三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

資料目録  海南島への朝鮮人連行・「朝鮮報国隊」・「朝鮮村」

2019年01月29日 | 「朝鮮報国隊」
  孫惠公「接見日本“和平之船”訪華団講話」、中国人民政治協商会議三亜市委員会編『三亜文史』3。
  羊杰臣「日軍侵略崖県始末」、『三亜文史』4(「日軍侵略崖県及其暴行紀実」と改題されて、『三亜文史』5に再録)。
  陳作平「日本侵略者在崖県的罪行」、『三亜文史』5。
  三亜市茘枝溝鎭人民政府「千人坑簡介」、2000年1月8日。
  忠北大学校중원文化研究所遺骸発掘센터「中国海南島朝鮮村発掘結果報告」、2001年2月。
  우은진「중국 하이난섬(海南島) 의 대학살 발굴현장을 다녀온 후」、『독립기념관 관보』독립기념관、2001년4월。
  金靜美「強制連行された朝鮮人の故郷と朝鮮人が強制労働させられた地域を結ぶ民衆のきずなを!」『パトローネ』31号、写真の会パトローネ、1997年10月。
  金靜美「侵略の共同体と抵抗の共同体――故郷と他郷のかなたに――」、『ほるもん文化』8、新幹社、1998年12月。
  金靜美「日本占領下の海南島における強制労働――強制連行・強制労働の歴史の総体的把握のために――」①・②、『戦争責任研究』27・28、日本の戦争責任資料センター、2000年3月・6月。
  金靜美「일본점령하 중국海南島에서의 강제노동」、朴慶植先生追悼論文集『近現代韓日関係와  在日同胞』、ソウル大学校出版部、1999年8月。
  金靜美「海南島の場合(とくに「朝鮮村」と「朝鮮報国隊」について)」(2000年5月24日、ソウルでの第9次国際歴史教科書学術会議第3主題「日本에 있어서의 過去清算問題」における報告(「日帝期의 強制連行 問題에 関하여」のなかで)。『各国의 歴史教科書에 비친 過去清算問題』国際教科書研究所、2000年5月。
  金靜美「海南島・「朝鮮村」で 2001年1月」、三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・裵相度)の追悼碑を建立する会『会報』33号、2001年3月。
  佐藤正人「三重県紀和町の紀州鉱山に強制連行された朝鮮人の跡をたずねて」、『パトローネ』28号、1997年1月。
  佐藤正人「日本の海南島侵略と強制連行・強制労働」、第9回朝鮮人・中国人強制連行・強制労働を考える交流集会実行委員会編刊『報告集』1999年4月。〈1998年8月8日~9日、日本金沢市で開催〉。
  佐藤正人「日本の国境と「周辺」の歴史 日本人はクナシリ・与那国・独島・海南島でなにをしたか」、日本の侵略の歴史を知るわかやまの会『第二周年活動報告集』1999年6月。
  佐藤正人「国民国家日本의 領土와 「周辺」」、朴慶植先生追悼論文集『近現代韓日関係와 在日同胞』。
  佐藤正人「日本占領下の海南島における朝鮮人虐殺 アジア民衆共同の東アジア近現代史認識をめざして」(2001年10月24日、上海での第10次国際歴史教科書学術会議第2主題「亜細亜諸国의 歴史教科書에 비친 抗日運動」における報告)。『亜細亜諸国의 歴史教科書에 비친 抗日運動』国際教科書研究所、2001年12月。
  金靜美・佐藤正人「海南島에 있어서의 日本軍隊性奴隷制度와 強制連行・強制労働 2002年10月海南島「現地調査」報告」、韓国挺身隊研究所『2002年国外居住日本軍‘慰安婦’被害者実態調査』女性部権益企画課、2002年12月。
  金靜美「国民国家日本の他地域・他国における暴力――海南島の場合――」、『東北亜歴史의 諸問題』(南陽洪鍾泌博士定年退任記念論叢)、2003年10月。
  金靜美「海南島からの朝鮮人帰還について――植民地国家からの出国、国民国家への帰還――」、『解放後中国地域韓人の帰還問題研究』、国民大学校韓国学研究所、2003年11月28日。
  金勝一「中国海南島에強制連行된韓国人帰還問題 朝鮮報国隊와慰安婦를中心으로」、『解放後海外韓人의帰還問題研究』国民大学校韓国学研究所、2003年5月。
  『해외 독립운동-강제징용 유적지 답사자료집』한일역사공동연구위원회 3분과 5주제 ‘일제의 조선지배와 한민족의 대응’ 팀, 일시:2003년7월 16―22일, 장소:중국 해남도, 광동성 광주。 (『海外独立運動・強制徴用遺跡地 踏査資料集』)韓日歴史共同研究委員会3分科5主題‘日帝の朝鮮支配と漢民族の対応’チーム、日時:2003年7月16―22日、場所:中国海南島、廣東省広州)。
  独立紀念館韓国独立運動史研究所編『일제하 국외 한인피해 실태조사보고서 1  중국해남도지역 』独立紀念館、2005年4月。金靜美「일본점령하 하이난섬에 있어서의 조선인」。佐藤正人「海南島에 있어서   日本政府・日本軍・日本企業의 侵略犯罪調査」。
  紀州鉱山の真実を明らかにする会(金靜美、佐藤正人、小谷英治)「海南島2004年12月~2005年1月 あらたな共同作業をめざして」、『パトローネ』61号、2005年4月。
  紀州鉱山の真実を明らかにする会『海南島で日本は何をしたのか 虐殺・略奪・性奴隷化、抗日反日闘争』写真の会パトローネ、2005年5月。
  佐藤正人「海南島と“カラフト”における朝鮮人虐殺の真相糾明」、三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・裵相度)の追悼碑を建立する会『会報』41号、2005年5月。
  紀州鉱山の真実を明らかにする会「海南島2006年5月 「朝鮮村試掘」にいたるまで、そして、それから」、『パトローネ』67号、2006年10月。
  紀州鉱山の真実を明らかにする会制作『《写真集》日本の海南島侵略と抗日反日闘争』写真の会パトローネ、2007年2月。
  海南島近現代史研究会編刊『会報』創刊号、2008年2月。
  紀州鉱山の真実を明らかにする会「国民国家日本の海南島侵略犯罪史認識と伝達」、大阪人権博物館編刊 『大阪人権博物館紀要』第10号、2008年3月1日刊)。
  海南島近現代史研究会編刊『海南島近現代史研究会』創刊号、2008年8月。
  海南島近現代史研究会編刊『会報』第2号、2009年2月。
  海南島近現代史研究会編刊『海南島近現代史研究会』第2号・第3号、2011年2月。
  海南島近現代史研究会編刊『海南島近現代史研究会』第4号・第5号、2016年5月。
  佐藤正人「국민국가 일본의 침략와 대결하는 민준운동」、『역사와 책임』5号、民族問題研究所、2013年8月。
  斉藤日出治「海南島における日本人の「学術調査研究」と植民地責任」、近畿大学日本文化研究所編『否定と肯定の文脈』風媒社、2013年3月。
  斉藤日出治「「戦後」という日本社会の歴史認識  海南島の住民虐殺と沖縄の強制集団死との結び目から見えてくるもの」、近畿大学日本文化研究所編『日本文化の明と暗』風媒社、2014年3月。
  中共海南省委党史研究室編『海南省重要革命遺祉通覧』(「全国革命遺址普査成果叢書」第22巻)、海南出版社、2014年3月。
  朱振华捜集整理『血和泪的记录 海南万宁月塘村三月廿一日惨案专辑』月塘村、2014年8月。
  中共海南省委党史研究所室編『海南省抗日戦争時期人口傷亡和財産損失』中共党史出版社、2015年8月。
  海南省文化交流促進会编『真相 海南島近現代史研究会17年(27次)調査足跡』南海出版公司、2015年8月。
  海南省文化交流促進会著『控訴 採訪九位海南慰安婦実録』南海出版公司、2015年10月。
  海南省文化交流促進会著『忘記過去意味着背叛』南海出版公司、2015年12月。

