三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

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日本軍海南島三亜出港後 1

2007年02月28日 | 海南島
 ヒロヒトと日本国家権力者が、1941年12月4日に日本軍を海南島三亜港から出港させ、12月8日未明にコタバルに奇襲上陸させて、アジア太平洋戦争を開始してから2日後、1941年12月10日に、日本軍は、グアム島、タラワ島、マキン島を奇襲攻撃した。
 その1か月以上前の11月6日に、大本営陸軍部と大本営海軍部は、グアム島、ビスマルク諸島(ニューアイルランド島など)への軍事侵略を決定していた。
 12月18日に、日本軍は、ホンコンを占領した。
 1942年1月18日に、日本・ドイツ・イタリアの軍統帥部が、東経70度線を日本とドイツ・イタリアの作戦地域を分ける線とする協定を結んだ。このとき日本政府と日本軍中枢は、西はインド西部からウラル山脈にいたる地域から、東は南北アメリカ大陸西海岸にいたる地域を戦場とすることを想定していた。
 1942年2月にシンガポールに侵入した日本軍は、「検証大虐殺」をおこなった。
 1942年2月28日に、大本営政府連絡会議は、「帝国領導下に新秩序を建設すべき大東亜の地域」を、「日満支及東経九十度より東経百八十度迄の間に於ける南緯十度以北の南方諸地域」と設定した。
 この「大東亜の地域」には、アイヌモシリ、朝鮮、中国、ビルマ、タイ、「蘭領印度」、フィリピン、パプア島、「南洋群島」、ソロモン諸島(ガダルカナル島など)、ギルバート諸島(タラワ島など)……が含まれていた。
 このとき同時に、大本営政府連絡会議は、日本の「資源圏」と「補給圏」を、次のように設定した。
   「帝国資源圏は日満支及西太平洋地域とし自給生産力の拡大を期し豪洲、印度等は之が補給圏たらしむるものとす」。

 国民国家日本は、その「共栄圏」・「資源圏」を維持するためには、軍事占領後、政治・経済的支配体制を確立しなければならない。
 日本は、台湾や朝鮮には総督府を設置して支配したが、「南方」各地を軍政によって支配した。軍政の基本的事項は、大本営政府連絡会議で決定された。占領地において軍政を実行するためには、多数の行政官が必要であった。アジア太平洋戦争の末期に、朝鮮総督府は、「将来南方軍政要員に相当数の朝鮮人起用を実現せしむる考へなり」という方針を示している(『第86回帝国議会説明資料』)。
 占領地の歴史的・政治的・社会的諸条件によって、軍政の内実は異なった。
 インドネシアでは、スカルノらが親日派となって協力したが、日本政府・日本軍は傀儡政権をつくらず、軍政を続けた。
 マラヤやシンガポールや香港や海南島でも、日本政府・日本軍は、軍政支配を続けた。ビルマでは、1943年8月に傀儡国家がつくられた。同年10月に、フィリピンでも、傀儡国家がつくられた。
 軍政地域で日本軍は軍票を大量に使用して、資源・農産物・労働力を奪った。日本敗北後、軍票は、紙くずとなった。
 当時ポルトガルの植民地であったチモール島東部では、日本軍は中立国ポルトガルの「主権」を形式的に維持した。日本軍は、チモール島東部で軍票は使用したが、住民に日本語強制はできなかった。
 1943年5月31日に、ヒロヒト、日本政府・日本軍中枢は合同会議で「大東亜政略指導大綱」を決定した。
 このときヒロヒトらは、ビルマとフィリピンを「独立」させ、「マライ」「スマトラ」「ジャワ」「ボルネオ」「セレベス」を、「帝国の領土と決定」し、軍政を継続し、「重要資源ノ供給地」とすることを夢想していた。この「大綱」では、海南島に触れられていないが、日本政府・日本軍は、海南島を実質的に日本の領土としていた。
 国民国家日本の第2次アジア太平洋戦争の戦争目的は、領土・植民地拡大と資源収奪であったが、日本政府・軍は、アメリカ合州国・イギリス・オランダの植民地支配からの「解放」が目的であると宣伝した。
 日本政府・軍は、占領した地域の「敵国」の資産を没収したが、地域の民衆には渡さず、アメリカ合州国人・イギリス人・オランダ人らが経営していた鉱山、工場、農園などのすべてを日本企業に渡した。 
 日本政府・軍は、占領地で日本時間をつかい、「ヒノマル」を掲げ、「元号」や「皇紀」を使い、「キミガヨ」を強制し、行政機関や教育現場に日本語をもちこんだ。
 アジア太平洋戦争の全期間に、日本軍は、マラヤ(ネグリセンビラン州など)でもシンガポールでも香港でもフィリピンでも中国大陸でも海南島でもパプアでもインドネシアでも…………、おおくの住民を虐殺した。
 日本のマスメディア(朝日新聞社、毎日新聞社、読売新聞社、同盟通信社など)は、侵入した「大東亜共栄圏」の各地で、天皇制や日本軍の強大さや「大東亜共栄」「復興大東亜」などの偽りを宣伝した。
                                       佐藤正人
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日本海軍佐世保鎮守府 2

