦時性暴力被害賠償請求事件弁護団共同抗議声明。中華全国律師協会・中華全国婦女聨合会・中国人権発展基金会・中国法律援助基金会・中国抗日戦争史学会は共同で抗議声明をだしました。
 2007年5月15日に、控訴審の審理が開始され、9月25日に第2回口頭弁論、10月18日に第3回口頭弁論が開かれました。
 2008年1月15日午後2時から、東京高裁818法廷で、4回目の口頭弁論が開かれました。この日、黄有良さんが証言しました。
 その後、5月15日に第5回口頭弁論、9月18日に第6回口頭弁論が開かれ、きょう12月25日に第7回口頭弁論が開かれました。

 きょうは、陳金玉さんが、証言しました。
 陳金玉さんの証言を傍聴しようとして、朝9時半までに、東京高裁前に、100人以上の人が集まりました。しかし、証言がおこなわれる高裁424号法廷の傍聴席には42人しか入ることができず、抽選からはずれた人たちは傍聴できませんでした。弁護団は、担当裁判長(高裁第21民事部渡辺等裁判長)に大きな法廷を使うことを要請していたのですが、裁判長は許可しなかったそうです。
 陳金玉さんは黎族で、漢語を話しません。法廷では、黄有良さんの話す黎語を、海南島から同行し陳厚志さんが漢語に通訳し、それを徳永淳子さんが日本語に通訳しました。
 陳金玉さんは、静かに、日本兵から加えられて危害について語り、そのときこころとからだに受けた、いまも癒されることのない傷について話しました。
 証言をはじめてからまもなく、陳金玉さんは、涙声になり、話しができなくなり、10分ほど休廷しました。
 証言のおわりに、陳金玉さんは、被告席に座っている3人の日本国の代理人の方を向いて、日本政府に歴史を直視し事実を認め謝罪し賠償することを求めました。

 2005年3月16日に林亜金さんと張応勇さんが東京地裁で証言する1か月ほど前、ハイナンNET(海南島戦時性暴力被害者への謝罪と賠償を求めるネットワーク)が組織されました。きょう夕刻、ハイナンNETは報告集会を開きました。
 傍聴できなかった人もふくめ70人ほどが参加しました。
会場に来てくれた陳金玉さんは、「日本に行くのが怖かったが、日本の若い人に、事実を知ってもらおうと思って来た」と話しました。
 通訳してくれた陳厚志さんは、故張応勇さんとともに、海南島保亭地域で、日本軍から性暴力をうけた被害者を支えてきた人です。2002年10月に、わたしたちが韓国挺身隊研究所のメンバーといっしょに保亭地域を訪れたとき、張応勇さんは、最も信頼できる青年だといって陳厚志さんを紹介してくれました。2005年11月に張応勇さんは病死されました。

 きょうの7回目の口頭弁論のあと、裁判長は、2009年3月26日午後3時に判決を出すと言いました。法廷は、きょうと同じ高裁424号法廷になりそうです。
                              佐藤正人                            
コメント

“沙土惨案” 5

2008年12月07日 | 海南島
 わたしたちが話を聞かせてもらっている所に、村人がおおぜい集まってきて、証言している人たちに質問したり自分の意見を言ったりしました。子どもたちが傍で、熱心に聞いていました。
 村人に囲まれながら、温陳東さん(73歳)は、つぎのように話しました。
   「日本軍が村に来た時、村長は村民に逃げないでみんな集まるようにと指示した。村人は4か所に集まったが、そこで日本軍に殺された。
    わたしは、祖父(温学志)、祖母、父(温時開)、母(黄氏)姉といっしょに家を出た。わたしは、祖父に背負われていた。みんなが集まっている温家春の畑にいった。
    そこで祖父が日本兵に銃剣で胸を刺された。銃剣が背中まで突き刺ささって、祖父は倒れたが、すぐには死ななかった。わたしは背中を銃剣で刺されたが、深くはなかった。
    日本兵がいなくなってから祖父は立ち上がりわたしを背負って家に戻った。戻ったらすぐに死んだ。祖母も父も母も姉も殺され、わたしだけが生き残った。
    結婚してよその村にいっていた叔母(父の妹)が、草薬でわたしの傷の手当をしてくれた。治るまで叔母の家にいたが、治ったら家に戻って1人で暮らした。まだ小さかったので、叔母がよく面倒をみてくれた」。
 温陳東さんの背中に大きな傷跡がありました。