  「京城刑務所假出獄関係書類」(日帝時代朝鮮の監獄の「假出獄関係書類」。「海南島派遣報国隊」として海南島に連行された人の個別の「仮出獄」にかんする京城刑務所の文書群)。
  朝鮮司法保護協会『朝鮮司法保護』1941年3月、朝鮮司法保護事業令(「勅令」)。
  司法省保護局「思想犯保護対象者南方動員実施要綱」(1942年8月31日付)、大久保達正他編『××社会経済史料集成』第16巻(海軍省資料16)、大東文化大学東洋研究所、1991年9月。
  とうま「南方派遣報国隊の結成」、『治刑』(朝鮮総督府法務局行刑課内治刑協会発行)1943年3月号。
  「第二次南方派遣報国隊」、『治刑』1943年6月号。
  坂藤宇太郎・伊東恵「対談 海南島の印象」、『治刑』1943年7月号。
  「構外作業派遣部隊の名称に関する件」(通牒)、『治刑』1943年8月号。
  諸岡亀吉「南方派遣報国隊の錬成」、『治刑』1943年8月号。
  阿部敬夫「南方通信」、『治刑』1943年10月号。
  いとう生「治刑雑想」、『治刑』1943年10月号。
  「治刑情報」、『治刑』1943年11月号。
  藤間忠顯「回顧と展望」、『治刑』1943年12月号。
  小林長蔵・藤間忠顯他「座談会 報国隊を語る」、『治刑』1944年3月号。
  貴島南星(本名、貞四)「我等は挺身する」、『治刑』1944年3月号。
  金本勇治「医療班の一日」、『治刑』1944年3月号。
  白川興一「隊員と共に」、『治刑』1944年3月号。
  古賀九郎「現地の武道」、『治刑』1944年3月号。
  坂本敏夫「海南島の印象」、『治刑』1944年7・8月号。
  「治刑情報」、『治刑』1944年9・10月号。
  藤間忠顯「台湾及海南島視察記」一、二、『治刑』1944年9・10月号、11・12月号。
  『刑務職員録』1943年版、刑務協会。『刑務職員録』1944年版、刑務協会。
  『旧植民地人事総覧』朝鮮編8、1997年2月、日本図書センター。
  『朝鮮年鑑』1944年度、京城日報社、1944年10月15日。『朝鮮年鑑』1945年度、京城日報社、1944年10月20日。
  『第84回帝国議会説明資料』1943年12月、朝鮮総督府法務局。
  『第86回帝国議会説明資料』1944年12月、朝鮮総督府法務局。
  「朝鮮総督府受刑者海南島出役ニ伴フ監督職員等増員ニ関スル件ヲ定ム」(公文類聚・第六十七編・1943年・第三十五巻・官職二十九・官制二十九〈朝鮮総督府四〉)1943年4月19日。
  「台湾ニ於ケル受刑者構外作業ニ伴フ増員ニ関スル件」(公文類聚・第六十七編・1943年・第四十四巻・官職三十八・官制三十八〈台湾総督府六〉)1943年9月25日。
  『戦時行刑実録』矯正協会、1966年。
  防衛庁防衛研修所戦史室編『中部太平洋方面海軍作戦〈1〉』(戦史叢書38)、1970年。
  教誨百年編纂委員会編『教誨百年』上、浄土真宗本願寺派本願寺・真宗大谷派本願寺、1974年4月。
  窪田精『春島物語』東邦出版社、1968年。
  窪田精『トラック島日誌』光和堂、1983年。
  窪田精『流人島にて』新日本出版社、1992年。
  北川幸一『墓標なき島 ある受刑者の“戦争”』光出版印刷株式会社、1988年4月。
  島田興生『還らざる楽園』小学館、1994年。
  郡義典『マウリ・キリバス』近代文芸社、1996年。
  衣笠一『海南島派遣の朝鮮報国隊始末記』(1997年補筆改定)。