2007年02月27日 | 海南島
 1941年5月13日と5月19日に、海南島瓊海市(旧、楽会県)九曲江郷北方の波鰲村、上嶺園村、上辺嶺村を襲って住民を虐殺したのは、佐世保鎮守府第8特別陸戦隊所属部隊であった。
 1941年6月11日(農暦5月17日)に、海南島瓊海市参古郷上坡村に侵入して住民を銃撃し車に積んできた石油をかけて焼き殺したのは、日本海軍佐世保鎮守府第8特別陸戦隊に所属する部隊であった。
 いま犠牲者を追悼する「五百人碑」が建てられている海南島瓊海市(旧、楽会県)北岸郷の村落を1941年6月24日(農暦5月30日)に襲撃したのは、佐世保鎮守府第8特別陸戦隊所属部隊であった。波鰲・上嶺園・上辺嶺三村の犠牲者の墓碑には、犠牲者129人すべての名が刻まれている。
 1941年6月28日(農歴6月4日)に、海南島瓊海市烟塘鎮大溝村(旧、大石溝村)を襲って村人を殺害したのは、佐世保鎮守府第8特別陸戦隊に所属する烟塘守備隊の日本兵であった。いま大溝村の入り口に建てられている“大溝懐寃紀念碑”には、犠牲者38人すべての名前が刻まれている。
 1941年8月25日(農暦7月3日)、海南島定安県黄竹鎮の大河村、后田村、牛耕坡村、周公村の4村を襲撃し、母親に背負われた幼児をふくむ住民を殺戮したのは、佐世保鎮守府第8特別陸戦隊所属部隊であった(大河村で79人、后田村で23人、牛耕坡村で3人、周公村で4人)。“黄竹四村公墓”の墓碑には「一百零九」という文字が刻まれている。
 日本敗戦4か月まえ、1945年4月12日(農暦3月1日)に、瓊海市九曲江郷(旧、楽会県互助郷)坡村、長仙村、三古村、南橋村、雅昌村、佳文村、風嶺村、吉嶺村、官園村の9村を襲撃し、おおくの村民を殺害したのは、佐世保鎮鎮守府第8特別陸戦隊に所属する中原守備隊、橋園守備隊、陽江守備隊であった。
 日本敗戦3か月半まえ、1945年5月2日(農歴3月21日)に、万寧市石城鎮月塘村で住民を虐殺したのは、佐世保鎮守府第8特別陸戦隊所属部隊であった。

 わたしたちは、まだ佐世保鎮守府第8特別陸戦隊の隊員の所在をつかんでいない。
 第16警備隊(呉鎮守府所属の特別陸戦隊)の朝鮮人兵士にはソウルで話をきかせてもらったが、「朝鮮村虐殺」にかかわった第16警備隊の日本人隊員にはまだ会えていない。田川氏の1946年付け「給与通牒」の発行者は、第16警備隊主計長であった。
 旧日本海軍は、横須賀、佐世保、呉、舞鶴の4か所に鎮守府をおいていた。
 「海上自衛隊」という名の現在の日本海軍は、横須賀、佐世保、呉、舞鶴、大湊の5か所に「地方本部」をおいている。
                                  佐藤正人
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日本海軍佐世保鎮守府 1

2007年02月26日 | 海南島
 日本占領下の海南島で、三亜飛行場を基地とする日本海軍第254航空隊にいた田川定男氏(1919年生)は、
     「1944年11月から、三亜飛行場北方4、5キロの西森、さらに奥地の大恩崗、阜烟梅などに、兵舎・士官室などを建設し、発電所・工作機械を移設し、地下ケーブル敷設のための溝を掘り、飛行機誘導路を建設し、いくつもの掩体壕をつくった」、
    われわれの電信室も掩体壕で被われることになり、多くの囚人が連れて来られ、数人の看守が見張って作業は進められた」
と述べている(田川定男『激流に生きる』2000年、文芸社)。「多くの囚人」とは、「朝鮮報国隊」の人びとのことだと思われる。

 2005年4月はじめ、わたしたちは、田川定男氏の自宅を訪ね、話を聞いた。田川氏は、生まれ育った長崎県西海町(佐世保市の南)に住んでおり、最近まで20年間「三亜空戦友会」の事務局長をしていた。
 春の草花が咲く村のなかに、田川氏の家があった。田川氏は、この村から徴兵されて佐世保海兵団はいり、軍艦「出雲」の乗組員として上海にいったが、いったん佐世保にもどり、1943年12月末に、海南島三亜の第254航空隊に入ったという。
 田川氏は、1946年3月に、日本に戻ったが、海南島で「朝鮮村虐殺」のことは、うわさも聞いたことがないと言った。
 「多くの囚人が連れて来られ……」というのも、自分が見たのではなく、聞いた話を書いたのだという。「多くの囚人」は朝鮮人か、と訊ねると、日本人ではなかったようだ、と答えた。 
 さらに、朝鮮人を見たことがなかったか、と問うと、
    「白いボタンのついた青い服を着ていた人が数人、三亜飛行場で、働いているのを見たことがある。直接話しかけたことはなかったが、あの人たちは朝鮮人だったかもしれない」
と答えた。
 田川氏は、「三亜空戦友会員名簿」の最終版(1993年11月)に、いまも元気な人に印をつけてくれた。
 わたしたちは、それをたよりに、九州北部地域の「会員」に網羅的に電話をかけ、7人に面会の約束をし、そのうち5人に会うことができた。
 すべての人が、三亜飛行場の門を出て海に向かって左に数百メートル行ったところに「慰安所」が2箇所あり、士官は日本人女性が収容されているところへ、兵士は朝鮮人女性が収容されているところにいった、と同一の証言をした。
 当時の朝鮮人女性の「名前」を覚えている人もいた。かれらの朝鮮人女性にたいする態度・具体的な証言内容は、一人ひとり異なっていた。
 田川氏をふくめた6人の証言者のうち、5人は録画・録音に同意してくれた。
 このときの聞きとりの際には、佐世保で民衆運動を長い間すすめているみなさんに協力していただいた。

