三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

「来年「第2期真実和解委員会」を発足…光州、済州抗争の追加真相究明も加速化」

2017年07月31日 | 韓国で
http://japan.hani.co.kr/arti/politics/27984.html
「The Hankyoreh」登録 : 2017.07.21 04:09 修正 : 2017.07.21 07:16
■来年「第2期真実和解委員会」を発足…光州、済州抗争の追加真相究明も加速化
 「国政課題第3号」過去史問題の解決  
 第1期真実和解委員会の限界を補完 
 過去史事統合財団の設立を検討 
 被害補償のための特別法を推進

【写真】母の嗚咽ー37年めの5・18抗争追悼祭が開かれた17日午前、光州北区国立5・18民主墓地で1980年5月当時息子のキム・ジョンソン氏を失ったパク・クィレさん(88)が嗚咽している= 光州/キム・ソングァン記者//ハンギョレ新聞社

 文在寅(ムン・ジェイン)政権が提示した「国政課題第3号」は「国民の目線に合わせた過去事の解決」だ。「過去事の真実究明と補償問題の解決を通じて実現されなかった社会正義を立て直す」という意味だ。済州4・3事件など、盧武鉉(ノ・ムヒョン)政権の未完の課題となっていた過去清算が現政府で完結するかに注目が集まっている。政府は直ちに、今年下半期に法的根拠を設け、来年上半期中に第2期「真実・和解のための過去事 整理委員会」(真実和解委)を発足させる予定だ。
 国政企画委員会政治・行政分科委員のパク・ボムゲ共に民主党議員は20日、ハンギョレとの電話インタビューで、「2010年に活動を終えた真実和解委は8千件以上の被害事実を究明する成果を上げたが、真相を明らかにできなかった事件がより多く、被害者に対する賠償保障問題なども残っているなど、(活動が)十分でなかったという指摘が多かった」とし、「文在寅政権は、来年発足する第2期真実和解委の活動などを通じ、任期中、過去事の真実究明に前向きに取り組む」と明らかにした。
 朝鮮戦争と軍部独裁時期に行われた国家暴力を正すために2005年末に発足した真実和解委は、5年間で陳情事件8468件の真実を究明した。朝鮮戦争期に行なわれた最大の民間人虐殺とされる国民保導連盟事件が代表的な事例だ。しかし、事件の膨大さに比べ、活動期間が短かったうえ、李明博(イ・ミョンバク)政権時代にニューライト系列の人物が委員長を務めるなどの問題により、惜しまれながら活動を終えざるを得なかった。
 政府は来年初め、第2期真実和解委の活動を再開し、まだ解決されていない過去事事件を受け付けて真実究明に着手する計画だ。現在のところ、文大統領の任期の2022年まで活動する予定だ。ただ、第1期真実和解委が限定された期間中に活動して限界があっただけに、過去事別の被害者・遺族団体などが参加する過去事統合財団を設立し、遺体の発掘や慰霊事業、研究・調査など後続措置を続ける案を検討している。
 真実和解委の活動範囲や方式は、まだ議論中だ。立法過程で第1期真実和解委の限界を補完する案をめぐる社会的議論が行われるとみられる。賠償補償のために被害者たちが直接訴訟を提起しなければならない状況を改善する処置が急がれる。第1期真実和解委はすでに政府と政界に「被害補償のための賠償補償法の制定」を勧告した。
 国会にはすでにソ・ビョンフン(民主党)、チン・ソンミ(民主党)、クォン・ウ二(国民の党)議員などが提出した「過去事整理基本法改正案」が係留されている。チン・ソンミ議員が発議した法案には、賠償保障特別法の制定が含まれており、ソ・ビョンフン議員の法案には首相所属の被害者補償委員会の設置が盛り込まれている。調査時期を「金泳三(キム・ヨンサム)政権発足前まで」に限定した第1期よりも範囲を広げるかも注目される。クォン・ウ二議員の改正案は「権威主義統治期まで」を審査対象にした既存法案の文句を「同法律の施行日まで」に改められた。
 5・18光州(クァンジュ)民主化運動と済州4・3事件も「完全な解決」を目標に、追加的な真相究明と賠償補償に乗り出す。文大統領は昨年5月18日、光州を訪れ、「ヘリコプター射撃まで含めて、発砲の真相と責任を必ず明らかにする」と述べた。政府はこのため、独立的な真相究明委員会を設置する計画だ。盧武鉉元大統領が大統領としては初めて公式謝罪した済州島4・3事件の場合、埋葬遺体の発掘と犠牲者の追加届け出はもちろん、来年70周年記念事業を国家レベルで支援することで、名誉回復に乗り出す方針だ。

オム・ジウォン記者
韓国語原文入力:2017-07-20 22:09
http://www.hani.co.kr/arti/politics/politics_general/803724.html
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「保守政権で進展が見られなかった済州4・3犠牲者の名誉回復の道開かれる」

2017年07月30日 | 韓国で
http://japan.hani.co.kr/arti/politics/28023.html
「 The Hankyoreh」登録 : 2017.07.26 04:33 修正 : 2017.07.26 08:00
■保守政権で進展が見られなかった済州4・3犠牲者の名誉回復の道開かれる
 首相の主宰で済州4・3中央委員会全体会議が6年6カ月ぶりに開かれ 
 犠牲者や遺族を追加決定…遺族たち「胸のすく思い」

【写真】3日、第69周年4・3犠牲者追悼式に出席した遺族らが位牌奉安所で犠牲者の位牌を見回っている=済州道提供//ハンギョレ新聞社

 「これ以上言うことなんてありません。本当に良かった。胸のすく思いです」。
 受話器の向こうで済州西歸浦市(ソグィポシ)大静邑(テジョンウプ)に住むキム・ミョンウォンさん(85)の声は震えていた。彼はしばらく言葉が続かなかった。一生、心の片隅にとめていた弟キム・ミョンムン(当時3歳)の無念の死を、政府が認めたからだ。当時、キムさんは西歸浦市南元邑(ナムウォンウプ)水望里(スマンリ)に住んでいた。「討伐隊が発砲しながら近づいてきました。目の前で人が死んでいくのをみて、両親も生きるために避難しました。父は弟(当時6歳)を背負って走り、母は生まれたばかりの妹を抱いて走りました。15歳だった私にミョンムンを連れて来いと言われましたが、怖くて弟の存在を忘れてしまいました」。討伐隊が帰った後行ってみると、弟は死んでいた。キムさんは「後になって4・3の犠牲者という事実に気づいた。死なせてしまったことに対する恨みが心の中にある」と話した。
 李洛淵(イ・ナギョン)首相は25日、政府ソウル庁舎で主宰した「済州4・3事件の真相究明及び犠牲者名誉回復委員会」(以下4・3中央委)の全体会議を開き、4・3犠牲者や遺族として238人を追加決定した。これで4・3中央委が認めた4・3犠牲者は1万4232人、遺族は5万9426人になった。犠牲者を決定するために委員会が開催されたのは2014年5月以来3年2カ月ぶりだ。4・3中央委の全体会議が開かれたのも2011年1月以来6年6カ月ぶりだ。
 李首相は会議に先立ち、「政府は100大国政課題で4・3問題の完全な解決を約束した」とし、「今日は、これまで持ち越された審議を完了するのに必要な決定を下すために、委員会が招集された」と述べた。同日、委員会にはキム・ドンヨン経済副首相兼企画財政部長官やパク・サンギ法務部長官、ソン・ヨンム国防部長官、ウォン・ヒリョン済州特別自治道知事などと民間委員15人が出席した。
 済州側の団体は、文在寅(ムン・ジェイン)政権が発足してから2カ月で4・3中央委全体会議が開かれたことで、新政権の解決意志を確認したとして、歓迎の意を示した。李明博(イ・ミョンバク)、朴槿恵(パク・クネ)政権発足後、4・3問題に対する揺さぶりが進むにつれ、首相主宰の4・3中央委全体会議は開かれなかった。こうした中、昨年には犠牲者として申請した後遺障害者1人が亡くなった。ホ・ヨンソン済州4・3研究所長は「政府がこれまで二の足ばかりを踏んできたことで、遺族たちの心に深い傷を残した。4・3犠牲者決定をしたことを機に、4・3問題解決にも関心を傾けてくれることを期待する。犠牲者追加の決定を歓迎する」と話した。パク・チャンシク済州学センター長は「今回の4・3犠牲者決定が再開されたことで、過去の歴史の解決に向けた最終決着がつく転機をもたらすことにあるだろう」と評価した。
 遺族らも歓迎した。ヤン・ユンギョン済州4・3遺族会長は「さまざまなルートを通じて政府に犠牲者決定を要請してきたが、何の返答ももらえなかったのが事案だ。新政権がこの問題に対する答えを出してくれたことを非常に歓迎している。政府が今のように4・3問題解決に関心を傾けてくれることを期待する」と話した。