  江川きく(中里チヨ)「撃沈」、医療文芸集団編『白の墓碑銘』東邦出版社、1968年6月。
  中里チヨ「いまも耳に残る朝鮮人慰安婦の悲しい叫び 中国・海南島で看護に従事した2年半」(『Nurse eye  ナースアイ』1992年12月号、桐書房)。  
  山田盟子『慰安婦たちの太平洋戦争  秘められた女たちの戦記』光人社、1991年9月。
  朴来順口述、張応勇整理「不堪回首的往事 一個“慰安婦”的自述」、政協海南省保亭黎族苗族自治県委員会文史資料工作委員会編『保亭文史』第9輯(紀念抗日戦争勝利50周年)、1995年8月。
  朴来順口述、張応勇整理「我被騙逼当日軍“慰安婦”的経歴」、海南省政協文史資料委員会編『海南文史資料』第11輯(『鉄蹄下的腥風血雨――日軍侵瓊暴行実録』下)、海南出版社、1995年8月。
  西野瑠美子「私が看た海南島海軍病院の「慰安婦」たち 元海軍従軍看護婦の体験」、『週刊 金曜日』1997年5月23日号。
  班忠義「中国・海南島の元「慰安婦」たち」、『週刊 金曜日』1997年6月27日号。第176号。
  韓国挺身隊研究所・韓国挺身隊対策協議会編『강제로 끌려간 조선인 군위안부들』3、図書出版한을(서을)、1999年10月。


ドキュメンタリー
  韓国KBS『해남도에 묻힌 조선혼』(『海南島に埋められた朝鮮の魂』。金五重監督。1998.8.31.放 映)。
  韓国安東MBC『紀伊半島에 감추어진 진실』(『紀伊半島に隠された真実』。1998.10.放映)。
  韓国KBS『海南島의 朝鮮村』(ニュース。2000.3.放映)。
  韓国MBC『하이난섬의 大虐殺』2001.3.1.放映。3・1独立運動記念特別ドキュメンタリー。
  紀州鉱山の真実を明らかにする会企画・制作『海南島で日本人はなにをやったか! 日本軍の海南島侵略と抗日闘争① “田独鉱山・「朝鮮村」”』2003年7月。23分。
  韓国KBS『하이난섬 대학살  "조국은 그들을 두번 버렸다"』2003.9.6.放映。“追跡60分”)。
  紀州鉱山の真実を明らかにする会企画・制作『日本は海南島でなにをやったか』2003年10月。3分。
  The Society for clarifying Crimes of the Kishu-Mine『 What did the Japanese Army do in Hainan-dao?』2004年4月。3分。
  紀州鉱山の真実を明らかにする会企画・制作『日本が占領した海南島で 60年まえは昨日のこと』第1版、2004年7月。65分。
 기주광산의 진실을 밝히는 회企画・制作『일본이 점령한 海南島에서 60년전은 어제의 일』2004年7月、65分。
  査明紀州鉱山事実真相自治会企画・制作『日本占領下的海南島 60年前如昨昔』、2004年12月。65分。
  紀州鉱山の真実を明らかにする会企画・制作『“朝鮮報国隊”』2006年7月。60分。
  海南島近現代史研究会企画・制作『海南島月塘村虐殺』新版、2008年。


新聞報道
  「不能忘却的記憶――与韓国老人張達雄探訪侵瓊日軍暴行遺跡」(満国徽、華暁東記者)、『海南日報』1998年2月24日。
  「中國하이난島서 한국인 학살」(朴雅蘭記者)、『朝鮮日報』1998年3月2日。
  「“日帝만행 해방후 더 잔혹했다”」『佛敎新聞』1998年3月3日。
  「旧日本軍が朝鮮人連行者1000人を虐殺」『民族時報』1998年3月11日。
  「三亜朝鮮村的亡霊在哭泣」(邢中正記者)、『三亜晨報』(中共三亜市委員会機関報)、2000年6月24日。
  「海南朝鮮村亡霊泣訴日軍滔天罪」(邢中正記者)、『羊城晩報』2000年7月24日。 
  「鉄蹄下的海南“慰安婦”」(連載4回。林瑩・余家亮・周楴記者)、『南国都市報』2001年12月3日(1.2)、12月9日(3)、12月10日(4)。
  「日軍労工的悲惨経歴」(余家亮記者)、『南国都市報』2002年3月31日。
  「韩日学者赴海南岛寻找韩籍“慰安妇”幸存者」人民网 2002年10月17日。
  「“海南島の悲劇”真相は」、『北海道新聞』2003年2月21日夕刊。
  「日韓学者調査日軍侵瓊史証」(連載3回。陳超・許春媚記者)、『海南日報』2003年3月28日、3月31日、4月4日。
  「日韩学者第六次赴海南调查日军侵略史证」「中国新闻网」 2003年3月29日。
  「‘하이난섬 징용’ 유족 찾습니다 재일교포·일 시민운동가 “학살 진상규명에 필요”」(양 선아記者)、『한겨레』2003年5月31日。
  「“這些暴行不能原諒!”  “千人坑”纪录片回到“千人坑”」(陳超・袁鋒記者)、『海南日報』2005年1月1日。「日軍侵瓊調査記録片在海口放映」(陳超・袁鋒記者)、『海南日報』2005年1月5日。
  정미란「日軍만행 현장, 해남도 '朝鮮族千人坑'을 아시나요? 일제 강제징용 한국인 1천여명 학살·매몰 현장」、konas.net、2005年4月7日。
  「『海南島で日本は何をしたのか』出版 日本軍占領下の実態暴く」、『伊勢新聞』2005年6月29日。
  「日韓学者再次来瓊掲露日軍侵華暴行 本月13日将在三亜回新村放映日軍侵略海南島記録」(許欣記者)、『南国都市報』2005年9月9日。
  「中国・海南島占領の実態暴く」(奥山隆也記者)、『伊勢新聞』2005年12月27日。
  「日韓三位学者再次来海南島調査日軍侵瓊真相」(王辛莉記者)、中国新聞社、2006年3月23日。
  「海南島 無念の骨探る」(佐藤純記者)、『朝日新聞』西部版、2006年4月4日夕刊。
  「海南島近現代史研究会:市民や研究者らが設立へ」(中村一成記者) 、『毎日新聞』大阪版、2007年8月5日。김경민「주목해야 할 中 해남도 해군기지」、konas.net、2008年7月2日。
  「조선보국대(朝鮮報國隊)(DVD)」日帝強占下強制動員被害真相糾明委員会調査2課記録管理팀、2008年7月15日。
  「보국대(報國隊)를 아시나요?」、daum.net、2009年3月5日。
  「일제 강제동원 피해상담 및 지원 문의는 110콜센터로 하세요」、konas.net、2009年8月14日。
  이현오「日帝 강제학살 천인갱(千人坑) 영령 추모제 거행」、konas.net、 2010年3月27日。
  「형무소서 끌려가 노예처럼 일하다 학살 ‘한 맺힌 유골들’ 중국 해남도 ‘조선촌’ 이 증언하는 일제의 만행」(사토 쇼진)、『경향신문』、2010年7月12日。
  「日本に父奪われた 朝鮮人軍属らの遺族、証言」(千種辰弥記者)、『朝日新聞』(大阪版)、2010年8月22日朝刊。
  「保亭:正义使者张应勇 让“活历史”发出吼声」(林莹记者)、『南国都市报』2010年12月2日。
  이영찬「천인갱(千人坑)사건을 국가는 아는가? 영관장교연합회, 인천 용주사 '일제 강제 학살 천인갱 영령 추모제' 거행」、konas.net、2012年3月28日。
  「〔인터뷰〕하이난섬 학살 현장을 말하다」、konas.net、2012年4月1日。
  「“우리의 땅으로 돌아가서 희망의 빛이 되소서” 일제의 만행 ‘천인갱’의 진실」 『국방일보』、2012年8月14日。
  「海南島の死「事実知りたい」」(多知川節子記者)、『朝日新聞』(大阪版)2011年8月30日朝刊。
  「日韩学者来琼调查日军侵琼史」『海南日报』、2012年10月31日。
  「日韩学者祭拜日军侵琼时期杀害朝鲜劳工“千人坑”」『中国新闻网』、2012年11月5日。
  「日韓學者祭拜日軍侵瓊時期被殘殺朝鮮勞工」『中国新闻网』、2012年11月8日。
  「搜集日本侵琼证据」『海南日报』、2013年11年4日。
  「追寻“真相”」『海南日報』、2015年9月20日。
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「言い切れなかった30分」