 佐世保港が見渡せる高台にある「海軍墓地」に、日本海軍佐世保鎮守府第8特別陸戦隊の海南島での戦死者にかかわる碑(「海南島忠魂碑」)があり、その横の「佐世保鎮守府第八特別陸戦隊戦没者慰霊名碑」には約300人の名が書かれてあった。
 佐世保鎮守府第8特別陸戦隊は、海南島東部で、侵略犯罪を重ねていた。この特別陸戦隊の部隊が、殺害した海南島住民は、数千名だったと思われる。

 1940年11月28日(農歴10月29日)、万寧市東澳鎮豊丁村を襲撃し、住民虐殺をおこなったのは、佐世保鎮守府第8特別陸戦隊所属部隊であった。
 1941年4月12日(農暦3月16日)から4月14日(農暦3月18日)までの間に、海南島文昌市重興鎮(旧、文昌県重興郷)の排田村、白石嶺村、昌文村、賜第村の隣り合った4つの村で住民虐殺をおこなったのは、佐世保鎮守府第8特別陸戦隊所属部隊であった。排田村の犠牲者の墓碑には、「倭乱遇難枯骨之墓」ということばとともに、殺された88人の名がすべて刻まれている。昌文村の墓碑には、犠牲者107人全員の名が刻まれている。
                                      佐藤正人
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「朝鮮村試掘」にいたるまで

2007年02月25日 | 海南島
1989年6月 三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允氏・相度氏)の追悼碑を建立する会、創立
1994年11月 追悼碑建立(熊野市木本トンネル入口の高台に。以後毎年11月に追悼集会)
1995年11月 紀州鉱山で「現地調査」
1996年8月 「石原産業紀州鉱山1946年報告書」(紀州鉱山に強制連行された朝鮮人の名簿)入手
1996年10月 韓国江原道麟蹄で聞き取り
1996年11月 紀州鉱山で「現地調査」
1996年12月 韓国江原道旌善で聞き取り
1997年2月 紀州鉱山の真実を明らかにする会、創立
1997年5月 韓国江原道で聞き取り
1997年8月 韓国江原道平昌、堤川で聞き取り
1997年11月 紀州鉱山地域で3回目の聞きとり調査。朴慶植先生らと本龍寺の朝鮮人の遺骨に対面
1998年6月 海南島で「現地調査」(第1回)
1998年8月 韓国KBS『海南島に埋められた朝鮮の魂』(紀州鉱山の真実を明らかにする会協力)放映
1998年8月 韓国慶尚北道安東・軍威で聞き取り
1998年11月 紀州鉱山で「現地調査」
1998年10月 安東MBC『紀伊半島に隠された真実』(紀州鉱山の真実を明らかにする会協力)放映
1999年7~8月 企画展『“木本事件” 熊野から朝鮮人虐殺を問う』開催(大阪人権博物館・三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・相度)の追悼碑を建立する会共催)
1999年8月  金靜美「日本占領下の海南島における強制労働  強制連行・強制労働の歴史の総体的把握のために」、朴慶植先生追悼論文集『近現代韓日関係と在日同胞』ソウル大学校出版部
2000年5月 金靜美「海南島の場合(とくに「朝鮮村」と「朝鮮報国隊」について)」(第9次国際歴史教科書学術会議(『各国の歴史教科書に示された過去清算問題』)で報告。ソウル)
2001年1月 徐在弘氏と韓国MBC、「朝鮮村発掘」
        遺骨のほとんどは、砕かれ、小さな壷に分けられ、虐殺現場近くのコンクリート作りの「納骨堂」に置かれた。「発掘」もその後の遺骨の扱いも、慎重にはなされなかった。弾痕と思われる穴があいていた頭骸骨も砕かれてしまった。
2001年3月 韓国MBC『海南島の大虐殺』(紀州鉱山の真実を明らかにする会協力)放映
2001年12月 佐藤正人「日本占領下の海南島における朝鮮人虐殺   アジア民衆共同の東アジア近現代史認識をめざして」(第10次 国際教科書学術会議で報告。上海)
2002年4月 金大中大統領に、「朝鮮村」に埋められている朝鮮人の死因解明などを要請
2002年10月 海南島で「現地調査」(第5回。韓国挺身隊研究所と)
2002年11月 追悼碑を建立する会『紀伊半島・海南島の朝鮮人』発行
2002年11月から 大阪人権博物館と紀州鉱山の真実を明らかにする会、大阪人権博物館での日本の海南島侵略にかんする企画展開催準備開始
2002年12月 金静美・佐藤正人「海南島における日本軍隊性奴隷制度と強制連行・強制
      労働 2002年10月海南島‘現地調査’報告」、韓国挺身隊研究所『2002年国外居住
      日本軍‘慰安婦’被害者実態調査』女性部権益企画課
2003年夏から 韓国の民族問題研究所・太平洋戦争被害者補償推進協議会との「朝鮮村発掘」準備開始
2003年9月 韓国KBS『海南島大虐殺 “祖国はかれらを二度見棄てた”』(紀州鉱山の真実を明らかにする会協力)放映
2003年11月 金靜美「海南島からの朝鮮人帰還について  植民地国家からの出国、国民国家への帰還」、『解放後中国地域韓人の帰還問題研究』国民大学校韓国学研究所
2003年11月12日付 韓国外交通商部長官名で、紀州鉱山の真実を明らかにする会に公文書
2004年2月 「発掘」開始直前に、「朝鮮村」の埋葬地域の地権者が拒否し、民族問題研究所・太平洋戦争被害者補償推進協議会との「共同発掘」が不可能に
2004年4月 ドキュメンタリー『日本が占領した海南島で 60年まえは昨日のこと』完成
2004年春から 大阪人権博物館、「催し物のご案内」などで、企画展「日本は海南島でなにをしたのか」開催(2004年7月21日~8月15日)の案内を公表
2004年5月13日 大阪人権博物館、企画展「日本は海南島でなにをしたのか――侵略・虐殺・略奪・性奴隷化――」の名称を「海南島とアジア太平洋戦争――占領下で何がおこったか――」と変更することを紀州鉱山の真実を明らかにする会に要求。展示内容は変更しないというので、紀州鉱山の真実を明らかにする会は、同意
2004年5月30日 大阪人権博物館、企画展「海南島とアジア太平洋戦争――占領下で何がおこったか――」延期決定を、紀州鉱山の真実を明らかにする会に、一方的に通告
2004年9月15日 日本政府に「“南方派遣朝鮮報国隊”の真相究明にかんする要請」
2004年10月1日~10日 西大門刑務所歴史館で、展示会『海南島で日本はなにをしたのか  侵略・虐殺・掠奪・性奴隷化』
2004年10月15日~11月21日 独立紀念館で、展示会『海南島で日本はなにをしたのか  侵略・虐殺・掠奪・性奴隷化』
2004年11月 日帝強占下強制動員被害真相糾明委員会が、韓国国家機構として設置される
2005年4月 金靜美「日本占領下の海南島における朝鮮人」、佐藤正人「海南島における日本政府・日本軍・日本企業の侵略犯罪調査」、独立紀念館韓国独立運動史研究所『日帝強占下国外韓人被害実態調査報告書 Ⅰ 中国海南島地域』
2005年4月中旬 「朝鮮村虐殺」をふくむ海南島での日本の侵略犯罪の真相を明らかにする具体的方法を、真相糾明委員会事務局長、調査2課長、調査2課調査委員と話し合う
2005年5月 『海南島で日本は何をしたのか 虐殺・略奪・性奴隷化、抗日反日闘争』発行
2005年6月23日 真相究明委員会に「朝鮮村虐殺」などの真相糾明調査請求(9月2日、受理)
2005年9月17日~12月14日 丹波マンガン記念館で特別展『日本は海南島でなにをしたのか』開催
2006年3月~4月 海南島で「現地調査」(第10回)
2006年4月20日 「2006年海南島“朝鮮村試掘”の目的」、発表
2006年4月~5月 海南島で「現地調査」(第11回)。5月2日「朝鮮村試掘」→ 中断
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日本侵略期(抗日反日闘争期)海南島史研究 13