 温際貴さん(79歳)は、つぎのように話しました。
   「日本軍が来た時、村長はみんなに樹の下に集まるようにと言った。
    日本兵は集まった村人を、年寄りも子どもも女も、縄で縛った。
    父(温時安)と母と弟と妹が殺され、わたし1人が残った。
    腹と肩を刺され、血まみれになったが死ななかった。
    日本が敗けたときは、うれしかった。
    日本人を恨み憎んでいる」。
 温際貴さんの左下腹部に5センチほど、左肩に7センチほどの傷跡が残されていました。

 村人の1人が、当時の村長(温基達さん)の娘さんで、いま橋頭に住んでいる温春花さんが書いたという1枚の記録を見せてくれました。そこには、温春花さんの身近で日本兵に殺された22人の名(あるいは縁戚関係)が記されており、「温基達(村長)は日本人に井戸のところに連れていかれて惨殺された。温基達の父と母、ふたりの幼い子どもも殺された……」と書かれていました。
 温天元さんは、虐殺現場のひとつである7本の樹がたっていた場所と、遺体が埋められた場所に案内してくれました。
 「血海深仇 永不忘懐(侵瓊日軍制造“沙土惨案”実況)」には、“当時の福留村の総人口は298人で、そのうち264人が殺され、生き残ったのは34人だけだった”、と書かれています。
                                  佐藤正人
コメント

“沙土惨案” 4

2008年12月06日 | 海南島
 沙土の福留村の小さな商店の前で、当時のことを知っている人がいないかと、たずねました。そこにいた、若い女性が、「幸存者」の温天元さんの家に案内してくれました。
 訪ねてきた理由を話すと、温天元さん(74歳)は、近くの広場の日陰に席をつくってくれ、つぎのように話してくれました。
   「共産党の人を隠しているといって日本軍がわたしたちの村に来た。わたしたちの村では、塩丁に駐屯している共産党にいつも船で食料を送っていたらしい。
    塩丁はここから海上を南に4キロほど行ってからさらに陸を2キロほど行った所だ。いまの塩丁農場のあたりだ。1941年農暦6月12日の昼12時ころ日本軍の1部隊が欽帝村を通ってわたしたちの村に入って来た。もうひとつの部隊が、馬村から船でやって来た。さらに、もうひとつの部隊が橋頭のほうからやって来た。全部でみっつの部隊が別々にやって来て、わたしたちの村を包囲したのだ。
    当時の村長(温際達)は、村人みんなを近くの7本の大樹の下に集まらせて、日本軍を迎えた。村人は1人も逃げなかった。
    集まった村人を日本兵は縄で縛り、年寄りと女性と子どもと学生を温國現の家に、そのほかの人たちを温家春の畑に連れていった。教師は学生といっしょだった。
    温國現の家に連れていかれた女性は強奸されてから殺された。学生は1人は逃げたが、あとは全部殺された。
    わたしの祖父、祖母、父の姉、父の姉の女の子、父の2番目の姉、父の妹が、樹の下に集められたあと殺された。わたしと父の妹だけが生き残った。日本軍がきたとき父はすでに死んでいた。母は再婚して別の村に行っていた。
    日本兵は祖父を銃殺したが、わたしは祖父の身体のかげにいたので助かった。祖父は、わたしを自分の身体で守ってくれたのだ。日本兵はわたしを銃剣で突き刺したが、傷は深くはなかった。機関銃の音と村人の悲鳴がいつまでも続いていたのを覚えている。
    たくさん殺された。遺体を埋めるのに3日かかった」。