2016年04月12日 | 「朝鮮報国隊」
■言い切れなかった30分
                      安金花

 「私と息子は日本人のせいでこの場では言い切れない苦労をしてきました」。
 91歳の李康姫さんの最初の言葉でした。
 20代の若さで夫を亡くし、独り息子の母親として、そして大家族の長男の嫁としての役割を黙々と果たしてきた李康姫氏。今回高齢の彼女が周囲の心配にも関わらず息子さんの韓光洙と来日を決心したのは、日本人に向けこの一言でも言いたかったからだ、と言います。
 8月28日におこなわれた第5回海南島近現代史研究会総会の席上、幸運にも未熟な私が約30分にわたる被害者親族李康姫さんのお話の通訳を担当させて頂きました。
 自分自身は、これまで通訳の役割とは内容を正確に伝えるだけで十分だと、「言われたままの正確さ」が何よりも大事であると思いました。
それは内容の多くが業務上の通訳だった為、仲介役としては絶対個人の感情を混じえてはいけないと判断したからです。
 しかし今回李康姫さんのお話からは知らないうちに何回も感情のコントロールをすることが難しくなり、上手く進められない特別な思いをしてきました。
 「父ちゃん」っていう言葉を口にする機会をなくした幼い息子を見守る母親の切なさ、そのような母親にはほんの少しの迷惑でも掛けてはいけないと思いつめた息子、夫、そしてお父さんの死に疑問を持ち続けてきたお二人の親子の絆を強く感じる時間でした。
 「彼らも自らの意思でやったわけではないでしょうが……」という一言、犯行を起こしたのも日本人ですが、今日その事実究明の中心役に携わっているのも、在日朝鮮人とともに正義感を持った日本の方であることが李康姫氏にとって一番の心の支えだと感じました。これからは「意思伝達の正確さ」は勿論お互いの心にも通じる第三者役としての通訳をしたいと思います。


【註記】
 2010年8月22日の海南島近現代史研究会第4回総会・第6回定例研究会(主題:「朝鮮報国隊」の真相糾明)で、韓光洙さんに「アボヂは海南島から戻らなかった」と題する証言を、太平洋戦争被害者補償推進協議会の李煕子(イ ヒジャ)さんに「アボヂの魂を自由にするたたかい」と題する証言をしていただき、金靜美さんが「「朝鮮報国隊」と朝鮮自営隊について」と題する報告をしました(李煕子さんのたたかいについては、海南島近現代史研究会『会報』第2号〈2009年2月10日発行〉の「ヤスクニに閉じこめられているアボヂの魂を自由にするたたかい」をみてください)。
 海南島近現代史研究会第4回総会・第6回定例研究会の一年後、2011年8月28日の第5回総会・第8回研究会(主題:海南島における日本の侵略犯罪のいま)には、まもなく89歳になる李康姫さんが韓光洙さんといっしょに韓国から出席してくれました。この日、李康姫さんは、「夫は海南島につれていかれた」という題で、韓光洙さんは「アボヂの跡を追い続けて」という題で証言し、金靜美さんが「「朝鮮報国隊」の軌跡」について報告しました。李康姫さんの証言は、中国東北からの留学生である朝鮮族の安金花さんが通訳しました。
 「言い切れなかった30」は、そのときの思いを述べた安金花さんの文章です。

                                 佐藤正人
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「中国海南島‟朝鮮村”が証言する日帝の蛮行」

2016年04月02日 | 「朝鮮報国隊」
http://news.khan.co.kr/kh_news/khan_art_view.html?artid=201007111734425&code=210000
『경향신문』 입력 : 2010.07.11 17:34:42 수정 : 2010.07.12 01:57:20
■[양국 시민활동가, 100년을 말하다](11) 중국 해남도 ‘조선촌’이 증언하는 일제의 만행
 형무소서 끌려가 노예처럼 일하다 학살 ‘한 맺힌 유골들’

 사토 쇼진 해남도근현대사연구회 회장

【写真】2008년 10월 ‘조선촌’ 조선인 희생자가 묻혀 있는 곳 인근에서 고속도로공사가 진행되고 있다. 뒤편으로 보이는 건물은 작업사무소와 기숙사.