2007年02月24日 | 海南島史研究
 黎族のBさん(1926年生)は、日本軍基地に連れていかれたあとも、6回逃げた、連れ戻されるたびに拷問されたが、最後には、両親を連れてきて、“お前が逃げるからこうなるんだ”といって、父にも母にも、日本軍兵士ガ電気拷問をしたといいます。そのときから、“運命”だと思って逃げるのをやめた、と話しました。
 苗族のDさん(1929年生)は、監禁されていた日本軍兵舎から逃げ、父、母、妹の全家族で山にはいりました。日本軍が「投降」したことを知らず、1945年末まで山中に隠れ住んでいたといいます。
 黎族のCさん(1928年生)は、日本軍人に自分の家で強姦されました。その後、日本軍に連れて行かれるのを、両親はどうすることもできなかった、といいます。Cさんは、日本軍がいなくなったあと、家に帰ったが、まわりから差別され、故郷で暮らすことに精神的に耐えらきれなくなって、山の中で社会と隔絶された生活を始めましたが、1950年5月に共産党軍が海南島を解放したあと、行政機関に指示されて山を降りたといいます。漢語(海南語、広東語、北京語)を話さない黎族や苗族の女性が、自らが属する共同社会を離れて生き抜くことは、たやすくはありませんでした。

 海南島に連行され、「慰安婦」とされた朝鮮人女性の数は、はっきりしません。牛泊「北黎日軍“慰安所”簡況」(政協東方黎族自治県委員会文史組編『東方文史』8、1993年3月)、戴沢運「日軍的慰安所」(政協昌江黎族自治県委員会文史資料組編『昌江文史』6、1997年1月)、戴沢運「日寇鉄蹄残踏昌感見聞」(政協東方市文史委員会編『東方文史』10、1999年12月)には、北黎の「慰安所」に朝鮮人「慰安婦」が収容されていたと書かれています。
 海南島につれていかれて「慰安所」に監禁された朝鮮慶尚南道生まれの朴来順さんからは、張応勇さんがくわしく話しを聞かせてもらっていました。朴来順さんは、日本の軍艦にのせられて、1942年2月に海口につれてこられ、「慰安所」にいれられ、1943年1月に、三亜の「紅沙慰安所」に移されました。そこは、田独鉱山の近くで、日本軍人だけでなく石原産業の関係者もきたといいます。
 朴来順さんが保亭の病院で亡くなったのは、韓国と中国が国交を樹立してから3年後の1995年でした。
 2002年10月に、張応勇さんは、わたしたちに、
    「日本の罪悪史を調査していて、朴来順さんのことを知った。なんども訪ねて、ようやく、1994年秋からすこしづつ話しを聞かせてもらうこができた。故郷に帰りたかったら、領事館を通じて話してあげようといったが、ここで長い間暮らしたのだから、ここで死ぬといった」
と話しました。
 2003年秋にわたしたちは朴来順さんの故郷を訪ねました。朴来順さんの家の跡は、空き地になっていました。