ホ・ホジュン、キム・ジウン記者
韓国語原文入力:2017-07-25 19:16
http://www.hani.co.kr/arti/society/area/804222.html
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「済州島でも徴用労働者像の設置推進 日本総領事館付近に10月」

2017年07月29日 | 国民国家日本の侵略犯罪
http://japanese.yonhapnews.co.kr/headline/2017/07/20/0200000000AJP20170720002900882.HTML
「聯合ニュース」2017/07/20 16:01
■済州島でも徴用労働者像の設置推進 日本総領事館付近に10月
【済州聯合ニュース】日本による植民地時代に強制徴用された労働者を象徴する像の設置を進める韓国・済州島の市民団体が20日、団体発足を発表する会見を開き、「過去を記憶し、歴史を正す」として、10月中旬ごろ済州市にある日本総領事館前の公園に像を建てる計画を明らかにした。

【写真】強制徴用朝鮮人労働者像(韓国労働組合総連盟提供)=(聯合ニュース)

 団体は「日本の侵略戦争のための戦時総動員体制下で東アジア各地の兵器工場や炭鉱、造船所、飛行場の建設現場、製鉄所などに連れて行かれた朝鮮人強制徴用動労者がいる」として、「残酷な労働条件や管理者の無慈悲な暴行、常に起きる事故、朝鮮人に対する差別、賃金を受け取るどころか飢えの中で強制労働に苦しみ数多くの朝鮮人たちが死んでいった」と強調。「植民地支配を正当化しながら数多くの朝鮮人たちの人生を踏みにじった強制徴用は、必ず責任を問わなければならない反人倫的犯罪行為」と主張した。
 また、「日本は過去の誤りを認めず、最小限の謝罪や責任さえも回避しようとする現実を変えなければならない」とした上で「過去を正しく記憶することから始める」と訴え、労働者像の設置を皮切りに日本の帝国主義による被害状況を究明し、歪曲(わいきょく)された歴史を正していく方針を示した。
 韓国の労働組合の二大全国組織である全国民主労働組合総連盟(民主労総)と韓国労働組合総連盟(韓国労総)は昨年8月、京都市の「丹波マンガン記念館」に強制徴用朝鮮人労働者像を設置した。ソウルや仁川、慶尚南道などでも設置を進めている。
 団体は近く、済州道と敷地の提供と関連した話し合いを行う方針だ。ただ、日本総領事館前の設置は難航が予想される。
 ソウルでは独立運動記念日の3月1日に合わせ、竜山駅の広場への労働者像設置が推進されたが、政府が敷地を提供せず、対立が続けている。
 韓国外交部は「外国公館周辺に造形物を設置することは公館の保護と関連した国際儀礼や慣行の面から望ましくない」との立場を示している。

            kimchiboxs@yna.co.kr
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「強制動員で水没死した鉱山労働者、71年ぶりの追悼祭」

2017年07月28日 | 韓国で
http://japan.hani.co.kr/arti/politics/24922.html
「The Hankyoreh」 登録 : 2016.08.16 23:14 修正 : 2016.08.17 07:09
■強制動員で水没死した鉱山労働者、71年ぶりの追悼祭
 18日、海南郡玉桟橋で鉱夫118人を悼む追悼祭 
 政府は3度の調査の後も処置なし 
 「犠牲者の名前を刻んだ追悼碑でも建てられれば」

【写真】昨年8月、海南玉桟橋で開かれた水没した鉱夫たちの鎮魂の儀式=海南郡庁//ハンギョレ新聞社

 日本帝国主義の強制占領期、済州島の基地工事に動員され無念にも水没死した海南(ヘナム)の鉱夫たちを追悼する行事が行われる。
 全羅南道海南(ヘナム)郡の民間団体は18日午前11時、黄山(ファンサン)面三湖(サムホ)里玉桟橋で玉埋(オクメ)鉱山の鉱夫118人の魂を鎮める追悼祭を行う。この日の行事は、無念にも亡くなった鉱夫たちを悼む合同祭祀で始まり、韓国舞踊家のハン・ヨンジャ氏の鎮魂の舞、花源高等学校の音楽教師ベ・ジンソン氏の追悼歌などが行われる。
 この追悼祭は事件発生から71年ぶりに被害地域の民間団体の主導で行われる。昨年は光復70周年を迎え、劇団「ミアム」が鎮魂の儀式を行った。
 黄山玉埋鉱山の鉱夫集団水没事件の犠牲者の遺族会は「何人かの遺族が合同祭祀を行ってきたが、今年は黄山面と門内(ムンネ)面の社会団体が地域の悲しみを慰労する行事を行う」と明らかにした。
 遺族会はこの事件の真相を究明するための学術発表会を開き、犠牲者・生存者の名前を刻んだ追悼碑を建てたいと願っている。
 遺族会のパク・チョルヒ会長(62)は「海南におよそ60人ほどの遺族が暮らしているが、強制動員者の名簿さえまだ知らない。政府が3回も調査しても追悼碑のひとつも建てられていないのが残念だ」と話した。

【写真】海南の玉埋山付近の玉桟橋埠頭=海南郡庁//ハンギョレ新聞社

 日本の浅田化学工業は1924年から黄山面玉洞里の玉埋鉱山を開発し、明ばん石や高嶺土(カオリン)、蝋石などを掘りだした。これらの鉱物は航空機や特殊機械などを製作するのに使われた。日帝は45年3月、米軍の本土攻略を目前に、済州島に陣地を構築するため人々を強制的に動員した。摹瑟(モスル)浦などの基地工事に動員された人々は5カ月後に解放を迎え、やっとの思いで船を手に入れ故郷に向かった。しかし225人を乗せて海南に向かった船は、莞島(ワンド)郡青山(チョンサン)島沖で火災が発生し沈没した。搭乗者の韓国人222人のうち118人が水死し、日本人3人のうち2人も死亡した。死亡者の年齢は16歳から40代半ばまでだった。生存者は日帝の警備艇に救助されたか、あるいは青山島まで泳いだ韓国人104人と日本人1人しかいなかった。この過程で、日帝の警備艇は日本人の救出を終えると現場をそのままにして立ち去ったという証言もある。
 この事件は全羅南道木浦(モクポ)に住む生存者のキム・ベクウン氏(90)などの証言で知られるようになった。政府は57年、2005年、2012年の3回にわたり真相を調査した。しかし、これといった継続処置はなく遺族たちはもどかしさを抱えている。

アン・クァンオク記者
韓国語原文入力:2016-08-16 14:29
http://www.hani.co.kr/arti/society/area/756899.html
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「[忘れません]写真で見るキム・クンジャさんの“美しい人生”」

2017年07月27日 | 日本軍隊性奴隷
http://japan.hani.co.kr/arti/politics/28021.html
「The Hankyoreh」登録 : 2017.07.26 00:15 修正 : 2017.07.26 07:45
■[忘れません]写真で見るキム・クンジャさんの“美しい人生”■