 제주도에서 남쪽으로 약 1000㎞ 떨어진 곳에 대만이 있다. 대만에서 서쪽으로 1000㎞ 정도 떨어진 곳에 해남도(海南島)가 있다. 해남도 남단, 중국 하이난성의 싼아(三亞)시 교외 여지구진(枝溝鎭)이란 곳에 ‘조선촌’(朝鮮村)이라는 이름의 마을이 있다.
 이 ‘조선촌’에는 지금 조선인은 한 사람도 살고 있지 않다. 1943년 봄부터 일본정부·일본해군·조선총독부는 조선 각지의 형무소에서 옥고를 치르고 있던 사람들을 선발해 ‘조선보국대’에 편입시킨 뒤 해남도로 강제연행하기 시작했다. 44년 말까지 ‘조선보국대’는 여덟 차례에 걸쳐 조직되고 약 2000명이 해남도에 강제연행됐다.
 비행장 건설, 철광석 채광 등이 중단된 뒤 ‘조선보국대’ 사람들은 싼아시 교외의 여지구진남정촌(枝溝鎭南丁村)과 그 주변에서 군용도로 건설공사를 하고, 군용 동굴을 파거나 다른 군용시설 건설 등에 동원됐다. 45년 8월 일본 패전 전후까지 많은 조선인들이 일본병사들에 의해 살해됐다. 일본군이 없어지고 나서야 남정촌 사람들은 그곳에서 살해당한 조선인을 애도하며 ‘조선촌’이라고 개명했다. 지금 ‘조선촌’ 중앙 광장에 수많은 조선인들이 묻혀 있다.
 
 일본기업은 일본점령하의 해남도에서 일본군과 함께 자원을 약탈하고 주민을 학대했으며, 조선이나 대만·중국 각지에서 연행해 온 사람들을 혹사시켰다. 이뿐만 아니라 그들을 폭행사·사고사·병사·아사시켰다. 일본기업의 경제침략은 일본군의 군사침략과 결합됐다.
 1926년 이후, 조선에서 대규모 수력발전소나 비료공장, 유지(油脂)공장, 화학공장, 화약제조공장, 콩 조미료제조공장 등을 경영하고 자원과 노동력을 약탈했던 일본질소(日本窒素)는 40년 4월부터 해남도에 침입해 서부지역 석록(石碌)광산의 철광석을 약탈하기 시작했다. ‘조선보국대’ 사람들은 일본군용비행장 건설, 항만 건설, 철도·철교 건설, 특공정격납용동굴(特攻艇格納用洞窟) 건설 등에 동원되고 석록광산이나 석원(石原)산업이 경영하는 전독(田獨)광산에서도 강제 노동했다. 전독광산에 세운 ‘전독만인갱사난광공(田獨萬人坑死難壙工)기념비’에는 ‘조선, 인도, 대만, 홍콩 및 해남도 각지에서 연행돼 온 노동자가 이곳에서 학대당하고 혹사당해서 죽임을 당함’이라고 새겨져 있다.
 일본내무성 문서, 조선총독부 문서, 구일본군 문서에 따르면, ‘조선보국대’에 편입된 후 해남도로 끌려 와 두 번 다시 고향으로 돌아갈 수 없었던 사람은 1000명(또는 그 이상) 정도라고 추정된다. 하지만 이들이 해남도에서 어떤 일을 당했는지에 대해서는 거의 모른다.
 98년 6월 ‘기주(紀州)광산의 진실을 밝히는 모임’은 ‘조선촌’을 방문해 마을 사람들로부터 증언을 들었다. 98년 7월에는 한국의 KBS(한국방송공사)가 ‘조선촌’에서 유골의 일부를 발굴했다. ‘기주광산의 진실을 밝히는 모임’은 2002년 4월17일 김대중 대통령에게, 2003년 5월5일에는 노무현 대통령에게 ‘조선촌’에 매장되어 있는 사람들의 사인(死因)을 규명하고, ‘조선촌’ 유골의 처우를 국가프로젝트로 생각해 달라고 요청했다.
 2004년 9월 ‘기주광산의 진실을 밝히는 모임’은 일본정부(총리, 법무장관, 후생노동장관)에게 조선의 감옥에서 해남도로 연행된 조선인 전원의 명부를 포함한 조선보국대 관련 문서의 공개와 진상규명을 요청했다. 2004년 가을 서대문형무소 역사관과 독립기념관에서는 ‘해남도에서 일본은 무엇을 했는가?-침략·학살·약탈·성노예화’ 특별전이 열렸다.
 ‘기주광산의 진실을 밝히는 모임’은 또 2005년 4월 일제강점하강제동원피해진상규명위원회에 일제강점하의 해남도에서 조선인 강제동원·학살피해 진상규명을 공동으로 하자는 것과 이를 위해 ‘조선촌’ 발굴을 하자고 제안했다.

【写真】2001년 1월 ‘조선촌’에서 발굴된 조선인 유골. 머리에 큰 구멍이 나 있다.

 98년 6월부터 2006년 4월까지 30차례 정도 ‘조선촌’을 방문했던 ‘기주광산의 진실을 밝히는 모임’은 더 이상 방치해 두면 안된다고 판단해 어쩔 수 없이 2006년 5월, 독자적이자 처음으로 ‘조선촌’ 유골 발굴을 위해 과학적인 시도를 했다. 이 시도는 매장양식, 매장상태, 유체상태, 유골, 유물상태, 유물내용 등의 해석·감정·분석에 있었으며, ‘조선촌’에서 일본군에 의해 저질러진 조선인 학살에 관한 여러 가지 사실을 밝히고, 공적 기관의 전면적 발굴을 촉구하기 위해서였다.