 1945年に「三亜航空隊」の第2中隊長であった楢原留次によれば、日本軍の三亜飛行場近くの「つばき荘」という名の「慰安所」には、朝鮮人女性15人が「収容」されていたといいます(楢原留次「海軍経歴と海南島勤務」、『三亜航空基地』三亜空戦友会事務所刊、1980年)。
 2000年12月に東京で開催された女性国際戦犯法廷で、台湾人女性Fさんは、看護婦にならないかと騙されて、台湾の高尾から軍艦で海南島までつれていかれ、三亜の「紅沙慰安所」にいれられたと証言しています。
 Fさんによると、「紅沙慰安所」には30人あまりの女性が入れられており、ほとんどが台湾人女性で、朝鮮人女性や日本人女性もいたといいます。
 三亜市内から田独鉱山にいく途中に、紅沙があります。「紅沙慰安所」があったところは、2003年春には、三亜市社会福利院の敷地になっていました。
 その近くに住んでいた蘇殷貞さん(1931年生)は、
    「建物は三つあった。一般兵士は土日、将校は金曜日に来た。一般人はそこに入ることもできなかった。朝鮮人の女性は、白い服を着ていた。長いスカート。(チマ・チョゴリの絵を書いて見てもらうと)。これだ。こんな服を着ていた。朝鮮人の女性たちは髪が長かった。日本人は髪が短い。“アリラン”は聞いたことがある」
と話しました。子どものころ、蘇洪槙さんは、朴来順さんを見かけたことがあったかもしれません。
 三亜の海軍病院の看護婦であった中里チヨさんは、1998年夏に神奈川県川崎の自宅で、わたしたちに、三亜の「慰安所」には、朝鮮人と日本人の「慰安婦」が収容されていたと話しました。
 2005年12月に、わたしたちは、韓国釜山の自宅で、Gさんから話を聞かせてもらうことができました。Gさんは、朝鮮から広東を経由して海南島につれていかれ、北黎地域の「慰安所」に監禁されていました。
 1945年10月16日付けで中国陸軍第二方面軍副司令官兼粤桂南区総指揮陸軍中将龍志がだした日本軍海南警備府司令長官伍賀啓次郎宛の「粤桂南区総指揮部命令」には、「日本軍官民ノ家族居留民及軍慰安婦等ハ総テ瓊山、三亜、楽東ノ日軍集中区付近ニ集中シ日本官兵ト共同雑居スルヲ得ズ」と書かれています(『海南警備府引渡目録』)。
                                      佐藤正人
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日本侵略期(抗日反日闘争期)海南島史研究 12 

2007年02月23日 | 海南島史研究
 日本軍が海南島に侵入を開始したのは、1939年2月でしたが、はやくもその翌3月に、海口の海軍情報部長は、台湾台北の海軍武官室を通じて台湾拓殖会社に「慰安所」設置を依頼しました。
 これは、日本外務省・日本海軍・日本陸軍の三省連絡会議の決定に基づくものでした。台湾拓殖会社は、ただちにこれに応じ、田村組に請け負わせて、5月に海口に「海軍慰安所」を新築しました(朱徳蘭編『台湾慰安婦調査と研究資料集』中央研究院中山人文社会科学研究所、1999年7月)。
 海南島に侵入した日本軍の主力は海軍でした。日本海軍は、海南警備府本部を海口におき、海南島全域を5つに区分し、第15警備隊、第16警備隊、佐世保鎮守府第8特別陸戦隊、舞鶴鎮守府第1特別陸戦隊、横須賀鎮守府第4特別陸戦隊の5部隊に軍事支配させました。
 第15警備隊の司令部は海口に、第16警備隊の司令部は三亜に、佐世保鎮守府第8特別陸戦隊の司令部は嘉積(現、瓊海)に、舞鶴鎮守府第1特別陸戦隊の司令部は那大(現、儋州)に、横須賀鎮守府第四特別陸戦隊の司令部は北黎におかれました。司令部がおかれた5個所にはすべて大規模な「慰安所」が設置されました。

 日本軍は、司令部をおいた嘉積、海口、那大、三亜、北黎以外の各地にも、「慰安所」を設置しました。
 そのすべての位置や実数を、確認することは、むずかしいと思いますが、これまで、わたしちは、崖県、三亜(紅沙)、新村、新盈、白馬井、加来、石碌、保亭、陵水、黄流、藤橋、儋州、海口(中山路)、瓊海、会文、北黎(新街)、陵水などの「慰安所」跡を訪れました。新盈の「慰安所」として使われた建物は、2002年3月には残っていましたが、10月には取り壊されていました。崖県の「慰安所」として使われた建物は、2005年9月の時点で、陵水の「慰安所」として使われた建物は、2006年4月の時点で残っていました。
 日本敗戦後、海南で、戦犯容疑者として中国軍が抑留した日本人のなかに、瓊山で5年間「慰安所」を経営していた森本幸市がふくまれていました。森本が経営していた「慰安所(銀華荘)」には「中国人慰安婦」は含まれておらず、森本は、「慰安所」経営のためでなく、「夫婦共常ニ中国人特ニ商人ニ対シ親切ナラズ」という理由で拘留されたようです(『海南警備府残務処理報告書綴』)。