 “世界で一番美しいお金の使い方”
 「美しい財団」が2013年5月、日本軍「慰安婦」被害者のキム・クンジャさん記念レリーフを作成して付けた言葉です。
 7月23日午前8時4分、私たちの元から旅立ったキムさんは、2000年と2006年の2回にわたり計1億ウォン(約1000万円)を美しい財団に寄付しました。
  商売をして貯めたお金と政府の生計支援金を、100円の飲料1本も無駄に買わずに貯め、自分のように親を失って学びの機会を失った生徒たちのために寄付したのでした。
 キムさんは日本政府が心から謝罪し、被害賠償をすれば、その金もやはり社会に寄付しようとしました。
 ハンギョレはキム・クンジャさんの永眠に、キムさんの人生を改めて振り返りたいと思います。
「慰安婦」被害を世の中に広めた「勇敢な証言者」として、数百人の生徒が学業を続けることができるように力を添えた「寄付博士」として、キム・クンジャさんは永遠に記憶されるでしょう。

■キムさんは「勇敢な証言者」
 文在寅(ムン・ジェイン)大統領は23日、フェイスブックに掲載した文で、キム・クンジャハルモニ(キムさん)を「強靭な生存者、勇敢な証言者」と言いました。文大統領は2015年12月31日、共に民主党代表時代、京畿道光州(クァンジュ)のナヌムの家を訪問し、キムさんに直接会った縁があります。

【写真】共に民主党の文在寅代表が2015年12月31日午後、京畿道広州市の日本軍慰安婦被害者の憩いの場「ナヌムの家」を訪問し、キム・クンジャさんと話を交わしている=国会写真記者団//ハンギョレ新聞社

 文大統領の言葉通り、キムさんは勇敢でした。10年前の2007年2月15日(現地時間)、米ワシントンの下院外交委アジア太平洋環境小委員会の聴聞会場。当時81歳だったキムさんは、イ・ヨンスさん、オランダ出身「慰安婦」被害者のヤン・ルーフ・オヘルンさんとともに証人として出席し、日本軍の蛮行を告発しました。キムさんはこう言いました。
 「死ぬ前に日本の謝罪を受けなければならないという思いで米国の地まで来た。私の体のあちこちにはとてもたくさんの傷跡が残っており、死なない限界まで殴られた」。
 「慰安所で1日平均20人、多くは40人まで日本軍を相手する地獄のような生活をした。私たちは今、お金を望むのでなく、彼らが犯した人権蹂躙と戦争犯罪行為について払わなければならない代価があるという点を認識することだ」。
 「日本政府は、人間を人間として扱っていなかった」。
 「多くの(慰安婦出身の)ハルモニたちが死んだが、歴史は生きているはずだ。失われた私の人生をお金で補償することはできない」。

【写真】2007年2月15日午後(現地時間)、米ワシントンの下院外務委で開かれた「慰安婦」聴聞会で被害女性らが傍聴席で参観している。左から2番めがキム・クンジャさん=国会写真記者団//ハンギョレ新聞社

 その日の証言の通り、キムさんの人生は苦しく孤独でした。1926年、江原道平昌(ピョンチャン)で生まれ、10歳で父を、14歳で母を亡くしました。ちゃんと勉強することもできないまま親戚の家で育ち、17歳の時に使いに出され、中国吉林省琿春慰安所に連れていかれました。
 3年間の「慰安婦」生活の間に、自殺を図っただけでも7回。日本兵に殴られ、鼓膜が破れ、生涯左耳は聴こえませんでした。日帝が滅びた後、38日間歩いて豆満江(トゥマンガン)を泳いで渡って故郷に戻ったけれど、「慰安婦」以降の人生も容易ではありませんでした。連れていかれる前に結婚を約束した男性と同棲し短い幸せな時を過ごしたが、家族の反対で男性は自殺しました。その後一人で生んだ娘は5カ月後に亡くなりました。その時から1998年にナヌムの家に来るまで、キムさんは一人で暮らしました。
 「寂しかった。一人で暮らしていたから。それが一番つらいんだよ」生前、キムさんは生きてきて何が一番つらかったかという質問にこのように答えました。

【写真】日本軍「慰安婦」被害者のキム・クンジャさんが2007年3月1日、京畿道広州市のナヌムの家で開かれた2007ナヌムの家・小正月地神踏みの行事で、米議会聴聞会参加の感想を語っている=ハンギョレ資料写真//ハンギョレ新聞社

 キムさんは、寂しさと苦痛の中に閉じ込められることを拒みました。ナヌムの家入所後、キムさんは日帝の蛮行を知らせ公式謝罪・賠償を受けるための闘いを始めました。キムさんは国内と日本を回り、証言に立ち、2003年には韓国政府が1965年の「韓日会談」文書の公開をしないと明らかにすると、抗議の意思表示として国籍放棄申請を出したりもしました。
 怒号も厭いませんでした。2015年12月28日、「韓日慰安婦合意」締結後、イム・ソンナム外交部1次官とチョ・テヨル当時外交部2次官がナヌムの家を訪れた時のことです。「ハルモニ方が満足しないというのはわかるが、朴槿恵(パク・クネ)大統領が就任直後からこの問題を解決するために努力した結果」というチョ次官の言葉にキムさんは「政府同士でした合意は認めない。死ぬ前に胸にあふれる恨(ハン)を解いてほしい」ときっぱり言いました。

■キムさんは「寄付博士」
 1998年入所後、生涯の居場所となったナヌムの家の部屋の前には、博士のガウンを着たキムさんの写真が掛かっており、その下には「寄付博士」と書かれていたと、美しい財団は伝えます。

【写真】2000年8月30日、「美しい財団」で開かれたキム・クンジャさん基金の伝達式=写真/美しい財団提供//ハンギョレ新聞社

 キムさんと美しい財団との縁は2000年にさかのぼります。美しい財団「第1号基金拠出者」だったキムさんは、発足したばかりの財団に5千万ウォン(約500万円)を寄付し、このように述べました。
 「私が孤児だったから。学んだのは夜学の8カ月が全て。幼くして親を亡くして勉強できなかったから暮らしがこんなに大変だったようで…。少しでも学んでいたらこんなに大変ではなかったはずなのに、とよく思ったよ。貧しくて親のいない子どもたちが学ぶ機会だけでも持てるように役立ちたい。でもとても少ないお金なので恥ずかしくてすまなくて」。

【写真】2000年8月30日、「美しい財団」で開かれたキム・クンジャさん基金の授与式で、キムさんが自分の名前を書いた「ナヌムの短冊」を飾っている。貧しい家庭と「慰安婦」強制動員で文字を学べなかったキウさんは自分の名前をはっきりと書いた=写真/美しい財団提供//ハンギョレ新聞社
【写真】2014年12月19日、大統領府で開かれた国民推薦褒賞授与式で朴槿恵(パク・クネ)大統領が、生涯集めた財産1億ウォンを寄付した「慰安婦」被害者キム・クンジャさんに国民勲章椿章を授与している=大統領府写真記者団//ハンギョレ新聞社

 多くを出せないことを申し訳ないと思っていたキムさんは、とうとう2006年に5千万ウォンをさらに貯めて財団に寄付しました。キムさんの貯蓄の秘訣はこうでした。
 「よく見れば1年間で1千万ウォンは貯められた。お金持ちにとっては大したことじゃないけれど、私には簡単ではなかった。服は体が匂わない程度だけを持っていればいいし、暮らすのは横になれる場所があれば大丈夫だし。お金が入ってくれば、ただ子どもたちに奨学金をあげたい一心で貯めたんだ。どうか親がいなくて学ぶのに苦労している子どもたちに上げてください」。

 キムさんの5千万ウォンからはじまった「キム・クンジャさん基金」は、709人の寄付者とともに11億ウォン規模に増え、2017年7月基準で250人の児童保護施設を退所した学生たちが学費の支援を受けました。

【写真】2016年秋夕、ナヌムの家を訪れた「キム・クンジャさん基金」奨学生たちがプレゼントした手紙をキム・クンジャさん掲げている=写真/美しい財団提供//ハンギョレ新聞社
【写真】「慰安婦」被害者女性たちのネパール大地震救援募金伝達式が開かれた2015年5月12日午前、ソウルの映画会社で釜山のイ・オクソンさん(左から)、キム・クンジャさん、ソン・ウォルジュ和尚、ナヌムの家のイ・オクソンさんが記念撮影をしている=キム・ソングァン記者//ハンギョレ新聞社