 그러나 당시의 발굴은 중국 하이난성 정부에 의해 중단되고 말았다. 2008년 여름 ‘조선촌’을 횡단하는 고속도로 건설이 시작돼 한국인 유골이 묻혀 있는 장소 가까이에 있는 곳이 파헤치고 허물어졌기 때문이다. 다른 한편으로 건설공사용 건물 등이 건설되어 유골의 일부가 땅 위에 그대로 드러났으며, 햇빛과 빗물에 노출되기도 했다.

【写真】2008년 10월 중국 해남도 정부의 ‘조선촌’ 횡단 고속도로 건설로 파헤쳐져 드러난 유골.

 ‘조선촌’에 매장된 조선인은 이제 유골이 되어 일본의 침략범죄 사실을 증언하고 있다. 하지만 유골을 이대로 방치할 경우에는 흙덩이와 함께 영원히 방기될 것이다.
 1939년 2월10일, 사람들이 평화롭게 살고 있던 해남도에 일본군이 기습 상륙했다. 대부분의 일본인은 대만 식민지화, 조선 식민지화, 만주 식민지화 당시와 마찬가지로 해남도 침략 때에도 일본정부의 점령지 확대를 기뻐하며 군사행동을 지지했다.
 일본정부·일본군·일본기업은 해남도에서도 민중을 학살하고, 집을 태우며 가축이나 물건, 경작지를 포함한 토지를 수탈했다. 광산자원, 수산자원, 삼림자원 등 각종 자원도 수탈했다. 자원 약탈·군용시설 건설(비행장, 항만, 도로, 철도) 등을 위해 해남도 민중에게 강제노동을 시켰으며, 해남도의 여성을 성노예로 삼았다. 해남도의 자연을 파괴하고 일장기·기미가요·일본어를 해남도 민중에게 강요했다. 군표를 남발했으며, 아편재배도 시작했다. 일본군 문서와 일본기업 문서에 따르면 1939년 2월부터 45년 8월까지 6년 반 사이에 해남도에서 일본군·일본기업이 살해한 아시아 민중은 7만명을 넘는다.
 일본의 해남도 침략시대는 해남도 민중의 항일반일투쟁의 시대였다. 일본 민중이 해남도 침략을 왜 막지 못했는지, 조선식민지화를 왜 방지하지 못했는지에 대한 문제는 지금 시오니스트의 팔레스타인 침략을 세계의 민중이 외면하고 있는 문제와 같은 맥락으로 생각해 볼 수 있다.
 필자는 일본 민중의 한 사람으로서 해남도에서 일본의 국가범죄를 총체적이고 상세히 밝혀냄과 동시에 아시아 민중의 항일·반일투쟁의 역사를 배우면서, 국민국가 형성기 이후의 일본국가의 침략 책임을 추적하고 있다. 이와 함께 앞으로도 일본이 타 지역과 다른 나라를 침략함으로써 바뀐 정치·경제·사회·문화 구조를 바꿔나가는 운동을 계속해나가고 싶을 뿐이다.

★기주(紀州)광산의 진실을 밝히는 모임
 ‘기주(紀州)광산의 진실을 밝히는 모임’(이하 기진모)은 1989년 6월 미에현 기모토(三重縣 木本)에서 일제강점기에 학살당한 조선인 노동자(이기윤·배상도)의 추도비를 건립하는 모임이 기초가 됐다. 97년 2월 설립 당시 조선인과 일본인이 공동으로 참여했다. 기진모는 98년부터 해남도에서 ‘조선보국대’의 진상규명을 시작했다. 그 과정에서 기진모는 2004년 9월15일 일본정부에 “조선보국대의 대원으로서 일본점령 하의 해남도에 송환되어 강제노동 당한 조선인 전원의 명부 소재 및 해남도로 끌려온 시기와 그 후의 소식을 밝힐 것”을 요구했다. 그러나 기진모는 2004년 10월6일자로 후생노동성으로부터 “조선보국대에 관한 자료가 없기 때문에 요청에 대해 답변할 수 없다”는 회답을 받을 뿐이다. 이후에도 일본정부는 ‘조선촌 학살’을 철저히 은폐하고 있다. ‘조선촌 학살’의 진실을 밝히기 위해서는 ‘조선촌’에 묻혀있는 조선인 유골의 발굴이 절실한 상황이다. 기진모가 2006년 5월 독자적으로 시도한 발굴작업은 하이난성 정부에 의해 금지 당했으며, 민간인 조직의 ‘조선촌’ 유해발굴도 불가능하게 됐다. 한국 정부나 특정기관이 ‘조선촌’에 묻혀 있는 조선인의 유해를 발굴하지 않으면 일본정부는 조선보국대 학살의 사실을 끝까지 숨길 것이다. 기진모는 2007년 8월 창립된 해남도근현대사연구회와 함께 앞으로 현지조사와 구술청취 활동, 보고서 작성, 다큐멘터리 제작 등을 통해 해남도에서 일어난 일본의 침략범죄 사실을 밝혀나갈 계획이다.

★글쓴이 사토 쇼진은
 해남도근현대사연구회 회장을 맡고 있으면서 미에현(三重縣) 기모토(木本)에서 학살당한 조선인노동자(이기윤·배상도)의 추도비를 건립하는 모임, 미국항공모함에 반대하는 시민의 모임, 기주(紀州)탄광의 진실을 밝히는 모임 등에서 다양한 활동을 전개하고 있다. 1869년 국민국가 일본이 식민지화해서 홋카이도(北海道)라고 이름 붙인 땅인 아이누 모시리에서 식민1세 아버지와 식민2세 어머니 사이에서 태어났다.

