ヒロヒトと日本国家権力者が、1941年12月4日に日本軍を海南島三亜港から出港させ、12月8日未明にコタバルに奇襲上陸させて、アジア太平洋戦争を開始してから2日後、1941年12月10日に、日本軍は、グアム島、タラワ島、マキン島を奇襲攻撃した。
その1か月以上前の11月6日に、大本営陸軍部と大本営海軍部は、グアム島、ビスマルク諸島(ニューアイルランド島など)への軍事侵略を決定していた。
12月18日に、日本軍は、ホンコンを占領した。
1942年1月18日に、日本・ドイツ・イタリアの軍統帥部が、東経70度線を日本とドイツ・イタリアの作戦地域を分ける線とする協定を結んだ。このとき日本政府と日本軍中枢は、西はインド西部からウラル山脈にいたる地域から、東は南北アメリカ大陸西海岸にいたる地域を戦場とすることを想定していた。
1942年2月にシンガポールに侵入した日本軍は、「検証大虐殺」をおこなった。
1942年2月28日に、大本営政府連絡会議は、「帝国領導下に新秩序を建設すべき大東亜の地域」を、「日満支及東経九十度より東経百八十度迄の間に於ける南緯十度以北の南方諸地域」と設定した。
この「大東亜の地域」には、アイヌモシリ、朝鮮、中国、ビルマ、タイ、「蘭領印度」、フィリピン、パプア島、「南洋群島」、ソロモン諸島(ガダルカナル島など)、ギルバート諸島(タラワ島など)……が含まれていた。
このとき同時に、大本営政府連絡会議は、日本の「資源圏」と「補給圏」を、次のように設定した。
「帝国資源圏は日満支及西太平洋地域とし自給生産力の拡大を期し豪洲、印度等は之が補給圏たらしむるものとす」。
国民国家日本は、その「共栄圏」・「資源圏」を維持するためには、軍事占領後、政治・経済的支配体制を確立しなければならない。
日本は、台湾や朝鮮には総督府を設置して支配したが、「南方」各地を軍政によって支配した。軍政の基本的事項は、大本営政府連絡会議で決定された。占領地において軍政を実行するためには、多数の行政官が必要であった。アジア太平洋戦争の末期に、朝鮮総督府は、「将来南方軍政要員に相当数の朝鮮人起用を実現せしむる考へなり」という方針を示している(『第86回帝国議会説明資料』)。
占領地の歴史的・政治的・社会的諸条件によって、軍政の内実は異なった。
インドネシアでは、スカルノらが親日派となって協力したが、日本政府・日本軍は傀儡政権をつくらず、軍政を続けた。
マラヤやシンガポールや香港や海南島でも、日本政府・日本軍は、軍政支配を続けた。ビルマでは、1943年8月に傀儡国家がつくられた。同年10月に、フィリピンでも、傀儡国家がつくられた。
軍政地域で日本軍は軍票を大量に使用して、資源・農産物・労働力を奪った。日本敗北後、軍票は、紙くずとなった。
当時ポルトガルの植民地であったチモール島東部では、日本軍は中立国ポルトガルの「主権」を形式的に維持した。日本軍は、チモール島東部で軍票は使用したが、住民に日本語強制はできなかった。
1943年5月31日に、ヒロヒト、日本政府・日本軍中枢は合同会議で「大東亜政略指導大綱」を決定した。
このときヒロヒトらは、ビルマとフィリピンを「独立」させ、「マライ」「スマトラ」「ジャワ」「ボルネオ」「セレベス」を、「帝国の領土と決定」し、軍政を継続し、「重要資源ノ供給地」とすることを夢想していた。この「大綱」では、海南島に触れられていないが、日本政府・日本軍は、海南島を実質的に日本の領土としていた。
国民国家日本の第2次アジア太平洋戦争の戦争目的は、領土・植民地拡大と資源収奪であったが、日本政府・軍は、アメリカ合州国・イギリス・オランダの植民地支配からの「解放」が目的であると宣伝した。
日本政府・軍は、占領した地域の「敵国」の資産を没収したが、地域の民衆には渡さず、アメリカ合州国人・イギリス人・オランダ人らが経営していた鉱山、工場、農園などのすべてを日本企業に渡した。
日本政府・軍は、占領地で日本時間をつかい、「ヒノマル」を掲げ、「元号」や「皇紀」を使い、「キミガヨ」を強制し、行政機関や教育現場に日本語をもちこんだ。
アジア太平洋戦争の全期間に、日本軍は、マラヤ(ネグリセンビラン州など)でもシンガポールでも香港でもフィリピンでも中国大陸でも海南島でもパプアでもインドネシアでも…………、おおくの住民を虐殺した。