 キムさんは、美しい財団のほかにもカトリック教会の水原(スウォン)教区庁に1億ウォン、ナヌムの家に1千万ウォンを寄付し、2015年5月にはナヌムの家のハルモニたちと500万ウォンを集めてネパール大地震の被害救援募金に出したりもしました。キムさんは自分の葬儀費用500万ウォンを除いて、惜しみなく分け与えました。

■キムさんが残した「偉大な遺産」

【写真】チョン・ヒョンベク女性家族部長官が7月10日午前、京畿道広州市のナヌムの家を訪問してキム・クンジャさんと挨拶を交わし手をぎゅっと握っている=広州/シン・ソヨン記者//ハンギョレ新聞社

 7月10日はキムさんが最後にカメラに収まった日です。キムさんはナヌムの家を訪れたチョン・ヒョンベク女性家族部長官に会い「被害者たちの名誉を回復してほしい」とお願いしました。最後の遺言のようにこの言葉を残して2週間後、キムさんは永眠につきました。
 別れの予感がしたのでしょうか。5月の誕生日に会った美しい財団のスタッフたちには「人生が数奇で、私の運命ばかりこうなのかと悔やまれるときが多かったけれど、振り返ってみると、私の財産はすべて与えて生きるだけ生きたから、後悔はない。だからどうか楽しく生きてほしい」と呼びかけたそうです。

【写真】2013年5月27日、記念レリーフの除幕式に出席したキム・クンジャさん=写真/美しい財団提供//ハンギョレ新聞社

 このように全財産を寄付したキムさんは「偉大な遺産」を残しました。まさに250人の奨学生です。ある学生は生前のキムさんに宛てた熱い思いを込めた手紙にこう書きました。
 「キムさんが寄付してくださったおかげで入学金を払えました。この社会で、他の人を助けることができ、また見回ることのできる人になります。ありがとうございました」。


参考:ナヌムの家・美しい財団ホームページ
イ・ユジン記者
韓国語原文入力:2017-07-25 19:12
http://www.hani.co.kr/arti/society/women/804247.html
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海南島近現代史研究会第11回総会・第20回定例研究会

2017年07月26日 | 海南島近現代史研究会
 8月26日に、海南島近現代史研究会第11回総会・第20回定例研究会を開きます。
 主題は、「国民国家日本の他地域他国侵略の時代」です。
 みなさんの参加を待っています。
              海南島近現代史研究会 http://www.hainanshi.org/


■海南島近現代史研究会第11回総会・第20回定例研究会■

主題:国民国家日本の他地域他国侵略の時代
 1869年に日本は北方のアイヌの大地を領土とし、1872年に南方の琉球王国を領土とし、以後、他地域他国侵略を続けてきました。日本民衆は、政府・軍・企業の侵略犯罪に加担してきました。
 世界史・民族史・国家史・地域史・個人史を全世界的規模で考え、侵略犯罪の事実をできるだけ総体的に詳細に知り、その歴史的責任の所在を明らかにし、日本政府に謝罪・賠償させなければ、日本民衆は、日本が侵略した地域の民衆と国際的・地域際的・民族際的に連帯することはできないでしょう。
 1947年5月3日に、最悪の侵略犯罪者を日本国の象徴・日本国民統合の象徴とする「日本国憲法」が施行されました(1946年11月3日〈「明治節」〉に公布)。それから70年あまりが過ぎました。
 2016年3月29日に「戦争法」が、2017年7月11日に「共謀罪法(改正組織犯罪処罰法)」が施行されました。
 国民国家日本の他地域他国侵略の時代を終らせる民衆運動の基礎を確実なものにする近現代史研究について話し合いたいと思います。

と き:2017年8月26日(土)13時00分~17時(開場12時30分)
ところ:国労大阪会館 1階ホール   
            JR天満駅改札口を出て右へ(桜ノ宮駅方向へ)200メートル
参加費:500円(会員は無料です)

■主題報告 海南島における日本の侵略犯罪                佐藤正人

■主題報告 植民地主義と「大東亜共栄圏」                  斉藤日出治

■報告 天理の大本営・"慰安所"・柳本飛行場とTの日記(朝鮮人強制連行) 
                                              高野真幸

■報告 海南島と済州島  軍事基地・住民虐殺・事実究明        金靜美

■討論 国民国家日本の他地域他国侵略犯罪をどのように解明していくか
 アイヌモシリ、ウルマネシア、台湾、朝鮮、「南洋群島」、中国東北部・モンゴル東南部、海南島……を植民地とした日本国家は、1945年8月以後もその歴史を克服していません。
 日本国家の侵略犯罪の全容を、民衆の力でどのように明らかにしていくかを話し合いたいと思います。

■報告 加害事実を消し去った「ピースおおさか」の展示改悪に対抗して  竹本昇

■報告 『忘記過去意味着背叛』・『控訴 採訪九位海南慰安婦実録』の日本語版発行

■調査報告 第18回海南島「現地調査」(2017年春)               佐藤正人
 文昌市錦山鎮湖山区湖塘村・東山村、抱羅鎮石馬村・公坡村・発山村・水北村、文教鎮龍楼村、昌洒鎮東坡村、東閣鎮竹根村・抱芳村、海口市三江鎮楽堂坡村・道美村・豊平村・博文村での証言を報告します。

■2017年秋の海南島近現代史研究会の19回目の海南島「現地調査」について
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「旧日本軍慰安婦の碑 米ニュージャージ州で除幕式」

2017年07月25日 | 日本軍隊性奴隷
http://japanese.yonhapnews.co.kr/headline/2017/07/20/0200000000AJP20170720001000882.HTML
「聯合ニュース」2017/07/20 10:44
旧日本軍慰安婦の碑 米ニュージャージ州で除幕式
【クリフサイドパーク聯合ニュース】米ニューヨーク近郊のニュージャージー州バーゲンカウンティーで19日、旧日本軍慰安婦の碑の除幕式が開かれた。

【写真】旧日本軍慰安婦の碑=19日、クリフサイドパーク(聯合ニュース)

 碑は、旧日本軍慰安婦の犠牲を記憶し歴史的教訓を伝えようと地元在住の韓国人らでつくるバーゲンカウンティー韓人会によりクリフサイドパークから近い教会前の庭園に建てられた。同州で4番目、米国内で8番目に建てられた慰安婦関連碑だという。
 碑には1930年代から1945年にかけて旧日本軍により性奴隷にさせられた20万人を超える女性と少女の苦痛と惨状を忘れてはならないと刻まれている。
 除幕式には韓人会、地元警察などの関係者、朝鮮戦争に参戦した米国人ら50人余りが出席した。

【写真】除幕式の様子=19日、クリフサイドパーク(聯合ニュース)

        hjc@yna.co.kr


http://japanese.joins.com/article/463/231463.html?servcode=A00§code=A10
「中央日報日本語版」2017年07月20日11時16分
■米国に8つ目の慰安婦の碑設置 「惨状を忘れてはいけない」
 米国ニュージャージー州に19日(現地時間)、慰安婦の碑が設置された。
 米国内の慰安婦の碑の設置は今回が8つ目で、日帝強占期に旧日本軍によって性的な苦痛を受けた慰安婦被害者の犠牲を振り返り、これを歴史的な教訓にしようとの趣旨で、バーゲン郡の韓人会がトリニティ・エピスコパル教会(Trinity Episcopal Church)聖堂前の庭園に立てた。
 碑には、「慰安婦(The Comfort Women)」という題名の下に両手で顔を隠して体を縮めて座っている慰安婦のイメージが添えられ、慰安婦の惨状を忘れてはいけないという内容が記されている。
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「32人から22人、更に11人に、日本が慰安婦に謝罪できる時間はあとわずか!」