 温天元さんが話しているところに村人が集まってくれ、当時のことをつぎつぎに話してくれました。温天芬さん(75歳)は、つぎのように話しました。

    「あの日、わたしは幼かったが、樹の下の集まるように言われたので、家族10人みんなで行った。わたし、母(劉氏)、1番目の兄(温天武)、2番目の兄(温天全)、3番目の兄(温天養)、1番目の姉、2番目の姉、叔父(温龍口)、叔母、甥の10人だ。そのうち生き残ったのは3人。7人が殺された。父(温龍一)は、市に行っていたので助かった。
     1番目と2番目の兄、叔父の一家3人は、樹の下で、殺された。母、3番目の兄、2人の姉とわたしは、温国現の家に集められた。2人の姉はそこで日本兵に強奸されたあと殺された。
     わたしは、背中を銃剣で刺されたが、深くはなかった。母は9か所刺され、3番目の兄は数か所刺されたが、死ななかった」。

 話しながら、温天芬さんは上着を脱いで背中の傷を見せてくれました。そのそばにいた温天養さん(80歳)も、黙って腹部の傷跡を見せてくれました。温天養さんは耳が聞こえなくなっており、証言を聞かせてもらうことはできませんでした。
 温龍其さん(84歳)は、「あの日、父(温子口)と母(劉氏)を殺された。わたしは日本兵に左手を刺された」と話しました。温龍其さんの左手人差し指の根元におおきな瘤のような傷跡がありました。
                                  佐藤正人
コメント

“沙土惨案” 3

2008年12月05日 | 海南島
 2008年10月20日に、沙土を再訪しました。
 前回、10月12日には、梁昌寶さんといっしょでしたが、今回は、林彩虹さんといっしょでした。
 朝8時半に海口西バスターミナルから福山行きのバスに乗って、高速道路を1時間ほど行って福山口で下車。そこからまたバスで30分ほど行くと終点の橋頭鎭に着きます。
 橋頭鎭の市場などを回ったあと、橋頭鎭人民政府に行きました。橋頭鎮人民政府が、虐殺64年後の2005年8月15日に「史証碑」を建てた理由と碑文確定にいたる経過を聞きたいと思ったからです。
 11時ころ訪問し、来意を伝えましたが、1時間ほど待っても、その経過を知っている人が現れなかったので、日をあらためて訪ねることにしました。
 沙土虐殺にかんする記述は『日軍侵澄暴行実録』(澄邁県政協文史資料委員会編、1995年ころ発行)に掲載されている、温家明・温明光口述「血海深仇 永不忘懐(侵瓊日軍制造“沙土惨案”実況)」があるだけです。「血海深仇 永不忘懐」発表から「史証碑」建立まで10年間が経過していますが、320字ほどの「史証碑」碑文の内容は、「血海深仇 永不忘懐」の内容とほとんど同じです。「史証碑」碑文には、「血海深仇 永不忘懐」に書かれていないことは、なにも書かれていません。
 碑文には、“1941年閏6月12日未明に、200人あまりの日本兵が沙土峒に侵入し、昌堂、美梅、那南、北山、昌表、上帝、聖眼、文旭、福留、欽帝等の村で、わずか2時間に、男女老幼1119人を殺し、その後さらに2回侵入してきて200人あまりを殺した”と書かれています。しかし、「史証碑」には、犠牲者の名は記されていません。