       <경향신문 · 국치100년사업공동추진위원회 공동기획>
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「朝鮮政治犯集中営」

2014年04月07日 | 「朝鮮報国隊」
 中国社会科学院の「中国社会科学院中日歴史研究中心文庫」の一冊として 2013年8月付けで社会科学文献出版社から出版された何天義編著『日军侵华战俘营总论』に「朝鮮政治犯集中営」という小節があります(303~305頁)。そこには、つぎのように書かれています(かなり事実と異なる非科学的な記述ですが、その一部を翻訳・紹介します)。
                                               佐藤正人


 「田独鉄砿の略奪を加速させるために、日本軍は中国各地から1万人以上の中国労工を連行しただけでなく、占領下の朝鮮の監獄から、減刑を口実にして、海南島に連行し、“朝鮮報国隊”と命名し、強度の苦役を強制した。
  後して「朝鮮犯人」数千名が三亜荔枝溝の三羅二村(現、三亜市田独鎮南丁三羅村)に設立された集中営に入れられた。
  かれらは、中国の労工と同じく、わずかなサツマイモ、とうもろこし、カボチャのスープを食べ、そまつなわらぶきの家に住み、竹の二段ベッドで眠り、麻袋やセメント袋を着た。
  戦争捕虜は毎日14時間働き、仕事を終わらなければ食事を与えられず、ひどく殴られた。殴られ殺された戦争捕虜は南丁村の北の丘に埋められた。
  1945年8月15日に日本天皇が無条件降伏を宣言したあと、海南崖県域内にいた日本軍は悲しみつつ投降の日を待っているとき、緊急に洞窟を掘り、武器や軍用物資を隠匿するという最後のあがきをおこなった。かれらは、1000人あまりの朝鮮政治犯を脅迫して南丁村付近の山麓に洞窟を掘らせ、物資を隠匿したあと、これらの朝鮮人を殺し、南丁村の丘の穴に埋めた。当事者の記憶によると、そこに埋められた1300人はすべて朝鮮人で、その後、そこは、“南丁千人坑”遺跡となっている。死難者を紀念して、当地の黎族群衆は、三羅二村を朝鮮村と改名した。
  ……………
  韓国KBSテレビは、紀州鉱山の真実を明らかにする会などの協力のもと、ドキュメンタリー《長埋在海南島的朝鮮魂》を放映し、三亜田独朝鮮村で発掘された朝鮮労工の遺骸について報道し、再び韓国を震動した。
  ……………」。
  

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「朝鮮村」1998年6月~2012年11月 39

2013年02月24日 | 「朝鮮報国隊」
■2007年1月4日
 2006年12月28日から2007年1月25日までの4週間、紀州鉱山の真実を明らかにする会は12回目の海南島「現地調査」をおこなった。
 そのとき、2007年1月4日に、「朝鮮村」を訪問した。2006年5月はじめの「試掘」のときから8か月が経っていた。
 「朝鮮村」をはじめて訪れたのは1998年6月だったが、それから8年半の間に、「朝鮮村」もその周辺もおおきく変わった。
 前年5月2日の「試掘」は、複雑な地権問題を現在の地権者の協力を得てのりこえ、日本政府の責任回避を許さず、韓国の真相糾明委員会の無為を放置せず、「埋葬地開発」の危機を事前に回避しようとして試みたものであったが、開始後すぐに三亜市外事部に妨害されて中断せざるを得なかった。
 その後、紀州鉱山の真実を明らかにする会は、全面的な「発掘」の前提としての「試掘」を再度おこなおうとして努力を重ねてたが、日本がこれまで隠しつづけてきた侵略犯罪を、わたしたちのような小さな民衆組織が、国家間の政治的諸関係の網をつきやぶって、発掘という手段で明らかにすることは、簡単ではなかった。
 2007年1月4日、「朝鮮村」のなかの朝鮮人の遺骨が埋められている広場には、風が吹き、牛が草を食べていた。8か月前、クイをうった跡も土を掘ったあともなくなっていた。
 「朝鮮村」は、急速に変わろうとしていた。
 このまま、放置しておけば、この地がとおくない時期に「開発」され、犠牲者の遺骨が土塊とともに放棄されてしまい、日本国家の侵略犯罪の証拠が消されてしまうことになると感じた。
 このブログの2007年1月4日の「「朝鮮村」で」をみてください。
                                         佐藤正人
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「朝鮮村」1998年6月~2012年11月 38

2013年02月23日 | 「朝鮮報国隊」
 紀州鉱山の真実を明らかにする会は、1998年以降、海南島と韓国と日本で、継続的に、「南方派遣報国隊」=「朝鮮報国隊」にかんする「調査」をすすめていた。
 しかし、国家機関である日帝強占下強制動員被害真相糾明委員会とは違い、民衆組織である紀州鉱山の真実を明らかにする会がなしうる「調査」には、限界があった。
 韓国で 紀州鉱山の真実を明らかにする会は、1998年8月から長期間、ソウルの韓国政府記録保存所で、「京城刑務所假出獄関係書類」を調査し、「南方派遣報国隊(朝鮮報国隊)」の「隊員」として海南島に送られ、帰郷できた人たちの「仮出獄書類」217人分を探しだした(韓国政府記録保存所は、その後、大田に移転し、韓国政府記録院となっている)。
 その後の数年間に、紀州鉱山の真実を明らかにする会は、「朝鮮報国隊」の「隊員」として海南島に連行されながらも故郷にもどることができた人たちのうち、高福男さん、柳済敬さんら数人の方に会って話を聞かせていただくことができた。
 2006年3月に、紀州鉱山の真実を明らかにする会は、それまでに会うことができた人と本籍が北朝鮮にある人とを除き、126人について、韓国の本籍地管轄行政区の民願係に、協力を依頼する手紙を送った。
 126通のうち、2006年5月末までに、管轄行政区の民願係からなんらかの返信があったのは、30通であった。ひとつの行政区に複数の人がいるばあいもあったので、あわせて42人について民願係が返信してくれた。
 2006年7月に韓国に行き、返信をくれた管轄行政区の民願係の4か所を訪ね、さらに個別に調査を依頼した。
 その結果、残念ながら、ご存命の方はおられなかったが、遺族と会ったり電話で話すことができた。
 このブログの2007年5月28日の「海南島から生還できた「朝鮮報国隊」の人たちを尋ねて」をみてください。
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「朝鮮村」1998年6月~2012年11月 37