 海南島の「慰安所」には、海南島の漢族、黎族、苗族の女性、朝鮮人から連行された女性、台湾から連行された女性が監禁されていました。海南島では、女性を「慰安所」に監禁する性奴隷制度とは別個に、村落に侵入した日本軍の将兵による性的暴行、自由剥奪、継続的性的犯罪がおこなわれました。
 保亭黎族苗族自治県の県都保亭に住む黎族の張応勇さんは、1942年に保亭黎族苗族自治県地域に侵入してきた日本軍が、道路建設工事労働者あるいは田独鉱山労働者として強制的に集めた村人のうち、少女を「戦地后勤服務隊」に編入したという事実を、1987年以来の聞きとりで明らかにしてきました。  
 張応勇さんの「調査」によると、「戦地后勤服務隊」に入れられた黎族や苗族の少女たちは、日本軍将兵の性奴隷にさせられたといいます。保亭黎族苗族自治県の村落地域に侵入した日本軍将兵によって強姦された少女が「戦地后勤服務隊」にいれられた場合もあったといいます。
 わたしたちは、2002年10月から、何回か、張応勇さんに案内されて、少女時代に性奴隷とされた黎族のAさんとBさんとCさん、苗族のDさんなどの自宅を訪ね、話しを聞かせていただくことができました。この人たちは、両親や姉妹兄弟たちといっしょに暮らしていた村に侵入してきた日本軍の将兵によって、12歳から14歳のとき自由を奪われ、継続的に性的暴行をうけていました。
 Aさん(1926年生)は、つぎのように話しました。
    「外国の女性たちが1か月に1度来たが、その女性たちが来ている間、3~4日間は、兵隊たちはみんなそっちに行くので、わたしたちは少し休むことができた」。

 「外国の女性たち」というのは、朝鮮や台湾や日本から連れてこられた女性たちのことです。海南島で性奴隷にされた少女たちが見かけた「外国の女性たち」は、化粧をし、きれいな服を着ていたといいます。
 海南島の少女たちは、朝鮮や台湾や日本から連れてこられて「慰安所」を巡回させられていた女性たちの不在を埋める形で、日本軍の性奴隷とされていました。
                                              佐藤正人
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日本侵略期(抗日反日闘争期)海南島史研究 11

2007年02月22日 | 海南島史研究
 海南島に侵入した日本海軍は、「Y1作戦」(1939年2月~11月)、「Y2作戦」(1940年2月~4月)、「Y3作戦」(1941年2月~3月)、「Y4作戦」(1941年8月)、「Y5作戦」(1941年11月~1942年1月)、「Y6作戦」(1942年6月)、「Y7作戦」(1942年11月~43年6月)、「Y8作戦」(1943年12月から1年間断続的に)、「Y9作戦」(1944年12月)をおこないました。海南島で日本軍は、「Y作戦」の期間だけでなく、6年半の占領の全期間に継続的に各地で住民虐殺、村落破壊、放火、暴行、略奪、人権侵害を重ねていました
 「Y3作戦」と「Y4作戦」の中間期に、日本海軍佐世保第8特別陸戦隊に所属する日本軍部隊が、おこなった住民虐殺について、海南島で出されている書物に次のような内容のことが書かれています。

    “1941年6月11日(農暦5月17日)朝、瓊海市参古郷上坡村に侵入した日本海軍佐世保第8特別陸戦隊に所属する日本軍部隊は、村びとを1軒の家に押し込め、銃殺し、車に積んできた石油をかけて焼き殺した。殺さなかった2人の女性を、加積(現、瓊海市)の日本海軍佐世保第8特別陸戦隊司令部の近くの「妓院」白石楼に連れていった。
   2~3歳の幼児や、85歳の老人までもが殺された。当時の村の人口は、百人ほど。村人は、“良民証”を持っていなかった。
   この村は共産党の村だという噂を広めた者がいて、日本軍はそれを聞いて襲ってきた”(龍建武編「焚人焼家 罪悪滔天――上坡村惨案紀実」、海南省政協文史資料委員会編『鉄蹄下的腥風血雨――日軍侵瓊暴行実録』続、海南出版社、1996年8月)。

    “1941年6月24日(農暦5月30日)深夜、日本軍は北岸郷の北岸村と大洋村を包囲し、翌日未明に襲撃を開始した。数日間に、北岸村と大洋村の村民369人と、村外から来ていた人130人、合わせて499人の人びとが惨殺された”(盧家桐・龍建武整理「日軍“三光”掃蕩 村民五百罹難 我們親歴的大洋、北岸両村惨案」、瓊海市政協文史資料研究委員会編『瓊海文史第6輯 日軍暴行録専輯』1995年9月)。

    “1941年6月28日(農歴6月4日)午前8時過ぎ、日本海軍佐世保第8特別陸戦隊に所属する烟塘守備隊の日本兵100人余りが烟塘鎮大溝村を襲って、村びと38人を殺した。
   烟塘守備隊は、生き残った村人を脅迫して破壊した家の用材を烟塘に運ばせ、望楼をつくらせた”(伍書清・伍書江口述「大難不死憶当年――我倆親歴的烟塘大溝村惨案」、瓊海市政協文史資料研究委員会編『瓊海文史第6輯 日軍暴行録専輯』1995年9月)。

 2004年12月に、わたしたちが上坡村を訪ねたとき、虐殺現場で、翁文義さん(1932年生)は、
    「わたしは、寝台の下に隠れて助かった。母は殺された。日本軍は3日後にまた来て、家を焼いた。いつ日本軍が来るか恐ろしくてみんな村に戻れなかった。遺体を埋葬したのは、虐殺の1か月後だった」
と話しました。村人が殺され焼かれた建物の土台が残っていました。
 2002年10月と2003年8月に、わたしたちは、北岸村と大洋村を訪ねました。村の近くに「五百人碑」が建っていました。
 わたしたちは、2003年3月に、大溝村を訪ねました。村の入り口に、「大溝懐寃紀念碑」が建てられており、犠牲者38人すべての名前が刻まれていました。黄芳蘭さん(1918年生)は、
    「当時30過ぎだった。近くに‘慰安所’があるのを知っていたから、連れていかれるのが恐くて山に逃げた。わたしの2歳の子どもと、祖母が殺された。夫は‘良民証’を持っていなかったが、屋根裏に隠れて助かった」
と話しました。                   佐藤正人
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日本侵略期(抗日反日闘争期)海南島史研究 10