 昼過ぎに橋頭鎮人民政府の建物を出ました。あたりに食事をする場所がなかったので、昼食を抜いて、三輪車で、沙土に向かいました。
 まず、10月12日に時間がなくなって行けなかった聖眼村北方の沙土海岸に行きました。
 瓊州海峡に面したその海岸は砂浜で、左手に遠く才芳岬が見えました。
 沙土地域には、聖眼、福留、昌堂、美梅、那南、北山、上帝、昌表、文旭、欽帝、小美良、木春、扶里の13個の村があります。
 三輪車の運転手、王春英さん(1976年生)は、橋頭に生まれ住んでいる人で、沙土地域に親戚や知人がおおい人でした。王春英さんと相談して、沙土海岸から近い福留村を訪ねました。福留村は澄邁湾に面した海岸にあります。エビの養殖池がつらなっていました。その海域の手前に、小さな石油開削基地がありました。
 福留村で、「幸存者」の温天元さん(74歳)、温天芬さん(75歳)、温龍其さん(84歳)、温陳東さん(73歳)、温際貴さん(79歳)に、あの日のことを話してもらうことができました。
                                  佐藤正人
コメント

“沙土惨案” 2

2008年12月04日 | 海南島
      2008年10月12日に、沙土に行きました。
      以下は、梁昌寶さんの報告です。

  海南省澄邁県政協編写的《澄邁文史》一書里,有一篇根据幸存者温家明,温明光口述于1994年8月10日整理写成的〈血海深仇 永不忘懐〉(侵瓊日軍制造“沙土惨案”実況)。文中写道:在澄邁県北部的海岸上,靠花場湾的出海処,有一塊几平方公里的沙壤土地帯,分布着大大小小十三个村庄。人們習慣称為“沙土洞”,----全洞人口両千一百多人----侵瓊日軍台湾混成旅団十五警備司令部駐新盈的一个中隊,却于一九四一年三次出兵,対手無寸鉄的無辜沙土人民進行惨無人道的大殺戮、大縦火、大槍劫。計囲殺人民1175人,焚毀民房58間,槍走耕牛600頭,使沙土人民蒙受了千古奇寃。

  2008年10月12日上午,天下着陽雨,佐藤先生帯上我,包車前往沙土,尋訪幸存口述者温家明、温明光。
  従海口往西,不用一個小時就到了管轄沙土的橋頭鎭。我們先去了敬老院。
很遺憾,原先住在這里的這両位老人分別于2003年、2004年先后過世了。
  他們的老伴都還健在。温家明妻符月秀現年86歳,生于北山村,惨案時18歳,可惜她的記憶力及表達力都很障碍;温明光的老伴陸月英(82歳)記憶力和表達能力都還好。她説,惨案発生時温明光是私塾的国文老師,退休后経常被邀到外地講述這段歴史,一去就是好几個月。他画画很好,把親歴的惨案制作成画挂在外頭向人們展示宣伝。 她的表情充満了対丈夫的無限懐念。
  敬老院院長周応芬説,也許村里還有別的幸存者。于是,我們告別老人們,駆車往東不用一会就侵入沙土轄区。
  前面有一“V”字型分岔路,中間夾角空曠処立起一座新石碑,像常在人民公園里見到的人民英雄紀念碑。下得車来一看,果然是“沙土惨案紀念碑”。
  佐藤很興奮,不顧風雨,打着傘拿着摂像機左右前后遠近的摂個不停。

  碑文是這様写的:
    槍声遠去笑声欣、時尚新潮世尚仁。
    血鋳沙土千古恨、碑留史証告来人。
  一九四一年夏、国軍臨高県遊撃大隊長黄坤新率部、于沙土海域截取了日僞軍西路総指揮林桂深営運的貨船、並殺死押運人林桂深之仔林明成。林便誣沙土人民所為、逐勾結日軍。同年閏六月十二日払暁時分、日軍二百多人、従那大、新盈、包岸等地分乗十部汽車、長駆真入沙土峒、旋即包囲了昌堂、美梅、那南、北山、昌表、上帝、聖眼、文旭、福留、欽帝等村庄。以検査「良民証」為名、強聚群衆、行槍射、刀砍、剣戮、奸殺、生埋之凶。僅両個時辰、就殺了男女老幼一千一百一十九人。后又両次来犯、再殺無辜両二百余人、焼毀民房五十八間、漁船一百多条、掠搶耕牛六百多頭。這就是瓊島史上惨絶人寰的「沙土惨案」。如此的腥風血雨、鉄証着侵瓊日寇的罪悪、銘刻着沙土人民的冤怨。特立此碑、永志不忘。
    橋頭鎮人民政府
    公元二〇〇五年八月一五日


  四個小時殺人過千,比屠宰場還麻利!