2017年07月24日 | 日本軍隊性奴隷
http://jp.xinhuanet.com/2017-07/20/c_136458007.htm
「新華網」 2017-07-20 10:34:21
■32人から22人、更に11人に、日本が慰安婦に謝罪できる時間はあとわずか!
 新華網北京7月20日 2012年12月、「80後」(1980年代生まれの若者を指す)の郭柯監督は「慰安婦」をテーマにドキュメンタリー映画を撮影した。全国に生存している「慰安婦」の被害者は当時32人しかいなかったことから、同作品は『三十二』と名付けられた。郭監督は2014年に新作ドキュメンタリー映画の撮影準備に入ったが、作品名の数字は『三十二』から『二十二』に変わった。2017年1月時点で、これらの元慰安婦生存者はわずか11人のみとなった。
 第二次世界大戦中、少なくとも20万人の中国人女性が日本軍の「慰安婦」となり、残虐窮まりない迫害を受けた。慰安婦生存者は『三十二』から『二十二』へ、更にはわずか11人のみとなり、月日が経つにつれて、生存者はしだいに少なくなっていった。
 しかし、安倍政権は「慰安婦」問題で、軍国主義の罪ある歴史をあの手この手で否定している。彼らは廃墟の上で躍進し、更に傷口に塩を塗り、九死に一生を得た慰安婦を「戦場の売春婦」と侮辱し、筆舌に尽くし難い非人道的な暴行を「慰安婦必要論」を持ちだして言い逃れしている。
 「最後の1人になっても、日本が謝罪する日を必ずや待たねばならない。」これは多くの「慰安婦」の揺るぎない信念なのだ。在世の「生き証人」もやがてはこの世を去るかもしれないが、日本政府はそれで問題が解決できると考えているようだ。しかし、罪ある過去は時の流れの中でいつまでも存在し続け、歴史の傷跡は人目に触れて永遠に心を痛ましめるだろう!

         (新華社より)


http://news.xinhuanet.com/world/2017-07/19/c_129658335.htm
「新华网」2017-07-19 07:29:17
■从32到22再到11,留给日本向慰安妇道歉的时间不多了!
  2012年12月,80后导演郭柯以“慰安妇”为题材,拍摄了一部纪录片。当时,全国仅剩32位“慰安妇”幸存者,故将片名取为《三十二》。2014年,他又开始筹备新的一部纪录片,只是片名中的数字从《三十二》变成了《二十二》。而截至2017年1月,这些老人中,仅剩下11位。
  97岁的韦绍兰老人,就是那三十二分之一,也是十一分之一。她在1944年被日军掳走,送至马岭慰安所。噩梦就此开始。三个月后的一天,她趁着看守的日本士兵打瞌睡逃出了慰安所,噩梦却没有结束。
  她发现自己怀了孕,怀的是日本人的孩子。她当时想死,喝了农药,被邻居救回来。后来还是婆婆劝她“死什么,留着这条命。”儿子出生后,取名罗善学。年近七旬的罗善学至今未婚,他说从小就受到异样眼光的看待。

【图】纪录片《三十二》视频截图

  说到苦,韦绍兰说没有人会比她更苦。但被问及对将来怎么看时,儿子罗善学说如果将来老了,没人照顾,就喝农药自杀,但韦绍兰却说:“我还没活够,这个世界红红火火的,我要留着这条命来看。”
  林爱兰老人,是目前已知的,当时整个亚洲唯一被强逼为“慰安妇”的抗日女战士幸存者。14岁那年,林爱兰参加了共产党领导的琼崖纵队,成为了红色娘子军中的一员。她还曾因到日本部队给我军偷子弹,被政府奖励过两个纪念章。这两个纪念章,她看得比命都重要。
  1941年,林爱兰被抓到了加来一个日本据点,在那里她失去了生育能力,腿也被打断。后来她不能走路,每天坐在一张椅子上面,只能依靠双手支撑着椅子慢慢地挪动。
  林爱兰一辈子也没有结婚,到了快70岁的时候,收养了一个女孩。她的性格非常刚强,眼神也很锐利,房间里放得最多的东西就是刀:菜刀、水果刀、还有镰刀。当被问及镰刀拿来做什么时,林爱兰说晚上小偷要来偷东西,就拿镰刀砍他们。
  2015年底,林爱兰去世了。由于地方风俗,只有儿子或者男性亲属才能为逝去的人立碑,女儿无能为力。就这样,老人当时的坟头只有一堆黄土。
  韦绍兰老人和林爱兰老人仿佛是扇窗户,让我们看到“慰安妇”老人的生活状态,以及她们背后的真实历史。“慰安妇”的经历会留下一辈子的痛。幸存的受害者们,毛病从头到脚都有。有的人因那段经历失去生育能力,收养儿女甚至独居,日子过得孤独、清苦。有的日日被那段无法抹去的苦痛记忆折磨,一位已经离世的“慰安妇”生前有个习惯,睡觉时会拿一把柴刀放在床边。
  伤了一生,恨了一世。那些裂着口、滴着血、几十年都结不了疤的心,在等着伤人者说一声“对不起”。让人扼腕叹息的是,至今,那么多中国“慰安妇”们穷尽一生,仍未等到日本政府的任何道歉。
  日本实施的“慰安妇”制度无疑是20世纪人类历史中最丑陋、最肮脏、最黑暗的一页,也是世界妇女史上最为惨痛的记录。第二次世界大战期间,至少有20万中国妇女沦为日军“慰安妇”,遭受灭绝人性的摧残。从《三十二》到《二十二》再到仅存的11人,随着时间流逝,在世幸存者越来越少。
  然而,安倍政府在“慰安妇”问题上,千方百计否认军国主义的罪恶历史。他们不仅在废墟上跳舞,更在伤口上撒盐,把九死一生的慰安妇污蔑为“战地卖淫女”,把罄竹难书的反人类暴行鼓吹为“慰安妇必要论”。
  “即使只剩下最后一个人,也一定要看到日本道歉的那一天”。这是很多“慰安妇”老人的坚定信念。存世的“活证人”也许不久都将离世,日本政府似乎认为这样就能解决问题。但罪恶的过去,将在时间河流中长存,历史的伤疤永远触目惊心!
  留给日本政府向“慰安妇”道歉的时间已经不多了。

     作者:郝斐然、刘新、王若蕾   文字参考新华网、人民日报、环球网等。


http://www.chinanews.com/sh/2015/07-09/7395139.shtml
「中國新聞網」2015年7月9日 14:54 来源:法制晚报  丽案调查工作室记者 蒲晓旭
■“鬼子兵”后人感谢中国养父 骂日本生父畜牲

【相片】即使坐在同一条凳子上,罗善学始终和母亲保持一定距离。他是韦绍兰在世的两儿一女中,唯一守在膝前照顾母亲的人。可也正是母亲,注定了他穷困、孤寂的一生,因而在他内心深处,对母亲有着难以言说的隔阂 摄/丽案调查工作室记者 蒲晓旭
【相片】罗善学准备上房查看电视天线时,韦绍兰因担心出门张望着 摄/丽案调查工作室记者 蒲晓旭

★“鬼子”后人 感恩中国养父
  有战争,就应有关怀。
  95岁的韦绍兰显然在家感受不到这种温暖。曾作为慰安妇赴日听证的经历,让儿子误以为她获得巨额赔偿,家庭因此分崩离析。
  她与日军生下的后人罗善学,因无力改变的血统和被称做“日本仔”的嘲讽,让自卑心从小深植于他的心底。步入古稀之年,面对亲人邻居,他都始终心存忌惮。
  勿忘历史,勿忘关怀。
  《法制晚报》将目光投向韦绍兰母子,试图在关注他们坎坷境遇的同时,唤醒世人对慰安妇及其后人的关怀。
  95岁的韦绍兰老了,耳背了,皱纹堆垒的皮肤包裹着痩削的骨架,形如枯木。她的意识不再清醒,嘴里常叨叨着难以听懂的字句。和大多数高龄老人无异,她寡言、安分又老态龙钟。曾为慰安妇而与日本人生下的儿子罗善学,是唯一肯守着照顾她的人。
  但罗善学也老了。因遭歧视,他只读了三年书,说了六个对象也没能成婚,就连同母异父的弟弟也骂他是“日本仔”。如今,已入古稀之年的罗善学依旧无依无靠。他每天唯一的任务是义务给亲戚喂牛并清扫牛圈,以期许老后获得对方照料。
  “趁现在还干得动,免得将来老了躺在床上,连水都没得喝。”罗善学说。