日本のマスメディア(朝日新聞社、毎日新聞社、読売新聞社、同盟通信社など)は、侵入した「大東亜共栄圏」の各地で、天皇制や日本軍の強大さや「大東亜共栄」「復興大東亜」などの偽りを宣伝した。
佐藤正人
その1か月以上前の11月6日に、大本営陸軍部と大本営海軍部は、グアム島、ビスマルク諸島(ニューアイルランド島など)への軍事侵略を決定していた。
12月18日に、日本軍は、ホンコンを占領した。
1942年1月18日に、日本・ドイツ・イタリアの軍統帥部が、東経70度線を日本とドイツ・イタリアの作戦地域を分ける線とする協定を結んだ。このとき日本政府と日本軍中枢は、西はインド西部からウラル山脈にいたる地域から、東は南北アメリカ大陸西海岸にいたる地域を戦場とすることを想定していた。
1942年2月にシンガポールに侵入した日本軍は、「検証大虐殺」をおこなった。
1942年2月28日に、大本営政府連絡会議は、「帝国領導下に新秩序を建設すべき大東亜の地域」を、「日満支及東経九十度より東経百八十度迄の間に於ける南緯十度以北の南方諸地域」と設定した。
この「大東亜の地域」には、アイヌモシリ、朝鮮、中国、ビルマ、タイ、「蘭領印度」、フィリピン、パプア島、「南洋群島」、ソロモン諸島(ガダルカナル島など)、ギルバート諸島(タラワ島など)……が含まれていた。
このとき同時に、大本営政府連絡会議は、日本の「資源圏」と「補給圏」を、次のように設定した。
「帝国資源圏は日満支及西太平洋地域とし自給生産力の拡大を期し豪洲、印度等は之が補給圏たらしむるものとす」。
国民国家日本は、その「共栄圏」・「資源圏」を維持するためには、軍事占領後、政治・経済的支配体制を確立しなければならない。
日本は、台湾や朝鮮には総督府を設置して支配したが、「南方」各地を軍政によって支配した。軍政の基本的事項は、大本営政府連絡会議で決定された。占領地において軍政を実行するためには、多数の行政官が必要であった。アジア太平洋戦争の末期に、朝鮮総督府は、「将来南方軍政要員に相当数の朝鮮人起用を実現せしむる考へなり」という方針を示している(『第86回帝国議会説明資料』)。
占領地の歴史的・政治的・社会的諸条件によって、軍政の内実は異なった。
インドネシアでは、スカルノらが親日派となって協力したが、日本政府・日本軍は傀儡政権をつくらず、軍政を続けた。
マラヤやシンガポールや香港や海南島でも、日本政府・日本軍は、軍政支配を続けた。ビルマでは、1943年8月に傀儡国家がつくられた。同年10月に、フィリピンでも、傀儡国家がつくられた。
軍政地域で日本軍は軍票を大量に使用して、資源・農産物・労働力を奪った。日本敗北後、軍票は、紙くずとなった。
当時ポルトガルの植民地であったチモール島東部では、日本軍は中立国ポルトガルの「主権」を形式的に維持した。日本軍は、チモール島東部で軍票は使用したが、住民に日本語強制はできなかった。
1943年5月31日に、ヒロヒト、日本政府・日本軍中枢は合同会議で「大東亜政略指導大綱」を決定した。
このときヒロヒトらは、ビルマとフィリピンを「独立」させ、「マライ」「スマトラ」「ジャワ」「ボルネオ」「セレベス」を、「帝国の領土と決定」し、軍政を継続し、「重要資源ノ供給地」とすることを夢想していた。この「大綱」では、海南島に触れられていないが、日本政府・日本軍は、海南島を実質的に日本の領土としていた。
国民国家日本の第2次アジア太平洋戦争の戦争目的は、領土・植民地拡大と資源収奪であったが、日本政府・軍は、アメリカ合州国・イギリス・オランダの植民地支配からの「解放」が目的であると宣伝した。
日本政府・軍は、占領した地域の「敵国」の資産を没収したが、地域の民衆には渡さず、アメリカ合州国人・イギリス人・オランダ人らが経営していた鉱山、工場、農園などのすべてを日本企業に渡した。
日本政府・軍は、占領地で日本時間をつかい、「ヒノマル」を掲げ、「元号」や「皇紀」を使い、「キミガヨ」を強制し、行政機関や教育現場に日本語をもちこんだ。
アジア太平洋戦争の全期間に、日本軍は、マラヤ(ネグリセンビラン州など)でもシンガポールでも香港でもフィリピンでも中国大陸でも海南島でもパプアでもインドネシアでも…………、おおくの住民を虐殺した。
日本のマスメディア(朝日新聞社、毎日新聞社、読売新聞社、同盟通信社など)は、侵入した「大東亜共栄圏」の各地で、天皇制や日本軍の強大さや「大東亜共栄」「復興大東亜」などの偽りを宣伝した。
佐藤正人