  我們默默地上了車,継続往里開。
  前有一小売店,一説来意,原本坐在店里看電視的人們都很積極,立刻起身給我們帯路。
  原来我們到了聖眼村。
  据〈血海深仇 永不忘懐〉記載,日軍第一次進村殺人是先従昌堂村(死40多人)開始,接着依次是:美梅村(死60多人)、那南村(会武功的謝光文帯頭冲出逃去,只死3或4人)—北山村(死100多人)—上帝村(幸得北山村民符道崇之妻報信村民逃跑藏匿,只有仲齢的90多歳老奶奶自持年老不肯逃跑被日軍割去頭級)—昌表村(死几十人)、文旭村(死几十人)、欽帝(死几十人)—聖眼村(死254人,傷55人)—福留村(死298人)

  聖眼村是沙土洞人口最多的村庄,原本有四百多人,私塾小学(現在成了村里的祠堂)就在這個村里 。当年60多个孩子被日軍従私塾出関到一間村屋里刺殺身亡(這屋共只有3孩子幸存);本文口述人之一的温明光時任小学老師,全身挨刺14刀,昏倒在血泊中,日兵走后被村民救活。日軍第二次(農暦9月)又来沙土洞殺了56人,都是聖眼村民。

  這次我們有幸見到了该村3位幸存老人,当年他們都還是10多歳的孩子,都是私塾的学生。
  1 温国興 生于1928年 惨案時13歳。
    当時家庭成員:
    父親(被機関槍打去半辺脳袋死亡)
    母親(因無良民証外出躲避得以生存)
    兄 温国賓(時24歳,在龍眼樹旁被刺死)
    本人(和私塾的同学共60余人被到温光情家関起来刺
      殺,幸存)
    弟弟 温国昌(時4歳,和長兄一起在龍眼樹下被刺7刀,
      幸存,白沙县委技術監督局退休,現年72歳,住白沙県)

  今天下午的采訪都在他的家里進行,囲了一些大人小孩。一進屋,頭発花白但很有精神的温国興老人就顕得很激動,似乎急着要把全部知道的傾述給我們。
  “当時偽司令名叫占dong ling,文昌人;林桂深是副司令,臨高新盈人。 ”他説“日軍従包岸港出発,先到才芳村,遇到村民迁祖墓,就没進該村。在我們聖眼村分四个地方殺人,上部2個下部2個。我們這里属上部,在龍眼樹下和温光情家里。”他走到門辺,給我們指向几十米外的一棟3層新楼“那里原先就是龍眼樹,砍了。大人大都被集中在那里刺殺。”
  “三個日本兵把我們関在屋里拿刀殺。”他説。
  他共中了3刀。一刀在右臉,同時被刺落了一顆右下牙。他辺説辺指着臉上的疤痕及拉起嘴唇譲我們看后来補上的銀牙;第二刀刺在右肋“這一刀先刺穿一個同学才連着刺到我,不然早就没命”,説畢又掀起衣服給我們看右肋的刀痕。“第三刀刺在腿上。”他指着左腿内側。
  仔細対着傷痕摂像的佐藤問:“可以看看嗎?”
  老人没絲毫猶予,当着一群男女老少的面,褪去長褲,給我們看腿上的刀疤。
  “日本仔走后,我就爬出来,聴人進南瓜可以止血,就緊回家破南瓜。這時候就見我家小弟満身是血爬回来。”他進到這里,語気開始哽咽,也許這段最令他酸楚。
  但立刻他就調整了過来,接着説:“我把他抱起,逃到岸恩坡。停下来才感到傷口疼,両兄弟痛得満地打滾。我家母親尋我們到下午五六点才尋着。”
  真想見到他那可憐的、同様命大的親弟弟。