★母子间的隔阂 同室相对无语
  广西荔浦县新坪镇桂东村小古告屯,这座被“甲天下”的山水所环绕的山村村口,一幢超过40年的陈旧瓦房,即是瑶族阿婆韦绍兰的家。
  罗善学打着赤脚从地里回来,靠在门板上一支支地抽着自卷的纸烟。昏暗的老屋里,烟头被他吮得忽明忽暗。50年的烟龄,让他每月都要花40元从镇上买一斤半的烟丝。韦绍兰窝在他右侧的沙发上,同室相顾,母子无言。
  半晌,罗善学挑着草料出门,与倒垃圾回来的韦绍兰再度照面。韦绍兰猫着腰,罗善学把头一偏,与母亲擦肩而过,依旧无话。
  熟悉的人知道,这是母子俩的一道梗。
  1945年,曾为慰安妇的韦绍兰生下了罗善学,并将这个“鬼子兵”的后人养大。因为感念母恩,罗善学是韦绍兰在世的两儿一女中,唯一守在膝前照顾母亲的人。可也正是母亲,注定了他穷困、孤寂的一生,因而在他内心深处,对母亲有着难以言说的隔阂。
  一切更像是命中注定。1944年,侵华日军发动企图打通日本本土经朝鲜半岛、中国大陆至新加坡总长约九千公里运输线的“一号作战”计划,并于同年入侵广西,占领荔浦。
  与其他村民一样,时年24岁的韦绍兰背着女儿,躲入山洞。接连几日没见日军,村民警惕有所松懈,韦绍兰也背着女儿走出山洞。
  在一片开阔地,她撞见了传说中的鬼子和明晃晃的刺刀。

★怕无生育能力 生下鬼子后人
  出小古告屯驾车沿国道向北行驶大约18公里,即是荔浦县马岭镇德安村口。连片的泥瓦民居之间,耸立着一座布有弹孔的黄色炮楼。与之一体的,是一排土瓦房,木门朽断,院墙残缺。这座荒废已久的建筑,即是日军当年的马岭慰安所。遭遇日寇的韦绍兰母女即被押往这里,并反复遭到威逼、殴打和性侵,尽管她当时还处于哺乳期。
  慰安妇被关在炮楼并非个案。一位日本老兵战后供认,在华北前线,日军将抓来的八路军女俘虏分配到各炮楼,每个炮楼约有一个小队的日军士兵,那女俘虏便被迫为这一队日本兵提供性服务。
  在被囚禁约三个月后,韦绍兰趁日军哨戒松懈,逃离慰安所。因不辨方向,回家这不足20公里的路途,她抱着女儿一路打听,走了整整两天。
  重见亲人,韦绍兰与丈夫罗讵贤抱头痛哭。但这份喜悦没有持续太久,回家没过多久,女儿就因腹泻不治身亡。
  更大的麻烦接踵而至,韦绍兰发现自己怀孕了,据时间推算,这并非丈夫的血脉。腹中的生命,要还是不要?
  据韦绍兰的女婿武文斌介绍,罗讵贤当时本不想要这个孩子,但其作为草药医生的母亲担心,如果一旦打掉孩子,遭受日军摧残的韦绍兰或许再无生育能力,更何况这是一条生命。
  罗讵贤作为丈夫的耻辱,暂被母亲的威严击退。罗善学这才得以在1945年降生。婆婆的话果然应验,之后十年,韦绍兰都未能生育。直到婆婆采药医好了她。之后她又陆续诞下一双儿女。最小的儿子,在1957年出生。
  如何接纳与自己毫无血缘的孩子,并将姓氏传给他?罗讵贤当初所经历的隐忍和耻辱,都随着他在1986年的病亡而无从知晓。有关他的身影,更多的存在于罗善学不堪回首的童年里。

★因鬼子血统 只能吃杂粮难娶妻
  儿子罗善学的身世,韦绍兰从未向他讲明。
  因血缘引发的歧视,让罗善学最终起了疑心:父亲和弟弟妹妹吃大米,他吃杂粮。小伙伴与他起了争执,会追着叫他“日本仔”。就连弟弟也会在吵架时这样喊他。
  为什么自己被叫“日本仔”?罗善学问母亲,韦绍兰并不回答,只是哭泣。终于,他在一次父母的争吵中听到,自己不是父亲“田里的苗”。
  恰巧学校组织看电影。通过荧幕,罗善学第一次看到了侵华日军的形象及其暴行。对身世和命运的无力感,让他仰天流泪,“看上面的天,高啊,苦啊。”
  窘困的家庭和特殊的血统,让罗善学只念了三年书。捱到谈婚论嫁的年龄,媒人给他说了六个对象,全都吹了。即便姑娘愿嫁给他,可娘家人一听他是“鬼子”后人,无不反对。罗善学也心灰意冷,至今未婚:“老了,过时了。”
  如今,守在韦绍兰身边的只有罗善学。女儿已经嫁人,小儿子则因认为母亲赴日获得巨额赔偿而不肯将钱分给后人而产生矛盾。
  在罗善学看来,弟弟俨然已是敌人:“每次回家都跟我打架吵架。”
  事实上,无论是远亲或是近邻,罗善学在与之相处时,始终有种自己是“鬼子”后人的自卑感。
  正午,亲戚叫韦绍兰母子吃饭。罗善学将自家煮好的米饭盛了一大碗,端着和母亲一道赶过去。
  席间亲友说笑,韦绍兰母子自顾埋头扒饭、夹菜,一言不发。罗善学偶尔抬头看一眼,又低下。一支烟的功夫,他已吃毕离去。韦绍兰托着碗,想要说些什么,可年轻人聊得兴起。没几分钟,她将空碗搁于灶台,而后离去。饭局热闹依旧,似乎无人在意他们的去留。

★感谢中国养父 骂日本生父畜牲
  一个是赋予自己生命的生父,一个是生来歧视自己的养父。罗善学如何看待这两个命中绕不开的男人?
  “我很感激养父,尽管他只让我上了三年学,让我吃杂粮,但那也没办法,那个时代苦。”罗善学说,对待养父,自己虽没读几天书,但也讲“人道主义”。
  紧跟着,他激动起来,将矛头直指亲生父亲:“他没养我,我把他当畜牲,我这一辈子都是因为畜牲造成的!”
  罗善学说着说着,突然提到自己曾去日本的经历,称“生父”当时装病不肯见自己,原因是“怕自己打他”。
  一旁的武文斌赶紧解释,2010年罗善学母子曾在民间力量的帮助下赴日参加受害者证言活动。缺席的日方代表则被罗善学臆想成了“生父”。
  事实上,他连生父的姓名都无从知晓。
  如今,古稀之年的罗善学不得不计划晚年。他开始为武文斌的儿子义务放牛,以期对方在自己年老后能有所关照。他也曾依靠放牛糊口。但随着购置牛犊的本钱飙升,这条唯一的生计也被斩断。家里的土地早年曾租给别人,每年收取百斤稻谷作为田租。现今村民都进了城,无人租种的田里满是荒草,只好被他用来放牛。
  韦绍兰的生活更单调,与儿子同住在丈夫留下的40年的老屋里,除过偶尔串门,大部分时间,她干瘪的身躯都窝在破旧的沙发里,日复一日。沙发边的桌下,堆着两袋子药品,用于治疗韦绍兰的风湿性心脏病和肝脏肿瘤。
  除去并不稳定的社会捐款,每月230元的五保补贴、150元的养老金和一两百元的低保和高龄补贴,是母子俩唯一的生活来源,用于购买大米和药品。
  韦绍兰不是没想过向日本诉讼索赔。但据中国慰安妇问题研究中心主任苏智良介绍,因日本法院认为“个人没有权利起诉国家”等原因,所有中国慰安妇提起的对日方的诉讼全部败诉,毫无结果。
  在小古告屯,母子俩的生活像部落一样冗长地继续着。清晨,鸡鸣唤醒了新的一天,罗善学在牛圈开始了又一天的周而复始:清扫、喂草。韦绍兰则无所事事地四下转悠。等到中午,罗善学会靠在门板上抽两支闷烟。在韦绍兰通常昏睡的整个午后,他则继续着喂牛、清扫和放牛,像重播的影视剧一般枯燥而又无休止。直到太阳从村西的山间落下,母子俩各自烧锅做饭,于是一天再无生气。
  这就是这对慰安妇母子所拥有的东西——生活。
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「日本軍「慰安婦」被害者キム・クンジャさん死亡…生存者は37人に」