2007年02月21日 | 海南島史研究
 符史軒・林紹芬「惨絶人寰的黄竹四村血案」(海南省政協文史資料委員会編『鉄蹄下的腥風血雨――日軍侵瓊暴行実録』上、1995年8月)につぎのような内容のことが書かれています。

    “1941年8月25日(農暦7月3日)早朝、日本軍は定安県黄竹鎮の大河村、后田村、牛耕坡村、周公村の四村を包囲した。明るくなってから、日本軍は、村人を集め、家に押し込め、火をつけ、逃げだした村人を刺殺した。母親に背負われた幼児も殺した。さらに逃げようとする村人にたいして、日本軍は銃を乱射した。
   この日、日本軍によって、109人(大河村で79人、后田村で23人、牛耕坡村で3人、周公村で4人)が殺された。村が焼かれた煙が陽の光をさえぎり、人びとが焼き殺された臭いが遠くの村にまで広がった”。

 このとき、この四か村を襲撃した日本軍は、日本海軍佐世保第8特別陸戦隊所属部隊でした。
 わたしたちは、2002年10月と2003年8月に、大河村を訪ねました。
 虐殺現場の近くに犠牲者が埋められている“黄竹四村公墓”があり、その墓碑に、「黄竹」「一百零九」という文字が刻まれていました。
 大河村の符和卿さんと符和昌さんは、あの日、遠くまで牛追いにいっていて、生き残ることができた、と語りました。

 1939年2月に海南島に侵入した日本海軍部隊は、この年11月15日から海南島根拠地隊を編成して、侵略犯罪を重ねていました。海南島根拠地隊は、1941年2月22日から3月31日までの「Y3作戦」ののち、1941年4月10日付けで、海南警備府に「昇格」しました。海南警備府は、8月9日から15日まで「Y4作戦第1期」を、8月21日から30日まで「Y4作戦第2期」をおこないました。
 日本海軍佐世保第8特別陸戦隊所属部隊が海南島東北部の定安県黄竹鎮の大河村、后田村、牛耕坡村、周公村でおこなった住民虐殺は、海南警備府の「Y4作戦」の一環でした。

 「Y4作戦」の3か月後、「Y5作戦」開始半月前、1941年11月10日付けて海南部隊指揮官谷本馬太郎が出した「機密海南部隊命令第20号」には、
    「敵ハY四作戦ニ依リ再起不能ノ状態ニ在ルモ今尚未占拠地域ノ内外ニ在リテ蠢動ヲ続ケ治安ノ撹乱、人員兵器ノ補充竝ニ糧食ノ獲得ニ努メツツアリ」
と書かれています。
 日本の海南島占領の全期間において、海南島民衆は抗日反日闘争を戦いつづけました。抗日反日部隊が、日本軍によって「再起不能ノ状態」にされることはありませんでした。
 海南部隊指揮官谷本馬太郎らの命令に従って、海南島で日本兵は住民虐殺を実行しました。かれらは、そのとき、老人や子どもをふくむ海南島民衆を殺害することをどのように考えていたのでしょうか。
 日本軍は、海南島で「Y3作戦」や「Y4作戦」をおこなっていた1941年に、中国山東地域では「S作戦」を、中国南部地域では「C作戦」をおこなっていました。
                              佐藤正人
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日本侵略期(抗日反日闘争期)海南島史研究 9

2007年02月20日 | 海南島史研究
 海南省政協文史資料委員会編『鉄蹄下的腥風血雨――日軍侵瓊暴行実録』上(1995年8月)に収録されている李昌炳・林日明口述「誘騙焼殺 四村遭毀――日軍在重興郷白石嶺暴行親歴記」と李重発口述「“百人墓”前憶往事――日軍焼殺昌文村実述」に、つぎのような内容の記述があります。

    “1941年4月12日(農暦3月16日)夕刻、20戸あまり100人足らずの文昌市重興鎮(旧、文昌県重興郷)排田村に、日本軍部隊が来た。日本軍は、村はずれの尖嶺園に村人を集め、暗くなってから焼き殺した。逃げようとした人は射殺された。子どもをふくむ88人が殺された。
   翌4月13日(農暦3月17日)、日本軍は、隣りの白石嶺村に侵入し、村人40人を殺した。
   その翌日4月14日(農暦3月18日)、朝日がのぼってまもなく、軍用車にのって40人ほどの日本兵が、白石嶺村の隣りの昌文村を包囲した。日本兵は、村人を銃でおどして「祠堂」におしこめ、まわりを焚き木で囲み、積んできた石油をまいて、火をつけた。このとき、人口130人あまりの村の107人が殺された。病気で寝ていた老人や赤ん坊までが焼き殺された
   さらにこの日、日本軍は、昌文村の隣りの賜第村で村人16人を殺した。
   隣り合った4つの村で、3日の間に、日本軍は241人を殺した。
   その20日ほど前、村の近くの軍用道路で、日本軍の車両が攻撃されて、日本兵が死んでいた”。