  他父親之死:“日本兵殺人后出村,見到在田里農耕的父親,把他跟其他人集中到一艘船上,先扔2个炸弾,接着開機関槍掃射。我家父被子弾削去半個頭顱,沈入海中,7日后才浮上来,屍体已経腐乱,后由親戚收屍。 ”
  聴着老人的述説,可以想象一個時年13歳的小孩心里一定感到極度恐怖。不知他和弟弟、母親是怎様度過来的。

  2 温国照 現年78歳 惨案時11歳
    当時家庭成員:
    公公(在温光情家的屋堂被刺死)
    父親(外出売魚,幸免)
    母親(被刺死在龍眼樹傍)
    本人 (関在屋里没被刺着,幸免)
    弟弟(時7歳,幸好当時在上帝村的姑姑家,随姑姑
      逃走,得以幸免)

  温国照老人是幸運的,在関私塾学生的那个屋子里,他随身辺的同学順勢倒地装死得以生存。他説:“我是聴到一個老爺爺的哭泣声才爬起来的。到了屋外,帮着大人採草薬給存活的人止血。”当時他的另一位老師陳治潮(東水人)身中好几刀,是他和那个老爺爺拾来草薬止的血。
  難道草約這麼好找?一旁的温国興見我們疑惑,馬上出屋,従很近的地方摘来一株:“就是這種,叫mang hong草。”折開一摸草液,果然很有粘性。
  温国照老人説:“龍眼樹那辺人太多,日兵就把一部分人拉到光情家刺殺。我公公就是被刺死在光情家的屋堂里。母親是在龍眼樹下死的。我父親那時外出売魚没被捉到。当時正値漁汛,一些村民到海辺挑魚上市売。”

  3 温国武 1927年生 惨案時14歳。
    他也是私塾的学生,但没被到光情家,而是和大人一起在龍眼樹那里被刺的。中了8刀:背上5刀,脚上3刀。当着他両個孫子及大家的面,他脱去衣服給我們看刀疤。我一個一個的数,佐藤一個一個的摂像。
  “我混迷到第二日,堂兄才来找到我。当時又疼又渴,前胸腫脹很大。”
  我想,任何時候,他肯定都能清晰地回憶得起当時的疼苦。
  他家是在聖眼村下部,成員很簡単,就他和父母。“我父母親是在太文家被害的。”(另一処日兵殺人地点是太留家)
  
  佐滕問他“你成了孤儿,誰養你?”
  老人答説:“給人放牛,14到19歳都在放牛,有四、五頭,就住在牛主家里。19歳后就回自己的家種地,跟大人出海打魚。”
  望着爺爺聴着述説,他那両個還小的孫子不知能否感受到了爺爺当年的可憐及艱辛。

  〈血海深仇 永不忘懐〉文中提到的那個和私塾同学一起被関到屋里但悄悄鑽進水缸躱過一劫的孩子温国俊,現在也還活着。只是放牛去了没回来,我們没能見到。
  旁辺一直坐着觀看的一村婦突然開口説:“我丈夫也被刺了3刀。”原来她丈夫叫温国仁,時年才4歳,被刺3刀命大没死。可是他的父親、懐着身孕的母親及3歳的妹妹都被刺殺死了。
  可能幸存者還多,天色已晩,我們決定下次再来。
  臨走時,佐藤拝托温国興老人:如果可能的話,把聖眼村死傷者的名字逐一記録羅列出来。老人一辺点頭,一辺依依不舍把我們送上車。
  陰雨継続漂着。返回又路過那個死難者紀念碑,想像着上千鮮活生命于一上午間一個個被射、砍、刺、奸殺,一股莫名恐怖涌上心頭。我対過去中国老百姓喊日本軍叫做“日本鬼”有了更深的理解。対,它們就是一群魔鬼!
  惨絶人寰。
コメント