2017年07月23日 | 日本軍隊性奴隷
http://japan.hani.co.kr/arti/politics/27999.html
「The Hankyoreh」 2017.07.23 23:02
■日本軍「慰安婦」被害者キム・クンジャさん死亡…生存者は37人に
  京畿道広州市のナヌムの家居住…老衰で死亡

【写真】故キム・クンジャさん=資料写真//ハンギョレ新聞社

 「慰安所で一日平均20人、多い日には40人まで日本兵を相手にする地獄のような生活をした。死ぬ前に日本の謝罪を受けなければとの思いで米国にまで行くことになった。私たちは今、お金を望んでいるわけではなく、彼らが犯した人権蹂躪と戦争犯罪行為に対して償わなければならない代価があることをを認識せよということだ」
 2007年2月、米国下院で開かれた日本軍「慰安婦」聴聞会に出席し「慰安婦」の惨状を証言した慰安婦被害者キム・クンジャさん(91)が23日午前8時4分、京畿道広州(クァンジュ)市のナヌムの家で老衰のため死亡した。文在寅(ムン・ジェイン)大統領はこの日、フェイスブックを通じて「2015年12月31日ナヌムの家でおばあさんを尋ねた時『被害者は私たち』とおっしゃったその姿を覚えています。強靭な生存者、勇敢な証言者だったキム・クンジャさん、すべての重荷を下ろして天で安らかにお休みください」と哀悼した。
 慰安婦被害が亡くなったのは今年に入ってから3人目だ。政府に登録された被害者239人のうち生存者は37人になった。
 キムさんは1926年江原道平昌(ピョンチャン)で生まれた。10代で両親と死別し、17歳の時に家政婦として祖国を離れ中国吉林省の琿春慰安所に連れていかれた。数回にわたり脱出を試みたがすべて失敗に終わった。抵抗して殴られ左の鼓膜が破れたキムさんは、生涯左耳が聞こえなかった。
 解放後に豆満江(トゥマンガン)を越えて帰国した。死ぬ思いで故郷に帰り、慰安所に連れていかれる前に結婚を約束した男性と再会したが、家族の反対でその男性は自ら命を絶ち、彼との間にできた娘は生後5カ月で亡くなった。その時から1998年にナヌムの家に来るまで一人で暮らした。

【写真】チョン・ヒョンベク女性家族部長官が今月10日午前、京畿道広州市退村面の日本軍「慰安婦」被害者の憩いの場であるナヌムの家を訪問し、キム・クンジャさんと挨拶を交わし手を握っている=光州/シン・ソヨン記者//ハンギョレ新聞社

 キムさんは、日本政府から公式謝罪と正当な賠償を受けることが願いだったとナヌムの家は明らかにした。故人は韓国政府から受け取った支援金に私費を加えて、「美しい財団」に1億ウォン、ナヌムの家に1000万ウォン、退村(トェチョン)聖堂に奨学金として1億5000万ウォンを寄付したことがある。2003年、政府が1965年の「韓日会談」の文書を公開しないと明らかにすると抗議の意思表示で国籍放棄申請を出しもした。
 葬儀室は京畿道城南市(ソンナムシ)盆唐区(プンダング)のチャ病院地下1階特室に整えられた。出棺は25日、埋葬地はナヌムの家追慕公園だ。カン・ギョンファ外交部長官、映画俳優ユ・ジテさんもこの日葬儀室を訪れ弔問した。

パク・スジ記者
韓国語原文入力:2017-07-23 20:35
http://www.hani.co.kr/arti/society/society_general/803896.html


http://japanese.yonhapnews.co.kr/headline/2017/07/23/0200000000AJP20170723000500882.HTML
「聯合ニュース」2017/07/23 15:25
■慰安婦被害者が死去 生存者37人に=韓国
【広州聯合ニュース】旧日本軍の慰安婦被害者、金君子(キム・グンジャ)さんが23日、老衰のため、韓国人被害者が共同生活を送る施設「ナヌムの家」(京畿道広州市)で死去した。91歳。韓国政府に登録された慰安婦被害者239人のうち生存者は37人に減った。

【写真】今月10日、鄭鉉栢(チョン・ヒョンベク)女性家族部長官(右)が「ナヌムの家」を訪問した際、鄭氏と手を取り合う金君子さん(左)=(聯合ニュース)

 ナヌムの家によると、金さんは1926年に江原道・平昌で生まれ、10代初めに両親を亡くした。その後、親戚の家で生活していたが、1942年に中国吉林省・琿春の慰安所に連行され1945年に日本の植民地支配から解放されるまで苦難を強いられた。
 慰安所での3年間、7回も自殺を図った。何度も脱出を試みたが失敗し、そのたびに殴られた。暴行で鼓膜が破れた左耳は一生聞こえないままだった。
 金さんは2007年2月、米下院の公聴会で自らの経験を証言した。「(日本の植民地支配からの)解放後、38日間歩いて祖国に戻った。慰安所で1日に40人以上の相手をさせられ、死なない程度に殴られた」と語った。
 金さんは生前、 非営利公益財団やナヌムの家、カトリック団体などに2億5000万ウォン(約2500万円)を超える寄付を行った。日本政府からの正式な謝罪と正当な賠償を受けることを願っていた金さんは、賠償金も寄付する計画だったという。
 また、韓国の市民団体「韓国挺身隊問題対策協議会」が慰安婦問題の解決を求め、毎週水曜日にソウルの日本大使館前で開催する「水曜集会」にも出席し、被害者の実情を訴えた。
         hjc@yna.co.kr


http://www.hankookilbo.com/v/4883f3a140864a8e8b80cb028d3022d9
「한국일보」2017.07.23 10:15  이범구기자
■위안부 피해자 김군자 할머니 별세…생존자 이제 37명
 생존자 이제 37명

【写真】일본군 위안부피해자인 김군자 할머니. 한국일보자료사진

 일본군위안부 피해자 보호시설인 경기 ‘광주 나눔의 집’에 거주하던 김군자 할머니가 23일 오전 8시4분 노환으로 별세했다.
 향년 91세.
 강원 평창에서 태어난 김 할머니는 10대에 부모를 여의고 친척 집에서 생활하다가 16살의 나이로 중국 지린성 훈춘 위안소로 강제 동원됐다. 몇 번의 탈출 시도는 번번이 실패로 돌아갔고 그때마다 구타를 당해 왼쪽 고막이 터져 할머니는 평생 왼쪽 귀가 들리지 않았다.
 3년간의 위안부 생활 동안 7차례나 자살을 시도하기도 했다.
 할머니는 2007년 2월 마이크 혼다 미국 연방하원이 주최한 미국의회의 일본군 위안부 청문회에서 “해방 후 38일을 걸어 조국에 돌아왔다”며 “위안소에서 하루 40여 명을 상대했고 죽지 않을 만큼 맞았다”고 증언하기도 했다.
 1998년 나눔의 집에 입소한 김 할머니는 매주 수요집회에 나가면서 일본 정부로부터 공식 사과와 정당한 배상을 받는 것을 소원했지만 끝내 뜻을 이루지 못하고 별세했다.
 할머니는 한국 정부로부터 받은 배상금 등을 모아 자기처럼 부모 없는 아이들이 공부할 수 있게 해달라며 아름다운 재단에 1억원, 한 천주교 단체에 1억5,000만원 등을 기부한 바 있다.
 빈소는 경기 성남시 분당구 차병원 지하 1층 특실에 차려졌다. 발인은 25일이며 장지는 나눔의 집 추모공원이다. (031-768-0064)
 김 할머니의 별세로 정부에 등록된 일본군위안부 피해자 238명 가운데 생존자는 37명으로 줄었다.