2013年02月22日 | 「朝鮮報国隊」
■高麗博物館特別企画展
 「朝鮮村」での「試掘」を中断させられてから2か月半後の5月17日から7月16日まで、東京新宿大久保にある高麗博物館で、特別企画展「海南島で日本は何をしたか 戦時朝鮮人強制労働・虐殺 日本軍“慰安婦”」が開かれた。
 期間中、5月20日に佐藤正人が「紀州鉱山への朝鮮人強制連行と海南島での朝鮮人虐殺」と題して、5月2日の「朝鮮村試掘」にいたる過程と今後の展望を話した。また、5月26日、6月9日、6月23日にドキュメンタリー『日本が占領した海南島で 60年まえは昨日のこと』の上映会がおこなわれ、7月7日に前夜完成したばかりのドキュメンタリー『“朝鮮報国隊”』初版の試写会がおこなわれた。
 この展示にあたって、高麗博物館の山田貞夫氏は、紀州鉱山の真実を明らかにする会の10回目の海南島「現地調査」に参加し、担当スタッフは学習を重ねて、くわしい解説パネルをつくった。6月に高麗博物館は、『海南島で日本は何をしたのか――戦時朝鮮人強制労働・虐殺 日本軍“慰安婦”――』を発行した。
 高麗博物館での特別展示の表題は、2005年9月17日から12月14日まで京都府の丹波マンガン記念館で開催された特別展示の表題と同じ「海南島で日本は何をしたか」であった。
 このことには大きな意味がある。展示の表題は、展示内容を凝縮して示すものである。
 大阪人権博物館は、2004年7月21日~8月15日に開催すると広報していた企画展「日本は海南島で何をしたのか――侵略・虐殺・略奪・性奴隷化」の表題を、開会2か月まえの5月13日に、「海南島とアジア太平洋戦争――占領下で何がおこったか」に変更することを紀州鉱山の真実を明らかにする会の求め、さらに、開会50日まえの5月30日に、企画展そのものを突然、一方的に延期していた。
 「高麗博物館特別展示“海南島で日本は何をしたか”」(三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・相度)の追悼碑を建立する会『会報』44号、2006年11月10日)、このブログの2009年5月9日の「国民国家日本の海南島侵略犯罪史認識と伝達」7、2012年7月19日の「「リバティの灯を消すな」について」、 2012年7月20日~21日の「企画展『海南島で日本は何をしたのか』無期延期の経緯と社会的応答」1~2をみてください。
                                            佐藤正人
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「朝鮮村」1998年6月~2012年11月 36

2013年02月21日 | 「朝鮮報国隊」
■ドキュメンタリー『“朝鮮報国隊”』
 「朝鮮村」に埋められている朝鮮人犠牲者の遺体を「発掘」するということは、国民国家日本の侵略犯罪・他地域・他国侵略史を発掘することであり、それをおしすすめることは、国民国家日本の近現代史と全面的に対決することである。
 「試掘」は中断させられたが、わたしたちは、つぎの一歩をすすめた。
 「朝鮮村」での「試掘」を中断させられてから2か月後、2006年7月6日に、紀州鉱山の真実を明らかにする会は、ドキュメンタリー『“朝鮮報国隊”』の初版を完成させた。
 それは、1998年6月からすすめてきた「朝鮮報国隊」の軌跡追跡の経過を示し、「朝鮮村」での朝鮮人虐殺の事実を映像によって明らかにしようとするものであり、「朝鮮村」とその周辺に住む目撃者の証言・虐殺現場・強制労働現場(飛行場、鉱山、鉄道、鉄橋、軍用道路、軍用洞窟、特攻艇格納庫)、生還者の証言、旧日本兵の証言などを記録するとともに、2006年5月2日に紀州鉱山の真実を明らかにする会が試みた始めての科学的な犠牲者の「発掘」にいたる過程を報告するものであった。
 『“朝鮮報国隊”』の構成は、つぎのとおりであった。シナリオ全文は、このブログに2007年9月5日~9月18日に13回連載した「 ドキュメンタリー『“朝鮮報国隊”』をみてください。
  1-1、「朝鮮村」・「朝鮮報国隊」
  1-2、「朝鮮村」で朝鮮人が虐殺された
  1-3、なぜ「朝鮮村再発掘」が必要なのか
  2、現風景と証言① 回新村・三亜航空基地跡で
  3、現風景と証言② 陵城鎮・后石村・英州・新村で
  4-1、現風景と証言③ 感恩・八所で
  4-2、現風景と証言④ 石碌で
  5、現風景と旧日本兵の証言 中村・南林・六郷村・佐世保で
  6、韓国での証言、犠牲者の故郷の現風景
  7、韓国での証言 旧日本軍朝鮮人兵士
  8、海南島で日本軍隊性奴隷とされた朝鮮人女性
  9、「朝鮮村試掘」中断(2006年5月2日)
                                         佐藤正人
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「朝鮮村」1998年6月~2012年11月 35

2013年02月20日 | 「朝鮮報国隊」
■「朝鮮村試掘」2
 2006年5月2日早朝、紀州鉱山の真実を明らかにする会は、考古学者、測量専門家の主体的協力を得て、「試掘」をはじめた。
 はじめに現場にレベルを固定し、測量し、「試掘」範囲を確定した。
 2メートル四方、二つのグリッド(「試掘」範囲)をとるようにクイを打った。
 水糸を張った…………。
 土を掘るまえに、グリッドの前にお菓子、果物、酒をならべ、犠牲者に、参加者全員が、それぞれの思いを込めて挨拶した。
 上層の草を取り除き、シャベルでグリッドを縁取りしていき、すくっていった。
 まもなく、三亜市外事部の官僚が警官隊とともにきて、作業の中止を求めた。
 「試掘」は中断せざるをえなくなった。
                                        佐藤正人
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「朝鮮村」1998年6月~2012年11月 34

2013年02月19日 | 「朝鮮報国隊」
■「朝鮮村試掘」1
 紀州鉱山の真実を明らかにする会は、独自で、2006年5月2日に「朝鮮村」の遺骨のはじめての科学的な「発掘」を試みた。
 それは、①埋葬様式、②埋葬状態、③遺体状態、④遺骨、⑤遺物状態、⑥遺物内容などを解析・鑑定・分析することによって、「朝鮮村」における日本軍による朝鮮人虐殺にかかわる諸事実を明らかにし、公的機関による全面的「発掘」をうながすためであった。
 しかし、このときの「発掘」は、中国海南省政府によって中断させられた。
                                          佐藤正人
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