 2002年10月と2003年3月に、わたしたちは、重興鎮を訪ねました。排田村の虐殺現場には、「血海深仇永世不忘」と書かれた追悼碑が、虐殺の22年後、1963年農歴3月16日に建てられていました。
 その追悼碑の裏面には、「倭乱遇難枯骨之墓」ということばとともに、犠牲者88人の名がすべて刻まれていました。
 排田村の自宅で、李昌光さん(1937年生)は、
    「日本兵が襲ってくる前、村の近くで日本兵が3人殺された。日本軍が来たとき、父と母と自分は逃げることができたが、9歳と6歳の兄は殺されてしまった。日本兵は子どもも殺した」
と話しました。
 白石嶺村の犠牲者の墓地には堂が建てられていました。墓の前には、1957年5月20日に追悼碑が建てられていました。
 昌文村の虐殺現場であった「司堂」のすぐ近くにある犠牲者の墓前には、「惨遇日寇殺戮難胞之佳城」と書かれた墓碑が建てられていました。その裏面には、犠牲者107人全員の名が刻まれていました。日本軍がいなくなってから、生き残った村人が遺骨を拾って、ここに埋めたといいます。
 李重発さん(1936年生)は、日本軍の姿をみるとすぐに逃げて助かったが、「祠堂」の跡に近づくのがいまでもつらい、と語りました。

 1941年4月12日から14日までの間に、排田村、白石嶺村、昌文村、賜第村の4村を襲撃し、おおくの村人を殺戮したのは、日本海軍佐世保第8特別陸戦隊に所属する部隊でした。
 その1か月後、日本海軍佐世保第8特別陸戦隊に所属する別の部隊が、1941年5月13日に瓊海市(旧、楽会県)九曲江郷北方の波鰲村、上嶺園村を、5月19日に上辺嶺村を襲って、住民を殺害しました(王先柏・梁必強・蔡哲「楽会県波鰲、上嶺園、上辺嶺三村惨案」、瓊海市政協文史資料研究委員会編『瓊海文史第6輯 日軍暴行録専輯』1995年9月、参照)。

 2002年10月にわたしたちは、波鰲村で、生き残った王京海さんと林克連さんから話しを聞かせてもらいました。ふたりは、“日本兵は、軍刀などで村人を殺したあと、遺体とともに家を燃やした。まだ生きている人も焼き殺された”と話しました。
 波鰲村の入り口に、波鰲・上嶺園・上辺嶺三村の犠牲者の墓がありました。その墓碑には、犠牲者129人すべての名が刻まれていました。

 日本政府は、海南島で日本軍がいのちを奪った人びとすべての、名前、殺害場所、殺害状況、殺害方法、遺骨のありかを明らかにし、責任者を処罰し、謝罪し、賠償しなければならない。
                                         佐藤正人
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日本侵略期(抗日反日闘争期)海南島史研究 8

2007年02月19日 | 海南島史研究
 アジア太平洋戦争開始6か月後、1942年6月5日に、ミッドウエー海戦で日本海軍は完敗しました。
 その後、ポートモレスビー地域やガダルカナル島などでの日本軍の敗退がつづくなか、1942年11月1日から、「南方」侵略の基地である海南島の「治安」を確保しようとして、日本海軍は、「Y7作戦」をはじめました。
 海南島警備府司令部が10月18日付けで出した「Y7作戦ニ関スル参謀長口述書」には、
    「Y7作戦ノ目的ハ……海南島北東部ニ蟠踞蠢動シツツアル敵共産軍ヲ捕捉殲滅スルヲ主眼トシ……速ニ本島内全域ニ亘ル徹底的治安ノ確立ヲ期スルニ在ル」、
    「敵ノ兵器製作所弾薬食料等ノ貯蔵所等ハ捕虜、土民、特警隊密偵等ヲ活用シテ極力探究ニ津努メ之ガ壊滅ヲ期セラレ度」、
    「共産部落及敵匪ノ行動セシ部落ニ関シテハ次ノ要領ニ依リ処理アリ度
       (イ) 共産部落ハ之ヲ清掃ス
       (ロ)  敵匪ト通ゼシ者ハ厳重処分ス」
などと書かれていました。

  「Y7作戦」ははじめ、3か月で終了する予定でしたが、抗日武装部隊が強固に抵抗し、1943年6月24日まで続けられました。
 文昌市西南部の台地に南陽鎮があります。
 南陽地域には48個の自然村があり、約700戸に3000人余りの人が暮らしていましたが、「Y7作戦」によって18個の自然村が廃墟となったといいます(南陽革命史話編写組編『南陽革命史話』瓊島星光編輯部出版、1991年、参照)。
  「Y7作戦」開始後まもなく、1942年11月13日(農暦10月6日)に、日本軍が老王村(当時は、森村)を襲い、村の家をほとんど焼きつくし、コメや牛や鶏を奪いました。
 2003年3月に、老王村を訪ねたわたしたちに、王祚興さん(1921年生)は、
    「わたしは1939年から1941年まで、近くの美文山の遊撃隊に参加していた。この村から3人が参加して2人が日本軍に殺された。わたしは足を悪くして活動できなくなった。1942年に日本軍が来たとき、わたしは母親といっしょに村から逃げて、助かった」、
と話しました。
 村の家の壁には、日本軍が焼いた家の黒くなったレンガが組み込まれていました。
 老王村の隣の托盤坑村は、南陽遊撃隊隊長陳丕茂(1911~1944年)が生まれ育った村です。托盤坑村にはいまも、日本軍によって破壊された家が、当時のまま残されていました。
 近くに、南陽人民英雄紀念碑が建てられていました。そこに抗日戦争のときに倒れた246人の戦士の名が刻まれていました。そのうち60人が女性でした。
                                佐藤正人
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