「매일경제」2017.07.23 10:24:17
■위안부 피해자 김군자 할머니 별세…생존자 이제 37명
 경기도 광주 나눔의 집에 거주하던 일본군 위안부 피해자 김군자 할머니가 23일 오전 8시 4분 나눔의 집에서 노환으로 별세했다. 향년 89세다.
 나눔의 집에 따르면 강원도 평창에서 태어난 김 할머니는 10대에 부모를 여의고 친척 집에서 생활하다가 17살의 나이로 중국 지린성 훈춘 위안소로 강제동원됐다.
 할머니는 지난 2007년 2월 마이크 혼다 미국 연방하원이 주체한 미국 의회의 일본군 위안부 청문회에서 "해방 후 38일을 걸어 조국에 돌아왔다"며 "위안소에서 하루 40여 명을 상대했고 죽지 않을 만큼 맞았다"고 증언했다.
 1998년 나눔의 집으로 오기까지 할머니는 혼자 살았다.
 할머니는 한국 정부로부터 받은 배상금 등을 모아 아름다운 재단에 1억원, 나눔의 집에 1000만원, 한 천주교 단체에 1억 5000만원 등을 기부한 바 있다.
 빈소는 경기도 성남시 분당구 차병원 지하 1층 특실에 차려졌다. 발인은 25일이며 장지는 나눔의 집 추모공원이다.
 김 할머니의 별세로 정부에 등록된 일본군 위안부 피해자 238명 가운데 생존자는 37명으로 줄었다.

          
http://www.sedaily.com/NewsView/1OIL5MCRU7
「서울경제」2017-07-23 11:39:54   조교환 기자
■일본군 위안부 피해자 김군자 할머니 별세
 日 제대로 된 사과 받지 못한채 세상 떠나
 일본군 위안부 피해 생존자 37명으로 줄어

【写真】미국 뉴저지주 버겐카운티 한인회가 지난 19일(현지시간) 클리프사이드파크 인근 트리니티 에피스코발 성당 앞 정원에 설치한 위안부 기림비. /연합뉴스

 일본군 위안부 피해자인 김군자 할머니가 향년 89세의 나이로 23일 오전 8시 4분 별세했다.
 경기도 광주 나눔의 집에 따르면 김 할머니는 강원도 평창에서 태어나 17살의 나이로 중국 지린성 훈춘 위안소로 강제동원됐다. 강제동원 이후 생사를 건 탈출 시도는 번번이 실패했고, 김 할머니는 그때마다 구타를 당해 평생 왼쪽 귀가 들리지 않은 상태로 지내왔다. 3년간의 위안부 생활 동안 7차례나 자살을 시도한 것으로 알려졌다.
 김 할머니는 지난 2007년 2월 미국 의회의 일본군 위안부 청문회에서 “해방 후 38일을 걸어서 조국에 돌아왔다”며 “위안소에서 하루 40여 명을 상대했고 죽지 않을 만큼 맞았다”고 증언했다. 일본 정부로부터 제대로 된 사과를 받는 것이 소원이었던 할머니는 배상을 받으면 사회에 기부할 계획이었다. 한국 정부로부터 받은 배상금 등을 모아 아름다운 재단·나눔의 집과 천주교 단체 등에 2억 6,000여만 원을 기부한 바 있다.
 김 할머니의 빈소는 경기도 성남시 분당구 차병원 지하 1층 특실에 차려졌다. 발인은 25일이며 장지는 나눔의 집 추모공원이다.
 한편, 김 할머니의 별세로 정부에 등록된 일본군 위안부 피해자 238명 가운데 생존자는 37명으로 줄었다.


http://news.chosun.com/site/data/html_dir/2017/07/23/2017072300509.html
「조선일보」2017.07.23 12:12   한상혁 기자
■'일본군 위안부 피해자' 김군자 할머니 별세…정부 등록 생존자 37명으로 줄어
 경기 광주시 나눔의 집에 거주하던 일본군 위안부 피해자 김군자(89) 할머니가 23일 오전 8시 4분 나눔의 집에서 노환으로 별세했다.
 강원도 평창에서 3녀 중 장녀로 태어난 김 할머니는 10대에 부모를 여의고 친척 집에서 생활하다가 1942년 17살의 나이로 중국 지린성 훈춘 위안소로 강제 동원됐다.
 
【写真】김군자 할머니가 생전 경기 광주에 있는 위안부 피해자 할머니 쉼터인 '나눔의집'에서 말하고 있는 모습. /뉴시스
 
 해방 뒤 38일을 걸어 조국에 돌아왔다는 할머니는 “위안소에서 하루에 40여명을 상대로 성노리개가 되어야 했고 죽지 않을 만큼 맞아서 고막이 터졌다”고 말했다.
 김 할머니는 2007년 2월 마이크 혼다 미국 연방하원이 주체한 미국 의회의 일본군 위안부 청문회에서 끔찍했던 과거사를 증언했다.
 또 김 할머니는 정부에서 받은 보상금 등을 고스란히 모았다가 자신처럼 부모 없는 학생들이 공부할 수 있도록 써달라며 2000년, 2006년 두 차례에 걸쳐 총 1억원을 아름다운재단에 기부했다. 퇴촌 성당에도 학생들 장학금으로 1억5000만원을 기부했다.
 김 할머니는 1998년부터 나눔의 집에 들어와 지금까지 살고 있다.
 나눔의 집은 “김 할머니는 일본 정부로부터 공식 사과와 정당한 배상을 받는 것이 소원이었으며 배상을 받으면 사회에 기부할 계획이었다”고 말했다.
 빈소는 경기 성남시 분당구 차병원 지하 1층 특실에 차려졌다. 발인은 25일 오전이며 장지는 나눔의 집 추모공원이다.
 김 할머니의 별세로 정부에 등록된 일본군 위안부 피해자 238명 가운데 생존자는 37명으로 줄었다.
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「90岁慰安妇陈莲村:作为“活证”将历史告诉更多人」

2017年07月22日 | 日本軍隊性奴隷
http://www.chinanews.com/sh/2016/12-13/8092961.shtml
「中国新闻网」2016年12月13日 22:00
■90岁慰安妇陈莲村:作为“活证”将历史告诉更多人

【相片】陈莲村,身材非常的瘦小,一直由自己的家人搀扶着,眼圈一直是红红的。 盛捷 摄
【相片】陈莲村在接受采访时,几度哽咽,不停地擦拭眼角。 盛捷 摄

  中新网南京12月13日电 (记者 盛捷)2016年12月13日,是第三个南京大屠杀死难者国家公祭日。曾在海南被日军抓为慰安妇的陈莲村,现身南京利济巷慰安所旧址陈列馆。她表示,要作为“活证”将历史告诉更多人。
  今年已90岁高龄的陈莲村是海南黎族人,1942年,她被日军胁迫,在日军海南的南茂据点成为慰安妇。陈莲村受尽欺凌,病况严重,其母请保长作保,让女儿出来敷药,待女儿出来后,一家立即逃跑,躲藏到山里,直至日军投降。
  陈莲村昨日下午到达南京,这是她第一次来南京,专程来参加一部慰安妇题材电视剧《地狱中的女人》的拍摄启动仪式。
  13日一大早,陈莲村冒着冬雨,参观南京利济巷慰安所旧址陈列馆。
  据陈莲村的黎语翻译陈厚志回忆,早上一走入陈列馆二楼展厅,陈莲村看到墙上的照片,里面有她认识的朋友,老人顿时泪眼模糊,便去找寻有没有自己的照片。当陈莲村看到陈列馆一座名为《流不尽的泪》的雕塑时,泪如泉涌。
  眼前的陈莲村,身材非常的瘦小,一直由家人搀扶着。她在接受采访时,几度哽咽,不停的擦拭眼角,有时,整个身子都在哆嗦。
  陈莲村表示,看到南京利济巷慰安所旧址陈列馆的照片感慨万分,没想到在南京也有那么多姐妹和她一样经历了那场灾难。“我要将自己作为‘活证’将历史告诉更多的人。让大家知道日本人对我们的践踏,以及给我们带来的苦痛”。
  据南京利济巷慰安所旧址陈列馆相关工作人员介绍,截至目前,在中国范围内,在世的慰安妇仅剩20人。(完)
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